Ⅱ サリム

 女とは醜いものだ。

 どんなに綺麗な顔をしていても、どんなに綺麗な声をしていても、どんなに見かけが綺麗でも女の内側は醜い。

 特に母親というものは醜悪だ。

 自分の母親はそれはそれは美しかった。肌は雪花石膏。髪は金糸。瞳は藍玉。一目で規律に従順な国王の心を奪うほどに。

 しかし母を最初に見初めたのは、選挙に敗れ片田舎にやってきた王弟だった。母は貴族ではなかった。小さな商家の娘だった。村で一番美しい娘を王弟は見初め、縁ある貴族の家に養女にしてから妻に迎えた。

 もし、自分を最初に見初めたのが国王であればと何度母は言ったことだろう。自分の類い希なる美貌は、王の妻になるためにあったのだと傲慢だった。王弟があっさりと病で逝ったことは幸いだと喜んだ。

 顔も見たことがない実父を貶されることよりも、母の高慢で見栄っ張りなところが大嫌いだった。そうして王の子を孕んだなら、王弟の子である自分をどこかへ追いやるつもりなのも知っていた。

 しかし自分が六つの時に母は父と同じ病で没した。

 途方にくれるしかなかった。まだ幼かったものの、自分の立場は母によってやっと維持されていたのだと知っていたからだった。

 浅ましい女だと影で母を蔑んでいた侍女達は、母に似た自分を厭いこれであの女の子供の世話を見なくてすむと嘲笑していた。

 父は母が死んだ後には最低限の世話をするつもりだとしていたが、実際はただの甥である自分はいつ王宮の外へと放り出されるかも分からなかった。

 早く追い出されないかしら。

 侍女達のそんな囁きを聞いた日、ひとり自分を無責任に置き去りにした母への怒りと好きで王宮にいるわけはないという悔しさに涙しながら、住まいである薔薇宮を飛び出した。

 だが子供の足で広い王宮から抜け出せるはずもなく、隣の椿宮との境で力尽きてしまった。

 心底自分の無力さを思い知らされて泣きじゃくっていると、もうひとつ泣き声がした。

「……おかあさまあ……ジゼル……」

 どうやら椿宮に住まうひとつ年上の従姉にあたるアレクシアらしかった。

「……サリム?」

 そして彼女の方もこちらに気付いたらしく、近寄ってきた。

「サリムもひとりぼっち?」

 ひちりぼっちという舌足らずなアレクシアの言葉が、想像以上に胸に重くのしかかってきた。

 答える代わりにまた嗚咽が溢れてくると、ふわりと頭をつつみこまれる。

「でも、わたくしたちふたりになったからひとりぼっちじゃないわね。よかった。サリムがいて、よかったあ」

 そうしてアレクシアの方も泣き出して結局ふたり揃ってわんわんと泣いて、気がついたら椿宮のベッドの上でアレクシアと一緒だった。

 どうやらアレクシアを探しに来た椿宮の侍女達が、泣き疲れて眠っている自分達を見つけたらしい。

 まだぐっすりと眠っているアレクシアの小さな手は自分の腕をしっかりとつかんでいた。

 自分が居場所得るにはこの従姉を使えばいいのだと、その時思いついた。

 その日からアレクシアがまるで新しいお気に入りの人形のように、自分をかまうのに付き合いながら王になるのではなく、彼女の最初の夫になることに決めたのだった。

 女は醜い。

 無邪気で綺麗な従姉も、自分の母や彼女の母と同じでいつか醜くなる。

 そう、その頃は思っていた。だけれど十年経っても、アレクシアは綺麗なままだった。

 自分は母とよく似て女のようだと言われた顔立ちにやっと男らしさが出てきて、顔つきは母と離れてきたのに母に似てきた気がしていた。

 それでも母そっくりの金の髪を伸ばしていたのは、どこかで幼い頃のままでいたいと思っていたからかもしれない。

 

***


 サリムは白い息を吐いて、十七になったアレクシアが雪を被った寒椿を愛でるのを遠目に見やる。

 暖炉で暖められた屋敷の中で見ればいいのに、わざわざコートを着込んでアレクシアは中庭に出たのだ。鼻の頭を赤くしながら椿の生け垣の間を行く従姉は美しく、しかし表情は七つの頃と変わらない。

 どこまでも純粋で清らかそのものだ。

 しかしそのことにサリムは違和感を覚えていた。

「姉上、そろそろ中へ入りませんか」

「サリムは先に入っていてもいいのよ。わたくしはひとりでも大丈夫だもの」

「そうですけど、風邪をひいたら困るでしょう。せっかくバスティアン兄上に勝っているところで、気を抜いた思われる」

 先日の第二回の選挙結果はアレクシアがバスティアンを抜いて一位となった。

(バルザック卿を引き入れてからか……)

 ギデオンを味方につけてからというもの、アレクシアは表情が変わった。

 以前のアレクシアは話す言葉自体は理路整然としていてるのに、ふわふわとした印象を人にもたらしていた。しかしこの頃は芯がひとつ通って柔らかさが少しなくなった。

 かといって子供っぽい無邪気さがなくなったわけでもない。むしろ以前にまして透明さが増した気さえする。

 アレクシアは自分自身の意志を持たないように、ありとあらゆる欲を伯父と母に奪われて育てられた。

 どれだけ成長しても無欲で幼い少女のままな心で、泥沼の選挙戦の真っ直中に放り込まれていることによってアレクシアの心は疲弊しきっていた。

 自分自身でその苦痛にも気付かずに、自分に添い寝をねだることも多かった。

 だがギデオンが夫候補となってからは、表情に生気が宿って本来の賢才も引き立てられ確実に票を増やした。

「気を抜いてなんていないわ。ただ綺麗なものを近くで見たいだけ。でも、寒いからもう入るわ。温かい紅茶をいただきましょう。今日はね、サリムが好きなマドレーヌもあるのよ」

 アレクシアが手袋を嵌めた手で、サリムの手を取って微笑む。やはりこういうところもちっとも変わらない。

 自分より少し背が高かった頃のアレクシアは、よくこうやって自分の手を引いて庭を歩き回ったものだ。

 春には蝶を追い駆け、夏には木陰を渡り歩いて、秋には落ち葉を拾い、冬には雪に足跡をつけた。

 うんざりしたり、一緒に笑ったりしながら何度そんな四季をアレクシアと共に過ごしたことだろう。

(問題は、バスティアン兄上に勝ったのにあんまり嬉しくなさそうだったことだな)

 選挙結果が出たときアレクシアは、どちらかといえば落ち込んだ顔をしていた。

 お気に入りのギデオンをやっとのことで夫候補にして、選挙活動も順調だったというのにあの表情は矛盾している。

「……アレクシア、女王になったら必ず僕を最初の夫にして下さいね」

 子供の頃からの約束を口にする。自分はアレクシアを利用してのし上がる。そのためにずっと一緒にいるのだ。

「もちろんよ」

 そう答えるアレクシアの手の力が一瞬緩んで、サリムは彼女の手を握り直す。

 アレクシアは嘘を吐いている。

 そう直感した。

(最初はバルザック卿のほうがよくなったかな)

 なにも絶対に一番目の夫でなければいけないことはない。二番目か三番目あたりでもいいのだ。

 ただアレクシアの中で自分の優先順位が下がってしまったことが面白くない。

 なんのためにこの十年尽くしてきたのかという気になる。

 ただ、それ以外にアレクシアを最初に抱くのは自分がいいという思いもあった。

 少なくともこの十年でアレクシアに対して情がないわけでもない。即位することになれば、周囲に利用されるだけの存在になるのだ。

 他の人間よりは打算なしにいくらか優しくなれる。

(アレクシアは変わらないのかな)

 即位してもアレクシアは自分が知っている女達のようにならないのだろうか。

(だいたいバルザック卿はどういうつもりなんだろう)

 忠義心が強くまるで百年前の紳士のごとく頭の硬いギデオンが、長年の主君であるバスティアンを裏切り、アレクシアの複数の夫のひとりになると決めたことは不可解だ。

 そこまでしてアレクシアの側にいたいと惚れ込んだのか、別の策略があるのか。

(面白くないな)

 少し他と違っっているぐらいの男をすぐにお気に入りにしてしまったアレクシアも、簡単にアレクシアに変化を与えたギデオンも。

「サリム。一緒に遊んでくれてありがとう」

 屋敷に入ってアレクシアが微笑みかけてくる姿が愛らしすぎて、気に食わないとサリムは苛立つのだった。


*** 


「あの、サリム殿下、少々よろしいでしょうか……」

 三回の投票が迫る頃。経済学のサロンが終わる頃、サリムはギデオンに声をかけられた。

 同じアレクシア陣営同士で挨拶や雑談程度はお互いするが、今日のギデオンは普段以上に腰が低かった。

「なんですか?」

「あ、いえ。この頃王女殿下の様子はいかがと……」

 ギデオンが目を合わせづらそうにしながら問いかけてくるのに、サリムはため息をついてゆくっり話せる薔薇宮へと案内することにした。

 薔薇宮という華やかな名でありながら、紺や白の落ち着いた色合いと無駄な飾りがない調度品でまとめられた屋敷の応接室の一つへと、サリムはギデオンを招き入れる。

 飾りがない代わりに円形の大きな四阿の態をした屋敷は硝子窓が多い。一年を通して様々な薔薇を咲かせる庭の景色が、この屋敷で最も美しい装飾だった。

「姉上はずいぶん落ち着きがないですよ。選挙活動があまり上手く進んでいないようですし。ギデオン殿はは会計担当になって最近僕より姉上とお話しになっているのでは?」

 ギデオンは第二回の投票結果の後すぐに、アレクシアの政策の要である教育制度の整備において会計係を命じられている。そのため密にやりとりしているはずである。

「ええ。政務についてはよく話し合ってはいるのですが、他の話題というものがなく一緒にいても退屈されている様子で……女性との私的な、その、なんといいますか付き合い方というものが……王女殿下はこれまで他の夫候補とどのように過ごされていたのかと」

 大柄で武骨な体を縮こまらせてギデオンが歯切れ悪く言う。

 どうやら政務の上ではよい臣下でも、愛人としてはまったく駄目な状態ということらしい。

 アレクシアがギデオンは財務官として有能だと言いつつ、どことなく不満そうな口ぶりだったことをサリムは思い出す。

「よいのではないですか。ギデオン殿には真面目に政務をこなしているだけのほうがお似合いですよ。恋愛遊戯なら他の夫候補に任せればいいでしょう」

 もうとっくに引き入れて恋愛遊戯を仕掛ける必要もない相手が、さらに自分の気を惹こうとしてこないことをアレクシアが不服に感じることに違和感があった。

 アレクシアにとってギデオンはただの票ではないのかもしれない。

「ええ……そうですが」

 ギデオンが難しい顔で引き下がる。

「自分が夫候補から外れると心配ですか」

 はたしてギデオンはどんな野心を抱いているのかと探りながら、サリムは刺々しく聞く。

 ギデオンと話していると苛々する。自分を律せる真人間ぶっていて、女の扱いもまともに分からずおろおろとする所が嫌いだった。

 アレクシアが今まで見せなかった感情の原因が、ギデオンだと思うと尚更だ。

「王女殿下にはいつも、笑顔でいていただきたいのです。無理に作る笑みではなく、心の底から笑えるように。この頃はいつも無理に笑顔を作っておいでで……私がそうさせてしまっているのは分かっているのですが」

 まるでアレクシアの本当の笑顔を知っているかのようなギデオンの口ぶりに、サリムは眉根を寄せる。

 笑顔はアレクシアにとって一種の武装だ。笑顔は彼女の美しさを引き立てると同時に、賢才を薄膜で包み隙があると思わせるためのものである。

 本当の笑みを見分けられるのは、自分かジゼルぐらいのはずである。

「姉上が作り笑いをしているのなんて、いつものことですよ。別にギデオン殿の前だけじゃない。だいたいどうして僕にそんなことを相談するのですか」

「自分もサリム殿下にご相談するのもと悩みましたが、他に訊ねられる相手も思いつきませんでしたので、面目ない」

 サリムは深々とため息をつく。

「……僕に聞いたところで無駄ですよ。姉上は恋愛遊戯を楽しんでいたことなんてありませんでしたから。姉上に何がご不満なのか直接聞いてはいかがですか?」

 アレクシアはどんな優しい甘い言葉をかけられても、あくまで次期女王のお気に入りになるためのものでしかないと知っていた。恋愛遊戯はただの選挙活動の一環でしかなく、どちらかといえば打算しかない虚飾のやりとりにうんざりしていた。

「ああ。なるほど……申し訳ない。王女殿下をわずらわせることになるのか」

 ギデオンが真面目に苦悶して眉根を寄せる。

「ギデオン殿はご自分のできることをだけをやっていていればいいんですよ。姉上の世話役やご機嫌取りはいくらでもいるんですから」

 次期女王の地位と美貌に多くの人間が群がって、アレクシアを大事に大事にしている。だけれどギデオンは、そんな者達とは一風変わった雰囲気もあった。

(僕にだって分からないことが、バルザック卿に分かるはずもない)

 正直、アレクシアが具体的に何を求めているかはサリム自身にも分からなかった。彼女自身が他人に対して何かを望むということが、これまでほとんどなかったからだ。

 自分に添い寝をねだったり、遊び相手になってほしいということぐらいだ。

 そいういえばギデオンを引き入れてから、アレクシアに添い寝したことはない。

「私のできること……やはり自分で考えねばということですか。サリム殿下、相談にのっていただきありがとうございました」」

 ギデオンがひとり得心して頭を下げる。どこまでもまじめくさって面白みのない男である。

 あれでアレクシアの機嫌が上手くとれるものなのかと思っていたが、彼はきちんと答を見つけたらしくある夜会を区切りにアレクシアの機嫌は上々となった。

 醜くなるどころか、アレクシアは磨かれ美しくなるばかりだった。

 そんな彼女の姿に置き去りにされていく気がした。母が死んだ頃と同じ所にまだ自分が立っている感覚に、じわりと焦りを覚えた。

 ひとりぼっちなのは、今も昔も自分だけなのかもしれない。

 そして迎えた第三回の投票のアレクシア二位転落に焦燥は募るばかりだった。


***


 結局第四回の投票結果でも巻き返しはできなかった。かといって逆転できないほどの差でもなかった。

「姉上、このごろバルザック卿とよく一緒ですね」

「ええ。選挙も大詰めでしょう。だからよ。ねえ、サリム、サリムはわたくしの夫以外の他に欲しいものがある? 宰相になりたいとか、大臣になりたいとか。そういうやりたいこと」

 久しぶりに晩餐の後のチェスに呼ばれたかと思えば、アレクシアはそんなことを聞いてきた。

「特にないですね。アレクシア、まさかもう勝つことを諦めてしまったわけではないですよね」

「……必要でしょう。女王の夫はそれなりの地位にいないと。サリムは得意なことがいっぱいいあるし、何にでもなれるわ」

「何でもはなれませんよ。僕は王にはなれない。だからその代わりに次の王の父親になりたいだけです。他のことは、アレクシアが全部決めればいい」

 サリムは勝負を放棄して王の駒を譲ると、アレクシアは手を止めて、困り顔で盤面に目を落とした。

 玉座につかなければ何も得られない。

 それはアレクシアも自分も同じはずだ。王の子として産まれた以上、選挙に勝つ以外に自分達には何もない。

「サリムが決めていいのよ。わたくしはそうして欲しいわ」

 中途半端な盤面から手を放してアレクシアが優しく告げる。

 惨めなままで終わりたくない。ただその思いばかりが胸にあった。誰もが欲しがるものを手に入れなければと望んでいても、自分が欲しい物かどうかは分からない。

「……アレクシアのためにたくさん頑張ったら、最初の口づけをくれる約束を覚えてますか?」

 ついと腕を伸ばしてアレクシアの唇を指差す。

「……それは、もうあげられないわ」

 少し動揺した様子で視線を彷徨わせるアレクシアに、サリムは腕を下ろす。他の誰かにとっくにあげてしまったらしい。

 ギデオン以外の夫候補とはあまり親密にしていない様子なので、相手は彼で間違いないだろうと思った。そのことに落胆している自分にも苦笑するしかなかった。

 アレクシアが自分が嫌いな女達と同じになってしまえばいいのに。

 いつまでたっても変わらないでいるから、こんな風に変にアレクシア自身に対して執着めいたものを覚えるのだ。

「……もう、遅いから寝ましょうか。付き合ってくれてありがとう。サリムがしたいこと、思いついたら教えてね。おやすみなさい」

 幼子にするように、アレクシアが額に口づけを落としてくる。

 彼女にとって自分は小さな弟のままなのだと、サリムはアレクシアの頬に口づけを贈ってその夜は薔薇宮に戻った。

 そうしてそれからひと月。

 ジゼルとアレクシアが揉めたことを知った頃には、アレクシアが椿宮を出て行くことになったと聞かされた後だった。

「アレクシアは、女王にならないで、何になるのですか」

 椿宮で少ない荷物を纏めたアレクシアが中庭の、咲き始めた春椿の生け垣の前で佇んでいるのを見つけてサリムはゆるりと歩み寄った。

 アレクシアの表情はひどく憔悴して疲れ切っていた。母親のセシリアと、伯父のコルベール侯爵と相当揉めたらしいと聞いたので、そのせいだろう。

 ふたりは椿宮にはおらず、今はコルベール侯爵家にいるらしい。従姉のジゼルもおらずアレクシアはひとりぼっちだった。

 だけれど昔のように泣いてはいない。疲れ切ってはいるけれど、絶望感はどこにもなかった。

「ギデオン様の奥方になるの。ごめんなさい。女王にもならないし、サリムとも結婚できないわ」

 アレクシアはひとりぼっちではないのだ。これから、本当に望むものを手に入れるのだと、彼女の瞳は語っていた。

「……僕はどうすればいいんですか。僕はアレクシアが女王にならなければ何にもなれない」

 怒りなのか失望なのか、自分でもよく分からない感情が胸の中で渦巻いていた。

 アレクシアがひとりだけ欲しい物を見つけて、手に入れて幸せになる。自分を置き去りにして。

「サリムは他になれるものがいくらでもあるわ。バスティアンお兄様も、サリムのことは評価しているから、きっと望みを叶えてくれるわ」

 望みなんてない。ないものをどうやって叶えるいうのだろうか。

 そんな思いは嘲笑として口元に浮かんだ。

「ありませんよ。僕は結局、半端な王族で、あげくに十年尽くした従姉にも裏切られて惨めな王子で終わるんです。……アレクシアも、王位を捨てて降嫁した馬鹿な王女として惨めな結婚生活を好きにすごせばいい」

 そう吐き捨てながら、醜いのは自分のほうだとサリムは唇を噛む。

「誰が何を言おうと、わたくしは自分の選択を誇るわ」

 寂しげに言ってアレクシアが自分に背を向ける。もう彼女が自分の手を引くことはなく、ふたりでこの中庭に立つのは、これで最後なのだ。

 ひとり取り残されたサリムは近くの咲きかけの白い椿の花を手折り握り潰す。

 思い描いていた未来も、欲しかったのもたったひとり自分と孤独を分け合ってくれる従姉とずっと過ごすことだったのかもしれない。

 本当にひとりぼっちにされて。やっとそのことに気付いた。

 いや、気付いたというより今まで目を逸らし続けていた事実を認めざるを得なくなっただけのことだった。

 アレクシアが好きだった。

 姉としてではなく、従姉としてでもなくただひとりの女性として。

 いつまでも綺麗で無邪気でそのままの姿をずっと、護りたいと思うほどにアレクシアが大事だった。

 サリムは潰れた椿の花を地に捨てて、自分もまた中庭を去る。

 この先の自分の道は何も見えなかった。


***


 アレクシアが牡丹宮に移り幾日が経ち、選挙の最終投票を前日。

 やることもなく薔薇宮で適当な本を斜め読みし、時間を潰す怠惰な日常を過ごすサリムの元へバスティアンが尋ねてきた。

「なんの御用ですか、兄上。もう結果が分かりきったも同然で暇をしているなら、僕は遊び相手になりませんよ。追い出しにきたのなら従いますが」

 サリムはソファーに横になって起き上がりもせずに兄を迎えた。いずれバスティアンの妻のいずれかがこの宮に住まうことになる。追い出されるのはそう遠い先ではない。

「ふふん、ずいぶん拗ねているなサリム」

 あいもかわらず偉そうにバスティアンが見下ろしてくる。

「ええ。バスティアン兄上がバルザック卿をアレクシアに近づけたせいで僕は王配になれなくなったんですよ。どこまで織り込み済みで近づけたんですか」

 内偵として使うにはギデオンは生真面目すぎで、交渉下手すぎる。こういう結末を予想してアレクシアに近づけたのではと、サリムは疑っていた。

「いや、簡単に落ちないギデオンに手こずらせてやるかという具合だったんだが、アレクシアがあっさり落ちるとは思わなかったから。正直なところ半年もしたらギデオンは捨てられるとおもっていたんがな。よくもここまでこぎ着けたものだ」

 バスティアンが顎に手を当ててうなずいて、側のローテーブルに腰を下ろす。

「……行儀が悪いですよ」

「近いうちに王になる兄上様に対してその態度の貴様に行儀を諭される筋合いはないな。それで、貴様はこれからどうする」

 アレクシアと同じことを聞くバスティアンに、サリムは眉根を寄せて顔を逸らす。

「それは兄上が決めることでしょう。とっくに決めてきたんじゃないんですか?」

 なにも従姉に出し抜かれてふて腐れている姿を見に来ただけではあるまい。いや、存外この兄ならその場の思いつきでそんなこともあるかもしれない。

「ああ。決めてきた。クーバッツの駐在大使が心臓発作で急死しただろう。その後任に貴様をどうかと思ってな。任期は五年で少々遠いが、行ってみる価値はあると思うぞ」

 往復三月かかる他国は確かに少しばかり遠い。

「僕を遠ざけたいんですか」

「別に近くに置いてもかまわんが、貴様は一回外に放り出した方が使い物になる。クーバッツはでかい港があって、大陸の外からいろいろと入ってくる。学問も盛んだ。俺も半年いたが、面白いぞ。いつまでもここでひねてくれているより、留学ついでに行ってこい」

 そういえば九年ほど前、唐突に遊学に行ってくるとバスティアンはふらっと国を出て二年ほど戻らなかったことがあったとサリムは思い出す。

「……兄上はなぜ国を出たのですか?」

 いつ帰るとも告げずに出て行ったので、逃げ出したのではないのだろうかと当時ちらりと思った。

「このちんけな国の王になるより面白いことがあるかもしれんと思ってな。いろいろやってみて死にかけたりもしてみたが、俺は王になるべきだと思って帰って来たわけだ」

 バスティアンが悠然と笑うのに、サリムはむっとする。

 こんなにも傲岸不遜に自分自身を王たるものだと誇るバスティアンに、誰も勝てるはずがないかったのだ。

 この選挙の結果はとっくに決まっていた。

「僕は何になるべきか見つけられると思いますか?」

 ここにいてもしようがないことだけは確かだった。どうせ兄の命に従う他に選択肢もないのだから、行くのも悪くない。

 それにしばらく幸せそうなアレクシアの姿を見ずにすむ。

「貴様次第といったところだな。まあ、俺の目が確かなら今より使える奴にはなるはずだ。それに外にもいい女が山ほどいるぞ」

 にやにやと余計なことをバスティアンが言って、サリムは手近の堅い木製の表紙の本を投げつけた。

「そういう下世話なのはいりません」

「まあ。そう言うな。見てくれだけなら、アレクシアよりいい女もいろいろいるし、あれより面白い女もいる。好きなだけ楽しんでこい」

「……だから、そういう余計なことはいです。少しだけ考えさせて下さい」

 本を軽々と受け止めたバスティアンに見透かされていることが悔しくて、子供っぽいと思いつつ返事は保留しておく。

「そう長くは待てんぞ。立太子式までには腹を決めておけ。さて、俺も忙しい身だからな。帰るぞ」

「兄上」

 言いたいだけ言って出て行こうとするバスティアンを、サリムは思わず呼び止めた。

「なんだ。まだ用があるのか」

 アレクシアは今どんな様子だろうか。

「……いえ。いいです」

 口に出す前にサリムは止めた。立太子式で会うことになるのだから、もうその時でいい。

 そして選挙の結果は覆ることもなく、バスティアンの当確が決まった。

 時は春から初夏への移ろいの季節。

 遅咲きの椿と早咲きの薔薇が交わる薔薇宮と椿宮の境で、サリムは薔薇と椿を一輪ずつ摘んで立太子式へと向かった。

 

***


 正殿の玉座の間で多くの貴族が見守る中、バスティアンが玉座へ続く道を颯爽と通り、国王から王太子として認められた。

 これより十年の後に現国王は王座を降りて、バスティアンが新たな王となる。

 立太子式が終われば後は大がかりな舞踏会が行われる。

 正殿の大広間に数百人の貴族達が集い、明日の朝まで踊り騒ぎ通すのだ。

 サリムは落選した異例の王子を興味深そうに見つめる貴族達の視線を交わし、大勢の人混みの中からアレクシアを見つけ出す。

 最終投票を目前にして、自ら落選を選んだ王女として彼女もまた目立っていた。

 だが臆することもなく、流れ始めた音楽に合わせてギデオンの腕を引いてワルツを踊っていた。

 薄紫のシフォンのドレスを纏い、婚約者を見つめて幸せそうにステップを踏んでいる姿は絵画の様に美しい。

「一緒に踊っていただけますか?」

 曲の合間にサリムは薔薇と椿を差し出して、アレクシアを誘った。アレクシアはギデオンを見上げ、彼は淡く微笑んでうなずいて、サリムにも一礼してアレクシアから手を離す。

「……バスティアンお兄様から聞いたわ。遠くへいってしまうのね」

 受け取った花を髪に挿して踊るアレクシアが、寂しそうに目を細める。

「ええ。これからお返事してきます。アレクシアが言っていたように、僕に何ができるか見つけてきます」

「そう……。時々、お手紙をくれる?」

 上目遣いで小首を傾げるアレクシアに、サリムはうんとうなずく。

「送りますよ。何か面白い物があったらそれも一緒に。……結婚式はいつですか?」

「たぶん、二ヶ月後ぐらいかしら。まだ日取りは正確には決まっていないわ」

「ずいぶん急ですね。ドレスは間に合うのですか?」

 準備をするには少々時間が足りないのではないのだろうか。

「ギデオン様のお母様が来たドレスを仕立て直して着るの。とても素敵なドレスよ……見にはきてくれないかしら」

 アレクシアがおずおずと言って、サリムは彼女を引き寄せる。

「アレクシアは全然惨めそうじゃないな。……酷いことを言ってしまったけれど、羨ましくて寂しかったんです。最初に出会った時に僕にひとりぼっちじゃないと言ってくれたアレクシアが、一人で勝手に幸せになってしまって」

 少し踊りにくそうにしていたアレクシアが、はっとした顔で自分を見上げて首を横に振った。

「ひとりぼっちなんかじゃないわ。わたくしにとって、サリムはずっと大切な弟よ」

「ええ。知っています。結婚式は、行きますよ。アレクシアが選んだ道を見届けて、僕も新しい道を歩きます」

 いつまでたっても、やはり自分は彼女にとっては小さな弟でしかないらしい。

 寂しいけれど、大切な家族のひとりであることは嫌ではない。

「姉上、どうかお幸せに。結婚式、楽しみにしていますよ」

 額に口づけを落とすと、潤んでいたアレクシアの瞳から涙がこぼれ落ちた。

「ありがとう。サリム、ありがとう。大好きよ」

 ぎゅっと抱きつかれて、さてどうしたものかと背を撫でている内に曲が終わってしまう。

「さあ、他に誘ってくれる相手がいないギデオン殿を、あまりひとりにしておくわけにもいかないでしょう。僕はしばらく楽しんで帰りますから」

 そうしてサリムはギデオンの側にアレクシアを連れて行く。

「…………姉上をよろしくお願いします。義兄上」

 にこりと嫌味も含めてサリムはアレクシアの手を離して、ギデオンに引き渡す。

 地味で相変わらず冴えない男だけれど、誰にもできなかったアレクシアの本当の望み叶えることができたことだけは認めてやってもいい。

 きっと誰もが欲しがる物を得ようとしていた自分に、アレクシアを本当に幸せにすることはできなかった。

 サリムはまだぐじぐじと泣いているアレクシアの髪を撫でてから、人混みに紛れてそのままバスティアンの元へ向かった。

 自分の道はここからやっと始まるのだ。



 

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