Ⅰ ジゼル
アレクシアと出会った日のことは、はっきり覚えていない。
彼女が産まれた時、自分はまだみっつで美しい叔母に似た綺麗な赤子を見たおぼろげな記憶があるぐらいだ。
父からアレクシアの遊び相手を言いつけられた気もするが、その前に自分は従妹に夢中になっていた。
白いレースのドレスで歩み寄ってくる三歳になったアレクシアの愛らしさは、まるでよくできた人形が動いているかに見えた。
陶器のように真っ白で滑らかで、柔らかく温かい肌。黒髪は今まで触れたどのシルクよりも上質な滑らかさと艶。笑顔はもちろん、癇癪を起こして泣き出す表情すら可愛らしくて、一日中側にいて飽きなかった。
手足が伸びて日々美しくなっていくアレクシアを見つめる毎日が、幸せでしかたなかった。
筆頭侍女としての役目を父より与えられた時には、本当に嬉しかった。アレクシアを誰よりも美しく整えられる自信があったし、他の誰にも譲れないと思った。
美貌と明晰な頭脳を持っていて、そうして自分の心は持たない完璧な王女。
アレクシアは誰も愛さないように、躾けられていた。
どれだけ尽くしてもア彼女に愛されないことは、苦痛ではなかった。
優しいアレクシアが愛を知ったなら、たぶんきっと自分以外の多くの人間に彼女は愛情を向けるだろう。そうなることの方が、愛されないことよりずっと辛く思えた。
誰よりも彼女の側にいられることが自分の最上の幸せ。
その幸せは誰にも壊されないと信じていた。
アレクシアが女王となり、王冠を載せる時に自分の望みは成就されるはずだった。
***
第一回の開票から半年。初雪がちらつく中で二回目の投票の開票が行われることになった。
政務を執り行い王の居室や社交の場となる王宮の正殿で、王を中心とした選挙管理委員が開票準備をし、五人の王子とひとりの王女は大広間に集められている頃合だ。
開票に立ち合うのは立候補者とそれぞれの生母のみだ。
アレクシアとその母が住まう王宮敷地内にある屋敷のひとつ、椿宮でジゼルは父でありアレクシアの選挙参謀でもある父のコルベール侯爵パトリスと、アレクシアの帰りを待っていた。
「ジゼル、支援者の方達への接待は十分か」
長椅子に座るパトリスが片眼鏡の瞳を細めて長い足を組み替える。いつもは伶俐で落ち着いた色気を漂わせる彼もこの時ばかりは落ち着かないらしい。
「もちろん。皆様には十分におもてなししております」
椿宮の大広間にはすでに有力なアレクシアの支援者が集まって、気を揉んでいるところだ。
「……バルザック卿の様子はどうだ?」
パトリスが口にしたアレクシアの夫のひとりとなる予定のギデオンの名を口にして、ジゼルは眉根を寄せる.
「特に変わった様子もなく支援者の方々とお話しになっていました」
ギデオンは第一回の投票の後、以前より親交があった第二王子バスティアンから、アレクシアに鞍替えした。だがバスティアンへの忠誠心が強く、そう簡単に寝返ることがなさそうだったギデオンの真意はまだ疑わしい。
(アレクシア様に見劣りしすぎるわ)
無論そのこともあったが、ジゼルにとってはギデオンの容姿が気に食わなかった。
アレクシアと並ぶにはそれなりの、洗練された美しさは必要だ。だというのにギデオンは顔立ちは並。いつも洒落っ気のない堅苦しい格好で、まったくもって美しくない。
そんな容姿で女性の扱いもまともに知らないらしく、アレクシアの前であたふたとする様子は端から見て不釣り合いだ。
釣り合いが取れているといる所があるとすれば名門バルザック侯爵家の嫡男で、次期大臣候補という有能さぐらいである。
「ジゼル、戻って来たようだ」
上品な表情を崩さずにギデオンへの苛立ちを募らせていたジゼルは、待ち焦がれた主君の帰りに緊張を高める。
「ただいま戻りました」
他の侍女達が両開きの扉を開いて、純白の薔薇のようなドレスを纏ったアレクシアがパトリスに挨拶をする。彼女の表情は少々硬い。
これはあまりよくない結果かと思ったが、アレクシアに続いて入室するアレクシアの生母である叔母のセシリアそこそこ上機嫌な顔でどちらか分からなくなる。
「姫殿下、悪くはない結果でしたか」
妹の表情から結果を汲み取ったパトリスが尋ねると、アレクシアが笑みを零す。
アレクシアの表情を知り尽くしているジゼルは、アレクシアの艶やかで明るい表情にぎこちなさを感じた。
「バスティアンお兄様を抜いて、一位になりましたわ」
「まあ、票差は五票程度だけれど。三位のレナルド殿下が地方票をかき集めて思ったより得票を伸ばしていたわ」
寒がりのセシリアが詳しい結果を言いながら暖炉の前のソファーに腰を下ろす。
レナルドは第一王子にあたる。何かと目立つバスティアン第二王子の影に隠れがちではあるが、堅実さには秀でている。
「ええ。レナルドお兄様とバスティアンお兄様の票差は二十八票。他のお兄様方は六十票以上差はついているとはいえ、油断はできませんわね」
暫定一位になったとはいえ気を抜ける状態ではないらしく、アレクシアが苦い顔で用意されたホットショコラを口にする。
「アレクシア様、もっと甘くしていた方がよろしかったですか?」
ジゼルはアレクシアの表情に違和感を覚えて問いかける。
彼女にないはずの不安と焦燥に似たものが見えた気がしたのを、ホットショコラの味が気に入らなかったせいにしてみる。
「いいえ。ちょうどいいぐらいよ……」
にこりと微笑みながらも、アレクシアの表情に強張りが確かにあった。
選挙の動向にここまで気を揉んでいる主君を見るのは初めてだった。二位だった最初の投票結果の時も、セシリアとパトリックがまずまずの結果と評したのを、大人しく聞いているだけだった。
この時、もっと深刻にアレクシアの変化を考えていればよかったのだろうか。
そうすれば今でも彼女は自分だけのお姫様でいてくれたのか。
後になってジゼルはそう考えもした。
しかし結末を知らない自分は、理想の女王となるアレクシアの姿以外は想像できなかったとも思う。
ましてやアレクシアが本気で誰かを愛しているなど、思いつきもしなかったに違いない。
全てを知った時はあまりにも遅すぎたのだった。
***
アレクシアが物憂げなため息をついたり、妙に苛ついていたのは確か第三回の投票前だったとジゼルは記憶している。
長引いた冬の寒さがようやく形を潜めてきて、春の装いを整えるためにばたばたと忙しかった頃だ。まだ急に冷え込むことも多く、防寒具を全て仕舞い込むわけにもいかず選別に苦慮していた。
その時アレクシアの機嫌もころころと変わって、手を焼いた。
「なかなか、上手くいきませんわね……」
アレクシアが昼食後のお茶を口にしながら、支援を呼びかけている貴族からの手紙に目を通してため息をつく。
新たな支援者を獲得するために試行錯誤しているものの、パトリックとも意見が噛合わっていないらしかった。二回の投票が終わった頃からアレクシアは選挙活動に熱が入っていた。
貴族に関わらず中流階級や、さらに労働者階級までに教育を与えて質のいい人材を豊富に産み出すことがアレクシア陣営の政策の要だ。
学習の場となる修道院の新たな設置や使われていない貴族の屋敷を、新たに修道院とするために賛同し協力してくれる支援者を増やしているところだ。他にも教材や教職につく者に関しての枠組み作りにも忙しい。
しかし、目的が一緒でもアレクシアとパトリックが選ぶ道筋がこの頃ずれてきている。
(どうされたのかしら……お父様の言うことにいつも従順であられたのに)
アレクシアは王位に固執は今までしてこなかった。パトリックが選んだ結果を自分で道筋を選んで進めるのは以前からのことだったが、あくまで彼の思惑の範疇でしか動かなかった。
だがそれとなくパトリックやセシリアが道を誘導しても、従わなくなってきた。
(やはり、あの男と何かあるのかしら)
ギデオンを引き入れてからというもの、アレクシアの変化は訝しいものばかりだ。
ついにはギデオンを教育改革の会計担当に抜擢する重用ぶりまで見せている。
票集めに熱心になっているので、パトリックやセシリアも静観しているがジゼルは胸騒ぎを覚えていた。
「ジゼル、今夜のドレスは胸元が空いたのがいいわ。そうね、お化粧もいつもより大人に見えるようにして」
「今日の夜会はバルザック卿もいらっしゃるのでしょう?」
アレクシアの注文にジゼルは首を傾げる。ギデオンは奥手であまり女性らしさを強調した格好は苦手なので、彼と会うときはアレクシアは控えめの格好を選んでいたはずだ。
「いいのよ。もう十分によい役目も与えているのだし、わたくしがあの方のご趣味に合わせる必要もないでしょう」
頬を膨らませてアレクシアがふてくされる。
「ええ。元よりアレクシア様がバルザック卿好みになられることはないと私も思っておりましたわ」
どんな格好もアレクシアは美しいのだが、やはりギデオンに合わせた格好となると着飾らせる方としては物足りない。
(飽きておしまいになられたのならよろしいのだけど)
アレクシアがギデオンを引き入れて一年近い。流行遅れで地味な彼が物珍しくて気に入っていたものの、そろそろ退屈になってきたのかもしれない。
そうであればいいと願いつつ、今日はふんだんにアレクシアを飾ろうとジゼルは意気込んだ。
そうして夜までの時間は夜会の準備に慌ただしく過ぎていく。
「ジゼル、わたくしいつもより大人にみえるかしら」
夜会の準備も大詰めになった頃、アレクシアが姿見で自分の格好を確認しながら問うてくる。
「ええ、とてもお綺麗ですわ……」
ジゼルは頬を紅潮させてうっとりと目を細める。
ドレスは艶のある暗紅色の生地のものを選んだ。瑞々しいラズベリーの色はアレクシアの黒髪と白い肌を際立たせている。控えめなフリルも完璧な体の線を強調するようにあしらわれていて、落ち着いた雰囲気ながらも華やかさがあった。
化粧もいつものアレクシアの翡翠の瞳を一層大きく見せるより、切れ長に見せるものに変えて頬紅も控えめにしてある。その代わり口紅は下品にならない程度に、いつもより赤みが強いものを選んだ。
全体的な愛らしさよりも形の整った目や口元を強調した化粧は、アレクシアを気高く妖艶に変えている。
どちらかといえば十八という年齢よりは幼くみられがちな容貌のアレクシアだが、今夜は二十と言っても通じるぐらいには見えるはずだ。
(立太子の式典の時にはこの化粧がいいかしら)
選挙に当確すればすぐに正式な王位継承者として、立太子の式典が執り行われる。
今夜のアレクシアの荘厳さは、未来の女王の姿を垣間見ることができるものだ。
きっと夜会にくる誰もがアレクシアに跪きたくなるに違いない。
そんなジゼルの自信と期待はすぐに現実のものとなった。
椿宮で開れた夜会の来客達はアレクシアが姿を見せると、誰もが息を止めて彼女の姿に釘付けになり言葉にならない感動にほうと感嘆の吐息を漏らす。
支援者達の挨拶でも、男も女も関係なくアレクシアに視線を奪われてすでに女王の風格だと褒め湛えられていた。
その度にジゼルは誇らしさで胸がいっぱいになる。
やがて女王となるアレクシアに仕え生涯を彼女の側で過ごす夢が、現実に近づいて来ている。
ジゼルが満ち足りた気分でアレクシアを目で追っていると、ただひとり他の来客と違う反応を示すギデオンが引っかかった。
いつもながら古めかしい地味な装いのギデオンは、口を半開きにして真っ赤になっていた。しかしそのあとすぐに面食らった顔をして、今度は蒼白になってしまった。
ギデオンから離れたアレクシアは美しい微笑のままだが、どことなく気迫が増していた。どうやら彼女はずいぶん不機嫌になったらしい。
(いったいアレクシア様に何をなされたのかしら)
ギデオンがアレクシアの不興を買ったのは間違いない。しかしアレクシアがこうも他人に腹を立てるなど珍しい。
「ジゼル、挨拶で疲れたから奥で少し休むわ」
来客への挨拶をすませたアレクシアは、笑顔を萎ませていた。怒っていたこと思えばしょげかえったりと、この頃のアレクシアの移り気には困ったものだ。
「ええ。何か召し上がりますか?」
「ワインだけでいいわ。ちょっとだけ座って休みたいだけだから……」
第三回の投票も間近に迫っている中で、支援者達へは不安定な様子は見せていない。
第二回時点では僅差で一位。このまま勢いに乗って二位のバスティアンを引き離せばぐっと当選が近づく。重要な局面というのはアレクシアも重々承知しているようだし、そのために熱心に票集めをしているのだ。
(バスティアン殿下の支援者を狙いすぎているから、気疲れしてしまっているのかしら)
アレクシアが支援者として新たに取り込もうとしているのは、すでにバスティアンに票を投じるつもりの貴族が多い。パトリックはもう少し隙の多い貴族を薦めているが、アレクシアはバスティアンの票を大きく切り崩すことに固執している。
美しく着飾らせたアレクシアの女王然とした姿に浮き立っていた気持ちが、急速に不安に蝕まれていく。
完璧に美しいアレクシアが、世俗にまみれて自分だけのお姫様でなくなってしまう気がした。
愛など持たない無欲で綺麗なお姫様は穢れないままやがて崇高な女王になる。
その女王を飾り立て誰よりも側で見続けるのは自分。
それが物語の終わりでなくてはならない。
アレクシアが退席して少しすると楽団の演奏が始まる。重なり合う弦楽器の音色は花模様のレースを紡ぎ出すかのように繊細で美しい調べを奏でていた。
ジゼルは楽の音が悲劇を演出しているかに聞こえて、眉を顰めた。
夜会が繰り広げられる大広間のすぐ側の小部屋でっくつろぐアレクシアは、ワインをグラスの中で転がしながらぼうっとしている。
「アレクシア様、お加減が悪いのでしたらこのまま退席なさいますか?」
「大丈夫よ。すぐに戻るわ……」
アレクシアがそう言うものの、ジゼルは侍女をふたり残して夜会に出席している父のパトリックに状況を伝えに行くことにした。
しかし後から戻った時にアレクシアは部屋にはいなかった。
残した侍女によれば新たな支援者候補の貴族の青年が会いに来て、それからすぐに中庭に面したテラスの方へ行ってしまったということだ。
そろそろ主催者がおらねばまずいだろうという頃合に、アレクシアは大広間に戻ってきた。
今度はとても機嫌がよさそうだった。アレクシアを尋ねてきたの青年はバスティアン派と憶測されていたので、上手く寝返らせることができたのかもしれない。
とにかくこの日から、アレクシアの移り気は収まって以前よりも自信に溢れたものに変わった。
よい変化だというのに、妙に不安がつきまとった。
***
やがて迎えた第三回の投票はアレクシアは二位に転落した。票差もまだ僅差の範囲とはいえ、一位のバスティアンと四十六票差と前回より引き離されてしまった。三位の第一王子も、四位五位の第三王子第四王子を取り込んで食いついてきている。
選挙は第一王女アレクシア、第二王子バスティアン、第一王子レナルドの三つ巴となって後半戦を迎えることになった。
選挙戦も慌ただしくなる中、ジゼルは日暮れ頃、七日ぶりに婚家のクジヌー侯爵家に戻っていた。
父に命じられるままクジヌー侯爵の後妻として嫁いだのは十四の時。翌年には男児も産まれて少しすると自分はアレクシアの側に戻った。
以来数日置きにしか婚家には戻っていない。アレクシアの侍女という名目があるし、そもそもこの婚儀が選挙のためなのだ。屋敷におらずとも誰も文句は言わない。
「ただいま戻りました」
広間に挨拶に行くと赤々と燃える暖炉の前で揺り椅子に座った夫のクジヌー侯爵が、六つになる息子のローランを膝に乗せて何か話していた。
三十四年上の夫は五十も半ばにさしかかり、髪には白いものも増えてどう見ても親子というより祖父と孫である。実際、彼の前妻や愛人の間に生まれた娘はジゼルよりふたつみっつほどしか年が変わらず、彼女たちの子供もローランと同い年ぐらいだ。
「ああ。おかえり。ほら、ローラン、お母様が帰ってきたぞ」
初めての息子を溺愛する夫が、膝からローランを下ろす。
「お母様、おかえりなさいませ」
ローランが緊張気味にお辞儀をする。
「ええ……。これは王女殿下からいただいたものよ。大事にお食べなさい」
ジゼルはアレクシアから貰った糖花の詰まった小瓶をローランに渡す。このところ忙しくして、母親の顔を長く見られずに寂しかっただろローランへの詫びらしい。
「はい。ありがとうございます! お父様、王女様からです」
ローランが綺麗な色とりどりの花型の飴達に頬を紅潮させながら父親に見せる。
「それはよかった。今度お目にかかった時に直々にお礼を言いなさい。王女殿下にはよくしていただいてありがたいことだ」
夫が目元を和ませながら。再び息子を膝の上に乗せる。執務の時以外、屋敷にいるときはいつも夫は息子にべったりらしい。
産後半年足らずで侍女の務めに戻ってきた自分に、十二歳のアレクシアはきょとんとした顔で赤ちゃんともっと一緒にいないのかと問うてきたことを思い出す。
乳母がちゃんとついているから問題ないのだと答えた。どこの貴族の家も大抵はそんなものだ。子供を産んだ後は乳母に預けて、気が向いたときに可愛がる。
娘ならばあるていどものが分かる頃になれば、行儀作法を教えたりもするが息子であればその機会もほとんどない。教育係から報告を聞いて、教育方針を見直す程度であとはきまぐれにかまうだけだ。
実際、父と似たもの同士の母は自分と双子の兄を産んだ後はそんなものだった。愛人がいる間はそちらに夢中で、退屈になったら自分好みの衣装を娘に着せてみたり、お茶会ごっこをする。兄に関しても侯爵家の跡取りに相応しく育っていれば満足で、同じように気まぐれに可愛がっていた。
「お母様、今日はカボチャのスープが出るそうです」
不意にローランに声をかけられて、ジゼルはどう答えていいか迷う。
この時期珍しくもないカボチャのスープが何だというのだろう。
「ローランは本当にカボチャが好きだな」
夫が先に答えてそういうことだったのかと、ジゼルは初めてローランの好物を知った。
息子のことはよく知らない。可愛くないわけでもないが、だからといって自分がすべきことも思いつかなかった。
ローランを産んで六年も経つのに、自分が母親であるという実感はほとんどない。妊娠中の時も、早くアレクシアの側に帰りたいと思っていたことしか記憶になかった。
夫が侍女を呼んでローランを一足先に食堂へと連れて行かせる。
「ジゼル、選挙で忙しいのは重々承知しているがローランともう少し話をしてやってはくれないか」
「話、と言われましても……世話係ならいるでしょう」
「私もあの子の欲しいものならなんでも与えたいものだがね、母親というのはどうにもならんのだとこの頃つくづく思うんだ」
「産まれた時からろくに側にいない母親が必要なものでしょうか」
産んでしばらくは屋敷でいたとはいえ、乳母に預けて自分は体を休めて一刻でも早くアレクシアの元へ戻るために体調を整えることに専念していた。日に何度か顔を見るだけで、抱き上げたことすらほとんどなかった気がする。
「私も乳母で十分だろうと思っていたし、娘達と違って男ならば母親とそう一緒にいなくてもと思ったが……思い返してみれば私も幼い頃は母によくついて回っていた」
自分はどうだったかといえば、物心ついたときはアレクシアに夢中だったことはよく覚えていても、母に関することはおぼろげだ。記憶は感傷を伴わない遠景のようだった。
「……今は選挙で忙しいので落ち着いたらでよろしいでしょうか」
ジゼルが父親よりも年上の夫に問いかけると、彼は小さくうなずいた。
「王女殿下には是非当選していただかなければならないからな。こうして帰ったときにローランの好きなものをひとつ覚えるぐらいでいい」
それぐらいならさした手間でもなさそうだ。
ジゼルはうなずいて息子の好物をひとつ覚えておくことにする。アレクシアにもローランの好きなものを訊ねられることもたまにあるので、答えられるにこしたことはない。
そういえばアレクシアはこの頃以前に増してローランを気にかけている気がする。
あまり長く婚家に戻らないとアレクシアが気にすることはあったが、子供を持つのはどんな感覚なのかや、息子についてと訊ねられることが増えた気がする。
しかし自分はあまりはっきりとした返答はできなかった。
その度にアレクシアの表情が陰っていた。
選挙活動は滞りなく進んで十分に巻き返せる余裕もあるはずなのに、何か恐ろしいものに追い立てられる感覚がつきまとって離れなかった。
***
「わたくし、女王にならないわ」
第四回の投票もさらにバスティアンに票を引き離され、二位のままで終わったアレクシアがそう言ったのは最終投票のひと月前だった。
うららかな陽気の午後、ふたりきりで大事な話があるとアレクシアにお茶に誘われた。
椿宮の名の通り深紅の椿が中庭で咲き乱れる中庭に面したテラスで、しばらく黙っていたアレクシアがやっと口にした弱気な言葉にジゼルは苦笑する。
「あとひとつきとはいえ、ここまで十分票はかせげましたわ。アレクシア様、あなたが女王以外の何になるのですか」
バスティアン陣営からいくらか票は奪えている。開票までは結果は分からないはずだ。
ジゼルはアレクシアの強張った表情に、自分も口元から笑みを消してやっと気付く。
アレクシアは女王に『なれない』と言ったのではく、『ならない』と言ったのだ。
「……わたくしね、ギデオン様の元へ降嫁するの。ジゼルと同じ侯爵夫人になるのよ」
降嫁という直接的な言葉よりも、自分と同じになるという言葉に殴りつけられたような衝撃を覚えた。
美しく崇高な女王の幻想が粉々に打ち砕かれて、生々しく澱んだものに成り下がってしまう。
「降嫁など、セシリア妃殿下も父もけして認めませんわ」
万一にも落選したならば近隣諸国のどこかに嫁いで王妃となるのだ。無論、その時は自分はなんとしてでもついていく気でいた。
女王になることが一番よいことだけれど、アレクシアが夫を愛さなければ王妃というのも悪くないと思っていた。
アレクシアなら美貌と賢才で他国でも崇拝者を生み出せるはずだ。夫などそのための踏み台で、崇拝者のひとりになってしまえばいい。
だというのに、あんなつまらない男の妻に収まるなどありえない。
「認められなくてもいいの。玉座につくことになるのはバスティアンお兄様なのよ。王太子の承諾さえあればいいの。……なくても、わたくしはギデオン様以外と結婚するつもりはないわ」
アレクシアの今まで綺麗な翡翠の宝石だった瞳には、貴石にはけして宿らない強い意思が見えた。
「アレクシア様、バスティアン殿下に何を唆されたのですか? よくお考え下さい。バルザック卿と結婚したところで得るものはないでしょう。あなたがこれから捨てるものと、バスティアン卿。天秤に乗せるまでもありませんわ」
ジゼルは微笑んで、優しくアレクシアに語りかける。
バスティアンがギデオンを利用して何かよからぬことを吹き込んだに違いない。そうでなければこんな馬鹿なことをアレクシアが言い出すはずがない。
今から女王の座は無理でも、王妃になることは可能だ。
「ええ。だからこそわたくしはギデオン様を選びんだのよ。わたくしは地位もいらないし、たくさんの夫もいらないの。ギデオン様だけでいいわ」
ギデオンにこれっぽっちの価値も見いだせないジゼルに、アレクシアの言い分はまったくもって理解などできなかった。
「……私のことも不要ですか」
アレクシアが切り捨てたものの中に、きっと自分も入っている。
降嫁するということは、今までアレクシアを育ててきたコルベール家の全てを切り捨てるも同然だ。
「わたくにってジゼルはお姉様みたいな大事な従姉だけど、ジゼルにとってわたくしはなに?」
寂しげに小首を傾げるアレクシアに、ジゼルは言葉を失う。
崇拝すべき完璧で美しい女王。
すぐに思いついた答はそれだったが、なぜか言葉としてすぐに出すことができなかった。
「……私の全てです。アレクシア様をすばらしい王女として身の周りのお世話をすることは、私だけのお役目です。女王になれないのなら王妃様になりましょう。どんな遠い国にだってついていきます。あなたは唯一無二の地位につかねばなりませんわ」
一呼吸おいてジゼルは一気にまくし立てる。
そう。アレクシアは自分の全て。彼女と一緒にいるために結婚して子供も産んで、やっと側に帰ることができたのになぜ今になって。
「ジゼルの従姉では駄目なの? わたくしはジゼルと主従関係なんかない、ただの従姉同士の方がいいわ」
懇願するようにアレクシアが自分を見つめてくる。
しかしジゼルは首を横に振った。アレクシアが悲嘆した顔で目を伏せる。
「ギデオン様のところへお嫁に行ったら、ジゼルともお別れなのね」
そしてあっさりと切り捨てられ、ジゼルは凍り付いた。
「……アレクシア様にとってバルザック卿は本当に何を捨ててでも選ぶべき者なのですか」
震える唇で言葉を紡いで、ジゼル無意識の内にカップの取っ手を強く握りしめていた。
「ええ。優しくて、頑固で、ときどき臆病なギデオン様を愛しているの」
煉瓦敷きのテラスの床にカップが落ちて、がしゃんと脆い音が響く。
真っ先に片付けの対応をするのは自分のはずなのに動けなかった。
ジゼルは自分の布靴じんわりと湿り気を帯びていくのを感じながら、割れたカップの破片を見つめていた。
「ジゼル……」
アレクシアが名前を呼ぶ声が遠い。
小さな時からずっとアレクシアは夢のような存在だった。現実味がないほどに完成されていて、誰にも手が届かないはずの存在。
だから彼女は誰のものにもならない。
そう、自分のものにもならない。だけれど誰かに奪われてしまうよりはずっとよかった。自分以上にアレクシアの側にいられる者はいなかったから、それだけで十分だった。
なのにアレクシアが自ら選んでしまった。自分以外の誰かを。
ジゼルは椅子からよろりと立ち上がり、砕けた陶器の破片を拾い上げる。
自分の夢も粉々になってしまった。
「ジゼル!?」
破片を握った拳からぽたりと血が零れ落ちて、アレクシアが慌てて側に寄ってくる。
ふわりと漂う仄かな鈴蘭の香水は、自分が新しくアレクシアに勧めたものだ。
「ジゼル、血が出ているわ。破片を離して」
アレクシアが手を開かせようとジゼルの手に触れてくる。
「アレクシア様……私は……」
爪先まで美しく整えられた手が血に汚れるのを見ていると、目の奥が熱くなってきた。
ジゼルは手を開いて破片を床に落として、代わりにアレクシアの手を握りしめる。
自分にとってアレクシアは唯一無二の宝物だった。
「……私は死ぬまであなたにお仕えしたかった」
やっとのことで伝えられたのはそんな言葉だけだった。
「わたくしは、もう主従関係でいるつもりはないわ…」
哀しげにアレクシアが言って、ジゼルは絶望するしかなかった。
自分の想いは永遠に叶わない。これで本当に終わりだ。
そしてこの会話がアレクシアと最後に交わした言葉となった。
その後すぐにアレクシアは椿宮からバスティアンの住まう牡丹宮へと居を移し、ジゼルは一度たりともアレクシアと顔を合わせようとはしなかった。
***
アレクシアの侍女としての職務を全て放棄した後、ジゼルは父と叔母にアレクシアの異変に気付かなかった失態を責められ、行く宛もなく婚家の私室で籠る日々を過ごすことになった。
選挙が終わりバスティアンの立太子の式典が終わる頃、夫は領地の方へ移ることを決めた。元より林業で成功している夫の立場はアレクシアの落選によって悪くなることはなく、選挙も終わったのでしばらくは都の喧噪から離れ場所で、息子のローランとのんびりと過ごしたいということだった。
湖畔の側に経つ瀟洒な屋敷に住まいを替えてすぐに、王女の降嫁が新聞で大々的に報じられた。
「お母様、街へ行きませんか」
自分の部屋でジゼルが新聞のあまり似ていないアレクシアの肖像を眺めていると、ローランが遠慮がちに訊いてくる。
ローランもまだ全てを理解しきってないながら、アレクシアが女王になれなくて残念そうだったものの、夫の話によればジゼルがずっと家にいることは嬉しいらしい。
いつも控えめに部屋にきては、本を抱えて勉強したことを話したり、この頃は夫と湖で釣りを楽しんでいるらしくその話もする。
あいかわらず自分は相槌を打つぐらいしかできない。
選挙のために社交界で幅広い年代の男女といろいろと交流をしてきたのに、息子との会話はまるで不得手だった。
ただ、アレクシアが得たかったものは息子が求めていることと似ているのかもしれないとこの頃感じ始めていた。
「ええ。いいわ……」
ジゼルはアレクシアが降嫁について、初恋を叶えられたことは王冠を得るよりも幸せだと語った記事を思い返す。
「……あの、お母様……手を繋いでもいいですか?」
ローランがおずおずと手を出してくるのに、ジゼルは戸惑いながらも触れる。
照れくさそうに、それでいて嬉しそうな顔をしているローランを見て、自分も普通の従姉同士になりたいと言ったら、アレクシアはこんな風に喜んでくれたのかもしれないと考える。
だが、相変わらずそんな気持ちにはなれなかった。
(手紙を書こうかしら)
だけれどアレクシアの告白を聞いた時よりは、彼女の望みに対して理解は出来はじめていた。
そして屋敷から少し離れた街でローランや夫と新しく建設する劇場の様子を見たり、街の様子を眺めたりして屋敷に帰りついた後、ペンを取った。
***
私がお慕いして忠誠を誓っていたアレクシア様と、今のアレクシア様を上手く重ねることができません。
変わってしまったあなたを受け入れることはまだとても難しく、深い失望に苛まれる瞬間が度々あります。
それでも手紙を認めようと思ったのは、私が最も愛していた美しい王女のアレクシア様にきちんとお別れを告げたかったのです。
あなたと過ごした私のそれまでの日々は、とても幸せなものでした。
さようなら。いつか私が過去のあなたの面影を忘れられる日がきたなら、またお目にかかりましょう。
***
夜遅くまでかけて短い手紙を書いたジゼルは、手紙をバスティアン侯爵夫人宛とした。
そうして次の朝一番に手紙を使用人に渡した時、自分の中のアレクシアへの想いが少しは軽くなった気がした。
部屋の窓を開ければ朝陽を受けて眩く煌めく初夏の湖が見えた。木々の合間を通り水面を滑って部屋に流れ込んで来る初夏の空気は、清涼で心地よい。
「さようなら」
胸いっぱいに新しい朝の空気を吸い込んで、ジゼルは自分の過去の夢にも決別を告げる。
まだまだ別れが惜しいが、振り返らずに歩くことぐらいはできそうだった。
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