ギデオンと最後に会ってから十日経つ今日までは、あっという間のようでとても長く思えた。その間にドゥメルグ伯爵家の家督は弟に譲られ、元伯爵である兄は都から遠く離れた領地の屋敷で隠居となったが、醜聞が新聞沙汰になったこともあって領地の一部は没収となった。

 そして没収された領地は残念ながらバスティアン陣営の者に渡った。特にバスティアンが動いたわけはなく、ただの偶然らしいが全くもって運のいいことだ。

 アレクシアは自分が主催したサロンを終えた後、広間でぼうっと夕暮れに沈む中庭を眺めていた。

 また夜が来る。今日というギデオンに会えないつまらない一日に、幕が下ろされていく。

 明日は経済学のサロンに出席する予定だから、ギデオンも来るかもしれない。そう思うとこれからの時間が、長く感じられるだろう。

(恋をし始めた時にはもっと楽しかったのに、どうしてかしら)

 ひとりで待つ時間が以前より苦しい。早く会いたいと心が急ぎすぎて、走り疲れてしまっている気がする。

(毎日会えたらいいのに)

 無理だと分かっていてもそう考えずにはいられない自分がいる。やはりギデオンになんとか夫になってもらった方がいいかもしれない。

(お母様みたいにいろんな相手に恋することができたらいいのかしら?)

 多くの愛人といる母が羨ましくて妬ましくなる。だけれど自分は服を着替えるように、次々と恋などできそうもない。

 そもそも母は誰も愛してはいないのだ。だから恋する気分の楽しさと、選挙での利益を上手く得ているのだろうと、今はなんとなく分かる。

「わたくし、ギデオン様を愛しているんだわ」

 つい口に出してしまってアレクシアは後悔に唇を噛む。言葉にしてしまうと抑えているものが溢れ出してしまいそうだった。

 ずっと楽しいだけの恋をしていられたらいいのに、すでにそれも失ってしまいそうだった。だけれど何もないよりはいい。愛すること自体はきっと悪いことではない。

 あまりにも素晴らしいことだから、なくしてしまうのを恐れて時に人は愚かになってしまうだけのことだ。

「姉上」

 サリムの声にアレクシアはふっと顔を上げる。そういえば今日は晩餐を一緒にする予定だった。サリムはこの頃ほとんど毎日訪ねてきては、お茶や食事に付き合ってくれたり一緒に眠ってくれたりする。

 彼に恋することができていたらよかっただろうにと思うけれど、どれだけ背丈が伸びて大人びた顔つきに変わっても自分の中では小さくて可愛いサリムのままだ。

「いらっしゃい。サリム、待っていたわ」

 微笑むとサリムがアレクシアに唇に指先で触れる。

「血が出ていますよ。何か嫌なことがありましたか?」

「ないわ。ちょっと間違って噛んでしまっただけよ。おなかが空いたからはやく食事にしましょう」

 アレクシアは席を立とうとするがサリムがその前に向かいに座る。

「今日は、ここで食事をしませんか? セシリア様もいらっしゃらないんでしょう」

「あら、いいわね。楽しそう。せっかくだからジゼルもお招きしましょう」

 そうして侍女に命じて食事を三人分用意させることにした。ジゼルも喜んで同席すると言った。

「ふふ、なんだか子供の頃みたい」

 幼い頃に三人でテーブルを囲んで小さな晩餐会を何度もしたことを思い出して、アレクシアは笑う。

 今はそれぞれ晩餐会や夜会に呼ばれることも多く、三人だけで過ごす機会はほとんどなくなっていた。

「アレクシア様がお望みならば、私はいつでもお食事を共にしますわ。サリム殿下もそうでしょう」

「もちろん、未来の女王陛下が開かれる晩餐会には是が非でも参加しないと」

 ワインを手にサリムが楽しげに言って、アレクシアも一緒に微笑む。可愛い弟と優しい従姉のおかげで今夜は退屈しなさそうだ。

(ギデオン様にも今夜のこと、お話ししたいわ)

 アレクシアはせっかく楽しい時間なのにまたギデオンのことばかり考えている自分に苦笑し、いつもより少しだけたくさんのワインを呑んだ。


***


「まあ、そうなの」

 アレクシアは爵位を継いだ新たなドゥメルグ伯爵が、すっかり社交界から孤立してしまっていることをジゼルから訊いてそう答える。

 あれだけの醜聞が流れて領地没収にまでなったのだ。皆余り関わりあいになりたくないのだろう。

「ええ。さして大きな票を持っているわけではありませんし、放って置いてもよいかと思っておりましたのに、父はこれを利用できないかとお考えですわ」

 いつものように鏡台の前でアレクシアの身支度を整えながら、ジゼルが不満げな口調で言う。

 転んでもただでは起きないということだろう。アレクシアは伯父の剛胆さに感心しつつ、どういう考えなのだろうと首を傾げる。

「……もしかして、わたくしへの次の課題なのかしら?」

「具体的なことはアレクシア様にお任せするとのことですわ」

「難しい事をお言いつけになるわね……」

 票を確実に増やす方へと持っていかねばならないのだろうけれど、ドゥメルグ伯爵家は元よりさして票を持ち合わせていない。当主が変わった今は利用価値の欠片も見当たらないというのに伯父は一体どういうつもりなのだろう。

「何もないからこそ、築けるものがあるとお父様は仰っていたけれど、私にはちっともそうは思えませんのよ。そんな小物にアレクシア様がわざわざお知恵を絞られるなんて、時間の無駄ですわ。お嫌なら、私からお父様にお願いいたしますわよ。腰回りが細くなりすぎておりますけど、大丈夫ですか?」

 ジゼルはどうやら自分の体調を気にかけてくれているらしかった。

「大丈夫よ。このところ暑いからかしら。間食を増やすわ。ドゥメルグ伯爵家のことは、伯父様が言うのならわたくしがした方がいいわね……」

 かといってと何をすればいいのやら。

 塵も積もれば山となる。少数票を地道にかき集めるのも大事といえば大事だ。しかしそれをやるのは、各陣営の動きが定まってきた選挙も後半に入ってからのことが多い。

(今から票を確保しておくのは、やっぱりバスティアンお兄様に勝つためかしら)

 三位以下の兄達はよほどの失態を冒さない限り、終盤までに蹴落とっせるはずだ。だが現状一位のバスティアンは手強い。

 バスティアンに負けたら、ギデオンと二度と会えなくなる。

「勝たないと……」

 真っ暗闇に突き落とされる感覚に身震いし、アレクシアはつぶやく。

「アレクシア様?」

「ジゼル、伯父様に一日お時間を下さいと伝えて」

 選挙に負けたら恋を失ってしまう。

 その事実が急速に重さを持って心が押し潰されそうになる。

(女王になったらまたギデオン様と楽しくお話しできるのよ。夜会で一緒に踊ったり、お茶会に誘ったりもできるわ)

 自分へのご褒美を並べ立ててみるけれど、不思議と心は凹んだままで元通りになってくれない。

 どれも今すぐにしたいことばかりなのに、女王になった後と考えると何もかもが色褪せて退屈なものになってしまう。

(でも、女王にならないとギデオン様のお顔も見られなくなるのよ)

 自分に言い聞かせるとそれは絶対に嫌だという感情がこみ上げてきて、泣きたくなるほどだ。

(わたくし、どうしたいのかしら)

 ギデオンと永遠に会えなくなるのは嫌。女王になった後にお喋りしたり踊ったりするのも、魅力を感じない。

 嫌々と駄々をこねる子供のような自分に、アレクシアは途方にくれる。

 それでも今、自分にできることは選挙の票を集めることでしかなかった。

 アレクシアは鏡の向こうの自分のどことなく不満そうな顔とにらめっこして、ますます不機嫌そうな顔になってしまう。

「アレクシア様、お化粧、お気に召しませんか? 御髪かしら」

 そんなことをしていると、ジゼルが困り顔になってしまった。

「大丈夫よ。ジゼルはいつもわたくしを綺麗にしてくれるもの。ちょっと退屈だっただけなの」

「まあ。子供みたいなことをなさって。今度からは絵本を用意しないといけませんわね」

 くすくすとジゼルが笑って、アレクシアの黒髪を複雑に編み込み美しく仕上げる。

「絵本より、お手紙を読んだ方が有意義な時間になりそうだわ。たくさんあるのだもの」

 読まねばいけない手紙や書類は山ほどある。全部、選挙に勝つためにしなければいけないことだ。

 アレクシアは笑顔を作ったまま膝に目線を落とす。

 自分には選挙のためのことしかできない。何をやるにしても、全てが女王になるため。

(そうね。わたくしにはそれしかないのだもの)

 自分が選べるものは何ひとつないのだと気付いて、虚しさが心をかき乱す。

(でも、恋をしていれば大丈夫よ。大丈夫)

 アレクシアはそう必死に自分の感情を宥める。しかし一度気付いてしまった心の穴はもう無視できないものだった。


***


 そのわずか六日後。アレクシアは椿宮で晩餐会を開いていた。昼間のように明るくなるほどに燭台やシャンデリアに火を灯し、銀食器達を輝かせて客人達を迎える。

 有力な支援者に、まだ誰につくか曖昧な貴族達。そうしてドゥメルグ伯爵。

「皆様、急なお呼びだてにも関わらずお集まりいただき、ありがとうございます」

 アレクシアは挨拶をしながら、新たにドゥメルグ伯爵となった男と目を合わす。

 三十一という母よりひとつ年下の実直そうな彼は、居心地悪そうに会釈する。客人達も席につく間、話題の人物であるドゥメルグ伯爵に興味津々という心境を隠し切れずにいる。

 まずはそれぞれ運ばれて来た料理に口をつけ、晩餐会は静かに始まる。主催者のアレクシアが、最初の一品を食べ終えてこれから運ばれてくる料理についての話題を始め、緩やかに会話は増えていく。

「ドゥメルグ伯爵は鴨はお好きからしら?」

 アレクシアの問いかけに、一瞬場の空気が張り詰める。ドゥメルグ伯爵家の没収された領地は鴨の産地として有名な場所だった。

「……ええ。幼少の頃より慣れ親しんでおりますので」

 ドゥメルグ伯爵が声音を硬くして、スープを掬っていたスプーンを置く。

 その音は一斉の沈黙の中で異様に響いた。

「そうでしたわね。お兄様の件は本当に残念でしたわ」

 何が残念か具体的には触れずにアレクシアは嘆く表情を作る。

「愚かな過ちを犯し、家財を投げ捨てた兄がお騒がせして申し訳ありません。私も兄があそこまで馬鹿なことをするとは考えが及ばず、所領を損なうことになりまことに遺憾に思います」

 そう告げるドゥメルグの態度に感情的な所はまるで見られなかった。

 新しいドゥメルグ伯爵は推測したとおりの人物らしい。常に理性を重んじる人柄で、彼自身感情に惑わされることもないのだろう。

 だからこそこの結末を予測はできなかった。

「あなたは夫人を陥れたことを悔いていますか?」

 すっかり食事どころでなくなった来客達の目は、アレクシアとドゥメルグ伯爵に釘付けになっていた。

 アレクシアは彼らの様子を見つつ、用意させたのが冷製スープでよかったとどうでもいいことを考える。

「いいえ。私は愚かな兄の目を醒まし、失われた財を取り戻す手段をとったことを後悔はしていません。……ウダール伯爵令嬢は自ら過ちを選択したのです。取り返しのつかないことを」

 ドゥメルグ伯爵が僅かに表情を曇らせて、うつむきかけた顔を上げてしかしと続ける。

「結果はこのようなことになってはしましましたが、家のためにという自分の意志を恥じることも悔いることもありません」

 この場にいる全員に言い渡すよう、ドゥメルグ伯爵が言う。

(なんだか少し、ギデオン様に似ていらっしゃるわ)

 硬く真面目な物言いにギデオンを思い出して、アレクシアは作り笑顔を本物する。

「そうでいらっしゃるなら、わたくしも安心ですわ。わたくしの所領をドゥメルグ伯爵にお預けしたいと思っておりますの」

 アレクシアに微笑みかけられたドゥメルグ伯爵が目を丸くする。

「王女殿下、預けるとは一体……私は、陛下に領地を没収されたのですが」

「国王陛下からはもうお許しをいただいておりますのでご安心を。言葉の通り領地の運営をお願いしたいと思っておりますの。今度新しい街道が通るマルッシャをご存じかしら?これから周辺の街の整備も行うのですけれど、それをお任せしたいのです。没収された御領地ほど広くはありませんが、価値は同等か、伯爵のお力によってはもっと大きなものとなりますわ」

 アレクシアは絶句しているドゥメルグ伯爵に、変わらない笑みのまま語りかける。

「わたくし、お兄様の成されたことに対する陛下の処罰に異論はありませんのよ。ただ、家を重んじた貴方様のご意志を無視してしまうのは残念かと思っておりましたの。思慮深く家を大事にされるよいご当主がいるのに、このままではもったいないでしょう」

 来客に語りかけると、有力支援者である侯爵のひとりがうなずく。

「なるほど、王女殿下はドゥメルグ伯爵に投資されるというわけですね」

「ええ。そうですわね。子供達への教育と同じですわ。前途ある者には投資を惜しみたくありませんの。即位できたなら拝領も考えておりますけれど、いかがかしら」

 アレクシアの問いかけにドゥメルグ伯爵が表情を引き締めて、真っ直ぐに彼女を見る。

「……謹んでお受けいたします」

「よかった。ふふ。断られてしまったらと心配してておりましたけれど、引き受けていただけて安心しましたわ」

 ここで丁重に辞退されたらどうしようかと、本気でどきどきしていたアレクシアはほっと胸を撫で下ろす。

「さあ。続きは後日にお茶でもしながらお話しましょう」

 アレクシアは笑顔を保ったまま、晩餐会の雰囲気が変わったことを肌で感じる。

 来客の最初のドゥメルグ伯爵への好奇心と緊張感は全て払拭された。その代わりこの判断を下した自分への興味と、自分達にも機会が与えられるかもしれないという期待が表情に見えた。

 そうして王女より領地を託されたドゥメルグ伯爵がこれからどうのしあがるかに関心を寄せ、上手く付き合いをすれば益になるやもしれないと算段する様子もある。

(伯父様には上手く行ったと伝えられそうね……)

 アレクシアは新たに出された鴨料理を口にしつつ、ドゥメルグ伯爵を話の輪に迎えて順調にことを進めて行く。

「ドゥメルグ伯爵、本日はわたくしのお願いを聞いて下さってありがとうございます」

 そうして晩餐会が終わり来客達の見送りに移ったアレクシアは、ドゥメルグ伯爵に声をかける。

「いいえ。お招きいただいて王女殿下には感謝いたします。必ずやご期待に恥じぬ成果をあげます」

 そう言った後にドゥメルグ伯爵は跪く。

 人々は新たな主従の契りの場面を静かに見守っている。

「ふふ。楽しみにしておりますわ」

 自分の母とさして変わりない年嵩の男に傅かれたアレクシアに、なんの気負いも見られなかった。

 彼女に君主たる傲岸さがあるわけでもない。例えるなら、ほんの幼い子供が大人から愛でられているときのような、そんなあどけない雰囲気だった。

 流れる仕草でアレクシアが手を差し出すと、ドゥメルグ伯爵が忠誠の接吻を贈った。

 そして一連のやりとりを土産話として来客達は帰って行った。

「アレクシア様、上手く行きましたわね。父にもとてもご立派でしたとお伝えしておきますわ」

 自室に戻るアレクシアに付き添うジゼルが、嬉しそうに主君を褒め称える。

「ええ。だけれど、まだドゥメルグ伯爵が沢山票を集めてくれるは分からないわよ」

「あの様子ならどんなことをしてでも票をかき集めてきますわ。私ならそうしますもの」

「そうなるといいわね……」

 答えた自分の言葉が乾ききっていて、アレクシアは自分自身で驚いて足を止める。

「アレクシア様、お疲れですか?」

「……そうね。湯浴みをして早く床につきたいわ」

 ジゼルの心配を躱ししてアレクシアは笑顔を取り繕う。

(わたくしはドゥメルグ伯爵家の将来も領地のことも考えていない。そうしないといけないだけ)

 ドゥメルグ伯爵のように胸を張って、国のため臣下のためなどと言えない。

 選挙に勝って女王になる。女王になったら、女王らしく振る舞う。

 自分の意志などどこにもない。

(全部、伯父様とお母様が決めること)

 初めての恋をこっそり持つ続けることだけが、自分自身の意志だけれども。

 もうそれすらどこか疲れ始めている自分に、アレクシアは睫を伏せる。

(自分だけのものってとても重いのね)

 だがどんなに引きずっていくのが辛くとも、そう簡単には手放してしまえそうになかった。


***


 ギデオンはドゥメルグ伯爵がアレクシアの領地の運営を任されたという噂を聞いて、順調に選挙活動に勤しんでいるのだと複雑な心境でいた。

 何度かサロンでアレクシアを見かけることはあっても、挨拶を交わす程度で終わっている。彼女は支援者と交流することに忙しく、本当に話しかける隙間もない。

(俺はどうしたいというのだ)

 まだ求婚する決意は固まっていなかった。二年後、彼女を失望させない自信がなかった。いやそれよりももっと早くに彼女に、愛想をつかれてしまうかもしれない。

 とにかく自分という人間のあらゆる面に対する自信が、アレクシアを前にするとことごとく揺らいでいくのだ。

 バスティアンの命でサリムが出席している戯曲のサロンに来ていてもそんな有様で、どこか上の空だった。

「バルザック卿、あの、お隣よろしいですか……?」

 楚々とした風情の黒髪の令嬢に声をかけられて、隣にいた紳士がいつの間にか席を替えていなくなっていたことに気付く。

「あ、はい。どうぞ」

 ソファーには十分な空きがあったので、断る理由はどこにもなかった。十分に距離を空けて腰を下ろした令嬢は、落ち着かない様子で若草色のドレスの膝元をいじっていた。

 時々ちらちらとこちらに視線を向けて気にかけている。

「ご令嬢、どうされました?」

 何か不具合でもあるのだろうかとギデオンは令嬢に問う。

「あ……あの、わたくし、エメ伯爵家の次女のミシェルです。じゅ、十七になります。以前、狩猟大会で、見学をしていたのですけれど……一度だけですし、ご挨拶もしていなかったから覚えてはおりませんわよね」

 頬を赤らめてミシェルがうつむく。

「申し訳ない。狩に夢中でして……」

「そ、そうですわよね……わたくし、それほど目立つ容姿でもありませんし」

「い、いえ。本当に自分は狩の時は獲物しか追いませんので……」

 慣れない雰囲気にギデオンは戸惑い口ごもり、ミシェルも恥じらったままもじもじとして微妙な緊張感がふたりの間に産まれていた。

 あまりの沈黙の長さにギデオンはどうすればと思うのだが、こんな状況は初めてで困るばかりだった。

「あの」

 うつむいていたミシェルがふっと顔を上げて、視線がぶつかる。

「な、なんでしょう」

「……わたくし、ずっとバルザック卿とこうしてお話してみたかったんです。だけど、殿方とお話しするのは苦手で。もう十七なのに……」

 そう言って視線を逸らして緊張に指先を震えさせるのに、つい共感を覚えてしまう。

「あ、いえ。私ももう二十三だというのに、ご婦人のお相手をするのは苦手でして。年上だというのに、申し訳ない」

「まあ。お優しい方ですのね……」

 ミシェルが感銘した様子で自分を見上げてくる。

(楚々として愛らしい方だ……)

 やっと緊張がほどけてきたギデオンはミシェルの容姿の愛らしさに気付く。ぱっと目を惹く大輪の鮮やかな花ではないが、水辺に揺れる白い清らかな花を思わせる少女だ。

 控えめで淑やかな雰囲気は、自分の母に通ずるものがある。

 これまで自分が理想に思い描いていた女性の姿そのものと言っても過言ではなかった。

「バルザック卿、あの、わたくし、初めてあなた様を、お見かけしてた時から、ずっとお慕いしておりました……!」

 めいいっぱいの勇気を振り絞っているのが、ありありと分かる様子でミシェルが言い募る。

 こんなにも健気な告白を受けたのは二度目だった。

(……俺が求めていたのはこんな女性だった)

 ギデオンは心を大きく揺さぶられる。

 しかしもう目の前にあるのは過去の理想でしかなかった。

 アレクシアに求婚もできない自分を受け入れてくれる、都合のいいだけの夢幻のようなもの。

 そう思うとふっと揺らいでいた心は落ち着いた。

「ミシェル嬢……申し訳ない」

 ギデオンはどんな言葉がいいのか分からず謝罪した。

 彼女の想いを受け取ることは、現状から逃げることと同じだ。

 ミシェルはそっとハンカチを取り出して目元にあて、声もなく泣き始めてギデオンは激しく動揺する。

 目の前で妹以外の女性に泣かれたのは初めてのことだ。

「け、けしてミシェル嬢に不足があるわけでは……」

「僕はそういう大げさすぎない泣き演技はすきだけれど、告白部分がやりすぎかなあ」

 対処方法が分からないなりに必死にギデオンがミシェルを宥めていると、いつの間にかサリムが側にやってきていた。

「あら。ここで終幕? せっかくおもしろくなってきたところなのに」

 そしてミシェルがハンカチを顔から外す。その顔に涙の後もなければ、清楚で可憐な雰囲気すらなかった。

 彼女の別人としか言いようのない、自信に満ちた艶やかな笑みにギデオンは呆気に取られるばかりだった。

「ギデオン殿、このサロンの主題は?」

 サリムが完全に放心しているギデオンの肩を叩く。

「…………戯曲」

 つまりは芝居の台本。

「嵌められた……」

 ギデオンは一瞬の間に全てを悟ってうちひしがれる。

 すでにミシェル嬢はさっさと席を立って、次の舞台の宣伝を初めている。貴族の令嬢ではなく、どうやら女優らしい。よくよく記憶をたどれば、家名と爵位が合わないし、そもそもその家に娘はいない。かなり自分は呆けていたらしい。

「バスティアン兄上がパトロンをしている女優のアンヌ嬢ですよ。ちなみに歳は二十一」

 もはや女性というものの何を信じたらいいか分からない。

 女性不信に陥りそうになりながらも、ギデオンはサリムがバスティアンに企みに乗っていることを不思議に思う。

「サリム殿下はバスティアン殿下に協力なさったのですか?」

 サリムは候補者でありながらアレクシアの支援者だったと記憶している。

「断る方が面倒だっただけですよ。正殿の一本道の廊下で楽しそうに近づいて来られて、逃げ場がなかったんです。こんな悪戯を仕掛けられるお心当たりは?」

「……あります」

 いつまでもアレクシアのことを決め兼ねている自分へ、何らかしらの決断をしろということだろう。

「特に事情は聞きませんけど、『ミシェル』嬢は実在の令嬢が元になっていますよ。雰囲気もだいたいあんな方で、お望みならご縁談の手はずを整えるとのことですが、まあ、あまりお気に召しませんでしたか。バスティアン兄上には、ギデオン殿の好みだと聞いていたんですけどね」

「バスティアン殿下にあとで自分から丁重にお断りしておきます」

 まさかうっかり縁談まで調えられかけていたとは、あそこで踏みとどまっていてよかった。

「ギデオン殿は好きだと言ってくれる相手を、好きになる方に見えたんですけれど、違ったらしい」

 サリムの何気ないつぶやきに、ギデオンは何かアレクシアから訊いたのだろうかとそわそわする。同時にそうかもしれないと自分の優柔不断な一面を見つけて、思い悩む。

 確かに告白された途端にミシェルという作られた女性に、おおいに心を動かされてしまっていた。

 アレクシアの存在がなければ、そのままあの告白は受けてしまった気がする。

「不甲斐ない……」

「おかげでギデオン殿が女性に騙されやすいということが分かりましたので。近づいて来る女性にはお気をつけ下さい」

 サリムが麗しい笑みで女性不信を植え付けてくるのに、ギデオンはうなだれる。

「……サリム殿下は、王女殿下の支援をなさっておられると聞き及んでおりますが」

「支援、していますよ。僕は選挙で勝てる見込みはないけれど、女王の夫にはなれますから。アレクシアには最初の夫にしてもらう約束をしています。ギデオン殿も鞍替えをお考えになってはいかがですか?」

「まだ先は長いので、ゆっくりと考えさせていただきます。王女殿下の選挙活動は順調ですか」

「もちろん。ドゥメルグ伯爵の件も上手く動いているし、順風満帆ですよ。バスティアン兄上を追い落とすのも難しくないと僕は思っています。次の投票結果がどうなるか見てからお決めになってもいいですね」

 もう次の投票まで四月余りしかない。時間は慌ただしく過ぎていく。これからアレクシアは、恋を生涯抱え続けるために選挙活動を続け心を磨り減らしていくのだろうか。

「……王女殿下は王位を心から望んでおられますか?」

「嫌なことを聞く人ですね、ギデオン殿。やっぱりアレクシアに余計なことを言ったのはあなただったんだ」

 サリムが不愉快そうに言う。

「王の子として産まれた以上、望むも望まないも王位を求めなきゃならないんです。表面上は兄弟で王位を争っているけれど、根元は女達の醜い争いなんですよ。母親という独善的で傲慢な生き物が、欲望の頂点を得るための争いなんだ」

 明るいサリムの青い瞳に影が射す。

「所詮、僕等は彼女達の欲望を叶える道具であって、半身なんです。だから王位を得なければならないのです。僕は母が夢を見たまま逝ってしまいましたけれど。姉上も兄上達も同じですよ。そのことに気付いていようがいまいが、王位を得ることだけを考えて生きていかなければならないんです。バスティアン兄上が母君を王宮に置かず、遠い領地に追いやっているのは自分の意志で王位につくんだと、信じたいからでしょう」

 確かにバスティアンの生母は王宮にはいない。しかし地方票集めをするためだと聞いている。

「……あなたが余計なことを聞かなければ、アレクシアは何も考えずにすんだのに。知らない方が幸せなことが世の中には沢山あるんですよ」

 七つも年下の少年にそんなことを言われて、ギデオンは少々情けない気持ちにもなる。

 そうしてサリムが女優に手招きされて、ギデオンにしか見えない位置で嫌そうに一瞬だけだため息をついた後に、人懐っこい笑みを彼女の方へ向ける。

「こんなくだらないこと、誰にも聞いてはいけませんよ」

 そして表情は同じままギデオンに忠告して、サリムが席を立つ。

(……騙されて、年下に苦言を呈されてしまった)

 ギデオンは傷心しつつ、サリムの言葉を思い出して眉根を寄せる。

(俺は軽々しく聞いてはいけないことを、聞いてしまったのか)

 いやけして軽々しい気持ちでアレクシアに問うたわけではなかった。ただ、自分が考えている以上に慎重になるべき話だったのだ。

 中途半端な告白といい、あの日に自分が口にしたことはあまりにも軽率すぎたのだ。

 ギデオンは自己嫌悪にますます眉間の皺を深く寄せてしまう。

(王女殿下の幸せ……)

 だれよりも美しく聡明で煌びやかなドレスや宝飾品に囲まれている、全てに恵まれたアレクシアにとっての幸せとはなんだろうか。

(恋を手放さないこと)

 結局、アレクシア自身の望みらしい望みはそれしか知らない。

 そうして本当に自分が彼女の最初で最後の恋の相手に相応しいのか、堂々巡りになるのだった。


***

 

 アレクシアは熱心に壁を見ていた。正確には壁に開けられた覗き穴である。

 先日、口づけを拒んで茶までかけてしまったトリュフォー侯爵が、隣の部屋で母のセシリアといるのが見える。

 『補習』を母に言いつけられたのだ。この部屋は男女のことを学ぶとき使うために、わざわざ覗き穴が作られていた。

(……退屈)

 親しげに侯爵と母が会話しているのを見ながら、アレクシアはため息をつく。自分が失敗したので母がまた彼と懇意にすることになったのだから、この退屈な補習は自業自得なのだけれど。

 侯爵が母の顎を捉えて耳元で何か囁き、ふたりが口づけをしてアレクシアはやっと終わったと近くの長椅子に座り込む。

 『補習』はふたりが口づけをするまでで、その後は『自習』。もっと観察していたければ、好きにするといいということである。

 アレクシアは自習はしないことにして、自分の下唇をつつく。

(……ギデオン様がよかった)

 最初の口づけは彼がよかったと今さらながらに後悔が押し寄せてくる。

 恋心だけでもいいと思ったけれど、最初の口づけをおねだりするか自分から奪ってしまえばよかったかもしれない。

「でも、きっと嫌われてしまっていたわね」

 手を握るのさえ緊張する人なのだ。そんな無理難題な駄々をこねたら、きっと困らせて嫌われたに違いない。

「いやよ。それは絶対に嫌」

 ギデオンに嫌われるだなんて考えただけでも恐くてたまらない。

(ドゥメルグ伯爵夫人は、恋人に拒まれた瞬間に恋を失ってしまったのね)

 アレクシアは昨日、修道院に行った帰りに裏の神殿の側にある墓地へ、夫人の墓に花を備えに行った。ウダール伯爵家の墓石の前には沢山の花が贈られていた。

 ドゥメルグ伯爵夫人に対しては、父の借財の代わりに子種のない男へ嫁がされ、禁断の恋の果てに裏切られた不幸な女性として、同情の声も多くあった。

 若い女性達が花を持ってくるのだと墓守の神官が言っていた。

「姉上」

 少女達の様々な想いがこもった花へと心を馳せていたアレクシアは、入室してきたサリムの声に現実に帰る。

「どうしたの?」

「つまらない補習で退屈してるんじゃないかと思って、楽しい話を持ってきましたよ……」

 サリムが壁の覗き穴に視線をやって、机に置かれている絵画で穴を塞ぐ。

「あら、自習ができなくなるわ」

「する気なんてないくせに。今日サロンでバルザック卿をお見かけしてなかなか面白いことになっていましたけど、その話と自習、どっちがいいですか?」

「……面白い話の方がいいわ」

 ギデオンの名前にアレクシアはそわそわしながらも、あまり物欲しそうな態度を見せずにサリムに話をねだる。

「まあ。それで?」

 ギデオンが女優に求愛された話を、内心どぎまぎとしながらアレクシアは先をねだる。芝居と知らずに、淑やかな女性に愛を求められたギデオンはどんな返答をしたのだろう。

 知りたくないような、けれど知りたいという欲求が胸を鬩ぎ合う。

「どうしたと、姉上は思います?」

「意地悪ね……」

 アレクシアはギデオンがうなずいたのか、それとも首を横に振ったのか考える。

 自分が欲しいと思っていたギデオンの心が、他人のものになると考えると胸がきつく締め付けられる気がした。

 だけれどギデオンならもっと慎重に考えるかもしれない。

「ねえ、どっち?」

 アレクシアは自分で答を選べずに、サリムに話の続きを乞う。

「断りましたよ。受けていたらそれはそれで面白そうだったけど」

 サリムの素っ気な返答に、アレクシアは全身から力が抜けていくのにきょとんとする。

 自分はとても安心していた。

「どうして、お断りになったのかしら。ギデオン様のことだから、実在しないお方だとすぐに気付かれたのかしら」

「さあ。ただ、バルザック卿は姉上が思っているほど、出来た人ではありませんよ」

「わたくしの夫候補だった方よ。とても有能な方だわ」

 アレクシアは拗ねて唇を尖らせる。

 ギデオンを貶されたこともだが、サリムの方が彼のことをよく知っている風な言い方をするのが面白くなかった。

「元、夫候補でしょう。アレクシア、女王になったら彼もさすがに鞍替えを考えるかもしれませんよ」

「そうかしら」

 アレクシアはあのギデオンがバスティアンが落選したからといって、忠誠を翻すなんてことはしないかに思えた。

「選挙に勝ってみたら、答は分かりますよ」

 サリムが告げるのにアレクシアは、自分の何番目かの夫になるギデオンを想像してみるがあまり楽しくなかった。特別だったはずのものが、そうでなくなってしまうような気がした。

「勝ったら……そうね。まずは勝たないと駄目よね」

 アレクシアはふっと、修道院の前で見かけた幸福そうな親子を眼裏に思い描く。

 いつもいつも気になって仕方なかった時の感情は、今になれば『欲しい』という欲求に近いものだと分かる。

(選挙に勝っても、恋をなくすことはなくても欲しいものは手に入らないんだわ)

 具体的には一体何なのかははっきりしないけれど、自分がどんなに必死になっても手に入らないものが、きっとあの光景には詰まっていたのだ。

 ギデオンはいつか手に入れるかもしれない。自分の知らない所で理想を叶えて幸せになるのだ。

 そう思うと言いようのない哀しみが胸にこみ上げてくる。

「そうですよ。選挙に勝ちましょう、アレクシア」

「ええ。一緒に頑張りましょう」

 アレクシアはサリムの頭を撫でて、彼の頭を肩にもたれかけさせて彼の視界を塞ぐ。

 涙はまだ我慢できても嘘の笑顔を続けるのは難しかった。


***


 ギデオンはさる屋敷の絵画サロンに向かっていた。絵を見るのが目的ではなく今日は、主催の納税状況に不明な点があるということで、査察も兼ねてのことだった。

 絵の良さというのはそれほど詳しくはないが、画家の名前や絵の価値には詳しい。価値があるからといって素晴らしい絵に見えるかは、個人次第といった所だろう。

 そうしてもうひとつの目的だったアレクシアを、サロンに入り真っ先に見つける。

 白いフリルやレースで飾られた薄水色のドレスを纏った彼女は、涼やかな可憐な風情でついみとれてしまう。

 すでに他の出席者とも談笑していて、まだ自分には気付いていない。ギデオンは仕方なしに夜会の招待状を都合してくれた友人の隣に座る。あまり査察らしくないように、友人に誘われた体を装うためだ。

「ギデオン、王女殿下に挨拶にいかないのか?」

 友人に小突かれてギデオンはアレクシアから目を逸らす。

「……邪魔をしては悪いだろう。後でする」

「挨拶だけか。あれだけ夜会の招待状をねだっといて、王女殿下と進展なしかよ。奥手なお前がやっと色気づいたと思ったら、とんでもない高嶺の花だったな。だけど、恋愛小説みたいで無駄にロマンチストなお前らしいといえばお前らしいよなあ。で、まだ失恋はしてないんだろ」

 この友人の悪癖は少々喋りすぎる点である。おかげで助けられることもなきにしもあらずだが。

 ちなみにギデオンを着飾らせておいて、猪に孔雀の羽を突きさしたようだと最初に笑い転げたのも彼である。

「……俺はバスティアン殿下を指示しているんだ。不要に王女殿下とお話しすることもない。ほら、始まるぞ。静かに」

 サロンの主催が壁に掛けられた絵画の解説をするのを聞きながら、ギデオンは購入時期に関わることを友人に質問させたり、価格の査定をしていく。

 絵に目を向ける時に、思わず視界にアレクシアが映り込んできて口を引き結ぶ。

 彼女の隣にはひとりの青年が近い距離で座っていて、親しげに彼女と話している。家柄からしておそらく夫候補のひとりだろう。

 アレクシアがふっとこちらに気付いて、長い睫を震わせ一瞬だけ悲しげな顔をして笑顔に戻る。

 ギデオンは無意識のうちに眉根を寄せてしまっていて、友人に軽く爪先を蹴られる。

「そんな未練がましくするぐらいなら、声、かけてみろよ」

「……あちらの絵の購入時期が気になる」

 目敏く新進気鋭の画家の作品を見つけて、ギデオンは友人の興味を自分とアレクシアから引き離す。

 そうして絵画サロンでは恒例の絵の鑑賞時間がやってくる。

「こりゃ、話しかける隙ないな……」

 アレクシアが青年と親しげに風景画を鑑賞しているのを友人が見て、やれやれとギデオンを見る。

「後でお声をかける」

「そうか。それにしてもこの絵はいいな。俺もこの画家の絵を手に入れてみたいもんだ」

 帆布いっぱいに林檎が転がっている絵のどこがいいのか、さっぱり理解出来ないがこの画家の絵は確かに高値がつく。

 脱税の手がかりとなるものは、最近購入されたと思しき高額な絵が一枚ある程度ぐらいだ。

(王宮に戻ったらもう一度確認をするか……)

 職務のことで気を逸らしながらもギデオンはつい、アレクシアの様子が気になってしまっていた。

 青年に腰に手を回されたアレクシアは、彼に寄り添っているがどんな表情をしているか見えなかった。

 そのうち彼女は彼に新しい恋をするかもしれないし、もうし始めているかもしれない。

 バスティアンの言う通り、他国へ嫁いだなら夫と相思相愛となって王位に就くよりも、幸せになれる可能性も多大にある。むしろ一家臣である自分に嫁いで彼女が得られるものがあるのだろうか。

 何度考えても自信がなかった。

 ギデオンはアレクシアが自分以外の誰かと幸せになる姿を、あれから何度も考えていた。だが納得がいかなかった。

 その方が彼女にとって幸せだと理解はできても、腑に落ちないのだ。そして一昨日ドゥメルグ伯爵夫人の墓参りに行ってきた。ちょうど前日、アレクシアが花を手向けに来ていたのだと神官から聞いた。

 男が花を手向けに来たのは、彼が知る限りは自分だけだったらしい。

 墓石の花々の中のどれがアレクシアが手向けたものかは分からない。わかるはずもないものを見つめながら、自分はふっと気付いたのだ。

(……俺は、まだ王女殿下のお心が欲しい)

 彼女に幸せになって欲しいのではなくて、自分が彼女を幸せにしたいのだ。誰にもその立場を譲りたくない。

(身勝手なものだ)

 理想ばかりを追い求めてきた。

 毎日時間通りに物事を進め、なすべきことを予定通り仕上げてきたのと同じように、自分が理想と定めた女性といつか出会えると思っていた。

 どんな女性に対しても理想と重ねるばかりで、目の前にある現実と向き合うことはなかった。

 結局、理想に囚われて自分の心すらまともに見ることができなかったのだ。

 だが、やっと本当に得たいものがはっきりと見えた

 ギデオンは絵から離れてアレクシアの元へと一直線に向かって行く。

「おお、頑張れよ」

 背中で友人がかけてくる言葉はすでに聞こえていなかった。

「ご歓談中失礼いたします。王女殿下にお話しがございますのでよろしいでしょうか」

 いつにないギデオンの気迫に、青年がアレクシアへ視線を落としてどうするか訪ねる。

「あの、ギデオン様、御用ならここで聞きますけれど……」

 アレクシアが困惑した顔で言うのに、ギデオンは彼女の手を引く。

「どうかほんの少しだけでも、時間を下さい」

 そのままギデオンは広間から王女を連れ去った。


***

 

 ギデオンに手を引かれたアレクシアは戸惑いと同時に、胸の高鳴りを抑えきれずにいた。

 他の夫候補と睦まじくしているのを見られた時、ギデオンがどう思っているか不安でならなかった。

 もうあまり声もかけてもらえなくなるのではないかと、恐れていたのに今こうして自分を連れ出した。

 半ば強引だったが、不思議と不快感や恐怖心はない。何か、とても素晴らしいことが起きそうな期待感があった。

 人気のない廊下に出ると彼はすぐさま跪いた。

「急なご無礼、お許しいただきたい」

「かまいませんわ。ねえ。お話は何かしら?」

 アレクシアはそわそわとギデオンを促す。ギデオンがアレクシアを見上げ固唾を飲む。

「アレクシア王女殿下、我が妻となって頂けますか?」

 なんの飾り気もない言葉だった。待ち侘びていたはずの言葉なのに、なぜか大切なものから輝きがなくなってしまった気がした。

「ええ。もちろん。ギデオン様はわたくしの夫になって下さるのですね。わたくし頑張って女王になります」

 それでも彼がしばらくは側にいてくれるならと、アレクシアはすぐに返事をする。

 ギデオンは求婚を受けて貰ったというのに、まだ緊張したままでにこりともしない。

「ええ。私はアレクシア様の夫になります。正し、女王の夫に、ではありません。王女殿下にはバルザック侯爵夫人となって頂きたいのです」

 まるで思ってもみなかったことにアレクシアは、目を大きく見開く。

 今まで考えもしなかったことだった。

「わたくしが侯爵夫人に……?」

 降嫁など歴代の王女の誰ひとりしたことがない。そのせいもあって自分が侯爵夫人になる姿が、まるで想像がつかなかった。

「そうです。惨めな思いはけしてさせません。バスティアン殿下にも、当選の暁には王女殿下をいただくために、どの諸外国の王族よりも価値ある臣下になるとお約束します。けして貴女を他国へは嫁がせません」

 ギデオンが熱く想いをぶつけてくるのにやっと様々なことが現実味を帯びてきて、光を失っていたものが輝きを取り戻してくる。

 他国に行かず、沢山の夫を持つこともなくギデオンと毎日一緒にいられるたったひとつの方法。

 自分が手に入らないと思っていたものが、手に入る。

「わたくしは、王女でなくなるの? ただのアレクシアになるの……」

 つぶやいて、じわじわと指先から何か熱いものが広がってきてそれは全身へと広がっていった。

 王女でない自分。それはどんな自分だろうか。

 自分自身のことなのにまったく予想がつかないが、きっと悪いものではない。何者でもなくただひとりの女として生きていく。

 目の前にいる、初めて恋して愛した人と一緒に生きていくのだ。

「王女殿下……」

 ギデオンが不安に見上げてくるのに、アレクシアはにっこりと微笑む。

「お受けいたしますわ。そう、わたくし、ギデオン様のたったひとりの妻になるのね」

 嬉しい。ただもう嬉しいという感情ばかりが胸の中を埋めつくされていく。

「はい。王女殿下はコルベール侯爵家の方々も、これまでの支援者も全て裏切ることになります。それでも、本当に私の妻になっていただけますか?」

 アレクシアは喜びにふっと水を差されて笑顔を強張らせる。

「そうね。女王にならないってそういうことですわよね」

 自分が欲しいものを手に入れるために、これまでのものを全部捨てねばいけないのだ。

 しかし彼らが欲しいのは『アレクシア』ではない。いずれ女王になる王女だ。

 自分が王位に就かずとも、彼らはそれなりに地位も名誉も築いていける者達ばかりだ。だけれど彼らも女王の側近になれなければ、さらに上位にはいけない。そして多くの夫候補達が最も割を食うことになる。

 だが、自分のたったひとつの望みを犠牲にして、彼らに貢献する気にはもうなれなかった。

 自分は自分だけの望みを、欲しい未来をやっと見つけたのだ。絶対に手放さない。

「……バスティアンお兄様が素直にわたくしを降嫁させてくれるとも思いませんわ」

 あの強かで賢い次兄が、外交の手札になる王女を簡単に手放してくれるはずがない。

 自分は王女ではなくなる。たがただの何もない『アレクシア』になっては、欲しいものは手に入らない。

 いちからもう一度、自分自身を作っていく必要がある。

 バルザック侯爵夫人になる自分を。

「ギデオン様、わたくし、バスティアンお兄様に国の外へ出せないと思わせる女になってみせますわ」

 新しい自分が得る結末は。きっと今まで読んだどんな恋物語よりも素敵で幸せなものになるはずだ。

 アレクシアは楽しい想像にうっとりと微笑む。

「お、王女殿下……、あの?」

 今度はギデオンがアレクシアのただならぬ様子に困惑する。

「ギデオン様、お立ちになって。わたくし、ギデオン様の妻になりますわ」

 言われるままにギデオンが立ち上がってほっとした顔をする。

「必ず、お幸せにいたします……王女殿下?」

 アレクシアは期待を含めた視線で彼を見上げて、彼の次の行動をわくわくと待つ。しかし彼は首を傾げるばかりだった。

「口づけはして下さいませんの?」

 こういう時はそういう流れになるものではなのだろうかと、アレクシアが問う。

「え、あ、は、ば、場所も場所もですし! ま、まだ私も、心の準備が!」

 毅然と求婚してきたギデオンは、今は真っ赤になって狼狽えるばかりで先程とはまったく別人の様だ。

「そうですわね。もっと美しい花を背景にだとか、月明かりの中でだとか、ギデオン様のお好みの時にしていただいた方がよろしいですわよね」

 そう考えるとこのさして飾り気のない廊下は、初めて恋人と口づけを交わす場所には相応しくない気がする。

 アレクシアはがっかりしながらも、新しい楽しみができたことに期待を膨らませる。

 一体彼はどんな場所でどんな風に初めての口づけを送ってくれるのだろうか。

「さあ。ギデオン様、サロンに戻りましょう。これからのことも考えればわたくしの陣営に加わって頂いたほうが、都合がよろしいですわ。先ほどわたくしがお話ししていた方にも、紹介いたしますわ」

 ことが決まったのならさっそく動かなければと、今度はアレクシアがギデオンの手を引く。

「は、はい。あの王女殿下。少々お待ち下さい」

 ギデオンが呼び止めるのにアレクシアはなんだろうと止まると、ギデオンがまた跪いた。

「今は、これでお許しを……」

 薬指に赤面しながらギデオンが唇を寄せる。

 信愛や忠誠ではない初めての彼からの愛の贈り物に、アレクシアは十分すぎるぐらいの幸福を噛みしめるのだった。


***


 ギデオンはその夜、先にひとりでバスティアンの元に行き、アレクシアに求婚を受け入れて貰ったという報告をしにいった。

 バスティアンとアレクシアが体面するのは、諸々の状況を考えていずれギデオンの屋敷でということになった。

「しかし、貴様が本当に求婚するとはな。せっかく俺が他にいい相手も紹介してやったというのに……」

 バスティアンは自分が勧めた相手が選ばれなかったことに、少々不満げだった。相手方もギデオンについては結婚するのが嫌ではないぐらいの認識で、今回の件も知らないらしく当人に断る必要もなかったらしい。

「……ああいったことは今後一切おやめ下さい」

「今の所は必要ないからな。これでもう後には退けんぞ」

 バスティアンが上機嫌で酒の入ったゴブレットを持ち上げる。

「分かっております。けして私も王女殿下を不幸にする気はありません」

 ギデオンは酒を飲みつつ頑なにうなずく。求婚を喜ぶアレクシアの表情を見た途端、迷いは吹き飛んだ。

 自分は何が何でも彼女を幸せにしなければならないと、決意は頑丈なものとなった。

「まあ、アレクシアが俺のために役に立つというなら見物だな」

「ええ。とても張り切っておいででした……」

 ギデオンは生き生きとして策を練り始めたアレクシアには、少々複雑な思いもあった。よくよく考えてみれば、アレクシアの方が自分より遙かに人脈も財もあるのだ。

 うっかりすると自分の立つ瀬がなくなる。

「あのぼんやりしたアレクシアがはりきるのか。見物だな」

「ああ、まず最初の交渉としてドゥメルグ伯爵にお貸しした領地は、そのまま彼にすげ渡してくれとのことです」

 さっそく自領の分配を考え始めている辺りはさすがと言うべきか、なんというかあの才覚が国政に向かないのも少々もったいない気もしてしまう。

「やっぱり王位が欲しいだの言い出さなければ、俺はかまわん」

 バスティアンはバスティアンで少々危惧を抱いてるのか、釘を刺しつつ鷹揚にうなずく。

「私も王女殿下に負けぬように、鋭意努力していきたいと思います。何を「おいても殿下には必ず当選して頂かなければなりません」

 ギデオンは一気に酒をあおり、バスティアンを見据える。

「ふん。貴様はそんなことは心配せずともよい。俺は必ず王になる男だ。使い捨てのきく手駒のくせに生意気を言うな」

 実に愉快そうに言いながら、バスティアンがギデオンのゴブレットになみなみと新しい酒を注ぐ。

「必ずや殿下が手放しがたい忠臣となってみせます」

「ほう。それは期待しているからな。だが、いらないと思ったら、俺は貴様を容赦なく切り捨てるから覚悟しておけ」

「殿下に忠誠をお誓いしたときから、覚悟はできております」

 そうして主従の酒宴は夜更けまで続いたのだった。

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