ギデオンはいつも通り早朝の走り込みをこなして新聞も買い、屋敷へと戻る。

 すっかり回復したアレクシアと会って五日。あれから彼女とは一度も顔を合せていない。

 しかしながら約束通り新たにポプリポットが流行の兆しを見せている。一昨日の新聞に王女殿下の安眠のお供はポプリだと載っていた。

 昨日出席していたサロンでも、女性達がどんなポプリがいいか、容れ物はどうしようかなど盛り上がっているのを耳にした。

(ご機嫌を損ねていないということなのか、ただの礼なのか)

 ギデオンは最後にアレクシアと会ってからずっと悶々としていた。

 馬の話題をふられてうっかり熱弁してしまったからだ。常日頃から友人達に女性の前で馬の話だけはするなと、散々言われてきた。

 昨夜も狩り仲間と次の狩りをいつ頃どこでやるか晩餐会も兼ねて集まった時、アレクシアとサロンで親しげにしていたことをつつかれて、正直に馬の話をしたと言ったら一斉にため息をつかれた。

 過去にも趣味の話を振られて、馬の話をして女性に退屈そうにされた苦い思い出が蘇る。かといって他の話題にも、うまくのりきれない。

 友人曰く、会話はつまらなくて流行にも疎い、地味で退屈な男というのが女性達の自分への評価となってしまっているらしかった。

 アレクシアも全く同じことを思ったかもしれない。

(だが、王女殿下は熱心に聞いて下さっていた)

 最初から最後まで愛らしい笑顔でじっと自分のことを見ていたのを思い出し、ギデオンの顔は険しくなる。

 あの表情に勝てる男がこの世にいるものだろうか。

 そう思わずにいられないほどに、自分の退屈だろう話を聞いてくれたアレクシアの表情は魅力的だった。

(本心がまるで見えない)

 早々に内偵であることは知られ、もう夫候補でなく政敵となる自分に話しかけてきたばかりかわざわざ愛想よくするなど、どういう意図なのか。

(見舞いの品は受け取って頂けたらしいが)

 新聞に書かれていたアレクシア愛用のポプリポットは自分が贈ったものだった。

 圧倒的に女性経験が不足していて、ギデオンはまったくアレクシアの本心を推し量ることができなかった。思い返せばここ数年は挨拶程度の会話しか女性としていなかった。

 考えれば考えるほど悩みは深くなり、眉間の皺も一緒に深くなっていく。

「若様、何か朝食に問題でもありましたか?」

 給仕をする使用人がギデオンのしかめっ面を見て不安そうにする。

「あ、いや。ただ考え事をしていただけだ。いつも通り、美味い朝食だ」

 ギデオンは気を取り直して朝食に集中することにした。そして食事を終えて新聞を開き、ひとつの記事を目に留める。

 昨夜、王都郊外で強盗未遂でひとりの男が捕まったらしい。ドゥメルグ伯爵夫人の愛人だった版画家を殺害した男である可能性が高いとある。

 憲兵に話を聞けばことの詳細ははっきりするだろう。

 それに加えこの五日でドゥメルグ伯爵夫人と、版画家を引き合わせるきっかけを作った画商の顧客にドゥメルグ伯爵の弟がいることも分かっていた。

 ウダール伯爵と同じく観光船への投資をした貴族の中に、ドゥメルグ伯爵と親しい者も何人かいることまでは突き止めている。

「家督相続の揉め事で決まりか」

 ドゥメルグ伯爵が誰かに益のない投資をウダール伯爵に持ちかけさせ、令嬢を手に入れたのは間違いないだろう。

 ドゥメルグ伯爵の弟の目的はまだ明確ではないが、家督相続絡みでおおよそあっているはずだ。

 ギデオンは新聞を閉じて出仕の準備を始める。今日は父に任されている領地の管理に関する執務があるので、王宮での公務の後に帰宅してから出掛けるのは無理だ。

(王女殿下にはお目にかかれないな……)

 ギデオンはアレクシアの顔が見られないことに無意識のうちに肩を落とすのだった。


***


 アレクシアはサリムを招いて晩餐を終えたあと、いつものように選挙対策をしながらチェスをしていた。

「ドゥメルグ伯爵夫人の愛人を襲ったのは、今朝の新聞に載っていた強盗だったのかしら」

 自分はもうほとんどドゥメルグ伯爵夫人の件と関わらないことになっているので、情報はほとんど得られていなかった。誰でも聞ける噂話ぐらいしか手に入らない。

「らしいですよ。愛人が酒場で臨時収入で旅行をするっていうのをたまたま聞いて、殴って財布を奪ったそうです。殺すつもりはなかったとか言っていたらしいですよ」

「まあ。それは酷い話ね。臨時収入って何か大きいお仕事でもされたのかしら」

 アレクシアは絵の仕事ではないだろうと考えながら駒を動かす。

「さあ。僕もこの件にはさして協力していないので知りませんよ。全部片付いたらコルベール侯爵が教えてくれるでしょう」

「伯父様は教えてくれるでしょうけれど、気になるの」

「気になるのは、バルザック候の方では?」

 サリムが寝台側に置かれているポプリポットへ目を向ける。

「何度も言ったでしょう。贈って下さったのを知ったら見たくなったの」

 ジゼルにばれないようにサリムに口裏を合せてもらったとき、たまたまサロンでギデオンと会って見舞い品のことを知って興味を惹かれたと話してある。

「ずいぶんお気に入りになっているようですけれどね」

「だって可愛らしくて香りもいいのだもの。サリムは毎日一緒に添い寝はしてくれないでしょう」

「僕の都合というものもありますから。でも、アレクシアがどうしてもって言うなら来ますよ。それより、新しい夫候補の方は順調なんですか」

「ええ。順調よ。伯父様が動いて下さったのだもの。昨日の夜会でもわたくしのことをお気に召していただけたわ」

 回復してからはいつも通りだ。サロンに夜会に晩餐会にと支援者との縁を深めたり、新たな支援者を獲得したりと忙しい。

 出掛けるといつもギデオンの姿がないか探してしまうものの、あれからまだ一度も会えていない。

 早く贈り物の感想を彼に告げたいのに、手紙のやりとりひとつする間がないし、頼んだところでさせてもらえないだろう。

 サリムに連絡役を頼もうかとも思うが、さすがにそこまでするとギデオンとの関係を怪しまれる。

(秘密の恋ってこういうものなのかしら)

 今まで沢山読んできた物語の内容を思い出しながら、アレクシアはため息をつく。

 まだ自分のこの気持ちが恋かどうかなど、まったく分かりもしないし、ギデオンの気持ちすらはっきりしない。

「はい、姉上の負けですよ」

 つい集中を乱しているうちに、サリムにチェックメイトされてしまった。

「今日はもうこれでお開きね」

 言いながらもアレクシアの頭の中は負けたことより、どうやってギデオンと会うかでいっぱいだった。

「姉上、今日はぼんやりしすぎですよ。いつもより全然手数が少ない」

「あら、そう? まだ調子が悪いのかもしれないわ」

 気もそぞろになっていたのは確かだと、アレクシアは盤の上に目を落として目を瞬かせる。

 普段の自分なら絶対にしない雑な駒運びをしていた。

(わたくし、変わっているの……?)

 恋も愛も人を愚かにするものだという。その兆候がこれだろうか。

 そもそも自分が変わるとはどういうことなのか、はっきりしない。これまでの『自分』というのがどんなものだったのか分からないのだ。

「アレクシア、今日は添い寝をしましょうか?」

 つい盤面を眺めて呆けていると、サリムに髪を撫でられる。

「いえ。いいわ。ひとりでも眠れるわ」

 アレクシアはサリムの額におやすみの口づけをして、彼が部屋から出ていくのを見送り上掛けを被る。

「わたくし、愚かになっていくのかしら」

 そっと口に出してみるけれどあまり現実感はなかった。暖かい湯船で微睡むような、酒に酔っているかのような、ぼんやりとしているけれど心地よい気分がある。

 母が言っていたほど恋や愛が悪いものに思えなかった。

 別に今まで勉強したことが頭の中から消えたわけでもない。票を集めるのに必要なことが分からなくなったわけでもない。

 選挙以外のことを考える時間ができただけだ。物語の中程、常にそのことでいっぱいというわけでもない。

(……ギデオン様のことを考えているのは楽しいわ)

 夫候補をどうやって手に入れるか考えるのはつまらなくもないし、楽しくもないただの日常だ。

 しかしギデオンをどんな話をするか、その前にどうやって会おうか考えているだけで胸の奥がどきどきして時間を忘れるぐらい夢中になれた。

(せめて夢の中では会えますように)

 アレクシアは物語の中にあったお願い事をしてみる。現実で会えないなら夢の中でというのは、まだいまひとつぴんとこなかった。

 だけれど時間が経てば会えるかもしれないと思うと、朝が来るのが楽しみだった。


***


 しかし次の朝はあまりよいものではなかった。

 新聞の一面に『ドゥメルグ伯爵、夫人殺害を告白し自殺』と大々的に書かれていた。記事をよく見れば使用人がすぐに気付いて未遂に終わったらしいものの、すでに知人や新聞社に遺書を送っていてことは公になっていた。

「また、大きな話になってきましたわね……」

 アレクシアは新聞記事を眺めてため息をつく。

 夫人殺害に関しては仔細は語られず、自分が妻を殺したのだという一文だけが遺書に書かれていたらしい。

 しかしあの書き置きや夫人が版画家の屋敷で首を吊っていた状況を考えるだに、誰かに殺されたようには見えなかった。

「この選挙の最中に騒動を起こすなど、迷惑な方ですこと」

 ジゼルが不機嫌そうに言いながらアレクシアの髪にリボンを飾り付けていく。

「ドゥメルグ伯爵家はこのままだと爵位剥奪かしら。お父様は罪には厳しい方だし」

 昔は貴族が罪を犯した場合、一族ぐるみでというわけでもなければ爵位剥奪はなく、個人だけを罰するのが常だった。

 しかし父はこれを改め場合によっては爵位剥奪をすると法を変えた。他にも細々とした法の見直しをして階級による不平等さを軽減している。

「もう投票に関わらないでいてくださるならよろしいのでは? この程度の得票の減りならば、そう痛手もないでしょう」

「票としては少ないし、わたくしの陣営とはいえ深い繋がりはないけれど、後の対応で他の支援者から不審感をもたれないようにしないと……」

「まあ、そうですわね。弟君の方はまだましな方ですし、そちらが家督相続なされば益にはなるやもしれませんわ。だけれど、アレクシア様、今日はそちらよりこれからのお茶会の方が大事ですのよ」

 ジゼルがいつも以上に丁寧に髪を整えて装飾品も何度か付け替えて、出来映えを確認する。

 桜色の生地を黒のレースで飾ったドレスは、肩から胸元まで大きく開いたものでギデオンにあまり会いたくない格好だ。

 今日は多くの票数が稼げる夫候補のトリュフォー侯爵と茶会をする予定だった。自分より二十五年上で、先だった妻との間に十歳の男児もいる。色好みが少々過ぎる点に問題はあれど、法務官として有能で資産も多く築いた人脈は選挙に有利だ。

「分かっているわ。いつも通りちゃんとやるもの」

 今日という日が早く過ぎ、明日がくればいい。サロンに出席する予定があるので、そこでギデオンと会えるかもしれない。

 アレクシアは思わずこぼれそうになるため息を堪えて、茶会が始まるまでの時間を政務で埋める。

 そうしてトリュフォー侯爵が訪れる時間が近づくと、侍女達が完璧に整えた応接室へと向かう。

 中庭に面した応接室は窓を大きく取り、景色を絵画のよう様に眺められるようになっている。今日は向かい合うのではなく、ソファーにふたり並んで親密に会話を楽しむ形式になっていた。

(昔、お母様の愛人もしていらっしゃったわよね)

 子供の頃、ちょうどこの部屋でトリュフォー侯爵が母の腰を抱き、何か囁きかけているのを見たことをアレクシアは思い出す。

 夜会やサロンでも何度も言葉を交わしたこともあった。白髪交じりのブロンドをなでつけ、髭を蓄えた好色さはまるで垣間見えない厳格そうな紳士だ。

 元から自分の陣営ではあるので、よっぽどの粗相をしない限りは上手く行くはずだ。

 そしてアレクシアの考えの通り、トリュフォー侯爵を迎えての茶会は順調に進んだ。

「本当にお美しくなられた」

 トリュフォー侯爵がアレクシアの黒髪を撫でて、顔を見下ろしてくる。

「ありがとうございます。ふふ、侯爵様もいつも素敵ですわ」

 いつものように微笑んでそっと距離を詰めれば、肩を抱かれしな垂れかかる格好になる。

「いささか年上過ぎはしませんかな?」

「いいえ。素敵な方は幾つでも素敵であることに変わりありませんわ」

 肩を撫でられてアレクシアは目を伏せる。機嫌は上々といったところだろう。いつも通り愛想よく、適当に喋っていれば今日の課題は終わりだ。

「王女殿下にお気に召していただいて光栄ですな」

 肩に回っていた手が頬に触れて顔を上げさせられる。

「でしたらわたくしの夫になって下さる?」

「ええ、もちろん。それは最高の栄誉でございますよ……」

 顔が近づけられてアレクシアはやんわりと体を退く。

「わたくし、ケーキが食べたいわ」

 笑顔で言って机の上でほとんど手をつけられていない杏のケーキへと、アレクシアは視線を向ける。

「王女殿下はまだそういうところが子供でいらっしゃる。菓子を食べるよりも楽しいことをお教えしますよ」

 しかしトリュフォー侯爵は体を離してくれそうにもなかった。アレクシアはちらりと壁際に控えているジゼルや他の侍女達に目を向けるが、誰も動こうとはしない。

(この方がわたくしが一番最初にくちづけをする相手?)

 確かに彼は夫候補の中でも有力者のひとりではあるし、そうするべき相手かもしれない。

(……でも、あまりしたくないわ)

 アレクシアは腰のあたりを撫でられてぞわりと肌が粟立つのを感じる。今までにもこんな風に触れられたことは何度かあるのに、今日に限って耐えがたいものがあった。

 一度意識してしまうと、もう駄目だった。

 触れられることはもちろんコロンの匂いですら嫌なものに感じていた。

「ケーキをひとくち食べてからでもいいでしょう」

 震える唇でねだると、仕方なしと解放してもらえてアレクシアはほっとする。

 だけれどまだ終わらない。この場から逃げるには体調不良でも装わねばならないだろうが、この時点でそれをするのはあからさますぎる。

 どうしようかとアレクシアはジゼルに視線で助けを求めるが、目を伏せて彼女はわざと視線をそらした。

 まるで味のしないケーキをゆっくり咀嚼しながら、アレクシアは考える。

「もう、満足いたしましたか?」

 手を引かれてアレクシアは咄嗟に側にあるティーカップに手を伸ばす。けしてトリュフォー侯爵は乱暴にしたわけではなかった。

 だが平静さをなくしてしまったアレクシアは、そのままカップを侯爵の足下に落としてしまう。

「あ……ごめんなさい」

 アレクシアは呆然としながらも、靴とズボンの裾を濡らしてしまった侯爵に謝罪する。彼は苦笑して彼女の髪をまた撫でた。

「まだ、王女殿下には早かったらしい」

「あの、本当に申し訳ありません」

 ジゼルや他の侍女達がすぐさま対応に出るのを、アレクシアはうなだれて見ているしかなかった。

 そうしてまだ体調も回復しきっていないのかも知れないと侯爵に気づかわれながら、その日のお茶会はお開きになってしまったのだった。


***


 初めての大失態にセシリアからきつく叱られた二日後、アレクシアは沈んだ気持ちのままサロンに出席するが、今日も今日とてギデオンとは会えずにさらに気落ちするのだった。

(サロンは上手くいっているけれど、殿方とふたりきりはまだ自信がないわ)

 それでもギデオンには会いたいという気持ちは、膨らむばかりだった。

 せめて貰ったポプリの香りに癒やされたいと、椿宮に戻ったアレクシアは寝室へ真っ先に向かおうとしていた。

「アレクシア様。申し訳ありません」

 屋敷に入ってすぐ、他のサロンへ出席して先に戻って来ていたジゼルにひどく落ち込んだ表情で出迎えられた。

「どうしたの?」

「それがアレクシア様のポプリポットを割ってしまいました。せっかくサリム殿下が贈って下さった、お気に入りでしたのに……」

「壊れて、しまったの?」

 アレクシアは上手く言葉を飲み込めずに小首を傾げる。

「ええ。本当に申し訳ありません。新しいものをすぐに用意させますわ。できるだけ似たものを用意しますので」

「……いいわ。前とは違うものにして」

 本当はもういらないけれど、しばらくはポプリを愛用している風に見せておいたほうがいいだろう。

 冷静にそんなことを考えていないと、涙がこぼれそうだった。

(同じものなんてもうどこにもないもの)

 似た意匠のものならあるが、全く同じものというのはどこにも存在しない。

 なにより、ギデオンから初めて贈られたという何物にも変えがたい価値は、二度と取り戻しようがない。

「ジゼル、部屋は片付けてある?」

 せめて陶器の欠片かポプリの残りでも持っておけないだろうか。

「はい。もちろん綺麗にしてあります」

「そうよね。みんなとても優秀ですもの」

 しかし主人の部屋を破片まみれにしたままにするだなんて、この椿宮の侍女がするはずもない。

 アレクシアはそれでもいてもたってもいられず、寝室へと向かう。

「ないわ」

 いつも置いてある所にポプリポットは本当になかった。まるで最初からそこには何もなかったかのように、残り香さえない。

 足下にも当然破片やポプリの花びら一枚残っていなかった。

(まだ、ギデオン様にお礼も言っていないのに)

 そう思うと目尻に涙が滲できて、アレクシアはジゼルに変に思われると指先で滴をぬぐいこらえる。

 ただでさえここ最近ぼうっとしていると母やジゼルに叱られたばかりだ。

(このままだと、わたくし女王になれない)

 だけれどなんのためになるのか。

――お母様、もし女王になれなかったらわたくしは何になるの?

 幼い頃にそんなことを母に訊ねたことを思い出す。

――そうね。なれなかったら王妃様になるのよ。どこかの国の王様と結婚するの

 母は素っ気なく答えていた気がする。

――お母様もジゼルも一緒に違うお城で住むの?

 椿宮の外をほとんど知らなかった自分はそれはそれで楽しそうだと思った。湖の側の大きなお城だとか、たくさんの動物が住むお城。絵本に出てきた様々なお城を思い浮かべるとわくわくした。

 だけれど、母やジゼルも一緒でないと、知らない所でひとりぼっちは恐いとも思った。

――いかないわよ。わたくしはこの国が好きだし、ジゼルもお前を女王にするためにこの国の貴族と結婚するのだもの。女王になれない子は、いらないからよその国へお嫁に行くのよ。

 そう言った母はお客様がくるから化粧を直さないといけないと、自分の側から離れていった。

 確か、その客人はトリュフォー侯爵だった気がする。

(そう、サリムの会ったのがその日)

 知らない国で知らない大人達に囲まれて、言葉もろくに通じなくてと考えているとたまらなく恐くなったのだ。大好きな椿の花を見ようと庭に出たはいいが、暗くて迷子になった。

(わたくしはこの国から離れたくないから女王になるの?)

 自問しても子供の頃と同じ感情は湧き出てこない。母やジゼルがいなくても自分はどこででも与えられた役目をこなしていく気がする。

 知らない大人に囲まれることも、母やジゼルが側にいない時間も慣れてしまった。言葉だってこの大陸のどこの国の言葉もきちんと話せる。

(サリム……)

 心に引っかかるのは小さな弟のことだった。

 サリムもひとりぼっちだったから、一緒にいてあげないとと思っていたのか。それとも自分がサリムがいないと駄目だったのか。

(サリムだってもう大きくなったし、女王にならないわたくしはいらないわよね)

 子供の頃からずっと女王の夫になると言っていたのだ。サリムは賢いし容姿も抜きん出ているから、自分がいてもいなくても一緒だ。

(ギデオン様と離れるのは寂しいかしら)

 アレクシアはポプリポットが会った場所へ目を向ける。今だって離れているけれど、そのうち会えると思うと朝が来るのが待ち遠しくなる。

 会えなくなることよりも、この気持ちがなくなってしまうのが寂しい。

 枕元に置いた初めての贈り物を眺める楽しみを失っただけでも、こんなにも悲しくてたまらないのだ。

 恋心をなくして朝を向かえるなんて、今は考えられない。

(夫人もこんな気持ちだったの?)

 アレクシアはドゥメルグ伯爵夫人のことを思う。

 いまだにドゥメルグ伯爵が夫人を殺害したか定かではない。使用人達は一様に夫人は自分から出て行って、その時伯爵は屋敷で就寝していたと言っているが証言としては信用に足りない。一方、命を取り留めたものの伏せっている伯爵はまだ一言もはなしていないそうだ。

 だが実際に現場を見たアレクシアは、夫人は自殺だっただろうとほとんど確信していた。

(ドゥメルグ伯爵も恋を失ったのかしら)

 彼もまた策を弄し多額の財を継ぎこむほどに夫人を手に入れたがっていた。その夫人はもう手の届かない所へ行ってしまった。

「アレクシア様、どうされました?」

 寝室にやってきたジゼルが近づいて来てアレクシアはびくりと肩を揺らし、なんでもないと身を翻す。

 その時、もう一度何か残っていないかと確認してみるものの、やはり床には何も落ちてはいなかった。


***


 椿宮に訪れたサリムは、ジゼルから花模様のポプリポットを受け取って眉を顰める。

「で、君が昨日わざと割ったものの代わりを僕から渡せということ?」

 アレクシアのお気に入りの贈り物をジゼルがつい割ってしまったというのは聞いたが、偶然だなんて全く信じていなかった。

 アレクシアがらしくない失態をした上にこの頃変に浮ついていると聞いて、ポプリポットがギデオンからアレクシアへの贈り物だとジゼルに教えた翌日に割れるなど、都合がよすぎる。

「わざとではありませんわ。偶然です。私が差し上げるよりサリム様が贈った方が喜ばれますでしょう」

「上手く宥めろって言いたいんだろう。まったく、わざわざ割らなくてもいいじゃないか。面倒くさいな」

 アレクシアがギデオンをまだ気にかけていると伝えるつもりだっただけなのに、変なことになったとサリムはため息をつく。

 贈り物に嬉しさを隠せずにいたアレクシアを思い出すと、わずかばかり罪悪感を覚えてしまう。

「……アレクシア様は恋などしない方がよいのです。ジャネット女王のようになってしまってはお可愛そうでしょう」

「恋狂いの女王か。まあそれは一理あるけどね」

 過去三人の女王で最も多くの夫と子を持った恋多き女王として知られるその名に、サリムは口を噤む。

 最初こそ彼女が望んで多くの夫を持っていたわけではなかった。最初の夫に入れ込んでいて、他に夫を持ちたくないがために王位継承選挙の根本を密やかに変えんとした。

 しかし目論見がばれ、しかもそれが夫の一族が政権を握るために画策したことだと露見したのだ、

 内々にその件は片付けられ、子供ができぬうちに最初の夫とは離縁となった。

 以来、裏切られて傷ついた心を埋めるように、彼女は本当に自分を愛してくれる者を探し求めた。だが誰もが子供ができるとすぐに離れていった。次第に偽りの愛でも幸せを感じたいと、一瞬の恋にのめり込んでいき夫を変える間隔を徐々に短くしていったという。

 市井や貴族達には恋多き女王として伝わっているだけだが、王室内ではまだこのことの教訓は生きている。

「女王の結婚に恋も愛も不要ですわ。バルザック卿のことはただ物珍しくて気になるのを、何か勘違いされていらっしゃるのよ。会わないうちにすぐに忘れますわ」

「そうだといいね。だけど荒療治でドゥメルグ伯爵夫人みたいなことになったら目も当てられないよ」

 恋などしない方がいいというのは、同意見だった。

 アレクシアは母のセシリアのように同時に複数の遊びの恋を楽しめる性格ではない。誰かひとりでも愛すれば、他に夫を持つことは苦痛にしかならない。

 かといって、引き離せばいいという単純なものでもないだろう。

 ジゼルはジゼルであまり恋愛事に興味がなさそうな上に、セシリアを身近で見ているのもあって単純に捕らえているのかもしれない。

「恐ろしいことを仰らないでくださいますか。アレクシア様はそんな愚かな方ではありません」

「僕もそう思っているけれど、今はドゥメルグ伯爵夫人のことが話題になっているし感化されるってこともなきにしにもあらず、だろう。だから、僕が馬鹿なことを考えさせないように気をつけるよ」

 ジゼルは取り澄ました顔をしていても、主君への侮辱と捉えて気に食わないと思っていることだろう。昔から彼女が自分のことを毛嫌いしているのは、薄々気付いている。

 どうせジゼルも他の者達と同じように自分を見下しているのだ。

 サリムは彼女を一瞥して別れ、アレクシアに贈り物を渡しに廊下の奥へ進んでいく。

「姉上、いいものを持ってきましたよ」

 そして椿宮の応接室のひとつで籐椅子に座るアレクシアに、ポプリポットを差し出した。

「あら、サリムが新しいのを用意してくれたの?」

「まあ。そんなところですよ。残念ながら最初の贈り物ではないですけれどね」

「ふふ。サリムから最初に貰ったのは苺のタルトだったわね。さすがにあれはずっと持ってはおけなかったけれど、ちゃんと覚えているわよ」

 アレクシアが新しいポプリポットを眺めて微笑む。最初にあげたものなど覚えていないので、彼女の言うことが正解かなんて分からない。

 今まで一体どれだけの贈り物をしただろう。

 リボンやブローチ、ネックレスにハンカチーフ。お茶やお菓子まであれこれ贈った気がする。そして彼女に贈り物をするのは自分だけではない。

 アレクシアが知らないうちにジゼルが処分したものまで加えると、きっと城がひとつふたつはぐらいは建つだろう。

(全然違うな)

 ギデオンから貰ったものを見ている時と、これまで贈り物を受け取った時とは表情がまるで違った。

 あの時は瞳を輝かせて微笑む口元からも、掌の上に置く仕草からも嬉しさが滲み出ていた。

 千の宝石を目にしても彼女はきっと同じ表情をしない。

「……アレクシア、バルザック卿のことは諦められそうですか?」

「諦める……? 何を諦めるのかしら?」

 惚けているのではなく本気で分からないといった様子でアレクシアが首を傾げる。

「アレクシアはバルザック卿を夫にしたいのですか、それとも票を入れさせることができればいいのですか?」

「夫にできて、票も入れてもらえたらよかったのかしら?」

 寂しげにアレクシアはつぶやいて、手元のポプリポットを見つめる。

「どちらにしろ、コルベール侯爵が諦めろと言うなら、諦めた方が無難ですよ。バルザック候のためにも。益のない人間には関心を持たないけれど、害になる人間には厳しい方でしょう」

 静かに諭すとアレクシアが何かに気付いた顔をしてうなだれる。

「そうね。そうだったわね。でも、心配しないで。きっとわたくしにギデオン様が票を投じてもらえる様にはできそうにないわ」

 そう言ってアレクシアは一瞬だけ表情を曇らせて、あとはいつも通り微笑んだ。

 サリムはまだ諦め切れてはいなさそうだとため息をつきつつ、しばらくはお茶やチェスをしに頻繁に通おうと決めた。


***


 それからさらに二日後、アレクシアは支援者のひとりに夜会へ招かれていた。他にも多くの貴族が集まり、夜会の主催が集めた新たな支援者との顔合わせのようなものだった。

 アレクシアは次々と支援者と挨拶を交わして、自分の役割をこなしていく。

 着飾った人々や、幾つも置かれた金銀の燭台で煌びやかに照らされた大広間を抱き込む形になっている両翼の大階段を上り、アレクシアは中央の踊り場で演説をすることになっていた。

 露出の少なくレースやフリルも控えめな杏色のドレスを纏い、その代わり大振りの装飾品をつけているアレクシアは大広間を見下ろす。

 悠然と微笑むと大広間は静まりかえり、アレクシアは演説を始める。

「……そうして、わたくしは子供達によりよい教育を与え、今や貴族や王族にとってもかかせない存在である、中流層をよりよきものに育てていき国を富ませていくことが、これからのメデリック王国に必要だと考えております。ゆくゆくは労働階級へも教育の普及を広げ、人材にも富める国へと成長させていきます」

 選挙参謀である伯父とふたりで考えた演説を一言一句間違えずに、アレクシアは支援者へ朗々とする。

「我らが未来の素晴らしき女王陛下に乾杯を」

 全てが終わると夜会の主催が杯を掲げ、他の招待者達も一斉に杯を持ち上げる。

(ギデオン、様?)

 光り輝く階下の景色を眺めていたアレクシアは、柱の陰でひっそりと杯を掲げるギデオンの姿を見つける。

 今すぐにでも階段を駆け下りていきたい衝動を抑え、ドレスの両端をつまみ一礼する。

(どうして、いらっしゃったのかしら。わたくしに会いにいらしたの?)

 その間にも胸の中はギデオンのことでいっぱいだった。

 階下に降りて夜会の主催と言葉を交わした後、アレクシアは再び周りに集まってくる招待客に少し奥の間で休息に取ると告げていそいそとギデオンがいた場所へ向かう。

「ギデオン様」

 声をかけて柱の影を覗き込むと変わらない真面目な顔でギデオンが頭を垂れた。

「お久しぶりです。素晴らしい演説でした」

 目の前にギデオンがいて、その声を聞けるだけで胸が高鳴った。

 今日のこの衣装は気に入ってくれるだろうか、もっと入念に化粧を確認しておけばよかっただろうかとそわそわしてくる。

 そうして貰った贈り物を壊してしまったことをどう告げたらいいか困る。だけれど貰った時の嬉しかった気持ちは伝えておきたかった。

「あの、ごめんなさい。せっかく頂いたポプリポットを壊してしまいました……とっても素敵で枕元に置いて眠って、疲れたときにも眺めたりしていましたのに……」

 嬉しかったことを思い出すと、なくしてしまったことの悲しさが一層増してきてアレクシアはしょんぼりとうなだれる。

「いえ、形ある物はいつか壊れるものです。お気に召して頂いただけで、私も嬉しく思います」

 ギデオンがおろおろと慰めてくれるの見て、アレクシアはどうにか気を取り直して彼がなぜここにいるのか問う。

「すでにご存じかも知れませんが、ドゥメルグ伯爵の件がおおよそ解決いたしましたのでご報告に参りました」

 堅苦しく言うギデオンに、アレクシアは人目が気になるので続きの間へと異動する。屋敷の侍女達が用向きを聞きに来るのも全て締め出し、用意されている小部屋でやっと落ちつく。

「でも、わざわざ夜会にいらっしゃるなんて招待状はどうされたのです?」

 今日の夜会の招待状は支援者ばかりに配られたはずだった。

「友人に頼んで手配して頂きました」

「まあ、そうでしたの。それで、ドゥメルグ伯爵は奥方を殺害してはおられないのでしょう。あれは自殺だったと思いますわ」

 アレクシアはまず結論から問うた。思った通り、自殺で間違いなかったとギデオンはうなずいた。

「夫人の愛人の臨時収入はドゥメルグ伯爵から得たものでした」

「弟君からではなかったのですわね。手切れ金といったところかしら。弟君は夫人の不貞に関してまるで関与していなかったということはないでしょう」

 ドゥメルグ伯爵の弟が偶然、夫人と愛人が知り合うきっかけとなった画商の顧客というのも、できすぎている気がする。

「ええ。伯爵が夫人を手に入れるのにウダール伯爵を陥れたのは事実のようです。以前から夫人のことを想っていたものの、夫人には見向きもされずそんな手段を取ってしまったと。そして予定よりもウダール家の損失が膨れあがっても、伯爵は財を投じて夫人と結婚した。それを弟君は知っていたそうです」

 ギデオンが一度言葉を切るのにアレクシアは少し考えて、ああとうなずく。

「愛人にいくらか渡して夫人に不貞をさせて、慰謝料として伯爵が投じた財を取り戻した後に、伯爵からも家督を奪う心づもりだった、といったろころかしら」

 黙って家督を譲られるのを待つより、兄が恋を叶えるのに投じた資産を取り戻して家督も手に入れようとしたというのは抜け目ない。

「不貞が明らかになれば、伯爵の目も醒めて嫡子も諦め家督を譲らせることができるだろうと考えたそうですが……」

「伯爵はどうしても夫人を手放したくなくて弟君の思惑とは逆に、お金を渡して夫人と愛人を引き離そうとしたのね。夫人の愛人が殺されたのは偶然でしたの?」

「ええ。弟君もふたりも死人を出してしまった上に、伯爵も自殺を図られて憔悴しておられるそうです」

 夫人の不貞程度ならドゥメルグ伯爵家はただの被害者ですんだのだろうが、こうなった以上はそうもいかない。あげく、家督争いに兄殺しの汚名までくっついてくるのも外聞が悪すぎる。

「……伯爵が夫人を殺したと仰ったのは、自責の念に駆られたからだったのね」

 無理矢理にでも恋を奪おうとして、夫人の命まで奪ってしまった。

「夫人の不貞が弟君の策略だと、伯爵は気付いておられたそうです。夫人が駆け落ちも考えていたのを知って、彼女の目を醒まさせようと愛人に金を渡し、しばらく旅行に行かせ夫人宛に一緒には行けないと書き置きを残させたそうです」

「夫人が出て行ってすぐに伯爵は追いかけはしなかったのかしら?」

「愛人が逃げたのを知って一晩もすれば、頭が冷えて戻ってくるだろうと考えていたそうです」

 しかし夫人は永遠に戻らず、彼もまた恋を失うことになったのだ。

「……伯爵は弟君が自分にしたことと同じだとお気づきにならなかったのかしら」

 弟は兄が一時の恋の熱に浮かれているのを、夫人に不貞をさせて我に返らそうとした。

 伯爵ものまた恋する妻を自分の元に戻すために、愛人が金で雇われたにすぎないと知らしめて目を醒まさせようとした。

 燃え上がった想いは、水を浴びせられたからといって単純に消えるものではないと伯爵自身は身を持って知っていただろうに。

「自分が愛している妻が、他の誰かを心から愛しているなど考えたくはなかったのかもしれません」

 ギデオンが腕を組んで静かに言う。

「伯爵は夫人の心は欲しくなかったのかしら? 夫人が手に入れたと思っていた愛人の心が偽りのものだと知って絶望した。伯爵は二度と夫人に会えないことに絶望されたのよね……」

 恋を失うというのはどういうことなのだろうか。そもそも愛することと恋の違いもよく分からない。

「手に入らずとも、せめて誰のものにもならないでいてくれれば、いつかはと希望を持つことだけでもできたのかもしれません」

「いつか……ああ、その気持ちはとても分かりますわ」

 アレクシアは自分の胸に手を当てて、ギデオンの硬い表情を見上げる。

 いつか彼に会えるかも知れない。その期待だけが朝を迎える楽しみで、今日という一日が期待はずれに終わってもまだ明日がある。

 永遠に繰り返す毎日でも期待を抱いている間だけは幸せだ。

「わたくしね、今、誰にも内緒だけれどギデオン様に恋をしているの」

 秘密の告白すると、彼は目を白黒させてそのまま固まってしまった。

「あの、王女殿下。その……?」

 そうしてしばらくの沈黙の後、ギデオンはあたふたと意味をなさない言葉を発したかと思うと、首元まで真っ赤になってまた硬直する。

 喜んでくれるかそれとも困らせてしまうのか、どちらかだと思っていたアレクシアは予想外の、だが最も彼らしいと思える反応に微笑んだ。

「わたくしも、最初はギデオン様の心を手に入れたいと思いましたけれど、今はそれよりもこの気持ちをずっと持っていたいと思っていますの」

 手に入らなくても、恋心さえ抱いていれば夜が続くことを望まなくてもいい。

「今なら、わたくし、女王になりたい理由がありますわ。女王になれなければ他国に嫁ぐことになって、あなたと永遠にこうしてお喋りすることもできなくなってしまうの。わたくしに票を投じて下さらなくても、ギデオン様はきっと大臣になるでしょう。そうしたら時々会って、お話ができるわ」

 政治の話しかできなくても、声を聞いて顔を見られれば満たされる気がする。

 だけれど、いつか彼を心から愛してしまったら欲しくなってしまうのだろうか。

「ずっとギデオン様に恋をしていたいから、女王になりたいではギデオン様は票を入れて下さいませんわよね」

 アレクシアが苦笑すると、次第に落ち着きを取り戻してきたギデオンは悲しそうな、困ったような顔をした。

「王女殿下、私は……」

 アレクシアは柱時計を見上げて席を立つ。

「ドゥメルグ伯爵の件も解決しましたし、こうやってゆっくりお話しするのは選挙が終わるまでは難しいですわね。サロンでお目にかかれることを楽しみにしていますわ」

 アレクシアは指先まで気を使ってお辞儀をして部屋を出る。

「王女殿下……」

 ギデオンが呼び止める声は聞かないふりをした。あと一秒でも一緒にいたらもう二度とこの部屋から出たくなってしまう気がした。


***

 

 夜会の翌日、ギデオンは十年ぶりに寝坊をした。

 今日は休日である上に昨夜屋敷に戻って来てやたら酒を飲んでしまったせいだろうか。使用人も気を利かせて起こさずに放って置いたらしい。

 時計を見れば朝八時。普段ならとっくに出仕して政務にあたっている時間だ。

 ギデオンはいつの間にか使用人が枕元に置いた水差しから水をコップに注ぎ飲み干す。

「俺は一体どうすれば……いや、その前に王女殿下は一体……」

 結局昨夜と変わらぬ悩みがまた口をついて出てきて、ギデオンは寝乱れた髪をかき上げる。

 アレクシアが、自分に恋をしたと言った。

 未だに信じられずあれは聞き間違いか、あるいは夢かと何度目かの自分の記憶の再確認をする。

 しかし何度確認してみても事実だった。いつものように愛らしく微笑んで、確かにアレクシアは恋をしていると告白した。

 その瞬間にアレクシアのこれまで見た中で最も美しい表情と、切ない声を思い出して動悸が激しくなる。

 何度も望んで夢想した瞬間だった。なのに喜びよりも戸惑いが勝った。

 なぜ彼女が突然自分に恋したのかさっぱり理由が分からない。両想いになれたからといって自分はどうするつもりだったのだろう。

(俺は王女殿下を妻に迎えたかった……)

 一目惚れした瞬間に夢想したのはこの寝室の下に見える中庭で、子供達に絵本を読み聞かせる姿だった。

 今でも自分は彼女に恋をしているのだろうか。

 昨夜だとてドゥメルグ伯爵の件の報告と同時に、曖昧な感情に見切りをつけたいという思いで友人に頼んで招待状を一通、都合をつけて貰ったのだ。

 アレクシアが見舞いの品を気に入ったと喜ぶ姿と、壊してしまったと酷く落ち込む姿、そうして幸せそうに恋を語る姿。

 どれも心を揺り動かされてしまった。なのに、まだこの感情を恋と認められない。

 だがしかしとギデオンは身支度を調えて馬車を呼ぶ。

 彼女の望みを叶えたいという思いだけに突き動かされて、訪れたのは主君であるバスティアンがいる牡丹宮だった。

 一枚の巨大な絵画と、華美な装飾がない白いテーブルセットしか調度品がない応接室へとギデオンは案内される。

「急な訪問、もうしわけありません」

「珍しいな、貴様が連絡もなしに俺の所にやってくるとは。昨日の夜会で何かあったか?」

「私が夜会に出席したことをご存じでしたか」

 出席者の中にはバスティアン陣営の者も潜り込んでいたらしい。

「ああ。お前とアレクシアがふたりきりで別室へ向かったと報告を受けた。で、貴様は何をしに行ったんだ?」

「ドゥメルグ伯爵の件が解決したとご報告しに行きました」

「まったく、律儀な奴だな。放っておけばそのうち向こうでも分かったことだろう。しかし、あやつもつまらん死に方をしたものだ。良い絵を描けば俺が何倍もの額をつけて買い取ってやったというのに」

 夫人の愛人の画才は本当に気に入っていたらしく、バスティアンがぶつぶつとぼやく。

「……その、殿下、今日はお願いしたき義がありまして参りました」

 ギデオンは緊張を漲らせてバスティアンと向き合う。

「なんだ、アレクシアに鞍替えしたいとか言うのではあるまいな」

「いいえ。私の忠誠は変わらず殿下に捧げております。殿下がご当選の暁には、ひとつ頂きたいものがございましてお願い申し上げに来たのです」

 膝の上に置いた拳を硬く握りしめて呼吸をひとつする。

「アレクシア王女殿下を我が妻に頂きたい」

 意を決して告げた言葉に対して、バスティアンはふうんと素っ気ない反応を示したい。

「どうしても欲しいというならやらんでもないがな。だが、アレクシアなら諸外国の王は喜んで貰い受けてくれる。俺の示すとおりにも動いてくれるだろう。外交の利用価値が山ほどある。それと同等の価値が貴様にあるのなら譲っらんこともない」

 バスティアンに条件を突きつけられてギデオンは返答出来ずに押し黙る。

 確かに今の自分にそんな価値はどこにもない。アレクシアが他国に嫁ぐのが国のための最善である。

「二年。まだ二年あります。その間に必ず殿下に認めて頂けるだけの価値を示します。どうかご一考下さい」

 しかしここで食い下がらずにはいられなかった。

「まあ、票集めの貢献具合も加味してやらんことはない。ひとつ聞きたいが、貴様がそんな血迷ったことを急に言い出したのはなぜだ」

 バスティアンに訊ねられ、ギデオンはアレクシアに告白されたことを正直に告げる。

「私は、王女殿下の望みを叶えてさしあげたいのです。ああまで言われて、引き下がることなどできません」

 あまりにもアレクシアの望みは無欲でいじらしく、護りたいと思わざるをえなかった。まだ彼女をほんの一部しか知らないけれど、その一部に自分が好意を抱いてる。

 美しい容姿でもなければ、他人が作り上げた理想の王女の姿でもないアレクシアの本来の姿に確かに心を動かされている。

 ならば妻に迎えるのが最善だ。

「本当にあと二年も続くと思うか? 案外数日したらけろっと忘れているやもしれんぞ。何しろ母親があのセシリアだからな。今は貴様に夢中になっていても、恋する楽しみを見いだしたら他の男にころころと移り気することもありうる。他所へ嫁いだら嫁いだで、幸せになるかもしれん」

 バスティアンが諭すと、ギデオンは自分の想いはともかくアレクシアの気持ちがどうなるか急速に自信がなくなる。

「貴様の勝手な思い込みと自己満足のためにアレクシアを娶りたいというなら、やめておけ。真実の愛か、一時の熱に浮かされているかどうかなんぞ、当人にすら分からんものだ。他人である貴様に分かるはずもないだろう。だいたい貴様、これまで女に求愛されたことすらないだろう」

 確かになかった。恋愛遊戯のちょっとした誘いかけも遊び慣れた女性が苦手で、まともに相手にもしなかったのだ。そしてここ数年は誘いすらかからなかった。

 女性にあんな風に告白されるのは、無論初めてのことだった。

「ですが、もしそれが真実だとしたら、私は後悔はしたくはないのです」

 ドゥメルグ伯爵家の不貞騒動は、誰ひとりとして他者の愛を信じられずに悲惨な結末を迎えた。

 あれほどの悲劇は起こることはそうないだろうが、いずれ何かの折りに後悔することがあるかもしれない。

「別に求婚されたわけでもないのだろう。アレクシアが貴様に一生片想いして、他の男共の子供を産むと覚悟しているならかまわんではないか。まずはアレクシアの意志を聞くのが先決というものだ」

 正論過ぎて反論の余地もなく、ギデオンはうなだれる。

「ふん。それはそれで覚悟しておかねばならんがな。コルベール侯爵に知られたら、貴様はただではすまんだろうしな。選挙に勝つためなら奴はなんでもするぞ。はめられて牢にぶち込まれても俺は助けてやらんからな」

 コルベール侯爵によって窮地に追い込まれた者がいるという噂は多い。それこそ不貞騒動で首を吊った者もいるという話もあるほどだ。

「俺に多大な貢献ができる自信と、コルベール侯爵を敵に回す覚悟ができたらアレクシアに求婚して俺の元にふたりで頼みに来い。話はそれからだな」

 バスティアンが、グラスにに入った水のような何かを飲み干して椅子に背を投げる。

「貴様も飲んでみろ、レモンの果汁と蜂蜜を冷えた水に混ぜたレモネードというやつだ。酔い覚ましいいぞ」

 どうやら昨夜深酒をしたことを見透かされていたらしい。

(この方には本当にかなわない)

 ギデオンは勧められるままにレモネードを口にして、その冷たく甘酸っぱい味に緊張を和らげる。

 だが酒酔いは覚めても、アレクシアへの想いはまだしばらく燻りそうだった。

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