翌日、アレクシアは落ち着いた若草色のドレスを纏ってギデオンを出迎えた。場所は昨日と違い、椿の生け垣が目の前に広がる中庭の四阿へ通す。

 花の盛りは過ぎて椿の生け垣は濃い緑に覆われているが、地面は色とりどりの花の絨毯が敷かれて華やかである。

「ギデオン様は時間通りにいらっしゃるのね」

 今朝届いた手紙にはギデオンらしい几帳面な字で三時に訪ねると認めてあった。

「何事も時間厳守を心がけております」

「ふふ。そんなに緊張なさらないで。ふたりきりなのですから」

 近くの別の四阿に侍女達が控えているものの、その姿は生け垣の影になって見えない。

「ふたり、きりですか」

 気を抜くどころかただでさえ固いギデオンの表情は、さらに険しくなってしまう。

「困ったわ。ギデオン様はどんなお話なら笑って下さるのかしら?」

 思えばギデオンの笑った顔はまるで見たことがない。いつも生真面目な顔をしているか困り顔のどちらかだ。

「……自分がどんな時に笑っているかは考えたことがないので」

「あら、そうですわね。わたくしもいつも笑っているからいつと言われると困りますわね」

 自分は基本的に人前では微笑んでいる。楽しくなくてもおかしくなくても笑顔でいるのが当たり前だ。自分が本当に笑っている時というのはよく分からない。

「王女殿下、ドゥメルグ伯爵家の件では」

 ギデオンが本題へ話を移して、アレクシアもそちらへ思考を切り替える。

「そうでしたわね。ギデオン様は何か調べて下さったかしら?」

「ドゥメルグ伯爵家の資産状況、奥方の実家の方も確認しましたが、ドゥメルグ伯爵家が困窮していることもなく、ウダール伯爵家から取れる土地財産もドゥメルグ伯爵家から見ればさしたるものにはなりません。愛人だけとなっても、ドゥメルグ伯爵にとって訴訟を起こす利点は少なそうです」

 財務官の役職から引き出せる情報により、賠償金目当ての謀略ではなさそうだとギデオンが淡々と述べる。

「わたくしの方ではここ半年ほどのサロンの記録をみましたけれど、以前は絵画に凝っていらしたみたい。月に二、三回サロンを開かれていて三ヶ月前から絵画の頻度が減って新聞に移ってらしたわ。必ず出席されていた貴族は四人。奥方が通っていたサロンに彼らがいたかは、まだ少しかかりそうですわ。ですが他にもうひとり、貴族以外で有力な候補がおりますわ」

「貴族以外というと従者などでしょうか」

「絵画と新聞の共通項は?」

 アレクシアの謎かけに、ギデオンは解答に詰るが一瞬のことだった。

「……絵ですか」

「そう。奥方、版画家のパトロンをされていたわ」

 貴族は見栄と趣味を兼ねてあらゆる分野の芸術家を支援する。最近の新聞は絵を入れるのが流行で、連載小説や記事の脇に簡素な版画が添えられていることが多く、版画家は人気がある。

 そのまま愛人関係になるのはよくあることだ。

「そうなると、賠償金に期待は出来ませんね。この件は放置しておいてもよろしいのでは?」

「ええ。わたくしもそう思ったのですけれど、ただその版画家のパトロンのひとりにバスティアンお兄様がいますの。気になるでしょう」

 ギデオンが視線を束の間思案するようにアレクシアから外す。

 少なくともこの件に関してバスティアンから、事前に何か聞いているわけでもなさそうだ。

「この一件にバスティアン殿下が何か関与されていると、王女殿下はお考えですか?」

「バスティアンお兄様は気まぐれで強運の持ち主ですから、ただの偶然でもなにかあるかもしれませんわ」

 時々突飛な行動をして人を驚かせる次兄の行く所では何かが起こる。

「……つい半年前も唐突に山登りがしたいと仰って、途中で温泉を発見なさいましたね」

「観光地としての開発に勤しんでおられてるそうですわね。あれで注目を浴びて得票を伸ばされたとも言われておりますわ。わたくしも選挙活動を行わなければなりませんから、今から出掛けて帰りに版画家の屋敷に行くつもりなのですけれど、ご同行くださるかしら?」

 誘いをかけるとギデオンが承諾したので、アレクシアは馬車を呼び寄せて王宮の外へと向かった。


***


 馬車に揺られること三十分。石造りの街並みが広がる王都の西部に立つ、古めかしい大修道院へギデオンはアレクシアと共に降り立った。

 ここは選挙権は持たない中流階級の子供達の学びの場である。三百人ほどを収容できる講堂の中には多くの母子がいた。

(やはり選挙活動だったのか)

 ギデオンはアレクシアが共も連れず教壇まで行くのに落胆する。

 アレクシアが大修道院へ時々訪れるのは有名だ。教壇に立って講義をするわけではない。彼女がドレスの裾をつまみ、お辞儀をすると行儀良く座っていた子供達が期待に瞳を輝かせる。

「さあ。今日はどんなことを学んだのかわたくしに教えて」

 ここでの生徒はアレクシアだった。子供達が順番に今日習ったことを発表していく。

 歴史や政治に数学、化学、文学。ありとあらゆる学問に大してアレクシアは真摯に耳を傾け、子供達がそれに対して何を思うのか訊ねる。

 そして子供達からの問いかけに答える時に自分の知識を分け与え、生徒から教師に立場を逆転させる。

 小さな子供とも真摯に向き合い教育に熱心な王女の姿がそこにはあった。

 これはアレクシアの理念に基づく行動かもしれないと期待していたギデオンだが、選挙活動と本人の口から聞かされては純真無垢な子供達が不憫に見える。

「王女様、わたしは歌を習ったの」

 最後の発表者らしい子供が立ち上がって可愛らしい歌声を披露する。そして一緒に歌うようねだられて、アレクシアも同じ歌を口ずさむ。

 アレクシアの澄んだ歌声に夏の夜空の美しさを讃える歌はよく似合っていた。

 やがては他の子供達が一緒に歌い出して、アレクシアの表情にも変化が訪れる。

 いつもの上品で楚々とした笑顔でなく、心から楽しげな、それこそ夜に煌めく星のような笑みを浮かべていた。

(票集めのためだけには見えないのだがな)

 ギデオンはついつい歌声よりもアレクシアの表情に魅入っていた。

 この瞬間が、彼女が心から笑っている時ではないのだろうか。

(分からない方だ……)

 どこまでも計算高い女の中に、無垢な少女が隠れ潜んでいる。それがアレクシアの最大の武器だと知っていても、気になるものは気になってしまう。

「ずいぶん、楽しそうでしたね」

 歌も終わり教壇から降りたアレクシアに声をかけると、彼女はにこりとする。

「歌うのは好きですわよ。ギデオン様は退屈なさらなかったかしら?」

「子供達が勉強熱心で感心しました」

 選挙活動というのが残念な所だが、向学心溢れる子供とはよいものだ。

「中流階級は王侯貴族が事業を始める時にとても有意義な関係を結ぶ相手ですから、その先を担う子供達が優秀に育つことは素晴らしいことですわよね。労働者階級との仲介としての役割が大きいですし」

 子供達に手を振って別れの挨拶をしながら、アレクシアが先に馬車へ乗り込む。

「投票権のない層も大切というわけですか」

「ええ……」

 アレクシアがうなずきながら、窓の外へ目を向けた。

 ギデオンもつられて見てみれば、帰りにつく母子の姿で溢れていた。父親が迎えにきて子供を抱き上げている姿もある。

 そんな何の変哲もないないありふれた光景を、アレクシアは魂が抜けきった虚ろな瞳で眺めていた。

 悲しみだとか喜びだとかいう感情はなく、本当に空っぽだ。

「王女殿下、どうされました?」

 ぜんまいのねじが切れた自動人形ような姿に不安を覚えて、ギデオンはアレクシアの手を握る。

 確かに温度があるのに、彼女はなんの反応も示さない。

「……わたくし、いつもあの子達が気になってしまうの。なぜかしら」

 そう言っている間もアレクシアの瞳はじっと仲のいい親子を映している。馬車が動いて見えなくなるまで彼女はそうしていた。

「子供がお好きなのでは?」

「……子供は可愛いですわね。泣いていても笑っていても怒っていても、何をしていても可愛いなんて不思議ですわね」

 アレクシアがゆっくりと微笑んで、やっと感情を取り戻す。そして自分の手に置かれていたギデオンの手に気付いて目をぱちくりさせた。

「あ、いや。申し訳ない」

 ギデオンはアレクシアが何か言う前に慌てて手を引っ込める。

「ギデオン様は子供はお好きかしら?」

「はい。一男一女はもうけたいとおもっております。それよりも多くできるならそれはそれでと」

「でしたら、わたくしが男子か女子を産んだ後に奥方をたくさん持てばよろしいですわ」

 にこにことアレクシアがこともなさげにそんなことを提案する。

 女王の夫は自由に他に妻を迎えることができる。理由は単純で、男王と違い伴侶が他の相手と子を成しても血統で混乱が起こらないからだ。それに、夫側の家にも跡継ぎが必要ということもある。

(これがこの方にとっての普通なのだろうが)

 ギデオンはさきほどアレクシアが見ていた光景をふと思い出す。

 女王も男王も子が産まれれば後の養育には関わらない。

 産まれた子は伴侶とその生家だけで育てるのだ。出来るだけ血を分散させるために子供ができれば、すぐに他の伴侶を寝所に迎え、子ができたらまた別の伴侶を迎えるの繰り返しだ。

 大修道院の前でアレクシアが見ていたごく普通の親子は、彼女がかつて手に入れられなかった子供時代で、そして即位すればけしてなれない親の姿だ。

 空っぽにみえた彼女は自分自身ですら知らないだろう心の奥底で何を思い、彼らの姿を眺めていたのか。

「妻は、ひとりで十分です」

 ギデオンは答えながら普段通りのアレクシアに目を細める。

 美しく賢才な王女が心惹かれるものが、ありふれた親子の光景というのは傷ましく思えた。

「まあ。ではわたくしが子供を産んだらすぐに離縁して、新しい奥方をお迎えになってたくさん産んでいただかないといけなせんわね」

 すっかりいつもの調子でアレクシアが楽しげにそんなことを言う。

 彼女の笑顔がどこか歪つなものに見えてギデオンは目を伏せる。やがて馬車が小さな屋敷の前で止まる。

「……例の版画家の屋敷ですか」

 すっかり忘れていたが今日はその目的もあったのだとギデオンは思い出す。

「ここは元々バスティアンお兄様のお屋敷で版画家に貸しているそうですわ」

 御者が扉を開けアレクシアが先に降りて屋敷の入り口を見て首を傾げる。

「開いていますね……王女殿下」

 屋敷の扉は半開きだった。アレクシアがそのまま気にせず中へと入っていくのをギデオンは追う。

「使用人もいらっしゃらないのかしら」

「この程度の規模の屋敷ならひとりかふたりはいそうですが……」

 さすがにバスティアンの持ち物らしく家の設えはいい。一見すれば小貴族の屋敷だが家の中はインクや薬品の臭いが染みついている。しかし人の気配も全くない。

 税務担当をしている職務柄もあってじっくり屋敷の調度品を鑑定していたギデオンの視界から、アレクシアがいつの間にか消えていた。

「王女殿下、どちらにいらっしゃるのですか?」

「こちらですわ。……まあ。大変。ギデオン様、ドゥメルグ伯爵夫人が首を吊ってらっしゃるわ」

 廊下の奥でアレクシアが穏やかに物騒なことをつぶやいて、ギデオンは慌ててそちらへ行く。

 寝室の天井の梁から確かに女の体が吊り下がっていた。

「もう亡くなっていらっしゃるわね」

 ただそれよりも悲鳴をあげることもなく、透明な表情で骸を眺めるアレクシアに薄ら寒いものを覚える。

「王女殿下、馬車にお戻りになって憲兵を手配して下さい」

「ええ。……物語のように連れ出してはくれなかったのね」

 アレクシアが床に落ちている手紙に目を落とす。

 そこには一緒には行けないと一行だけあった。


***


 ドゥメルグ伯爵夫人の遺骸はあれからすぐに、生家のウダール伯爵家に引き取られていった。夫人の書き置きや家を出る手伝いをした侍女の証言もあり、不貞が表沙汰になりそうで駆け落ちの予定だったが、相手に逃げられた末の自害でことは終わりそうだった。

 夜にその報告を受けたアレクシアは酷い倦怠感に悩まされていた。

「アレクシア様、お眠りになってはいけませんよ」

 大理石で作られた熱の籠もる浴場で、たっぷりと薔薇の花を散らした丸い湯船に体を沈め半眼を伏せているとジゼルが苦笑する。

「眠たいけれど、なんだか眠れそうにないわ」

 体も頭も重いし、瞼も重いけれど眠気は遠い。

「今日はドゥメルグ伯爵夫人のことがあったからでしょう。道を外した者の憐れな末路です。見たものは忘れて、愛がいかに人を愚かにするかだけ心に刻んでおきましょう」

 アレクシアの濡れた髪を撫でながら、ジゼルが優しく微笑む。幼い頃から付き従ってくれるこの従姉は自分にとって姉同然で、こうして優しくされれば気分が和らぐ。

 それでもまだけだるさは取れない。

「なぜ彼は奥方を置いて逃げてしまったのかしら」

「彼にとって奥方はパトロンでしかなかったのですわ。本当にお疲れですね。いつもならこんな簡単なことはすぐにお分かりになるのに」

 ジゼルが苦笑するのをどこか遠くに聞きながら、アレクシアはドゥメルグ伯爵夫人の姿を眼裏に浮かべる。

 たったひとつの愛を得られないことが、命を投げ出すほどの絶望になるのか。

 そこまで愛されてなぜそんなにも簡単に見捨てられたのか。

(彼女を見限った彼に報いはないのかしら)

 不合理だと思いながらアレクシアはのぼせてきて湯船から上がる。白い素肌をジゼルや他の侍女達が浴布で覆い、丁寧に髪や肌から水気を落としていく。

 真っ白い夜着に着せ替えさせてもらい、改めて新しい浴布でジゼルに髪を乾かしてもらう。いつもは髪を梳いてもらっている間に、うとうとしてくるのに一向に眠気はやってこない。

 代わりに浮かんでくるのはいつも帰り際に眺める大修道院の前の子供達だった。

(あの子達は幸せそうだったわ。あの子達のお母様とお父様も) 

 彼らの間には愛が存在しない風にも見えない。

(子供が好き……)

 ふとギデオンに言われたことを思い出して、アレクシアは首を傾げる。確かに子供は好きだ。ジゼルの五つになる息子に会える日は、それだけでわくわくしてしまう。

 なぜ代わり映えしない光景を毎回魅入ってしまうのか、当たらずも遠からずという気がした。

 胸の中でぐるぐると訳の分からないものが渦巻いてきて、アレクシアは夜着の裾を掴む。

「……ジゼル、サリムを呼んで。今日はサリムと一緒に寝るわ」

「添い寝なら私がいたしますよ」

「サリムがいいの」

 時々、こういう倦怠感を覚えて気持ちが塞いでくるとサリムと一緒にいたくなる。

「あまり、殿方と寝台に上げて朝まで過ごすのはよろしくありませんわよ」

「サリムはわたくしの弟だもの。だからいいの。呼んできて」

 駄々をこねるとジゼルが渋々といった体で他の侍女にサリムを呼びに行かせる。

 その間に支度をすっかり調えて、アレクシアは寝台に上がり枕を抱えながらじっと弟を待つ。

 サリムのいる薔薇宮はこの椿宮のすぐ隣だから、そう遠くはない。

 なのに待つ時間がとても長く燭台の火が燃える音が耳について、アレクシアは抱えた枕をきつく抱きしめる。

「僕ももう寝るところだったのですけれどね、我が儘な女王様」

 そうしてやっとサリムがやってきて、アレクシアは枕を離して代わりに寝台に上がってきたサリムの頭を胸に抱く。

「遅いわ」

「急ぎました。今日は大変でしたね」

「大変だったけれど、明日考えるわ。……サリムは大きくなってしまったわね」

 アレクシアはすっかり自分より背丈も肩幅も大きくなってしまったサリムの、今は下ろしている髪を撫でる。

 初めて抱きしめたときはもっと小さかった。

 あれはちょうどサリムの母が身罷ってすぐだ。

 真夜中に遅咲きの椿と早咲きの薔薇が混じる椿宮と薔薇宮の境で、泣いているサリムと遭遇した。その時自分も泣いていた。

 学んだことは覚えているけれどそれ以外の子供の時の記憶は曖昧で、自分が部屋を抜け出しあんな所で泣いていたのか覚えていない。単にこっそり冒険に出て迷子になっただけかもしれない。

 とにかくサリムは泣いていて、疲れて眠ってしまうまで抱きしめて一緒に泣いたことを覚えている。

「大きくなりました。約束したでしょう。大きくなったらアレクシアと一番最初に結婚すると」

 サリムがそのまま体重を預けてきて、アレクシアは寝台に倒れ込む。自分を組み敷いて見下ろしてくるサリムは子供の頃と変わらず綺麗だが、昔のように女の子みたいだとは言えない。

 自分が好きに抱きしめていられた弟でなくなってしまったと思うと、ほんの少し寂しくなる。

「……わたくしね、子供が好きかもしれないわ。他人の子供が可愛いなら、自分の子供も可愛いかしら。サリムとの子供なら見た目はすごく可愛いのだと思うのだけれど」

「それなら、子供ができたら毎日アレクシアの所へ連れていきますよ」

 サリムがアレクシア体を離してそのまま添い寝する姿勢を取る。

「サリムはいい子ね。……時々、朝が来なければいいと思うのはなぜかしら」

 眠ってしまえば朝はあっという間にくる。眠らなくても緩やかに明日は訪れる。

 永遠に寝台の中で丸まっていたいと思っても叶わない。

 夜になって朝からのことをぼうっと反芻している内に、明日も同じ一日が待っていると思うとなぜだかたまらなくそのことを拒絶したくなるのだ。

 甘いお菓子、美味しい食事、綺麗なドレスと宝石。そして尽くしてくれる優しい人達に囲まる日常の、一体何を拒んでいるのか自分では分からない。

「僕も醒めない夢をずっと見ていたい時があります」

「どんな楽しい夢を、サリムは見ているの?」

「……内緒です。どんなに願っても朝はくるんですから、しょうがないことを考えていないでできるだけ長く眠りましょう」

 窘めるというよりも慰める口調でサリムが手を繋いできて、アレクシアも指を絡める。

 ジゼルや母にもなんとなく訊けない疑問は今日もうやむやだった。答がどうしても欲しいというわけでもなかった。

 答を知っていそうなサリムが側にいてくれると、初めてサリムと出会った時と同じひとりぼっちではないという安心感があった。

「……愛してはいないけれど、サリムのこと好きよ」

 額に口づけを贈ると、サリムは握った手の甲に唇を寄せる。

「僕もアレクシアのことは愛してないけれど、好きですよ」

 互いに秘密を打ち明けるように言って見つめ合った後、ふたりは笑い合った。


***


 翌朝、アレクシアは選挙活動と自領の視察のために遠出をするサリムを見送って、自分も政務をすることになった。

 持っている領地の財政状況を見直し、自陣営の貴族達に書簡を認めて票を逃さないように関係を固めて、夫候補からの贈り物と恋文に返信を出してと机にかじりついているだけであっという間に昼になった。

「アレクシア様、バスティアン殿下からお茶の誘いが来ています。昨日の件でもお話ししたいとのことです」

 テラスで昼食を終えた頃にジゼルがそう言ってきて、アレクシアはうなずく。

「午後の予定は空いているから出席しますとお返事して」

 今日は毎回訪れていた絵画サロンに出席する予定だったが、昨日のことは噂としてあっという間に広がったらしく、主催者から無理をせず欠席して気を休めるといいと、気遣いの手紙をもらっていた。

「やっぱり何かあるのかしら」

 食後の紅茶を啜りながらアレクシアは首を傾げる。

 バスティアンから話を持ちかけてくるとは裏があるのかもしれない。衣装はいつ来客があってもいいように、リボンで飾られた淡い紫のドレスを来ているのでこれで十分だろう。

 アレクシアは短い休息を終えて政務の続きに移る。そして約束の時刻が迫って椅子から立ち上がった時、ふっと目の前が暗くなった。

「アレクシア様、どうされました?」

「いいえ。なんでもないわ。では、行って参ります」

 しかし一瞬のことだったのでさして気にも止めずに、アレクシアはジゼルに笑いかける。 そして椿宮からバスティアンの住まう牡丹宮へ、広い王宮内の往き来に使う一頭立ての馬車で移動する。

 寝不足と言うほど眠れていないわけでもないが、馬車の揺れに眠気を誘われてうつらうつらしてしまう。

 瞼が下がりきる前について案内された、牡丹宮のテラスにはバスティアンの他にギデオンの姿があった。

「あら。ギデオン様もいらっしゃったのね。お兄様、教えて下さればよかったのに」

「ふたりきりとは言ってなかっただろう。昨日の一件に関してといったのだからギデオンがいてもおかしくない」

「……ええ、そうですわね」

 確かにおかしくないのだがと、王子と王女の間に座らされて居心地の悪そうなギデオンを見る。

「さっそく本題といこうか。あの版画家、殺されたぞ。物盗りらしく、上着からベルトに靴まで盗まれていたそうだ。顔見知りの新聞記者が確認して昼前に身元が分かったらしい。明日の新聞の一面だ。夫人と駆け落ちしていた方が美談ですんだな」

 さして面白くなさげにバスティアンが言う。

「お兄様、夫人と彼のことはご存じでしたの?」

「いや、知らん。あやつの絵が気に入ったから屋敷を貸してやっただけだが、とんだ迷惑を被った。俺に一言も告げず三日前にはすでに家を出ていたらしい。新聞小説の挿絵が変わっていたから近いうちに会いに行く予定だったんだがな」

「お兄様はなぜそんな方にお屋敷をお貸しになりましたの? わたくしの陣営と関わりある方だったから?」

 その版画家の作品は新聞以外に小説の挿絵としても見たこともあるが、確かに素晴らしかった。しかし選挙を控えている今は、裏があるのだろうかと勘ぐってしまう。

「単に気に入ったからだ。俺は王位についてこの国をもっと派手にする気だからな。芸術品から服飾までこの国を大陸の流行の中心にしてやる。その基盤になる財政のために、このギデオンは側近候補としてお気に入りというわけだ」

 にやりとバスティアンが堂々と宣戦布告してきてアレクシアは眉を上げる。

「わたくしもギデオン様はお気に入りですのよ。ギデオン様はわたくしとお兄様、どちらがお好き?」

 アレクシアが問いかけると、ギデオンはバスティアンと彼女の顔を交互に見ながら顔を強張らせる。

「……まだ決めかねているところです。それより、その物盗りは捕まったのですか。何か裏があるからお呼びになったのでは」

 そしてギデオンが返答を躱してバスティアンに向き直る。

「いや。まだだ。裏があるかどうかも分からん。もう少し探りを入れなければならん」

「ドゥメルグ伯爵はわたくしの陣営のことですから、わたくしの方で調べますわ」

「俺も一応関わっている以上は、何があったかは知りたい。そう俺が足を引っ張られる事案でもなくとも、そちらは不都合が多そうだが」

 バスティアンがクッキーをつまんで、呑気な態度でそう言う。

「そこまで大きな不都合にもならないと思いますけれど……誰かの策略でしたら伯爵夫人も報われませんわね」

 たったひとりで絶望したドゥメルグ伯夫人の最後の姿がアレクシアの脳裏で揺れる。

「……ドゥメルグ伯もやりきれないでしょう」

「ええ。せっかく資金援助をして、若い奥方を迎え入れられたのに跡継ぎももうけられないなんてご不幸ですわ」

 重苦しく言うギデオンにアレクシアは同意してみせたが、彼はなぜかとても複雑そうな表情をしていた。

「アレクシア、ギデオンは妻に未練があったのかってことを言いたいんだ。こやつはそこらの小娘より愛や恋に夢をみているからな。馬を相手に愛の詩を捧げる練習をするぐらいに」

「で、殿下! なぜそれを知っておいでなのですか!」

 ギデオンが真っ赤な顔で慌てふためくのに、バスティアンが吹きだした。

「本当にやっているのか、貴様は」

 墓穴を掘ったことに気付いたギデオンは声もなく、がっくりとうなだれる。

「ギデオン様は馬に似た方がお好きなのです?」

 傍らでアレクシアはギデオンの女性の好みについて新しい発見したと、興味深く彼を見つめる。

「アレクシア、貴様も大概呆けているな」

「まあ。わたくし呆けてなどおりませんわ。お兄様ばかりギデオン様と仲良しで狡いですわ」

 バスティアンの呆れた声にアレクシアは唇を尖らせる。

「ふふん。この俺から奪えるものなら奪ってみろ」

 芝居がかった口調でバスティアンが傲然と言い放った。

「…………用件が済んだのなら帰ってもよろしいでしょうか」

 赤くなったり、無表情で沈黙したりと静かに忙しいギデオンが言って、兄と妹は他愛のない会話を止める。

「待て。貴様が何を気にしているか話せ。何か考えがあるのだろう」

 バスティアンが引き止めて、アレクシアもギデオンに視線を移す。

「ドゥメルグ伯爵がウダール家の令嬢と婚姻を結ばれたにしても、益が薄い気もするのです」

「妥当だとわたくしは思いますわ……ドゥメルグ伯爵は前の奥方の他にも愛人が何人かいらしたそうですけれど、おひとりも嫡子を授かっておりませんわ。ドゥメルグ伯の方に問題がある可能性も高いですし、彼と婚姻を結んでも跡継ぎができなければ利益なんてありませんでしょう。後妻になる方もそのために見つかりにくかったらしいですし」

 アレクシアがそう言うと、バスティアンも同意見らしくうなずく。

「跡取りを産んでくれそうな、爵位だけでも釣り合いの取れる若い結婚相手自体、ドゥメルグ伯には見つけにくかっただろうからな。そこで事業に失敗して家は傾き、娘に持参金すら持たせられないウダール伯家はちょうどよい物件だ」

「そうですわね。取引としては成立しているのではありませんか?」

 アレクシアが小首を傾げると、ギデオンは渋い顔をする。

「取引、ですか」

「結婚なんぞ、利害関係が最優先だろう。アレクシアに求婚する欲に目が眩んだ阿呆が多いのがいい証拠だ」

「あら。彼らは票を入れてくれるよい方々ですわよ。沢山票を集めてくれて、国益になる優秀な方も多いですし。わたくしはそのお返しに次の王位継承者候補の子供を産んでさしあげますの。よい取引でしょう、ギデオン様」

 にこにことアレクシアはギデオンに同意を求める。

 彼にとっても自分の夫となることはよい取引のはずだ。地位も名誉も、そして王位継承者候補の実子が持てるのだ。

「まあ、俺が貴様の立場ならアレクシアの夫となるな。幸い見かけも悪くない。多少容貌が難ありでも、金の卵を産んでくれるなら目を瞑れるしな」

 ギデオンが返答に窮していると、バスティアンが代わりに答えた。

「美的感覚に優れたバスティアンお兄様がお褒めくださるなんて嬉しいですわ。でも、王女を金の卵を産む鶏に例えるのは不思議ですわよね。産んだ時点では金かどうかなんてわからないのですもの」

 王女を金の卵を産む鶏に見立てるのは昔からだが、最終的に王位につける本物の金の卵はひとつしかない。

「俺ならば確実に純金に仕立て上げるぞ。だが、ギデオンにこれは難しいか」

 バスティアンが含みありげに言って、アレクシアは首を傾げる。

「ギデオン様は子供の教育に自信がありませんの?」

「いえ、そういうわけではありませんが……」

 ギデオンもよく分からないらしく、主君に戸惑った視線を向ける。

「後でゆっくり考えるんだな。それで、貴様はドゥメルグ伯爵の婚姻について、気になる理由はなんだ」

 話題が元に戻って、ギデオンが深刻な面持ちでうなずく。

「ドゥメルグ伯爵にご事情があったにしても、ウダール伯爵家への支援には益が少なすぎると思うのです……。もしかしたら、以前より妻に迎え入れるお心づもりだったのではと。訴訟も離縁もせずに家に閉じ込めていたというのなら、その可能性もあるのでないかと、確かな根拠のない憶測にすぎませんが……」

「ギデオン様は、ウダール伯爵家の事業の失敗自体が、ドゥメルグ伯爵がご令嬢を迎え入れるための謀略ではとお考えなのですね」

 あり得ないことではないかもしれないと、アレクシアは首を縦に振る。

「ならばそこから調べるのも手だな。何か分かったら俺にも知らせろ。情報が必要なら好きに聞け」

「それならさっそく戻って調べを入れさせますわ。このままギデオン様もお連れしてよろしいかしら」

「かまわん。好きにしろ」

 当のギデオンの予定などお構いなしに兄妹は勝手に決めて、お茶の時間はお開きになる。

「では、ギデオン様、椿宮に……」

 笑顔でアレクシアは立ち上がるが、目の前が完全に真っ暗になる。

 立っていられなくなりその場にしゃがみ込むが、体勢を上手く取れず背中から倒れかける。

「王女殿下!」

 側の椅子に体を打ち付ける前にギデオンが背に腕を回し支えてくれた。

「どうした。寝不足か。それとも腹が減っているのか。月の触りか。……まさかつわりか」

 まるで動じる様子もなくバスティアンが問いかけてくるのに、アレクシアはどれも違うと弱々しく首を横に振る。

「殿下! 妹君がお倒れになった時までご冗談はおやめ下さい!」

 ギデオンがひどく憤って主君を怒鳴りつける。

 バスティアンが巫山戯た態度を取るのはいつものことだというのに、なぜこんなにも恐い顔をしているのだろう。

 アレクシアはやっとはっきりしてきた視界に映る、ギデオンの険しい表情を不思議に思う。

「……王女殿下、大丈夫ですか?」

「ええ。申し訳ありません……」

 自力で立ち上がろうとしたものの、ドレスがやけに重く感じてアレクシアは動けなかった。

「失礼、いたします。バスティアン殿下、王女殿下がお休みになれる部屋をお借りできますか」

 ギデオンが不安そうに眉根を寄せて、アレクシアを横抱きにして抱え上げる。

「客間を貸してやる。うちの有能な侍女達についていけばいい。すでに医者も呼びに行って、椿宮にも使いが出ている」

 バスティアンが顎で示す先に控える侍女達の元へギデオンが異動する。

「ギデオン様は力持ちですのね」

 なんなく自分の体を軽々と持ち上げているギデオンを見上げ、アレクシアは薄く微笑む。

 ごつごつと固い腕や体だが、不思議と不快さは感じない。むしろ安心感を覚える。

「……鍛錬はかかさずしていますから」

 いつもと違いギデオンの表情は硬いままだ。

 客室の寝台に下ろされて、アレクシアはそのまま横になる。そうすると体の疲労をまざまざと感じて、ぐったりと寝台に沈み込む。

「王女殿下、お加減はいかがですか?」

「なんだかとても体が重いですけれど、心配するほどのことでもありませんわ」

「昨日は色々あってお疲れなのでしょう。ドゥメルグ伯爵夫人の一件も気丈に振る舞われていたので、あまり気遣えず申し訳ありません」

 真面目にうなだれるギデオンにアレクシアは微笑む。

「お気になさらないで。わたくしも昨夜から体調が思わしくないのを、甘く見ておりましたから。睡眠と食事と休養はきちんととっているつもりですのに、見直さねばなりませんわね」

 体調は万全に整えないといけないので、睡眠は最低でも六時間はとっている。それに食事は使用人達が完璧に整え、政務もどうしても自分がしなければいけないこと以外は他の者にさせている。

 これ以上は怠惰という気もするが、ジゼルと話し合わねばならない。

「……お心は休まれておいでですか?」

「心?」

 ギデオンの言うことが抽象的でよく分からず、アレクシアは鸚鵡返しにする。

「公務や選挙のことをお考えにならならい時間がありますか?」

「眠るときは何も考えませんわ」

 答えながらアレクシアは自分の胸の内に意識を向ける。

 そもそも心というのがなんなのかよく分からない。喜怒哀楽という感情というのなら、どれもぼんやりしていて掴所がない。

 楽しいことも腹立たしいことも、悲しいことも嬉しいことも違うはずなのに、全部一緒に思える。本当に自分がそれらの感情をちゃんと持っているのかも疑わしい。

「王女殿下、大丈夫ですか?」

 目を伏せていると、ギデオンが気遣わしげに顔を覗いてくる。

「ええ。ギデオン様がわたくしの夫になって下さると仰ったら、少し考えることが減るかもしれませんわ。わたくし、あなたが欲しいものは全部揃えてみせますのに」

 アレクシアは無意識のうちに話題を変えてギデオンを見つめる。

「……私は無欲ではありません。地位も名誉も欲しています。ですが、それ以上に誇りを持ちたいと思っています。心より敬服できる主君に仕え、認められることを望みます」

「わたくしはあなたの敬服に値しないの?」

 不快感は一切なく、アレクシアはあどけない口調で問う。

「王女殿下は是が非でも王位を手に入れ成し遂げたいことがおありですか? 王位を手に入れて、ご自身は一体何を手に入れるおつもりですか?」

 質問の答は出てこなかった。

 政策の方針は伯父が全部決めている。それを成し遂げたいかと言われれば、さして興味はなかった。

「わたくしが手に入れるもの……?」

 考えたことがなかった。王の子に産まれたのだから、次の王になるのは当然のことなのだ。

「もし、王女殿下は王位を得られなかったらどうするおつもりですか?」

「……万一、王になれなかったら他国へ嫁いで、その国の次の王となる子を産むのでしょう」

 そういうものだと過去の歴史で学んでいる。王女は次の王を産むものだ。もしそこで世継ぎを産めなければ、それこそ何の役にも立たない無価値なものに成り果てると、教師から教わっている。

「王女というのは王を産むために存在するのでしょう」

 何も返答をしないギデオンへ言葉を重ねると、彼は困った顔で視線を彷徨わせる。

「私には貴女に出会った時、欲しいと思うものがひとつありました。貴女が王女でなくとも、それがあれば私には十分に思えるものでした」

「王女でないわたくしがギデオン様に差し上げられるものなんてあるのですか?」

 自分から王女という地位を取り除いたあとに一体何が残るというのだろうか。容姿ならいずれ衰えてなくなるものだし、美しい女性なら自分以外にも多くいるだろう。

「貴女の、お心が欲しいと思っていました。私はアレクシア様から唯一無二の愛が得られればと願いました」

 全て遠い過去のように語るギデオンは恥じらいも見せずに、寂しげだった。

「……今は思っておられませんの?」

 そんなものは存在しないから、手に入れられないと諦めたのか。

 どのみち欲しいと言われても自分ではどうにもならないので、仕方ないことでもあるのだが。 

「わかりません。貴女に初めてお目にかかったときの気持ちを今も持っているのか私自身、分からなくなっています」

 なにひとつ誤魔化すことなくギデオンは本当に苦悩しているらしかった。

 こんなにも真摯に悩むことなのかと未知のものを見る気分でいる一方で、自分まで息苦しくなってくる。

 手に入らないなら諦めてしまえばいいのに。

 他人事のように思いながらも、ギデオンの関心が自分から綺麗に消えてしまうと思うとまた息苦しさはつのってくる。

「……ギデオン様、侍女を呼んでくださるかしら。コルセットを緩めたいの」

 きつく体を締め付けるコルセットを緩めれば、この息が詰まる感覚も少しは和らぐかも知れないとギデオンに懇願する。

「承知しました。では、失礼いたします」

 ギデオンが硬い表情のまま退出して、入れ替わりにやってきた侍女にコルセットを緩めてもらう。

 それで体は幾分楽になったが、ただ体とは違うどこかは変わらず息苦しいままだった。


***


 アレクシアは医者に軽い疲労だろうと診断を受けた後、椿宮に戻ってすぐに夜着に着替えさせられ寝室へ連れて行かれた。

「ご体調が優れない時は私めに真っ先にお申し付けください」

 傍らに控えるジゼルが心配そうに言うのに、アレクシアはうなずく。

「……ジゼル、わたくしはなんのために女王になるのかしら?」

 ギデオンとの会話はまだアレクシアの中で尾を引いていた。

「アレクシア様が王女にお生まれになったからですよ。どうされたのです、そんなことをお聞きになるなんて」

「ジゼルはわたくしに女王になって欲しい?」

「ええ。もちろん。私はアレクシア様がお生まれになった時から、立派な女王陛下になられるようにお側に仕えているのですから」

 ジゼルが幼い頃と変わらない笑みで、アレクシアの髪をなでる。

「わたくしが女王になったらジゼルは嬉しい?」

「ええ。アレクシア様のようにお美しく聡明な方が王位に就くのは素晴らしいことですもの」

 伯父や母、周りの誰もが自分が玉座を得ることは素晴らしいことだという。

 しかし、自分にとって唯一理解出来ないことでもあった。なぜ自分が王になることがいいことなのか分からない。

「わたくしにとっても素晴らしいこと?」

「それ以上にアレクシア様にとって良いことはありませんわ。本当に今日はどうされたのです? バスティアン殿下に意地悪なことを言われましたか?」

「……いいえ。そうではないのだけれど」

 アレクシアはギデオンのことを口に出しかけてやめる。なぜか彼の欲しいもののことは内緒にしておいた方がいい気がした。

「明日はご公務もお休みして、サリム様がお戻りになったら一緒にお茶でもいたしましょう」

 ジゼルが優しく言うのに、アレクシアは今日はサリムがいないことを思い出して表情を曇らせる。

 できれば今夜も一緒に寝たかった。

「お母様は今日は別邸よね。明日、怒られてしまうかしら」

 母は王都内に伯父が用意した屋敷を持っていて、そこで過ごすことも多い。今夜は愛人の誰かと一緒だろう。

 母がそうやって票集めに腐心しているのに、自分はギデオンを引き込むこともできないどころか寝台に伏せってしまっている。

「大丈夫ですよ。アレクシア様の体調管理は私どもが仰せつかっていること。お小言を聞くのは私の役目ですから、安心して今日はもうお休み下さい」

 ジゼルが微笑んでアレクシアは瞳を閉じる。

 体は思った以上に疲れていたらしく、その後は何も考えずに深い眠りの中に落ち込んでいった。


***


 ギデオンはアレクシアの部屋から出て、バスティアンと少し話をしたのちに屋敷に戻った。

 帰ると両親と、嫁いで遠方にいる妹からの二通の手紙が届いていた。皆、つつがなく過ごしているらしい。

 父は黙々と現況を書き連ね、その淡泊さを埋めるように母が生き生きと領地の景色や父との仲睦まじい様子を認めてある。

 妹の方は王都の流行を訊ねる内容や、それなりに上手く夫とやっていて半年前に産まれた甥もすくすく成長しているとの報告やら、送って欲しい本やらと、落ち着きがない。

 ドゥメルグ伯爵夫人のことがあってすぐなので、妹が婚家で平穏な生活をしているというだけで安心する。

 貴族同士の結婚は利害関係の取引であるのは重々承知している。

 しかし間近で仲睦まじい両親の姿を見ていると、最初はただの取引であってもよい夫婦にもなれると信じられるし、自分もいずれそうありたいと願ってしまう。

(……ひとりはやはり少し寂しいな)

 家族からの手紙を読んでいると、屋敷の静けさが身に染みる。

 ギデオンは書庫へ行って妹の欲しがっている本を取り出す。後はこの頃流行の小物でも一緒に送ろうかと考えるが、女性の好みなど一切分からない。

 誰か流行りに詳しい女性に話を聞いて、と手紙にはあった。

(いや、あいつの魂胆はそれだろうが)

 いつまでも女慣れしない兄を心配して妹はこれまでもあれこれ画策していた。

「王女殿下はお詳しいだろうが……」

 ギデオンはつぶやいて眉根を引き絞る。

 医者は軽い疲労だと言っていたものの、アレクシアの容態が気になった。


『聡いようでいて、自分のことはまるで分からない阿呆だからな』


 バスティアンは倒れた妹を気づかうどころか、そんな辛辣なことを口にしていた。産まれた瞬間から兄弟同士で争うことが決まっている王族とはいえ、いささか冷たすぎる。

「……ご自分自身に疎いのは確かだが」

 自分がどんなときに笑っているのか分からないと言ったアレクシアは、どの感情においても鈍そうだった。

 自分自身の価値さえも外側から定められたものしか知らない。

「俺も、そうか」

 アレクシアの美しい容姿に惹かれたのが最初だ。そうして内面が自分の理想とは違うというだけで勝手に落胆して、失恋した気分になっていた。

 女性に過剰な幻想を抱きすぎていると友人らに言われても、妹がいるのでそんなことはないと否定していたが確かにそうだと認めざるを得ない。妹とは女性であっても、自分の中ではいつまでも小さな子供でしかなかったのだ。

「……何か中途半端なことをしてしまったな」

 ギデオンは不意にアレクシアに告白まがいの発言をしたことを思い出して、書棚に頭を打ち付けたくなった。

 ああいうことを言うなら、自分の気持ちがはっきりしてから言うか言わざるか熟考するべきだ。

「俺はまだ、あの方を想っているのだろうか」

 きっと、一目で心奪われる相手はアレクシア以外にこの先もいないだろう。だが彼女の他の面に惹かれているかと聞かれれば、やはり分からなかった。

 アレクシアと言葉を交わすごとに、彼女の心の内を知りたくなるのはただの好奇心なのか、どんあものであろうと彼女の心を欲しているからか。

 ギデオンはその場で小一時間ほど黙考してみるものの、やはりはっきりとした答はでてこなかった。

「若様。お嬢様の御本を探すお手伝いをしましょうか?」

 あまりにも長い間書庫に籠もっているギデオンを心配して、使用人が声をかけてくるのにギデオンは重い腰を上げる。

「いや。考え事をしていただけだ。気づかわせてすまない」

 立ち上がったはいいものの、ギデオンはまたそのまま考え込んでしまう。

 アレクシアはとても軽かった。風邪で倒れた十歳の妹を抱き上げた時と大差ない気さえした。

 王女としての重責、選挙活動での心労は計り知れないものだろう。それを癒やすことができる者は誰ひとりいないのか。

 睡眠や食事や休養に気を配る者がいるなら当然、アレクシアの心労に気付く者がいないはずはないのだが。

「……見舞いを送ろうか」

 そう決めて何がいいかと考えるものの、花というごくありふれたものしか思い浮かばなかった。

「すまない。その、重篤ではないが、心労で伏せっている女性に見舞いを贈りたいのだが、花、でよいだろうか」

 ギデオンは書庫を出て祖父の代から仕えている執事に見舞いの花を贈りたい旨を、おずおずと告げる。すると執事はふむとうなずいて、側を通りがかった侍女数人を呼び止める。

「若様が若い女性に見舞いを送りたいそうだ。花を贈られるつもりらしいが、他に妙案を思いつく者は」

 声をかけられた侍女達が執事の言うことに色めき立つ。

「待て、若い女性だと俺は言っていない」

「若様がわざわざ私めに相談するなど、若い女性しかおられないでしょう」

 祖父同然の執事にすげなく返されて、ギデオンに反論の余地はなかった。

 そして女性陣からすぐに枯れてしまう花よりも、長く側に置いておけるポプリを勧められ、そのまま彼女たちに品選びも任せることになった。

 そして見舞い状を書くためにギデオンは私室に戻り、文面を考えるのに普段より多くの蝋燭を消耗してしまうのだった。

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