Ⅰ
アレクシアは鏡台の前で侍女のジゼルに髪を梳いてもらいつつあくびをひとつする。
昨夜は夜会を終えて王宮に戻ると、サリムと寝台でチェスをしながらギデオンの票を獲得する作戦会議をするのに夢中になりすぎて眠るのが遅くなってしまった。
「アレクシア様、夜更かしはいけないと言ったでしょう」
鏡の向こうでジゼルが苦笑する。黒髪と薄青の瞳の彼女は二十歳になる母方の従姉だ。面立ちもアレクシアと似ていて、姉妹と言っても通用するだろう。
「でも。勝負はなかなかつかないし、作戦会議も楽しかったのだもの」
「ええ。それは存じていますが、髪にもお肌にもよくありません。いつでも完璧に美しくないとなりませんよ。今日のドレスに合わせるのはどちらにいたしますか?」
ジゼルが示す鏡台の上はイヤリングからネックレスに髪飾りと、装身具で溢れかえっている。
これでもドレスに合うものだけを、ジゼルと他の侍女が厳選して持ってきたのだ。
一体どれだけのドレスと宝飾品があるのか、アレクシアはまったく知らないし興味もなかった。
「ジゼルが選んで。どれも綺麗だわ」
碧玉に紅玉、金剛石。色とりどりの宝石は朝の光を浴びてきらきらしていて、昨夜の夜会を思い起させた。
どれも同じぐらいに華やかに光り輝いている。全部綺麗で、素敵なもの。
だけれどギデオンは皆のように派手なところは一切ないのに、とても目を惹くし素敵なものをあちこちに身につけていた。
「ねえ。ギデオン様はどういったものがお好みかしら。昨夜のドレスは少し積極的すぎてお困りだったわ」
夜目でもはっきり分かるほど真っ赤になって狼狽えていたギデオンの姿を思い出し、アレクシアはくすくすと笑う。
「純真な方ですのね。なら、本日のドレスはお気に召すかもしれません」
今日のドレスはクリーム色の生地に純白の絹糸で小花の刺繍を散らしたものだ。胸元も谷間がちらりと覗く程度で、それもレースの影になって見づらい。
「次にお目にかかる時はこういうドレスにするわ。純真な方にはあまり積極的になりすぎない方がいいって、サリムと話したのだけれどジゼルはどう思う? ギデオン様、手を握っただけで緊張されてたのよ」
「まあ。手を握っただけでなんて珍しい。殿方の矜恃もあるのでほどほどになさらないといけませんわね。セシリア妃殿下にお訊ねになられたらいかがです?」
「そうね。やっぱりお母様に聞くのが一番ね」
票を持つ貴族の男達を引き込む手管は全て母のセシリアが知っている。朝食の席で聞いいてみればいい。
支度が調うとアレクシアは寝室から出て食堂へ向かう。
王宮は政務を執り行い王の居室や社交の場となる正殿の他に、多くの屋敷が広い敷地内に点在している。アレクシアが住まうのは椿宮と呼ばれる屋敷だ。王妃と子供のための屋敷のひとつである。
王が訪れてくることはなく、王妃や子に用がある時は正殿に呼ぶのが常だ。
時々晩餐会も行われる広い食堂は、今は長いテーブルの端に母のセシリアがいるだけであとは使用人達ばかりが部屋の隅にずらりと立ち並んでいる。
「おはようございます。お母様」
ドレスの端をつまみ完璧な礼をすると、セシリアが娘の姿を頭の先から爪先まで確認し、満足げな笑みを零した。
「ええ。今日もよい出来映えだわ。こちらへいらっしゃい」
艶然とした微笑みを浮かべるセシリアは三十二。花の盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ花弁を落とすことまく、色褪せてもいない。若い頃よりも匂い立つような色香を強めて、艶やかに歳を重ねていた。
アレクシアと同じ黒髪は緩やかな巻き毛にし、紺碧のドレスの胸元に覗かせる肌も若々しい。
「お母様、バスティアンお兄様から奪う票は、バルザック侯爵の御嫡男であるギデオン様に決めましたわ。夫にするにしても良いでしょう」
「バスティアン殿下との票差を埋められれば、兄様もわたくしも反対はしないわ」
母と選挙参謀の伯父から与えられた課題は、まず一位との票差を埋められる票を持つ者を選ぶこと。その次は何人か候補の挙がった貴族から、好きな者を選び好きな手段で奪うだった。
そしてアレクシアは一番手頃に奪えそうなギデオンを選んだ。
「ねえ、お母様。奥手な殿方はどうしたら膝を折ってくれるのかしら。ギデオン様はわたくしのことは嫌いではなさそうだけれど、手を握るのもいけないらしくて」
ギデオンは夜会でよくぼんやりと自分を見つめていて、微笑みかければぎこちなく会釈をし、挙動が怪しくなる。
ジゼルや母の意見も踏まえれば、自分の容姿をギデオンが気に入っているのは間違いない。
「まずは押し切ってしまえば上手くいく相手か、緻密に計算して少しずつ壁を崩していかねばならい相手か見極めなければね。あまり時間がかかるようなら他の候補に変えなさい。まだまだやるべきことはたくさんあるのだから」
「はあい。ひと月で動かせなかったら他の方にしますわ」
アレクシアは素直に次の候補をどれにするかも考えてみるが、やはりたくさん並べた宝飾品と同じで代わり映えしそうになかった。ジゼルが好みの顔で選んでもいいだろう。
母と伯父の用意する課題をこなせば完璧になるようになっている。
最初の人選の課題を達成したなら、誰を選んでも得られる票の数は変わらない。
アレクシアは目の前に置かれている柔らかな白いパンをのんびり口へ運ぶ。
「それがいいわ。焦ってはいけないわよ。寝室の扉が開かれるのを期待させて、一歩ずつ手招くの。お前の美しさと賢さなら、次の王の父となりたい者をいくらでもついてこさせられる」
セシリアもやっとパンに手を伸ばして、母子ふたりきりの朝食が始まる。
「アレクシア、一番大事なことは常に忘れてはいけないわよ」
「わたくしは誰も愛したりいたしませんから大丈夫ですわ」
アレクシアはにっこりと微笑んで母に応える。
愛は人を愚かにし堕落させると母には常日頃、口を酸っぱくして言われている。
男女の愛、肉親の愛、特定の誰かへの愛。どれをとっても人の目を曇らして、判断を誤らせるものになる。
そう、ちょうど国王たる父はサリムの母を偏愛し、本来なら立候補する資格がない甥を息子と称して少しごたついた。どのみち票は入らないだろうということで、立候補は容認された。
王になるべく者も、それを支える者もけして誰も愛してはいけない。
そのお手本となる母と伯父も自分のことを愛していないと言った。
(わたくしも誰も愛してはいない)
お菓子と同じぐらいに母も伯父も、サリムとも好きだけれど、自分は愚かになっていなければ堕落もしていない。
だからきっとこの先もちゃんと、誰も愛さずにいられる自信がアレクシアにはあった。
「その言葉、けして忘れてはいけませんよ。さあ、午後のサロンの準備もあるから朝食を先に済ませましょう」
セシリアが言うのに従って、アレクシアは心置きなく朝食に集中することにしたのだった。
***
ギデオンの生活は規則正しい。
午前五時に起床し身支度をして厩舎に行き、言葉を返さない馬達と語らう。五時半には屋敷から出て、王都の真ん中を流れる大運河ジャルム川の畔を目指し走る。そして川辺で折り返し、途中で新聞を買って屋敷に帰る
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
昨夜の夜会でアレクシアの前で狼狽えるばかりだった自分を思い返し、もう三十分ほど早起きしてその分走るべきか考える。
そうしているうちに屋敷の正門にたどり着く。王宮の側に建つバルザック邸は長い歳月をかけて培われてきた風格を備え、どっしりとした印象の大邸宅だ。
代々受け継がれてきた名門としての歴史を毎朝仰ぎ見ることで、ギデオンの心は引き締まる。
門を括りギデオンは懐中時計を確認する。いつも通り午前六時半きっかりだ。
「わ、若様!」
しかしながら使用人達はいつもと違って慌ただしかった。
現在屋敷の主である父バルザック侯爵は領地の視察と保養のために、母と共に家を空けていてギデオンが留守を預かっている。
留守中に起きた問題も当然自分が責任を持って解決せねばならない。
「何があった」
ギデオンは慌てることなく冷静に使用人に問う。
「バスティアン殿下がいらっしゃっています」
「いつ頃だ」
「ほんの二十分ほど前です。食堂でお待ちになっております」
これは朝食を勝手に食べられているだろう。ギデオンはやれやれとため息をついて食堂へ向かった。
いつもは嫁いでいった妹を除く家族三人が揃う食堂は静かで、常より幾分緊張した様子の使用人が壁と一体化している。
「おはようございます、殿下。本日もご機嫌麗しゅうございます」
苦虫を噛み潰したような顔で、ギデオンは朝食を楽しんでいる青年へ挨拶をする。
このアレクシアとはまた違った硬質な黒髪の青年が、二十四になる第二王子バスティアンである。優美な面立ちの切れ長の黒い目が猛禽類を思わせる主君は、今日も威風堂々としている。
脚を組んで座るとただの椅子が玉座に見えるほど、バスティアンには若いながらすでに王としての風格があった。
「なんだ。朝からまったく麗しくない面構えだな」
バスティアンはギデオンの反応に楽しげだった。
「ええ。粗末な食事で殿下を迎えることになり心苦しく思います……」
「ふん。俺に朝食を取られて不服なんだろう。安心しろ、少しは残してやっている」
バスティアンが言う通り、パンがひとつととタマネギのスープが半分ほどだけ残されていた。
倹約のため余るほど朝食は用意しておらず、使用人の食事を犠牲にするわけにもいかないのでギデオンはひとまずそれで我慢することにした。
「いただきます。それで、用件はなんでしょう。昨夜の夜会のことでしたら、午後に報告に伺うつもりでしたが」
「待ちきれんから来た。お前が上手くアレクシアに手玉に取られた様子を聞きたくてな。どうせ、胸に気を取られておろおろしてただけだろう」
にやにやと昨夜の状態を言い当てられてギデオンは返す言葉もなかった。
「……来客の顔は確認してきました」
バスティアン派か、アレクシア派か曖昧な貴族の様子やアレクシアと逢い引きしていた青年の名をギデオンは告げる。
「だいたい他に潜り込ませた内偵と同じ情報だな。それより貴様の一番の役目はアレクシアの側近くまで行くことだ。アレクシアの狙いには入ったのだろうな」
歳が近く狩りという共通の趣味を通じて、ギデオンはバスティアンと長く付き合いがあった。そして夜会でぼんやりアレクシアに見とれている所を見つかり、今回の役目を与えられた。
「それはおそらく……」
結局駆け引きは一切できずに終わってしまったが、まだ票を入れさせる気はあるらしかった。
「貴様にアレクシアと同等の駆け引きは望んではいない。珍獣として目に止まったらなら上等だ。ぜいぜい落とされないように努力しろ。後はできるだけ顔だけ見ていろ」
「いえ。出来るだけそうしてはいました」
極力、一番害のないアレクシアの眉間あたりに視線を集中させる努力はした。だがしっかり視界に入る位地を陣取られてしまっては仕方ない。
「まあ見下ろせば余計なものまでみえるか。まったく、セシリアも余計なものを流行らせてくれる。あれではさっさと脱がしたくて気が散る」
朝から品のない主君の言葉にギデオンはむせ込む。
「そ、そんなやましいことは考えておりません!」
「何も貴様がそうだとは言ってないだろうが。なんだ、反論するということは考えていたのか?」
バスティアンにからかわれてギデオンはぐったりとうなだれる。主君に遊ばれていると時々自分の忠誠心が憐れに思えてくる。
「……ご用件はそれだけですか」
「貴様の午後の予定を告げに来た。アレクシアが開くサロンに出席しろ」
「今日は文学サロンでしたか……。あまり豊富な話題もありませんが努力します」
文学にはそれほど造詣がないのであまり自信がないものの主命ならば仕方ない。
「取り込まれないように気をつけろ。アレクシアは選挙参謀と母親の言いなりだが、ただの人形じゃない。逐一命じられずとも、自分で与えられた目的を遂行する。いわば自動人形だ。結果さえ示されれば勝手に動いて勝手に成果をあげる。気を抜いたらあっという間に歯車のひとつにされるぞ」
「心得ました」
昨日の新聞記事の脇に描かれていた、美しいとは言えない仮面のような顔の木製人形を思い出しつつ、ギデオンは神妙な顔になる。
お飾りでは人心は動かない。ただ聡すぎても側近につくうまみがない。
けして無能ではないが、幼い印象が隙を感じさせるアレクシアに自分も警戒心を緩められることもある。
「さて。ついでの用事は終わったな。新聞を出せ。わざわざ毎朝自分で買いに行っているのだろう」
「いえ、走るのが目的で新聞がついでです。新聞ならわざわざ我が家にこなくてもそのうち誰かが買って届けるでしょう」
律儀に訂正しながらギデオンはまさかそのために来たのかと呆れる。
「待ちきれんから来たのだ。俺は王子として、未来の王として臣民を顎で使う権限はあるが、新聞の連載小説の続きを早く読みたいという理由で臣下を叩き起こすわけにもいかん。だからわざわざ一番に手に入れているだろう貴様の元に歩いてやってきたのだ。ほら、主君の労力をねぎらい新聞を貸せ」
椅子の上でバスティアンがふんぞり返って言う。
こういう突拍子もないことをしでかす王子が年上であることを、時々忘れそうになる。
「せめて従者ぐらいはおつけ下さい。そもそも臣下の朝食を奪うのはよいのですか」
「それはそれだ。歩いたら腹が空いたのだから仕方あるまい。半分は残してやっただろう。食い意地の張ったやつめ」
「……私は馬車の手配をしますのでそれまでごゆっくりしていて下さい」
本来なら自分も王宮まで歩いて行くところだが、どのみち午前七時半の出仕に間に合いそうにないので仕方ない。
「急なことですまないが、そういうことだから馬車を用意してくれ。今日はサロンに出席するので帰りの時刻が定かでない。午後六時に夕食を取るつもりだが、それを過ぎたなら先に使用人達に食事を取らせておいてくれ」
ギデオンは使用人に預けていた新聞をバスティアンに渡して、自分の背後にいた初老の執事に今日の予定を告げる。
(予定通り午後二時半に職務を終え、午後三時にサロンに出席)
そして今日の予定を組み立て直して出仕の準備を始め、予定外の朝食の時間からいつもの規則正しい生活に戻った。
***
王都の午後三時といえば、サロンが開かれる時間である。午前中男達が王宮で職務をこなしている間、貴族の妻や娘達は客人を迎えるために屋敷の広間を整える。
文学や芸術分野から政治に経済まで様々な話題の中からひとつを選んで、談義の場とするためだ。
それが『サロン』である。
毎日必ずどこかの屋敷でサロンは開かれ、貴族達の社交の場となる。選挙中の今は特に盛んにサロンが開かれ、多くの貴族達が交流を深めつつ腹の探り合いをする。
「お茶とお菓子の手配も整ったからそろそろお客様達をお迎えしないといけないわね」
アレクシアは青い花模様のレースで統一した部屋を見回してうなずく。
猫脚のテーブルの上には艶々と輝く果実の宝石が乗った一口大のタルト、マドレーヌやバターケーキが並ぶ。湯気が上るティーポットから漂う紅茶と、菓子の甘い香りが混ざり合い何もかもが完璧だ。
そして今日の議題である恋愛小説も、凝った装丁もあって積み重ねているだけで調度品のように見える。
母のセシリアはすでに別のサロンへ出掛けていて、アレクシアが仕上げの全てを任されていた。
「では、扉を開放させますね」
ジゼルが動いて、広間の扉が開かれる。そして最初の来客となったギデオンに、アレクシアはにっこりと微笑みかける。
「ギデオン様、いらっしゃるとは思いませんでしたわ」
と言いつつも今日のサロンにギデオンが来るのは五分五分、とアレクシアは考えていた。文学関連のサロンに彼はあまり顔を出さないと知っていたからだ。
だが内偵をするつもりなら、関心がなくても顔を出すぐらいはするかもしれないという期待もあった。
「この頃文学にも興味を持ち始めたもので、今日は聴き手に徹して皆様からいろいろ学べればと思います」
昨夜と違ってギデオンは落ち着いた様子で挨拶をする。やはりこの控えめな格好が彼にはちょうど良いらしい。
「あら。文学よりもわたくしに興味を持っていただいているのかと思ったのに残念ですわ」
ギデオンの目を覗き込んでがっかりしてみせると、彼は少し動揺した素振りを見せる。
「数ある文学サロンでも、王女殿下の開かれるサロンを選んで参りました」
「何度も足を運んでいただくぐらいに気に入っていただければ嬉しいですわ。今日は特に恋愛小説についてお話しするつもりなの」
何気なく話しかけるとギデオンの表情が一瞬強張った。
「…………そちらの方はあまり詳しくないのでしっかり学ばせていただきます」
話している内に他の来客も続々とやってきて、広間は三十人近くで埋まった。
アレクシアの近くに座るギデオンに、来客も物珍しそうに声をかけて挨拶をしていく。
皆が給仕される菓子や茶を持ってくつろぐ中、ギデオンは真っ直ぐに背を伸ばして神妙な顔つきでいる。
(お説教でも聞かされる顔みたい)
アレクシアは近くの本の山から一番上にあるものを手に取りつつ、ギデオンの様子をつぶさに観察する。
「本日は皆様と恋愛小説についてお話ししたいと思いますの。わたくしはこの頃、コンスタンタン・アダンがお気に入りなの。彼の描く男性がとても魅力的でわたくしつい恋してしまいそうになるわ」
アレクシアが名を上げた作家の著作は、恋愛小説を好む者なら誰でも一冊ぐらいは読んだことがあるはずだ。
女性陣が同意して好きな登場人物の名をうっとりと口にする。男性陣は冷やかし半分に、台詞を真似てみて笑いを誘いすぐに広間は談笑で満ちる。
(あら。本当にまったく知らないのかしら)
その中でギデオンは最初からまったく変らない表情と姿勢で話題に乗れていない。
まるきり未知の分野に彼は踏み込んできたらしい。
「ギデオン様、まだ読まれたことがないならお貸ししますわ。バルザック候はあまり恋愛小説はお読みになられたことがなくて、皆様のお話を伺いたいそうですの。お勧めさしあげてくださるかしら」
アレクシアが手に持った一冊を手渡すと、場の中心が一気にギデオンへと異動する。
好きな話の傾向から女性の好みまで話は際限なく質問が次々と投げかけられていく。
「私は一途な話が好みです。恋愛詩集はいくらか読んでいまして、セヴラン・ジュイノーの詩が似合うものがあれば」
ギデオンはまるで経済学の本でも語るように、愛の言葉で埋め尽くされた詩集を話題にする。
「ギデオン様は情熱的な愛がお好きなのですね。ねえ。どの詩がお好きなのかしら。一節そらんじてみて下さる?」
アレクシアはギデオンをまじまじと見つめ期待する。彼がはたしてどんなふうに愛を囁くのか、興味深かった。
「……わ、私はランプに火を入れる。暗闇のベールに包まれた、貴女の美しい瞳を照らすため、貴女のそ、その……」
真面目に暗唱してみせるギデオンは、見る間に真顔のまま首から耳まで真っ赤になっていく。
ついにはアレクシアを見つめたまま固まってしまった。
(まあ。こういうのも苦手なの)
詩を引用しての愛の言葉すら苦心する男性を見るのが初めてで、アレクシアは物珍しさに見入ってしまう。
(ごっこ遊びをされないのでしょうけれど)
貴族の大半は既婚、未婚に限らず恋愛の真似事をする。詩を送り合い、愛の言葉を口にして駆け引きを楽しむ。既婚であろうと一線を越えなければ、互いの伴侶の遊びは容認するものだ。
そして本気になる前に次の相手へ乗り換える。サロンはこうした遊び相手を見つける場でもある。
こういう遊びを好まないのだろうギデオンは赤い顔のまま、口を動かそうとしているものの何も喋れずにいる。
(強引になった方がいいかしら?)
ここまで不慣れだと自分から踏み込んでいかなければ、どうにもならないかもしれないと考えていると新たな来客が来る。
「貴女のその微笑む唇を照らすために。貴女の秘められた情熱を宿す胸を露わにし、全ての闇を追い払えば私の心はランプよりも明るい光に満たされる。そして炎よりも熱く燃え盛る愛を得られるだろう」
ギデオンの詩の暗唱を引き継ぎながら、新たにやってきたサリムがアレクシアに一礼をする。
まるで物語から抜け出てきた貴公子のようなサリムに、女性陣は頬を染めて彼に熱い眼差しを向ける。
「少し遅れてしまいましたが、僕もご一緒させていただいてもよろしいですか?」
自分の容姿の扱い方をよく知っているサリムが、一転して少年らしい茶目っ気を含んだ笑顔でねだると、女性陣も男性陣もつられて笑顔になり快く空いている席を勧める。
周囲の注目をひとりで浴びることがなくなったギデオンは、ほっとした様子だ。
「ふふ。ギデオン様がダニエルで、サリムはオーバンと言った所かしら」
アレクシアがふたりを先ほど話題にした作家の登場人物になぞらえると、周囲からまさしくと笑い声が上がる。
「王女殿下はどちらがお好みなのです?」
投げかけられた問いかけに、そうねと口元に扇を当ててアレクシアは迷うふりをする。
「どちらにもそれぞれの良さがあって困りますわ。だけれど、こういう時の解決策をわたくし知っておりますの」
そして皆の視線をひとりじめするまで間を置く。
「女王になればどちらも夫に出来ますわ」
勝利宣言ともとれる言葉に各自反応はそれぞれだ。アレクシアは男性陣の表情を観察してしていく。
自分に票を入れたと知っている者と、どちらか分からない者。比べていけば今この場で票を入れる気になっている者が、どれだけいるかおおよそ把握できる。
女性陣も無為にお喋りしているわけではない。夫や父の代わりにつぶさに様子を窺っている。
(よくて六割、かしら)
大抵はアレクシア派の者だ。票を逃さないように振る舞わなければならない。
「それは素晴らしい方法だ。王女殿下ならばふたりと言わずいくらでも夫を持てる。是非私もその中に加えていただきたい」
アレクシア派の青年が囃し立てれば、他の未婚の男性も我もと名乗りを上げる。その中でギデオンは静かに茶を啜りつつ、周囲に目を光らせている。
「これでは王女殿下はかのジャネット女王陛下よりも夫持ちになれるかもしれませんわ」
ジャネット女王は月替わりで夫を替え、生涯で百人を超える男と寝室を共にしたとされる。そして十三人もの子を産み、過去三人いる女王の中でも最も有名な女王だ。
「ではわたくしは二百人は夫を持とうかしら? 次の選挙は賑やかになりそう」
冗談めかして言えば、それは見物だと誰もが楽しげに賛同する。ギデオンを見てみると、マドレーヌを難しい顔でもくもくと食している。
サリムが彼の隣にさりげなく移動する
「バルザック卿……ギデオン殿、とお呼びしてもよろしいですか?」
愛想良くサリムに声をかけられたギデオンが、警戒を見せながらもうなずく。
「もろんです、サリム殿下。どうぞよしなに」
「ギデオン殿は堅苦しいお方だな。だけれど恋愛詩集を読んでいるなんて意外でした。恋愛小説もお好きでこのサロンに?」
「いえ。あまり詳しくないので学ぶためにです」
アレクシアにしたのと同じ返答をしてギデオンが視線を泳がせる。
「そうでしたわね。サリムもギデオン様が楽しめそうなものを勧めてさしあげて。情熱的なものがお好みらしいわ」
「情熱的なもの、ですか。ブリュノ・カスタニエの炎の薔薇などはいかがでしょうか」
サリムがそう答えると、ちょうど持ってきていたらしい夫人からギデオンへ本が回ってくる。
「ギデオン様、彼の作品はどれも情熱的ですのよ。わたくしからのお勧めはそうね、甘い秘め事かしら」
「おや。王女殿下が生涯体験することのない物語ですね」
アレクシアが本の山から勧める本を引き抜いていると、そんな声が上がる。
「ええ。夫のいぬ間にこっそりと想い人を寝室へ誘うなんて冒険、できそうにないですもの」
甘い秘め事の内容は禁じられた恋に燃え上がる男女の物語である。最後は駆け落ちしてご都合主義の幸せな結末だ。
この手の恋に盲目になる本は話の種として、そして愛に溺れる者がどれほど愚かであるかの悪例として多く読まされた。
誰もが愛に耽溺しまともな思考回路を放棄している物語は、なるほど王がこうであっては困ると思わせられるものばかりだった。
「冒険は物語だけで十分ですわ。実際はばれたらおおごとですもの。そういえば皆様ご存じかしら、ドゥメルグ伯爵の奥方のこと」
ドゥメルグ伯爵家の隣に住む、別の伯爵家令嬢が噂話を振りまく。
(奥方はウダール伯のご息女だったかしら……)
ドゥメルグ伯はアレクシア派のひとりであるが、そう多数の票を持って来られるほどでもない。ウダール伯も同じくだ。
「何かよくないお噂かしら」
アレクシアは目を丸くして問いかける。小物とはいえ自陣営の醜聞は対処を考えねば、どこから足を引っ張られるかも分からない。
「ええ。それがこっそりとそれこそ小説のように寝室に殿方を引き入れているだとか。この頃サロンが開かれないのは、体調が優れないからと伯爵が仰っていたけれど本当は不貞の疑いがあるという話ですの」
楽しげな賑やかさは、好奇心と嫌悪が入り交じったどよめきへと変わっていく。
恋愛遊戯の引き時を間違えるのは、あまりにも不作法で好まれない。
「まあ。まだ跡継ぎもおられないのに一大事ですわね。近々訴訟を起こされるのかしら」
アレクシアはサリムと目配せしつつ、困ったことだと面倒に思う。
すでに跡継ぎがいる夫婦なら妻が夫以外を寝室に入れようが、夫が愛妾を持とうが問題になることは少ない。しかし跡継ぎがいない場合は別だ。
夫の爵位と家名を別の相手の子で乗っ取ろうとしたとみなされば、妻の不貞は絞首刑もあるほどの重罪だ。とはいえ実際に刑が執行されることはほとんどない。
妻側の実家と不貞の相手が多額の賠償金を夫側へ支払うことになるのが大半だ。
その代わり賠償金の支払いで家が傾き追い詰められたり、叶わぬ恋に絶望し首を吊ってしまうこともある。絞首刑になるよりそちらの方が多いだろう。
「さあ。ですけれどお相手もまだ分からないらしくて」
サロンに出入りしていた誰かだろうかと人々は口々に囁き合う。結局その後は禁断の恋を題材にした物語と、結婚制度の合理性と不合理についての話題に終始することになった。
「ギデオン様。今日は楽しんでいただけたかしら?」
アレクシアはサロンが閉じられ、簡単な挨拶だけで帰ろうとするギデオンの引き止める。
「有意義な時間を過ごさせていただきました。……少々、ご期待に添えないこともありましたが。また機会があれば出席させていただきます」
「是非いらして。あの、ギデオン様。もしこの後よろしければすこしお時間をいただきたのだけれど」
アレクシアは声を潜めてお願いする。
サロンで大勢と話しているだけではひと月でどうこうなどいかない。ふたりで過ごす時間が欲しかった。
ギデオンが柱時計を見て考え込むのに、アレクシアはしゅんとする。
票を獲得するならギデオンが容易いという自分の判断は間違いだったかもしれない。どうもいつもと勝手が違って上手く行かない。
ギデオンのような真面目な者にはいっそ命じてしまえばいいのか、しかしすでに忠誠を誓う主君がいるなら逆効果になるのか。
「……少しならかまいません」
ぐずぐず迷っている間にギデオンがやっと承諾してくれて、アレクシアはぱっと顔を輝かせた。
「ではそこでお待ちになっていて」
アレクシアはギデオンをソファーに座らせ、他の来客の見送りに腐心する。そして最後に残ったのはサリムだった
「姉上、僕は必要ですか?」
「ギデオン様とふたりきりになりたいから、今はいいわ。そのかわりお母様にさっきの噂話のこと伝えておいて。今日はきてくれてありがとう」
「ではまた後で」
アレクシアとサリムは互いの頬に口づけを贈り合う、身内同士の挨拶をすまし別れる。
「それで私に用とは」
ギデオンが姿勢を正して、まるで重大な命令を待つような真摯な顔をアレクシアに向けた。
「さっきの詩の暗唱をもう一度していただけないかと思いまして」
両手を組んで小首を傾げて見せると、ギデオンは目を瞬かせて明らかに狼狽え始める。
「別の詩でよろしければ、ど、努力いたします……
「是非聞かせて」
「お、王女殿下!?」
アレクシアが隣に腰を下ろして腕に豊かな胸が当たるほど体を寄せれば、青ざめたり赤くなったりギデオンの反応は忙しい。
こういう時は髪を撫でられたり腰に手を回されたりしてきたアレクシアは、ギデオンの反応が未知のものできょとんとする。
(……とても立派な殿方なのになんだか子兎みたい)
今にも狼に食べられてしまいそうな悲壮感漂うギデオンから、アレクシアは体を離す。
「ごめんなさい。悪戯が過ぎましたわ。本当は別のお願いしたいことがありますの」
「…………なんでしょうか」
幾分落ち着きを取り戻してたギデオンが、疲れた表情で問うてくる。
「先ほどのドゥメルグ伯の奥方の噂。お相手が誰か気になるので、ギデオン様に調べるお手伝いをしていただきたいと思うのですけれど」
不貞となればドゥメルグ伯爵家と妻の実家となるウダール伯の話だけですまない。
両家共に切り捨てても惜しくない票だが、不貞の相手がどこの誰かによって話は違ってくる。
「この時期ですから対処が早いほうが良いでしょうが……使用人達が相手を知らないわけがないので直に裁判が始まるのでは」
「ええ。でも、まだ分からないということなら、相手が複数いて訴えるにしても段取りに困っているとも考えられますわ。できれば裁判が始まる前に知りたいの」
自陣営の者なら大きな痛手になるかもしれない。逆ならば敵陣営の票を削ぎ落とせる。
誰よりも多くの票を獲得し玉座を手に入れるという、母と伯父からの最大の課題をこなすのに、この不貞疑惑は見過ごさずに慎重に扱わなければならない。
「何も私に命じられなくとも、司法官の側近もいるでしょう」
使える人間がいくらでもいるのは確かだ。しかしここでギデオンとの接点を持って、上手くすれば彼の票も一緒に手に入る。
(どうせすぐにバスティアンお兄様にも伝わるでしょうし、あちらの動きを知るのにもちょうどいいわよね)
ギデオンからバスティアンの動きを引き出せたら満点だろう。
「ギデオン様がいいんです。せっかくお近づきになれたのだから、できるだけお話しする機会が欲しいのです。それにとても優秀でいらっしゃるから、心強いですわ」
「承知しました。ではこの一件、ご協力いたします」
素直な気持ちを伝えると、ギデオンも内偵として協力した方がいいと判断したらしく鷹揚にうなずいた。
「嬉しい。ドゥメルグ伯ご夫婦のことはどれぐらいご存じかしら?」
「ウダール伯が事業に失敗してその補填をするために、ドゥメルグ伯へ一昨年に十八になったばかりの娘を嫁がせたと聞いております」
「ドゥメルグ伯と奥方の歳の差は二十一ですってね。伯爵は前の奥様を跡継ぎを授からないうちに亡くされていて、後継者がなんとしてでも欲しいそうですの。兄弟仲がよろしくなくて、弟君には譲りたくないらしいですわ。奥方の分が悪すぎますわね」
ウダール家は訴訟を起こされたら爵位と屋敷、所領を買い取ってもらって賠償金をいくらか賄い、あとはどこぞの屋敷の使用人としてやっていくしかないだろう。
不貞の相手が全てを負ってくれるということもないとも言えないが。
「確かに訴訟を起こされたら奥方に勝ち目はないでしょう。相手方も同じく。まだこれだけでは、相手の予測も立ちませんのでもう少し噂を集めるのが先決でしょう。家督相続に問題があるのなら、謀略も考えておくべきかと」
淡々と答えるギデオンにさきほどまでの子兎の面影はない。夫のひとりとする選択肢は誤っていなさそうだ。
「やっぱりギデオン様とはお話が合いますわ。ドゥメルグ伯爵邸で開かれたサロンについてはわたくしの方でもしらべておきますので、また明日、お話ししましょう。そうですわ。夕食を一緒にいかがかしら?」
「せっかくのお誘いですが、家の者に用意させているので今日は失礼します」
ギデオンが深々と礼をして律儀に断ってくる。
「そうですの。では、明日お目にかかれるのを楽しみしておりますわ」
そしてアレクシアは立ち上がったギデオンにさりげなく手を差し出して、立たせてもらう。
にっこりと期待を含んだ笑顔を向ければ、ギデオンはしばし沈黙してアレクシアの手を取ったままぎこちなく身を屈める。
そして触れたかどうかもよく分からない口づけを手の甲にして、さっと体勢を直立にする。
「では、失礼いたします」
「ふふ。ギデオン様、出口はあちらですわ」
別室に続く扉へ歩き始めたギデオンはアレクシアの指摘に慌てて進路変更する。
「まずまずですわね」
そして彼が出て行ったあと、アレクシアは口づけられた手の甲を撫でて、悪くない滑り出しにそうつぶやいた。
***
帰宅し予定の夕餉の時間に間に合ったギデオンは食事をすませたあと厩に向かった。
「貴女の瞳は燃える太陽のごとく、私の胸を焦がし……」
じっと愛馬を見つめ失敗した詩の暗唱を試みるものの、馬相手では緊張感の欠片もなく諦めた。
「マロニエ、俺はお前の前でならいくらでも美しい詩を聞かせてやれるのだがな」
恋愛小説の類はまったく読まないのだが、書庫にある詩集は昔からよく読んだものだ。いつかこんな詩を捧げられる運命の相手を思い、十代の頃は密かに愛馬のマロニエの前で練習をしていたものだ。
「やはり、人間と馬では違いすぎたか」
しかしいざ一目惚れした相手の前では、舌がもつれて何もできずじまいだ。
一度は諦めた想いも同時にぶり返してきて、冷静さというものも消し飛んでしまっていた。今日の失態はおそらくサロンに来ていた者から、バスティアンの耳に入っているだろう。
「……ただの文学サロンでないことを知っておられたな」
どうせ今頃、腹を抱えて主君が笑っているだろうことを考えるといたたまれない。
「いや、しかしよりにもよってなぜあれを選択したのだ俺は」
アレクシアに見つめられて口をついて出たのは、公然の場で口にするには恥ずかしく自分にはまるで似合わない詩だった。
途中でやってきた年下のサリムが口にする方が様になっていた。
「あの年頃の時は女性を前にすれば緊張していたものだったがな」
十六の時はサロンに出入りし始めたばかりで、年上の女性が仕掛けてくる恋愛遊戯にどうすればよいか分からず狼狽えていたものだ。
「……いや、進歩はしていないな」
今は六つも年下の少女の誘いにも上手く対処できない。昔から恋愛遊戯は苦手で結局避けるか友人を盾にして逃げてきた。やがて流行に疎く会話も続かなければ面白みもない自分は、遊び相手には向かないと誘いすらかからなくなった。
このまま恋人のひとりも作らないまま、親が連れてきた縁談相手と結婚することになると友人らに危惧されている具合だ。
恋愛遊戯などしない純真で一途な女性を妻に迎えたいと思っているので、それはそれで自分は不服はないのでよいのだが。
だが現実は容貌の美しいアレクシアに陥落している体たらくだ。
腕に押し当てられた柔らかさを思い起して、ギデオンは目の前の柵に全力で額を打ちつけた。
「しかし。アレクシア王女殿下は美しく可愛らしいのだ。マロニエ、お前も男ならば分かってくれるだろう」
馬相手に言い訳しながらギデオンは深々とため息をつく。
「いかん。自分をしっかり持たねば」
そう、いかにも男慣れしていて夫を二百人は持つと笑って言えるアレクシアは、どれだけ美しく愛らしくとも理想とは真逆なのだ。
自分はアレクシアのその他大勢の夫のひとりになるつもりはない。
「マロニエ、俺は立派に主命を果たすぞ」
額を赤くしたままギデオンは愛馬に宣誓する。
もっと冷静沈着に動かねばならない。向こうもこちらを試す気でいるのだから。
とはいえ軽い挨拶程度の手の甲への口づけすらまともにできなかったが。
「ただの不貞か、家督相続の謀略か」
余計なことをあれこれ考えてしまいそうで、ギデオンは思考を別へ持っていく。
不倫裁判は珍しいことではない。だからこそ謀略に利用されやすい一件でもある。バスティアンにはこの件に関わる書状も出していた。
そうせずともサロンの噂話は翌日には王都中に広がっているだろう。
「自動人形か……」
アレクシアがドゥメルグ伯爵家の事情を知っていたのはさすがと言うべきか。それだけでなく、サロンでも恋愛小説についての話題全てに、淀みなく対応していた。
伯父や母の命ずる目的を遂行するために、ありとあらゆる知識が歯車として埋め込まれているのだろう。
「だからだろうか」
時折向けられるアレクシアの瞳が純真無垢なものに見えることがある。
最初に詩をそらんじるように言った時と、自分の隣に座ってじっと顔を見上げてきた時。
そこに計算されたものがなく、誰かの手が加わっていないアレクシアの存在が垣間見えた気がする。
差し出された手の甲に口づけたのも、体裁を繕うためというよりご褒美を期待する無邪気な視線に負けた方が理由として大きかった。
「いや。いかん。やはりしばらくは三十分ほど長く走る。よし。今日はもう寝るぞ」
蝋燭代の節約のため早寝を心がけるギデオンは、執事と明日の予定を話して早々に寝台に入ることにした。
***
一方アレクシアは天蓋付きの広い寝台の上でサリムと共に、ここ半年の間ドゥメルグ伯爵邸で執り行われたサロンの記録を眺めていた。
「絵画と新聞が主ですわね。来客もほとんど固定されているし、絞り込みは簡単かしら」
「なにもバルザック卿を使う必要もなかったのでは?」
「だけれど票を入れてもらうにはやっぱり接点は多くないといけないでしょう。手の甲に口づけはいただいたわ」
アレクシアがギデオンに口づけられた手をサリムに見せると、彼は遠慮なく唇を押し当てる。
「こんなの、誰でもできるし、いくらだったもらっているでしょう」
確かにそうなのだが、あのまともに手も握ることもできないギデオンがということに意味があるのだ。
「まあ。意地悪な子ね。いいのよ。これで。そのうちお母様みたいに足の甲にもいただくもの」
母のセシリアに跪き足の甲へ口づける男達をこれまで何人も見てきた。
サリムの母が亡くなった十年前に父は、全ての妻達に自由を許した。要はこれ以降寝所に誰も呼ぶつもりがないから、好きに愛人を作っていいということだ。
セシリアも選挙戦で利用できそうな相手を選んでは愛人に加えていた。そしてアレクシアはサロンの後に母と誰かがふたりきりになるのを、扉の隙間から覗かされた。
他の兄達にはけしてできない、女であるからこそできる手練手管を学ぶためだ。
そのまま帰路につく者、寝室まで誘われる者。違いは一体何なのか、母はその対価に何を得るのか。
母と愛人がいなくなった部屋でひとりきりで考えるのがその日の課題。
(全てはわたくしが女王になるため)
あらゆることの結論はそこへ行き着くのだ。自分も同じことをしなければいけないが、まだあの頃の母より幼いので難しいことがたくさんある。
「姉上?」
考えに没頭しているとサリムが顔を覗き込んでくる。
「……どうしたらお母様みたいになれるかしら」
「アレクシアはまだ子供でしょう。口づけも知らない」
鼻先が触れ合う程に顔を近づけて、サリムが囁く。
「駄目よ。サリム。まだ選挙は始まったばかりじゃない。最初の口づけはもっと後。それに最初の夫になるんだから、サリムには一番最初の接吻はあげない。他の誰かのご褒美にするんだもの」
「言わなきゃそんなのばれないんじゃないんですか?」
翡翠と碧玉の瞳はお互いをじっと見つめたままでいる。
「欲張りはいけないわよ。でも、サリムがものすごくわたくしのために頑張ってくれたら考えてあげる」
相手の期待は完全に殺してはいけない。
母の教え通りにアレクシアが譲歩すると、サリムがその場で身を離してアレクシアの小さな足を取る。
「では、仰せの通りに女王陛下」
そしてサリムが恭しく足の甲に口づける。
「ええ。期待しているわ」
アレクシアはサリムの滑らかな金の髪を指で梳いて、女王様ごっこに満足して微笑んだ。
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