◇第四章 狂気のティー・パーティ

 アリスクイーンを倒した翌日。オフの日。夕方頃。


 母親から電話があった。

 何かと思えば、着替えを家に忘れたらしい。夜勤の際、着替えるパジャマだ。

 面倒だったが、仕方がなく鞄に着替えを入れ届けに行く。


 母の仕事は看護師だ。


 非常にハードな仕事で、滅多に家に帰って来ない。帰って来てもぐっすりで話をすることは皆無だ。

 電車で数駅移動した先に、母の勤める病院がある。受付に行けば、顔見知りの看護師に声をかけられた。


「あら、アリスちゃんじゃない」

「お久しぶりです、中藤さん。母さん、居ますか?」

「今呼ぶわね。花森さん、娘さんがいらっしゃってます」


 受付の奥から母が現れた。ここまでしゃっきりした顔を見るのは何日振りだろうか……。


「はいこれ、着替え」

「ありがと」

「じゃあね」

「あ、待って」

「何?」

「あんた……えーと」


 母は手招きする仕種をする。疎ましく思いつつも、近づき耳を寄せる。


「あんた、アイドルやってるのよね?」

「それが何?」

「……あんたのファンが入院してるんだけど」

「……嘘」


 確かに最近人気にはなってきたけれど……。


「本当に私? 別人の勘違いじゃなくて?」

「あんたよ。動画見たもの」

「ネットの?」

「そう」


 ――それしか言うことがないのか。


「で?」

「会ってあげてくれない?」


 そう来たか。


「私のこと言った?」

「言ったらまずいの?」

「言わないで。変なトラブルに巻き込まれたらどうするの?」

「で、会ってくれるの?」

「悪いけど、そういうの事務所に止められてるから」

「……同情を寄せる訳じゃないけど、その子中二で、しかも結構難しい病気なのよ」

「死ぬの?」

「そういうことここで言わないで」

「そうでもない限り事務所の許可なく会いたくないわ」

「……手術すれば治るわ」

「なら――」

「でもとてもお金がいる。これで良い?」


 ――払える見込みはない、ということなのか……。つまり……。


「どこにいるの?」


   *


 エレベーターで三階に昇り、廊下を見渡す。


 あった。三〇五号室。氷室ひむろ蒼太そうたの名前を見つける。相部屋だ。名前からして、他の患者さんは恐らく老人。そうでなくても、若い子はそうそういないだろう。


 扉をノックし、開ける。窓際のベッドに中学生くらいの男の子がいた。

「氷室蒼太くん?」

 少年がこちらを向く。初めは赤の他人を見る際の怪訝けげんそうな顔をしていたが、次第に目が見開かれる。


「――あ、ありりん?」

「えーと、君が蒼太くん?」

「――は、はい。ぼ、僕が……氷室蒼太です」


 かなり緊張しているみたいだ。不思議な気分になる。まだ駆け出しの新米アイドルなのだ。そんな私を前にして、目の前の少年は緊張している。何とかしてあげたい気分になる。


「看護師さんから聞いたよ。難しい病気なんだってね」

「はい……。何か、大きな手術が必要みたいで……」


 痩せぎすの白い肌。典型的な病人、といった容姿をしている。だがこれはキャラでも何でもない。強いられた容貌なのだ。だが何に強いられているのだろう……。

 か細い手を握ってあげる。私にしては珍しく、打算のない純粋な好意だった。少しでも力になりたいという思いの表れだった。


「頑張ってね。希望を捨てちゃ駄目だよ」

「は……はい、僕、頑張ってみます……」

「このことは、他の人には内緒ね」

「はい……! 分かりました……!」

「それじゃあね。そろそろ面会時間、終わっちゃうし」

「あの――」


 蒼太くんはスケッチブックとマジックペンをこちらへ向ける。

「サイン、お願いできますか……?」

 小動物的な視線。断る気は元々ない。

「はい、名前はこうだよね?」

 病室の表札に書かれていた通りの名を綴る。

「あ、ありがとうございます! 一生大切にします……!」

 屈託のない笑みだった。私も見習わなければいけないくらい。


   *


 別の日。

 打ち合わせのために事務所に顔を出した。

 マネージャーの姿がない。

「おはよう、アリスちゃん」

 プロデューサーに声をかけられた。


「おはようございます。……山田さん、いらっしゃらないんですか?」

「え? 山田くん? えーと?」


 二人で周りを見回す。いない。

「……あの」

 か細い声。傍らに山田夕子の姿があった。

「うわっ!」

 予備知識の無かったプロデューサーは心底驚く。いつの間にいたの? という顔をしている。

「……何かご用ですか?」

 声に覇気が無い。蚊の鳴くような声だ。周りが煩かったら絶対聞き取れないような小ささだ。


「いえ……見かけなかったので、来てないのかな、と……」

「……そうですか。すぐそこにいるので、お呼びならお声をおかけください」


 そのまま去っていく。気配と言うものがない。

「……山田さんって、あんなに影の薄い人だったけ? それに最近元気ないし……悩みでもあるのかな……?」

 プロデューサーは不思議そうに呟く。私は心配するフリをしつつも内心穏やかではなかった。あれが敗北者の姿だ――。つまり、負ければ「あぁ」なるということ……。敗北者はアリス・ウォーの記憶を奪われる。訳も判らずに、あんな生きた屍のような様になるのだ。私だけの話じゃない。恐らく須藤つぼみも同じようになっている。他のアリス候補生も負ければ同じ様に……。

 これが蹴落とすということ……。この生々しい感触を体験するのは初めてだ。だがいずれ、経験する感触だ。所詮、世の中はパイの奪い合い……。奪い合いの回数が多いか少ないかの違いはあれど、誰もが通る道だ。


 でも……この『奪った実感』は、簡単には慣れそうになかった。


   *


 打ち合わせが終わり、帰宅しようと思った時だ。

 不思議の国に入り込んだ。

 アンブッシュだ。

 スマホを取り出し、変身する。

 森の中央に移動すると、見覚えのある顔があった。


「――アリスダーマウス」


 以前、私を助けてくれたアリス候補生だ。

 だが変身していなかった。制服姿のまま、素顔を曝している。

「……アリスラビット。いいえ、花森アリスね」

 息を呑む。素顔を曝したとは言え、こうも簡単に素性がバレてしまうとは……。


「貴女、人気者よ。ネットに上がった動画の再生数、順調に伸びてるみたいね」

「……その人気を、奪いに来たの?」

「いいえ……話し合いに来たのよ。外で話さない? 私は高原たからはめい。アイドルユニット、イノセンス・ハートのメンバーよ」


 ……自ら素性を明かす以上、本気で話し合いをする気らしい。変身もしていない……。取り敢えず、話を聞くことにした。

 近場の喫茶店に移動し、向かい合って座る。


「アリスクイーンを倒したのね」

「それが?」

「貴女がアリスクイーンを倒した日の夜、もう一人アリス候補生が倒されたのは知ってる?」

「え……?」

「知らないの? アプリの情報でチェックできるでしょ?」

「……少し、忙しくて」

「嫌味? まぁ良いわ……アリスマーチヘアがやられたわ」

「じゃあ残りのアリス候補生は四名……?」

「いいえ、五名よ」


 高原はスマホを取り出し、数回いじった後、こちらへ画面を見せる。アリスマーチヘアの戦闘の様子だ。戦っているのは……。


「誰? こいつ」


 私はアリスウォーの参加者の姿を一度全て見ている。だがこんな奴はいなかった。禍々しい衣装だ。鱗や牙を連想させる装飾がされている。武器は大剣。身の丈ほどのサイズの剣を軽々と振り回していた。六人のアリス候補生が一堂に会した混戦の中、こんな目立つ武器を掲げていた奴はいない。


「アリスジャバウォック。本人はそう名乗っているらしいわ」


 ジャバウォックは『鏡の国のアリス』に登場する正体不明の恐ろしい怪物の名だ。だが不思議の国の住人ではないジャバウォックが、何故アリス・ウォーに……?


「私のパートナーの話によると、ジャバウォックは向こうの世界では有名な悪魔らしいわ」

「悪魔とか……いるの?」

「いるんでしょうね、きっと。ジャバウォックは飛び入り参加らしいわ。本来の頭数には入ってなかった。こいつは相当ヤバイ奴みたい。動画を見ればわかるけど、力自慢のマーチヘアでも歯が立たない強さだった。明らかに強過ぎる……。それに、向こうの世界にとっても、優勝させるのは決してプラスにはならないみたい」

「……で、私に協力しろ、と?」

「悪い話じゃない筈よ。貴女の能力はほとんど割れてる。スピード特化の近距離戦闘型。他は並以下。でも私も人のこと言えないのよ。私の能力は遠距離特殊型。まともにぶつかって勝てる相手じゃないのは同じ」

「……確かにそうね」


 クイーンとの戦いで相性の不利が如何に大きな格差となるか経験したばかりだ。詳しくは動画を見てみないことには分からないが、マーチヘアに勝ったなら多分私にとっても不利な筈。


「……でも随分と積極的に誘うのね」

「だって、協力できなかったら負けは見えてるもの」

「寄って集っては感心しないとか言ってなかった?」

「悪に立ち向かうには団結も必要なのよ」


 ものは言いようだな……。


「ただ一つだけ」高原はもったいぶって言う。「確認したいことがあるわ」

「何?」

「貴女はどうしてトップアイドルを目指しているの?」


 意外な質問だった。


「そりゃ、普通アイドルになるならトップを目指すでしょ。人気者になりたいってのは、誰だって思うことじゃない」

「それだけ……?」


 挑発しているのか、単純に疑問に思っているのか……声音からは判断できなかったが、こいつには大義らしい大義があるらしい。


「そういうアンタは?」

「世界を救うためよ」


 思ってもみない答えだった。


「この世は狂ってるわ。この世にあるのは圧倒的な格差よ。強者が弱者から搾取する悪夢の体系よ。それだけじゃない。貧困、差別、不自由や戦禍。あらゆる物事が大多数の人類の尊厳を踏み躙っている。私はこんな世の中を修正したいのよ。そのためにアイドルになるわ。アイドルになって『正しさ』を発信する。それが私がトップアイドルを目指す目的よ」

 ……こいつ、マジな顔で何言ってんの?


「……その、えーと、もしかして何か……特殊な宗教に入ってる人……?」

「違うわ。私は無宗教よ。特定の宗教に入れ込むことは、世界を救うことと矛盾するわ。あらゆる宗教を平等に扱わなければ、世界を救うことなんてできない」

「じゃあ……素面でそんなこと言ってんの?」

「良く言われるわ。大体『変わってる』って。でも私に言わせれば変わってるのはそっち側よ。自分さえ良ければ良い。そんな安穏とした思想で長年安全地帯で生きてきたせいで、脳が腐ったとしか思えないわね」

「……正直、アンタが何をしようがしまいが私には関係ないわ。でも一つだけ言えるとすれば、――善人ぶっても良いことないわよ」

「……善人?」

「だってそうでしょ。世界平和とか。今時流行らないわよ」

「流行る流行らないの問題じゃないわ」

「そう。でも私はそういうの興味ないから、そこだけは間違えないでね。勧誘とかマジあり得ないし」

「何故そこまで無関心でいられるの? 同じ人間の問題なのよ?」

「その理屈が軍人や首脳陣にも届けば、世界平和目前ね」

「何が言いたいの?」

「他人と身内じゃ優先順位が違うっつってんのよ。――一部の例外を除いてね」

「人助けの何が気に入らないの?」

「別に気に入らない訳じゃないわよ。ただ善人ぶって主張の押し付けをされたくないだけ。可哀想だとは思うわよ?」

「なら――」

「一つはっきりさせておくけどね。この世に善人と悪人しかいないと思ったら大間違いよ。世の中には、善人でも悪人でもない人間がいるの。そしてそれが大多数。そういう人間に大義なんてない。日々生きるので精一杯。それを悪や間違いだと断ずるなら――アンタは善人ぶってるだけなのよ」


 高原は暫し沈黙し、言った。


「貴女の言う通りかも知れない。でも、だからこそ私は勝たなければならない。私は世界平和を信じてる。平和が非暴力によって実現できることも。そのためには、皆の力が必要なの。日本国民だけじゃない。世界中の人々の力がね。私はアイドル活動によって、人々に正義があることを知らしめたいの。そして、皆が少しでも世界のために何かできるように手助けをしたい。チャリティ番組だけじゃない。自然環境を保護するための取り組みや、紛争や人権侵害を止めるための働きかけ――海外だけじゃない。現代日本の歪んだ資本主義構造を更正するために投票を呼び掛けたりもするつもりよ。少しでも多くの、一人でも多くの、『正義』が溢れる正しい世界の実現。それが私がトップアイドルを目指す理由よ」

「それを他人を蹴落とすアリス・ウォーで叶えるっての?」

「矛盾は百も承知よ。でも『悪』がトップアイドルになり、大衆を無為な方向へ煽動するくらいならば、私は手を汚すことを厭わない」

「一人でやってろ」

「言われなくても、一人でもやるわ」


 皮肉の通じない奴だ……。


「じゃ、話を戻すわ」高原は何のダメージもない顔つきで言う。「貴女がアイドルを目指す理由は何なの?」

「……悪いけど、アンタの期待に応えられるほど『意識の高い』理由じゃないわよ?」

「良いから教えなさい」

「両親が共働きなのよ。別に珍しいことじゃないでしょ、東京じゃ。でね、ご飯を一緒に食べる時間もあんまりなかったのよ。必然、テレビばっか見るようになって、テレビっ子になってた。だから自然と憧れたのよ。アイドルって存在に」

「……それだけ?」

「言ったじゃない、期待には応えられないって。そもそも他人のためにアイドルやる奴なんて一握りでしょ。皆結局、自分のためにやってるわ。だってこれは仕事だもの。仕事ってのは、結局自分のためのものよ」

「何故そう言い切れるの?」

「二人ほど、生の証言が取れてるからね」


 両親の証言だ。


 以前、聞いたことがある。何故や医者や看護師をしているのか、と。父は言った。人を助けるためだ、と。母は言った。人の手助けをするためだ、と。私は言った。仕事は私よりも重要なのか、と。両親は説いた。働くことの大切さと意義を。私の質問に対する答えではなかった。はいといいえで答えられる問題に、文章で返す奴は信用ならない。山田夕子が言ったように、大人は質問に答えないのだ。何故答えないのか? 都合が悪いから。どう都合が悪いのか? 答えはいいえだったからだ。両親はズブズブの仕事人間だ。私よりも仕事が当然大事だ。何故なら結局、自分のために働いているから。好きで働いているから。でなければあんな重労働こなせっこない。自分のための仕事だからこそ、続けられるのだ……。

「……今ここで、貴女の思想に介入しようとは考えていないわ。ただ反社会的な思想の持ち主か否か確かめたかっただけ。どうやら、貴女は良くも悪くも普通みたい。なら良いわ。改めてお願いします。協力しましょう」

 私は暫し沈黙した。協力云々以前に、高原をどこまで信用して良いのか測りかねたからだ。善人か悪人かで言えば善人かも知れないが、社会に即しているか否かで言えばドグレーだ。こいつはきっと「普通に生きる」ってことのできない病気を抱えた人種だ。関わって良いことは万に一つもない。だが――。

「考えさせてくれる?」

 勝利のためにはリスクも必要だ。


「一晩だけ時間をあげるわ。それ以上は待てない」

「じゃ、明日中に連絡するわ」


 互いにメルアドを交換した。LINEをするような仲にはならない。

 帰宅後、アプリで白ウサギに電話する。


「もしもし……」とウサギが欠伸をしながら出る。

「眠そうね」

「仕事が忙しくて」

「すぐ起きなさい」

「酷いよ、アリス……」


 ウサギ小屋へ行き、詳しい話を聞く。


「じゃあ、ジャバウォックが参戦したのは本当のことなのね」

「そうだよ。僕たちはアリスマーチヘアが八人目のアリス候補生によって倒されたことを受けて、緊急会議を開いたんだ」

「結論は?」

「ジャバウォックを君たちアリス候補生に倒させろ、って――」

「何でよ?」

「女王様が言うには、『アリスの完成』を優先するためだって」

「どういう意味?」

「アリスはカリスマを合わせることによって創られる、っていうのは話したよね? アリスの魅力は参加したアリス候補生のカリスマ性の合計に等しい訳だ。だったらもっと参加者を増やせば、更に魅力的なアリスが完成する。逆に参加者が減れば、アリスの魅力が減少してしまうんだ」

「なら最初から大勢用意すれば良かったじゃない」

「僕たちにとっては七人が限界だったんだ」

「つまり、アリスマーチヘアのカリスマ性を手放すのは惜しい。逆に勝てばジャバウォックの分が手に入るから儲けってこと?」

「まぁ……そういうことではある」

「……好意的に解釈すれば、獲物が一人増えたってことで良いわけ?」

「そんな単純な話じゃないよ。僕も動画を確認したけれど、並みの強さじゃない。よりによってジャバウォックを君たちと戦わせるなんて、女王様は何を考えているのか分からないよ」

「私じゃ勝てない?」

「そ、それは……」

「正直に言いなさい」

「……相性が悪過ぎるよ」

「なるほど。でもやらなくちゃいけないんでしょ?」

「……うん」

「仕方ない。アリスダーマウスと協力するわ」


 簡潔に用件を打ち込み、メールを送信する。


「ダーマウスと? アリス候補生に誘われたのかい?」

「そうよ。それがどうかした?」

「いや。ただ眠りネズミ本人はこの戦いに対してはどうでも良いってスタンスだからね」

「もっとやる気のある奴ら選びなさいよ……」


 まぁ……こいつらの国にもこいつらなりの常識があるんでしょうけど。


   *


 一週間後。


 山田マネージャーが人事異動になった。


 いつの間にか、事務所から姿を消していた。

 メンバーの皆にこの一件について話を聞いたが――。


 燐。

「山田? 誰? あー、そうか。前のマネージャーね。どんな人だっけ? ごめん、バカだから良く憶えてないんだ。いけないよね、こういうのって。お世話になったのにさ」


 ルナ。

「山田? ……? あぁ、前のマネージャー。人事異動。へぇ。……うーん。どんな人って言われても、私、人付き合いとか得意じゃないし……何か特徴あったっけ?」


 朝美。

「山田さん? 山田マネージャー? 異動? みたいですね。……うーん、影の薄い方でしたね。こういう職場に向かない、というのは、正直分かる気がします」


 リゼ。

「山田さん? えーと、あーと。ご、ごめんなさい……すぐ、思い出します。えーと、大人の女性だった気がします。多分」


 林檎。

「山田? 誰? マネージャー? 前の? 佐藤じゃなかった?」


 五者五様の反応をしていたが、共通して山田夕子のことをほとんど憶えていなかった。私も人事異動があるまで、その存在を忘れかけていたくらいだ。

 多分、その内私も、完全に記憶から山田夕子のこと消去してしまうのだろう。

 ――これが、誰にも見向きされない人生、という意味……。


 これ以上の、「敗北」があろうか――。


 この戦いは、本当に負けられない。嫌でも痛感する出来事だった。


 時を同じくして。


 高原から連絡があった。

 アリスジャバウォックの正体と凡その行動パターンが判明したらしい。

 なんとか都合のつく日を合わせ、ジャバウォック討伐のため集合した。

 待ち合わせ場所は駅前。時間通りに到着し、不思議の国に入国する。不思議の国には既にアリスダーマウスがいた。

 だがダーマウスは隣にはアリスハッターがいた。


「時間通りね」

「そいつは?」

「こちら、アリスハッターさん。本当は来られない予定だったんだけど、急遽きゅうきょ戦えるようになったので来て貰ったの」

「じゃあ、アンタもジャバウォック討伐に?」

「手を組むのは一時的によ。馴れ合うつもりはないわ」


 相変わらずの物言いだ。


「アリスキャットは? いないの?」

「探したけれど見つからなかったの。仕方が無いから、私たち三人で倒しましょう」

「……こんなこと言いたくないけど、キャットはかなり強いわ。そいつ無しで戦おうって言うの?」

「逆に言えば、キャットはタイマンで勝つ自信があるのかも知れないわ。だから私たちが減ったところを見計らって、ジャバウォックを消す算段なのかも」

「キャットってジャバウォックより強い?」


 傍らにいた白ウサギに問いかける。

「なんとも言えないね。ただお互いに引けを取らない強さを持っている」

 白ウサギが答えると、ダーマウスの足元からデカイ鼠がのっそりと這い出るように現れる。


「やぁ、白ウサギ。久しぶりだね。ドン臭い君がきちんとパートナーを見つけられるなんて、思わなかったよ」

「毎日遊んでばかりのニートである君に言われたくないよ、眠りネズミ」


 畜生の間で格差とは……世知辛い世の中ね。


「なんじゃお前ら、喧しい! 揃いも揃って、静かにできんのか!」


 ハッターの影から初老の小男が現れる。帽子には「十シリング六ペンス」の値札。いかれ帽子屋だ。


「帽子屋も元気そうだね」

「元気? 元気なものか。お茶会仲間の三月ウサギがやられたのだぞ! あぁ、だが一つ断っておくぞ。これは弔い合戦などではない! この小娘が勝手にやっていることだからな!」


 変わった性格もそのままか……。


「行きましょう。時間が惜しいわ」

「そうね。こっちよ」


 ダーマウスに従い、ジャバウォックの元へ向かう。森に入るが、現実世界で考えればスタジオの方向だ。


「ジャバウォックの正体は分かってるの?」

「えぇ。正体は大城おおしろミハル。アイドルユニット『アンノウン・ガールズ』のメンバーよ」

「アンノウン・ガールズ……?」

「知ってるの?」

「名前を聞いたことがあるだけよ」


 プロデューサーが注目していたユニットだ。ジャバウォックは既にマーチヘアを倒している訳だから……その分カリスマ性が上がって注目度も上がっているのだろう。

 暫く歩き、ダーマウスがスマホを使ってアンブッシュを始めた。

「これでいつ現れてもおかしくないわ。警戒して」

 更に歩を進め、森を出た。


 小高い丘がある。


 その頂点にそのアリスは立っていた。

 鱗と爪をあしらった紫のエプロンドレスに身の丈ほどの大剣。

 間違いない――アリスジャバウォックだ。

 視線が合った。

 獣の目をしている。


 ――多分、ハイキング中に熊と出くわすとこんな気持ちになるのではないだろうか。


 ……三人でも勝てない。そんな気がしてしまった。

「――雁首揃えてお出ましとは、一体どういう了見だね?」

 ひび割れた声音。剥き出しの乱食い歯。人間じゃない……。

「まさか協力して吾輩を倒そうという魂胆か? ――大歓迎だ。一人ずつ殺る手間が省ける」

 剣を振り下ろし、こちらへ近づいてくる。


「やるわよ、二人とも」

「言われなくても――」


 ハッターが先行した。帽子を投げる。丸鋸状の刃を剥き出しにして帽子がジャバウォックに迫る。だがいとも簡単に剣で弾かれた。


「なんだこれは? フリスビーか?」

「くっ――」


 ハッターは杖を取り接近する。ダーマウスが周囲の小石を宙に浮かせ攻撃し始める。サイコキネシスだ。

 だが全ての小石が剣によって防がれる。一つも本体に届かない。

 私も石を一つ掴み接近する。私の遠距離武器はこれしかない。

 ハッターが杖で殴りかかった。

 あっけなく弾き返される。そのまま剣に切断された。だが傷は無い。代わりに遠くまで吹っ飛ばされた。一瞬のできごとだった。


 飛礫つぶてを投げつける。加速の能力を使った高速の一撃だ。


 命中した。速度自体はそれほど早くないようだ。だが無傷だった。当たっただけでダメージはありそうにない。攻撃力だけではない。高い防御力も持っている。

「速いな――先に始末するか」

 奴がこちらを向いた。

 獣を彷彿とさせる鋭い眼光に緊張で背筋が軋む。鋭い痛みが警告となって胴体を貫いた。


 やられる――。ほぼ反射的に後退し距離を取った。


 ジャバウォックは大剣を振り回し、剣の風圧で私を吹っ飛ばした。台風でもこうはならない。明らかに化物だ。

 ハッターが再び立ち上がり、帽子を投げつける。同時にダーマウスも飛礫を降り注がせた。だがどちらも遅い。いとも簡単に弾かれてしまう。

 奴がこちらへ接近してきた――。

 こうなったら白兵戦しかない――。遠距離ではダメージを与えられない。

 こちらも接近し、間合いを詰める。剣の射程に入った。

 轟音と共に鋭い剣戟けんげきが襲い掛かる。だが遅い。私にとっては、避けられないスピードではない。

 剣を掻い潜り、拳を打ち込む。だが手応えがなかった。堅い……! 思った以上に、以前戦ったアリスクイーン以上の強度だ――。


 単騎では勝ってこないと悟った。


 次の攻撃も避け、大きく後退した。飛礫が後退をアシストしてくれた。

 ダーマウスに近づく。


「奴は堅いわ。私の攻撃力じゃ太刀打ちできない。アンタ、何かないの?」

「何かって!?」

「何かは何かよ! 攻撃力の高い奴とか何かないの!?」

「アバウトすぎない!? でもない訳じゃないわ」

「何?」

「私のサイコキネシスは、射程が縮まれば縮まる程、威力が増すの。射程距離は非常に長いんだけど、敵から遠退けば遠退くほど威力が落ちるわ……」

「なら近づけば奴に大ダメージを与えられるってことね?」

「私がなます切りになることと引き換えにね」

「……一応、一つ策があるんだけど」

「何……?」


 ハッターが苦戦している。杖を持ち出して剣戟を防いでいるが、馬力が違い過ぎる。

「早く、どんな作戦……!?」

 手短に作戦の内容を伝える。


「……貴女馬鹿だったのね」

「敵を間違えてなぁい?」

「でもそれ、作戦としては悪くないわね。仕方ない。それで行きましょう」

「疲れる想いするのは私なのよ……」


 私たちはさっそく作戦を実行した。

「……何の真似だ?」

 作戦を開始した私たちを見たジャバウォックは一言、侮蔑しきった声音で言った。

「……強いて言うなら、トーテムポールかしらね」

 私はダーマウスを背負っていた。傍から見れば間抜けこの上ない。

「団子よろしく串刺しにしてくれる……!」

 奴が近づいてくる。


「頼んだわよ」

「分かってる」


 ダーマウスが肯いたのを確認してから、こちらも接近する。無数の飛礫で敵を攻撃した。当然、剣で防がれる。さらに接近。奴の剣の射程に入った。

「死ねぇ――!」

 剣が豪腕のように振り回される。跳躍し、避ける。

「甘い――!」

 奴はそのまま剣を振り上げようとした。だが思うように上がらず、攻撃はあらぬ方向に向けられた。

「何――!?」

「今よ、ハッター!」

 ダーマウスが叫ぶ。ハッターが接近し、丸鋸を投げつけた。剣で弾かれたが、動作は重苦しい。全体的に動きが鈍くなっていた。

 ダーマウスのサイコキネシスの能力だ。接近したお蔭で、敵の体全体に超能力を用いることができている。

「貴様ら……吾輩に何をした……!?」

 ハッターがロッドで攻撃する。敵は避けられず、無数の打擲を受ける。更に私も背後から回し蹴りを打ち込んだ。


「く……くそ……!」

「行けるわ――このままリンチして――」

「ふざけんじゃあねぇぞ、メスガキ共がぁぁぁッ!」


 ジャバウォックがえた。


 途端、総身から漆黒の炎を吹き出し始める。禍々まがまがしい炎だ。熱はない。ただ非常に邪悪な気配を感じる。

 剣が迫る。速い。これまでの速度ではない。私とダーマウスは避けられた。だがハッターは攻撃を諸に喰らって吹っ飛ぶ。


「ダーマウス、念力は!?」

「使ってる! 使ってるのに――!」


 ジャバウォックは剣で地面ごと抉り飛ばし、無数の土塊で攻撃してきた。ダーマウスが念力でガードする。

 だがそれは時間稼ぎだった。ジャバウォックは勢い良く剣を振り被り、風圧で私たちを吹き飛ばす。後方へ吹っ飛ばされるということは、敵との距離が長くなるということ。当然、サイコキネシスの効力も薄まる。

 身軽になったジャバウォックはハッターの元へ跳躍する。一人ずつ確実に仕留める方へ作戦をシフトさせたらしい。

「ヤバイんじゃないの、あれ……」

 私が呟くと、ダーマウスが無数の土塊を使って空中に煙幕を張った。土を操って空中に撒布さんぷしたのだ。だがこれでは私たちからも敵の姿が見えない。


「一体どうする気?」

「……ラビット。悪いけれど、ここから先は私一人で戦うわ」

「は? 何言って――」

「私の切り札は、抑えが利かないの。だから貴女にも迷惑かけると思うけど、我慢して頂戴。念力が効かないと分かった今、方法はこれしかない」

「ちょっと待った――アンタ一体何を――」


   *


 目が覚めるとベッドの中にいた。

「……アレ?」

 窓から差す日差しが眩しい。日差しを左手で遮りながら、右手で弄る。

 ……あった。ケータイを開き、時刻を確認する。十二時。真昼間だ。

「もう昼食の時間じゃない……」

 今日はオフで練習もなかった筈。というか……。

「戦いはどうなったの……?」

 負けた――? それはない。白ウサギの説明では、敗者はアリス・ウォーに関する記憶を全て消去される。つまりアリス・ウォーのことを憶えている以上、敗北はしていない。

 いや――そもそも――。

「夢だったのかしら……全部」

 でなければ急に自室のベッドに転移したことの説明がつかない。

 なんだ……夢だったのか。それにしても、不思議で……物騒な夢だった。

 戸を開けリビングへ向かう。昼食をどうするか考えながら。

「どちら様ですか?」

 男性の声。――違う。父の声だ。

 リビングには父がいた。いつも仕事で家を空けているのに。

 父だけではない。母もいた。同じく仕事人間の母だ――。

 それだけではない。少女もいた。黒髪の少女だ。三人とも席に着き、昼食を摂っている。

 ――私に姉妹はいない。一人たりとも。


「……ちょっと、その子誰なの? 親戚の子?」

「――私? 私はアリスよ。花森アリス」


 ――は?

「何言ってるの……? その子、何? 私と同じ名前の親戚なの? そんなのいた?」

 両親に尋ねるも、二人共こちらを凝視したまま、一言も発さない。


「ちょっと聞いてんのよ! その子誰ッ!? 何ものなのよッ!?」

「だから言ってるじゃない。私、アリスよ! 花森アリス!」

「大法螺ぼら吹いてんじゃねぇぞクソガキッ! テメー一体どういうつもりだッ!?」

「なら逆に聞くけど。貴女誰よッ!?」


 ――何?


「私はアリスよッ! 花森アリス! アンタじゃなくて、本物のアリスよッ!」

「……本当に?」

「――は?」

「貴女本当にアリスなの? 花森アリスなの?」

「どういう意味……? 大人をからかってるの……!?」

「大人? 貴女のどこが大人なの? 子どもじゃない」

「――アンタ、済ました顔してるけどね、許してって泣いて叫ぶまで痛めつけてやることぐらい、朝飯前なんだからね」

「嫌だわ。貴女朝食を摂っていないじゃない。もうお昼ですもの。貴女が朝食を摂ることなんてできないわ」

「屁理屈捏ねてんじゃないッ! 私がアリスだッ! 学生証だって――」


 財布から取り出した学生証を凝視する。小学校の学生証で、写真には目の前のガキが写っている上に名前の欄に『花森アリス』とある……。


「う……嘘でしょ……? 私が写ってる……筈なのに……」

「それは私の学生証よ。返して」


 目の前の子どもは私に掌を見せる。引っ手繰る訳でもなく、ただただ純粋にこちらへ手を伸ばした。

「――ち、違うッ! 違うこれは――何かの間違いよッ! お父さん、お母さん! 私、私よ! アリスよ! 私がアリスよ! 働き過ぎて娘の顔を忘れちゃったのッ!?」

 だが二人はこちら見るだけで何も喋らない。

「私よ! 私がアリスよ! そうよね、パパ! ママ!」

 目の前の子どもは笑顔で両親に語りかける。


「どうしたんだい? 急に?」

「変な子ね。そんな当たり前のこと言って」


 ――嘘。嘘、そんな……。

 今までずっと黙っていた両親が……笑顔で……子どもの問いに答えた……。


「そんな……違う。私よ。『私が花森アリスよ』……。アンタじゃなくて、私が――!」

「証拠はあるの?」


 ない。……証拠なんてない。私が花森アリスである証拠なんて、どこにも――。


「こ、これは『夢』よ……。夢なんだわ……。夢に決まってるじゃない!」

「証拠はあるの?」

「証拠証拠ってうっさいわね――!」

「ないんでしょ? だってここは現実の世界だもの。料理だって食べられるし、テレビだって見られるわ。変なことなんて一つもないわ。――貴女一人を除いてね」

「――黙れッ! ニセモノ分際でピーチクパーチクさえずりやがって……! そうだ、ケータイ! だったら証人を読んでやるわ! マネージャーの佐藤よ!」


 ケータイを開き、電話帳を開く。が――。

「……は? 何これ?」

 電話帳には明らかに異常な量の番号が登録されていた。知っている名前から知らない名前まで、様々な人物の名と番号が羅列しているのだ。


「どうしたの? かけないの?」

「ま……待ってなさい! これ、一体――」


 飯島亜矢。思い出した。中二の時のクラスメイトで事故死した生徒だ。確か企業の怠慢が原因でニュースでも取り上げられた。だから思い出せた。

 まさか……これは、私がこれまで出会ってきた人間、全部の名前と番号……?


「早くしてくれない? ご飯が冷めちゃうわ」

「黙れッ! じゃあ――じゃあ」


 今更気づいた。バッテリーがほとんど残っていない。少しでも通話すれば切れてしまいそうだ。


「ほら、早く電話をかけなさい。証人を呼んでよ。どうしたの? まさかいないの? 貴女を貴女だって証明してくれる人が」

「黙れ……」

「一人もいないの? それだけ多くの人間に出会っておきながら、貴女を花森アリスだと証明してくれる人間が、ただの一人も――」

「黙れェェェッ!」


 私は田村一郎に電話をかけた。プロデューサーだ。

 ケータイを耳に当て、ダイヤル音を聞く……。早く……早く出て――!

 出た。


『もしもし田村です』

「もしもし――田村プロデューサーですか? 私、花森です。花森アリスですッ!」

『花森? ……えっとごめん、どのユニットだっけ……?』

「ミラクル・ティーパー――」


 切れた。画面には袈裟切りにされた乾電池が点滅している。

 ……バッテリーが切れたのだ。

「……そんな、馬鹿な……」

 両膝を床に着く。もう何の手段も残されていない。

「ほらやっぱり。アリスは私。私が花森アリス、ただ一人よ。最初からそう言ってるじゃない」

 そんなことない……私は花森アリスの――筈。でも……。


「なら――私は誰なのよ……? 私は一体だれなのよおおぉぉぉッ!?」

「そんなの知らないわ。貴女じゃない私が知るわけないじゃない」


 ……助けて。

 ……誰か、助けて……。


『そう言えば、君の名を聞いてなかったね。……アリス? あぁ、そうか。名前がアリスなんだね。よろしく、花森アリス』

「白ウサギ……」


 お願い……助けて……。

「助けて……白ウサギ……」

 懇願するようにケータイを握り締め、画面を見つめる。だがバッテリーが回復する筈がない。電話をかけることだってできないし、かかってくることもない――。

 ――待て、このケータイ……。


「……とんだ茶番に巻き込まれたもんね」

「……何ですって?」

「この猿……! よくもまぁ謀ってくれたわね。心底腹が立つわ……! あんまりにもくだらな過ぎてね……!」

「何? 何が言いたいの?」


 私は少女の眼前にケータイを掲げる。


「このケータイ……いわゆるガラケー、ガラパコスケータイじゃない。スマホじゃない。私が使ってるのはスマホよ……!」

「だから何? 貴女の持ち物なんて知らないわ」

「大法螺吹いてんじゃないわよ。これは貴女のケータイでしょ? そして、『私のケータイだった』」

「何を根拠に――」

「だって憶えてるもの。この機種だって。はっきり言うわ。『貴女は花森アリスよ。でも私も花森アリス。だって貴女は小学生の頃の私』だものね。学生証だって良く見てみれば、私が小学生の頃の学生証じゃない。これは『夢』よ。同一人物で、しかも異なる時代にいる人間が、同じ空間にいられるわけ――」


 空間が歪んだ。

 眼前の少女が斜めに傾く。

 違う。傾ているのは私だ。

 床が沈んでいるのだ。泥か粘土のように歪み、両足を飲み込んでいく。


「この――貴様ッ――!」

「ごめんなさいね。出口はそこしかないの。でも驚いたわ。いたのね、友達が」

「はぁ――!? 何失礼なこと言って――」


 目が覚めた。


 床に頭まで飲み込まれる寸前だった。

 不思議の国で寝転がっていた。無防備で、攻撃を受けたら一たまりもない状況だ。

 起き上がり、周りを見渡す。近くにハッターとダーマウス、ジャバウォックがいた。全員眠っている。

 ジャバウォックに気づかれないよう、ハッターを起こそうとする。

 軽く肩を揺するが起きない。

「ちょっと起きなさいよ……!」

 小声で叫び、揺さぶりを強くする――。

「お姉ちゃんを……信じて……」

 ――と呟いた。こいつには兄弟がいるのか。


 ハッターが目を覚ました。


 状況を説明し、次にダーマウスを起こそうとする。

「ちょっと、アンタ、起きなさいよ――」

 アリスダーマウスに手を伸ばした瞬間――。

 裂けた。

 背中がざっくり、あじの開きみたいに捲れ上がり、無数のトランプを放出する。


「――ダーマウス!?」

「貴女――何したの!?」

「何もしてない! 触れる前に、勝手に……!」


 そのままダーマウスは消滅した。あっけない最期だった。

 バキバキバキ……と歯軋りの音が聞こえる。

「どうやら、夢の中でのダメージは本人にフィードバックされるようだな」

 アリスジャバウォックだ。歯軋りをしながら笑っていた。


「その女は吾輩に夢の中で攻撃をしかけて来た。それこそが奴の切り札だったらしい。だが生憎、吾輩にはその手の精神干渉は通用しない……!」

「……つまり、ダーマウスは負けたってこと?」

「そういうことだ。そしてお前らもな。この吾輩に、雑魚が幾ら束になったところで、――勝てっこねぇんだよぉ!」


 ジャバウォックは剣を振りかぶり、戦闘態勢に入る。私たちも素早く立ち上がり、双方別方向に散った。

 たった二人でこの化け物と戦えというか――無謀だ。

 歯を食い縛り、状況を打開せんと考えを巡らせた瞬間――。

 ジャバウォックの動きが止まった。

 剣を大上段で構えたまま凍ったように停止している。

「――ちっ、またか」

 ジャバウォックは舌打ちした後、あっさり剣を納め不思議の森から出て行った。

 ……戦闘を続けずに退いた。何故……?

「追うわよ」

 ハッターは躊躇なく言う。


「待ってよ、三人でも敵わなかった奴に、たった二人で敵う訳ないでしょ!?」

「なら尻尾巻いて逃げるの? 言っておくけど、キャットには期待しない方が良いわよ。今回捕まらなかった人間が、次に捕まるとは限らない」

「でも――」

「なら私一人でも行くわ。ここで倒せなきゃ、私たち負け犬よ」


 負け犬――。確かに、ここで逃げ帰ったら、何の戦果も得られなかったことになる。ダーマウスは犬死だ。義理がある訳ではないが、この戦いを無駄にしたくない。

「仕方ない……でもやばそうになったらすぐ逃げるからね……!」

 私たちも不思議の森から脱出した。


   *


 脱出先はとあるスタジオの中だった。まだ時間は経っていないから、近くにいる筈だ。


「建物の中にいるなら、まだ間に合うわ。私はもう一度不思議の国に行って、アンブッシュを仕掛けるわ。貴女は何かを潜らないようにしながら、ジャバウォックの契約者を探して頂戴」

「分かった」


 ハッターは森に消える。

 私は頭上に注意しながら、スタジオの中を歩いた。数多くのスタッフが働いている。

 ジャバウォックの正体は既に割れている。アンノウン・ガールズの大城ミハルだ。画像検索で顔は割れている。探せば見つかる……!

 暫く歩いていると、誰かの泣く声が聞こえた。

 窓際だ。

 曲がり角から様子を窺う。

 私と同い年くらいに見える後姿の少女が、窓に爪先を向けて泣いていた。


「もう……いや、私嫌だよ……もうこんなことやりたくない……!」


 私と同じアーティストだろう。こんな感じにナーバスな気分になるのは、宿命だ。

 ……幼い頃ははステージの上が何でもできる聖域みたいに見えていた。皆がいて、ファンがいて、視聴者がいて――できないことなんてない夢の場所。

 現実は違った。ステージの上はこの世のどんな場所よりも孤独だ。信じられるのは自分自身だけ。一人での戦いを強いられる場所だ。


 こればっかりは、自分の力でなんとかする試練の一つだ。


 私が口を出して良いことじゃない――とは思ったのだが、……迷った末、タイミングを見計らって声をかけることにした。

 敵かもしれないのに、なんて酔狂な――。


「あの――」

「もうアリス・ウォーなんてやりたくないよぉ……!」


 咄嗟に身を隠す。

 ――こいつ、今――言った……! アリス・ウォーという単語を口にした……!


『今更何を言っているのだ、ミハルくん。吾輩と約束したではないか。トップアイドル目指すと』


 もう一人。誰かいる。だが姿は見えない。男の――いや、分からない。随分と歪んで枯れた声が聞こえる。

 少女をミハルくんと呼んだ……。アンノウンガールズの、大城ミハルだ……!


「こんな……こんな人を傷つけるようなことするなんて、聞いてないよぉ! 何で!? 何であんなことしなきゃいけないのッ……!?」

『これが戦いだからさ。誰かが死に、誰かが生き残る。ひたすら終わらない蹴落とし合いを繰り返す人間の業の輪舞曲ロンドだからだよ』

「そんなの間違ってるよ……! どうして人間同士で争わなきゃいけないの? 同じ人間なのに、どうして――?」

『それはな、ミハルくん。「トップアイドルの座はたった一つしかないから」だよ』


 見えた。窓に……映っている。異形の存在が、こちら側には何もないのに、窓にだけ、化け物の姿形が映っていた。『鏡の国のアリス』の挿絵とほぼ同じだ。紫の鱗、龍に似た姿、鋭い顎と爪――違うのは、顔が上下反転している。角のようなものはちゃんと頭の上にあるのに、口が目や額の位置にあり、目が口の位置にあるのだ。

 既存の生物の常識を打ち破り、器用に口を動かしながらジャバウォックは喋る。……間違いない。奴は鏡の世界から――鏡面の向こう側から話しかけている……!


『一番と言うのは、理論上たった一つしかないものなんだ。こう言えば当然、誰もが「同率」という概念を引き合いに出す。だが考えてもみ給え。この世で最も高い山が二つ三つもあるか? ないだろ? 地球上で最も高い山はエベレスト、大きい湖はカスピ海、長い川はナイル河、広い砂漠はサハラ砂漠……じゃなくて南極大陸だ。そう相場が決まってるんだよ。ならトップアイドルもたった一人だ。「同率」というのは、概念なのだよ。難しく言えば、形而上のもの、ようするにあったら良いな、という人間の願望だ。もし人類全員同じ順位なら、争わずに済むからね。――だがそれは嘘だ。この世には格差がある。格差があれば順位がある。順位があれば――一位がある。たった一つの玉座を血眼になって追い求めるのは人間の性だ。何故か? 誰もが皆始めは自分がこの世で最も尊い存在だと思い込んでいるからさ。だがやがて現実を知り、妥協を覚えてくる。たった一度しかない人生において、「そこそこ」に収まろうとする。欺瞞さ。自称博愛主義者は口を揃えて言うだろう。等身大が一番だ、と。だが等身大とうそぶけるのは、己が最下位ではないと知っているからこそ言えることだ。見下せる人間がいるからこそ、自分はまだマシと思える。そこそこイケてる、とか考えるんだ。戦わないと言っておきながら、ちゃっかり良い席は確保する、狡猾こうかつなやり口だよ。分かるかね? 良い席が欲しくない人間なんていない。好き好んで紛争地域に生まれたいと思う魂はないし、サメの群れの中で息絶えたい人間だっていないだろう。その点、ミハルくんはラッキーさ。日本という「そこそこイケてる」国に生まれた。この温い国で温く生きて温く死ぬのも立派な幸せさ。否定はしない。――でも違うだろう。ミハルくんが望んだのは、そんなくだらない人生じゃない。光り輝く王道こそ己の道だと進もうと思ったんだろう? なのに何で否定するんだ?』

「そ、それは……」

『言った筈だぞ、ミハルくん。吾輩が必ずトップアイドルにしてやると。約束しただろ? 今更何が不満なんだ?』

「……他人を、他人を傷つけるのは、良くないよ……」

『君はまだ子どもだ。仲良しごっこをギリギリ信じられる年齢だろう。だがはっきり言おう。大人になればなるほど、他人を傷つけることは避けられない。むしろより多くの人間を傷つけながら生きる運命だ。競争社会とは闘争の糊塗ことに過ぎない。こん棒や弓矢、投石器が鉛筆やパソコン、紙面に変わっただけだ。頭蓋を割って血を流す代わりに、頭脳を使って他人を蹴落とす。現代の「合法的」な戦争だ。人間は昔から変わっちゃいない。狙う、殺す、奪う。この三つで説明できる単細胞の群れだよ。戦わないなんてありえない。ただ人から愛されるだけでも他人を傷つけることはあるんだ。どうせ傷つけるなら、「正しく、賢く」傷つけるべきじゃないか? 今ここでトップアイドルになれば、不要な戦いを減らすことができる。ミハリンが一番だって証明すれば、誰も逆らわない。小動物が獅子を見るように向こうから逃げ帰る。楽で良いだろ? 本当に争いを嫌うのならば、争いを無くす努力ではなく、減らす努力をすべきだ。それが最も賢い』

「……」

『分かってくれたか?』

「ご立派。負けても同じこと言えるならね」


 曲がり角から姿を出し、窓に映る化け物に告げる。


『誰だッ――!?』

「アンタと蹴落としに来た、『野蛮な単細胞』の一つよ」


 スマホを掲げると、ジャバウォックは納得したように笑った。


『そっちから来てくれるとはな。良いだろう。ミハルくん、出番だ。こいつを倒せば、残り二人! 勝利は目前だ!』

「わ、私は……」

『安心しなさい。吾輩が全部やる。ミハルくんは今まで通り、歌でもなんでも歌ってれば良いんだ――!』

「嫌……私もう嫌だよ……! 戦いたくないよぅ……!」


 窓からジャバウォックが飛び出す。少女に憑りつき、漆黒の炎を纏う。


「さぁやろうぜ……!」

「アンタ、無理やり……!」

「だから何だ? 悪いか? ルール違反じゃないぞ?」

「なるほど、アンタを勝ち残らせる訳にはいかないわね」

「すみません、通りまーす」


 スタッフがこちらへ歩いてくる。二人。巨大なフープを運んでくる。

 ジャバウォックが駆けた。フープは潜るもの。つまり――。

 私も駆けた。フープめがけ全速力で走る。


「ちょっと、危ないですよ……!」

「動くな!」


 ジャバウォックの一喝いっかつにスタッフはひるみ、立ち止まる。

 フープの中をジャバウォックは潜る。私も続けて潜る――!


『変身!』


 ほぼ同時に不思議の国へ。変身も済ませた。丘の上に対峙する。


「お前の技はもう見切った……。スピードはあるが、攻撃力はない。吾輩が圧倒的に有利だな」

「そう言って余裕ぶっこいてた馬鹿を、一人仕留めてるんですけど?」

「これは余裕ではない。自信だ」


 ジャバウォックが迫る――。だが私にとっては亀のようなスピードだ。問題は攻撃力と防御力。攻撃は当たらなければ良い。だが防御ばかりはどうしようもない。クイーンと戦った時には、敵の能力の隙を突くことで勝利できた。だがジャバウォックの能力には一見弱点らしい弱点がない。単純な剣という武器のせいもある。一体どうすれば――。

 剣戟を避けた。拳を土手っ腹に捻じ込む。だが手応えがない。ダメージが一撃という域にすら届いていない。

「……今、殴ったのか?」

 ――チッ、月並みな嫌味を……!

 素早く後退し、距離を取る。

 手頃な飛礫を広い、剛速球で投げ飛ばした。ジャバウォック目がけ飛んでいく。

 命中。だがダメージがない。やはり私の攻撃力では傷一つつけられないか……。

「無情なモンだな、相性ってのは……」

 ジャバウォックは剣を振り被る。私は素早く第二投を撃ち込む。

「――棒球って知ってるか?」

 ジャバウォックが剣を振る。飛礫目がけ――切断面ではなく平面を向けて。まさか――。

「お前の投げた球のことだよ!」

 打った。野球のスイングと同じ要領で飛礫を剣の面で叩いて飛ばしたのだ。

 だがジャバウォックの力が強過ぎるせいで、飛礫は粉々になり、粉塵だけがこちら側へなびいた。


「……おっと、やり過ぎたか」


 ……勝てない。これでもう、投石を封じられた。接近戦しかない。だが接近戦で勝てないのは分かっている。

 ――まさか、負けるのか? ここで? こんなところで……こんなぽっと出の乱入者に?

 ……まだだ。まだ何か、きっと手はある筈――。

 だが心とは裏腹に、手足は震え始め、視線は出口ばかり探っている。歯の根が合わず、拳に力が入らない。


「消えろッ――!」


 しまった。反応が遅れた。今から間に合うか――。

 焦りが全身を強張らせた瞬間、耳が異音を捉えた。これは――。

 遠距離から丸鋸が接近する。ジャバウォックは剣で弾いて回避した。


「チッ――!」

「――ハッター!」


 森の奥からハッターが現れた。


「見つけてたのね。連絡ぐらいしてよ」

「そんな余裕あるように見える?」

「貴様ら……まだ吾輩を倒せると思っているみたいだな……」

「当たり前でしょ」ハッターが抑揚よくようなく言う。「じゃなきゃ組んだりする訳ないじゃない」

「ハッター! それ! それ貸しなさい、それ!」

「それって……この帽子? 何で?」

「良いから!」


 ハッターから帽子を受け取り、ジャバウォック目がけ投げる。途中で鍔が丸鋸に変わる。私の速度アップの能力で威力を向上させた丸鋸――これでどうだ――!?

「ぐっ――!」

 ジャバウォックは剣で受ける。たが弾き飛ばすことができない。逆に押している。


「今よッ――!」

「分かってる」


 ハッターが接近する。

 丸鋸がジャバウォックの剣を弾き飛ばした。

「なっ――」

 ハッターの杖がジャバウォックの胴体を打ち据える。だが――。

「くくくっ……!」

 効いていない……。ハッターの杖の攻撃では、ジャバウォックの防御力を凌駕できないのだ……!

「邪魔だ!」

 ハッターが吹っ飛ばされた。ジャバウォックが剣を拾う。

「帽子は……!?」

 ハッターの帽子は持ち主の元へ戻る。私が投げてもこちらには来ないらしい。

「消えろ……!」

 ジャバウォックの剣が迫る。ハッターは至近距離で帽子を回転させ防御する。避ける時間を稼ぐことはできた。

「……しぶといな」

 ハッターは私の場所まで後退してきた。


「お疲れさん」

「どうも」とハッター「……何か策はある?」

「……アンタの帽子を使うのが、最後の策。その杖がただの棒きれって分かった以上、勝ち目はなくなったわ。――逃げましょう。私たちじゃ勝てない」

「……なら貴女一人で逃げなさい」

「ハッター!? 無理よ! 奴は強い! キャットにでもやらせておけば――!」

「……負けたくない」

「え?」

「負けたくないのよ……! 私は、負けられないの! 負けられない理由があるの! ここで背中を見せる訳にはいかないのよ!」

「そんなの誰だって――」

「まだ続くかね、それは」


 ジャバウォックは余裕たっぷりに歩み寄ってくる。


「こちらとしては、一人は逃がしても構わないのだよ? 残りのアリス候補生を連れてきてくれるかも知れないからな。どうする?」

「行くなら行きなさい!」

「でも――」

「私はやる……!」


 ハッターは帽子を投げた。……仕方ない。

「逃げたくなったらすぐ言いなさいよ!」

 飛礫を引っ掴み、投石する。

 だが飛び道具では、ジャバウォックに傷一つ負わせることができない。すぐさま剣に弾かれ、逆に攻撃をする隙を与えてしまう……。

 やはり逃げるしかないのか――。そう考えた時――。


「ちょっと貴女」とハッターが言う。「もっと遠くから攻撃できる?」

「問題ないけど……それじゃ更に威力が……」

「良いのよ。離れててくれなきゃ、私の『奥の手』が出せないのよ」

「奥の手……!?」

「貴女を巻き込んでもおかしくない。巻き添えを食いたくなければ、離れなさい――!」


 すぐさま離れる。ハッターの総身から漆黒の炎が噴き出したのだ。――ついさっき、ジャバウォックが出した炎と同じだった。

「ガアアアァアアァァアアァァァッ――!」

 獣の咆哮。アイドルの声帯じゃない。総身に黒炎を纏い、ジャバウォック目がけ吶喊とっかんする。

 速い。杖の一撃がジャバウォックに迫る。剣で受けたが、受けたまま押されている。ハッターが攻撃力で押している……!

 互角だ。互角の戦闘力で拮抗している。あの黒い炎は、能力をパワーアップさせる効果があるらしい。だがということは――。

「調子に乗るなァァァッ!」

 ジャバウォックからも漆黒の炎が噴き上がる。ジャバウォックも同じパワーアップをしている。

 互いにぶつかり合う二つの炎。咆哮が森中に木霊し、武器の弾き合う音が戛然かつぜんと響き渡る。

 だがすぐに分かった。ハッターが押されている。


 ――勝てない。


 ジャバウォックは規格外だ。ルール違反としか思えない悪辣あくらつな強さを持っている。

 このままではハッターは負ける。

 ハッターが負ければ次は私だ。

 ここで逃げなければ、勝利はない。だが――ここで逃げても勝利はない。

 やるしかない。無謀な賭けだが――ハッターの奥の手がある分、勝機はある――!

 地面から得物を引っ掴み接近する。

 私はハッターよりもジャバウォックよりも早い。強化された二人の速度でも、私の全速力には追い付けない。これこそが私の武器――唯一の勝機……!

 ハッターが杖を弾かれ仰け反った。瞬間、飛び上がり、上空から投石でジャバウォックを狙い撃ちする。高速で打ち出される飛礫。だがジャバウォックをあっさり剣で弾いてみせる。

 ハッターの追撃、杖での突き。ジャバウォックの方が早い。剣で防がれる。


 ――この瞬間しかない。左手に握り込んだ土を石代わりに投擲する。――つまり目潰しだ。地面から石を拾う時に一緒に拾っておいた。遠距離でダメージを与えられないなら、搦め手で挑むしかない。


 ジャバウォックは私の速度に追い付けない。眼球に土が命中する。

「――ぐ」

 ハッターの杖がジャバウォックの土手ッ腹に入った。ジャバウォックがたたらを踏む。

「――この」

 ジャバウォックの背後に着地。後ろから蹴りを入れる。再びハッターが打擲する。

 ジャバウォックが剣を振り回した。体を屈め回避し、足を払う。態勢を崩したところで更に蹴り込み、中空に浮かせる。


「――なん、だと……!?」

「――アァアアアァアアアァァァッ!」


 無防備な胴体にハッターが一撃。私も連続で拳を叩き込む。

「ぐっ――ふざけやがってぇぇぇッ!」

 ジャバウォックが剣を振り回す。私とハッターは間合いを取る。

 耳が妙な音を捉えた。今まで聞いたことのない、亀裂の入るような音だ。

 ハッターから黒いオーラが消えた。

 時間切れだ。底力を発揮できる時間が終わったのだ。


「やった……やった勝ったぞ……! ハハハ、吾輩の勝ちだ! ゲームオーバーだッ!」

「――アンタがね」

「ほざけェェェッ!」


 ジャバウォックが迫る。だが動きは目に見えて衰える。


「――しまった」

「ハッターの強化が終ったなら、アンタの強化も終わる筈でしょ?」


 遅い。今の私には止まって見える。拳を握り、鳩尾に渾身の一撃を撃ち込む。

「馬鹿め、吾輩の防御力を――」

 エプロンドレスに散りばめられた鱗にヒビが入り、砕け散る。


「――何?」

「これを……待ってた……!」


 先ほどの音は、鱗に亀裂が入る音だったのだ。ハッターの攻撃の積み重ねが、ジャバウォックの強固な防御力を切り崩したのだ。

 ジャバウォックは仰け反り、たたらを踏み砕け散った鱗を呆然と見る。


「馬鹿な……この吾輩が……!?」

「――ちょっとどうしたの? 随分と余裕ないじゃない」

「ぐ……!」

「ダメよ、そんなんじゃ。アイドルはいつだって、全身の筋肉と肺を酷使した末であっても……余裕ぶって笑顔でないといけないんだから――こんな風になァッ!」


 神速で接近し貫手でジャバウォックのみぞおちをブチ抜く。トランプの穴を作り、背中まで突き抜け貫通する。

「――ぐ、がはァッ!?」

 ジャバウォックは散り散りバラバラのトランプとなり、消滅していく。

「憶えてろよぉてめぇー! このままで済むと思うんじゃねーからなァァァッ!」

 手を引き抜き、囀る頭部を鷲掴みにする。


「アンコールありがとう。――失せろ」


 そのまま握りつぶした。無数のトランプに変わり、消滅した。


 ジャバウォックは完全に消滅した。私たちの勝利だ――。


 両膝を地に着く。更に両手も。全身からしとどに汗が流れている。レッスンや本番でもここまでの汗を掻いたことはない……。


 命がけの戦いだった……。比喩とかではなく、真の意味で人生を賭けた戦い……。全身の筋肉が痙攣している。単なる疲労なのか、それとも今更ぶり返した恐怖なのかすら、判断がつかない。


 呼吸も今になって乱れ始めた。一気に緊張が抜けていく――。

「……勝ったんだ」

 傍らに倒れたハッターを見やる。


「ちょっとハッター、いつまで寝てんの?」


 息はしているし、トランプにもなってはいないから生きているし、敗退もしていない筈。単純に気絶しているらしい。

「やれやれ……起きなさい、ほら」

 頬を軽く叩くも何の反応もない。

 ハッターは倒れたまま動かない。

 恐らく、強化能力の代償なのだろう……。


 ――今なら。


 今なら、楽に倒せる。

 ハッターを倒せば残りのアリス候補生は二人。私とキャット。


 正直、キャットとは相性が悪い。だが相性の悪さは混戦に参加していたハッターも知っていることだ。私がハッターに有利に戦えていたことを知っている以上、キャットに私を狩らせた後でキャットに勝負を仕掛けようとする筈……。

 ならどちらに転んでも同じだ。ここで狩っても何の問題もない。

 ――だが、良いのか? 一時とは言え、共に戦った仲間を、こんな形で倒してしまうなんて……許されることなのか?

 でも……いずれ戦うのだ。どう足掻こうと、どう転ぼうと、必ず戦う羽目になる。キャットに倒される可能性があるのは問題ではない。重要なのは、同じ戦場に立っている事実。私たちは、互いに蹴落とし合う関係性であるということ。である以上――手加減だとか、優しさだとか、義理だとか後味の悪さだとか――そんなものは関係ない……!

 ここでやらなきゃ私がやられるかもしれない……! だったら一択。ここで始末する――。


 立ち上がり、ハッターの杖を拾おうとして……やめる。そんなのは不誠実だ。道具なんて使ってんじゃない。相手にトドメをさす時は、自らの手足で直にやる……。傷つける生々しい感触を忌避する者に、他人を蹴落とす資格などない……!

 やってやる――私は、トップアイドルになるんだ……ならなくちゃいけないんだ……!


「うわあああぁあああぁあぁああああぁぁぁッ!」


 思い切り足を振り被り、蹴りを腹にブチ込んでトドメをさそうとした刹那――。

 耳が異音を捉えた。

 回避する。

 私の頭があった場所を、石が掠めていった。

「おっ、避けられんじゃーん。良かった当たったらどうしようかと」

 振り向く。キャットだ。アリスキャットがこちらに近づいてくる。

 今、この場に……残りのアリス候補生が揃った。ここが最終決戦の地になっても、おかしくない……。

 私とキャットは睨み合う。向こうの目に戦意はない。

 私は疑問を口にする。


「何でとめたの?」


 今のは明らかに止めるための投石だ。あのままなら、私は間違いなくハッターにトドメをさしていた。トドメの後で、弱った私を仕留めればキャットの勝利が確定する。なのに何故……?


「んー? 今はちょっと言えないかな。まだ裏が取れた訳じゃないし。でもちょっと事情があってね。今ハッターやアンタに消えて貰っちゃ困るのよ」

「どういう意味?」

「意味も何も……言った通りよ。そういう訳で、退いてくれない?」

「冗談じゃない、私は――」


 キャットの首から下が消えた。

「……ま、ボコって無理やり追い出すのも悪くないんだけどさ。……疲れるから、ね?」

 今の私は明らかに疲弊している。間違いなくキャットに勝ち目はない。


「何で……? 何でハッターを助けるの? アンタたち協力でもしてるの? ならなんでジャバウォックの戦いに顔出さなかった訳……? つーか、ここまで数が減って協力も何も――」

「まずはっきり言うけど、私がとめたのは私に利があるから。完全にエゴよ。でも一言言いたいんだけどさ……体力使い切って死闘を繰り広げた協力者の寝込みを襲うとか、人としてどうなのよ?」

「……何よ、悪い? これはバトルロイヤルなんでしょ? 汚いも何もないってアンタが言ったんじゃない。別にルール違反でも何でも――」

「あのさぁ……わからない? 醜いっつってんのよ」

「――何だと?」


 今更首突っ込んできて何様だ――。


「こそこそ隠れてた臆病者が何抜かしてんだ――?」

「隠れて観戦してたからこそ言えるわ。アンタ一人じゃジャバウォックに勝てなかった。ダーマウスとハッターの協力あってこその勝利でしょ? なのにハッターの寝込みを襲うなんて、不義理にも程があるんじゃないの?」

「――綺麗事言ってんじゃねぇぞ! これは……そもそもそういう戦いだろうが! 生き残れるのはたった一人! たった一つのトップアイドルの座をかけて蹴落とし合う戦い! なのに……なのにてめぇ……何一人お高く止まってんだよォッ!?」

「言いたいことはそれだけ?」


 眼を飛ばすも――体力の限界だ。無理だ……戦闘になれば絶対に勝てない。

 ……退くしかない。

「次に消えるのは……テメーだからな!」

 アプリで出口を確認し、脱出を試みる。

「待った!」

 キャットに呼び止められる。応えず、無言で振り向く。


「冗談抜きでアンタの面、最悪よ。マジで鏡見た方が良い」


 トンネルを潜り、不思議の国から出国した。


    *


 最短距離で帰宅し、ソファに倒れ込む。


 指一本動かすのにさえ、全神経を集中させる必要がありそうだ……。

 それでもシャワーを浴びないまま寝る訳にはいかない。脱衣所に向かう。服を脱ぎ棄て、浴室に入った。


 沸かしている時間はないので、シャワーで済ます。


 ふと鏡を見た。


 ――自分じゃない誰かが映っている気がして背筋が凍った。

 だが改めて見れば映っているのは間違いなく自分で、別の意味で恐怖心が生まれる。

 なんて酷い顔だ……アイドルがして良い顔じゃない。

 全体的に強張っていて、恐怖を与える面構えをしている。顔をマッサージして笑ってみる。だが元に戻らない。どこか違う。いつも通りの笑顔を浮かべている筈なのに。

 必死に表情を繕っている内に気づいた。


 ――目だ。


 人の目じゃない。

 獣の目だ。

 生存のため手段を選ばない――修羅と化した悪鬼羅刹の双眸だ――。

 自覚できるほどに鋭い眼光が自身を射抜いている――。瞬きしても、目を擦っても、元に戻らない……。 


 これが……私……?


 こんな――恐ろしい目をした人間が……?


「――私だって……」


 目から涙が零れ、シャワーに混じる。

「私だって……人間全員が幸せになれるんだったら、こんなことしたくないわよッ!」

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