◇第一章 ウサギのドア

 花森はなもりアリスは芸能事務所に所属するアイドルの卵である。


 年齢、十六歳。身長、一六〇センチメートル。誕生日、十二月二十日。星座、射手座。血液型、A型。公式プロフィール参照。


 いずれ世に出て認知される、私の宣伝材料だ。


 正直、年齢はともかく血液型に何の意味があるのか、と思う。酷い怪我でぶっ倒れる予定がある訳でもないのに、何故血液型なんぞおおやけにしなければならないのか。


 理由は単純。ファンが求めているからだ。それ以外の何ものでもない。


 好奇心猫を殺すというが、人間の好奇心は九死を凌駕りょうがしている。でなければ河豚ふぐの調理方法を見つけたり、医薬品を発明したりなんてしないだろう。それほどまでに、人間の探究心、知りたいという感情は侮りがたい。

 天才に限った話ではない。凡人も同じだ。テレビをつければ野次馬染みた好奇心にあふれかえっている。


 血液型は、そんな中でも知られたがる無意味な情報の内の一つだ。何の価値もない。占いにしか使えないし、使ったところで当たらない。

 だがそれさえも『個性』だと言うのであれば――必要なのだ。所詮四種のカテゴライズに過ぎないが、枠を作り出せるのであれば、そこに入らない理由はない。


 アイドルの原義は偶像である。偶像とは『可視化された神仏』の意。私たちは象徴でなくてはならない。何の――? 『求められる何かの』――だ。


 キリストが常に憔悴した表情を浮かべているように。

 大仏が常にアルカイックスマイルで微笑んでいるように。

 私たちは『そういうもの』が求められる。応じた表情が。逆はありえない。


 端的に言えば、プロ意識だ。


 それを手に入れるために、私はレッスンを積む。

 アイドルの卵の仕事は、ひたすらレッスンをこなすこと。デビューのために、力を蓄えること。

 完璧に踊れるようになること。笑いながら。更に歌いながら。三つのことを同時進行でやらなければならないのだ。


 それが仕事の全てではないが、全てはそこから始まる。


 だから今日も――私は踊る。


 姿見を見ながら『偶像』たる己を研鑽けんさんし完成させるために――。


「それじゃ、今日のレッスンはここまで」

「ありがとうございました!」


 トレーナーに一礼。更衣室に向かう。シャワーを浴びて制服に着替え、外に出る。完全に日は落ち、黒いとばりが空一面に広がっている。

 最短距離で駅に向かう。電車に乗って自宅の最寄駅まで移動。そのまま真っ直ぐ帰宅する。寄り道する体力がもったいないからだ。


 自宅に到着し、鍵を開け、部屋の電気をつける。冷蔵庫に張り付いたホワイトボードを見る。両親は今日も帰りが遅い。冷蔵庫から冷凍食品のミートスパゲティを取り出し、電子レンジに突っ込む。

 テレビをつけ、ザッピング。特に面白そうな番組がなかったのでリモコンを放り投げた。代わりにDVDプレイヤーのリモコンを引っ掴み、録画していたドラマを再生する。食事と食休みの暇潰しにはなった。

 浴槽を洗って湯を張って、お風呂に入って、適当に宿題を終わらせて、ストレッチをしてから寝る。

 これが私の日常。一年以上続けて来た変わらない日常。


 翌日。朝食にコーンフレークを食べてから学校へ。今日は放課後に自主トレをする。

 電車に乗り込み、窓の外を見る。超有名アイドルの看板が目に入った。

 ……アタシ、いつになったらデビューできるんだろう。

 その問いの答えを出せるのは、自分自身しかいない。


   *


 今日のレッスンが終わった。もう帰り支度は済んでいたが、ぼんやりと鏡を見つめていた。

 瞳も髪も黒。髪は長く、きちんと手入れをしている。

「顔は悪くない……筈……」

 最も写真写りの良い角度で鏡を見てみる。

 角度は重要だ。

 何故なら人間の顔は左右非対称だからだ。

 故に右から見るか、左から見るかで、全く印象が違ってくる。

 左右対称に近ければ近いほど、美しい顔になるとされている。

 だが実際問題、かの名画『モナ・リザ』でさえ左右非対称なのだから、真に左右対称の人間などそうそういないだろう。故に、こうして己の『最良』の角度を知らねばならない――。


 こうした努力も、今のところ実る気配がない――。


 体型にだって気を使ってるし、レッスンだって頑張ってる。なら何が――。

「何が足りない――?」

 スマホが鳴った。母親からだ。億劫おっくうに思いつつも出る。

「はい、もしもし。何か用?」

 だが母親は何も言わなかった。無言電話――? でも、確かに液晶画面には母親の名が――。


「もしもし? どうしたの?」

『トップアイドルになりたいですか?』


 母親の声じゃなかった。もっと若い、少女の声。穏やかだがどこか浮世離れした声音。


「質問してるのはこっちなんだけど。アンタ誰よ? 母さんは!?」

『この回線は一時的にお借りしているだけです』

「は――?」


 何そのスパイ映画みたいな言いぐさ――でもそうじゃなきゃ、なんで母さんからこんな――。


『繰り返します。トップアイドルになりたいですか?』

「ちょっと! それこっちの質問の答えになってないじゃない! 私はアンタは誰かって聞いてんのよ!」

『おいおい分かるでしょう。貴女が「戦う」ことを選べば』


 背後から大きな音がする。控え室の戸が勢い良く開いたのだ。勝手にだ。誰もいない。そして戸の虚空に妙な紋様が浮かび始める。工事現場で立入禁止を示す黒と黄の縞模様の看板のような、何かが――。

『繰り返します。トップアイドルになりたいですか?』

 スマホの向こう側の相手が繰り返す。

 戸の虚空から声が聞こえる。この女と同じ声だ――。


『入国準備が、完了しました。入国許可証を持って、ゲートをお潜りください。繰り返します。入国準備が、完了しました。入国許可証を持って、ゲートをお潜りください……』

「ちょっとこれ何? 何かのドッキリ!?」


 戸の虚空に触れる。何の感触もない。当然だ。だから潜ってみる。その先には廊下があるに決まって――。


「……え?」


 戸の向こう側は――森だった。見たことのない植物が生い茂る森。当然、ここは室内の筈なのに――。仮に外だったとしても、今は夜の筈。何故太陽が出ているのだろう。

「ちょ――」

 振り返る。ない。さっき潜った戸がどこにもない!

「嘘でしょ!? ちょっと! 出しなさいよ!」

 森に叫ぶ。だが木々の間に木霊こだまするだけで何の反応もない。

「これ……? 夢? 夢なの? そうよ、夢なんでしょ? そうよ。きっと、私疲れが溜まってて、それで――」

 愚直に頬をつねってみる。痛かった。だが目が覚めることはない。痛いだけだ。周りは生い茂った木々の群れ。気味の悪いきのこも群生している。

「嘘でしょ……? やめてよね……。何の冗談よ、これッ!?」

 周りには誰もいない。人だけではない。犬一匹いないし、昆虫の気配すらない。ただ木々が不気味にこずえの音を響かせるだけ……。

「そうだ! スマホで……!」

 圏外でした。

「クソッ!」

 上空を振り回してみてもアンテナ一本すら立たない。仕方なく、スマホを機内モードにする。圏外状態ではスマホが電波を探すため、バッテリー消費が激しくなる。

「どーすんのよ、これ……」

 遭難した時って、動かない方が良いんだっけ? でもこれ、遭難の定義に当てまる状況な訳……? 明らかに遭難以上の異常事態でしょ……!


 考えた末、仕方なく歩くことにした。できる限り、視界の開けた木々が集中していない場所を選びながら、進んでいく……。近場の小枝を折り、目印にしていつでも戻れるようにしておく。

 ただでさえレッスン終わりでクソ疲れてるってのに、何でこんな目に……。

 そう考えながら唇を噛んだ時のことだ。何か蹴った。妙に柔らかな肉の感触にぞっとして悲鳴を上げ後ずさる。足元を見ると、草むらに隠れてウサギの死骸が転がっていた。

「うぇっ……最悪……!」

 靴に血は付着しなかったが、足に死体の感触が残っているのが気持ち悪かった。

 だがすぐ異常に気づく。耳しか見えなかったウサギの胴体を見ると、チョッキを着ていたのだ。変わってる……。犬に服を着せるのは良く聞くけど、ウサギに服を着せる人間がいるとは……ということは野良ではないらしい。

 ウサギの耳が動いた。全く動かなかったので死んでいるのかと思ったが、生きていたらしい。

「ちょっとアンタ、大丈夫?」

 生きている以上、無視できないと思いウサギを覗き込む。奇妙なことにウサギの瞳は真紅ではなくピンク色で、首から懐中時計をぶら下げていた。高そうな代物だ。

「待って……これ、何かどっかで……」

 だが一つ分かった。このウサギは誰かのペットだ。ということは、近くに誰か人がいるということ。ウサギを抱きかかえ、周りを見る。何とかこいつの飼い主に接触して、帰る方法を見つけないと……。


「あ……!」


 遠方に人影を発見する。こっちに向かって歩いてくる。

「おー……いッ!?」

 思わず近場の木々に隠れる。そこから人影を窺い、容姿を再確認する。

 人影は少女だった。私と同年齢くらい。だが問題は服装だ。女子高生が着るにはキツイ、エプロンドレスを着用していた。エプロンは白だが、ワンピースは緑に極彩色のまだら模様がついている。さらに頭には蝶の触覚を連想させる玉に針金を突き刺したカチューシャを被っており、髪の色は緑色だった。


 関わりたくねぇ……。


 だがこの妙なウサギの飼い主である可能性は非常に高いし、この第一村人を逃して第二、第三が現れてくれる保障などない。……仕方ない。腹を決め、木から姿を出す。

「あ、あのぉ、すみませぇん」

 できる限り相手を刺激しないように、低姿勢で挨拶をする。

「こ、このウサギ……ちゃん、貴女のだったり、しますぅ?」

 少女がこちらの姿を認めた。目が合ってしまう。最悪だ。少女は笑った。何を考えているのか分からない。気味の悪い笑みだ。

 だがすぐに何を考えていたのか思い知ることになる。少女はどこからともなく鞭を取り出し、こちら目掛けて振るってきたのだ。

 すぐさま木に隠れる。しなった鞭が木を痛々しく打擲ちょうちゃくする。瞬間、理解する。奴は敵だ。狂っているか否かは関係ない。こちらを攻撃する姿勢を取った以上、衝突は避けられない。


 木の生い茂る森の中へ足を運ぶ。木々に囲まれた場所なら、鞭を振るえない筈だ。

 だが最終的にどこへ逃げれば良いのだろう。周りを見渡すも、区別のつかない光景がぐるりと自身を囲うばかり。正しい正しくない以前に、道さえ理解するのに難儀する。間違って元来た道に戻ったら、あの鞭の餌食になりかねない。顔だけは絶対に護らないと……。

 小枝の折れる音を聞いた。恐らく、あの女が小枝を踏んだ音。だが敵の姿は見えない。確かに聞いた。遠くない距離の筈……。

 まさか……敵はこの森に精通しているのでは? 立ち止まっていては追いつかれる。

「ヤバッ、靴紐が……!」

 急いで靴紐を結び直し、再び走り始める。嫌な汗が背中を流れる。せっかくシャワーを浴びたばっかりだったのに、クソッ……。

 背後から悲鳴が聞こえた。トラップにかかって転んだのだ。靴紐を直したついでに、足元の草を結んでおいた。だが敵の姿は見えない。何故……?

 私は取り敢えず、適当な木に身を隠し、息を整える。レッスンのしごきのお陰でまだ走れるが、走り続けて走れなくなるのが一番マズイ。

 抱いた腕の中でウサギが身動ぎする。

「ちょっと、アンタ大人しくしてなさい……! 頭のおかしい女になぶり殺しにされても良いの……!?」

 小声で命令する。するとウサギはこちらを向き――。

「アリスかい?」

 ――と。

「うわああぁああぁぁぁっ!?」

 思わず放り投げる。ウサギは宙で一回転した後、無様に地に落ちる。


「あ……あああ、アンタ今ッ! しゃ、しゃしゃしゃ喋って……!?」

「い、痛いよぉ……。どうしてこんな酷いことするの? 僕がどん臭いから……?」

「や、やっぱり喋ってる……!? 嘘でしょ? 何でウサギが……!?」


 駆け寄りチョッキを掴み、顔を覗く。どう見てもただのウサギだった。


「痛いよぉ。乱暴にしないでおくれよぉ……」

「質問に答えろッ! アンタなんで喋って――」


 背後で空を裂く鋭い音。振り向くとすぐ背後にあった木が。歪な音を立てながらこちらへ倒れてくる途中だった。

「嘘――来いッ!」

 ウサギの首根っこを掴み、草むらに飛び込み倒木から逃れた。ワンテンポ遅れて倒木した轟音が聞こえる。あと一歩遅かったら、確実に下敷きになっていた……。

 草むらに隠れ、倒れた木の切れ目を見る。チェーンソーや斧で切った跡ではない。小枝を無理やり折ったようなささらの跡だった。ということは、まさかあの鞭で……? どうやって?


 でも一つ分かった。マジだ。マジであの女、アタシを殺す気だ……。


 突如何もなかった場所に、先の女が現れた。「あら、時間切れね」と呟く声が聞こえた。まさか……透明になっていたのか……?

 私はこっそり近場の木に登り、木の上に身を潜める。そして先程からずっと口を塞いでいたウサギの耳に囁きかける。

「良い? 小声よ。小声だけなら出して良いわ。小声以外を出したらすぐさま首の骨をし折ってやるからね」

 ウサギの口から手を離す。


「……た、食べないで……」

「食べないわよ……!」


 危うく大声を出しかけた。


「アンタ何で喋れるの? 答えなさい」

「う、ウサギが喋っちゃいけないの……?」

「たりめーだろ、ふざけたこと抜かすと煮て喰っちまうわよ……!」

「や、やっぱり食べる気なの……?」


 違う。こうじゃない。


「分かった。もういい。質問を変えるわ。何でアタシのこと知ってるの?」

「何のこと?」

「アタシのことアリスって呼んだでしょ?」

「君はアリスじゃないか」

「オーケー、選べ。レアかミディアムかウェルダンか」

「助けて神様……」


 震えるウサギを無視して、木の下をうかがう。奴の姿は見えない。


「まさかとは思うけど……命を狙われてるのはアンタだったりしないわよね?」

「もしかして、さっきの倒れた木のこと?」

「そうよ……!」

「あれなら僕じゃなくて君だと思うよ?」

「何で?」

「それは――」


 再び鋭い音。木の軋む音。足場が揺らぐ。まさか――。

「マジで――!?」

 登っていた木がゆっくりと倒れて行く。逃げ場はない。ウサギを抱き締め体を丸め、衝撃に備える。

 木が倒れた。勢い良く放り出され、地べたを転がり回る。全身を打ち、肺から空気が漏れてうめきが出る。


「――がっ、くっそ――」

「やっと見つけたわ」


 声のした方向を見ると、先の少女が鞭を持ってこちらへ歩み寄ってくる最中だった。


「な――どうしてアタシを狙うのよッ!?」

「どうして? それは貴女がここにいるからよ」

「はぁッ!? ここらの連中は全員頭に蛆いてんのッ!? 何かアンタに恨み買われるような真似したッ!?」

「恨みはないわ。でも貴女はここにいる。だったら戦うしかないのよ!」


 このままじゃ――殺される。

「ま、待ってよ……。何でよ!? それって理由になってないじゃない! ふざけんじゃないわよ!」

 だが少女は動揺すらしない。本気で殺す気だ。

「誰か……誰か助けてッ! お願い! 誰でも良いからッ! 誰かいないのッ!?」

 叫びは木々の間を木霊する。周りに他の人間がいる気配はない。そんな……こんなところで、こんな森の中で殺されるのか。こんなところで、私は――アイドルに成れずに死に絶えるのか……。

「ふざけるな……」

 拳を握り締める。

「ふざけんじゃないわよッ!」

 叫ぶと同時にてのひらに収めた土を少女の目に撒く。目潰しで怯んだ瞬間に走り出した。

「ぐあッ! お前、良くも私の顔にッ……!」

 鞭があらぬ方向を跳ねる。私は無視して走り続けた。

 何で――何でこんな目に――。


「誰か……誰か助けてよ……!」

「その……助けようか?」


 立ち止まる。声のした方向を向くと、先のウサギがこちらを見ていた。


「アンタ……アタシを助けてくれるの?」

「正確には、力を貸すだけだよ。君にあの子に太刀打ちできる力を与えてあげる。でも勝てるかどうかは君次第だ」

「力……? それってどういう意味? 私も木をぎ倒せるようになるってこと?」

「それは僕の得意分野じゃない。でも勝機はあるよ。ただ――」


 このウサギは得体の知れない畜生だ。ウサギの分際で人語を操る。服まで着て高そうな懐中時計まで持ってる。正直、話を鵜呑うのみにする方がどうかしている。


 でも――。


 すぐ近くで木が倒れる音が聞こえた。少女が姿を現す。

「何で……どうしてここがッ!?」

 倒れた木の分、木々に隙間ができ、木漏れ日が差し込む。私と少女の間に、光り輝く糸のようなものが見えた。

「……目印か」

 糸を手で払うが切れない。もう……逃げられない。

「覚悟しなさい」

 少女が接近してくる。

 私は――腹を決めた。


「寄越しなさい」

「え? 良いのかい? もっと良く考えた方が……」

「寄越せッ! その力ッ! 私が戦うって言ってるのよッ!」

「……分かった。君に授けよう。アリスの力を――!」


 突如、スマホが鳴り始める。おかしい。電波が全然届いてなかった――いや、それ以前に機内モードにした筈なのに……。

「スマホをタップして! 変身するんだ!」

 白ウサギが叫ぶ。

「はぁ!? 変身!?」

 意味不明だったが、勢いでスマホをタップしてしまった。

 地面が変化した。巨大な本になった。その中央に私はいる。ページには意味不明な記号で文章が綴られている。

「……これでどうしろと?」


 本が閉じた。


 当然私はぺっちゃんこ。

「やったー! これで七人揃った! 正式にアリス・ウォーの開幕だー!」

 何喜んでんだ――そう腹が立ったということは生きているということ。


 本が開いた。そして消滅する。


 私の両手には妙なものがついていた。グローブだ。ウサギの足を象ったグローブ。それだけじゃない。服が変わっている。制服を着ていた筈なのに、目の前の少女と同じエプロンドレスを着ていた。ドレスの色が水色なのが唯一の違いだ。

「ちょっと何これ! コスプレじゃない! なんで私こいつと同じ格好――」

 鞭が飛んだ。避けられなかった。腹部に命中し、後方に吹っ飛ばされる。死んだと思った。木を薙ぎ倒す一撃だ。背骨を真っ二つにすることなど造作もないことだろう。激しく木に叩き付けられる。呻吟しんぎん苦悶くもんの声を漏らす。……生きている。背骨は繋がっている。間違いなくまともに攻撃を受けたのに……。

「それが君の力だよ、アリス」

 ウサギの声が聞こえた。だが姿は見えない。違和感を覚え、頭に手をやる。妙なものが生えていた。長い物体が二つ。感覚がある。これは……。

「嘘、何これ!?」

 頭にウサギの耳が生えていた。それだけではない。自慢の黒髪は真っ白になっている。臀部でんぶを探ると、まん丸の何かがついているのが分かる。尻尾だ。ウサギの尻尾までついている。


「な、なんで、どうして……? 嘘でしょォッ!?」


 誰かが近づいてくる足音が聞こえる。ウサギの耳が生えてるせいか、遠くの音が聞こえるのだ。だがあの少女の姿は見えない。恐らく、透明になっているのだ。私は腕を見る。まだ糸はついたままだ。どうやっても外れないし切れない。位置は完全に知られている。

 森の中を見渡す。そこで気づいた。見るよりも、聞いた方が良い。足音に耳を澄ます。確かに近づいてきている。二時の方向。もうすぐ、鞭の射程に入る。

 鞭の放たれる音が聞こえた。だが聞こえた瞬間、音が間延びする。機材を使って音を無理やりスロウにしたような音だ。私は体を横に動かす。それまでいた位置に鞭が放たれた。木が折れ倒れる。


 いとも簡単に避けられた。映画のワンシーンみたいに、世界がスロウに見えた気がする。これもあのウサギの与えてくれた力なのだろうか。

 少女が姿を現す。どうやら透明化には時間制限があるらしい。

「思ったよりも、すばしっこいのね」

 少女は鞭を撓らせる。


「それはそうだよアリス。何せ、あの臆病な白ウサギと契約したアリスだからね」


 ぞっとした。少女の右肩に巨大な芋虫が現れたのだ。思わず悲鳴をあげ、キモイと連呼する。


「これは失礼、マドモアゼル。ワタクシ、不思議の国の住人が一人、イモムシと申します。以後、お見知り置き……あぁいえ、結構です。貴女はここで敗退するのですから」

「キモチワルイッ、口利いてんじゃないわよッ、下等生物の分際でッ!」

「おやおや、随分と嫌われてしまいましたな。敵であることを差し引いても、人に好かれる容姿でないことは、重々承知なのですが、こうも毛嫌いされるとは……」


 紳士面した下等生物を肩に乗せた女は不敵に笑う。


「気にすることないわ。だってこいつは、私たちの術中に完全に嵌ったのだから」

「何ッ……!? どういう意味よッ!?」

「わざわざ説明すると思う?」


 再び姿が消える。しまった。時間を稼がれた。ある程度休めば何度でも透明になれるのだろう。

 耳を澄ます。どこからくるか、聞き逃さないように。

 木が倒れた。外れだ。あらぬ方向の木が突然圧し折れ、倒れ始めたのだ。無論、鞭で折られたのだろう。それが二本、三本と増えていく。

「……しまった!」

 木のきしむ無数の音が、足音や鞭の音の判別を困難にしていく。私が音で居場所や攻撃を察知できることは、既に知られている。

 なら次はどうすれば良い? 違う。敵はどうする? 間違いなく私を狙い打つ筈。ならば――。

 私は木々の間を縫い、その場から離れて行く。背後からは無数の轟音が聞こえる。だが足音らしきものは、近くには聞こえない。足が軽い。足の速さは並だった筈だが、明らかに異常な速さで移動できている。ウサギだから足が速くなったのかも知れない。そのまま広場に出る。足場には草が生い茂っているが、周りに木はない。つまり隠れる場所はない。だがそれは敵も同じだ。ここでは音をジャミングできる物資はない。

 どこからでも――来い!

 鞭の撓る音が聞こえた。足元を狙っている。察知し、背後に退く。だが読みが甘かった。奴が狙ったのは地面そのものだ。地をえぐり、土塊つちくれが顔にかかる。視界を失う。


「ぐッ――!」

「アンタが仕掛けた小細工よッ!」


 敵が近づいてくる。聞こえるのだ。足音が。

 そうだ。足音さえ聞こえれば、目なんていらない。

 鞭が撓る。右に避け、一気に接近する。足音から考えて、間違いなくここだ。

 右ストレートをぶち込んだ。命中した手応え。悲鳴と共に何かが倒れる音。

 視界が回復した。目を拭うと、地面に茶色い物体が寝転がっていた。木に似た色だ。木の模様もついている。良く見ると少女の姿態をしている。

「あぁ――それ知ってるわ。何だっけ? そうだ、擬態だわ。なるほど。虫だから擬態してた訳ね」

 少女に近づく。


「でもそっか。森の中じゃないと、意味ないって訳」

「ま……待ちなさいッ! いきなり襲ったことは謝るわ。実は――」


 蹴り飛ばす。宙を舞った。どうやら、力も本来のもの以上に上がっているらしい。特撮ヒーローや魔法少女のようなパワーアップを連想する。

「いえいえ、こちらこそ。ごめんなさいね。これから殴るから――覚悟しろッ!」

 中空に浮いた無防備な標的目掛けて、拳を連続で叩き込む。落下直前に、渾身の一発を超スピードでじ込んだ。

「ブゲラァッ!?」人とは思えない妙な声を出しながら、少女は派手に飛び、木々にぶつかる。

「ごめん、痛かった? 痛くしたんだけどね」

 少女はそのまま動かなくなった。

 どこからともなくウサギが現れた。


「すごいよアリス! 初めての戦いなのにいきなり倒しちゃうなんて!」

「馬鹿にしないで。これでも鍛えてんのよ」


 少女に近づく。少女の服装が変わっていた。どこかの高校の制服らしい。髪の色は黒だ。これがさっきの少女と同一人物なのだろうか……?

「ちょっと起きなさい。話があるのよ」

 呻く少女の腕を引っ張る。

 げた。

 正確な表現ではない。引っ張った瞬間、腕の関節が外れたのだ。間接の接合部には、妙な紙片が詰まっていた。

「――え?」思わず呟く。

「やだ、嘘――」と少女も動揺し、頬に手をやる。頬の皮がけた。剥けた跡にあったのは、筋肉ではなく敷き詰まったトランプのカードだった。

 少女の体だけではない。服さえも剥がれ、トランプの絵柄をさらす。剥離はくりは止まらない。次々とトランプが天に巻き上げられる。

「ちょっと、何なのよこれッ!?」

 思わず後ずさる。その際、握っていた腕を地に落とした。地に落ちた瞬間、バラバラのトランプに変わり、天に舞う。

「ひぃぃっ!」

 先の巨大なイモムシが情けない声を上げて逃げ出した。少女は一人残される。


「そ、そんな、嘘だ……! こんなところで、私が負ける筈ない……! 私は変身したんだ! もう今までの私じゃないッ! 本当の私になれたんだッ! すごい私に変身したんだッ! なのに、何でッ!? どうしてッ!? アアァあああああああぁぁぁあああぁぁぁっ!」


 少女の絶叫が木霊する。


 全てはトランプに変わり、後には何も残らなかった。

「……まさか、死んだの?」

 嘘でしょ……。じゃあ、まさか私、殺しちゃったの……?

 そんな……殺すつもりなんてなかった。ただ適度に痛めつけて、話を聞くだけのつもりだったのに……。そんな、何で――。


「まさか、生きてるよ」


 当然のことを言うように、ウサギは告げる。


「外の世界に強制送還されただけさ。あの子はもう、『アリス候補生の資格』を持っていないからね」

「ねぇ。アンタ結局何者なの? つーか、これって……」


 膝を地に着く。体が重い。


「何これ、急に……」

「単に疲れただけさ。初めての戦いだったんだ。無理もない。元の世界に帰る方法を教えるよ」

「そうよ、それよ! どうやって帰れば良いのよッ!?」

「スマートフォンを出して。ここの地図が出てる筈」


 スマホを取り出し、画面を見ると自身の現在位置らしきアイコンと、黒い穴が点々と表示されていた。


「何これ、落とし穴?」

「出口だよ。そこに行けば出られる」

「つーか、何勝手に肩乗ってんの?」


 ウサギを追い払ってから地図に従い穴に近づく。急に目の前に大きな穴が現れた。虚空に浮かんでおり、扉のようになっている。


「そこから出られるよ」

「本当に!? 嘘じゃないでしょうね!?」

「嘘なんて吐かないよ。じゃあね、アリス。君には期待してるよ」

「そうだ。何で私の名――」


 ウサギはどこかへ去った。結局、色々なことを聞けず仕舞いだ。


 取り敢えず穴を潜った。痛みはない。


 潜った先は女子トイレだった。幸い誰もいない。

 ふと鏡を見る。服はウチの学校の制服だ。ついていた筈の泥はどこにもなかった。

 スマホを確認する。レッスンが終わった時刻から三十分程経っていた。

「……なんだ、夢か」

 居眠りをしていたらしい。ついうとうとしてしまうのは少なくないことだった。

 ここはレッスンルームがあったビルの女子トイレらしかった。夢遊病? 疲れているみたいだ。部屋へかばんを取りに戻ろう。トイレから出て、エレベーターを探し、ボタンを押す。

「……アレ?」

 なんだか、眠ってた割りに体がだるくない……? 相当疲れてたのかな……。

 仕方ない。割高だったが、その日はタクシーで帰宅した。


   *


 少女は不思議の国にいた。

 どこまでも続く、夢幻の森の国。決して夜の来ない国で、少女の服だけは夜の帳のように漆黒だった。

「七人目が決まったそうじゃ」

 少女の影から、帽子を被った醜い子男が現れる。帽子には、「十シリング六ペンス」と値札がついている。


「ということは――始まるのね」

「くだらん争いがな。全くくだらん。何故どいつもこいつも小娘一人に執着するのか」

「さぁ? そんなの関係ないわ。私はただ、願いを叶えたいだけ。トップアイドルになる願い。それだけ叶えば、何でも良いわ」

「まぁ良い。戦いはお前の好きにしろ。わしにとっては、お前さんが勝つのも負けるのも、どちらでも良いことだからな」


 子男は投げ槍に言うと、再び影に潜る。後には少女のみが残される。

「私にとっては、どちらでも良いことじゃない。絶対に勝たなきゃいけない」

 少女は拳を握り締める。


「あの子は――絶対に私が救うわ」


 シルクハットを目深に被り直し、少女は森に開いた穴を潜って行った。

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