◇第一章 ウサギのドア
年齢、十六歳。身長、一六〇センチメートル。誕生日、十二月二十日。星座、射手座。血液型、A型。公式プロフィール参照。
いずれ世に出て認知される、私の宣伝材料だ。
正直、年齢はともかく血液型に何の意味があるのか、と思う。酷い怪我でぶっ倒れる予定がある訳でもないのに、何故血液型なんぞ
理由は単純。ファンが求めているからだ。それ以外の何ものでもない。
好奇心猫を殺すというが、人間の好奇心は九死を
天才に限った話ではない。凡人も同じだ。テレビをつければ野次馬染みた好奇心に
血液型は、そんな中でも知られたがる無意味な情報の内の一つだ。何の価値もない。占いにしか使えないし、使ったところで当たらない。
だがそれさえも『個性』だと言うのであれば――必要なのだ。所詮四種のカテゴライズに過ぎないが、枠を作り出せるのであれば、そこに入らない理由はない。
アイドルの原義は偶像である。偶像とは『可視化された神仏』の意。私たちは象徴でなくてはならない。何の――? 『求められる何かの』――だ。
キリストが常に憔悴した表情を浮かべているように。
大仏が常にアルカイックスマイルで微笑んでいるように。
私たちは『そういうもの』が求められる。応じた表情が。逆はありえない。
端的に言えば、プロ意識だ。
それを手に入れるために、私はレッスンを積む。
アイドルの卵の仕事は、ひたすらレッスンをこなすこと。デビューのために、力を蓄えること。
完璧に踊れるようになること。笑いながら。更に歌いながら。三つのことを同時進行でやらなければならないのだ。
それが仕事の全てではないが、全てはそこから始まる。
だから今日も――私は踊る。
姿見を見ながら『偶像』たる己を
「それじゃ、今日のレッスンはここまで」
「ありがとうございました!」
トレーナーに一礼。更衣室に向かう。シャワーを浴びて制服に着替え、外に出る。完全に日は落ち、黒い
最短距離で駅に向かう。電車に乗って自宅の最寄駅まで移動。そのまま真っ直ぐ帰宅する。寄り道する体力がもったいないからだ。
自宅に到着し、鍵を開け、部屋の電気をつける。冷蔵庫に張り付いたホワイトボードを見る。両親は今日も帰りが遅い。冷蔵庫から冷凍食品のミートスパゲティを取り出し、電子レンジに突っ込む。
テレビをつけ、ザッピング。特に面白そうな番組がなかったのでリモコンを放り投げた。代わりにDVDプレイヤーのリモコンを引っ掴み、録画していたドラマを再生する。食事と食休みの暇潰しにはなった。
浴槽を洗って湯を張って、お風呂に入って、適当に宿題を終わらせて、ストレッチをしてから寝る。
これが私の日常。一年以上続けて来た変わらない日常。
翌日。朝食にコーンフレークを食べてから学校へ。今日は放課後に自主トレをする。
電車に乗り込み、窓の外を見る。超有名アイドルの看板が目に入った。
……アタシ、いつになったらデビューできるんだろう。
その問いの答えを出せるのは、自分自身しかいない。
*
今日のレッスンが終わった。もう帰り支度は済んでいたが、ぼんやりと鏡を見つめていた。
瞳も髪も黒。髪は長く、きちんと手入れをしている。
「顔は悪くない……筈……」
最も写真写りの良い角度で鏡を見てみる。
角度は重要だ。
何故なら人間の顔は左右非対称だからだ。
故に右から見るか、左から見るかで、全く印象が違ってくる。
左右対称に近ければ近いほど、美しい顔になるとされている。
だが実際問題、かの名画『モナ・リザ』でさえ左右非対称なのだから、真に左右対称の人間などそうそういないだろう。故に、こうして己の『最良』の角度を知らねばならない――。
こうした努力も、今のところ実る気配がない――。
体型にだって気を使ってるし、レッスンだって頑張ってる。なら何が――。
「何が足りない――?」
スマホが鳴った。母親からだ。
「はい、もしもし。何か用?」
だが母親は何も言わなかった。無言電話――? でも、確かに液晶画面には母親の名が――。
「もしもし? どうしたの?」
『トップアイドルになりたいですか?』
母親の声じゃなかった。もっと若い、少女の声。穏やかだがどこか浮世離れした声音。
「質問してるのはこっちなんだけど。アンタ誰よ? 母さんは!?」
『この回線は一時的にお借りしているだけです』
「は――?」
何そのスパイ映画みたいな言い
『繰り返します。トップアイドルになりたいですか?』
「ちょっと! それこっちの質問の答えになってないじゃない! 私はアンタは誰かって聞いてんのよ!」
『おいおい分かるでしょう。貴女が「戦う」ことを選べば』
背後から大きな音がする。控え室の戸が勢い良く開いたのだ。勝手にだ。誰もいない。そして戸の虚空に妙な紋様が浮かび始める。工事現場で立入禁止を示す黒と黄の縞模様の看板のような、何かが――。
『繰り返します。トップアイドルになりたいですか?』
スマホの向こう側の相手が繰り返す。
戸の虚空から声が聞こえる。この女と同じ声だ――。
『入国準備が、完了しました。入国許可証を持って、ゲートをお潜りください。繰り返します。入国準備が、完了しました。入国許可証を持って、ゲートをお潜りください……』
「ちょっとこれ何? 何かのドッキリ!?」
戸の虚空に触れる。何の感触もない。当然だ。だから潜ってみる。その先には廊下があるに決まって――。
「……え?」
戸の向こう側は――森だった。見たことのない植物が生い茂る森。当然、ここは室内の筈なのに――。仮に外だったとしても、今は夜の筈。何故太陽が出ているのだろう。
「ちょ――」
振り返る。ない。さっき潜った戸がどこにもない!
「嘘でしょ!? ちょっと! 出しなさいよ!」
森に叫ぶ。だが木々の間に
「これ……? 夢? 夢なの? そうよ、夢なんでしょ? そうよ。きっと、私疲れが溜まってて、それで――」
愚直に頬を
「嘘でしょ……? やめてよね……。何の冗談よ、これッ!?」
周りには誰もいない。人だけではない。犬一匹いないし、昆虫の気配すらない。ただ木々が不気味に
「そうだ! スマホで……!」
圏外でした。
「クソッ!」
上空を振り回してみてもアンテナ一本すら立たない。仕方なく、スマホを機内モードにする。圏外状態ではスマホが電波を探すため、バッテリー消費が激しくなる。
「どーすんのよ、これ……」
遭難した時って、動かない方が良いんだっけ? でもこれ、遭難の定義に当て
考えた末、仕方なく歩くことにした。できる限り、視界の開けた木々が集中していない場所を選びながら、進んでいく……。近場の小枝を折り、目印にしていつでも戻れるようにしておく。
ただでさえレッスン終わりでクソ疲れてるってのに、何でこんな目に……。
そう考えながら唇を噛んだ時のことだ。何か蹴った。妙に柔らかな肉の感触にぞっとして悲鳴を上げ後ずさる。足元を見ると、草むらに隠れてウサギの死骸が転がっていた。
「うぇっ……最悪……!」
靴に血は付着しなかったが、足に死体の感触が残っているのが気持ち悪かった。
だがすぐ異常に気づく。耳しか見えなかったウサギの胴体を見ると、チョッキを着ていたのだ。変わってる……。犬に服を着せるのは良く聞くけど、ウサギに服を着せる人間がいるとは……ということは野良ではないらしい。
ウサギの耳が動いた。全く動かなかったので死んでいるのかと思ったが、生きていたらしい。
「ちょっとアンタ、大丈夫?」
生きている以上、無視できないと思いウサギを覗き込む。奇妙なことにウサギの瞳は真紅ではなくピンク色で、首から懐中時計をぶら下げていた。高そうな代物だ。
「待って……これ、何かどっかで……」
だが一つ分かった。このウサギは誰かのペットだ。ということは、近くに誰か人がいるということ。ウサギを抱きかかえ、周りを見る。何とかこいつの飼い主に接触して、帰る方法を見つけないと……。
「あ……!」
遠方に人影を発見する。こっちに向かって歩いてくる。
「おー……いッ!?」
思わず近場の木々に隠れる。そこから人影を窺い、容姿を再確認する。
人影は少女だった。私と同年齢くらい。だが問題は服装だ。女子高生が着るにはキツイ、エプロンドレスを着用していた。エプロンは白だが、ワンピースは緑に極彩色の
関わりたくねぇ……。
だがこの妙なウサギの飼い主である可能性は非常に高いし、この第一村人を逃して第二、第三が現れてくれる保障などない。……仕方ない。腹を決め、木から姿を出す。
「あ、あのぉ、すみませぇん」
できる限り相手を刺激しないように、低姿勢で挨拶をする。
「こ、このウサギ……ちゃん、貴女のだったり、しますぅ?」
少女がこちらの姿を認めた。目が合ってしまう。最悪だ。少女は笑った。何を考えているのか分からない。気味の悪い笑みだ。
だがすぐに何を考えていたのか思い知ることになる。少女はどこからともなく鞭を取り出し、こちら目掛けて振るってきたのだ。
すぐさま木に隠れる。
木の生い茂る森の中へ足を運ぶ。木々に囲まれた場所なら、鞭を振るえない筈だ。
だが最終的にどこへ逃げれば良いのだろう。周りを見渡すも、区別のつかない光景がぐるりと自身を囲うばかり。正しい正しくない以前に、道さえ理解するのに難儀する。間違って元来た道に戻ったら、あの鞭の餌食になりかねない。顔だけは絶対に護らないと……。
小枝の折れる音を聞いた。恐らく、あの女が小枝を踏んだ音。だが敵の姿は見えない。確かに聞いた。遠くない距離の筈……。
まさか……敵はこの森に精通しているのでは? 立ち止まっていては追いつかれる。
「ヤバッ、靴紐が……!」
急いで靴紐を結び直し、再び走り始める。嫌な汗が背中を流れる。せっかくシャワーを浴びたばっかりだったのに、クソッ……。
背後から悲鳴が聞こえた。トラップにかかって転んだのだ。靴紐を直したついでに、足元の草を結んでおいた。だが敵の姿は見えない。何故……?
私は取り敢えず、適当な木に身を隠し、息を整える。レッスンの
抱いた腕の中でウサギが身動ぎする。
「ちょっと、アンタ大人しくしてなさい……! 頭のおかしい女に
小声で命令する。するとウサギはこちらを向き――。
「アリスかい?」
――と。
「うわああぁああぁぁぁっ!?」
思わず放り投げる。ウサギは宙で一回転した後、無様に地に落ちる。
「あ……あああ、アンタ今ッ! しゃ、しゃしゃしゃ喋って……!?」
「い、痛いよぉ……。どうしてこんな酷いことするの? 僕がどん臭いから……?」
「や、やっぱり喋ってる……!? 嘘でしょ? 何でウサギが……!?」
駆け寄りチョッキを掴み、顔を覗く。どう見てもただのウサギだった。
「痛いよぉ。乱暴にしないでおくれよぉ……」
「質問に答えろッ! アンタなんで喋って――」
背後で空を裂く鋭い音。振り向くとすぐ背後にあった木が。歪な音を立てながらこちらへ倒れてくる途中だった。
「嘘――来いッ!」
ウサギの首根っこを掴み、草むらに飛び込み倒木から逃れた。ワンテンポ遅れて倒木した轟音が聞こえる。あと一歩遅かったら、確実に下敷きになっていた……。
草むらに隠れ、倒れた木の切れ目を見る。チェーンソーや斧で切った跡ではない。小枝を無理やり折ったようなささらの跡だった。ということは、まさかあの鞭で……? どうやって?
でも一つ分かった。マジだ。マジであの女、アタシを殺す気だ……。
突如何もなかった場所に、先の女が現れた。「あら、時間切れね」と呟く声が聞こえた。まさか……透明になっていたのか……?
私はこっそり近場の木に登り、木の上に身を潜める。そして先程からずっと口を塞いでいたウサギの耳に囁きかける。
「良い? 小声よ。小声だけなら出して良いわ。小声以外を出したらすぐさま首の骨を
ウサギの口から手を離す。
「……た、食べないで……」
「食べないわよ……!」
危うく大声を出しかけた。
「アンタ何で喋れるの? 答えなさい」
「う、ウサギが喋っちゃいけないの……?」
「たりめーだろ、ふざけたこと抜かすと煮て喰っちまうわよ……!」
「や、やっぱり食べる気なの……?」
違う。こうじゃない。
「分かった。もういい。質問を変えるわ。何でアタシのこと知ってるの?」
「何のこと?」
「アタシのことアリスって呼んだでしょ?」
「君はアリスじゃないか」
「オーケー、選べ。レアかミディアムかウェルダンか」
「助けて神様……」
震えるウサギを無視して、木の下を
「まさかとは思うけど……命を狙われてるのはアンタだったりしないわよね?」
「もしかして、さっきの倒れた木のこと?」
「そうよ……!」
「あれなら僕じゃなくて君だと思うよ?」
「何で?」
「それは――」
再び鋭い音。木の軋む音。足場が揺らぐ。まさか――。
「マジで――!?」
登っていた木がゆっくりと倒れて行く。逃げ場はない。ウサギを抱き締め体を丸め、衝撃に備える。
木が倒れた。勢い良く放り出され、地べたを転がり回る。全身を打ち、肺から空気が漏れて
「――がっ、くっそ――」
「やっと見つけたわ」
声のした方向を見ると、先の少女が鞭を持ってこちらへ歩み寄ってくる最中だった。
「な――どうしてアタシを狙うのよッ!?」
「どうして? それは貴女がここにいるからよ」
「はぁッ!? ここらの連中は全員頭に蛆
「恨みはないわ。でも貴女はここにいる。だったら戦うしかないのよ!」
このままじゃ――殺される。
「ま、待ってよ……。何でよ!? それって理由になってないじゃない! ふざけんじゃないわよ!」
だが少女は動揺すらしない。本気で殺す気だ。
「誰か……誰か助けてッ! お願い! 誰でも良いからッ! 誰かいないのッ!?」
叫びは木々の間を木霊する。周りに他の人間がいる気配はない。そんな……こんなところで、こんな森の中で殺されるのか。こんなところで、私は――アイドルに成れずに死に絶えるのか……。
「ふざけるな……」
拳を握り締める。
「ふざけんじゃないわよッ!」
叫ぶと同時に
「ぐあッ! お前、良くも私の顔にッ……!」
鞭があらぬ方向を跳ねる。私は無視して走り続けた。
何で――何でこんな目に――。
「誰か……誰か助けてよ……!」
「その……助けようか?」
立ち止まる。声のした方向を向くと、先のウサギがこちらを見ていた。
「アンタ……アタシを助けてくれるの?」
「正確には、力を貸すだけだよ。君にあの子に太刀打ちできる力を与えてあげる。でも勝てるかどうかは君次第だ」
「力……? それってどういう意味? 私も木を
「それは僕の得意分野じゃない。でも勝機はあるよ。ただ――」
このウサギは得体の知れない畜生だ。ウサギの分際で人語を操る。服まで着て高そうな懐中時計まで持ってる。正直、話を
でも――。
すぐ近くで木が倒れる音が聞こえた。少女が姿を現す。
「何で……どうしてここがッ!?」
倒れた木の分、木々に隙間ができ、木漏れ日が差し込む。私と少女の間に、光り輝く糸のようなものが見えた。
「……目印か」
糸を手で払うが切れない。もう……逃げられない。
「覚悟しなさい」
少女が接近してくる。
私は――腹を決めた。
「寄越しなさい」
「え? 良いのかい? もっと良く考えた方が……」
「寄越せッ! その力ッ! 私が戦うって言ってるのよッ!」
「……分かった。君に授けよう。アリスの力を――!」
突如、スマホが鳴り始める。おかしい。電波が全然届いてなかった――いや、それ以前に機内モードにした筈なのに……。
「スマホをタップして! 変身するんだ!」
白ウサギが叫ぶ。
「はぁ!? 変身!?」
意味不明だったが、勢いでスマホをタップしてしまった。
地面が変化した。巨大な本になった。その中央に私はいる。ページには意味不明な記号で文章が綴られている。
「……これでどうしろと?」
本が閉じた。
当然私はぺっちゃんこ。
「やったー! これで七人揃った! 正式にアリス・ウォーの開幕だー!」
何喜んでんだ――そう腹が立ったということは生きているということ。
本が開いた。そして消滅する。
私の両手には妙なものがついていた。グローブだ。ウサギの足を象ったグローブ。それだけじゃない。服が変わっている。制服を着ていた筈なのに、目の前の少女と同じエプロンドレスを着ていた。ドレスの色が水色なのが唯一の違いだ。
「ちょっと何これ! コスプレじゃない! なんで私こいつと同じ格好――」
鞭が飛んだ。避けられなかった。腹部に命中し、後方に吹っ飛ばされる。死んだと思った。木を薙ぎ倒す一撃だ。背骨を真っ二つにすることなど造作もないことだろう。激しく木に叩き付けられる。
「それが君の力だよ、アリス」
ウサギの声が聞こえた。だが姿は見えない。違和感を覚え、頭に手をやる。妙なものが生えていた。長い物体が二つ。感覚がある。これは……。
「嘘、何これ!?」
頭にウサギの耳が生えていた。それだけではない。自慢の黒髪は真っ白になっている。
「な、なんで、どうして……? 嘘でしょォッ!?」
誰かが近づいてくる足音が聞こえる。ウサギの耳が生えてるせいか、遠くの音が聞こえるのだ。だがあの少女の姿は見えない。恐らく、透明になっているのだ。私は腕を見る。まだ糸はついたままだ。どうやっても外れないし切れない。位置は完全に知られている。
森の中を見渡す。そこで気づいた。見るよりも、聞いた方が良い。足音に耳を澄ます。確かに近づいてきている。二時の方向。もうすぐ、鞭の射程に入る。
鞭の放たれる音が聞こえた。だが聞こえた瞬間、音が間延びする。機材を使って音を無理やりスロウにしたような音だ。私は体を横に動かす。それまでいた位置に鞭が放たれた。木が折れ倒れる。
いとも簡単に避けられた。映画のワンシーンみたいに、世界がスロウに見えた気がする。これもあのウサギの与えてくれた力なのだろうか。
少女が姿を現す。どうやら透明化には時間制限があるらしい。
「思ったよりも、すばしっこいのね」
少女は鞭を撓らせる。
「それはそうだよアリス。何せ、あの臆病な白ウサギと契約したアリスだからね」
ぞっとした。少女の右肩に巨大な芋虫が現れたのだ。思わず悲鳴をあげ、キモイと連呼する。
「これは失礼、マドモアゼル。ワタクシ、不思議の国の住人が一人、イモムシと申します。以後、お見知り置き……あぁいえ、結構です。貴女はここで敗退するのですから」
「キモチワルイッ、口利いてんじゃないわよッ、下等生物の分際でッ!」
「おやおや、随分と嫌われてしまいましたな。敵であることを差し引いても、人に好かれる容姿でないことは、重々承知なのですが、こうも毛嫌いされるとは……」
紳士面した下等生物を肩に乗せた女は不敵に笑う。
「気にすることないわ。だってこいつは、私たちの術中に完全に嵌ったのだから」
「何ッ……!? どういう意味よッ!?」
「わざわざ説明すると思う?」
再び姿が消える。しまった。時間を稼がれた。ある程度休めば何度でも透明になれるのだろう。
耳を澄ます。どこからくるか、聞き逃さないように。
木が倒れた。外れだ。あらぬ方向の木が突然圧し折れ、倒れ始めたのだ。無論、鞭で折られたのだろう。それが二本、三本と増えていく。
「……しまった!」
木の
なら次はどうすれば良い? 違う。敵はどうする? 間違いなく私を狙い打つ筈。ならば――。
私は木々の間を縫い、その場から離れて行く。背後からは無数の轟音が聞こえる。だが足音らしきものは、近くには聞こえない。足が軽い。足の速さは並だった筈だが、明らかに異常な速さで移動できている。ウサギだから足が速くなったのかも知れない。そのまま広場に出る。足場には草が生い茂っているが、周りに木はない。つまり隠れる場所はない。だがそれは敵も同じだ。ここでは音をジャミングできる物資はない。
どこからでも――来い!
鞭の撓る音が聞こえた。足元を狙っている。察知し、背後に退く。だが読みが甘かった。奴が狙ったのは地面そのものだ。地を
「ぐッ――!」
「アンタが仕掛けた小細工よッ!」
敵が近づいてくる。聞こえるのだ。足音が。
そうだ。足音さえ聞こえれば、目なんていらない。
鞭が撓る。右に避け、一気に接近する。足音から考えて、間違いなくここだ。
右ストレートをぶち込んだ。命中した手応え。悲鳴と共に何かが倒れる音。
視界が回復した。目を拭うと、地面に茶色い物体が寝転がっていた。木に似た色だ。木の模様もついている。良く見ると少女の姿態をしている。
「あぁ――それ知ってるわ。何だっけ? そうだ、擬態だわ。なるほど。虫だから擬態してた訳ね」
少女に近づく。
「でもそっか。森の中じゃないと、意味ないって訳」
「ま……待ちなさいッ! いきなり襲ったことは謝るわ。実は――」
蹴り飛ばす。宙を舞った。どうやら、力も本来のもの以上に上がっているらしい。特撮ヒーローや魔法少女のようなパワーアップを連想する。
「いえいえ、こちらこそ。ごめんなさいね。これから殴るから――覚悟しろッ!」
中空に浮いた無防備な標的目掛けて、拳を連続で叩き込む。落下直前に、渾身の一発を超スピードで
「ブゲラァッ!?」人とは思えない妙な声を出しながら、少女は派手に飛び、木々にぶつかる。
「ごめん、痛かった? 痛くしたんだけどね」
少女はそのまま動かなくなった。
どこからともなくウサギが現れた。
「すごいよアリス! 初めての戦いなのにいきなり倒しちゃうなんて!」
「馬鹿にしないで。これでも鍛えてんのよ」
少女に近づく。少女の服装が変わっていた。どこかの高校の制服らしい。髪の色は黒だ。これがさっきの少女と同一人物なのだろうか……?
「ちょっと起きなさい。話があるのよ」
呻く少女の腕を引っ張る。
正確な表現ではない。引っ張った瞬間、腕の関節が外れたのだ。間接の接合部には、妙な紙片が詰まっていた。
「――え?」思わず呟く。
「やだ、嘘――」と少女も動揺し、頬に手をやる。頬の皮が
少女の体だけではない。服さえも剥がれ、トランプの絵柄を
「ちょっと、何なのよこれッ!?」
思わず後ずさる。その際、握っていた腕を地に落とした。地に落ちた瞬間、バラバラのトランプに変わり、天に舞う。
「ひぃぃっ!」
先の巨大なイモムシが情けない声を上げて逃げ出した。少女は一人残される。
「そ、そんな、嘘だ……! こんなところで、私が負ける筈ない……! 私は変身したんだ! もう今までの私じゃないッ! 本当の私になれたんだッ! すごい私に変身したんだッ! なのに、何でッ!? どうしてッ!? アアァあああああああぁぁぁあああぁぁぁっ!」
少女の絶叫が木霊する。
全てはトランプに変わり、後には何も残らなかった。
「……まさか、死んだの?」
嘘でしょ……。じゃあ、まさか私、殺しちゃったの……?
そんな……殺すつもりなんてなかった。ただ適度に痛めつけて、話を聞くだけのつもりだったのに……。そんな、何で――。
「まさか、生きてるよ」
当然のことを言うように、ウサギは告げる。
「外の世界に強制送還されただけさ。あの子はもう、『アリス候補生の資格』を持っていないからね」
「ねぇ。アンタ結局何者なの? つーか、これって……」
膝を地に着く。体が重い。
「何これ、急に……」
「単に疲れただけさ。初めての戦いだったんだ。無理もない。元の世界に帰る方法を教えるよ」
「そうよ、それよ! どうやって帰れば良いのよッ!?」
「スマートフォンを出して。ここの地図が出てる筈」
スマホを取り出し、画面を見ると自身の現在位置らしきアイコンと、黒い穴が点々と表示されていた。
「何これ、落とし穴?」
「出口だよ。そこに行けば出られる」
「つーか、何勝手に肩乗ってんの?」
ウサギを追い払ってから地図に従い穴に近づく。急に目の前に大きな穴が現れた。虚空に浮かんでおり、扉のようになっている。
「そこから出られるよ」
「本当に!? 嘘じゃないでしょうね!?」
「嘘なんて吐かないよ。じゃあね、アリス。君には期待してるよ」
「そうだ。何で私の名――」
ウサギはどこかへ去った。結局、色々なことを聞けず仕舞いだ。
取り敢えず穴を潜った。痛みはない。
潜った先は女子トイレだった。幸い誰もいない。
ふと鏡を見る。服はウチの学校の制服だ。ついていた筈の泥はどこにもなかった。
スマホを確認する。レッスンが終わった時刻から三十分程経っていた。
「……なんだ、夢か」
居眠りをしていたらしい。ついうとうとしてしまうのは少なくないことだった。
ここはレッスンルームがあったビルの女子トイレらしかった。夢遊病? 疲れているみたいだ。部屋へ
「……アレ?」
なんだか、眠ってた割りに体がだるくない……? 相当疲れてたのかな……。
仕方ない。割高だったが、その日はタクシーで帰宅した。
*
少女は不思議の国にいた。
どこまでも続く、夢幻の森の国。決して夜の来ない国で、少女の服だけは夜の帳のように漆黒だった。
「七人目が決まったそうじゃ」
少女の影から、帽子を被った醜い子男が現れる。帽子には、「十シリング六ペンス」と値札がついている。
「ということは――始まるのね」
「くだらん争いがな。全くくだらん。何故どいつもこいつも小娘一人に執着するのか」
「さぁ? そんなの関係ないわ。私はただ、願いを叶えたいだけ。トップアイドルになる願い。それだけ叶えば、何でも良いわ」
「まぁ良い。戦いはお前の好きにしろ。
子男は投げ槍に言うと、再び影に潜る。後には少女のみが残される。
「私にとっては、どちらでも良いことじゃない。絶対に勝たなきゃいけない」
少女は拳を握り締める。
「あの子は――絶対に私が救うわ」
シルクハットを目深に被り直し、少女は森に開いた穴を潜って行った。
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