第九章 侵略の二十年



       1


 額の爪痕に絆創膏を貼られた菜津先輩に比し、ぼくの頬はガーゼと湿布を貼られたばかりか、サージカルテープで留められていて、一層大げさなケガに見える。

 診察前に着替えを済ませた先輩は、いつもの見慣れたブレザースタイルの制服姿に戻っていた。

 サイエンスパーク総合病院は距離の関係からサイエンスパーク内の住人による利用が大部分を占め、それなのに一部補助金、税金など公費の使われていることがたびたび市議会で問題となる施設だという。

 歩桜高校の近くなのでぼくらにとっては都合良く、院内に制服姿の生徒がいても、とくに珍しいと感じられることはないようだった。


 座り心地のよい長椅子上で、ぼくは菜津先輩に声をかけあぐねている。

 話題を持っていなかったのではなく、むしろありあまる話題のうち、どれにすべきか迷っていたのだった。

 結果的に無言となり、しかし彼女はその沈黙に堪えきれなくなくなったようだった。

「了くん……なにか話してよ」

「うん……ええと」

 一番話したかったことは、ルリムウのこと。

 でも、それはこんな場所で出す話題じゃない。

「弟さん……穂村、くん、強いですね」

「ああ……あいつ不良なのよ。でも瑠栄花先生に出会って変わった」

「……カーレース?」

 沓子先輩から聞いた情報を思い出す。

「レースというより車いじり、かな。免許もないくせにね。でも……本当にそうなのかなあ。接点はそこだけど」

 菜津先輩の家に家庭訪問で訪れた際、まだ中学生だった穂村は緑谷先生の乗ってきたスポーツカーを見て興味を持ち、そこから共通の趣味を持つ同士として、世代や立場を超えた交流を持つようになったらしい。

「一時期、本当に荒れてたのよ。でも瑠栄花先生、あの通り厳しいから……」


 そのあと彼女の口から出た、穂村の中学時代のエピソードをふたつほど聞けば――話半分だとしても――先ほどの白装束たちが穂村にびびり、逃げたのも無理はない。

 しかしいまは、時々その時期のなごりは見え隠れするにせよ、周辺地域の不良どもを恐怖のどん底へ落とし込んだ張本人とは思えなかった。


「ね、了くん、瑠栄花先生のこと好き?」

 ちょっと先輩、突然なんすか!

「す好きかって言われても。すごいひとかなとは思いますが」

「そうよねえ、美人だし。あのひとアラよりも強いのよ」

「ええっ!」

「一度こてんぱんにやられて、それから頭が上がらない。マーシャルなんとかの有段者だって。惨敗したらしいわ」

 マーシャル・アーツ? 聞いていたけど本当だとは。

「あー私なんか、かなわないわ。……そう思うでしょ?」

 大きくのびをして、ぼくの様子をちらりとうかがう。


 うーんと。


 こういう展開は正直苦手だ。察するに、先輩はブラコンなのか?

「ででも、いつも仲いいじゃないですか」

「えーっ! だれと?」

 本気に驚いたような声を出す。ロビー内に大きく反響した。

 あわててあたりを見回すと、ふたつ隣の長椅子に座っている初老の女性が、こちらを怖い顔でにらんでいた。

 声を潜めて話を続ける。

「穂村と先輩に決まってるじゃないですか」

「アラと? ちょっと了くんなに言ってるの?」

「は?」

「姉弟なんだから、ケンカしたってすぐ仲直りするわよ。当たり前じゃない! 失礼ね!!」

 あの、なぜぼくは怒られてるんですか。

「私が言ってるのは了くんのこと」

「は?」

「もう!」

 突如、脳裏に『フラグ』という単語が飛び出してきた。


 フラグ……何だっけフラグって。


「そうだ、さっき車の中で瑠栄花先生と私のこと話してたでしょ」

 ぼくの思考の回る前に、もう話題は変わっていた。これだから女子は……

「起きてたんですか?」

「やっちゃばのおじいちゃんのところから」

 急に肩を落とす。伏し目になった菜津先輩は、やっちゃばのおじいちゃんという老人と過ごした、昨年の演し物の思い出をことば少なく語った。

「来年もまた楽しみにしているよって。そう言ってたのにね」

 ふだん付き合いはなくとも、自分の知ったひとの存在がこの世から消えていく、というのは想像してみるとつらいことだ。


 相手が高齢なら、ある程度覚悟もしているはずなのに、それは突然訪れ、残されたものにも大きく衝撃と影響を与える。


 ひとの死に際し、ぼくは語ることばを持たない。


 若いからじゃない。喪失感に嘆くひとを本当に癒すためには、その、失われたものを取り戻すしかない。

 それをできない無力さの故に黙してしまう。


 祖父の死んだときもそうだった。

 幼いぼくは、両親の嘆きを知りながら、なにひとつできず、ただ途方に暮れるだけだった。 

 母の涙。

 父の怒り。

 突然消息を絶ち、その死から長い期間を経て送られてきた遺品の数々。


 そのあいだ一切ぼくら家族に、祖父の死は伝わってこなかった。


 いつの間にか菜津先輩はぼくの袖をつかんでいた。

 顔を伏せたままだ。

 敬老会の亡くなった老人のことを思い出し、泣きたいのを我慢しているのか。

「了くん、ちょっとこっち来てくれる……」

 男女交際厳禁の校則なのに、これはちょっとやばいんじゃないか。

 そんなどうでもいいことを、つい思いつく。


 周囲の誤解を受けるんじゃないか。


「おねがい」

 こう頼まれて動かないわけにいかない。

 念のため、自分の懸念だけは伝えておこう。

「だれかに見られちゃいますよ」

 返事はなく、ただ袖をつかむ手に、ぎゅっと力のこもっただけだった。

 あきらめて尻を滑らせ、座ったまま彼女のすぐ近くへ移動する。

 ズボンとこすれた長椅子のビニールレザーは、きゅーっと甲高く音を立てた。

「絶対こっちを向かないで」

 ぼくの肩口に顔をつけ、菜津先輩は声を出さず静かに泣き出した。制服のその部分はじわりと、暖かな湿り気を帯び始めた。

「先輩……」

「……やめて」

 くぐもった声に拒否される。

「え?」

「いま……きょうだけ、先輩って言うのはやめて。ちゃんと名前で呼んで」

「あの……」

 身体を少しだけ彼女の方へ向けようとした。彼女はぼくの袖口を引き絞るように握りしめ、その動きを止めた。


 ぼくらの座る長椅子の前を通り過ぎる通院者や入院患者はそれぞれ、まったく無視するひと、ちらりとこちらに視線を走らせるひとなど、反応はさまざまだ。

 いずれにせよ学生服姿の男女が身を寄せ合い、女子の方は男子にしなだれかかり、肩に顔を埋めて泣いているのだから、目立つことこの上ない。

 ――これが産婦人科の待合室でなくてよかった

 そうなれば誤解は確信に変わるだろう。決定的だ。

 美貌の上級生に肩を貸している、というひともうらやむような状況なのに、ぼくの頭はそんなことばかり考えてしまう。


 ほどなく菜津さんは肩口から顔を離した。

「絶対見ないこと」

 いつもの口調に戻りかけていた。

 スポーツバッグのジッパーを開ける音に続き、なにかを取り出し鼻をかむ。


 ティッシュか。


 音で分かるのにその姿を見られたくない……これが女心ってやつなんだな。

「ごめんなさい」

「……言っていただければ、いつでもお貸ししますよ。せんぱ……菜津、さんのためなら」

「別に、やっちゃばのおじいちゃんのことで泣いてたんじゃないの」

 おい、ぼくの返答は無視かよ!

「そうなんですか」

「あのおじいちゃんのことを思い出してたら、別なひとのことを思い出しちゃって」

 ああ、よくある話かも。

 好きだったとか、あこがれてた、とか? まさか芸能人?

「ああもう。……言っちゃうか」

 菜津さんは泣き腫らした顔を隠そうともせず、頭を上げてぼくを直視した。

 薄く塗られた頬のファウンデーションは涙で流れて、彼女の顔に何本も線を作っていた。

「そのひとって、冶三郎じいちゃん。あなたのおじいちゃんなの」



       2


 病院経由で緑谷先生から連絡を受け、迎えに行けないから今晩は自宅に帰るように言われたり、菜津さんの父親から運転手つき超高級車の迎えがよこされたり、ぼくは自分の治療費を全く持っておらず、会計に支払うお金を菜津さんにたて替えてもらったり、家に両親が不在なので、結局寮まで歩いて戻るしかないかという気になったり……


 で、いま菜津さんの家にいる。


 病院ロビーで聞いた話をよく理解できないまま、ばたばたといつの間にか夜になっていた。

 歩いて寮へ帰るか、今晩は菜津さんの家へ厄介になるかの二択を強いられた結果、ぼくは後者を選んだ。

 超高級車でこのまま寮まで送ってもらう、というもうひとつの選択肢は却下された。

「だって、それだったら私まで寮に戻らなきゃならないでしょ」

 ぼくらの自宅滞在の件は、寮へ緑谷先生が連絡を入れてくれるとのことで、それならと、ぼくも安心して菜津さんのご厚意にあずかることにしたのだった。


 菜津さんの家はサイエンスパークの中でも、特に大きな家の集まる一角に位置していた。


「うちはもともとこの周辺の地主でね。サイエンスパークの設立に土地を提供する代わり、この一角へ自宅を建てさせてもらったんだよ。マンションの地主が一番いい場所へ住むのと同じようなものかな。勝手を言わせてもらったってことだ」

 菜津さんの父親は五十代前半くらいに見える。

以前この周辺で不動産会社を経営していたが、最近仙台に本社を移し、週末には必ず自宅へ戻るのだそうだ。

 どちらかというと小柄で、ひょろりとしていて、土地を扱う仕事に就いているとは思えないようなひとだ。

「まあ、今日は土曜日でよかった。菜津が病院へ行ったって聞いてあわてて戻ってきたんだが、たいしたこともなくて良かった」

 パーティールームも兼ねるという、四十畳はあろうキッチンダイニングで菜津さんと菜津さんの父親、ぼく、の三人で夕食をとる。

「御鳥、了矢くんだったね。御鳥博士のお孫さんにここで会えるとは思わなかったな」

 家族以外の見知らぬ他人から自分の縁故について話をされると奇妙に聞こえる。それに彼の方がぼくの知らない祖父の顔をよく知っているようだ。

「祖父とはどういうお知り合いだったんですか?」

「知り合いというより、恩人、かな」

 恩人というなら相当関係の深い間柄なんだろうか。

 夕食に出されたステーキは前沢牛とかいう、意味は分からないが、神戸牛になる前の牛肉だとかで、柔らかくジューシーな肉質をしていた。それを口に運ぶ。

おいしい。

「いまでこそ土地屋だが、昔は私も物理学の徒でね。ビジネスよりも研究に熱心だった。いつでも戻りたいくらいだね」

「祖父はその分野で業績を上げていたんでしょうか」

「業績、なんてもんじゃない。三十数年前、世間にほとんど知られていなかった変異物理学の基礎理論、発見は、すべてきみのおじいさんの仕事だ」

「……緑谷先生も穂村さんのお知り合いなんですか」

「彼女から聞いた?」

 微妙にうなずいてみる。仮説だが少なくとも当たっているという確信はあった。

「そう、学校に彼女を紹介したのは私だ。単なる英語教師にはもったいない人材だがね」

「パーパ。酔っぱらい過ぎちゃダメよ」

 それまで無言でステーキを口に運んでいた菜津さんは、ワイングラスを傾けようとした父親にクギを刺す。

「ああ、そうだった……控えろと医者に言われててね」

「病院で偶然先生に会わなければまだ診察も受けられてなかったわ」

 なるほど、あの医者とはそういう関係だったか。

「ところで、御鳥くんのご両親はここで働いているとか」

「ええ、両親とも、こちらでお世話になってます」

「ふーん。ちょっと所長に聞いてみるかな……主な研究分野は?」

 じつはよく知らない。

「あ、関東の大学で……すみません。ちょっとわかりません」

 穂村氏は快活そうに笑った。

「いいさ。きみぐらいの年で親の仕事を理解している人間なんて、そういない。特にここへ招聘されるような研究者なら、常人にはチンプンカンプンな研究をしてたりするからね」

 いや……さすがにそこまで妙な研究はしてないと思うが。

「私はパパのお仕事について知ってるわよ」

「そうか? ま、物理より分かりやすいからな。一応そういうことにしとこう」

 はははと声を出し、席を立つ。ナプキンで口をぬぐった。

「それじゃあ御鳥くん、ちょっと失礼する。菜津、ちゃんとおもてなしを」

「言われずともちゃんとやってます」

 穂村氏は広大な部屋を横切り出て行った。

 いまのやりとりを見ていて、ふたりの間にある愛情というか信頼関係の絆はしっかりしているなと感じた。

 なのに、弟の話はひとつも出てこない。

 この場に穂村婦人の姿のないことも気になった。


 いずれにせよ、ぼくなどの詮索は無用だ。

 それぞれの家庭には色々事情もあるだろうし。


 ハウスキーパーの仕事だと言って、菜津さんはキッチンの片付けはせず、ぼくらは食後すぐ穂村家の居間へ移動した。


 キッチンの半分ほど、二十畳程度の部屋だが、その代わり天井は吹き抜けて、屋根付近まで七、八メートルほど上に伸びている。見上げると天窓もついていた。

 菜津さんは洋菓子とスナック菓子のはいったトレイを豪奢な装飾付きのキッチンワゴンに載せ、ぼくの座る大きなローテーブル脇へ運んできた。

 見ると、すっかり私服に着替えていた。

 大振りなモスグリーンのスエットシャツに、フレアードのついたツイルデニムの黒いパンツがよく似合っている。それはぴったりと彼女の下半身にフィットし、なまめかしく腰から太ももに至るラインを目立たせていた。

「これに着替えるといいわ」

 彼女から勧められるまま、穂村のだろう服を手渡される。


 廊下に出て服を取り替えた。

 洗濯を繰り返し着古したシャツのせいか、丈が少し詰まっていて、手首は少し出てしまう。

 戻ると菜津さんはワインボトルを傾け赤紫色の液体をグラスに注いでいた。

「ちょっちょっと先輩! いくらなんでもそれは!」

 彼女は手を止め、

「あ、先輩って言った」


 そんな話じゃなく!


「これ、ブドウジュースよ。アルコールなんて出すわけないでしょ」

 にやりと笑う。くそう、引っかけられたのか。


 ローテーブルの彼女の横へ座り込み、渡されたグラスを形ばかり宴会のように、お互い軽く当てあった。かすれ気味の鈴のような音。

「でも菜津さんの家、聞いてたけどすごいお金持ちですね」

「そうかな。パパはいつも足りないって言ってる」

「ウチの親もそう言いますよ」

 アルコールは入っていないはずなのに、不思議に身体は熱く、火照ったような気分に包まれていく。考えてみると、今晩、こんなところにいるなんて昼間は予想もしなかった。

「あの、菜津さん」

「なに?」

「さっきの話……病院でおっしゃってたお話、もう一度教えてもらえませんか」

「え? ……だって、恥ずかしい」

「は?」

 彼女はぼくから目を外し、身をすくめたような恰好となる。

「祖父の話ですけど」

「あ、そっちか」

 どっちの話だ。



       3


「冶三郎じいちゃん――パパ風に言うと御鳥冶三郎博士ね。……三十年ほど前、はじめて遣抻恫にやって来たらしいわ。じいちゃんは私の本当のおじいちゃんと友だちで、研究の資金調達のために、旧友を訪ねてきたんだって」

 御鳥冶三郎博士……ぼくの祖父でもある彼は、そのとき重大な研究テーマを抱えており、そのために莫大な資金を必要としていたらしい。

「穂村のおじいちゃんはちょっと篤志家っぽいところもあって。でも、そのために脱税を疑われたり、不動産を扱っているから、この周辺での評判はあまり良くなかったらしいの」

 祖父の依頼に対し、穂村のおじいさんは継続的資金提供の代わりに、自分の生業を活かし、祖父に研究のための土地と施設を提供することにした。


 いま建っている歩桜高校の男女混合寮は、三十年前からやのべつサイエンスパークのできた二十年前まで、およそ十年間、私設の研究施設として稼働していたらしい。

「でもね、じいちゃんは結局そこの所長っていうわけでもなく、ときどき来てはなにか実験を行い、その成果をどこかに持ちこんでいたらしいの」

「アメリカ……」

 直感的にそう感じた。菜津さんもうなずく。

「たぶん、そうね……瑠栄花先生もそう言ってた」

「なにを研究してたのかな」

 ひとりごとのように言ったぼくのことばを聞いて、彼女はちょっと口をつぐむ。

「これまでにない画期的な研究であることは間違いない、という話だって」

 だれからそれを聞いたのか、その情報源に触れることはない。

 祖父の死んだ十一年前、ぼくはまだ五歳で、彼女はたぶん七歳だった。


 祖父は彼女とどういう関係だったんだろう。


 ある程度彼女の話を聞くと、伝聞の話よりそういった個人の経験や体験に根ざした過去の話に興味は移る。全くの他人の娘、孫のような年端もいかぬ菜津さんに、当時祖父はなにを残したのか。

 よほど強烈な思い出がなければ、これほど慕われることなど無かっただろう。

 素直にその点を質問してみた。

「菜津さんは、その、祖父にどんな思い出があるんですか?」

「思い出? そうねえ……本当のおじいちゃんより、優しかったように思う」

「うちのじいちゃん、優しかったんだ」

「了くんにはそうじゃなかったの?」

 ぼくは首を横に振った。

「パパはね、婿養子なの。じいちゃんは自分の研究を手伝ってたパパを、死んだママに紹介したのよ」

 当時の助手的な役割を果たしていた菜津さんの父親――元の名字は語られなかった――は、祖父の薦めと、当時遣抻恫の大地主であった穂村氏の娘婿として養子に入った。菜津さんと穂村を生むと、彼女たちのまだ幼い時期に母親とその父親である穂村氏は他界した。交通事故だったという。

「ママが死んでからかな、じいちゃんはよく遊びに来るようになった」

「十五、六年、くらい前?」

「来る度にね、了くんのことを話してた」

「へ?」

「ワシには、本当の孫もいてな、なついてきて、とーってもかわいいんだぞうって」

 母親を亡くした子になんてことを。

「すっごーく、くやしくて。私なんか、その子より、じいちゃんのこととーっても、とーっても好きだって言ったやったのを覚えてる。じいちゃん、笑ってた」

 想像すると、なんかほほえましいというか、可愛いというか……

「アラも可愛がってもらってた。私たち、じいちゃんのお話、とても好きだった」

「ぼくもよくお話ししてもらってましたよ」

「まあ、くやしい!」

 テレビドラマなんかに良く出てくる、良家の乳母役みたいな言い方だったので、ぼくは思わず声を上げて笑った。

 ふと、祖父の、ぼくと彼女との扱いの差に気づいた。

「でも、ぼくに菜津さんのことを話してくれたことはなかったな……」

「やっぱり、そうなんだ」

 気落ちしたように肩を落とす。

「瑠栄花先生がね、新入生の名簿から了くんの名前を見つけて……了くん、って言うのも、実はじいちゃんが教えてくれたの」

 子どものころから、母も含め、そう呼ばれてたな。

「でも……なんかうれしいです。そうやっておじいちゃんがぼくのことをだれかに伝えてくれてたなんて」

「いつもほめてたよ。あの子はいい子だ。あの子はワシに似て時計の扱いも上手だ、あの子はって……最初はね、私も子どものくせに妙なライバル意識を燃やしてたのに、じいちゃんから何度も何度も聞いてるうちに、なんかとても身近な人間のような、そんな気がしてきて。……やさしいじいちゃんが、いつもそうやってほめるような孫なら、きっといい子なんだろう、きっとやさしい子なんだろうって、そう思うようになったの。そしたらある日寝る前に思わず、了くんお休みって、あ」

 途切れたことばの続きを促そうと、彼女を見つめた。

「なしなし、いまのなし! 言うつもりなかったもん!」

 そう言われても……

 真っ赤な顔で弁解する菜津さんには、昼間敬老会で見せた部長としての威厳も冷静さも、なにもなかった。

 いまの発言のどこに問題を感じるのかさっぱり分からないけど、なにか失言したのはたしからしい。

 菜津さんは祖父と関係があったから、ぼくの呼び名にこだわるのはわかるし、緑谷先生も初見でぼくの名を読めたのは、過去のいきさつを知ればなるほどと思う。

 だが、不可解なのはその他のひとたちのことだ。

 アクタレスの残るふたりはどうなんだろう。

「菜津さんは、ぼくと会ったことがなくても間接的に知ってたから、なんとなくそういうの理解できるんですけど、最初にカフェテリアで声をかけてきたのは菜津さんじゃなく、沓子先輩でした。彼女もじいちゃんとなにか関係が?」

「あ、あ、それ? ええと」

 菜津さんは、なんだか本当にアルコール飲料を飲んだかのように真っ赤となり、うつむいてしまう。

「あ、あのね。私がきゃあきゃあ騒ぎまくったから、その、沓子たちも……了くんに興味を持ったみたいなの」

「今のような話をしたというわけですか」

 カーペット上に正座し、ぺこりと頭を下げて、菜津さんは完全にうなだれてしまった。

「穂村を使って演劇部にぼくを入れようと誘ったのも、実は菜津さんたちの差し金だったんですね。……草食系男子ではなく、ぼくひとりを狙って」

「はい。……そうです」

 消え入りそうな声で答える。


 下克上だ。


 いま、立場は上級生と下級生が完全に入れ替わっている。

 たぶん、いまがその頃合いなんだろう。チャンスは二度ないと言うし。


「あの、最後にもうひとつ質問していいですか」

「はい……なんでも聞いて下さい」

「菜津さん」

「はい」

「……」

「はい?」

 沈黙が不安にさせたのか、彼女は下を向いたまま、ぼくへ質問を促してくる。

 一度大きく息を吸う。

 少しでも心を落ち着けたい。

「ルリムウって、だれなんですか?」

 彼女は大きく顔を上げた。



       4


 血の気のすぅーっと引いていくように、耳たぶまで真っ赤だった菜津さんの顔は青く、白くなっていった。

まっすぐにぼくの目を見据えたその顔から一切の表情は消え、急激なその変化に、かえってこちらが戸惑いを覚えてしまう。

 それを消し去ろうと、再度口を開く。

「ルリムウって……」

「二度言わなくてもいいわ」

 彼女からこれまで聞いたこともないほど落ち着いて、静かな、そして冷たい声だった。

「菜津さん」

「了くん。その質問には答えられないの」

「なぜです!」

 急激に変化した彼女の態度に、つい声を荒げた。


 売り言葉に買い言葉。

 冷たくされると未練も募る。


「答えられない!」

 急接近していた気持ちの裏切られたようで、ぼくはいらだち、その場に立ち上がってしまった。


「なんなんですか、もう!」

 菜津さんは視線を前方に固定したままだ。

「いままで誘惑でもしてるつもりだったんですか? ルリムウはアクタレスのだれか、なんでしょう? どんな方法か分からないけど、壁からぼくを監視し、仲間に引き入れ、なにをさせるつもりなんですか! これじゃ、さっきの話だって本当かどうか分からない。ぼくを利用するために作った話なんじゃないですか! さすが演劇部、さすが女優! 見事にだまされるところでしたよ!」


 怒鳴っているうちに、これまで心の中で鬱屈していたからか、勝手にことばがどんどん、口から表出していく。脈絡もないし、意味すらないかも知れない。

 気がつくとぼくは眼下の上級生に、思いの丈をぶちまけていた。


「これ以上、そのことについて、あなたとお話しできないわ」

 努めて冷静そうな声を出し、菜津さんは立ち上がる。

 ぼくの顔を見もしない。

 そのことで、ぼくの怒りはさらに激しくなる。

「ふざけるな! そっちが誘ってきたんじゃないか! ケガをするマネまでして、この家に連れ込んで! ああそうか、わかったよ、ここがエイリアンの巣なんだな、ここが本拠地なんだ。壁に自由に出入りできる人間が、人類であるはず……」

 彼女は手を振り上げた。ぼくはびくりとしてことばを止める。


 ――やばい、あの平手だ!


 目をつぶったまま、頬への衝撃に備える。手を挙げて防御しようとは思わなかった。その時間もなかったからだ。

 ……こない。

 数秒後、ゆっくり目を開けた。


 手を振り上げたまま、彼女は涙を流していた。

 唇をかみしめ、美しい顔を悲しげに歪ませ、眉間のしわには深い苦悩を表している。まばたきひとつなく、ぼろぼろ頬に落ちる涙を流れるにまかせ、ひたすらぼくを見つめ続けていた。

「ぶ、ぶつんなら、ぶてよ……」

 その覚悟もないくせに、そううそぶく。

 菜津さんはきつく結んだ唇を少しだけゆるめ、ささやくように小さな声で言った。

「……ごめんなさい」

 がん、と頭を殴られるような衝撃を受けた。

 ――あの晩の……

 それは、寮の保健室で聞いた声と同じに聞こえた。


 いや、同じであるはずもない。


 しかし、ぼくの耳には、結んだ唇の隙間から出た彼女の声があのときのルリムウと同じことばの発し方に聞こえた。


 ――このひとだったのか


「菜津……さん、やはり、あなたは……」

 そのことばは、突然鳴ったインターフォンのチャイムにより、かき消された。

 彼女は壁に駆け寄るようにして受話器を取り上げ、受話ボタンを押す。

 途中何度もスウェットシャツの袖で涙を拭いていた。



「とにかく、この家から出ないで」

「なぜです!」


 もう数回も同じ押し問答になっている。


 来訪者がだれか分からないものの、インターフォンを置いた菜津さんは、こんな夜中にどこかへ出かけようとしていた。

「おねがい、あなたのためなの!」

「どうして! どこへ行くんですか?」

「戻ってきたら、すべて話してあげる。だから……」

 最終的に彼女から最大限の譲歩を引き出せたと感じたので、一応ぼくはこの部屋に留まることにした。


 彼女の去ったあと、念のため居間のドアを開けてみた。

 監禁されたのじゃないかという不安感に陥ったからだった。

 ドアはかちゃりと音を立て前方に開く。

 おそるおそる外の廊下に顔を出し、両側を伺った。


 天井に近い壁際にはいくつもの間接照明が、この部屋を訪れたとき同様、淡い光を放っている。人の気配はない。

 これだけ広い家屋なのに、使用人にはひとりも会わなかった。

 これまで会ったのは、菜津さんひとり、父親ひとり……たったふたりだけだ。

 ハウスキーパーは一体どこにいる。

 良くない想像は自分の身体をぶるっと震わせた。

 ――どうしたって、考えちゃうよな

 居間の窓際に位置を変え、カーテンを両手で勢いよく開く。

 よかった、庭もある。空も見える。


 もし外の風景が宇宙だったりしたら。

 もしそこには漆黒の闇、あるいは光しかなかったら。

 もしそこに……

 ともかく、ぼくはまだ地球にいて、この世にもいるらしい。


 ローテーブル上の洋菓子には手をつけず、見覚えのあるパッケージのスナック菓子だけをばりばり食べた。この部屋の時計が正確なら、午後十一時をとっくに回っていて、成長期の高校生ならだれでも小腹の空くどころか、そろそろまともに空腹となるような時間だ。

 腕時計を確認し、壁の時計と差異のないことに安堵した。

 それにしても、こんな夜遅く、だれとどこへ行ったのか。


 インターフォン上の液晶モニタは小さい上、菜津さんの上半身が邪魔でだれが来訪したのかは分からず、受話器ごしに漏れ聞こえる声だけでは、なにを話していたのか、よく聞き取れなかった。

 その中でリョウ、とか、ジェネレータ、とか言う単語だけ耳に残っている。


『リョウ』というのはまさか『了』ではないだろうし。

 可能性の最も高いのは『寮』だろう。『ジェネレータ』というのはなんだ。

 ジェネレータ、ジェネレーター……わからない。手許にスマホでもあれば。


 煌々と蛍光灯の点いた室内でソファに寝転がり、上方の天窓を眺めながら思索を深めていると、だんだんこのままじゃいけないという気にもなってくる。

 ジェネレータってそう言えば、SFとかマンガとかに良く出てくる単語じゃないだろうか。

 ジェネレーションとか、ジェネシスとかなんかもそんな感じのことばだし。

 つまり、そういうものに頻出するってことは、科学、とか、宇宙、だとか、そんな分野に関係あるものに違いない。


 子どもの時に空想科学えほんで読んだ話を思い浮かべた。

 大きなエンドウ豆のさやの中に、人間の入っている画がついていた。

 街の外れでそれを発見した人々は、つぎつぎとエンドウ豆の中の人間にすり替えられていく。

 最後はどうなったか結末までは記憶にない。

 だが画のインパクトは強烈だったようだ。


 穂村一族は実は平面世界から来た二次元人で、ぼくらの住むこの三次元を侵略しているのだとしたら。

 祖父はそのことにいち早く気づき、平面世界の存在を世に知らそうと考え、殺されたのだとしたら。

 祖父が行方をくらませたのは、ぼくや両親を守るため……係累に害を及ぼされないためだとしたら。

 緑谷先生は、実は祖父の居場所を探るための二次元の手先で、ぼくらの存在を知った彼女により、家族みんな、ここへおびき寄せられたのだとしたら。


 そうか、サイエンスパーク自体、二次元人の本拠地なのかも知れない。


 二十年もの間、国や地域を欺き、この東北地方から日本を支配する勢力を蓄えているのだ。

 やのべつ敬老会は、すり替わった二次元人が三次元人と共生するための組織だろう。やっちゃばのおじいちゃんとかいうご老人は、うっかりそこが本物の敬老会だと思って入ったけど、違うことに気づき、消されたのだ。

 もちろん、手を下したのは菜津さんで、基本的に心の優しい二次元人である彼女はそのことを気に病み、今日の件が起こったというわけだ。


 この場所に連れてきてくれたのも、ぼくら家族を不憫に思い、かくまってくれるつもりだったのかも……おお、じゃ、彼女の父親だというあの穂村氏は、実は三次元への侵略に反対するレジスタンスの闘士で、三次元人との共生を訴えるため……


 菜津さんに関する印象だけ向上し、あとは荒唐無稽で悲惨な心象イメージが次々浮かぶ。とうとう居ても立ってもいられず、ぼくはこの家を出ることにした。



       5


 トラブルひとつ無く外に出られたせいか、かえって不安は増大するばかりだった。

 部屋にも、玄関にもぼくを外に出さないための仕掛けは存在せず、スニーカーはご丁寧にも揃えられて、玄関床の敷石にちょこんと載っているくらいだった。

 ――菜津さんがやってくれたのかな……

 ひとときの甘い雰囲気を忘れられず、未練がましくその記憶をたどろうとしていることに気づき、心の中から彼女の姿を振り払った。

 ――いま、やるべきことはなにか

 早足から駆け足になり、やがて自分の家の方角に全力疾走で向かって行った。


 明かりの消えた自宅に着くと、急な恐怖に苛まれる。

 ――もし、巨大なエンドウ豆があったらどうしよう……

 作り話と知っていても、幼い頃の視覚的衝撃は容易にひとを惑わせる。


 真っ暗な玄関周辺を探し回り、やっと合い鍵のありかを探り当てた。

 京山ならきっと、こんな苦労もしないんだろうな。

 緑谷先生と寮へ戻った、とは限らないアニオタナスビの行く末に思い至り、図らずも身震いする。

 やっぱり運のないやつだな、おまえ。


 キーシリンダーを回して玄関口から家に忍び入った。

 両親には信じてもらえないかも知れない。

 が、なんとか説得し、連れて行かなければ。


 寝室、いない。

 食堂、いない。

 居間、いない。

 二階……

 家中を探し回り、生命体の不在を確認したに留まった。


 灯りを点けるかどうか迷った末、やはり点けることにした。

 今度はさらに念入りにあらゆるところを探してみる。押し入れ、戸棚、など、人の入りそうなところは言うに及ばず、ゴミ箱や引き出しの中まで見てみる。

 だって相手は二次元人だ。

 両親が平面化されていたら、折りたたまれてどこにでも入るじゃないか。

 特に気をつけたのは壁だった。

 見覚えのないポスターは貼られてないか、目の端に動くものはないか、天井も気をつけて見た。上方から監視されるのは防ぎようもないからだ。

 ひととおり家探しをしているうちに、徒労を感じ始める。


 ――いつものように単なる残業で、研究所へ泊まり込んでるだけじゃないのか


 台所にカップラーメンを発見していたので、お湯を沸かし食べる。

 白い湯気の心地よい温かさと、空腹の満たされる感覚にしばし焦燥感も和らいだ。

 ――ぼくはなにをしてるんだろう

 ふと自分の行動のすべてに疑問符もつく。

 添加物いっぱいのスープまで完全に飲み干したあと、ぽかぽかと暖かくなった全身のけだるさからか、結局、家の外構に捨てられているかも知れない、平べったい両親を捜すのはやめることにした。


 火の始末とゴミの始末を完全にし、家を出てロックする。

 合い鍵を元の場所へ戻すと、ぼくは寮へ戻ろうと決めた。


 寮に戻ったとしても菜津さんたちは女子寮にいるはずだし、今のところ、ぼくを害するようなことはないと、なんとなく気楽に考え始めていた。壁伝いに来たとしても、まさかそこから腕を出して首を絞められるわけじゃ……

 ――そうか、金縛りって二次元人の仕業なのかな

 突然ひらめいた信憑性ある新たな仮説に自分でも驚嘆しつつ、先へ歩を進めた。



 一応、女子寮の側から回り込むようにして、つまり、女子寮の様子を観察しながら、男子寮のピロティに入った。

 大丈夫、どちらにもなんの動きもないようだ。

 夜間でも一切戸締まり無く、防犯上はものすごく不安な気もするけれど、寮の始まってからいままで一度も空き巣、泥棒の類に狙われたことはないそうだ。


 学校の敷地の広い上、ここはえらく田舎で、女子寮ならともかく、そもそも、男子高校生であふれかえる寮に入って来ようなんてやつはいないだろう。会計室に金庫はあっても、苦労に比して、もうけは少ないと考える方が妥当だし、万が一見つかれば、生徒のリンチにあう可能性だってある。


 ピロティに面した玄関の、鍵のかかってない分厚いドアを開けた。自分の下駄箱へ靴をしまい、スリッパに履き替えようと足もとにかがみ込む。視野の端になにか火花のような小さな光の閃きを感じた。

 ――どこから……

 顔を上げて横を見る。しばらく待ってみると中庭に面した廊下の向こう、中庭の奥でまたなにかが光った。小さな光で、注視していないとわからないくらいだ。場所は……ちょうどルームウのコスプレをした平面人のいた、例の壁付近のようだった。


 ――あ、また……


 ライターやマッチのようなものではなく、放電現象のようにも見える。

 あのあたりに、火花を散らすようなモーターや電機器具はなかったはずだ。

 記憶をたどりつつ、どう対応すべきか考えた。第一発見者になるのはもうこりごりだが、このまま戻り、万一火災になれば、夜中に戻ってきたぼくへ真っ先に容疑もかかるだろう。

 ――寮監の部屋へ向かうべきか……

 もし放火犯があそこにいるとして、一応だれかくらいはこっそり見ておくべきじゃないか、と考え始めた。これまでそいつのせいで相当迷惑しているし、ひとこと文句ぐらい言ってやりたい気もする。

 たぶんできないけど。


 あまり音を立てないよう、ゆっくり中庭に面したガラスサッシを開ける。

 あれからだれか油でも差したのか、それはスムーズに動き、ほとんど音を立てずに開いた。半円形の庭の壁沿いを、この前のようにそろそろと忍び足で進む。

 サイエンスパークからここまで、街灯の少ない暗い道を歩いてきたおかげで目は闇に慣れていて、中庭に面した廊下のガラス越しにぼうっと浮かび上がっている常夜灯の光だけで、なんとか前に進んでいく。

 ――また光った!

 目の錯覚や気のせいなんかじゃなく、近づいたからか、明らかに前方の壁付近に稲光のような筋を見た。と同時に、刹那の光に浮かび上がる人影も目撃していた。


 ――だれだ


 一瞬で緊張感に包まれる。あいつが犯人なのか。


 女子寮とを仕切る大きな壁の小さな光は、どうやら一定間隔らしいものの、さっきより明滅の間隔をせばめているようで、少しずつ短くなっていた。

 ぼくは近づくぎりぎりのラインを定め、そこへ向かってにじり寄るように相手へ近づいた。数十回の発光の後、ようやくそこへたどり着く。


 人影は、立ち位置こそあまり変えないものの、触ったり撫でたり、聴診器のような機械を壁へ取り付けたりと、壁を向いたままだ。

 しかたなくその顔を確認できそうな場所へ移ろうと足を前に出したとたん、地面のなにかを踏みつけ、あわてた拍子に転倒する。

 それは中庭中にガランガランと音を響かせ、地表を転がっていった。

 音からすると、水やり用のプラスチック製ジョウロみたいだ。

「いってぇ……」

 腰をしたたか打ち、さすりながら立とうとすると、目の前に黒い人影が立っていた。ぼくの判断では、大きな音を出したりすれば、相手は逃げ去るものだと考えていた。もし放火犯なら、目撃者を襲うより暗闇に乗じて逃げた方が得策だ。

 でも、誰だか知らないこいつは逃げようともしなかった。

 ひょっとして、犯人ではないのかも知れない。

 それはないか。

 親切にも目の前の人影は手を差し出してくる。がっしりとしたその手を握ると、相手はぼくを軽々と引き起こした。

「あ、ありがとう……」

 ぱちっと火花が飛び、一瞬だけ相手の顔を見ることができた。

 よく見知ったひと。

「……ございます」あわてて、礼のことばに丁寧語を付け加えた。


 一体このひとはここでなにをしているんだろう。

 彼は無言のままぼくの前に立っている。


 ――そうだった!


 いつも補聴器をつけているから、聞こえなかったのかも。

 少し大きめな声で、再度礼を言い直した。

「ありがとうございます、先生!」


 ミボケツはやはり無言のままだった。

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