第八章 微妙に仁義なき戦い



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 週末の土曜日『やのべつ敬老会』との第一回の打ち合わせに同行することとなったため、ぼくの周囲は微妙に騒がしくなった。

 そもそも二学期になるまで一年生が寮を出て歩桜高校の敷地外へ行くことは原則禁止だった。

 そんなきまりのあること自体どうかと思うが、きまりに縛られず、結局外へ出ることを許可されたため周囲から逆に、それもどうかと思われたらしい。


 以前穂村に聞いていた話の通り緑谷先生の口添えは絶大で、いまだなぜ絶大なのかまるきり想像もつかないものの、寮監から即答で断られた課外活動による外出の件は、彼女を通すだけであっさり許可を得られてしまった。

 学校としては放火……不審火事件の解決を見ておらず、その被疑者たるぼくを簡単に外へ出すわけには行かない、と考えていても不思議はない。


 まあ実際そう考えたらしいのは学校よりもむしろ同級生たちのほうだった。

なんだか超法規的手段を使い、ひと足早く外出できる特典を得た、とやっかむのか、ぼくは周囲からまた一段と厳しい視線を浴びることになった。


 その渦中、ひとつの救いになったのは夜中の洗濯の件だ。


 寮則のどこを見ても深夜の洗濯を禁じる項目はなかったので、ぼくは以前より堂々と深夜の洗濯を始めた。意外にもそのことで見回りの寮監からそれを強制的に止められたり、禁止されたりすることはなかった。

 せいぜい、早く寝ろよ、という注意を受けただけだ。


 さて、そうなると、ぼくのマネをするやつも出てくる。

 罰則のない不文律は、結局破られるために存在するわけだった。


 学校でも寮でも分単位、場合によっては秒単位でのスケジュール進行を求められる日常生活は、よほど要領のいいやつでなければうまくまわらない。

 高校に進学したばかりで勉強もハード、寮生活にも慣れず、精神的にも肉体的にも疲れ、空き時間はだらだらしたくなる、

 主婦でもないから家事は後回しにしたくなる。

 深夜の洗濯はそういったやつらにはぴったりの息抜きになるらしい。


 はじめはひとり、次の夜には三人と、昼間ほどではないにせよ、週末までのわずか数日間に夜間の洗濯従事者は増え続けた。

 もちろんみんな来る時間はばらばら。深夜だけになんとなくおしゃべりしたりするのは憚られるせいか、ろくな会話もないけど、みな脱水槽のぶるぶる震える騒音に紛れ、数語ことばを交わすだけで満足しているみたいだった。


「ちょっとしたムーブメントになってるな、すごいじゃん」

 さっきまでいた数人組が洗濯を終え、乾燥室に入ると、入れ違いのように京山がやってきた。敬老会訪問予定日の当日、いまは午前三時を回ったところだ。


 夜ナスビは、ためた洗濯物を両手いっぱいに抱えている。

 部活へ入れ込むあまり昼間洗濯する余裕もなくなったか、このミッドナイトランドリーへ参加することにしたらしかった。


 あの日以来、こいつはすっかり沓子先輩のファンになった。

 しきりに彼女の話をしたがるから困ったもんだ。

「正直言うとさ、年寄りどもと演し物の打ち合わせなんか、どうでもよくね?」

「そんなこと言うから色々言われるんだよ」

 外出の件では、京山もあしざまに厭味を言われたり、陰口をたたかれるようになっていた。

 しかし、こいつの場合、そういった悪意ある発言に対しどこか鈍感なようで、ちっとも効果はない。数少ない美点のひとつ、ということにしておいてやろうか。


「ミドリンにゃ悪いけど沓子先輩と一緒にいられるなら、どうでもいいね」

 変なあだ名で呼ぶな。ん、もしかしてマジ惚れ?

「ミドリンはやめろ、絶対やめろ。……なんでぼくに気兼ねを?」

「だってミドリンBLじゃん。コクられたから気をつかってんだぜ」

「やめろって!」


 こいつ、本気でそう思ってるのか。


「おーい、おまえら、早く寝ろよ」

「はい、すみません」

 外の廊下に寮監の見回りが来たらしい。乾燥室から出てきた寮生たちは、口々に弁解と謝罪のことばを口走りながら、さっさと自分の寝室へ戻っていった。


「こっちもか。もう三時過ぎだぞ!」


 洗濯室の入り口に立っていたのは山下寮監だった。あの火災のとき、ショージと一緒になって消火していたひとだ。

 志田の話では今年採用の新寮監らしい。

 大卒ですぐここへ就職してきた人で、寮監の中でも若く見える。

 わざわざこんなところで、苦労を買おうなんて見上げたひとだ。

「あ、すいません。すぐ寝ます」

 ぼくらの夜更かしへ特に説教を垂れることもなく、そのまま過ぎ去ろうとした。

「そうだ……御鳥?」

 行きかけて思いだしたように声をかけてくる。

「はい」

「すっかり開き直っちゃったようだな」

「はい?」

 なんだなんだ。どういう意味だ。

「いや、みんなに疑われてるっていうのに、全然、気にしてないもんな」

 このひとはなにを言いたい。皮肉ってるつもりか?

「精神的にさ、強いなあと思うよ。……おやすみ」

「ありがとうございます」

 不可解だし、うれしくもなんともない会話だった。


 数時間後、寝不足気味の顔ながら、それでもぼくは浮き立つような期待感にあふれて待ち合わせ場所へ急いだ。早朝の寮長室で外出許可証を確認してもらうのに手間取り、少々遅くなったからだった。

 寮から学校へ続くゆるい坂道を駆け下りながら、ぼくらはさっきの出来事をしゃべりあった。

「ショージ、よほど俺らを外出させたくなかったんだな」

「たぶん、出したくなかったのはぼくだけだろ」

「演劇部だからじゃね?」

 なるほど、納得。

 許可証へ判をもらう直前、ショージは用を足しに行くと寮長室を出たきり、一向に戻ってこない。約束の時間に間に合うか間に合わないか、というぎりぎりの時間まで、ぼくらは待たされたのだった。

 校門前に、黒い車が停車していた。

 無骨そうな四輪駆動車で、SUVとかいうタイプだ。

 よく磨き込まれ、早朝の陽光をボディに美しく反映している。


「遅い!」

 緑谷先生は、まだ遠くのぼくらに向かい、凛とした声に一喝する。

「すっ、ぅすっ、すびばせぇえーん!」

 走りながら大声で返事を返したため、息継ぎはうまくいかず、身体の振動により、変な発音になってしまう。 

 間近に見ると先生は、いつもの臙脂色のビジネススーツではなく、カジュアルな服装に身を包んでいる。

 ダークチェリーのブラウスにスモークイエローのジャケットとスカート。

 黒いレザーレギンスの足もとはジャケットと同色のハーフブーツで決めていた。

 腕にはスポーティーな二○○三年ナイキ製イマラ・ラン。

 ブラックベースにゴールドをあしらったその時計は、さすが、スポーティーな服装とベストマッチしている。

「待つのは今回だけ。次は置いていくよ」

 膝に手をかけ荒い息を吐いているぼくと京山に、先生はにべもなく宣告した。


「おそーい!」

 車に乗り込むと、菜津先輩はふくれ面だった。

「女の子を待たせるなんて最低ぇー」

 沓子先輩に言われた京山は頭を掻いた。

「あなたたちは後ろ」

 真奈先輩は首をかしげ、クールに背後の席を示す。

 彼女たちのものだろう、大げさな荷物の載せられた最後部の三列目シートがぼくと京山の席らしい。そりゃそうだろうな。

 先輩たちと隣り合って座る、なんて、ちょっとでも考えたことを恥じた。

 最後部はぼくらと荷物、二列目はアクタレス三人、運転席のある一列目は……

「あれ?」

「よ!」

 助手席には穂村が座っていた。

「きみも?」

「敬老会の仕事、手伝わされることになった」

「出発だ」

 先生のかけ声に車はするすると発進した。



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 車の三列目というのは、エクストラシートって呼ばれてて、直訳すると『余分な』シートって意味だ。スポーツの『戦力外』とか、プラモデルを作るときの『半端もの』とかと同じ。

 基本的に乗用のスペースとして考えられた場所ではなく、荷物置き場を流用するから、車内の居住空間として見た場合、乗り心地最低、広さ最小、気持ちは最悪って感じになる。

 そこに載るぼくらは完全に荷物化して、後席で佇むだけの存在だ。


 あ、京山にはそうじゃなかったか。


 二列目のアクタレス三人はゆったりとした空間でリラックスしながら、女子高校生らしくおしゃべりに興じ、ぼくは彼女らのスポーツバッグを胸にかかえ、それを面白げもなく眺めているだけだったけど、やつは目をキラキラさせて――もとい、そこに濁点を打つべきか――沓子先輩の後頭部を見つめつつ、参加していないにも関わらず、前席の話に、うん、うん、と無言のままうなずいたりしている。

 相当重症の様子だな、これは。

 あきれ返って、今度は運転席のほうを伺い見ると、緑谷先生と穂村は、これまたなんとなく楽しげに会話している様子で、正直、うらやましく感じた。

 しようがなくバッグを抱え直し、荷物のひとつなんだと改めて自分に言い聞かせる。

 そうやって前方を向いていると、歓談途中にときおり見せる穂村と菜津先輩の横顔の相似に気づいた。

 正面からはそれほど似たように見えないのに、姉弟でも血縁者というのは互いにどこか似てくるもんなんだな。


 大いになにかを期待した外出の、往路での収穫はその程度だった。


 

「先生、今年もまたよろしくお願いします」

 腰を深く折り、敬老会の代表者とおぼしき老人は緑谷先生に挨拶する。

「早坂さん、こちらこそ今年も生徒に発表の場を与えていただき、感謝いたします」

 大人の挨拶は回りくどくて、ややこしい。

 いろいろ儀式張っていてちょっと苦手に感じてしまう。

 先生がひととおり、場の老人たちへ挨拶を済ませると、今度はぼくらの番だ。

 三人の先輩方は以前からの顔見知りの多いこともあって、滞りなく、そつなくそれを済ませていく。

 菜津先輩は自分の挨拶を終えると、ぼくらを彼らに紹介した。

「今年から、男子も加わり演劇部もパワーアップしました」

 手を広げ最初にぼくへ向ける。

 急に指名を受けたため、出だしからどもってしまった。

「あわてんでええ、ええ男が、ひょっとこみたいな顔になっとるぞ」

 老人のひとりにからかわれ、なにがおかしいのか敬老会の連中はどっと笑った。

 顔全体に熱を感じながらなんとか自己紹介を終えると、京山の番だ。

「あんた、畑のナスみたいや」

 自己紹介の途中、そう言われてやつも赤ナスへ変わる。


 儀式をひととおり終えると、ぼくと京山は先輩方の指示どおり、例の台本を場の老人たちへひとりひとり手渡した。配布の終了を見届け、会議用パイプ椅子から立ち上がった真奈先輩は、簡単に台本の概要を説明する。その後しばらく室内は静けさを保った。

 老人たちが台本を熟読しているあいだ、ぼくは窓の外に目を移し、そこから見える風景を観察していた。


 JR藤田駅と壁面に書いてある小さな駅ビル、その下のバスロータリー、向こうにはなんだかスーパーの看板も見える。行き交うひとは少ない。

 来る途中の道筋を車中から眺めていても、駅周辺はなんとなくがらんとしていて、地方都市中心部の空洞化している現実を見たように感じた。


 しばらくすると室内に鼻をすする音、鼻をかむ音が充満し始めた。

 正直、あの台本を老人たちはどのように感じるのか興味を持っていた。

 孫世代の感動は、果たして彼らに通用するかという関心だ。


「……これはいいですなあ。昨年よりさらに、その、なんというか……いいなあ」

 メガネを額に上げ、ハンカチで涙をぬぐいながら早坂老人は感想を述べた。

「過分なご評価、恐れ入ります」

 パイプ椅子に座ったまま、緑谷先生に続き、真奈先輩はうやうやしく頭を下げた。

「異形の存在と、それに嫌悪を抱きながらも、最後には和解し、理解者となっていく……エイリアンと女子高生の心情が、非常に丹念に描き込まれていますなあ」

 別な老人は鼻をかみながら、力説した。

「現代の介護問題が、ここに出とるわけですわ。例えばうちの嫁の場合……」


 え? 介護? ……彼は延々と自分の家庭の問題を開陳する。


「わしらすでにこんなに年で、しわばかりになって、まあ、若いみなさんから見ればもうエイリアンみたいなもんです。しわエイリアン、わし、エイリアン、なんて」

 割り込んできた別な老人のダジャレともつかない発言に、敬老会の一同はみな爆笑した。

「このエイリやんとかいう人物が、女子高生を食べようとするところ、気持ち分かるなあ。わしも一回食べてみたい」

 さらなる爆笑。

 エイリやんって、関西人か!


 それからも悪のりした老人のジョークは続き、呆れるよりむしろ彼らのバイタリティに圧倒されてしまった。

 緑谷先生は当たり前としても、先輩女子三人は一緒に笑ったり、うなずいたりと、なんだかぼくよりもずっと自然で楽しげに交流できている。

 たった一年……いや二年違うとこんなにもコミュニケーション力に差異も出るのか。

 いい加減、老人たちの放言も収まったころ、代表の早坂老人は場をまとめる。

「前回アンケートの結果で敬老会のみなさんから出されたご要望、『家族』『福祉』『救済』の主要三テーマおよび、『異世界』『非日常』『魔法』『女子高校生』『サバイバル』のキーワード五つを、これほどうまく劇にまとめられるとは驚きました」


 そ、そんな要望だったの?

 むしろそんなのがみなさんから出る方が驚きなんですけど。

 それにしても真奈先輩……あなたはやっぱりすごい! すばらしい!


「柏木さん含め、みなさん方の若い才能には感心させられます」

「ありがとうございます」

「いえ。ただ、それを承知でひとつ……可能ならば、ひとつだけ要望があります」

 笑顔を浮かべた真奈先輩の顔はさっと緊張に引き締まった。

「なんでしょう。是非承りたいと存じます……」

「可能ならば『こけし』を主人公にしていただきたい」

 ――えええええええええええ!

 真奈先輩は、ぐっ、とこらえたように、一瞬声に力を溜め、にこやかに答えた。

「わかりました。なんとか直してみます」


 その後、詳しく聞いてみると『やのべつ敬老会』はこれまで藤田市にある、民芸品のこけしで有名な観光地から援助を受けていて、敬老会の設立十五周年である今年は、ぜひその地域へなにか恩返しをしたい、と考えていたそうだ。さらに驚いたことには、毎年GWに実施する歩桜高校演劇部の、この敬老会への慰問公演を今年は拡大し、藤田市民会館で上演する案も出ているそうだった。


「市民会館でやるほどの規模は無理でしょう。部員は三……六人程度しかいませんからね」

「最近、中に小ホールができたのです。五十人から百人ほどの客向けの」

 緑谷先生は冷静に早坂代表と話を進めた。

 いつの間にか穂村も部員としてカウントされているのがおかしかった。

「なるほど。三人では厳しかったかも知れませんが……少し検討させていただいても?」

「もちろんです。……ただ、どうしても無理なようなら、気兼ねなくおっしゃって下さい。手伝いが必要なら、私どももおりますので」

「お心遣い感謝します」

 ひととおり打ち合わせは終わり、最後に早坂代表は会議参加者に最後の質問を促した。

「大体打ち合わせは以上ですが、みなさんからほかにご質問はありませんか」

「あのう……」

 自信なさげに、おずおずと手を挙げたのは菜津先輩だ。

「はい、部長さん」

 指名され、その場に立ち上がる。

「さっきから気になっていたんですけど……やっちゃばのおじいちゃん、今年は……?」



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 駅前のボランティアセンター会議室から外へ出ると、あたりは暖かな日差しに照らされ、朝方とはまったく異なる気温に包まれていた。

早く夏服に着替えたいくらいの暑さだ。


「そろそろ昼だな。みんなはどうしたい?」

 緑谷先生はとうにジャケットを脱ぎ、肩にかけていた。

「せーの」

「ジャンクぅ」

「フード!」

 沓子先輩の合図とともに他の二人もことばを合わせる。

「またか!」

 先生は呆れたような声を出し、ぼくらの方を向く。

「きみらは?」

「あ、先輩方と一緒に」

 京山は相談もなく抜け駆けする。

 先生はぼくの意見など聞かず即決した。

「じゃ、一旦解散、一時間半後にここへ集合」

「またアラを連れてくんですか?」

「こらこら、ついて来たがるんだからしょうがないでしょ。ちゃんと昼代は自前で払ってもらいます。別におごったりしないわよ」

 不満そうな菜津先輩をよそに、穂村と先生は駐車場の方向へ去っていく。

「絶対いつか噂になるから……」

 つぶやきまじりに頬をふくらませた。

「しょうがないじゃん菜津ーぅ。別に恋愛してるわけじゃないじゃん」

「アラのバカ」

「まあ、ふたりとも同じ趣味人ってこと」

「趣味?」

 真奈先輩のあとに、なんとか話に割ってはいれた。

「車。モータースポーツってやつかしらねー」

「アラも瑠栄花も車バカ!」

 菜津先輩はとうとうかんしゃくを起こした。


 結局ぼくらは駅ビル一階にあるマクドナルドで昼食をとることになった。

 ジャンクフードの王様ハンバーガー。

 ぼくは嫌いじゃない。

 京山は苦手なようで、どうせならモスバーガーを探そうと言い出した。

「高いじゃん、モス」

「あっ、それもそうか」

 沓子先輩のひとことで、あっという間に前言を翻す。これじゃ見込みないな。

 食事の前に女子は三人ともまず着替えると言って、どこかへ行ってしまった。

「つまり、お色直しってやつだな」

 わけ知り顔で京山はそう分析した。

「まさか、トイレのついでに化粧だろ?」

 こいつの決め付けるような発言に時々むかっとすることがある。だから少しは困らせてやろうとして……

「京山さあ、マジで惚れたの?」訊いてやった。

「……」

 こういう時、人間ってなにを考えてるんだろう。

「……おまえには悪いんだが……マジかも」

 京山はしばらく黙り込んだ後、重そうに口を開いた。

「だから、ぼくはBLじゃない」

 こっちの返事は聞いてなかった。

「人間……顔じゃないって……思ってて、俺と価値観の同じ人間で、しかも女でそんなひと、いないと思ってて……」

 おいおい、駅舎の壁にもたれて昼間から恋愛話か。

 自分のことじゃないから気楽だ。聞くだけならいくらでも聞いてやるさ。

「沓子さん……かぁわいいよなぁ。あんなにかわいいのに、俺と同じオタクなんだぜ」

 なんだか先輩に同情したくなってきた。おまえと同列にされちゃ迷惑なんじゃないのか。結構あれもすごそうなひとだぞ。


 かなりの間、やつの気持ちを聞かされてた、と思う。


 周囲にざわめく声も多くなり、気がついてみると、駅周辺にある高校の生徒たちなのか、大勢、藤田駅に群れ始めていた。

 午前中は部活の練習でもあったらしく、ほとんどの生徒はジャージ姿で、手にラケットを持っていたり、大きなスポーツバッグを抱えている。通りすがりの彼らはぼくらをじろじろと見ていった。。

「うわぁ、これだとマックは行列だねー」

「おまたせ」


 三人は私服に着替えていた。

 京山の言ったとおりだった。


 しかし、女ってやつはまったく理解できない。昼食を終えたら先生たちと合流し、車でただ寮へ帰るだけだというのに、途中でまた着替えるつもりなのか。

「ちょっとふたりとも、その恰好で行くつもりなの!」

 弟の件でまだ怒りに燃えているらしく、菜津先輩はとげとげしくぼくら男子を叱責した。

「え、ええ?」

「ほら、上着脱いで。どーせ用意なんかしてきてないんでしょ!」

 自分のスポーツバッグを開けると、中からヨドバシカメラの紙袋を取り出す。

「あら、ナスくんのも? さすが部長。面倒見いいのね」

 感心したような真奈先輩の声を背後に、菜津先輩はぼくと京山ふたりの胸元へそれぞれ紙袋を押し付ける。

「あ、あのう?」

「その制服でどこの高校か分かっちゃうの! 歩桜の制服はここらじゃ珍しいんだから」

「自由行動しているのがばれると困るわ」しれっと真奈先輩。

「だねー」あいづちは沓子先輩。


 校則では外出時、制服を着用することと決まっている。

 帰省時にも遵守しなければならない。

 それをいまここで破れというのか。


 京山は素直にごそごそと上着を脱ぎ始め、渡された紙袋につっこむ。

「了くん!」

 うーん。菜津先輩に、にらまれるのも悪くない。

 ……という余裕はなさそうだ。


 いまさら学校の言うことを忠実に守ろうだなんておかしいと思うかも知れないが、中学時代からかけられてきた『校則を守ろう』の呪縛を断ち切るのはなかなか難しいよ。しかも、こんな突然に。


「わかりました」


 この陽気では脱いで正解かも知れない。

 手に上着を持つのと、紙袋に入れて手に持つのとの違いだけだ。……と自分にいい聞かせ、紙袋の口を広げて待っている菜津先輩の目の前で制服の上着を脱ぎ、その中に入れた。

 ワイシャツ一枚になった開放感は格別なものだ。

 アクタレスの三人さえ着飾っていなければ、ね。


 三人ともめいめいセンスの良さの際だつような私服に替えている。

 控えめながら化粧までしているから、年齢よりも大人っぽく見え、まるで大学生か、それ以上のようだ。

 それに比べてぼくと京山はどう見ても『上着を脱いだ高校生』にしか見えない。

 この格差はいったいなんだろう。


 呪いか?


 マクドナルドの中はジャージの高校生であふれかえっていた。

 座る場所さえもはや店内にはない。

「しょうがない。テイクアウトでピクニックしましょう」

 菜津先輩はやはりここでも仕切る。

 彼女の声にふりかえった生徒たち、特に男子は一瞬驚いたような顔となり、その後はちらりちらりと盗み見るようにアクタレスの三人を伺うようになった。

 そりゃ、ふつうの女子高校生とはレベルが違う。

 なんとなく後ろに並ぶぼくまで誇らしい気になっていた。


「あーもう、あと四十分くらいしかないー」

 沓子先輩の声で、自分の時計を見ると約束の時間まで、たしかにそのくらいしか残されていなかった。……仕方ないじゃないですか、それは先輩方の……。

 ようやくぼくらの番となり、なんとか昼食を注文できた。


 それぞれに買った品を持ち、ぼくら五人は駅ビルの中を駅の反対側へ抜ける。


 駅周辺の地面にべたりと座り込み食事している他校の生徒を避け、駅舎の壁沿いに上り方向へまっすぐ進むと、上に線路のあるガード下っぽい空間になっていた。

 ベンチのようにでっぱった、ちょうどよい大きさのコンクリートブロックが地面からいくつも突き出ていて、ぼくらはみなそこに座ると、がさがさ紙袋の音を立てつつ、めいめい遅い食事にかぶりつきはじめた。



 その声に気づいたのは、シェイクをすすりながら、こうした食品の、その成分のほとんどは合成物質なんだという雑誌の記述を思い出しているときだった。

 ガード下という場所の性質上、上を通る列車の音にかき消され、聞こえにくいものの、たしかにそれはだれかの悲鳴に聞こえた。

「ちょっとちょっと。悲鳴じゃん?」

 一番強く声に反応したのは沓子先輩だった。

「ええ、聞こえたわね」

 真奈先輩も同意する。

 かすかな悲鳴、そして怒声。

「あっち!」

 指さすまま、菜津先輩は小走りに声の聞こえた方角へ向かっていった。



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 ぼくらのいたちょっと先に、鉄道の資材置き場のようなところがあった。

 枕木らしき木材を針金でつないで作った、隙間の大きな柵で周囲を囲まれている。

 ぼくらより一足早くそこへたどり着いた菜津先輩は柵の手前でしゃがみこみ、中をうかがっていた。

「菜津!」

「なになに?」

「しっ!」

 口にひとさし指を当てるおきまりのポーズでぼくらの会話を遮断する。

 彼女の横に並んだ真奈先輩の肩口から、ぼくも中をのぞき込んだ。


 どうやらリンチらしかった。


 五、六人の白装束の男たちの前に制服を着た高校生が三人ほど地面に正座で座っている。

 こちらからは男たちの背中しか見えないので、怒鳴るような声は聞こえてきても、彼らがどんないちゃもんをつけているのか、内容はよく分からない。

 丈の長い白装束の上着背面には、刺繍かプリントらしき漢字で読みにくい筆文字も見えた。

羅路男らじお隊走たいそう、ね」

 ひとりごとのように真奈先輩はつぶやく。

「あ」

 京山は驚きの小声を上げた。白装束のひとりが、手に持っている棒らしきものでいきなり高校生を殴りつけたのだ。

「警察呼ぼうか」

「間に合わないしぃ」

「じゃ、私たちで」

 アクタレスの三人は絶妙の呼吸でささやき合う。

 ちょっちょっぼくらで助けるつもり?


「ナス! アラ呼んできて! 早く!」


 沓子先輩は低い声で京山に命令した。いつもの間延びしたようなしゃべりとは異なり、有無を言わせぬ強い調子だった。

 ぴょこん、とバネ仕掛けのびっくり箱のような動作で立ち上がると、京山は一目散に駅の方向へ走り去る。こんな時、スマホでもあれば、と奇矯な校則を恨めしく思った。アクタレスはこれまでの前例から外出時、スマートフォンは取り上げられるらしいし、一年生は携帯電話やスマホの類は一切所持を許されていない。

 使いたいときは寮長室に行き、寮監に預けた私物を渡してもらい、その場でかけることはできる。……携帯できてこその携帯、スマホなのに。


「でも、大丈夫かな、この格好で」

「私服だし、オッケーっうことで」

 やはり彼女らでなんとかしようというのか、それは無理じゃないだろうか。

「顔バレはまずいんじゃないかしらね」

 真奈先輩の冷静なひとことで、菜津、沓子両先輩の動きはピタリと止まる。

「そうね、それは考えなかった」

 考えなかったのか!

 菜津先輩はきょろきょろとあたりを見回した。

「了くんそれとって!」

 指差す先を見た。……一体あれでなにをするつもりなんだ。


「やめなさい!」


 演劇で鍛えたからか、その体格のどこにそれほどのエネルギーをもっているのか、と思うくらいの大声だった。

 白装束たちはゆっくりこちらを見た。

 そのまま凝固する。

 口を開けたままのやつもいた。

 気持ちは分かる。

 ぼくたちの風体を見たらだれでも一瞬そうなる。……絶対に。


 四人ともハンバーガーの紙袋をかぶっていた。


 視界を確保するため目の場所だけ指でくり抜き、他にはなんの細工もない茶色い、ただの紙袋。先ほどまでこの袋に入っていた食品類の臭いが鼻孔にまでこびりつきそうだよ。


「なんだおまえら……」


 リーダー格らしきサングラスをかけた男は、ぽかんとした表情で質問しかけ、絶句する。

 しかし、すぐに野卑な笑顔を見せた。

「お、おっ、ばかじゃねえのか、こいつら!」

 笑い出した。

 すぐにそれは周囲の男たちに伝播し、たちまちその場は笑いに包まれた。

 穴があったら入りたい、という気持ちを、このときぼくは少しだけ実感した。

「やめなさいって言ってんのよ!」

 くぐもった菜津先輩の声はすこしもふざけて聞こえず、むしろ脅すような口調になっている。

 そう言ったことには敏感なのか、リーダーはすぐに笑い止めた。

 口元に張り付けた笑みはそのまま、斜めがけしたサングラスの向こうに見える鋭い目は笑っていなかった。

「女だろ、おまえら? 笑かしてくれたから許してやるよ、消えな」

「『ラジオタイソウ』風情が、いきがんじゃないよ!」


 沓子先輩だ。


 ドスのきいたステキな声を出す。

 ラジオタイソウって名前だけマヌケに聞こえなければ、最上のタンカなんだが。

 リーダーはこちらに一歩踏み出してきた。禍々しい暴力的な雰囲気はその身体中からにじみ出てきたようだった。

 寮の吉岡なんかが醸し出すものとは、なんだか根本的な質の違うように感じた。

「あ? ふざけんなよ、だれだよ、おまえら!」

 こちらへ近づこうと一歩踏み出した。

 それを牽制するかのように、奈津さんは再び大声を出す。


「わっ我々はぁっ!」


 セリフは、ちょっと調子っぱずれに甲高くうわずった。


「ま、マクドナル団!」


 アホすぎる!


 だれも笑わなかった。


「おい、袋ひっぱがせ!」

 リーダー格のかけ声と共に、周囲の白装束は一斉にこちらに殺到してくる。


 ちょちょっ、菜津さん! 菜津先輩、菜津部長、ぶちょおおお!


 パン、と大きな音を立て、菜津先輩へ突入したひとりの頬に、彼女の平手打ちが命中する。

「いってぇ! この!」

 捕まえようとする男の腕をするりとかいくぐり、続けてもう一発。

 紙袋をかぶった、本気とも思われぬ相手に、白装束はその後も翻弄され続ける。

「うわぁらああっ!」

 演歌で言うところの『コブシ』に相当するような野太い声は沓子先輩の口から出ていた。

 殴りかかる相手の腕を取り、抱え込んで振り回す。

 遠心力で倒れた相手の腕を逆手にしぼりつつ、襲いかかるもうひとりのみぞおち付近を下から蹴り上げた。

 相手はたまらず、身体をくの字に折り腹部を両手で押さえた。


 すげえ沓子先輩! 


 ただ、パンツは丸見えになってますけど。

 ピンクで縁取られたグレー地のそれから目をそらすと、ぼくの目に真奈先輩の逃げ回る姿が飛び込んできた。

 きゃあきゃあと甲高い叫び声を上げ、男の追跡からさっと身をかわしている。


 真奈先輩、その声はどうかと。……全然イメージと違い、はしたなく聞こえます。

 見ていると、彼女はただ逃げ回っているだけに見えた。

 しかし先輩のことだ。

 きっと反撃のチャンスでもつかもうとしているんだろう。


 ぼくはただ彼女たちの闘争を黙って見ているしかなかった。

 というより、足がすくみ動かなかったんだ。


「てめえ!」


 声が聞こえたのと同時に、頬へ強い衝撃を受け、ぼくは地面に倒れた。

 殴られたと気づいたのは、相手が馬乗りになってきて、もう一発殴られてからだった。

「了くん!」

 どこかに菜津先輩の声を聞く。


 ぼくは乗っている男をふりほどこうとして、もう一発殴られた。

 かぶっていた紙袋は、ずれてぼくの視界をふさいでいた。

 相手の見えないことで、恐怖感は倍増する。


 と、鈍い音がした。急に身体が軽くなった。

 あわてて紙袋を外すと、馬乗りになっているやつはぼくの真横に倒れ込んでいた。

「御鳥!」

 ああ、やっと来た。


 穂村だ。

 馬乗りになってたやつを蹴り飛ばしてくれたらしい。

「ちょっと痛い!」

 悲鳴を上げたのは菜津先輩のようだ。

 声の方に目を向ける。

 リーダー格が、紙袋ごと頭部付近をわしづかみにしていた。紙袋の中の毛髪をしっかり握り込まれてしまったらしい。

 やつは続けて膝蹴りを彼女の脇腹付近にたたき込んだ。

「ぐっ」

 詰まった声をはき出し、菜津先輩は脇腹を押さえ、身体を折る。

 リーダーはそのまま前に彼女を引き倒そうとした。

 

 でも、すでに近づいていた穂村の平手が、その男の頬に命中した。

「てっ!」

 パチッ。目にもとまらぬ第二撃。

「いっ」

 三撃四撃と、穂村の平手はリーダーの頬に命中した。

「っ!」

 痛い、ということばを最後まで言わせてもらえず、頬を押さえようと挙げかける手ごと穂村の打撃を受け、思わず手を押さえるところに、また無防備な頬へ平手打ちを受ける。

 ……そんな繰り返しだった。

 リーダーの手はとうに菜津先輩から離れ、いまは打撃から身を守ろうと必死に防御を試みている。

 でも的確かつ素早い平手打ちはあらゆる隙間から猛スピードでたたき込まれ、相手のすべての抵抗を無力化した。

「っか、かんべんしてくれ!」

 やっと出た悲痛な声は自らの降参を認めるものだった。


 両手を挙げ万歳の恰好になっている。


 サングラスはどこかへ吹き飛び、真っ赤に腫れあがった顔にはおびただしくも痛々しい指の痕がくっきりとついていた。


 ぼくらの救おうとした高校生らしき三人はとうに姿をくらましていて、礼を言われることもなければ、何故彼らが白装束たちにリンチを受けかけていたのかも分からなかった。

 ――ひょっとしたら、彼らのほうに原因はあったのかも知れない

 そんな可能性に気づいたのも、すべてが終わってからだった。


 地元唯一の暴走集団『羅路男隊走』――音だけ聞くとマヌケでも、漢字にしてみると、まあ意味は分からないでもない――も、平手打ちだけでリーダーを撃退したのが穂村だと分かると、なぜか全員逃げてしまった。

 ちなみに穂村の話によれば、今日見た五、六人がメンバーの全員だという。


 地方都市の暴走族なんて、いまやみんなそんな規模らしい。


「まったく無茶するよ、みんな」

 穂村は赤く腫らした手のひらを下げてぶらぶらさせつつ、アクタレスたちの無謀さにあきれかえっていた。

 平手を使ったのは、拳を傷めないように配慮した、とのことだった。

 ラジオタイソウの逃亡後に現場へ来た緑谷先生は苦笑しながら、それぞれのケガの具合を確かめる。

 三発殴られたぼくの容態を一番に見てくれた。

「紙袋をかぶっていたのが幸いしたようね。相手も素人でよかった。狙いをうまくつけられず、まともにパンチできなかったらしいわ」

 すごく冷静で的確に状況分析すると、次は菜津先輩のケガの具合を見た。

 紙袋の上から髪を引っ張られたため、キレイにまとめていた髪はほどけ、つかまれる際に爪かなにかに軽く引っかかれたらしく、額の上部に赤い筋がひとつできていた。

「髪は女の命なのに、あいつ、今度会ったら許さないわ!」

 引っ張られたときの痛みで泣いてしまったか、両目を赤く腫らしていた。

「強がり言わない。弟が来なければ、ごっそり髪を抜かれてたかも知れないでしょ」

「でも、先輩方、みなさんすごく強いんですね」

 なにか言わなきゃと思った様子に、京山は言う必要のない追従を口走った。

 たちまち、不機嫌な顔をした穂村に怒られてしまう。

「おまえ、頭ン中まで野菜なのかよ。なにが強いんだ。姉貴はすばしっこくて無茶なだけ、真奈さんは足は速いけどケンカはからきし、沓子さんだけ少し格闘技をかじってるからまだ無傷だったけど、あれ、男が本気出してかかってったら、たちまち力負けしちまうぞ。ホントに俺が来なきゃ、全員やばかったんだぜ」

 まあ、そう言う意味じゃ、いち早く穂村を呼びに行かせた沓子先輩の判断だけは妥当で実戦的だったってことになる。

「穂村、そう怒るな。傷を負う覚悟でだれかを助けようとするのは、例え蛮勇であったとしてもなかなかできることじゃない。無鉄砲でも、尊敬すべき姉さんだと思いなさい」

「ほら、先生だってそう言うでしょ」

 菜津先輩は弟に向かい、思い切り舌を出してみせた。



       5


 帰りは大幅に席替えされ、ぼくはパッセンジャーシートに載せられた。


 頭部を殴られたこともあり、大事をとって、よりリラックスできる場所へ移動することになったのだった。

 穂村は二列目のシート、菜津先輩の隣で姉の枕がわりとなり、その横に真奈先輩、最後尾にはオタクふたりが同席していた。

 図らずも食後のハプニングは京山だけに幸運をもたらしたってわけだ。


 オタク話が車の最後尾から二列目で寝ている三人を飛び越え、呪文のように、いや、まるで呪術の講義のように漏れ聞こえる中、ケガへのありがたい配慮にもかかわらず、ぼくは助手席で全くくつろげないまま緊張していた。


 藤田駅前を出てから小一時間も経っても、ほとんど先生との会話はなかった。

 控えめながら、自己主張の強い香水の香りをさせた緑谷先生は、こうして間近に見るとやはり三人娘とは決定的に違う。

 大人女性の色香とでも言うのだろうか、なんだか妙に心騒ぐ感じだった。

 しばらく走ると先生は口を開いた。

「痛む?」

「いえ……はい、少し」

「巻き添えとは思わず、彼女のことは許してやって」

 先生はフロントウィンドウから目を離さないまま、唐突にそう言う。

「許すもなにも……部長はなにも悪いことないですよ」

「たぶん、悲しかったんだろうと思う」

「え?」

「敬老会で最後に質問したでしょ? 『やっちゃばのおじいちゃん』……彼女、大好きだったのよ。よくなついてた」


 あの場所では、昨年十月に亡くなったと聞かされても、それほど悲しげな顔はしていなかった。単なる個人消息への興味かと思っていた。


「おそらくそれで。いくらむしゃくしゃしてたとしても、暴走族にケンカを売るなんて、さすが『アクタレス』筆頭だけどね」

 くくっと喉を鳴らして笑う。

「……そうですか」

「気になる?」

「え?」

「におい」

 先ほどからちらちら先生の方を伺っているのを気づかれたらしい。

「いえ。……気になりません。むしろ先生の時計の方が」

「これ? なぜ?」

「ナイキの二○○三年モデルですよね。『イマラ・ラン』……今じゃレアです。ナイキ自体、もう時計を作っていないですから」

「安物よ。……詳しいわね、時計に興味があるんだ?」

 声を出す代わりにうなずいた。

「おじいさんから受け継いだのかな」

 思わず先生の方へ首を向け、彼女の横顔をまともに見た。

「なぜ……」

御鳥みどり冶三郎やさぶろう……知る人ぞ知る変異物理学の権威」

「おじいちゃん、祖父を知ってるんですか?」

「彼の生徒、かな。……以前ね」


 時計の好きな祖父だった。

 アンティークの懐中時計や腕時計、お金もないのにロレックスのデイデイトを買ってきて、祖母に激怒されたこともあったらしい。

 なにしろ当時国産車一台分くらいしたとか。


 とにかく祖父の家には大小取り混ぜ、時計がいっぱいあった。 


 何個か壊しても、全く気にすることなく、裏ぶたを開けて構造やら修理方法を延々と講釈してくれた

 子どもに分かるはずもないのに。

「どこで? おじいちゃんと?」

「アメリカ」

 先生は留学中、アメリカのとある大学の研究所でしばらく師事していたという。


 ぼくはおじいちゃんの仕事に関してはほとんど知らない。


 時計が好きだったことと、子どものころ本当によくかわいがってくれたことの記憶だけ残して他界したからだ。

 なぜか父や母もおじいちゃんの話題にはいまだにあまり触れたがらない。


「きみの話をよくしていた。まさかここで会えるなんて。すごい偶然」

「本当にそうですよね」

 彼女はなぜそんな学問をしていたのに、高校の英語教師になったのか、どういう経緯でそうなったのか、質問してみたいことがどんどん湧き出してくる。

 しかし、話の流れでは、それらとは全く違う展開になっていく。

「先生は最初から知っていたんですか? ぼくがおじいちゃんの孫って?」

「新入生名簿を見た時から、たぶんそうじゃないかと思っていたわ」

 知っていたんなら、もっと早くにそれを教えてくれてもいいじゃないかと思った。

「本当にそうかどうかウラをとってたのもあって、なかなか言い出せなかったのよ」

 なんとなくぼくの雰囲気が不満げに感じられたのか、先生はすかさず付け足す。

『ウラ』だなんて刑事っぽいことばを使われたりするのは正直、あまりいい感じはしなかった。

 

 その他の質問は、結局できなかった。

 単純に時間の足りないせいだった。

「着いたわよ。そろそろ降りる用意をして」

『やのべつインダストリアルパーク』と書かれた看板を通り過ぎ、道の先に見える近代的な建物へ向かう。

 そこはパーク内の総合病院だった。


「とりあえず無事なのを寮へ戻して、また来るから」

 ぼくと菜津先輩だけを病院に降ろし、緑谷先生は他の部員を載せたまま走り去った。

「私は外科、了くんは……内科、かな?」

「どちらもじゃないですか? 部長、おなか蹴られてたでしょう? 」

 こうして並ぶと、ふだん感じる以上に彼女を小さく感じる。

 こんな子を膝蹴りするなんて、あの暴走族は男の風上にも置けないやつだ。

 いまさらながら、心中に怒りの炎が灯される。

「そんなに怖い顔しなくたっていいじゃない」

 しまった、顔に出てしまっていたか。

「わかりましたー。内科にも行きますよーだ」

 拗ねたようにそう言いながら、ただ、彼女の表情はどこか寂しげだった。


 保険証もなく、学生証では受け付けられないと窓口の事務員に言われ、ぼくらはそれぞれ自分の家へ電話をかけることにした。

 久しぶりに母の声を聞けるかもしれないということを少し喜んでいた。

 問題は遣抻恫に引っ越してすぐ入寮したため、新たな電話番号は記憶にたしかには残っていないってことだ。

「こっちは終わったわ。お父さんが保険証を持ってきてくれるって」

「そう、よかったですね」

 こちらは記憶を探り、何度か試しても無駄だった。全く思い出せない。

「番号案内使えば?」

  ――あ、そうか!

 彼女の勧めに従い、104で調べた電話番号にかけてみる。

 土曜日なのに、だれも電話に出なかった。

 そりゃそうか。研究職の休暇は不定期だもんな。

 それに、この程度のことで仕事場にまで連絡を取るつもりはなかった。


 それからいくら待っても菜津先輩の父親は来ず、緑谷先生からも連絡なく、エントランスにあの黒いSUVの訪れる様子もなかった。

 無為に時間の過ぎるのを避けるため、ぼくが交渉し、先に診察だけ受けられないかどうか打診してみることにした。

 いまはふたりとも異常を感じられなくても、それを感じてからでは手遅れになる可能性だってある。診察は早く受けた方がいい。


 根気よく粘り強く交渉している途中、受付を通りがかった医師に目を留められる。

 菜津先輩の父親と知り合いで、彼の口利きでふたりともなんとか診察だけは受けられるようになった。


 結果はふたりともオールグリーン。

 彼女の額の傷は、痕も残らず消えるでしょうと言われたらしかった。

 保険証が到着次第、会計を済ませればすぐ出られるという状態になった。


 こんどこそ本当に、迎えにだれか来るのを待つばかり。


 受付時間も過ぎて、病院のロビーはだいぶひとが少なくなっていた。

 ぼくらは長椅子にふたり並んで腰掛けた。

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