第七章 二次元VS三次元



       1


 学生カバンを抱え、早足で寮への帰途につく。

 思った通り、ほとんどほかの生徒には会わなかった。

 校庭グラウンドから、女生徒のものらしい応援のかけ声や、ボールを蹴る音、金属バットで球を打ち返す金属音が聞こえてくる。

 みないまごろ部活にいそしんでいる。


 寮内も閑散としていて、ひと気はやはり少ない。もちろん部活への参加は強制ではなく基本的には自主参加だから、なかには部活に入らない寮生だっている。


 彼らは少々蔑称気味に『帰宅部』、あるいは『風呂部』と呼ばれていた。

 なぜ風呂部かというと、寮に居残ったやつは毎日大浴場の一番風呂に入るからだ。

 その時間、多くの部活はまだ活動中で、みんな汗を流している。


 着替えるつもりで自室に戻り気がついた。平常服を洗ってない。

 これから曲がりなりにも異性(?)に会うわけだから、異臭を放つような服を着る度胸はない。

仕方なく入寮時に買ってもらってまだ一度も使ってない整髪料を手に取り、オールバック気味に毛髪をなで上げると、制服のまま、ルリムウとの待ち合わせ場所へ向かった。


 付箋で指定されたのは、中庭だ。


 男女共用の円形寮舎の中央はドーナツ上にくり抜かれ、そこが中庭と呼称されている。出入りは一階の廊下に数カ所あるガラスドアからできるようになっていた。

 天井が張られているわけではないから、上方から雨も入るし風も吹く。だから屋外同様ぼくは外履きの靴に履き替え、室内用スリッパをを手に持って出ることにした。

 ガラスドアはサッシのような造りで、クレセント錠と呼ばれるいたってふつうな、手で回すタイプのカギを開けるだけで空いた。

 普段あまり使われていないようで、ギギギというこすれるような音が廊下に響くため、気が気じゃなかった。


 中庭に出たのは初めてだ。


 廊下をはさみ、寮の内側、つまり中庭に面した窓を持つ勉学室から下を見下ろせても、朝は登校用意で忙しく、寮に戻ってくるのは夕方近く、勉学時間は夜なので、ほとんどそこに興味を持って眺めるということはなかった。


 で、実際出てみると、なんとも庭園チックな造りをしている。

 植え込みも整備してあり、なんと植樹までされていて、もともと寮生の憩いの場として考案された設備のようだ。周囲を壁で覆われてさえいなければ、日の光にぽかぽかと照らされる良い庭となっただろうに。


 中庭の真南は女子寮との境で、視界に屋上までまっすぐ壁が屹立している。

 窓ひとつ無い濃灰色の一枚壁。

 ドーナツの真ん中に板を上から差し入れたように、寮と中庭はその壁により完全な半円に仕切られている。

 ぼくの目的地はその壁元だった。


 昼間でも直射日光の入りづらい場所の、移動をさえぎるものの少ない、アニメ画には最適地を選んだと見える。

 でも、物理的肉体を持つ自分にとっては果たしてどうか。


 正面の壁を除き、周囲や上方には無数の窓があり、だれかに見つからず中庭を壁まで進むことは困難にも感じられる。植え込みと植樹の陰を通り、見た目にも怪しく中腰で進む姿をひとに目撃されれば、ますますぼくへの疑惑は強くなるに違いない。


 いつまでもそうしてびびっていてもしかたないし、また、本当の犯人でもないから、たとえ壁の動く画がだれかに見られても困るのは自分じゃないと気づき、もっと堂々としていてもいいのだと考えた。

 

 大股ですたすたと中庭をすすみ、壁際にたどり着いた。

 見上げると壁面は屋上まで一切継ぎ目もなく、平滑に仕上げられている。

 手間と費用のかかりそうな造りに思えた。

 古びた感じもない。

 指で触れてみると、あまり汚れも付着しなかった。


 ――倉庫の壁も、こんな感じじゃなかったっけ


 ルリムウのいた壁面の手触りと似ていたし、遠目には光の加減で濃灰色に見えてもこうして間近では、あのブルーグレーと同色のようだ。

 時計を見る。約束の時間は過ぎていた。ぼくが遅れたのか、それとも相手か。


 大きく深呼吸をしてから壁と平行に西方向へ歩き、半ドーナツの内壁と交差する部分へ移動した。四階あたりを見上げる。もしこの壁がそのまま中まで延長していたとしたら、ちょうど倉庫の壁あたりに位置するだろうな。

 特に建築のことを知っているわけでもない。

 けど、そんな造りの建物はあり得ない、と思った。


「中まで続いているのよ」

 彼女はぼくの考えを見透かしたように声をかけてきた。

 これまで経験したことで、心の準備はすっかりできていたつもりでも、いざ壁の画から声をかけられるとあわててしまう。

 今は昼間だ、超常的な出来事の起こるにはまだ早いじゃないか。


 彼女はモスグリーンの衣裳からコバルトブルーの衣裳へ着替え、ド派手なメイクをしていた。

 アニメ画だけあり、髪型やメイクを変えても顔立ちに変化は見られない。いつもより表情がきつく感じられるだけだ。なのに、それだけで雰囲気は別人のように思えるから、記号の力というのは面白い。


「……なぜわかるの?」

「この壁と倉庫の壁が続いているって、そう考えていたんじゃない? だからここに来て上を見ていたんでしょう?」

 彼女は聡明だった。

 洞察力に加え、うまく植樹とぼくの陰に隠れ、他の場所から見にくい位置取りをしている。

「見てたのか……」

「時間前からここにいた。……ずいぶん堂々と入ってきたのね。蛮勇なのか、思慮の足りないのかはわからないけど」

「怒ってる?」

「ここで会うのは危険度も高いわ。夜ならともかく、だれに見つかるか」

「ごめん」

 素直に謝罪しておいた。画とケンカしても始まらない。

「……あなたに知らせたいことがある。火をつけたのは男子寮のだれかよ」

「それは前に聞いた」

 ルリムウ……いや、いまは第二の変化とかいう……なんてったっけ、いいや、その彼女はにこりともせず、躊躇したように口を閉じ、すぐことばをつないだ。

「それには……先があるの。……私はそのだれかを目撃している」

「なんだって?」

 この間はそんなことを言っていなかった。

「それは……そんなことは」

「そうね。……言わなかった、のでしょう?」

 息を吸ったのか、胸元が大きく動く。

 へえ、意外と大きな……

「どこを見ているのかしら」

 落ち着いた調子ながら、かえってその方が叱責されるより効果的だった。

「いや、その……」

「平面に性的興味を持つなんて倒錯趣味ね」

「ち違うって! へ、平面なのによく動けるなあって」

「大きな声は良くないわ。……話を戻しましょうか」

 電車内のヘッドフォンスピーカーみたいなシャカシャカ声のくせに、大声は良くない、と来たもんだ。

「手伝って欲しいのは火をつけた人物の特定。そして告発――目撃者はあなた、ということにして――」

「こ、告発?」

 意味は分かる、漢字だって書ける。でもそれだけ。

 実感としてそのことばの意味するところはさっぱり理解できない。

「訴えるの。学校や……だめなら警察でも消防でも、ともかくこれ以上の犯行を止められる組織や団体に」

「じ自分で止めたらどうかな?」



       2


 彼女はことばをつまらせた。平面人間でも絶句するみたいだ。

「……私じゃできない。よく考えてみて。不可能じゃなくて?」

「ぼくにだってできない、そんなことは。見てもいない犯人の、見てもいない犯罪を立証する事なんて、それこそ不可能だ」

「私の見たことをそのまま言えばいいのじゃないかしら」

「壁から見たって? 犯人だって人間なんだ。人権ってものがある。目撃者がいるっていうなら、それまでいつ、どこで、なにをしていたか、目撃したのはどういう経緯か、そういうことをきちんと証明する義務と責任もある」

 実は言いながら考えたことなんだが、なんとなく彼女の、ひとを突き放したような態度が気に入らず、反論してみたくなったのだった。

「……言われてみるとたしかにそうね。壁から見ていたとしか思えないような目撃談じゃ、信憑性ゼロね」

 思うより素直に彼女は考えの甘さを認めた。

「人物の特定なら、……まだできそうな気もするけどね」

 多少がっかりした様子を見せた彼女に対し、うっかり口を滑らせ、リップサービスのようなマネをしてしまった。

「あら、でも、どうやって?」

 具体的な方法はまったく考えていなかったので、ぼくは口ごもる。

「うー。……そうだな。奇態な行動をとるとか」

「どういう意味かしら?」

「その……」

 とっさのことで、どうせ、疑われているんだからと、思わずぼくは自滅するような案を言い出してしまう。

「ぼくが怪しげな行動をとれば、みんなの目はぼくに集中する。真犯人は動きやすくなって、すぐ次の犯行を起こすかも知れない。そのとき、きみが現場と犯人を押さえるんだ」

「え?」

「壁の画ならどこへでも神出鬼没だろ? 犯人捜しなら、ぼくよりも適任じゃないか。囮役は引き受けるから」

 言ってしまった。もう、退学でもどうにでもなれ。

「でも、自信がないわ。どうやって犯人を……」

 このまま押し問答をしていたら、こちらまで弱気になりそうだった。魔女高生のくせになにをびびってるんだ。

「そのまま、壁から声をかければいいじゃないか。死ぬほど驚くぞ」

 背後の壁から声のしたときのことを思い出しながら、アドバイスしてみる。

「そう……かしら。ええ、それぐらいならできそうね。効果もありそうだし……たぶん」

 あれ、決まってしまった。

「じゃ、これからは連絡を密に取り合おう。なにかあればあの付箋で知らせて」

「そうね。……あ、でも」

 困ったように彼女は首をかしげた。

「付箋の手は、よほどのときでないと使えないわ」

「今は『よほど』なときじゃないの?」

「そうじゃないけれど……事情もあって、使いにくいの」

 壁を伝ってくるときにだれかに目撃されやすい、ってことか? 使いにくいという表現にひっかかった。まさか本当に魔法を使ってるとか?

「連絡には別な方法を考えましょう」

 結局、ぼくの提案は却下され、彼女のやりやすい連絡方法をとることとなった。


 時計を見ると、打ち合わせたのは実際は5~7分くらい、10分は経っていない感じだった。中庭を出て廊下に戻ると、履き替えた外履きを持って下駄箱のある玄関口へ向かう。


「御鳥!」

 背後から声がかかった。

 振り向くとショージだった。

「はい?」

「中庭にいたな? なにをしてた?」

 昼間、寮内でひとに見られず行動するのは無理だな。

「きょうは部活休みなんで、ちょっと……」

 囮になると決めていても、いざとなるとなかなかうまい言い訳を思いつけない。

「ちょっと、なんだ?」

「はあ」

「いいから来い」

 言われるまま、中庭に逆戻りさせられてしまう。

「このあたりにいたな、なにをしてた」

 さっきの壁際へ連れてこられた。

 当然、壁に先の画はない。

 ショージがぼくを目撃していたとしたら、たぶん中庭に面した寮長室の窓からだろう。ルリムウはちょうどそこの死角にいたから彼女の存在は知られていないはずだ。

「なにも。ただ壁を見ていただけです」


「燃えやすいかどうかをか?」

「疑ってるんですね」


 双方、思ったことを素直に声に出してしまう。

 ただ、疑われることを恐れなくなったぼくに比して、ショージは教育に従事する人間として、今の発言は失言だと思ったようだった。

 次のことばには先ほどの勢いが感じられなくなっていた。

「そうじゃない。……誤解するな」

 誤解もなにも、疑ってるのは明白だろうに。

「この壁は倉庫の壁と同じですね」

「あ、ああそうだな。そうかも知れない」

 なんだ、知らないのか。

「いいか御鳥、なにか心配なこと……悩んでることでもいい……そんなことがあったら、いつでも相談に来ていいんだぞ。悪いようにはしないから……」

 ここで自白を促すにしちゃ、ちょっと弱気な言い方。

 教師としてみても、テレビドラマ並のセリフを吐いちゃ新味はない。もうちょっと生徒との付き合い方を勉強し直した方がいいかもしれない。

 そんな風に考えながら、ある意味、守りの姿勢を捨て、開き直るとぼくのように小心者でも気持ちを強く持てるって事を知った。



       3


 ショージとはそれから二言三言どうでもいい話をして、ようやく解放された。

 生徒が中庭の壁際にいた、というだけではなんの証拠にもならないし、かえって疑っていることをぼくに知らせただけ、という結果に終わったのは、向こうからするとさぞ不本意だったろう。

 ――御鳥が囮か……

 ひとからされると気に入らぬ、自分の名前を自ら誤読しダジャレにしてみると、腹立たしくも笑みが浮かぶ。

 たぶん母親似だな、こりゃ。

 部活からひとのまだ戻らない、がらんとした寝室へ戻り、気になっていることを調べる。

 ロッカーから、京山に借りたままの例の雑誌を引っ張り出して、『魔女高生ルリムウ』特集を、じっくり読み始めた。


 ――やっぱり……


 コバルトブルーの衣裳を着ているのは『ルームウ』というキャラクターだった。

 身長162センチ、ベースとなるルリムウと変わらない。

 体重……これもそうだ。

 イメージカラーはコバルトブルーで衣裳の通り。基本的に子ども向けの番組なので、色分けでキャラクターごとの差異を分かりやすくしているのだろう。


 冷静で分析的な性格だが、一度感情に支配されると手がつけられない……コンピュータなどの電子機器を自由に使いこなす、か。

 性格設定もありがちなパターンに思える。


 読みながら、ひとつひとつの特長を、さきほどの彼女と対照させていた。


 ブルー基調だから水系のキャラクターと思いきや、必殺技は予想に反し、炎に関するものばかりだった。アークファイアー、アルゴニック・クラッシュ……


 特技は『火で浄化する』。


 ……なるほど、青色の炎はより高音だから、悪いものは跡形もなく燃やし尽くすってことなのか。


 情報の入り方は、以前これを見たときとはまったく違う。

 アニメ雑誌の特集はカラーページでのビジュアル紹介だけに留まらず、作品としての評価や、その意味、意義に関する考証まで、多岐にわたる分析を試みていた。

 サブカルチャーとしてとうに市民権を得たメディアでも、いまだ子ども向けというイメージのぬぐえないため、きっとこういった理論武装も必要なんだろう。


 扱う題材の軽さのわりに固いテーマを冠する論説調文をまともに読む気はせず、けれど気軽にぱらぱらと斜め読みしてみると、少なからず興味の持てる話題もあった。

 例えば、ルリムウ物語の発端となる『魔女狩り』の考察なんかはそうだ。

 歴史の授業と言えば中学では日本史中心なので、どちらかというと世界史の方に興味のあるぼくは、そういった話を好む傾向があった。


 ――『魔女高生ルリムウ』は集団の悪意に翻弄される個人の、社会性回帰の物語である――


 難解な出だしだなあ。ま、結論から書く分には親切だけど。


 ――『魔女高生ルリムウ』は、変身魔女ものという、スタンダードな子ども向けアニメでありながら、そのストーリーの流れにおいて、単なる記号としての正邪対決ではなく、登場するキャラクターの心中に潜む『悪意』と、それが集団により増幅されていく恐ろしさに焦点を当てている点で、同種の作品とは大きく異なる――


 ――つまり、表層的には悪と闘う異能者の、勧善懲悪ドラマとしての側面を持ちながら、気のいい隣人が集団となると、まったく別のなにかに突き動かされ道を誤っても気づかない、いわゆる群衆、集団心理における人間の弱さ、を大きなテーマのひとつとしている。

 物語の背景として主人公の登場する舞台を当初、中世ヨーロッパとし、『魔女狩り』を題材としているのも興味深い。

『いじめ』や『格差社会』『人種差別』『性差別』『少数派排除』など、現代社会における問題の根を、異なる時代の異なる国々に求めることで、人類の持つ本質的な課題の普遍性を浮き彫りとし――


 これ、本当にアニメ雑誌なんだろうな……。

 目を泳がせ、先の文章をつまみ読んだ。


 ――もっとも驚かされるのは、これまでこの国ではステレオタイプ的に語られてきた『宗教による支配と弾圧』という『魔女狩り』に関する歴史観を、その手のイメージ先行型歴史観ではなく、いまや世界の歴史家の多く認める常識的歴史観に基づき、忠実に描こうとしていることだ――


 ……世界、ときたか。

 執筆者の名を見る。

 社会心理学者 大庭明、とあった。学者か。だろうな。有名な人なんだろうか。

 あれ……オオバ? 思い出したくない名前だ。


 ――このように魔女狩りとは集団が集団内から個人を排除するため、むしろ民衆の側から始まった社会運動であり、宗教や政治は彼らの運動を公的に支えるための道具として利用されていたという事実を、この作品では現代の高校生活に置き換え表現しようとしている。

 主人公ルリムウが現代日本のロマンサンチ学園で出会うクラスメートやその家族、教師、外部の人間たちは一見、無辜の民として描かれるが、その存在の背後にある社会環境や集団内ルールの変化により、中世ヨーロッパ同様、彼らはいとも簡単にルリムウを断罪し、自らにとって有害な存在として排除しようとする。

 集団の意向や決まりを、社会的冤罪を犯してまで保持しよう、永続させようというそういった集団エゴこそが、歴史の中で形を変え、対象を変え、繰り返されてきた魔女狩りの正体なのである。

 現代社会においても、ごく些細なきっかけにより集団から孤立し、精神的あるいは物理的に制裁を受けたり、排除されたりすることがある。

 それは、そのきっかけの是非に問題があるのではない。

 むしろ集団を構成する個々人の自己保身的欲求が拡大し、自分にとってなにか不都合あると感じられる場合、自分の意見を周囲に合わせて合理化し、不都合をもたらす他者から遠ざかろう、遠ざけようとする、自己愛の集積した姿こそが問題なのだ。


 ふーん。そうなのか……。

 まだ先はあったものの、これ以上読む気はしなくなった。

 文章自体固すぎて、完全に理解はできない。でも、論旨はなんとなくわかる。


 社会的冤罪ということばと、きっかけの是非に問題はない、というくだりに心が止まった。まるで自分のことを言われているみたいに感じた。


 放火自体は犯罪であるにせよ、ぼくの犯行ではないし、疑惑といっても、そのはじまりはたかが夜に起きて洗濯をしていただけ、信憑性の定かでない心理テストで描いた絵一枚だけ、の話だ。

 夜中の洗濯は寮のルールに合わないかも知れないし、まともな人間の描いた絵と思えなかったとしても、その程度で犯罪を犯す人間扱いされるのは、まったく迷惑な話と思う。

 だが、これが逆の立場だったらどうか。

 おそらくまわりの人間に同調し、その『だれか』に疑念を持っていたのかも。


 自分の思考を執筆者の論に合わせるのに疲れ、ぼくは特集ページをはじめからぱらぱらめくりはじめた。

 子ども向けの番組であれ、いっぱしの大人がヨーロッパ史までひもといて解説する作品だということにちょっと興味を惹かれたからだった。

 カラーのグラフィックページをもう一度眺め、そこにある各話のあらすじを読む。


 あらすじだけあり、内容のすべてを理解することも、各話をつなげて物語の重要なポイントを追うこともできないように書いてある。それが知りたければ、番組を見るか、すでに発売されているDVD&ブルーレイボックスを買いなさいよ、ということだろう。

 特集の最後に魔女高生ルリムウの各シーズンボックス予約サイトと、特典の印刷されたページを発見し、この特集はそのためのものなんだとようやく理解した。


 一応、知りたいことはある程度調べのついた気がする。あとは、自分の行動をどうするか、だ。

 当面、やらなきゃならないことはふたつ。


 ひとつは、真犯人をあぶり出すこと。

 もうひとつは……あの怪異の正体を確かめること。

 どちらかと言えば、真相に近づけているのは後者かも知れない。

 だれかの入ってくる気配を寝室の入り口付近に感じ、ぼくは雑誌を置いた。



       4


「なんだ、勢いよく出て行ったのに、こんなところにいたのか」

「用事は済んだ。だから今ここにいる」

「用事って?」

「野暮用。主に放火関係」

 ロッカーを開け、着替えの平常服を取り出そうとしていた京山の手は止まった。

 ぎょっとしたような顔でぼくを見る。

「なんだよ、それ? ……ああ、また呼び出されたのか?」

「うん」

 ウソは言っていない。だれに呼び出されたかがやつの想定と違うだけだ。


 京山は安心した様子に着替えを再開した。平常心を保つため、自分勝手に予測し、その予測に合った答えを見つけると安堵する。そういう心理の働きなんだろう。

 アニメ雑誌の論説に感化されたせいか、ちょっとした心理分析をしてしまった。

「それよりな、おまえが出て行ったあと、もっと面白いもん見つけたぞ」

 着替え終わるとにやにやしながら、別な話を持ち出してくる。

「へえ、なに?」

 内緒話の適度な背徳感から、先を促した。

「あの先輩たち、大したオタクだぜ。フォトジェニックマスクって知ってるよな?」

「……なにそれ?」

 いきなりオタク度マックスの話だ。

「んじゃ、フィメールマスク。これくらいは聞いたことあるだろう?」

「フィメール……女性、仮面?」

「直訳じゃねえか!」

 怒鳴るな! あのな、こっちは一般人なの!

「じゃあ、特殊メイク、くらいは知ってるよな?」

「ああ」

「フォトジェニックマスクやフィメールマスクってのは、その技術や材料を使って、薄皮みたいなマスクを作るんだ」

 イメージできないので、昔ビデオで見た特殊メイクのメイキングシーンの記憶をたどり、思い出しながら質問してみる。

「……特殊メイクのマスクって、みんな薄皮みたいじゃないの?」

「ああ、もう! そうだよ。でも、映画で使うためじゃない。自分をメタモらせるんだ」

「メタボ……?」

「へ ん し ん!」

 メタモルフォーゼのことか。

「わかりやすく言うと、一種のコスプレみたいなもんだ。そのマスクをかぶって、変身願望を満たす。……まあちょっと俺でも変態趣味かなって思うけど」

「ゾンビとか?」

「んー、んん。特殊メイクっても、血だらけのゾンビマスクなんかかぶらない。アニメの美少女系とか、リアルなお姉さん系とか、そんなマスクだよ」

 ようやくぼくを一般人と認識できたらしく、ナスビは落ち着いて説明するようになった。

「ようするに、あの部屋にそのマスクがあったと」

「そうそう! おまえ鋭いな」

 たったそれだけを分からせるために、どれだけ無駄なことばを費やしたことか。

「しかし、俺は考えを改めたよ」

「なにが?」

「いままでそんなマスクに手を出すのは変態男か、リアル顔に自信のないブス女しかいないと思ってたけど、先輩たちは、ホラ、あのとおり美形じゃん」

 そこだけは同意してやる。たしかにあの三人は美人だ。

「美女がより美しくなりたいと思って、マスクを自ら作製する、それをかぶって、別のキャラを演じる……これこそタンビじゃないかね、きみぃ!」

「タンビ?」

 ごめん、一瞬脳内で漢字変換が遅れた。それにおまえ、だれになりきってる?

「そうだよ、これを耽美と呼ばずしてなんという。自らの美しさを否定する如く、しかし、それも見た目麗しいシリコンやゴムの表皮をつけ、鏡の前でぺりぺりと剥がす……ああ、これもキレイだけど、やはり私もキレイだったわ、キレイな私って素敵よね……なんて、か あ あぁ! 耽 美ぃ グ レ ー トォ オ !」


 ばかじゃないのか。こいつは。


 部活の終わったらしく、部屋員が次々と寝室へ入ってきて、ひとり饒舌のままあっちの世界へ行った変態ナスビへ何とも表現しえない視線を送っている。


 そろそろ京山のひととなりをみな理解し始めているようだった。


 盛り上がりの頂点で我に返った京山は、キョドったように目だけ視線をあちこち動かした。ぼくへ顔を近づけ、小声に言う。

「俺たち、大変な秘密を見つけちまったな」


 秘匿しておくべき情報をこいつと共有するのは本当にいやだけど、この新たな情報のおかげで、片方の難問を解くのに、また一歩、大きく前進したようだった。

 そしてぼくはその日から、深夜の洗濯を再開することにした。

 汚れた平常服も洗わなければならないし、周囲の視線も気にならなくなった。

 あの学者の言を借りると、『集団の悪意』に翻弄されるのはもうやめたってこと。



        5


「『やのべつ敬老会』用の演し物が決まりました」

 菜津先輩は部長らしく毅然とした態度のもと宣言する。

「台本をお願いします」

「はい」

 笑顔を控え、口を真一文字に結んだまま、沓子先輩は神妙そうに、場の全員に一部ずつ、できたての台本を手渡した。

「では、真奈さん」

「はい」

 部長の指示に真奈先輩は椅子から立ち上がり、一同を見渡す。息を吸った。

「例年実施している『やのべつ敬老会』慰問公演の時期が今年もやってきました。今回は新入部員も加え、昨年以上の盛り上がりを目指したいと考えています」

 彼女はぼくと京山を順に眺め、念押しするようにゆっくり語った。

「昨年と大きく変わったのは、台本です」

 手渡された台本の表紙は光沢のある厚紙の白紙で、タイトルも書かれていない。

「特に敬老会側からの依頼に応え、前回の上演後アンケートで最も要望の高い題材を選びました。……表紙をめくって下さい」

 真奈先輩を除き、全員同じ動作をする。


「タイトルは『エイリアン対女子高生』。副題は、にょろ、あの日あの時あの人に、とじにょろ」


 静寂の中に、すーはーと、京山の鼻息だけ響く。


「自信作です」

 真奈先輩は着席した。


 にょろというのは『~』のことだ。

『~あの日あの時あの人に~』という……だけど、もうどうでもいいや、そんな話。

「あのう……」

 おずおずと手を挙げたのはぼくの横にいる野菜人間。

「はい、京山一年生、なにか」

 場の議長も兼ねている菜津先輩は発言を許可する。

「えと……敬老会っていうのは、あの、お年寄りのいるところですよね」

「会員は六十代から一応上限なしという方々の集まりです」

「はい!」

「はい、久津輪さん」

 議長は手を挙げた沓子先輩に発言の許可を出す。

「敬老会のみなさんの要望を非常に良く取り入れた、すばらしい出来のタイトルだと思います」

「どうもありがとう。久津輪さん」

 真奈先輩は魅惑的な声を出し、久津輪さん――以前からそう思っていたけど、どうしてこの先輩たちは会議では気取ったようにふるまうんだろう?――沓子先輩に会釈する。

「それでは、内容を見てみましょう」

 しばらく時間をとり、みなで『柏木真奈』作の新作脚本を読んだ。


「さて、今日からいよいよ公演準備にかかります」

 脚本読み――ホン読みと言うらしい――を終えると、アクタレスの三人は手慣れた様子に立ち上がり、ぼくらを促した。


 京山は涙腺部を指で押さえていた。ゆるゆると立ち上がりポケットから携帯ティッシュを出すと、大きく鼻をかむ。涙こそ出さなかったものの、読む間こいつがとなりでグスグス鼻をすすり、気を散らされなければ、正直ぼくも危なかった。


 柏木真奈さん、あなたはすごい女性です。

 あなたの後輩であると思うと光栄です。

 台本にまったく文句はありません。

 感動のいっぱいつまったすごいお話しだと思います。

 

 タイトルのセンスだけはどうにかしてほしいと思いますが。


 奥の舞台に移動し、敬老会に持参する最低限の舞台装置を選ぶ。

「ああ、ふたりともちょっと手伝って」

 菜津先輩と沓子先輩のふたりに連れられ、舞台裏に移動する。

「そういえば、ふたりとも衣裳部屋にはいるのは初めてだったかな」

 例の部屋の鍵を解錠しながら、部長は背後のぼくらに訊く。

「そ、そうですね……」

 白々しく返事を返す京山に少しだけ目配せをした。こいつと共有する冥い秘密は、一夜にしてその価値を無くしてしまったというわけだ。


 きのう、初めてここを訪れたときの感覚を思い出しながら、室内に入る。相変わらずの変な臭いだ。やり過ぎかと思ったけど、また鼻をすんすん鳴らしてみる。

「ふフォームラバーとか、れレイテックス。PAX……ペイント剤とかの臭いだよ」

 ぼく同様に考えたのか、京山はまったく同じ話をする。

「えエイリアンだ!」

「一九七九年、リドリー・スコットの撮ったハリウッド映画。でもあれは八十六年、ジェームズ・キャメロンの撮った2作目のやつだな」

 きのうのやりとりを早口で蒸し返したようになる。違うのはギャラリーのいるってこと。

「ナスくん、すげー詳しいじゃん!」

 とたんに沓子先輩は顔を輝かせた。

「すごいすんごい! よく初見でウォーリアって分かったよねえ?」

「え? だって見たら分かるじゃないですか。頭にフードないし」

「うわ、本格的! あちくし、ナスくんのことをちょっと見直したでござる」


「へー、沓子と話が合うなんて……」

 菜津先輩は語尾を飲み込み、口の中でもにゃもにゃとさせた。

「ふたりともとんだオタクなんじゃ?」小声で言ってみる。

「あー、あえてオタクって言わなかったのに」

 ぼくをふりかえった菜津先輩は朗らかに笑みを浮かべた。


 野菜対美女、ふたりのオタクはいよいよエイリアン話で盛り上がりはじめた。

「ところでこのエイリアンスーツ、どこで手に入れたんですか?」

「てへー、おいら作ったのよ」

「ええええぇっ!」

 京山は本気で驚いている。声こそ出さなかったが、ぼくも京山同様に驚いていた。

「沓子は手先が器用で、ここにある大抵の衣裳を作ったのよ」

 なぜか菜津先輩が胸を張り、威張ったように言う。

「ホントっスか!」

「器用っつうか、ちまちました作業が好きなのよねー」

「じゃ、じゃ、こ、これも? これも?」

 異様な興奮をみせ、ナス男は部屋中を動き回る。

「これなんかも自作ッスか?」

 調子に乗って、とうとうやつは、例の服を取り出した。もちろんナス・フェバリットなあれだ。

「あー、それ。……うん、それも」

 モスグリーンのコスチュームを見た瞬間、ちょっとだけ沓子先輩の声音が変わるのを聞き逃さなかった。京山は続けてとなりのコスチュームに手を伸ばす。

「こ、こっちも、あれ? ……ルームウのもある」

 やつの手元に引き寄せられるようにぼくの目は動いた。


 きのうこの部屋にはなく、でも、ぼくの見たのと同じデザインをしたコバルトブルーの衣裳は、ワインレッドのような暗赤色の、エロームウとかいうまだ見ぬルリムウ第三の変化の衣裳との間にかけられていた。

「当たり前じゃん! みっつでひと組でしょ? ルリムウのは。ナスくん、ルリムウ知ってるんだ」

「大ファンっす」

「へっへっ、ナスの旦那ぁ、敬老会ではそれを使いますぜー」

 沓子先輩は肩を揺らし、おどけた調子に京山へ答える。

「おおっ! じゃ、やっぱりあの台本の女子高生って……」

「おじいちゃん、おばあちゃんに『魔女高生』っても、理解できないじゃん」

 ……エイリアンは理解できるんだろうか?

「俺の中で、台本の主人公の女の子はルリムウみたいだなって……」

「炎の魔法は使わないけど、真奈がルリムウをイメージして書いてくれたのよねー」

「イメージ通りッすね! 最高ぉっ!」

 このひとら、なんだか勝手に盛り上がってる。


「なつぅー、とうこー」

 真奈先輩の声だ。舞台の方から聞こえてきた。

「なにぃー?」

「ゼラぁー。何枚くらいもってく?」

「てきとぉー」

「それじゃ困るぅー」

「はいはい、いまいきますよぉ。あ、盛り上がってるところ悪いんだけど、沓子とナスくんはそのエイリアンを運び出して。了くんは台座を。そっちの衣裳は私が持ってくからね」

 さすが長だけあって、いざとなると菜津先輩はてきぱき指示を出し、ちゃっちゃと動き始める。重そうなエイリアンの着ぐるみを持ちながら沓子先輩は訊ねた。

「菜津、エクステはどうするでござるかいな?」

「んー、あった方がいいんじゃない?」

「んよねー。向こうでなにがあるかわかんないし、そうだ、やっぱりメイクも持っていこ」

 ちょっとした会話は、やっぱりふつうの女子高校生のものだと思う。


 演劇部の女性三人のうち、だれかがあの壁の画と関係してるんじゃないかって、そんな自分の仮説をばかばかしく思うほど、自然だ。


 ……でも、それは単なる仮説なんかじゃない。


 今日、この衣裳部屋に入って、はっきりそう確信した。

 時間に追われ、きのうはゆっくり部屋の様子を見られなかったせいか、それに気づかなかった。

 興奮した京山の騒ぐ合間にふと見上げたハンガーの棚に、その証拠はあった。

 

 京山に借りた雑誌の特集をいくら見返しても、各話ごとの詳細な設定画集、番組のスクリーンショットのいずれにも見当たらなかった。


 壁の画を見かけた当初、一回だけその頭に付いているのを見た記憶のあるそれ。


 冠のような。ティアラと言うのか。


 アニメに出てこないとしたら、ここにだけしかないモノということになる。だれかがそれをかぶって、ここにある衣裳を着て……。

 せっかく見つけた証拠も、そこまで考えて急に行き詰まる。

 仮に、ぼくの推測通りアクタレスのだれかがアニメのコスプレをしたとして、それじゃあ、一体そのあとはどうするというのか。どうなるというのか。


 ――肉体を持つ立体的な人間が壁の画になるには?


 ぼくだけじゃなく、そんな問いに答えられる人間はひとりだっていやしない。答えられるとしたら、壁の画本人だけだ。


 ……こうして、つかみかけた確信はふたたび、答えのでない袋小路に舞い戻ってしまう。たぶんこれは、二次元と三次元のせめぎ合いの問題なのだ。


 だれか、説明してくれよ!

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