第六章 にじむ疑惑
1
静養させる、ということで定時の起床を特別に免除されたぼくは、それでも翌朝、保健室でいつまでも寝ていることはなかった。これが病院であれば、再度診察され、医師の許可を得たり、薬を出してもらったり会計を済ませたり、といろいろ手続を踏まなくてはならないが、良くも悪くも放任主義の行き届いた寮内なので、退院も自己申告というわけだった。
ベッドのシーツは代えて良いかどうか分からなかったので引きはがさず、しわだけを伸ばし、昨晩の思い出深いブランケットを丁寧に耳を揃えてたたみ、その上にそっと載せた。
保健室を出るとまっすぐ寮長室へ向かう。一応挨拶をするためだった。
「おお、もういいのか?」
寮長室にはショージひとりしかおらず、ぼくの顔を見ると早速容体を訊ねてきた。
「ええ、もうすっかり大丈夫です。ご心配おかけしました」
頭を下げる。
「まあ、若いからな。朝食は食べたのか?」
「いえ、まだです」
「部屋の人間に頼んでいたんだが。……食堂に行けば朝食のあまりをもらえるぞ」
京山にそこまでの親切心はなかったらしい。
「でも、どうせあと一時間ほどで昼食ですから」
寮長室の時計を見ながらそう答える。
ショージは意外と良い寮監なのかも知れない。
放火犯を見つけようとする今回のやり方にも反対のようだったし、気配りもありそうだし。
「ショージ先生、いろいろご迷惑をおかけしました」
立ち去ろうと挨拶したとたん、ショージの顔色は変わった。
「なんだと!」
「え?」
「だれがショージなんだ! え?」
目をつり上げ、いきなり怒り出す。それもかなり激しく。
相手の急激な感情の変化に対応できず、ぼくはうろたえるばかりだった。
「え、え? でも……」
「俺はショージじゃない! ふざけるな!」
「すっ、すみません!」
ぺこぺこ頭を下げ、わけもわからず謝罪のことばを口走りながら、怒りと興奮冷めやらないショージの前をなんとか辞去し、寮長室から廊下に脱出する。
いまの一件で急に空腹感は増し、ぼくは廊下を食堂へ向かう方向に歩き始めた。
――どういうこと……?
何故怒りだしたのか、何故怒られたのかまったく理解できない。
ショージはショージという名前じゃないのか?
でもみんなショージと呼んでいる。
くすくすと笑う声に気づくと、穂村がぼくの後ろをついてきていた。
「ショージにショージって言ったら、そりゃ怒るわなあ」
「見てたのか?」
「ああ」
穂村が横に並ぶまで立ち止まり、早速疑問をぶつけた。
「あのひとはショージって名前じゃないの?」
「そうだな」
「本当はなんて言う?」
「名札を見ただろ?」
不親切だな。言われたとおりショージの姿を思い起こす。名札を見た記憶はない。
「名札なんて無かった」
「そう。……だからだれもショージの本名を知らない」
「はあ?」
「先輩に、あいつは? って訊くとみな『ショージだ』って言う。で、みんなそう思う。ときたま本人をそう呼んで、さっきみたいな目に遭うやつが出てくる」
穂村はおかしな話を笑いを交え、おかしそうに話す。
ちょっとおかしいぞ、おまえ。
「本当の話?」
「本当だ。他の寮監は『なになに先生』みたいに呼ばれてても、あいつはただ『先生』としか呼ばれてない」
「訊けばいいじゃないか」
「あの怒りようだ。おまえなら訊いてみようと思うか?」
「……遠慮する」
「つまりそういうこと」
すこしはいい寮監かと思ったのに、やはり変な人間だったのか。気をつけよう。
「なんでショージって言われると怒るんだ?」
「訊いてみろよ。俺に教えてくれ」
にやにや笑いにそう返された。
なぜか午後にある演劇部の集合時間を教えてくれると、穂村は寮につながる食堂前の階段を勢いよく駆け上っていった。演劇部じゃないというくせ、どっぷり首まで使っているんじゃないのか。
まあ、アネキが部長を務めているんじゃ、なにかと協力させられているんだろう。
きのうの話題はまったく出してこなかった。まだ知らないのか?
……それは考えにくいな。
寮内にプライバシーはない。噂はすぐに広まる。どこの部屋でだれがどうしたという話は、数十分も経たないうちに寮中でささやかれる。
閉鎖空間にいるぼくらの生活には娯楽要素が極めて少ないから、だれそれが転んだ、と言うようなつまらない話でさえ、笑いや侮蔑、評価や批評の対象となるんだ。
放火犯がどこそこの部屋にいるらしい、という話の広まらないわけはない。
食堂のおばちゃんのところへ行くと、寮生のあまりものではなく、保健室使用者のための『特別』メニューを出された。朝食用としてわざわざ作ったのにだれも受け取りに来なかったと、当の保健室使用者本人が直接文句を言われた。
「あたしら女子寮の面倒もみなきゃいけんから、予定にないことは困るけんね」
中身は……どんぶりに入ったおかゆと焼き魚。
早朝に作ったらしく、すべて冷え切っている。
病人食って、この献立しかないのかな。
「チンしてあげよか?」
「あ、じゃ……お願いします」
もうすぐ昼食なので、冷えたまずいメシを食うくらいなら、やはり我慢しようかな、と思っていても、作った本人の前でそれを断ることはできなかった。
温められすぎて不自然かつ不快な熱を持つおかゆと、電磁波の嵐の中、蒸されまくり、皿に脂のぐじゅぐじゅしみ出している、焼き魚とも思えない食品の乗ったトレーを、隅っこのテーブルに運び口をつけた。
食べ物は何でも感謝していただきなさい、という長年にわたる親の指導を恨めしく思うほどまずい。
時間経過により、塩気の回りに回った魚はしょっぱすぎて、ポジティブに考えるなら、それはそれでどんぶりメシを何杯でも食べられる、ちょうど良いおかずと思われるものの、悲しいかな、主食はもったりしたおかゆなんだ。
――ついてないな……
ついしんみりした気分に陥ってしまう。
2
箸で魚をつつき回している最中、食堂にどやどやと男子が入ってきた。
入り口を伺ってみると、運動部。揃いのジャージを着た連中だ。
ユニフォームの形状からするとサッカー部らしい。
日曜の昼間は、学校で推奨していることもあり各部活とも活発で、寮内の生徒はめいめい所属する部活動にいそしんでいる。
「おお腹減った。配膳まだかよ」
この間までぼくらの担当していた配膳係はとうに他の部屋へ移っていた。昼食時間には若干早く、まだすべての準備は整っていないようだった。
サッカー部の連中は上級下級取り混ぜ二十名ほどで、ぱっと見、なんというかガラの悪そうなやつらばかりで構成されていた。
「お、御鳥やんけ」
なじみたくないなじみのなまり声と共に、吉岡と、仲間なのか同級生と思われるふたりがぼくの方へ近づいてくる。
「なに、いまから食うてんねん」
からむ気満々の言い方で目前のテーブルへ腰かけ、乱暴に椅子を引き出して足を載せる。
こういう場合、どう反応を返したらいいのか、仕方なく思ったことを口に出す。
「おかゆと焼き魚」
「おかゆと焼き魚、やて」
ぼくの両脇に吉岡同様の姿勢でテーブルへ腰かけていたふたりは、やつの口まねに反応し、わざとらしく笑い声を出す。
吉岡はいきなりがつんと椅子を蹴った。思わずびくりと身をすくませてしまう。
「ちゃうわ! 何で今からメシを食うとんや、っちゅうてんねや!」
意味するところをとっさに理解できず、ぼくは目を見開いたままやつを見た。
「朝から練習して腹減らしたおれらより先に、なんでおまえがメシ食えんのや?」
「あ、これ朝飯、食べてなかったから……」
「やっかまし!」
返事を聞かず、また椅子を蹴る。
「むかつくわぁ、こいつ、会うたときからむかつくねん」
周囲の仲間に向かい、そう宣言した。
理由は何でもいいんだ。
特にこちらが悪いのでもない。
因縁をつけるというのは、きっかけづくりと言う点で初めてクラスメートに話しかけるのと大差ないと思うのに、こちらの方はよりネガティブで暴力的な出会いとなるわけだった。
「あんたたち、なにやってるん? ホラもうごはんやけん!」
蹴られた椅子の音でこちらのテーブルを取り巻く不穏当な雰囲気に気づいたのか、さっきの配膳のおばちゃんが遠くからこちらへ声をかけてくれた。
「うっさいのぉ。めしたきばばあが」
おばちゃんに聞かれぬ小声で悪態をつき、吉岡は立ち上がった。
「あんまり調子乗っとったら、殺すで?」
本来ならびびるところなんだろうけど、あまりに陳腐で荒唐無稽だったし、体格はぼくより良いにせよ、つい先月までお互い中学生だったことを考えると、なんだか興ざめな脅しだった。
とたんにいままでの緊張感はさぁっとぼくの身体から去っていった。
「待てよ」
サッカー部の群れへ戻りかけた吉岡たちに、思わず声をかけてしまう。
ぼくは基本的に臆病で小心者だ。
でも、なにかの拍子でどこかのスイッチが入ってしまうと後先考えずに行動するところがあるらしい。
今回の場合はやつの捨てゼリフに反応してしまったみたいだった。
中学生や高校生同士のいさかいやいじめで死者の出る事件は多いと知っていても、ひとひとりを死に至らしめる事態というのは、もっと突発的だったり、衝動的なものじゃないかと思っている。その逆に、あらかじめ予告した上で相手を殺めたりするとしたら、相当な決意と覚悟に突き動かされ、冷徹で冷静かつ、残虐な犯行に及ぶものだろう。
だから『殺す』なんて大それたことばは、こんな食堂でぶちぶちと世間話や、愚痴を垂れるように言っていいものじゃない。
「なんやねん」
ふりかえった吉岡は意外そうな顔をした。まさか引き留められるとは思っていなかったんだろうな。
「ぼくは朝飯抜いてる、とやかく言うな」
「あん? なにいうとるんやボケ」
柳眉を逆立てる、という表現ぴったりの形相に代わり、吉岡は再びのっそりとこちらへ向かってきた。
「朝練はそっちの好きでやってんだろ、ぼくは関係ない!」
「てめえ!」
吉岡じゃなく仲間の方が怒鳴り、平常服の肩口をつかんできた。服をつまみ上げられたままの恰好ながらぼくは吉岡をにらみつけ、その目から視線を外さなかった。
「殺したろか、ほんまにぃ……」
舌打ちしながら恐ろしげなことを言っても、やつはそれ以上こちらへ近づいてこない。
「お、お! ケンカか? ケンカだ!」
寮内で昼食時間の放送があったらしく、食堂に大量の寮生がなだれ込んできた。ぼくらに気づいた一部の上級生たちは、おもしろがって周りを取り囲み、はやし立て始めた。
「ミボケツに飛ばされたやつじゃん」
「相手は?」
上級生ばかりに囲まれては具合も悪いのか、吉岡は視線をぼくから外し、あたりを気にし始めた。いわゆる『キョド』る、ってやつだ。
「ええ加減にせいや、カスが! このままじゃすまんで!」
仲間を促し、失望する上級生ギャラリーの間をすり抜けていった。
ステレオタイプな捨てゼリフだ。おまえ、不良漫画の読み過ぎじゃないのか。
結局ぼくの『特別』メニューは朝食兼昼食のブランチとなった。
本来の昼食はとらず、立て込んできた大食堂をひとり先に抜け、寮室へ戻る。
部屋の入り口をくぐったとたん、急に全身はぶるぶるとふるえ始める。これがよくきく武者震いというやつなのか。
――弱虫!
がくがく笑う膝を両手で押さえ、自らを叱咤する。
でも、吉岡はぼくの視線に一瞬ひるんだ様子を見せた。
少なくとも気持ち的に一度はあいつに勝ったってことだろう。
いまはその結果だけで満足することにした。
3
部室一番乗りは、決して意図したことじゃなく、雑巾がけなんて実は中学でもほとんどやったことはない。
誰もいない演劇部の部室と廊下を、それこそ『尻帆掲げた』姿勢で雑巾がけする自分に、自分自身で驚いている。
動機の一部はわかってた。
食後すぐ部室へ来たのは、部屋のみんなに会いたくなかったからだ。
昨日のことで連中はぼくのことをどう思っているか、京山の態度でうすうす気づかされ、どこか引け目を感じているらしい。
雑巾がけは、やることがなかったから。
……ウソだな。
使い走り、人足なんて言われたせいで、先輩より早く来た下級生のあるべき姿を体現しているだけなんだ。
そう考えると、つくづく自分は暗示に弱い、と思わざるを得ない。
――だから催眠術にかかったのか……
昨日の一件により、自分の大きな弱点を露呈された感じだった。
「あれぇ? 了くん?」
廊下の奥から菜津先輩の素っ頓狂な声が響いてきた。
「あ、部長! え? いつからそこに?」
部室ばかりか、奥の舞台までひと気のないことを確認していたはずだったのに。
それに、三和土にはだれの靴もなかった。
「え? ずっといたわよ? 表でどたどた音がするから見に来たら……」
「変ですねえ。奥も見たんだけど……オモテ? どこにいたんです?」
「表って……そうね、あのほら、控え室、じゃなくてメイク室」
「楽屋? のこと?」
「そうそう、楽屋」
言い間違えたのがよほど恥ずかしかったのか、彼女は頬を染め言い直す。
楽屋も一応覗いて見たんだけど。
もしかしたらあのカギのかかった部屋にいたのかも。
「おーい」
三和土のある方角から緑谷先生のものらしき声がして、話はそこで途切れた。
「穂村ぁ、いるの?」
はーい、と機嫌の良い声を出し、彼女はぼくの脇をすり抜ける。シャンプーなのか、いい香りを残しながら、廊下を小走りに玄関口へ向かっていった。
「まあ、ほんとにここは問題児ばかり集まるな」
緑谷先生と一緒にアクタレスの残りふたりと、図々しくも京山まで一緒だった。
新入生のくせに、おまえ、それは重役出勤ってんだぞ。
「アクタレスの三人のみならず、放火の被疑者まで一緒だとはね」
「ぼくはやってません!」
京山のやつが話したに違いない。
「落ち着け。私はそう思ってない。火付けにもいろいろあって、単なるいたずらから愉快犯、保険目当ての経済犯、精神疾患による病理犯、殺人犯、模倣犯に至るまで、動機や手段、その被害などを考えると、実に幅広い犯罪分野だ。けどまあ、私の見たところ、きみはそのどれにも当てはまらないようだ」
この女性は本当に高校の英語教師なのか。
「了くん、疑われてるんですか?」
おかっぱ頭を揺らし、問いを発する沓子先輩に対し、先生は首を前に動かした。
「もう何人か、男子の被疑者はいる。が、彼の疑いが最も濃厚だ、と言われている」
「職員会議で話題にでもなってるんすか?」
京山は興味津々の顔で緑谷先生に訊ねた。
「えーと、なんだっけ。まいいや、ナスくん?」
「京山です!」
「ナスくん!」
「ナスくん!」
菜津先輩と沓子先輩はうれしげにナスナスと連発した。
京山は真っ赤な顔で、すっかり黙ってしまう。ざまあみろ、熟れナスめ。
「ナスくんの言うとおり、実は職員会議でも寮の放火は話題になっている。ここにいる全員のことを含めてね」
「あら、だって私たちには関係ないことでしょう? 男子寮の話なのに」
真奈先輩はアンニュイ……退廃的な、って意味だが、そんな雰囲気のけだるそうな声を出す。
聞いた感じそれほど強い抗議には感じない、絶妙な異議申し立てだった。しかし、緑谷先生には通じなかった。
「壁一枚隔てて女子寮だということをお忘れなく。男子寮が燃えれば、当然女子寮にも燃え移る。同じ棟なのに関係ないことはないよ。それに演劇部に入部した人物が被疑者なんだから、過去の経緯で当然あなた方とのつながりに学校側は敏感となる」
「……そうでした」
真奈先輩はぺろっと舌を出す。
大人っぽい女性の子どもっぽい仕草はとてもかわいく見える。
このひとは、他者を惹きつける天性の素質を持っているんだなあ。
「物的証拠がないのと、この学校の体質のおかげで、いまはおおごとにならずに済んでるが、いずれ必ず大きな騒動となるわね」
「どうして……?」
菜津先輩はいつになく真剣な顔となった。
「ひとつは、学校側の対応の問題……いつまでも隠しおおせる事じゃない。もうひとつは……放火は繰り返されるものよ。燃やすものがなくなるか、犯人が捕まるまでね」
「学校の対応って、隠すだけじゃありませんよ」
思い切ってぼくは昨日の件を話すことにした。昨日の不愉快な体験を、少しでもだれかと共有したいと思ったんだ。
思い出しながらしゃべっていると、なんだか急に理不尽な怒りもこみ上げてきて、つい、声音も恐ろしげなものとなる。
先輩三人と顧問教師、それにおまけの野菜は、ぼくの話し続けるあいだ、口を差し挟まず、黙って聞いてくれた。そのため余計、自分のしゃべりはヒートアップしていくようだった。
「……この学校のやることだしねぇ」
沓子先輩は話の終わりにそうひとこと相づちをうった。思ったよりも場の雰囲気は冷静で、ぼくにはそれがちょっと不満に感じられた。
「でもさぁ、ここの心理療法士って、あのオオバでしょお?」
「オオバだったか、それじゃあちょっとね」
「あのひとらしいじゃない」
アクタレスはくだんのエセ催眠術師について、口々に評価めいた言辞でさんざめく。まるで知り合いでもあるかのように。
「こらこら、少しは御鳥の心情に配慮せよ。腐ってもきみらは女優だろうが」
美人女教師は見かけに似合わぬ言い回しでそれをたしなめた。
三人は口をつぐんだ。
菜津先輩は、ばつの悪そうな顔になって謝罪してきた。
「ごめんね、了くん」
両手でぼくの手をぎゅっと握り、上目遣いにぼくをじっと見上げている。
暖かでやわらかい、なんともよい感触だ。
いや、そんな急に女優モードで芝居がかられてても。
……けど、彼女の澄んだ目を見ているうちに……
「なんだか気持ちこもってない? 菜津?」
沓子先輩はにこりともせず、低い声でチャチャを入れてきた。
「あっあの!」
一瞬で我に返り、軽くふりほどくようにして手を放す。
「濡れ衣ははらさないとね。私たちも協力してあげるわ」
締めはやはり真奈先輩。落ち着いた声の頼もしいことばに思わず顔もほころびる。
「ありがとうございます!」
居並ぶ先輩たちを見回しつつ、目の端で京山を捉えた。
やつは部屋の隅で完全にエアーナスと化していた。
4
部屋へ戻ると、思う以上に同室の連中は冷たい態度をとるようになっていた。
それこそ一般に言うシカトってやつだ。
これまでの学校生活で見たことはあるし、したことはないけど、いざされてみると思った以上に心理的ダメージを食らう感じだ。
ひとつ救いは、これはいじめじゃないって事かな。
たぶんみんな、うっかり近づくとなにをされるか分からないという不気味さを感じて、ぼくに話しかけられないんだと思う。
普段部屋に居着かないあの吉岡さえも、昼間の一件後、噂を聞いたのか、遺恨のあるはずなのに仲間を連れてきて仕返ししたりもせず、横目でぼくの動きをにらむように見るだけだった。
もっとも、外の廊下で仲間とだべっているときにこれ見よがしの大声で、
「部屋に異常者がおるとかなわんわ、なにされるかわからへんで」
と、文句なのか苦情なのか、はたまた挑発しているつもりなのか理解に苦しむ放言をするから迷惑だ。
まあ、こちらにびびっているのは明らかだから、暴力の苦手なぼくにとって好都合な結果ではある。
三添さんは指導員として後輩を導く公務と、面倒な人間に関わりたくないという自然な感情との板挟みとなっているらしく、自分の前を通りすぎる際、ぼくへ声をかけようとしてかけられず、あうあうと口を開けたり閉じたりしていた。
正直、今朝の気持ちのままなら、そんな環境内では、いまごろとんでもなく気分は落ち込み、回復不能の精神的外傷を負っていたかも知れない。周囲の人間から犯罪者と思われ、疑念の目を向けられるっていうのは、そのくらい辛いってわかった。
なんとか自分を保っていられるのはやはり、ぼくを支持してくれたアクタレス三人娘と緑谷先生によるところが大きい。あとは……京山、か……いや、こいつはどうでもいい。放火犯の疑いは晴れたようだったけど。
「俺、おまえのこと信じるよ。おまえはやってない」
部室の帰り、それまで無言のまま全くの空気だった野菜人間は、一階ピロティで靴を脱ぐぼくへ向かい、突然人間性を取り戻したかのようにそう告白した。
三人の先輩たちといろいろ話しているぼくを見ていて、疑念もすっかり晴れたそうな。本当かどうか、それでもそのときは素直によろこべた。
けれど、その話には続きもあって、やつのことなんか、どうでもよくなったのはそのせいだ。
「もう深夜に出歩くのはやめた方がいいぞ」
「え……」
「洗濯してんだろ? 知ってたぜ、毎晩出て行くの。犯人です、って言うようなもんじゃん」
うーん……ベッドの隣り合う人間だからこそ、深夜の洗濯もモニターしてたってことなのか。
すうすう寝息を立ててると思ってたけどなあ。
「なんだ、知ってたの?」
「そりゃあ……毎夜起きてたわけじゃないけど、入学式前は頻繁だったろ? おまえの時計、ぶるぶるうるさくて起きちゃうんだ」
あちゃ。あの振動が伝わってたか。
「あのさ。……もしかしてそのこと、だれかにしゃべった?」
「いや、しゃべってはいない」
んん? しゃべって『は』いない? ……引っかかる言い方だ。
「……どういう意味?」
「心理テストのアンケートに書いた」
おい、ひょっとしてそのせいでぼくは被疑者筆頭になったんじゃないのか。
不可思議で不快な出来事ばかりだった週末もそろそろ終わりだ。
明日からまた授業も始まる。
就寝準備の時間となり、ぼくは二段ベッドに備え付けられた個人用ロッカーから洗顔用品を取り出そうと、その金属製の安っぽいドアを開けた。
――?
ロッカーの内壁奥に背糊の付いた付箋紙が貼られてあった。
――いろいろとお話ししたいこともあるので、一度お会いしましょう。
簡単なメッセージ。そのあとに日付と場所。
差出人は……あの画、ルリムウからだった。
反射的に顔を上げ、室内全部の壁面にさっと目を走らせる。
まさか、こんなところにまで来ているなんて!
考えてみると、天井灯のまだ煌々と点灯する室内に、灯りの苦手な彼女のいるはずもなかった。でも、そうするとこれはいつ貼られたんだろう。
向かいの二段ベッドにいる素崎と目が合う。向こうから視線を外した。ずっとぼくの様子をうかがっていたらしい。
――そういやこいつ、ミステリーマニアだっけ……
たぶん探偵ごっこの標的にされているんだ。
だれにも気づかれないように手の中で付箋をくしゃくしゃに丸め、洗面用具と共にトイレへ持ち込んだ。
個室の便器に腰かけると、しわを伸ばし、もう一度よく眺める。
ボールペン書きの丁寧でキレイな文字だった。
だが個性は感じられない。なんだかペン習字のお手本のようだった。
一時期、親に言われて通信教育を受けていたからよく分かる。
ワークシートに書きこむ単調な作業に堪えきれず、すぐに投げ出してしまったため、ぼくの字は汚いままだけど。
「入ってるみたいだぜ」
個室の外から声がした。
「おい、クソか?」
さすが男子寮だけあり、もともとこういった部分のデリカシーは皆無。むしろ小学生並み、といってもいい。
「……いるよ!」
無礼な誰何にとりあえず返事をする。
外でくすくす忍び笑いも聞こえた。複数人いるようだ。
「のんびりクソしてんじゃねえよ!」
野卑なかけ声と共に、頭上からざあっと冷たいものが降りかかってくる。水だ!
わあっと驚きの声を上げると、その反応に外のやつらは爆笑した。
「やっやめろ!」
やめろと言われてやめるやつもいないから、降り注ぐ水はそのままで、ぼくはたまらず個室から飛び出した。
同時に下手人たちは一斉に逃げ出していく。
目撃できたのは、彼らの後ろ姿だけで、個々人の特定はできなかった。
状況から考えるに、放火の被疑者だから水で制裁を加えた、というわけでもなさそうだった。
突発的にその場のノリで思いついたのかも知れない。
高校生にもなって、まったく幼稚なやつらだ。
床を見ると、トイレ清掃に使うホースからまだ水は勢いよく流れ出ていて、仕方なく蛇口を閉め、ホースを巻き取ると、清掃用具を入れる個室へしまった。
下着までべちゃべちゃになっている。
替えの平常服はロッカー内に要洗濯の汚れ物として放置してあるままだから、寮内で着用できるものはいま着ているずぶ濡れの平常服しかない。
一日くらい汚れた平常服で過ごすのはやぶさかではないにせよ『トイレの水』であることに生理的な嫌悪感を持つ。理性的に考えればまっさらの水道水だから、不潔だということはないはずなのに、早く洗わなければという気になってしまう。
――今晩も洗濯か……
いやだ。それはどうしても避けたい。
壁の絵のせいじゃなく、これ以上放火犯と疑われたくない、という現実的な動機に変わっていた。
結局、過度な衛生観念を犠牲にした。
寝室に戻ると、部屋員はみな濡れそぼったぼくを見て変な顔をするが、どうしたとか、大丈夫かとか訊ねてくるものはいなかった。急いで濡れた服を脱ぎ捨てた。気化熱により体温を奪われるせいで、今にも出そうなくしゃみを堪えつつ、パジャマに着替える。
寝床に飛び込み、ふて寝のようにして朝まで寝た。
5
週末の一件はすっかり知れ渡っていると見え、明けて月曜日、クラスの中でぼくはひとり浮いた気分を味わった。
ふつうの高校なら学校での出来事と生活空間でのそれは分けることも可能だ。
でも寮生活はいわば学校生活の延長であり、学校生活はまた寮生活の一部にもなっている。
両方は不可分で、どちらかで起こった事はシームレスにもう片方の生活と関係し、強い影響を与え合う。
ここでは、自分のいるすべての場所と時間は他者と共有しなくちゃならないし、そうなると個人の生活などなくなり、つまるところどんな人間も社会的存在であることを、否応なく身をもって体験するわけだった。
そんなわけでクラスメートはぼくをまったく無視したりせず、おはようと言えばおはようと返すし、いつものように世間話もできる。
でもなにかが違う。
決して自意識のせいばかりじゃなく、どこかみなよそよそしい。
相手に疑われていると思うと、ぼく自身、気後れして話しにくく、気もつかうから、ふと思いついて二度目の休み時間に図書館から本を借り、以降は休みごとにそれを読むことにした。
ぼくの周囲に席のある同級生たちはそれでようやく、ぼくを放っておいても良いと考えたらしく、ほっとしたようにめいめい同士、気楽そうにだべりはじめた。
結果、自ら空気であることを選んだってこと。
月曜日の午後に演劇部の活動はなかった。
昨日の菜津さんの言によれば、日曜に活動したときは基本、翌日は休みにするのだという。
おかげで付箋の呼び出しにも応じられる。
指定日と時間はちょうど部活の時間とかぶっていたから、いずれにせよ今日は休むつもりだったけれど。
授業がすべて終わると、生徒は一旦帰寮し、そこから再度各部活へ行くきまりだ。
寄り道の許されない小学生みたいで面倒だと思っていたけど、それは特に校則や寮則で定められたものでもないらしい。
着替えや用具を置くのは寮の方が安全だし、特に運動部は替えの衣類を持ち歩くより、歩いてすぐの寮へ戻り、着替えてから部活に直行する方が気楽だという。
ということで、男女、学年を問わず、全校で慣習化しているだけだった。
ぼくは帰寮するタイミングをずらすため、学校に居残っていた。
時計を見ると、他の生徒が寮へ戻り、着替えなど諸準備を済ませて部活に出かけたあと帰寮しても、指定の待ち合わせには充分余裕もある。
一斉に生徒が帰寮し、がらんとした校舎にひとりいるのもなんだから、演劇部の部室を訪れることにした。
校舎のはずれだし、普段近づく人間もいないので、今のぼくにはちょうど良い居場所のように思えた。
カギの壊れて施錠できなくなっている引き戸を開け、老朽化した建物内に入る。正式な部活ではないから部の予算というものはなく、それで修理もできないらしい。
三和土には脱ぎ捨てたように白いスニーカーが転がっていた。
京山のものだ。見覚えもある。
昨夜は早くから寝てしまっていたので、やつとは部活以降ろくに話もしていない。
「おーい。いるのか?」
いるのは明らかなのに、ついそう呼びかける。返事もない。
靴を脱ぎ、三和土の隅に揃えて置いた。床板の冷たさが靴下を透過してきた。
奥へ進み、また呼びかけてみる。
「京山? いるんだろ?」
部室を通り抜け舞台を抜け、部室の最奥部まで見たのに、誰もいない。
――昨日もこんな事があったよな
床の雑巾がけをしていたとき、だれもいなかったはずの奥から菜津さんが出てきた、あれ。
楽屋奥のカギのかかった部屋を目指す。舞台袖から裏の細長い通路に入った。
見た目にはいまだ固く閉じられていそうなその部屋のドアノブを握ろうと手を伸ばしたとき、ぶほ、と音を立て、勢いよく扉がこちらへ開いた。
気密の高い部屋特有の開口音だ。
身を避けなければ、あやうくぶつかるところだった。
「おわ! おまっ!」
中から顔を出した京山はぼくを見て叫び声を上げた。
「なにしてるんだよ、こんなとこで」
詰問調に問いかけると、やつはさっと周囲を伺い、ぼくの手をつかんだ。
「お、おい!」
「いいから入れ!」
室内の異様な臭気に鼻を鳴らすと、京山はオタクらしく専門用語で解説してくれた。
「フォームラバーとかレイテックス。PAX……ペイント剤とかの臭いだな」
天井には船舶用のものらしい金属製の枠で囲われたライトが据え付けられ、ガラス覆いの奥から室内が白熱灯の光で照らし出されている。
八畳ほどの部屋の壁面中に大量の舞台衣裳とおぼしき服が掛けられていた。時代劇風のものから、異世界もの、鎧や甲冑、中にはとても衣裳と思えないようなものまで……
「あれは……エイリアンだっけ?」
映画を見たことはなくても、それが非常にエポックな怪物であることは知っていた。
「1979年、リドリー・スコットの撮ったハリウッド映画だな。でも、あれは86年、ジェームズ・キャメロンの撮った2作目のやつだ」
ぱっと見ただけでわかるのはすごい。
年代まで。こいつはアニメだけじゃないのか。
人間ひとり入れるほど大きな衣裳――おそらく着ぐるみ――は、他の衣裳に比べひときわ、その外観ともあいまって異質な存在感を放っていた。
「衣裳部屋兼工房らしい」
京山の指し示す先に折りたたみ式のテーブルが壁に立てかけられていた。周囲の床面には、材料や塗料のものらしき缶やら工具なども整然と置かれている。
「女子部員三人の使う衣裳にしては多すぎるし、贅沢だよな」
言われるまでもなく、ぼくもそう感じていた。
これだけあれば、ありとあらゆるジャンルの芝居に対応できそうだし、もっと人数の多い、ちょっとした劇団でも作れそうだ。
「なんでここへはいれたんだ?」
「カギを開けた」
「えっ?」
京山はごそごそと制服のポケットをあさり、見たこともない形状の、鈍色に光る工具を取り出した。
「俺のおやじは鍵師をやってる」
「え、って、それ泥棒?」
「失礼なことを言うな。立派な錠前屋だ。カギの119番って、知ってるだろ?」
たしかにどこかで見たような聞いたような。
「今日は部活が休みだって言うから、ちょっと、な」
「ちょっとな、じゃない。おまえ、これ犯罪だぞ」
「放火するよりマシだ」
しまったという顔をする。互いに暫時無言となった。
「……閉まってるカギがあると開けたくなるんだ」
ひとりごととも犯罪性癖の吐露ともとれる告白をした京山は、気を取り直したのか、ぼくを促し片側の壁面へ移動させる。
「それよりな、面白いものを見つけた。ほら」
気分の乗らないまま、見ると、やつはハンガーからなにかの衣裳を外し、自分の胸元で広げた。
「おい勝手に……」
薄暗い部屋の照明で黒々しく感じたものの緑系の衣裳で、それはぼくにも見慣れた服だった。
「な? な?」
失言を挽回しようとでもするようにうれしそうな声を出す。
「ルリムウの衣裳だぜ。なんでこんなものがあるんだろうな? 先輩たちの中にファンでもいるのかな? もしそうだったら、俺、入部して正解かも!」
その想像に興奮したのか、うわずり気味の声を出す。
「……でもなあ、惜しいんだよ。三人揃ってないんだ」
ひとりでしゃべり、ひとりで答える滑稽さにまだ気づいていない。
興奮するやつにぼくは反応を返さなかった。さっきの仕返しや非情な気持ちでただやつを放置しているわけではなく、ぼくはぼくで自分の考えを心中に思い巡らせているため、結果的にそうなったのだった。
「ルームウの衣裳だけないんだ。エロームウのはここにあるのに」
がしゃがしゃとハンガー同士のぶつかる音を立てながら、オタクらしい執拗さで、衣裳を漁っていく。
ハッと気づき、時計を見ると、やばい、もう時間だ。
「悪いけど京山、先に戻るな」
返事も聞かず、ぼくはそのまま衣裳室を出た。
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