第五章 二次との遭遇



       1


 寮長室で告げられたとおり寮の一階をたどると、扉上部の案内板に『図書室』と記された部屋を見つけた。

 建物の奥まった場所にあり、入寮時、ざっと寮内を探検したときには気づかなかった部屋だ。

 かつて研究施設だったというから、前は、書庫とか資料室だったのかもしれない。


 ドアノブを握り、回しかけ、思いついて念のため、数回ノックした。

 扉の向こうから、声がしたようだった。

 よく聞き取れなかったけど、やはりだれかが室内にいる。

「失礼します……」

 意外に力の必要な重い扉を前に押し、ちらりと室内に目を走らせると、壁一面に造りつけられた本棚を視認した。

 天井灯は点いておらず室内は薄暗かった。


 扉の正面にある窓を背にし、部屋の中央に置かれたテーブルの向こうへ、だれかがひとり佇んでいる。

 顔にかかっている長い毛髪に加え、閉じられたカーテンを透かして入ってくる日の光で逆光となり、顔や性別はよく分からなかった。

「……御鳥了矢くん?」

「はい……御鳥です」

 片手に持った名簿らしきペーパーフォルダーをテーブルの上に少しだけ浮かせると、その人物はそれを眺めるように顔を傾け、男性特有の低い声でぼくの素性を確認した。

「どうぞ、その席に座って下さい」

 手を差し出されるまま、テーブルをはさみ男の正面の椅子に腰かける。

 ちらりと胸の名札を見た。

 角度が悪いのと、逆光なので字は読みとれない。見覚えのあるデザイン。

 学校の客用IDカードか?

 腕にはタグホイヤーのキャリバーS。派手めのベゼルで、学校関係者には似合わないような高級品だ。やはり外部の人間なのか。

 ぼくの視線に気づき、相手は自己紹介した。

「私はオオバといいます。学校の依頼で、少しだけあなたとお話しをすることになっています」

「はあ……」なんと答えて良いか分からないまま、なんとか返事だけはひねり出す。

「緊張していますか?」

 はい、と返事をしたつもりで思う以上に小声となった。

 実際、さっきから緊張しっぱなしだ。



 先ほどまでいた寮長室には、五人ほどの寮生が集められていた。みな新入生で、ほとんどは顔見知りだったけど、名前はまだうろ覚えな連中だ。

 三添さんの話を聞いているあいだ、たしかに館内放送で呼び出される寮生はいた。

 でも、それはいつものように、手紙が来たから受け取りにこい、とか、部活の打ち合わせがあるから、どこそこに集まれ、というような内容なので、彼らの呼び出しは聞き流していたらしい。


 普段寮内で見かけたこともない寮長は、部屋の奥に設置された執務椅子に腰かけ、執務用の大机に肘を乗せた姿勢でほおづえをつき、ぼくらの様子を観察していた。


 三保先生を筆頭に他の寮監は、まるで囚人を監視する刑吏のようにずらりと壁面沿いに並んでいる。まるで緊張感をあおろうとしているような雰囲気だった。呼び出されたものは当然、みな所在なげな表情をしながらおたがい、ことばを交わすこともなく室内につっ立っていた。特に座れと言われなかったからだけど、広い部屋の中央付近に数名の男子生徒たちがただ立っているという情景は珍しい。というより、不気味な感じだ。

 やがて、ぼくらは時間差で名を呼ばれ、ひとりずつ部屋を出て行くように指示された。行き先は部屋を出るとき戸口脇の寮監から耳打ちされるような感じに小声で知らされるので、ほかの同級生がどこへ行ったのかはまったく分からない。

 ぼくは四番目に呼ばれた。部屋の時計で見ると、十五分から二十分くらい待っていたようだった。


「さて、それじゃ始めましょう」

 オオバと名乗る男性はテーブルの上で両の手のひらを組むと、そのまま微動だにせず、ぼくに何事かの開始を宣言した。

「最近、なにか困ったようなことはないですか?」

 意表外の質問に、すこしのあいだ絶句する。

 絞り出すようにして、ことばを返した。

「い、いえ、別に」

「入学してから、なにかこう心境の変化のようなものがあったとか、そういったことはどうですか?」

「あ、あの……」これはいったいなんだ。

「御鳥くんはひとりっ子でしたね」

「あ、はい」

「ご両親は」

「あっ? ……生きてます」

「……でしょうね」

 最後まで質問を聞かず、ちぐはぐな返答をしてしまったようだ。少し間をおいて男はかすかにうなずいた。

「……緊張してますね?」

 さっきそう言っただろ! 見れば分かるだろうに。

「いいでしょう……では、少しだけ、私の言うとおりにして下さい」

「はい」

「目をつぶって下さい」言うとおりにした。

「リラックスしましょう。肩の力を抜いて、そのまま……」

 肩の力を抜くって、どうやるんだっけ。

「息をゆっくり吸って下さい。ゆっくり、ゆっくり」

 ぼくは男の言うまま、息を吸い始めた。

 ……これってなんだろう、前にどっかで……

「今度はゆっくりゆっくり吐いて下さい。もう少しゆっくり、そう、そのまま吐いてぇ」

 ああ……。そうか。

「もう一度、吸ってぇ、リラックスして。はい、ゆっくりゆっくり」


 この男はぼくに催眠術をかけようとしているのだ。


「だんだんまぶたの力が抜けて重くなっていきます。はい、ゆっくり呼吸を続けて」

 催眠術師? でも、なぜ? 学校で? 

 表面上、素直に従いつつも、心中にわき起こった疑問と疑念によって、ぼくの意識はどんどん冴え渡っていく。なまじ深呼吸などしているものだから、かえって冷静に思考することができるようだった。



       2


 以前テレビで見た催眠術師そっくりに、オオバと名乗る男はぼくに深呼吸を続けさせながら、それ特有の暗示をかけ始めた。

 やれ、身体の力が抜けるだの、全身がリラックスするだのと言いつつ、しまいにはだんだん呼吸は浅くなり、意識が遠のいていきますなどと、意識を失わせることに躍起だった。

 一方こちらは、まず、絶対に催眠術になんかかからない、かかってやらない、いや、かかるもんか、と決意し、でも、ここでかかったふりをしなければ、次に何をされるか分からないという危機感から、細心の注意を払い、男のことばを聞き逃さないようにしていた。

 男は何度か、本当に術にかかったかどうか確かめるような暗示を出してくるので、ぼくは記憶の中の催眠術ショーの様子を思い出しながら、その指示に、それらしく対応した。

「さあ、だんだん手が軽くなってきました、すぅーっと右手が上に挙がっていきます。……そうそう、はいゆっくーり、そうそう今度は左手が……」

 ばからしい。

 催眠術がすべてインチキとは思わないけど、少なくともこの部屋で行われていることはショーにもならない茶番じゃないのか。それに……

「手が重くなります。挙げた両手はゆっくりゆっくり下がり、身体の両側にぴたりとくっついていきます」

 いくら私立高校といえど、まがりなりにも教育機関内でこんないかがわしいことを生徒に対して行うとはどういうことなのか。

 学校に対してそれほど信頼感などは持ち合わせていないものの、ぼくの意識は不審と不信とに満たされ、その当然の帰結として、ふつふつと心中へ怒りもわき起こってくる。

 オオバの声はだんだん小さくなっていった。

 その間、彼の視線をなんとなく感じた。目をつぶっているぼくの状態を観察しているかのようだった。

「リラックスしたまま、私のことばを聞いてください」

 無言の状態が続いたかと思うと、おもむろに声をかけられる。次の段階に移るのによい頃合いだと判断したらしい。返事をするかどうか迷った。

「よく思い出して。この寮で起こった火災のことを知っているなら、右手が挙がります」

 一瞬、呼吸も止まりかけた。

 え、そのこと? 

「火災について知っているなら、右手は少しずつ挙がっていきます」

 反応のないためか、オオバは再度同じ暗示を、今度は少し大きめな声で言った。

 仕方なく、ぼくは右手を少しずつ持ち上げていった。少し挙げたところで止めると、彼は少し間を開け、続けて新たな質問をしてきた。

「火災の原因はなんでしょうか? 知っているなら今度は右手が重くなります。だんだーん、下がっていきます」そんなの知らないよ! まて、手は挙げっぱなしか!

「……火災の原因……知っていますか? 知っているなら右手は下がります」

 また繰り返し。

 ここで手を下げてしまったら、知ってるって事になる。絶対に下げられない。

「放火について、なにか知りませんか? 身の回りにその原因となる人物はいますか? 知っているなら、今度は左手が挙がっていきます」

 ……失言だろう。いま『放火』と言った。

 つまり、学校側はあの不審火はだれかによる意図的なもの、と断定していることになる。ちらりとそんなことを考えたとき、ぼくの身体に想定外の異変が起こった。

 ――あっ!

 左手はなぜか理由もなくぴくぴくと動き、意思に反して挙がろうとする。

 ――やばいやばいやばい!

 意識ははっきりしている。思考も正常なはずだ。

 なのに、なぜ身体は反応するんだ。

 ぼくは必死で挙がろうとする左手に意識を集中し、挙がらないように力を込めた。

 ――知らないって、ホントに火事の原因についてなんか知りませんって!

 オオバはしばらく無言だった。目をつぶっているので、彼が何をしているのかはまったく分からない。

「……犯人を見ましたか? もし、犯人について知っているなら、まぶたは軽くなり、だんだん開いていきます」

 ――なんでまぶたは動くよ!

 ぼくのまぶたはぴくぴくと痙攣しはじめた。

 わぁ! 実際問題、ひょっとすると本当に催眠術にかかっちゃったのかも。でなければこんなことが起こるわけもない。

 ……ということは、このオオバという男は実はすごい催眠術師なのか。

 本人の意思に関係なく、身体が動いてしまう……ぼくの思考はかき乱されたまま、まぶたは抗いようもなく開こうとする。恐るべき暗示の効果!

 ――そうか!

 術に必死で抗う思考の隙間に、なにやらひらめいた。

 ――ルリムウのことだ!

 つまり、ぼくはあのアニメ画が犯人じゃないかと疑っているのかもしれない。

 いまそう思いつくまでは、『忘れたい過去の出来事』ナンバーワンだったけど、深層心理ではあの不可思議な現象と放火とに因果関係を見いだしていたらしい。

 いや、絶対そうだ! と、自己分析したところで、開くまぶたの動きは抑えられなかった。

 ギ、ギ、ギ、と、それこそアニメならそんな音のつくような感じで、ぼくの目は大きく見開かれていった。

「犯人を知っているのですね?」

 あくまでソフトな口調で、でも、意味するところは刑事ドラマの取り調べと何ら変わらず、オオバは尋問を続けてくる。

 ぼくの方は、だけど、そんな尋問につきあっているどころではなくなった。

「あ……あ」

「あ? なんです?」

 目を完全に開いたぼくの目に映ったオオバは、テーブル上に身を乗り出すような恰好になっていた。


 答えようとしたのではなかった。

 口から思わず声を漏らしてしまったのだ。


「あ……あぁ」

「おちついてぇ、リラックスしたまま、落ち着いて話して」

 だから違うんだってば! あんたの催眠術にかかったんじゃない。

 ぼくの視線はオオバの背後に釘付けだった。


 だってカーテンにルリムウがいたんだ。



       3


 人間、恐怖は感じていてもそう簡単に気を失ったりできるもんじゃない。


 彼女は怖い顔でにらんでいた。

 どうやらぼくじゃなく、オオバを。


 当の催眠術師は背後のカーテンに何がいるのかも知らず、まだこちらへ語りかけてくる。それを無視し、ぼくはこの状況を脱する緊急手段を考え、思いつき、実行することにした。


「わああああああああああっ!」


「ちょ、ちょっときみ! 御鳥くん! おい、大丈夫か!」

 急に大声で叫ぶ被術者に仰天したのか、オオバはテーブル上に跳び上がった。

「み三つ数えると、意識が戻ります! わん、つー、すりぃい!」

 自分の催眠術でおかしくなったとでも思ったのか、彼は必死にぼくの意識を戻そうとした。


 最初から意識はあるんだけどね。


「お落ち着いて! 手を叩くとリラックスします! せいっ!」


 そっちこそ。


 断続的に叫び続けるぼくのせいで、テーブルの上に立ち上がったまま、オオバは髪を振り乱し、手を打ち鳴らし続けた。

 もう、むちゃくちゃだ。


 ルリムウは……


 見ているとルリムウもぼくの大声に驚いたような表情となっていた。

 アニメ画の表情の変化はわかりやすくていいな。

 あ、そうか。どうやらこちらの声は聞こえるらしい。


 背後の扉が、がさがさと音を立てた。

 ひやりとした空気がぼくの首筋に流れてくる。だれか入ってきたのだ。


 その直前、ルリムウはさあっと……別に音は立てなかったが、そんな感じにカーテンから壁面へ移動し、そのまま本棚のデコボコに沿って、どこかへ姿を消してしまった。さすが画だけあって、平面から平面に沿って動くのか。

 いきなり消えるわけではないのだとすると、幽霊や亡霊の類ではないのかもしれない。


「オオバさん! 一体なにが!」


 聞き覚えのある寮監の声を背後に聞いたぼくは、叫ぶのをやめて目をつぶった。気絶したふりをして、椅子の上でぐったりと四肢を投げ出したのだった。

「ちょっと! 降りなさい!」

「こ、これは……」

「おい、大丈夫か!」

 肩口に手をかけられ寮監にゆさぶられる。

 もちろん反応したりはしない。

 ぼくは気絶しているのだ。

 演劇部の部員として、なんとしてもこの舞台を最後までやり通すつもりだ。

「一体なにをしたんですか?」

「い、いやふつうに術を……」

「テーブルの上でやるんですか?」

「座ってました」

「襲いかかろうとしてたんじゃないんですか!」

「違います!」


 目をつぶったままふたりのやりとりを聞いて、思わず吹き出しそうになった。

 そりゃ絶叫している生徒の目前で、テーブルの上に乗って手を叩いたりしていれば相当異常な行動に見える。


 催眠術で動けなくし、いたずらをする変態と思われたって仕方ないさ。


 ともかく、それからはいろいろごたごたあって、ぼくはタンカで寮内の保健室に運ばれた。扱う方もそうだろうけど、ぐったりと全身の力を抜いて、相手に完全に身体を預けるのは大変なことだと実感した。

 意識のないふりをしているから、手や足先がどこかにぶつかったとき、どんなに痛くても声さえ出せない。


 やっと保健室についても、今度はいつ意識を戻そうかと、そのタイミングを計るため、目をつぶりつつ周囲の状況に絶えず気を配らなければならない。

 可哀想な催眠術師は、寮監たちに取り囲まれ詰問されているらしく、しばらく彼らと口論したあげく、追い出されるようにして保健室を出て行った。


「だから、私は反対だと言ったんです」

「起こってしまったことは仕方ないじゃないか」


 ふたりほど残った寮監の小声が寝床の横から聞こえてくる。

 声の響きで枕元にいるわけではないと知ったぼくはおそるおそる薄目を開けた。保健室だけあって、ベッドの周りは学校のそれ同様、白布のカーテンで覆われているようだった。その向こうにいる寮監たちは、低い小声でしゃべっている。


「催眠術なんて……今後何かあったら」

「心理療法士、カウンセラーだったかな。そういう話だったから引き受けた。催眠術を使うとは思わなかった」

「第一発見者ですから疑わしいにしても、これはちょっとやりすぎです」

「二度目だから、多少行き過ぎても仕方ないだろう」


 聞いているうちに声の感じでひとりは誰だか想像もついた。

 ショージだ。

 コンコンと控えめなノックのあと、保健室のドアの開く音がした。

「りゃうちゃうしぇんしぇ、いしゃがつきましぇた」これは分かりやすい。だれかすぐ分かる。

「ん、わかった。すぐここへ」


 三保先生の発音を思いめぐらし、聞き覚えのない声は寮長なのだと類推する。

 入寮当日以来、ほとんど寮生の前に姿を現さないから、声にも馴染みのないわけだ。火事の第一発見者として呼び出されたときも、質問はもっぱらショージからだったし、寮長はほとんど口を開かなかった。


 それにしても、医者は困る。


 オオバとか言うエセ心理療法師ならまだしも、本当の医者の目をごまかせるとは思えない。こここそ、目覚めるタイミングだ。

「……あのう」控えめに発したぼくの声で、カーテン向こうにさっと緊張も走ったようだった。

「お、おう!」

 しゃっと白布のカーテンは開き、ショージが顔を覗かせた。

 隣にはやはり寮長もいた。テレビドラマのベタな一シーンを思い出し、ぼくはその登場人物さながら、あたりを見回すと、これまたありがちなセリフを吐いてみる。

「……ここは?」

「保健室だ。気分はどうだ?」

「……ええ、なんとなく疲れています」

 本当に疲れていたのでそれはウソじゃなかった。


 その後、ショージから二、三、オオバとのやりとりについて簡単な質問を受け答えている最中、医師が到着した。


 診察後、ぼくは点滴を受けることになった。


 健康で正常なのに腕に針を刺され、なにか薬剤を注入されることへの抵抗感から、大丈夫だと繰り返しても、説得力は皆無だった。

「念のため、今日はゆっくりここで休養をとらせて下さい」

 じろりと寮監たちを見ると、医師は部屋を出て行った。

 専属の校医らしい。

「食事は運ばせるから、今晩はここにいるんだ。いいな」

 ショージはメガネの奥から、有無を言わさぬ鋭い視線を送ってきた。



       4


 部屋から人の気配が消えると、とたんに荒涼とした雰囲気となった。

 特有の白壁は寒々としていて、四月も半ば近くなのに、部屋の空気までひんやりと感じられる。片腕に刺された点滴の針は、終わったら抜いて良いことになっていたけど、それを自分でやらなきゃならない、というのもなんとなく男子寮らしい対応だ。


 せっかくの土曜日だというのに急につまらない気分になり、自分の演技もその一因だと知っていたから、なおさら自己嫌悪に陥った。

 ――そりゃ、そうなんだけど……

 あの状況で他にどんな手を打てたというのか。

 点滴のせいで寝返りを打てない状況なので、ぼくは天井を眺めるしかない。まだ外は明るく、すったもんだの連続で多少疲れたにせよ、いまは眠たくない。

 ぼうっと思考していると、ドアの開く音と共にだれかが入ってきた。

「御鳥?」

 かちゃかちゃと食器のぶつかるような音をさせているところを見ると、食事の差し入れらしい。寝床の隣にあるテーブルへそれを置くような気配のしたあと、ベッドを取り囲むカーテンの隙間から、京山が顔を覗かせた。

「なんだ。起きてたか、返事くらいしろよ」

「ああ、すまん」

「夕飯持ってきたぞ。……おまえだけ特別メニューな」

「へえ、そうなの?」

「食べるか、って、おまえ、点滴してるじゃん」

「もうそんな時間なんだ」

 少しだけ起き上がり、京山の開いたカーテン越しに壁の時計を見ると、まだ四時過ぎだ。

「晩飯には早すぎる」

「だよな」

 それに、点滴って、結構食欲の無くなるものだ。

「ところで、おまえ、なにしたんだ?」

「え?」

「……火、つけたのおまえなの?」

「なんで?」京山は疑わしそうにぼくを上目遣いで見ていた。

「……そんな話になってるのか?」

「……広まってる」

「違うよ。ぼくじゃない」

 京山は黙っていた。

「催眠術をかけられた。犯人を知らないかって、おかしいだろ、この学校!」

「催眠術?」

「心理療法士だとか言って……途中で気分が悪くなって気を失った」

 ウソをついたことでチクリと心は痛む。

 それでも犯人と疑われるのはまっぴらだった。

「……おまえじゃないよな?」

「ああ、誓って言う」なんに誓うのかはわからないけど。

「ふーん……催眠術か。心理療法士? ……あの絵のせいじゃね?」

「え?」

 どきっとした。何故ルリムウのことをこいつが?

「先週さ、なんだかメンタルテストがあったろ?」

 そういえば、あった。簡単なアンケートのようなやつだった。絵も描かせられた。


 ……ということはルリムウの事じゃないらしい。


「最後にさ、絵を描いたじゃん。いくつか課題を言われて……」

 新寮生向けの設問で、寮での生活は楽しいですかとか、最近気分はどうですかとか、気持ちの変化はないですかとか……


「あっ!」あのエセ催眠術師の質問してきたことと、ちょっと似てるじゃないか。

「どうした?」

「……あのときと似たようなことを訊かれた」


 テストの最後には白紙を渡され、寮監のいうキーワードから連想して絵を描け、と言われた。

 課題はいくつかあり、それぞれ5分くらいで描く。

 ぼくは深夜の洗濯で疲労がたまっていたのか、そのとき非常に眠くて、つまらないこの時間が早く終わらないかなと密かに願っていた。


 覚えているのは『ミノナルキ』という課題だけだ。

 頭の中でそれを『身のなる木』と変換してしまい、そんなイメージに合ったイラストもどきを描いた。

 提出のため全員の画が指導員によってテーブルごとに集められたとき、自分の愚を悟った。みな、リンゴやミカンのような果実のなった木を描いていて、つまり『実のなる木』と頭内で素直に変換できていたわけだ。


「気持ち悪いなあ」三添さんはぼくの絵を見てそう言っていた。いま思い出した。

「おまえさあ、人間が木に吊されてる絵を書いてたろ?」

 京山は、ぼくの絵を盗み見ていたらしい。

「見たの?」

「三添さんが言ってた。なんだかぞっとしたんだと」

 そうなった理由を言っても理解してもらえないと思って、ぼくは黙ってしまった。

 でも、本当に他意はないし、頭の中に思い浮かんだものをそのまま考えもなくさらさらと描いただけなんだ。


「今思えば、あれは心理テストそのものだったんだなあ」

 そんなテスト、当てになるもんか。

「でも、ぼくじゃない。火なんかつけないよ。理由がない」

「そうだな。俺も御鳥が犯人だなんて思ってないよ」

「ホントか?」

 ぼくの顔をのぞき込むなすび顔を見て、やつが本当にそう考えているわけではないと、なんとなくわかった。

 犯人とまでは断定していないにせよ、話にただ合わせているだけだ。

「すぐには食べられないだろうからここに置いとく……あ、食器はそのままでいいってさ。それから……」去り際の京山は、明日演劇部の集まりがあると『一応』告げ、足早に立ち去った。



 再び、自分以外ひと気がなくなると、室内の寂寥感は急に強くなる。

 入寮時から念願だったはずなのに、いざひとりになってみると、こんなに心細く、不安になるなんて。

 気づくと、片方の目から涙らしきものが流れていた。

 それは目の横を伝い、耳の脇を上手くすり抜け、頭を載せた枕に吸い込まれた。

 学校にも同級生たちにも疑われているらしいと知り、孤独感は増すばかり。

 だれにも信用されず、だれをも信頼できないのは悲しかった。そういった感情はやり場のない怒りにも似て、徐々にぼくの中へ充満していく。 

 ――畜生! 一体だれが! だれが……

 絶対に答えの出ない問いを心中で幾重にも重ねながら、ほどなく、ぼくの意識は少しずつ遠くなっていった。



 どのくらい寝ていたのか、目覚めると夜になっていた。だれかが来て点けたらしく、ベッド脇のテーブルでスタンドライトが常夜灯がわりに点灯されていた。

 腕の点滴の針は抜かれ、小さな四角い絆創膏も貼ってあった。

 睡眠導入剤でも入っていたのか、それとも思い煩ったせいでか、ともかくぼくは眠りこんでしまったのだ。

 意識の覚醒するにつれ、空腹感もわき起こる。

 ベッドから身を起こし、京山の持ってきてくれた食事のトレーに手を伸ばした。

 室内の寒さに身震いする。

「さ、寒ぅう」

 ブランケットから完全に上半身を出すと、思わず声の出るほど寒かった。

 暖房のかけられていないのが、病院の病室とは決定的に違う点かな。

 枕元にたたんで置いてあった平常服の上着に気づき、それを羽織る。

 だれかは知らないが、感謝します。ひやりと冷たくなった陶器製のフタを開け、どんぶりの中を見ると、おかゆだった。


「病人じゃないっつうの」


 スタンドライトの光でトレーの他の皿には、うめぼし、味噌汁、焼き魚にプチトマトとキャベツのサラダがキレイに盛りつけてある。

 見た目からして病人食。

 それを称して特別メニューというわけか。


 冷え切ったおかゆとともに、魚を半分ほど食べた時点で空腹は少し収まり、冷たい味噌汁をむりやり胃に流し込む。

 食べた直後はかえって凍えた感じでも、ベッドに潜り込み、ブランケットにくるまるとだんだん身体中ぽかぽかしてくるようになった。

 薄暗い室内で昼間のことを思い返した。不思議と冷静に考えられる。あの点滴の中には鎮静剤も入っていたのかな。


 と、目の端に、なにかの動く影をとらえた。

 ぎくりと寝床に固まったまま、鋭く詰問する。


「だれ!」


 人の気配はしない。

 ゆらりと白布のカーテンが動いた。


「……ごめんなさい」


 か細い声だった。



       5


 声はぼくの真横から聞こえた。

 ベッドは部屋の隅、壁際に寄せて置かれていて、ぼくの顔は天井に向いている。つまり、声は壁の方向から聞こえてきたと言うことになる。

 自分でも驚くほど恐怖感はない。

 やはり薬のおかげなのか。覚悟を決めて声の方にゆっくり身体を向けた。

 布団にくるまるぼくの影は、背後のテーブルに置かれたスタンドライトの光で壁に投影されていて、その影の中に彼女はいた。

「……やあ」

 なんと言うべきか迷い、とりあえず、ふつうに挨拶してみる。


 魔女高生ルリムウは、分かりやすい仕草に目をぱちくりさせた。


「ルリムウ……っていうんだろ?」


 壁の画は黙っていた。黙ってぼくを見つめていた。


「……私が……怖くないの?」

「いまは。きっと……点滴のおかげ、かも」


 壁の住人だけあり、彼女の声は現実にいる人間のとは違って聞こえた。

 たとえて言えば、……そう、スピーカーから流れる声をマイクで拾い、それを録音してスピーカーから流し……そんなことを何度も繰り返すと、こんな声に……ううん、これはあまりいいたとえじゃないな。


 強いて言うなら、電車の中で、開放型のイヤーフォンやら、ヘッドホンから漏れ聞こえてくる音みたいに平板な声だ。


「ごめんなさい。わたしのせいで犯人になっちゃったのよね」

「なんで……知ってるの?」

「見てたもの。私を見てそれで……」


 壁の画と話すのは初めてにせよ、はっきりさせておくべきことは、この機会に訊いておかなきゃ。そんな気になり、彼女の話をさえぎった。


「火をつけたのはきみ?」

「私じゃないわ!」彼女は眉間にしわを寄せた。近くで見ていると、一見アニメ画のくせに表情の変化はリアルな動きに見えた。どんなCGなんだろう。

「だって、火を使うんだろ? 何度も放火してるって」

「それは設定!」

「え?」


 再び沈黙。


「設定って……きみはアニメのひとだろ?」

「アニメのルリムウもいれば、現実のルリムウもいるのよ」


 よく分からないけど、別人ってことなのか。現実に存在するアニメ画?


「私の詮索より、あなたの話でしょ」

 ぼくは上半身を起こした。

 壁に投影されているぼくの影の形は変わり、スタンドライトの光は直接壁の画に当たる。

「まぶしい!」

 壁の画は手を挙げて顔を隠した。

 すべらかな動きで彼女の顔の上に、描かれた腕の画がかぶる。

 コンピュータグラフィクスでないとしたら、一体どういう仕組みなんだろうな。

「ゴメン……」

「光は苦手なの。ほ、ほら私、絵だから……」

 なにかまずいことでもあるのか、画はあわてた様子に説明してくれる。

「だから夜に出没するの?」

「直射のないところなら、昼間でも」

 ぼくの影の中に位置を変え直すと、彼女はほっとしたような口ぶりで答えた。

「そうだったね。あの図書室も薄暗かったよな」


 会話を続けながら、なんとも不思議な感覚になる。

 だって壁の画だぜ。

 現実感皆無、虚構の存在と壁に向き合ってしゃべってるなんて。

 端から見ると気でも狂ったかと思われること確実だ。

 しかし、彼女の存在はぼくの妄想でも錯覚でもなく、事実らしい。


「どうしてぼくに現れたんだ?」

「え?」ルリムウは目を見開いた。

「倉庫や保健室……ここでも」

「ああ……うーん、と、それは誤解……かな?」

「どういうこと?」

「あなたを追っかけてたわけじゃなく、たまたまそういうことになったわけ。だってあんなに夜遅く、男子寮生が起きてるなんて思わないじゃない?」

「男子? 寮生?」

 彼女の語彙に違和感を持つ。

 なんとなく思考もクリアになってきたようだった。ふつう男子寮生なんてことばはすらすら出てこないよな。

「つ、つまり、偶然ということ」

「じゃあ、きみは深夜になにをしてたの」

「う、うん。それはつまりね、け研究よ」

「なんの?」

 なんだかふつうの会話っぽくて、魔女高生と言うより、ただの女子生徒とやりとりをしているみたいな感じ。

「あのね、そっちの質問ばかりずるいわよ!」


 ガチャリと背後のドアが開いた。


「起きてるのか?」

 壁の方へ向いたままとっさにベッドへ突っ伏す。

 画は光の中に出られず、壁からすばやくベッドを伝い、ぼくのブランケット裏面へ潜り込んだ。画の『体温』だろうか、布のその部分は生暖くなる。


 無機物のはずなのに生々しい生命の存在を感じ、はじめて背筋にぞっと、凍るような気分を味わった。

 背中には人の立つ気配が。


「……寝相の悪いやつだ」


 つぶやくようなその声を後ろに聞きながら、ぼくは薄く目を開け仰天した。

 胸元のブランケットには、裏側にいるルリムウの足が潜り込みきれず、転写された模様のように布の表面にとび出ていた。

 ――ま、まずい!

 うなされたようにうめきつつ、足の見えるその部分をつかむと、寝返りをうって身体の下に巻き込んだ。

 背後の人物は舌打ちをしたようだった。

「風邪ひいても知らんぞ……」

 そう思うならふつう、ブランケットをかけ直すぐらいはするだろうに。

 特に寮生へ愛情もないのか、おそらく見回りの寮監らしきその人物は、ぼくの食い散らかした夕食トレーを運び去った。

 かちゃかちゃぶつかりあう食器と、足音の完全に聞こえなくなるまで、ぼくはじっとしていた。


 ブランケット内の熱源も移動しなかった。


「……ちょっと、いつまでそうしてるの」

 音が止みしばらく経つと、ぐむぐむとくぐもった声で不満をぶちまけ、彼女はブランケット表面へ顔を出してきた。

「ごめん……もう行ったみたいだ」


 ルリムウはまるでプロジェクタで投影された映像のようにブランケット上を移動する。ぼくの触感にその動きは検知できない。

 やはり彼女は平面上の存在なのか。


「でもさ……きみって暖かい。まるで現実の人間みたいだ」

 壁面へ戻った彼女にそう言うと、みるみるその頬は赤らむ。

 あれ? アニメの表現には似合わず、現実っぽい自然なグラデーションに染まってるのか。

「なによ! エッチ!」

「ご、誤解だよ。感じたままを言っただけで、他意はないし」


 なにがエッチだ。

 出るとこひとつ出てない平面人間のクセに。

 ……とは言えないよな、やっぱり。


「帰る前にひとこと言っとくけど。……あなたに目撃された夜、私は倉庫で放火犯を捜していたのよ?」

「え?」

「たぶん知らないと思うけど、あのボヤの数日前にも同様の事件が起こってる。しかもこの階の倉庫よ。火は未然に食い止めたけど、私がいなければ大変なことになってたってこと」

 そう言えば、さっき寮長は二度目とかなんとか言っていたような。

 この子が人知れず消火したってことなのか?

「本当だろうね? だったら……もっと大ごとになるんじゃ?」

「まだこの学校のやり方を分かってないの? 事なかれ主義、いえ、隠蔽、秘匿、ごまかし……もっとたちの悪い考え方しかしない」

 言われてみると、倉庫で起こったボヤに関する対応や、今日の出来事で、それは明白な事実のように感じられた。


「犯人は男子寮にいるだれか。ね、協力して。私だけじゃ無理」


 それはそうだろうな、とぼくはすぐに納得する。

 平面女子じゃ、そんなことは難しいだろうなあ。


「だけど……なぜきみはこの学校に?」

 図らずも本質的な問いになった。

 ルリムウは、初めて魔女高生と呼ばれるに値する表情を浮かべた。


「そういうのはね、アニメじゃ最終回近くなって初めて分かるものなのよ」

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