第四章 にじりよる友情
1
穂村に連れられて演劇部の部室を訪ねたのは、放火事件から数日たった金曜日の放課後だった。
事件と言っても犯人はまだ見つからず、正式には『不審火』のままだったけど。
第一発見者のぼくは事件翌日、寮長室に呼び出され並み居る寮監に囲まれて、そのときの現場の様子を微に入り細に入り根掘り葉掘り質問された。
最後の方は頭がくらくらして何をしゃべったかあまり覚えていない。
でもまあ、ぼくは犯人ではないし、壁の画については自制も効いて、うっかり口から漏らすようなことはなかったはずだった。
「部室ったって、そんなに立派なもんでもない。本来は部活動じゃないからな」
穂村の案内で校舎の裏手にある木々の間を抜けると、目の前にわりと大きい古びた一軒の建物があった。
「もともとは用務員室だったってさ。新校舎に建て替える際、用務員室は学校の中に組み込まれたから、ここは長いことほったらかしになってたのを、アクタレスが見つけて勝手に居場所としちまった」
ぼくが訊ねもしないのに、穂村はいろいろと教えてくれる。
今日はワックスかなにかの整髪料で髪をばしっと決めていて、どこのヤンキーかと思うような髪型になっていた。
数日前、吉岡とのやりとりでかいま見せたように、やはりその系の人間なのだ。
ふーん、としか答えようもない話なので、やはりぼくはそう答えた。
「ふーん」
「建て付けがわりぃな」
穂村は汚れでくすみ、すりガラスのようになった引き戸のガラス戸を両手でがたがた言わせながら、そう言い訳をする。
「おーい」
穂村はやっとの事で空いた扉から頭だけ中に入れてそう叫んだ。のに、室内からは誰の返事もない。
「……いないの? 新入部員、連れてきましたけどー」
奥の方で人の動く気配がした。
「あ、はーい!」女子の声だ。
どたばたした足音が複数、ぼくらのいる玄関口に近づいてくる。
結局入部を決めたのは、成り行き上、仕方なかった。
それは放火事件のあったあの日、洗濯室で穂村と話しているところへ京山が入ってきたことに端を発する。
「御鳥、探したぞ!」
やつはいきなり、自分の構想する例の、アニメ同好会の話を持ち出してきて、部活は無理でも同好会なら五人揃えば学校に認められると興奮してしゃべり出した。
戦隊ヒーローかっつうの。
穂村はその話を聞き、不審げな顔つきとなった。こっちを向いて、いささか見下げた、と言わんばかりの口ぶりで言う。
「おまえやっぱりアニメファンじゃん」
「違うよ!」
「お、そうだ、きみも入らないか? わがARCへ」
「わりぃけど興味ないね」
京山はこともあろうに、穂村まで勧誘する始末。
さて、演劇とアニメどちらにも興味はなく、なのにどちらかしか選べないとしたらどうするか。ぼくの決断は早かった。
「京山、悪い。演劇部に入部することにした」
「えっ」「えっ?」京山と穂村は同時に声を出す。
べつに、アニメが趣味の人をバカにしてるんじゃない。
しかし、ぼくにとっては同じ虚構を扱うなら多少なりとも現実の世界に居残れる演劇の方がマシに思えたわけだった。
それに、男子ばかりのこの学校で、治外法権的に女子部との接点を持てるというのも、なんとなく面白そうだと思えてきたからでもあったし。
「おー、きみかぁー」
ことばだけならおっさんかと間違うような言い回しで、奥の間から女子の声が用務員室の三和土に響きわたった。
その方向をうかがうと、土間から一段上がり奥へ続いている古びた廊下に人影の動く姿を認めた。
薄暗い廊下なので、影の形で制服を着た女子であること以外、その顔などはよく分からない。
「アラ、サンキュー」
人影はぎしぎしと板をきしませ、こちらへ近づきながら言う。
「あ、どうも」穂村は急に直立不動の姿勢になり、バカ丁寧なお辞儀をした。
「ひとり? あ、『了くん』だ」
「あら、もう?」少し遅れてもうふたりの女子も姿を現した。
ぼくは三和土の端で立ちつくしていた。
別に了くんと呼ばれたからじゃない。その呼称を使うのは母親だけで、他人にそう
呼ばれるのは相当恥ずかしかったけど、そんなことを感じる前に、ぼくは惚けたように彼女らに見とれていたのだった。
はじめ、おっさんのような返事をしたのは、おかっぱ髪の女子だ。
浅黒い肌をしていて、大きい目と長い睫毛は変わらず、でも、カフェテリアで見たときと印象はまったく異なっている。
あのときも多少はそう思ったけど、いまはそれにも増して可愛く見える。
幅の広い大きめな口と丸顔が彼女の表情にちょうど合う愛嬌を作りだしていた。袖口からちらりと覗くレトロモダンなタイメックス80も雰囲気にぴったりだ。
ぼくを見て『了くん』といった女子は、肩あたりでカットしたまっすぐな黒髪と前髪とをピンで留め、額を見せた細面の女子だ。
小鼻の小さい通った鼻筋をしている。
整った細い眉の下には二重瞼のかかる漆黒の瞳が、少し上目づかい気味にこちらを見ていた。
瞳の面積が少女漫画の登場人物並みに広い。
彼女は頬にかすかなえくぼを作り、口もとに微笑みを浮かべていた。左腕にはブラキットのデジタルレディース。
最後のひとりは緩やかなウェーブのついたロングヘアを六、四に分け、ボリュームのある髪の塊を左側へ流していた。
染めてでもいるのか、それとも生まれつきか、明るい茶褐色の毛髪をそうしている様は、大人っぽい整った顔立ちともあいまって、まるでハリウッドスターのポートレートのようにも感じられた。
この先輩は腕時計はしていない。
長すぎる睫毛の生えた切れ長の目を穂村に向け、彼女は桜色の薄い唇を開いた。
「ふたり、と頼んだはずね」
低いトーンの落ち着いたしゃべり方。ひどく魅力的な声に聞こえる。
考えてみると人間って不思議だ。
そのときの気持ちのありようで見る風景まで変わってしまう。
生活に追い詰められ、気持ちに余裕のないときには、美しい花も道ばたの雑草としか感じられなくなったりするらしい。だから、彼女たちに対して、ぼくは最初の印象を改めざるを得なくなった。
じっくり間近に会ってみると、この三人の女子はいずれもどこのアイドルかモデルか、という高校生離れしたレベルの美人じゃないか。
「そうだった! アラ、ふたりっていったじゃない」
言葉遣いをがらりと変え、細面の女子は口を尖らせた。
「ごめん、でも……」穂村は彼女にはなぜか上級生に対する態度じゃなく、普段通りの言葉遣いをする。
「いいじゃない菜津、ひとりでも」細面の女子は
「……あなた、御鳥了矢くんね?」
ぼくへ視線を移すと大人っぽいロングヘアは訊ねてきた。
やはり魅力的な声音だ。
「あ、はい……」緊張したせいか、ぎこちない返事となる。
彼女は優しげに微笑みながらぼくのその様子を見透かしたようにことばを繋いだ。
「緊張しないで。入部してくれるってことでいいのかな」
うわ、声だけでぞくぞくしてくる。こんな美女たちと引き合わせてくれたってことに、正直、心中では穂村に感謝していた。
「え、はい。そのつもりで来ました」
気づくと、ぼくも穂村同様、直立不動の姿勢を取っていた。
「おお、人足一号の登場か」
2
言いながら三和土に入ってきたのは、赤みの強い臙脂色をしたスーツの女性だった。
「せ、せんせぃ、こんにちわ!」
穂村がぴょこんと弾かれたように立ち上がり、再びお辞儀する。
直角近かったんじゃないのか、いまのは。
「ふーん、きみか。ミドリリョウヤ、でいいのかな」
胸元の名札を一瞥し、読みを確認してくる。
この人も驚くほどの美女だ。
しかも、成熟した大人の女性の魅力とでもいうのか、演劇部の三人娘とはまた異質の雰囲気を持っている。
「あ……そうです、ミドリです」
そういや生まれて初めてかも知れない、初見でぼくの名前をちゃんと読んだ人間は。
「
細面の菜津先輩がぼくらの間に割り込んできた。
先生? ってことはつまり……
「そりゃそうよ。演劇部初の男子部員が来るのに、会議なんかに出てられないわ」
「また会議、すっぽかしたんですか」
あきれた様子の菜津先輩に対し、女教師は肩に垂らしたナチュラル系のロングヘアを片手でかき上げ、眉間にしわを寄せたまま、だるそうに答えた。
「新入生が入ってきたって、毎年やることなんて決まってるのに、ぐだぐだ話しててもしょうがないじゃない。……ああ、ごめん、
いきなり手を差し出され、どぎまぎしながらもその手を軽く握る。
ぎゅっと握り返してくる彼女の手は意外に力強くて固かった。袖口からわずかに見えたのはロンジンっぽい。
そうか、この女性が顧問か……三保先生のようながっしりした男性教師を思い浮かべていたのに、肩すかしもいいところだ。
「やーだ、忘れてた。私、二年の
「同じく二年の
大人っぽいロングヘアの彼女もそう自己紹介した。
「部長の二年、
最後に細面の彼女が全体のあいさつをまとめ上げた。
「穂村……? って」
「わりぃ、俺のアネキなんだ」
ぼくの頭の回る前に、穂村はそう白状した。
「わりぃってなによ、アラ。弟だって言わなかったわけ?」
いきなり菜津先輩は弟をしかりとばした。
ああ……そうか。だから演劇部についてだけ詳しかったのか。
でも、まあどうでもいいや。
少なくともこの美女たちと一緒に部活動できるってことで許してやるよ。
「アネキたちがダブってることだけ話した」
「なに!」たわいもない姉弟ゲンカ寸前、緑谷先生はふたりを止めた。
「どうせすぐわかる事実なんかでもめない! それより、ゴールデンウィークの演し物は準備すすんでるの!」
「あー。そうでした……今年も『やのべつ敬老会』ですねぇー」
沓子先輩は憂鬱そうに声を出し、肩をすくめた。
「じゃあ、その前に御鳥さんに部室を案内しましょう」
静かな口調で真奈先輩は提案してくれた。
他のふたりも口々に同意する。
「あ、じゃ俺はこれで」穂村はお役ご免とばかりに外へ出ようとする。
「あれ? きみは入部しないのか?」
緑谷先生は、まるで入部は前提だったかのようにやつの背中へ声をかけた。
「いや、いや。俺は演劇なんて……」
「ふーん……でもまあ、一号と一緒についてきてやれ。いきなり魔女の苑へ置き去りじゃ可哀想だろ?」
「瑠栄花先生ひどい! せめて姫君と言って欲しいわ」
「うるさい、女優はみんな魔女なの」緑谷先生は菜津先輩のぼやきへ、是非もなく反論も許されがたいほど断定的な口調に、そう決めつけた。
元用務員室だったという建物内部は外見よりも思いのほか広かった。
先ほどまでいた三和土を上がり長細い板張り廊下の先へ進むと、直角に右に曲がる。続く廊下の右側にはふたつ部屋があり、突き当たりには倉庫を改造したちょっとした舞台もしつらえられていた。
舞台を囲む壁板、天井に至るまですべて黒い塗料で塗られている。
スポット照明は左右にひとつずつ、真ん中にひとつあり、天井の太い張りから釣られた長い金属棒にはつり下げ型のライトがいくつも据え付けられていた。
「マックスで三十名ほどは入るはずね」
観客席とおぼしき舞台前の空間を見てしたぼくの質問へは、大人っぽい雰囲気の真奈先輩が答えてくれた。
「舞台裏も見てみる?」
質問調のことばとは裏腹に、菜津先輩は先頭を切りずかずかと、舞台裏へと歩いていった。裏は舞台の上手と下手を繋ぐ通路となっており、その通路沿いにドアが三つある。
「役者の控え室兼楽屋。一応男女別になってるの」
――表札のない三つ目のドアはなんだろう。トイレか?
下手から上手の方へと、通路を先導する菜津先輩の説明に疑問を持つが、いずれ分かることとあえて質問はしなかった。
脇の穂村を見ると、そんなことにはぼく以上に興味もないらしく、歩きながら通路の天井灯を眺めている。
「なあ、本当に入部しないの?」
「ああ……」すねたような、ふてくされたような顔をして、穂村は渋々答えた。
「なんで、アラって?」
穂村は名札を見せながら説明してくれた。
「本当は現一で、アラヒトって読むんだ。……不遜な読みだから普段はゲンイチってことにしてる」
「んん?」
よく分からない、それのどこが不遜なんだ。
「
理解できそうで理解できないようでもあった。
いまどきそんなことを気にする人間なんて。
「まあ、気にしすぎって思うかも知れないが、ガキの頃からだから、もう慣れちまったしな」
不可解そうな表情でも知れたか、ぼくの顔を見てそう付け足す。
「ねー、ふたりーぃ、こっちに来てぇー」
沓子先輩の声に、その話は中断された。
舞台まわりをざっと案内されたあと、ぼくらは玄関に一番近い部屋へ戻った。
一応、ここが歩桜高校演劇部の部室ということだった。
隣部屋は作業室兼倉庫兼仮眠室兼遊戯室兼……ま、多目的な部屋、という理解でいいだろう。
「あとひとり、か。ゴールデンウィークに間に合うかなあ」
「アラにもっとがんばって勧誘してもらえばいいじゃん」
菜津先輩のため息まじりの心配を、おかっぱ頭の沓子先輩はお気楽にそう流そうとした。
「ちょっと待って下さいよ。俺だって別にすることもあるし、だいたい注文が厳し過ぎて」
「アラ!」反発する穂村を姉は鋭く制した。
「あの……注文って?」
話に釣られ、思わず質問してしまう。
勧誘に条件でもあったのか?
それで、ぼくはそれに適合していたと?
「ほら、あんたが余計なこと言うから……了く、御鳥くんが戸惑ってるじゃない」
なんだか、菜津先輩は『了くん』というのをやたら気に入ってるらしく、さっきから何回もそう言いかけては言い直している。
いい年をして母親以外の人間にそう呼ばれるのは気恥ずかしいから、本当にやめてほしいのだが。
「おとなしくて体力もある、運動部に興味のない新入生。いかにも女性側に都合のいい草食系の男子」
部室の壁により掛かり、会議という名のダベり会を、それまで無言で眺めていた緑谷先生は、腕を組んだままつまらなそうに言う。
そんな条件だったのか。
……たしかに、ぼくはその項目ひとつひとつには当てはまったのかも知れないが、そうだとしても、なんとなく男としてばかにされたような、釈然としない気持ちとなる。気分はあまり良くなかった。
「そうそう。御鳥くんのような適材はもう見つからないかも知れない。私たちの下働きをしようなんて奇特な人は、ひとまかせにするだけではなかなか見つからないと思うの」
大人びた真奈先輩のごもっともな意見へ、少々噛みつき気味に沓子先輩が応えた。
「んじゃあ、あたしたちに動けとでもぉ? 勧誘活動は学校に止められてるんですけどぉ」
「でも、アラくんの下働きひとりじゃ、とっても非効率的でしょう?」
ちょっとちょっと真奈先輩。
……いくらステキな声だからって、さっきからなんだかあなたが一番すごいこと言ってるような気がするんですけど。
穂村を下働き、って……あのねえ。
「じゃ、了くんにも頼んでみましょう。アラの交友関係って、どうも偏ってるみたいだし」
部長権限なのか穂村の姉さんは力強く、そう結論を導き出した。
3
門限は男女の寮それぞれ一定で、平日は午後五時半に設定されている。
わかりやすく言うと夕飯の三十分前だ。
その時間までに寮へ戻り、着替えや入浴ほか、身づくろいを済ませて食事に臨め、ということらしい。
で、いまは午後五時十分。
ぎりぎりまで部活をしていた寮生たちは、男子は男子、女子は女子と、寮舎へ続く緩い坂道のあちこちに小さなひと群れを作り、わいわい話しながらも急ぎ足でぞろぞろ登っていく。
オドロキの校則のせいなのか、異性の群れ間に、まったく交流する気配はなかった。そんな中、男女混合になっている演劇部の一団は特に違和感のある存在らしく、ぼくらは周囲から痛いほどの視線を浴びていた。
「それじゃ、月曜からよろしくね、了くん」
「また来週ぅー」
「勧誘の成果を期待してるわ」
男子寮の入り口のほうが学校に近接しているため、演劇部の女子三人は口々に別れの挨拶を述べ、巨大な寮舎の反対側、女子寮のエントランス方向へと去っていった。
「やっべえな、着替え終わったら風呂はいる暇はないか」
腕時計を確認しながら穂村はつぶやく。
学校から五、六分の距離をここへ来るまで、ぼくらだけ浮きまくっていたことには気づいていないかのようだった。
演劇部の三人組が近づくと男女問わず、どの集団も身をすくませ、立ち止まったり、身を避けるようなそぶりをしたりした。
そうしないのは自分たちのおしゃべりに夢中となっていた新入生のみの一団くらいだった。
「御鳥には済まないと思ってる。恨まれてもしょうがないけど責任は取れない、わりぃな」
一階ピロティで穂村は無責任極まりないことばを、文句のつけようもないほど魅力的な笑顔で告げてきた。
そういや、こいつ姉さんとはあまり似てないな。
「別にいいけど……」
帰り道での寮生たちの反応を見て、学校生活の前途に多少の不安を感じた矢先でもあったから、気分的にはどこか被害者然としたものになってしまう。
それを見て穂村は少しだけことばを詰まらせたようになり、もごもごと口の中で、あとで、とかなんとか言ったようだった。
互いに寮室は真反対だったので、玄関口でぼくらは別れた。
幸いにも食事前に入浴する気はないから、それを食後に回すことにし、ゆっくり着替えを済ませると食事前の点呼を待った。
不思議なことに部屋はがらんとしていて、同室の人間はひとりも部屋へ戻っていない。ベッドにひとり腰を降ろし、京山にまだ借りたままだったアニメ雑誌を手に取る。例の特集記事はとばし、ぺらぺらと斜め読みしてみても、どの記事も魅力的とは思えない。
先ほどまで一緒だった上級生の女子たちのほうがずっと魅力的に感じられた。
「おい、御鳥! おまえ、なにしてるんだよ!」
いきなり呼ばれ、ドキッとした。入り口に志田の姿を認める。
「なにって……なんだよ」窓から差し込む夕暮れの光は、小柄な志田の全身を、いま見たアニメ雑誌に載っていた子鬼のように赤く染めた。
ゴブリン、とか書いてあったな。
「食堂!」
「あ」すっかり忘れていた。どうりで誰もいないはずだ。
昼食を除く朝、夕の食事には食堂の手伝いが割り当てられていた。
全学年を対象に、週替わりでひと部屋づつ当番となり、まかないのおばちゃんと協力し、食事の準備と後片付けを受け持つのがその仕事だ。
食前の基本的な仕事は、白米の入ったジャーと味噌汁やらスープなど汁物用のずんどうなべ、食器や箸の入ったカゴを三学年各部屋ごとのテーブルに配置すること。
あ、その前に各テーブルをぞうきんで拭いたりしなくちゃならない。
食後は残飯の処理やら、洗浄器で洗浄と乾燥の終わった食器をカゴに入れたり並べたりと、大食堂ならではの厨房施設で働く。
最後に床清掃をする必要まであった。
もちろんそれらを時間内に手早く終わらせるためには仕事の内容をある程度知っていて、なお慣れも必要だったりする。
ところでぼくが係の仕事を忘れていたのは、部活の長引いたせいだけじゃなく、ほかに理由もあった。
なにせ、当番自体今朝からで――というのも夏期や冬期休暇をはさむから、必ずしも月曜から当番になるとは限らず――朝は当番初日だからということで、まかないのおばちゃんたちは気を利かせてほとんどの仕事をやっていてくれたし、どんな手順でどんな仕事があるのか説明をうけたのみで、自然、当番の意識も薄くなっていたってわけ。
ただ、ぼく以外の部屋員は当番のことを覚えていたようだから、それを言い訳とできないのは変わらない。
「おー、御鳥。おせーぞ!」
志田に連れられて、大食堂へ入っていくと、三添さんは珍しく不機嫌そうな声を出す。係は食事三十分前に集合しなくてはならないことを思い出した。
だからぼくが大食堂へ入ったときはもうあらかた食前の作業は終わっていた。
「ええかげんにせえよ、さぼりが」
坊主頭の吉岡は思いきり怖い目つきでぼくをにらむ。
ほかの部屋員もむすっとした様子だった。だれもことばを発さない。
「すみません。部活が長引いて……」
「あほう!、みんなはよ切り上げて来とんのじゃ、なにいうてんねん、しばいたろかボケ」
「吉岡の言うとおりだ。みんな部活を早く抜けさせてもらってる。いいわけにならないな」
「はあ……すみません」
「すんません思うなら、おまえひとりで片付けせいや」
「……まてまて、それじゃ終わらない。連帯責任になるからそれはだめだ。罰は別なことにしよう」
交互に言われ混乱する。
たしかに忘れたのはぼくのせいで、みなには済まないと思っているけど、罰ってなんだよ。
「ま、ええわ。とりあえずはよメシにしよか。こいつのせいで作業がおおなって腹減ったわ」
そう言って吉岡はひとり食卓テーブルに着いた。
続いて残りの部屋員もがたがたと椅子を引き出し、定位置に座る。
その場の雰囲気としてみなと同じ食卓についてよいかどうか分からなかったのに、釣られてぼくもそのあとに続いた。だれの抗議も許可も受けなかった。
食事の手伝いをする寮生は作業が終わり次第、定時を待たず食事を取って良いことになっていた。
ほかの寮生より早く食事を終わらせ、あと片付けの準備をするためだった。
「いただきまーす」
三添さんの音頭で、みな一斉に食事を始める。
目の前に配膳された箸を取り、はじめに口を湿らすため、味噌汁をひとくち飲んだ。生ぬるい。だいぶ前についだみたいだった。
続いて白飯の入った中サイズのどんぶりへ手を伸ばした。
「ぅえ!」
手から取り落としそうになり、思わず声を出す。
どんぶりをもう一度、今度は注意深く下から包み込むようにして持った。
プラスチックの肌越しに白飯の熱さがじわりと手に伝わってくる。
それだけじゃない……重い。
なんだこの重さは。
中になにか入れられたのかと、目を上げてまわりの仲間たちを見た。
みな目前のおかずをがつがつと口に入れている。ぼくに注意を払っているのは誰もいない。しかたない、この不思議は自分で解決するほかないらしい。
白飯の中を探ろうと箸を立てた。
「んぬ?」
ふたたびまぬけた声が口から漏れる。
箸は中まで突き通らなかった。
脇から勢いよく鼻を鳴らす音がした。京山だ。
素崎は口を押さえ、口から咀嚼物を吹き出すのを必死に堪えはじめる。
顔も真っ赤になっていた。
「驚いたか。
三添さんは爆笑しながら、その合間にやっとそう言った。
そのときまでにぼくを除く全員が大声で笑っていた。
「圧縮……?」
「コメを思い切り圧縮した」
「は?」
「三杯分はたっぷりあるぞ」
「え?」
聞いてみると、ぼくのどんぶりに白飯をよそう際、しゃもじで押しつけ、どんぶり三杯分ほどの白飯をぎゅうぎゅう圧縮しながら入れたらしい。
見た目を自然に仕上げるため、最後にふわりと少量の白飯を一番上に軽く載せるのがコツなのだそうだ。
そんな小学生並みのいたずらに見事にひっかかったということか。
みながしゃべらなかったのは、どうやらこの悪ふざけを知って、笑いを堪えていたからだとようやく理解できた。
「とりあえず、それが遅刻した罰だ。責任持って最後まで食えよ。いいな」
三添さんは愉快そうに、でも意地悪そうな笑顔を浮かべて、そうぼくへの判決を下した。
4
入学最初の週はもろもろの出来事ともに恐ろしいほどの速さで過ぎ去り、迎えた第二週目の放課後、ちょっとぼくはユウウツだった。
演劇部へ入部したことに躊躇はない。
けれど部室に向かう足取りは重かった。初対面に近いはずなのに無礼なほどフランクに接してくる上級生たちへ腹を立てたのでも、学校一の有力者らしいという美貌の女教師に臆したからでもなかった。
原因は京山。
ほんとうにこの男は図々しいし、うっとうしい。
どこでどう演劇部のことを聞きつけたのか。
「なあ、御鳥、部活はどうなんだ」
やつは思春期を迎え、難しい年頃の娘と話す父親のようなセリフで話しかけてきた。ぼくが食堂係を忘れていた翌日、きょうを二日さかのぼる土曜日のことだ。
「どうって、まあぼちぼちやってるよ」
面倒くさそうな態度をとり、さりげなく会話する気のないことを示すものの、やつはまったくそれを理解しなかった。
「ぼちぼちか。いいな、うらやましいよ」
「なにが」
「だって女子と一緒だろ? しかもすげえかわいいって話だぞ」
「だって先輩だよ。はなから相手にされてないって」
「わかんないじゃん。演芸ってずっと密度の濃い練習をするじゃん。劇中、触れあったりとか、スキンシップってことだろ、ようするに。肌のふれあいから気持ちの結びあいに進むってことは芸能界じゃよくあることらしいぜ」
健全な高校生であれば、ゼッタイ発するとも思えない不潔ったらしい言辞の、部活の話題でさえない話の流れになった。
というか、いつの間にかこいつのペースで会話になってしまっている。
「演劇だって。演芸じゃないよ」
「そうだよ。そんなこと言ったか?」ったく、真顔で言うか。
「どう思おうが勝手だけど、考えてるほどステキな環境じゃない。いまのところ男子部員はぼくだけだし、女子はみんな上級生で、三人もいる」
「なんだ……使いっパシリにしてくれってなもんだな」
こいつは、ひとの心配していることをずばりと。
「そこまでは……まあ定員はあとひとりだから……」
しまった、と思ったのと同時に、京山は絶叫した。
「なに! はい、はい! 立候補、立候補、なるなる、はいるはいる!」
やばい、本当にやばい。
「でもほら、京山はアニ専だろ?」
思い出せ京山! 本当の自分を!
「それはそれ、これはこれだ」
「い、いや、だって、ほらパシリに」
「パ シ リ 上 等 ぉ お お!」
そう叫ぶやつの目は血走っていた。
日曜日、困って穂村に相談してみると、やつは、いいんじゃない、とこれまた予想外のおことばをのたまう。
……それで仕方なく、エロなすびを部室へ連れて行く羽目になったのだった。
「言っとくけど、入部を決めるのはぼくじゃないからな」
「ん、ん、わかってるって」
部室へ着くと、玄関のカギは開いており、あの三人は留守だった。
なぜか安堵した心持ちとなる。
気づくと京山は、勝手に上がり込み、廊下の先を歩いていた。
「おい! ちょっと待てよ」
なんて勝手なやつだ。急いでぼくも靴を脱ぎ、そのあとを追いかける。
「へー、結構広いな」
断りもなく、ずかずかと最も手近な『部室』へ入り、きょろきょろと部屋内を見渡していたが、すぐ隣の作業室兼倉庫兼……多目的室へ侵入した。
「おい勝手に……」
なすび面は雑然とした室内には見向きもせず、ひたすら周囲の壁を気にしている様子だった。
「何を探してる」
「ラン。こんなに古い建物だけど、せめてそれくらいはないと」
「らん?」
「ネットワークだよ。御鳥ってそういうことには疎いの?」
LANか。ばかにするな、小学校で習ったよ。
こんなところでそんなことを気にするから分からなかっただけだ。
悔しいから試しにちょっと知っていることを口走ってみた。
「無線……」
「そうか、Wi-Fiなのか」いや、あるかどうかは知らないぞ。
ぼくらは舞台のある奥の間へと歩を進めた。
「ひゃあ、思ったより立派だ」
さすがに感心した様子で、京山は天井を見上げた。
「天井ぶち抜いて屋根まで吹き抜けてる。断熱がないから冬の練習は厳しいかもな」
とりあえず、ひとこと多いぞおまえ。
てか、新入生風情でいきなり舞台に立つつもりか?
裏手に回り、男女別の楽屋を見つけると、ぼくの許可も得ずいきなり中を覗く。
「ほー、こうなってるのか」
「やめとけよ」
と言いつつ、ぼくも中を覗いた。
先日は扉を見ただけだったから、実は室内に興味もあった。
一番手前のドアは表札のマークからすると男子の楽屋らしく、壁の片側壁面は総鏡張りとなり、もう片側にはメイク用のカウンターおよび、鏡面の周囲を取り囲むように電球の配置された鏡台が三つ据え付けられていた。
隣の部屋は女子用楽屋で、室内は隣室のレイアウトを正反対にしただけで同じ作りだった。
「ここは?」
なすびは舞台の上手に最も近い、表札もサインもない三つ目のドアを指さす。
「さあ、トイレかも」
「なんだ知らないの」言うやドアノブに手をかけ開けようとした。
ノブはがちゃがちゃ音を立て回るだけだ。
「カギがかかってる」
自分では開ける気はなかったが京山が勝手に開けるならと、よこしまな期待感を持っていたぼくは、中を見られず多少がっかりした。
「了くーん。いるのー?」玄関口からだ。
少しだけどきりとしつつも、すぐ返事を返した。
「あ、はーい! お邪魔してましたーっ」
女子部の上級生三人の勢揃いする中、ぼくは京山をいやいや紹介した。
「寮の同室で、入部希望者のナ……京山……くんです」
「えー、御鳥くんに勧誘された京山勝治です。定員に空きがあると聞いて来ました」
深々と頭を下げる。
うそつけ。勝手に押しかけてきたんじゃないか。
「ふうん、京山くんね」
穂村部長は責任者らしく、もったいぶった様子でその名を復唱する。
「はい!」
寮で聞いたこともないほど素直そうな声音で返事を返す京山は、なんだか笑顔さえキラキラさせて、調子のいいことこの上ない。
うーん。アニメオタクってのは、もっとこう、ひと見知りというか、ひとと話すのを苦手としているというか、ふつう、そんな感じじゃないのか。
先入観や偏見かも知れないけど。
それなのに、こいつと来たら、アニメだけじゃなく現実の生活ともうまく折り合いをつけているようじゃないか。
寮でもぼくより知り合いも多そうだし、なにより積極的だ。
初対面の先輩女子三人を前にしても、気後れせずまともに会話できている、そんな印象さえある。
「演劇部へ入ろうと思った動機は?」
「はい、昔から興味のある分野で、高校に入ったらチャレンジしてみようかな、と」
おい、ARCとかは一体どうなったんだ。
「それよりさ、きみ、ナス顔だよねー」
沓子先輩は興味深げに、無情な発言をする。
「へ?」
穂村部長は手を叩いて喜んだ。
「ああ、そうだよね、似てる似てる!」
「でしょ? 受けるぅー」ふたりで顔を見合わせ、笑い始めた。
「えー?、似てますか? 初めて言われたなぁ」
京山は内心の動揺を爽やかげな笑顔の奥へ隠そうとして果たせず、微妙に歪んだ表情にて、ぼりぼりと頭を掻く。
困ったときの癖だな、こいつの。
「いいんじゃない? 草食系の次は野菜系ってことで。うらなりナスビなら毒にも薬にもならなさそうだし」
ああ真奈先輩。
……やっぱりあなたは一番きつい。
5
演劇部へ正式入部したことで一番変化したのは周囲の方だった。
まず、階下の怖そうな上級生たちから、なぜか通りすがりに声をかけられることが多くなった。
「おう、おまえ、そう、おまえだ」
いちおう、型どおりに周囲を見渡し、自分しかいないことを確認してから、おずおずと、本当は渋々いやいや、手招きしている上級生に近づく。
「御鳥ってのはおまえか」知って声をかけているんだろうに。
「はい」
「演劇部に入ったのか?」
「……はい」
「……そうか。もう行っていいぞ」
それだけ? なんだよ、もう。
寮だけでなく、学校内でもそんなことばかり起こった。
しかも先生たちでさえ、つまらない質疑応答をしてくる。
例えば、ジャガーだ。
アフリカあたりの動物の話じゃない。
選択科目に地理A、地理Bって授業がある。
興味のある気候分野に関することをより多く学べるらしいのと、一般的に受験に有利だと聞いてぼくはBの方を選んだんだけど、その授業担当者である
だいたい男子高校生が先生につけるあだ名なんてのは、とんでもなく相手に失礼であるか、そうでなければ突拍子もなくヘンテコなものばかりだろう。
それだけに『ジャガー』なんてちょっとかっこ良さそうなあだ名のつく先生に、ぼくは興味津々だった。
でも教室に入ってきた人物は予想外の人物。
なんの変哲もない、中年をちょっと越えたばかりのくたびれた男性教師だ。
よれよれのワイシャツの上には、過剰な整髪料でてかりを帯びた毛髪の生えた首を載せている。
分厚いレンズの黒いセルフレームは、なんとも昭和の雰囲気で古くさい。
ぶくりとふくれた腹の脂肪をズボンのベルトで締め上げているせいか、それがコーンの縁から溶けて流れ出す寸前の、ソフトクリームのように垂れ下がっている。
このひとの、どこをどう見て、あのスマートで敏捷な猛獣を連想すればいいのか。
ぼくの疑念はほどなくというか、次の瞬間に氷解した。
「あー、わしは古西というもんじゃが」
はじめの挨拶はそれだった。
わからない?
語尾に注目してほしい。
……続けて彼はこう言う。
「これから卒業まで諸君の地理を担当することになる、えー、その件じゃがぁ……」
わかるね?
で、ジャガーは、しょっぱなからお約束のように、ぼくの名を呼みまちがえた。
「おん……とり」
「すみません、ミドリです」
出席簿は五十音順で、ぼくの名前は表の下の方にあるはずだし、それだけで自分の読みは違っているとわかりそうなものなのに、やはりこの学校でも――この先生だからか?――間違えられた。
「ミドリ?」ジャガーはぼくを見て、あきれたような声を出す始末。
「演劇部に入った新入生?」
「え? あ、はい」
「アクタレスじゃが、……あまり勉強の妨げにならんよう、ほどほどに」
ほかの先生もこれほど露骨ではないにせよ、絶句したり、顔をじっとのぞき込んできたりと、大抵一度はなんらかの反応をする。
いい加減にして欲しいよ、まったく。
あまりにもそんなことが続くから、ぼくはとうとう、週末の土曜日、三添さんへ訊ねることにした。もちろん、アクタレスと呼ばれる彼女ら三人の行状について、だ。
本当は関係者の血縁である穂村から直接聞いてもいいけど、そこはそれ、ぼくの知りたいのは彼女らの校内での評判であり、実際にどうであったか、という関係者の証言は、後に自分なりの検証に使わせてもらうってことでも良いと思ったのだった。
「とうとう来たか」
三添さんはこのときを予想でもしていたらしく、唸りつつ腕組みをする。
そんなにもったいぶらないでいいから、役に立つ情報をお願いしたいところだ。
「あのひとたちは一年ダブってて、今は同学年でも、本当は俺の先輩なんだよな」
だから、そんなどうでもいい情報はどうでもいいよ。
「一番凶悪なのは『羽衣婚約パーティー事件』だろうけど」
なんという――面白そうな事件。
三添さんは腕時計を確認した。シチズン製。
「時間もあるから、その前に『大脱走事件』から話してやるか」
そんなありきたりな名前の事件なんて後にしてくれ。
羽衣なんちゃら事件が本題だろうが!
「大脱走の起こりは、まず女子寮でな……」
結局それからか。
『大脱走事件』の話を要約すると、その名の通り彼女らが寮を抜け出し、一週間ものあいだ行方をくらませていた、という事だ。
ぼくの予想を超えていたのは、脱走は彼女らだけではなく、彼女らと同学年であった新入生の男子女子に関わらず全員が脱走し、歩桜高校始まって以来の不祥事となったことだった。
「原因はいくつかあるらしい。が、一番有力な説は夏休み期間中、男子野球部の応援を強制されたことだと言われてる」
三保先生の話をしたときのように、三添さんは声を潜めた。
既にぼくの周囲にはいつの間にか部屋員が全員集まり、あのとき同様、怪談話に聞き入る聴衆のような顔つきとなっていた。
「ぼくの聞いた話だと……」訳知り顔の志田の割り込みにだれかがしっ、ときつく声を出す。
東北の高校は、全国の基準からすると、夏休みの日数は少なめで、代わりに冬休みは多めにとられているから、年間で見ると、一応そこでバランスを取っているかのように見える。
歩桜高校もその例に漏れず、夏休みは一学期の期末テスト後の七月下旬から、八月の二十五日前後までしかない。
違うのは、七月の終わりには遣抻恫地域の夏祭りが開催される都合上、地域還元、地域協力を標榜する学校から強制的にボランティアへかりだされ、帰省は八月の初旬と定められていることだ。
夏休みなのに、実質家族と過ごせるのは二十日程度しかないってことになる。
演劇部の彼女らがまだ一年生だった年、どういう偶然か、歩桜高校の男子野球部が地域予選でひょっとすると甲子園まで行くかも知れない、というほど勝ち進んでしまった。
「学校側は大喜びで準備を始めた。準決勝、決勝とあと二回勝てば甲子園だ。……で、応援部だけに任せず、全校あげて応援しようと校長が言い出した」
やがて、仮に甲子園出場となると、下手な応援じゃかえって学校の恥をさらすことになるから、全校生徒は夏休み返上で応援を練習するようにとの、前代未聞な通達が出されたらしい。
「いまじゃ、ありえん話だよ。緑谷がいるからな」
「緑谷?」
ミステリーマニアらしき素崎は、さっそく新しい人物の登場に食いついた。
「緑谷瑠栄花。知らんか、結構有名人だぞ。……ああ、実践英語は二年からだっけ」
「すごい美人だって話ですね」
聞きかじりの話を披瀝したくて仕方のない様子の志田は、すかさず割り込む。
三添さんはうなずきつつ、追加情報をレビューした。
「容姿端麗、スタイル抜群のニューヨーク帰り。英語ペラで、護身術のマスターらしいし……科学だか物理だかの博士号もあるという噂なのに、なんで日本の高校でしがない英語教師をしてるのかって、みんな言うな。ちなみに緑谷は演劇部の顧問な」
今風のモデル体型というか、スレンダーな美女だったとぼんやり緑谷先生のことを思い浮かべたぼくの顔を確認するように見つつ、三添さんは先を続けた。
「少し脱線したが、その通達に寮生はみんな猛反発してな」
そりゃそうだ。
仮に野球部が甲子園に出たとしたら、大阪まで応援旅行に行かなきゃならない。決勝まで進めば、野球部には名誉でも、一般生徒には夏休みなんて全くなくなる。
「そこへ現れたのが、穂村菜津。歩桜高校演劇同好会の発起人で、いまは演劇部の初代部長だ。まあ、部っても、学校非公認ね」
菜津先輩は学校の一方的な通達を堂々と非難し、そこへ遣抻恫中学からの親友だった真奈先輩、寮で同室だった沓子先輩も加わり、三人ひと組で学校と対立したのだという。
「当時は寮は別でも、学校のクラスは男女共学だった。だから彼女たちも結構自由に男子と話せたみたいだし、それで彼女たちの意見に賛同する人間は男女問わず密かに増えていった」
彼女らは表向き粘り強く学校側と折衝を続けつつ、水面下では交渉の決裂後どうするか、という計画を煮詰めていたらしい。
「芝居やろうかってくらいだから、演技なんかお手のものだったんだろ。教師とはなごやかに学生らしく話をしながら、背後では計画に躊躇する同級生をなだめたり、すかしたり、突き放したり、鼓舞したりしてたってことだ……男子や教師の中には脅されたやつもいたって噂まである」
三添さんはなにか勝手に想像したのか、妙に興奮してきたようだった。
けど、高校一年の、それも女子学生に脅されて屈する高校生男子や教師なんているんだろうか。
「夏休み直前、学校側との折衝は完全に決裂し、三人は停学……ここの停学は別に家へ帰れる訳じゃなくて、ようするに、外へ一歩も出ないで寮内謹慎することを命じられた。しかし、明日から夏休みになるという前夜、彼女たちばかりか、寮内から全一年生の姿が消えた。みんな脱走してしまった」
校則では、無断で寮を抜け出せば停学となる。例外規定はないらしい。
つまり、一年生全員で脱走すれば全員停学対象となり、寮内謹慎となる。
結果的に応援へは行けない。謹慎者を公式の学校行事へは出せないからだ。
無理に応援へ駆り出すためには、校則との整合をとるための特例を設けなければならない。学校側にはそのための時間はなく、保護者会で紛糾しそうな問題だから、校長はじめ教師側は、その度胸もなかったのだった。
「……すっげぇ」
京山は感心した様子に、賛辞とも取れる声を出した。
一夜明けた夏休み初日から、学校はてんやわんやの状態になったらしい。
多くの寮生は自宅のある『やのべつサイエンスパーク』内の職員宿舎に戻っていたそうだが、帰る途中で万引きをするもの、調子に乗って繁華街へ繰り出すもの、これを機に東北旅行へ出かけようとキセル乗車をするものなども続出し、県内外の商業施設や交通施設、補導員や警察署、派出所など、いたるところから来る苦情や問い合わせ、身分確認などの連絡により、教師だけじゃなく、寮監、事務員まで総出となり対応したという。
「そのせいかどうか定かではないが、結局野球部は予選の準決勝で惨敗して、脱走したのはなんだったんだ、ってことになった」
「そこまでのことを画策していて、よく退学になりませんでしたね」とぼく。
「あ、それはないな。まず彼女らが先導したって具体的な証拠はない。脱走した生徒の口も堅く、いまだに真相は語られていない。それに穂村と柏木は地元有力者の縁故だし、久津輪はやのべつインダストリアルパーク理事長の娘だから、学校としてはちょっとやそっとで退学にはできないさ」
「けっ、親の金と権力に守られてんのや、胸くそ悪い女どもやで!」
吉岡は嫌悪感まるだしで吐き捨てるように言う。
短絡的にそう取らなくても良いだろうに、こいつはなんだか、基本的な性格の悪いやつなのか。
「……そんなことがあってだな。二年に進級したアクタレスはもっと……そうだ、その名の由来も話しといた方が良さそうだな」
本筋を早く知りたかったけど、その話題にも興味はあった。
突然、部屋のスピーカーからマイクによる雑音が流れはじめる。館内放送だ。
『ミドリ一年生、ミドリ一年生、至急寮長室まで!』
話はこれから、というところで、ぼくは部屋からひとりだけ呼び出されてしまったのだった。
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