第三章 虹色の炎
1
少し話を戻すと、部活の争奪戦は入寮時からすでに始まっていた。
入学式前の授業のない昼間には、団訓の合間に結構な自由時間もあったので、その時間に下階から上級生たちが上ってきて廊下を練り歩き、部屋ごとに強引な勧誘活動をする。
まるで人身売買の品定めをするように、無遠慮な視線でじろじろ人の顔を見ていったりするのだ。
もちろん、下手に目を合わせようものなら脈ありと見て話しかけてきたり、こちらがぼーっとただ目を開けて相手の目を漫然と見返したりすれば、なんだおまえと怒鳴られたりもする。
かれらの到来を察知したら素早く目を背け、こちらへの関心が無くなるまで目立たず、おとなしくやり過ごすしかなかった。
入寮時、各部屋の入り口付近には、部屋の場所と部屋員の構成を覚えるためか、その部屋に住む人間の名前が張り出されており、ちょっとでも変わった名前だったりすると、恰好の標的となる。
残念ながら、ぼくもそのひとりに当てはまるようだった。
「オトリ、オン……ドリ? オンドリってどいつだ?」
上級生たちは一様に、ぼくの名前を間違えたうえ、我勝ちにずかずか部屋内に入ってくる。
「どいつだ!」
「あの……ミドリです」
「あん? おまえか? そうか、じゃサッカー部に入れ」
――いきなり命令口調!?
だいたいそんな感じだった。
そもそもそうやって下級生狩りをするのは運動部ばかりで、もともとどの部活にも入る気なんてサラサラなかったから、よほどしつこい場合を除き、即答で入部を断っていた。
「足早いか?」「人並みです」「体力あるか?」「人並みには」
「……○○(○○の中には運動の種目が入る)やったことあるか」
ちょっと考え、「いえ、ありません」もしくは、「授業で」と正直に話す。
「得意なスポーツはなんだ?」「……運動はあまり得意じゃありません」
それは少しだけウソだけど。
けれど、だいたいそんなやりとりがあって、かれらは実際よりもやせて見えるぼくの身体を再検分したあと、たいてい入部の話はそのまま破談になっていった。
どうせ勧誘するなら、もうちょっと戦力になるマシなやつを捜した方がいいと、先ほどのやりとりで勝手に判断されるわけ。
かといって文化部の勧誘に来る上級生はまったくいなかったので、ぼくは歩桜高校の男子部には運動部しかないのだと思っていた。
穂村から勧誘を受けたとき、だからぼくはそのあたりを気にして訊ねてみた。
「男子に文化部ってあったんだ」
「それなりにあるらしいよ、くわしくはないが」
そこの事情にはくわしくないのか。
「一応、文化部なら文芸部、とか写真部はあるって聞いた。軽音楽同好会もあるな。あ、あとコンピュータ部……そのくらいかな」
京山の好きそうなアニメ同好会とかはなさそう。あえて訊かなかったけど。
「え? じゃ、演劇部は?」
「ああ、うーん……たしかに演劇部は文化部系だけど……さっきも言ったが、正式な部活動じゃなく勝手にそう名乗ってるだけで、部員は三名、全員女子だから……たぶん、女子部の管轄になるんだろうな」
演劇部に関してだけ、妙に詳しい。ああ、そうか。
「……ひょっとしてきみも部員?」
「と、ととんでもない。俺だって男子部だし」
「基本は女子部なのに……なぜぼくに入部しろって」
穂村は申し訳なさそうな声を出した。
「……部員の三人の他にもっと問題のある人物もいる。演劇部の顧問だ」
顧問? 教師だろうか。
「そのひとが、本当に芝居するなら男も入れなきゃダメだと」
「それでいいの? 共学のくせ、実は男女別学なこの学校的に」
「あのひとに逆らえる教師なんて、ここにはひとりもいない。校長でも無理だ」
遠い目をするその表情に、ふと三保先生のことを思い出した。女子部にもあんな教師がいるのだろうか?
生徒ばかりか教師にまで影響のある人物だとすると、どれほどの怪人物なのか想像もつかなかった。
「あ、でも演劇なんだったら、女子が男のふりをすれば済むんじゃないの?」
「そのう、……それだとリアリティがないんだとさ」
演劇には疎いものの、それだけはなんとなく同意できる気もした。
宝塚歌劇団のファンには申し訳ないけど、ぼくから見て、男装の麗人? ていうのか? やはりあれはウソ臭く思える。
「限定二名さまだそうだ」
「はぁ?」穂村はよくわからない条件を出す。
「限定二名になんか意味が?」
「三名だとまずいって。……女子部員と同じ数じゃカップル推奨みたいに思われるんだと」
この学校ならではのトンデモ理論なんだろうか。
「なら、四名だっていいんじゃ?」
「自分たちより男子の数が多いと、パワーバランスが取れないってよ」
「なにそれ」
まったくわけのわからない話の連続となる。
しかし、穂村の頼みをむげに断るわけにもいかなかった。
当初の気持ちとは異なり、やはり、助けられてしまったことに恩を感じないではいられない。なにしろぼくはまだ、まともでふつうの高校一年生なんだし。
「……それじゃあ、きみとぼくとがそのふたりってことかい?」
さっと顔色を変え、穂村は首を振った。
意外どころか驚愕に近いような表情となっている。
「ないない、それはない!」
「え? でも」
今度はぼくが驚いた。
「きみは入部しない?」
「知らないとはいえ恐ろしいことを言うなあ。やめてくれよ」
やめてほしいのはこっちだ。
なんだよ、それ。
「俺はスカウトを仰せつかっただけだ。わりぃけどそれ以上は関わりたくない」
なんだかんだで、その話は保留することにした。
本当は絶対に断るつもりだった。なのに、その場では恩人の顔を立てて、なんだかそうなってしまった。
2
……さて、それで。
また深夜の洗濯に来ている。
おとといは洗濯したものの、乾燥中に汚された。
きのうは洗濯そのものが出来なかった。
だから今夜こそ勝負……いや、三度目の何とやらだ。
明日……午前0時を回ったから、もう今日から本格的に授業が始まる。
履く下着は一枚もない。シャツもパンツもない。靴下もない。
ちなみにきょうも洗剤はない。
まだ倉庫に置きっぱなしだよ。
身の不幸というか、自分のうかつさも含め、毎日同じことの繰り返しになるのはもううんざりしていた。
というか、はっきり言ってバカじゃん、自分。
その失態を回復するチャンスは、ただ自己責任を果たすという一点においてのみ許される。いいかげん、この負の連鎖を断ち切らねばならないのだっ!
すっかり見慣れた洗濯室の天井灯の明るさは、疲労と睡眠不足の目に、刺さるように感じられた。
さっきまで暗い大寝室にいた影響も大きいだろう。
手首をバイブレーションで刺激する時計タイプの目覚ましアラームは、中学の、つまり高校受験時代からの愛用品で、毎夜定時に起き出せるのは、実はこれのおかげでもあった。
指定した午前二時に起き上がり、眠気覚ましとして、ひんやりとした寝室内の空気に上半身を触れさせる。ぼうとしているその間、就寝前のことをうすぼんやりと考えていた。
夕食後、寮監から消灯までは自由にしてよしとの通達もあったので、寮の各部屋は訓練期間中でも一番賑やかになった。
十日間の寮生活でぎすぎすするばかりだったお互いの関係も、入学式やオリエンテーションを経て『自分のクラス』が決定したとたん、改善の方向へ向かいはじめたようだ。
みんなようやく『高校生』になったことを実感したんだと思う。
ぼくらの生活アイデンティティーは、寮ではなく、昼間の大部分を過ごす『学校』によって左右されることが明らかになったわけだった。
明日からの授業を控え束の間の休憩時間を過ごす間、他の部屋では、寝室で指導員を交えながらトランプで大貧民やウノをしたり、寝室へ持ち込むことを許されたギターなどの楽器類でカラオケしていたり、意味もなく大声を上げて走り回ってるやつがいたりと、なんだかみな楽しそうに思える。
ぼくらの部屋を除けば、だったが。
吉岡がずっと寝室に居座っていたわけじゃない。
やつは自由時間になるとさっさとどこか別な部屋へ油を売りに行ってしまった。
それなのに部屋に残ったぼくらの関係は、冷風の吹く間隙がさらに大きくなったように、遊びも会話もなかった。
要するに、吉岡たったひとりのために、部屋の雰囲気はそれまでとまったく変わってしまった。
他の部屋の華やかさに惹かれ、同室の部屋員はひとり、またひとりと寝室を出て行く。なんとなくそうするのが億劫になり、ぼくは吉岡に邪魔されて、まだ読む途中だったアニメ雑誌の研究を再開することにした。
ベッドに寝そべり、胸の上で雑誌を開いていると、隣のベッドから京山がごそごそ音を立てながら、むくりと起き上がる。
こいつも居残ったひとりだ。
「なあ、どこ読むんだ」
「これからだよ、いま開いたばかり」
「そういや御鳥、二組だったよな?」
京山は一組。
非公式には理数科と呼ばれているクラスだから、入試答案は相当良かったに違いない。少なくともぼくよりは点数を取っているということだろう。
「さっき部屋に来たやつも二組のやつ?」
穂村のことを気にしているのか。
「穂村って言ったかな。地元のやつだよ。遣抻恫中出身だから、このあたりの事情をよく知ってる」
その必要もないのに、どういう訳か、あいつのことを詳しく説明してやった。
「ふーん。なんだか吉岡と似た感じもするな。ケンカ強そうだったし……何の用事だった?」
「部活に誘われたよ」
「へー、なに部?」
「演劇部」
なすび面は質問してきたくせに、急に気落ちした表情を浮かべた。
「この学校にはアニメ部とか映研とかないらしいんだ。困ったな……」
ぼくはちっとも困らないけど、京山には大した問題なんだろうな。
「まあいいや。ところでな、ちょっと貸して」話題を戻し、京山はぼくの手から自分の雑誌を取り上げると、先日のページを開く。
違った。
やつはもう一枚ゆっくりページをめくる。
「御鳥ならどの子がいい?」
ページいっぱい魔女高生ルリムウとかの、仲間? もしくは色違いのコスチューム姿が大きく掲載されていた。
「俺はルームウモードだな」
聞きもしないのに、自分の好みをさらりと言ってのける。
指さすその部分にはコバルトブルーの衣裳を着用した、ド派手なメイクのキャラがいた。画の下にある説明を流し見すると、ルリムウ第二の変化と書いてあった。
変化って、そりゃたしかに服とメイクを変えたら女子の場合は変化って言うね。
「性格的にきついっていわれてるけど、十五話で見せた涙は本物だったね」
「それは、いわゆるツンデレってこと?」
まったく関心のない世界の話なのに、サービスしてつい相づちを打ってしまった。
京山は目を輝かせ、大声を出した。
「おおお、なんと、わかる? わかるかぁ! わかってるよなあ、ミドリ」
わかるもなにも、番組自体見たこともない。
「……なんだかさあ、御鳥って感受性が鋭いよ。立派にルリムゥラ―の素質がある」
それに、ほめられてこれだけうれしくないというのも珍しい経験かもしれない。
なんだ、ルリムゥラ―って。かんべんしてくれ。
なすび顔をほころばせつつ、京山はその気味の悪い表情のまま、ぼくにすり寄ってきた。
「な、なんだよ!」
「なあ、ないんだったら作るってのはどうかな?」
「な、なにを」
「部活だよ。同好会でもいい。先輩がいないから好きにやれる。俺たち気も合うし」
「だだから、なんの話だよ?」
「アニ研だよ。名前もいま決めた。アニメーション・リフォーメーション・クラブ。アニメ革命部、略してARC。アークって呼ぼう!」
それはなんの、なにに対しての、どういう革命なんだろうか。
京山はぼくのベッドへ手をつき、身を乗り出すようにして目前まで迫ってくる。
目の端に三添さんが部屋へ戻ってきた姿を捉えた。
こちらをちらりと伺ったかと思うと、抱えた荷物をロッカーに入れ、すぐ出て行ってしまう。まさかとは思うけれど、誤解なんかしてないよな。
なすびの荒い鼻息の音が間近に聞こえた。
「ちょっ! それ以上くんな。べ、別にアニメに興味ないよ。悪いけど」
「じゃあなんで雑誌を見たがる」
「それは……」
倉庫の画の話をするつもりはない。
こんなときにその話をしたのでは、かえって逆効果になってしまう。
体験したこととはいえ真実を話せば、頭のいかれた、妄想癖のある人間と思われるだろう。こいつを納得させるにはほかの理由も必要……
だめだ、思いつかない!
「……き、きみが面白そうに見てたから」あわてて絞り出したことばがそれだった。
「え……?」
一瞬遅れてなすびの笑顔は凍りついたように固まる。
少しの間ののち、ぼくから身を離しつつ、訝しむような声音になった。
「あ、あのさ。それって……つまり俺に」
「誤解すんな、別に意味はない! あ、……意味がないんじゃなく、そういう意味じゃないという意味だ! だからそれは誤解だ!」
あらぬ疑いを招きかねないと気づき、ますます意味不明の言い訳となる。
赤くなるな、ぼくの顔! なんでだ!
「あ……そっちの趣味なんだ?」
「はあぁ?」
これ以上ないくらい、ぼくの声はみっともなく裏返った。待て、違う!
「おかしいと思ったよ。……男女共学に興味はないって言うし、そっかあ、御鳥ってBLだったんだ」
京山は能面のような顔になり、つぶやくような小声を出す。
いや、それより、びビーエルってなんだ。
「……なんだよ、それ」
頭に浮かんだままをダイレクトに口走ってしまう。
「ボーイズ・ラブ」
はっきりとしたことばの意味は知らずとも、語感からなんとなく、おぞましい光景を脳裏に浮かべた。
「……んん、まいったな」
口元に照れ笑いのような弧を作りつつ、なすびは頭を掻く。
画に描いたような……じゃなく、テレビの三流ドラマでもやらないような仕草。生まれて初めて見た。
首を少しかしげ、顔を斜めに傾けながら、やつはぼくから視線を外した。
そうして、おもむろに口を開く。
「ちょっと……少し時間もらっていいか?」
おいおいおいおいおいおいおいおい! お い !
「正直、コクられたの初めてなんだ。……しかし、男からとはなぁ」
だ か ら 、違 う っ て ! てか、そこは断るところだろう、ふつう!
「……で、その話は置いておくとして、部活を作るにはメンバーが何人必要かな」
3
うーん。
京山の身勝手な言動を思い出していたらなんだかむかむかしてきた。
だけど、眠気が無くなったのを、絶対やつの手柄になんかしてやるもんか。
ぼくは、洗濯室にひとつだけ用意されている折りたたみ椅子からようやく立ち上がる。始めに倉庫室へ行くべきだとわかっていても、先にここへ来たのはいくつか理由もあった。
ひとつは洗濯機の空きを調べに来たということ。
もともと深夜の洗濯を思い立ったのは、洗濯室の混雑は日中よりむしろ早朝から登校前にかけてあるからでもある。
むろん、起床前に起き出し洗濯をするやつなんていやしない。
前日の夜から洗濯物を洗濯機に入れっぱなしにしておき、タイマーで早朝に動かすだけだ。
洗濯物の取り込みと乾燥室へ干すのは、起床後の洗顔タイムや登校前準備の時間を使う。ぼくは先に洗濯機の空きを確認しに来たというわけだ。
幸い、ふだんならほとんど埋まっているはずの洗濯機はいくつかカラになっていた。みんな入学式直前にどっと汚れた衣類をまとめ洗いしたということだろう。
これで心おきなく洗濯できる。
さて、ここへ来たもうひとつの理由は、
……先に倉庫室へ行くのはやっぱり怖かったんだ。
昨晩背後に聞いた壁の声はいまも耳にこびりついている。
心霊現象なんか信じていなくても、やっぱりあれは『怪異』のひとつだと思う。
なまじっか信じていないから、実際にそんなものに遭遇すると余計、恐怖心もあおられてしまうってことじゃないだろうか。
ふたたび萎えそうになる気持ちを現実に引き戻した。
……ほら、だって下着がないんだぜ? 短パンだってもうない。
となると、明日から、いやもうきょうから素肌の上に直接制服を着なくちゃならないじゃないか。
汗臭い古い衣類を着用する、というのはぼくの選択肢にはなかった。
第一不潔だし、襟元から立ち上ってくるその臭気に堪えて授業を受けたくもない。
かといって、素肌のまま着れば、今度はたちまちおろしたての制服を、どこか、クリーニングに出さなければならない。
二分後、重い足を引きずるようにして非常灯のみに照らされた寮の廊下を、とぼとぼ倉庫室へ向かっていた。
一歩、足を前に進めるたびに、ぼくの胸は不穏当に高鳴っていく。あ
れは錯覚だ、幻聴だと言い聞かせるように心中で念じながら歩いた。
――んん?
と、鼻孔にかすかな異臭を感じた。
なにかが焦げているような臭いだ。たばこでも吸ってるやつがいる?
……違う、どちらかというと、これは……
首をかしげ、なにげなく上方を見上げると、廊下の天井がうっすら、もやがかっているように見えた。
中学時代、校庭で落ち葉を集めてした、たき火の記憶を脳裏によみがえらせた。
――か、火事?
廊下の正面突き当たり、倉庫室の扉下から白煙の立ち登っているのを目視した。
つり下げ式引き戸下部の隙間から、常夜灯に照らされた煙はゆるゆると宙を優雅に浮遊している。
だれかに知らせなければ、と一瞬考えつつ、ぼくは扉へ駆け寄り、それを引き開けた。もうっと廊下に飛び出してくる白煙にむせかけながらも、室内に目を走らせる。
中はうっすらと明るい。
光源を探す。
――右!
最右列の荷物箱列の奥からゆらめく赤黄色の光が、立ち上る白煙と天井とに反映している。
火もとの程度を確認しようと近づいてみた。
荷物にはプラスチックなどの化学製品、金属製品も含まれているせいか、荷物箱から出ている炎は色とりどりで、赤や橙、黄色に混じり、緑色や、より高熱であることを示す青色まであった。
それらの光は合わさって虹色の光輝となり、危険な美しさを放っている。
やばい。こうなるともう、昨夜怒られたことを気になどしていられない。
アニメ画の幽霊のことも忘れ、ぼくは新たに生じた、より現実的な恐怖から逃れるために寮監を呼びに走った。
「すみません、夜分すみません!」
寮の一階に位置する宿直室は、一階ピロティのあるエントランスホール脇にあった。四階から階段を勢いよく駆け下りたため、ぼくの息はダンクンで走らされた直後のように上がった。
宿直室の扉をどんどん叩く音はエントランスホール中に大きく反響し、深夜の静けさを耳障りなリズムでかきみだす。
「やめろ、うるさい!」
怒声と共に扉が開き、灯りのついた室内から見慣れない寮監が顔を見せた。
「あ、あの!」
口は渇き、息継ぎもままならないので、ぼくは正しく情報を伝えきれずにいる。
「ちょっとまて」寮監は手に持ったメガネをかけた。
ショージだった。
「か、火事!」「なに?」「火事が」
頭の上で手をぐるぐる回し、天井を指さした。
「火事だと? どこだ!」「そ倉庫」「倉庫だと!」「は早く非常ベルを!」
すかさずショージに怒鳴られた。
「ばか、そんなことしたら消防署が来るだろうが!」
は? なに言ってるのこのひと?
再びぼくを見て、ショージは怖い顔をする。
「場所は? 四階の倉庫か? だな?」
「は、はい」
「火は? 大きいのか?」
「ま、まだ少ししか」
見ていない、と、先ほど見た室内の様子を思い出しながら答える。
「よし、それ持ってついてこい」そう指し示され、宿直室の扉脇に常備された赤い携帯消火器を持つ。
手にずっしり重い。
ショージは何も持たず、階段を勢いよく駆け上っていった。
やつの履くスリッパは、ぱたぱたと階段で音を立て、その音はどんどんぼくから遠ざかっていく。上階から、遠吠えのような声で叱責された。
「ばかもん、早く来い!」
ばか呼ばわりされたことに腹を立てている暇もなく、ぼくはショージを追いかけ、階段を上ることに全力を集中させた。
4
ようやく四階へたどり着くと、廊下の天井灯が既に点けられていた。
灯りのもとでは天井付近の、不気味な動きで緩やかに流れゆく白煙を、はっきり肉眼で捉えられる。
倉庫室の天井灯も点けられており、中から、しゅーっという消火剤噴霧の音が聞こえた。ショージの姿は荷物箱の列の陰になり、ここからは見えない。
背後の廊下で寮生のものと思われる声がしはじめた。
――「火事?」
――「火事だって? ……くせぇ!」
――「おいおまえら、黙って並べ!」
振り向いてみると知らず知らずに団訓の成果でも出ているのか、指導員の指示に口をつぐみ、寮生たちは素直に列を作り始めていた。
「指導員、避難誘導始め!」指導員リーダーの声が廊下へ響く。
「先生、みんな避難するそうです」
倉庫室の入り口に立ちつくしていたぼくは、なんとなくその声をそう中継し、部屋の右奥で消火器をしゅーしゅーいわせているショージへ呼びかけた。
おう、と短く答えたショージは、すぐに大声を出す。
「消火器! はやく!」
あわててショージの元へ行くと、手許の消火器を奪い取られるようにもぎ取られた。すかさず新たなしゅーしゅーと音を立て管の先から薬剤のもうもうとした白煙が噴出する。
ショージはごほごほと咳き込んだ。
「オマエも避難しろ!」
これ幸いと返事もそこそこにぼくはきびすを返した。
――なんだってこんなことに……まったく!
ああ、これでまた今夜も洗濯が出来ない……
ようやく自分の現況に気づき、不謹慎にもそんなことを考えてしまっていたぼくは煙のうっすらと漂う、倉庫内の虚空に目を泳がせた。
見るともなく左方の壁へ向けた視線は直後、左奥の壁に釘付けとなった。
――ルリムウ!
例のアニメ画の少女は、そこからぼくをじっと見ていた。
両腕を真下に降ろし、拳を作っている。
少しばかり肩を怒らせ、まるでその恰好はこちらをにらみつけ、威嚇しているようでもあった。
当然きのう、いや、その前の夜にも見たポーズではない。
火事によるショックのためか、不思議と心中から先ほどまでの恐怖感は消えていた。たぶんそんなことを感じる神経なんか、とっくに麻痺していたんじゃないかと思う。
どのくらいそうしていたんだろう。
気になったのは画のくせにぎらぎらと突き刺さるような目の光をしていた……ように感じたことだ。
――まてよ? ……怒ってる?
アニメに怒られるような筋合いはないから、画を見ているうちにだんだんぼくも腹が立ってきた。
だいいち、火事に遭遇したのだって元を正せば、こいつのせいだ。
「……おまえのせいじゃん」
「なんだ? まだいたのか!」
つぶやくように言ったつもりで思わぬ大声になっていたのか、消火活動中のショージが反応した。
声の方へ一瞬気を取られた隙に、ルリムウはさっと身を翻す。
気のせいなんかじゃない。
確かに真横を向いている。壁に描かれた画のはずなのに、彼女はぼくへ横顔を見せ、さっさと壁の表面に沿って走り去っていった。
……なんてこった。まったくアニメそのもののような動きをするじゃないか。
朝を迎えてすぐ、新一年生は一階ピロティに留め置かれ、本日の授業は中止になったと寮監から一方的に告げられた。
みなふくれたような顔となっていた。寝足りないからだけじゃない。
そりゃそうか。
ふだん、勉強なんてしたくもないと思ってたって、登校初日からそんな風に思うわけじゃない。むしろぼくらは早く学校が始まり、日中、寮以外の場所で過ごすことを渇望していたのに、その願いと期待とが同時に粉砕されれば、だれでも面白くない顔のひとつくらいはする。
朝のうちは規模の小ささから『ぼや』扱いになった火事について、当直の寮監ふたりとぼく、そして指導員以外の人間に秘匿されていた情報がどこからか漏れたらしく、それは『不審火』だったという噂となり、昼頃にはあっという間に新入生全員へ広がっていった。
学校から戻ってきた上級生を交えた昼食時には、不審火ってなんだ、放火のことだ、なんていうそこここでの物騒きわまりない会話の末、その一件は夕方までに上級生を含む全寮生の知るところになったってわけだ。
ぼくらの住む四階はどこもかしこも煙臭く、荷物箱の燃えた寮生には気の毒だったが、まあ、実質的被害は早期発見のおかげでその程度に済んだ。と同時に、だれが漏らしたのかは定かでないものの、ぼくが第一発見者だったということも知れ、日中他にやることの見つからないやつはなにか自分の知らない、できれば暇つぶしになるような情報を得ようと、こぞって寝室を訪ねてくる始末だった。
「犯人見た?」
「見てないらしい」
たまたまベッドが隣り合っていて、最初に出来た知り合いというだけなのに、京山はぼくの代わりにそんな返事をする。
「おまえがミドリ?」
「いや、本人はそこ」
「おまえ、だれ? なんでおまえが答えるの?」
中にはぼくの顔を知らずに来るやつもいるから、かえってややこしいことになる。
だいたい、このなすび面だってぼくの話をまともに理解しているかどうか。
「ミドリが第一発見者なんだって? 放火なんだろ? 犯人見た?」
「……いや、見てない」
「ふーん」
京山としたやりとりはたったこれだけだ。
ほかのやつのように、火事の様子を根掘り葉掘り聞いてきたり、なぜ火事に気づいたのかなんていう、本質的なことを疑問に思ったりしないだけマシだが、芸能人のマネージャーのようなことはやめてほしい。
「マッチが見つかったそうだ!」
三添さんがそう言って寝室に駆け込んできた。妙に頬も紅潮していて、手に『勝訴』と書いてある紙を持たせたらぴったり似合うような勢いだった。朝からずっと部屋へ閉じこめられ、退屈していたぼくらは新情報の出所へ一斉に群がる。
「やっぱり放火か!」「だれやねん! あほか!」京山と吉岡が同時に叫ぶ。
「今どきマッチなんて」志田はうんざりしたように眉をひそめた。
「トリックにはぴったりなんだよ、マッチは。発火を遅延させるんだ」
高いところから素崎の間延びしたような声もする。
こいつ、ミステリーファンなのか?
「なぜ消防署を呼ばないんですか?」
そんな中、ひとりまともな反応をしたのは甲高い声を出した副島だった。三添さんはこともなげに答える。
「迷惑かけるだろ。消防署に」
「は?」これはぼくだ。
「寮の落ち度で静かな遣抻恫特区を騒がすことはない……ということだろうな。学校はそう考えるんだ」
「かぁっ! フタしよんのや、ここも同じやで。不祥事になるゆうて、みんなごまかすねん」
吉岡の大声にみな怯えたような顔となった。
5
――大魔女ジャクセアは魔女として濡れ衣を着せられ火刑に処された人間の魂を、わらで出来た人形に封じ込め、魔道具あるいは自分の召使いとして使役していた。
ときは中世暗黒時代。自分を火あぶりにした人間たちへの怨念を持つ『わら奴隷』のひとりは、ある日ジャクセアの秘伝を盗み出す。
《自分を火あぶりにした人間たちを魔の力にて焼き滅ぼすこと》
その一念により、『わら奴隷』は自ら魔女へと昇格する。
ジャクセアは危険な秘術を手に入れた『わら奴隷』を分解すべく戦いを挑むが、せめぎ合うふたりの魔力により時空は歪み、ジャクセアの一撃を受けばらばらになった『わら奴隷』はその彼方へ吹き飛ばされてしまう。
『彼女』が次に意識を取り戻したとき、そこは現代の日本だった。
京山に借りた雑誌の『魔女高生ルリムウ』特集には冒頭そう書いてあった。
ぼくは洗濯室にいる。
もちろん洗濯中だ。作業の合間にこの雑誌を読んでいる。
立ち入り禁止となった倉庫室へ洗剤を取りに行けず、結局、志田に借りたのだった。一回分には充分な量を快く小分けしてくれた。
もっと早くこうすれば良かったと思う。京山にはほかになにも借りたくない。この本だけで充分だ。
それにしてもサイケデリックな色調のページ構成だからか、目はあちこちに移っても、この設定は荒唐無稽すぎて自分にはついて行けそうもない。が、我慢して読み進めた。
――ルリムウは――
おおっと。……いきなりここで個人名。
これまで『わら奴隷』とだけあり、文章的に唐突感はぬぐえない。
ひいき目に考えれば、こういったことをみな知っているファン向けに書かれてある、ということなんだろう。
目を次の文節に移す。
――ルリムウは魔力を使い、人間社会にとけ込みながら、ばらばらになった自分の他の身体を取り戻そうとする。
《三つに分かれた自分の肉体をひとつに集め、ふたたびあの時代へと戻る》
その思いを秘めながらも、私立『ロマンサンチ学園』の女生徒としてかりそめの生活を送るルリムウは、そこで出会った脳天気な友人たちや、いいかげんな教師たちと出会い――
ロマンサンチ……学園とか、脳天気な友人……いいかげんな教師とか……どこかで見たような聞いたような。
――平和でお気楽な学園生活を送る――
がは!
字面だけならすらすら読める。
が、読んだことばの情景を思い浮かべるには、ぼくの想像力はまだまだ足りないようだった。
――やがて学園のまわりで起こる怪異に、大魔女ジャクセアの影を感じたルリムウは、新たな世界で知り合った人々を守るため、とうとう
どうせならルビとの整合性をとってほしい。
ジュッカフォーゼなんて、微妙にいらっとくるような造語だし。
――魔女高生となったルリムウは、怪異の数々を討ち滅ぼしていく。激しい戦いの日々は続き、やがてルリムウは失われた肉体のひとつと出会う。彼女はルームウと名乗り、強大な魔力でルウムウを苦しめるのであった――
誤字。
言いにくいもんな。ルリムウ、ルリムム、ルルムウ、ルイムウ……舌かみそう。
――しかし、ルリムウの危機はまだ始まったばかりだった――
打ち切りになった漫画の最終回最終コマに、こんな文章のあるような。
――ルームウを撃破し、新たな肉体として取り込んだ彼女の前に、ジャクセアの魔力で操られた最後の肉体であるエロームウが現れ、ロマンサンチ学園にクラスメートとして入学してくる。ルームウの力を合わせても適わないほどの実力に、苦戦するルリムウ。だが、すべては勘違いだった――
は?
もう一度見てみた。
――すべては勘違いだった――
……なんだこの全否定。
「熱心だな」
雑誌から目を上げると穂村がそこにいた。
「なに、それ?」
「え? あ」アニメ雑誌を『熱心に』読んでいると思われるのはいやだったので、答えるかどうか迷っているうち、穂村は身体を曲げて雑誌の表紙をななめ下からのぞき込んだ。
「へー。そういう趣味か」
「いや、ほんとは違うんだけどね」
「なんだその全否定」
穂村は苦笑いしながら洗濯物の入っているらしいカゴを床に降ろし、空いた洗濯機を探す。
「別にアニメファンだからって変な目で見たりしねえぜ」
「アニメファンじゃないよ」
「いいって。知り合いにもいるから気にしないって」
すべて了解しているとでも言わんばかりの言いぐさだ。
いくら否認したところで、この雑誌を手にしていたばっかりに、ここでその先入観を崩すのは容易ではないだろう。
「ああ、ルリムウか。最近人気だよな」
空いている洗濯機に荷物を放り込んだ穂村は、身を乗り出しぼくの手元をのぞき込んだ。
「あれ、知ってるの?」
「面白いらしいな。俺は見たことないけど」
へー。面白いのか? この設定でか。
「火を使うんだよな、確か。……そういや、放火の第一発見者だって?」
実は、その件で穂村が訪ねてこないのを不思議に思っていた。
期待してたわけじゃない。いきなり演劇部へ誘ってくるくらいだし面識もあるし、来るかもな程度に思っていただけだけど。
「まあ、そうなるらしいね。……火を使うって?」
「なにが?」
「この子」
アニメ番組の特集だから、当然各キャラクターの紹介も載っている。
身長何センチ、とか、体重、スリーサイズなど、いわゆるスペックと呼ばれる身体的特徴に加え、好みの食べものとか得意な学科とか、まるで現実のアイドルのように作られた設定が書いてあった。
くだんのルリムウの欄にも細かくそれらの情報が、ピンク色の太い罫線で囲まれ記載されていて、身長162センチ、体重……イメージカラーはモスグリーン、チョコレートが好き、とか、興味のない人間から見ると、まったくどうでもいい情報に思える。しかし、その文字群の一角にぼくの目は吸い付けられていた。
――必殺技 : ヘブンズファイア、ファイア・エチュード、レインボーファイア
――特技 : 火をあやつる。
――起こした事件 : 校舎爆破、花壇全焼、放火。
放火!
倉庫室で見た虹色に息づく炎たちを思い起こした。
あれは、魔女の炎だったのかも。
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