第十章 歩桜高校二次元部
1
――いちど安心すると、人間ってすべての警戒心が働かなくなるもんだ。
特にいまはそうだ。なにせ男子寮最強、伝説の人物が一緒にいる。
もう安全だよ。
放火犯? よせよ、寮じゃ一番の古株寮監だぜ、なにを根拠に……
意識では目前の現実を必死に否定しようとして、いままで知り得た情報を総動員させていた。それに対し、ぼくの肉体は現実を受け入れ、一刻も早く身の危険を知らせようと、痺れにも似た感覚を全身に送っていた。
ミボケツは片手でいきなりぼくの喉をつかむ。声すら出せず、息は詰まる。
――こっ、これって!
相撲の技のひとつだという記憶はあるのに、名前は出てこない。
やつは怪力にまかせ、そのままぼくを上へ持ち上げた。たちまち喉に全体重がかかる。たまらず喉の手に自分の両手で力一杯つかまり、足をばたばた動かす……というより、身体は自然にそんな反応をとってしまう。
ぐるりと半回転すると、ミボケツはそのまま少しだけ歩き、ぼくを例の壁へ押しつけた。
――か、壁に……
冷蔵庫のドアに張り手で飛ばした人間の人型を作ったというまことしやかな話の如く、今度は腕の力だけでぼくを壁にめり込ませようとでもするのか。
喉にかかる圧力は強くなり、本当に窒息寸前、このまま押され続ければ、壁を突き破ってそのまま女子寮の中庭に突入するのじゃないかと思った。
それはそれで伝説に残る出来事だろうけど、自分はその主人公になりたくない。
押しつけられている背中の一部は、もう壁の中にめり込んでいるような感じすらある。喉奥から舌がせり上がってくるのと同時に、突然、本当の恐怖を感じた。しかし時すでに遅く、抵抗する力は身体からとっくに抜け出ていて、たぶん死を待つばかりという状況だった。
――こんなところで……理由も分からずミボケツに殺されるのか
「手を放しなさい!」
だれかの声を聞いた気がした。死ぬとき、だれの顔を思い浮かべるんだろうという疑問に答えの出る寸前だった。
万力のような手の力から解放されるとぼくは喉を押さえ、激しく咳き込む。
――喉輪だ
相撲の一手である技の名前を、やっと思い出せた。
「シボルスキ。やっと見つけた」
――あ、どこかで聞いた声
「フロギー、久しぶりだな」
驚いたことに、なまらず、聞き取りやすい日本語でミボケツは答えた。
「ミドリリョウヤくん、大丈夫?」
――ああ、やっぱり緑谷先生だ
「せ、せんせえ……」
そう弱々しく無事を伝えたつもりのぼくは、酸欠状態だった脳の回復により、少しずつ判断力を取り戻しつつあった。
まず、自分の異変に気づく。
両足は宙に浮いていた。
身体の後ろ半分程度が壁にめり込み、そうなっていると知った。
背中はすっかり壁に固定され、胸部、腹部、腰部は前半分が壁表面に出ているものの、自由に動かせるのは壁から突きだしている首と両手両足部分だけだった。
壁の明滅の間隔はどんどん短くなっていく。ついに肉眼で捉えられる速さを超え、今度は壁全体が薄明るく発光し始める。その光はもう中庭の全域を薄く照らし出すほど明るい。
ミボケツと緑谷先生の姿を肉眼ではっきり捉えられる。
彼女は昼間見たのと同じ恰好のままだった。
「ジェネレータを見つけたのね」
緑谷先生は低く声を出す。
「トラヌタジアス波反応のおかげだな」
「測定器だけで見つけるなんて……」
「五年かかったよ」
「うまい潜入だったわ。顔まで変えてね。どこからどう見ても生粋の東北人みたい」
「そっちはすぐにわかった。……緑谷瑠栄花。ホントにカエル好きな女だ」
――カエル?
どちらかと言えばひょうきんさを醸し出すときに用いられることの多いあの生物と、緑谷先生のクール・ビューティーなイメージとのギャップに戸惑う。
「けろけろけろっぴはまだ好きなのか?」
「おあいにく……いまはケロリンよ」
――緑谷瑠栄花、瑠栄花、瑠栄か、瑠えか、るえか……ルエカ……カエル……
変換までの思考工程もいくつか必要で、ダジャレには向かない名前だ。
「シボルスキ、ジェネレータを動かしてもムダだわ。トラヌタジアス波は目安に過ぎない。まだこの技術は完成していないの!」
聞いていてもさっぱり分からない会話だ。トラヌタ……ヌキ波?
「見解の相違だ。見ろ、こいつを」
そう言って自分の背後にいるぼくを指し示す。
「もう逃げられないわ」
「逃げる必要はない。本国への報告は完了した。捕まってもすぐ釈放されるさ」
えーと。三保先生って……外国人?
「とにかく、ジェネレータを止めるのよ!」
緑谷先生は壁際に置かれている機械めがけ走り寄ろうとした。ぴしっと空気のはじけるような音と共に、その足もとから白煙が上がる。
「そこにいてもらおう」ミボケツは手に細長い筒状のものを持っていた。なにかの武器らしい。
「シボルスキ、早く止めないと暴走してしまう」
「いや、順調だ。電送分解の変異過程をこの目で確かめないとな……」
「その子から手を放しなさい!」
ミボケツは正面の緑谷先生を見据えながら、背後のぼくの胸元に手のひらをつけ、ぐいと力を込めた。
「ぐぅ」「御鳥くん!」
それほど強い力ではないのに、息を詰まらせ、ぼくはさらに壁の中へ押し込まれてしまった。押し込まれるのと同時に、壁の光はまるでスポットライトのような光量へ増大し、周囲はまるで真昼のような明るさになる。想定外の現象だったのか、ミボケツは一瞬壁側に首をかしげ、目を細めたようだった。
「ふ!」
それを好機と捉えたか、口から呼気を飛ばしつつ距離を瞬時につめた緑谷先生は、その手から武器を蹴り飛ばした。
「フロギー。……英語の教師じゃなかったか?」
続く蹴りを身体のひねりでかわし、先生との距離をとったミボケツは、蹴りの命中した手首をもう一方の手でもみながら、うなるようにそううそぶいた。
軽口には反応せず、緑谷先生……いや、いまやぼくには正体不明の人物となった謎の女性『フロギー』は、再び間合いをつめ、鋭い蹴りを放つ。ミボケツ……シボルスキは、それを平手で受け止め、連続で放たれるキックをすべてもう片方の手でいなした。
――うわ、すげぇや!
心中に思わず賛辞の言葉が湧き上がる。いなしに若干身体のまわしも遅れたのか『フロギー』緑谷の腹部へ、シボルスキの強烈な平手突きが決まった。
「ぐ!」
まわし蹴りを放つ途中の姿勢を保ったまま、彼女は数メートルも宙を飛ばされ、地面に激突した。
「……相撲部らしく、張り手がうまいじゃない」
腹部を片手で押さえ、息の詰まったような声を絞り出しつつ、なんとか立ち上がる。
「ショービジネスの技など」
シボルスキは平然と国辱的な発言をする。って、このひと日本国民じゃないっけ。
「……日本の国技をなめてくれるわね」
彼女は日本人のようだった。
2
闘争の始まるきっかけとなった壁の光はすぐにもとのように収まり、いまは冬の明け方くらいの薄明で安定している。
人間業とは思えないほどレベルの高い闘技に魅せられ、すっかり自分のことを忘れていたぼくは、ようやく現状認識をしなければということに思い至った。
先ほど押し込まれたので、さらに深く壁にめり込み、上半身は肩口まで壁に埋まっている。壁から突き出た手足や首は壁と直角方向に、思い切り前に突きだしていて、肘と膝を曲げることしかできない。首もまるで枷をはめられたようにわずかにしか動かせなかった。
めり込んだ身体の状態を確認しようと、動かない首に全力をこめ下に向け、眼球もこれ以上ないほど下に向けて自分の身体を見た。
――あ、あれ?
薄明に照らされたぼくの身体は壁の画になっていた。
壁の中にめりこんでいるのではなく、画のように見えても、やはりそれは自分の制服で、身体の前半分はまるで平面に張り付き、定着してしまったように見えた。
――に二次元人?
違う。
これがルリムウの……菜津さんの秘密なんだろう。
どういう原理か分からないけれど、生きたまま平面化し、自由に壁を動き回る。菜津さんはこうやって壁の住人となっていたのだ。
「あ、ぐっ」
痛みに耐えるような短い叫びに、声の方へ目を上げると、緑谷先生はミボケツに追い込まれていた。速度はそれほどでもないのに、やつの張り手が防御する彼女の手や肘に当たるたび、どすんと重そうな音を立てる。一撃の威力は半端無く強いらしい。
苦痛に歪む先生の表情からそう類推した。
――あいつ国技使ってるじゃん……
先生はどんどん後ろに下がり、ぼくの視界から消えそうになった。
横目になんとかふたりの姿を捉え続けるものの、彼女はとうとう追い詰められてしまった。
そこは光る壁と円形寮舎の内壁の接点で、コーナー状の袋小路になっていた。
「女子寮監として潜入しておくべきだったなフロギー。それなら毎日トレーニングをしても怪しまれることはない。英語教師じゃ体力と技の維持は難しい」
勝利を確信し、余裕でも感じたのか、ミボケツはぺらぺらしゃべった。
「寮監じゃいい車に乗れないでしょ」
そのことばを全て聞かず、ミボケツは広げていた両手を先生めがけ打ち出した。
彼女は素早くその手をすり抜け、内側からかつぐような恰好に相手のひじを抱え、同時に脇の下に身体を潜り込ませ腰を落とす。
「ぐお!」
猛獣のようにうなり声を上げ、ミボケツはその手をふりほどこうと彼女の横腹に膝蹴りを放つが、先生はもう片方の手で攻撃を払いつつ、そのまま足を内側から取ると、
「んでぇえええええぃいいっ!」
クール・ビューティーにはあるまじき、コブシのきいた、はしたない大声を出しながら、肉付きの良い、重そうなミボケツの体躯をたすき掛けのようにして肩に抱えあげた!
「ああああああああああ!」
絶叫しながら、緑谷先生は背後に思い切り反り返る。
ミボケツは頭頂部から光る壁にものすごい勢いで激突した。
勝負あり!
歩桜高校最強教師決定戦は、完全に決着したのだった。
擦れたり破れたりしてぼろぼろになった服をまとい、ほこりと汗とに全身黒く汚れた緑谷先生は、よろよろとぼくのもとへ近づいてきた。
ものすごく荒い息をしている。
「せ、せんせぇえ」
毛髪を振り乱した先生のその恰好のあまりの悲惨さに、なぜかぼくが泣きそうになった。
「……撞木反り」
「え?」また意味不明のことを……
「大相撲四十八手の一。……反り技だ。国技をなめるな、てこと」
凄惨な笑みを浮かべる。直後、脇腹を押さえ、苦しそうにうめいた。
「だ、大丈夫ですか」
「肋骨少し、いまの技で、……くっ、こ腰もいかれそう」
ぼくの目前で先生はゆっくり、しかしがっくりと地面に膝をついた。
「時間がない……さっきの発光、ジェネレータに相当の負荷をかけたみたい」
先生の視線を追い、ぼくは真横の壁際を横目に見る。
ミボケツはぼくと同じように壁にめり込んでいた。
違うのは頭からずっぽりとはまり、壁の上方へすねのあたりから前方に、にゅっと二本の足だけ出ていることだ。
見ていると時々足首の先はくるくると動く。ぼく同様の状態であれば、少なくとも死んでいるのではなさそうだった。正面から見ると、さぞ愉快な画になっているんじゃないだろうか。
こいつが頭から飛び込んだ瞬間、壁はふたたびあの強烈な光を放ち、その後、壁伝いにどこかからずん、と低い衝撃の来るのを感じた。
壁の光はそこから徐々に強さを失ったようで、あたりはだいぶ薄暗くなっていた。
「まずきみをそこから出さなきゃ」
緑谷先生は、壁に手をついてぼくの手を握る。
ふわりとした感触はそのまま、しかし、その力はだいぶ弱っているようだった。荒い息こそ落ち着いた様子ながら、呼吸は尋常な感じではなかった。
「外からは無理か……」
こちらの気もくじかれるようなことばを吐くと、彼女は壁にもたれかかり、ずるずると沈み込む。その場所で意識を失ったように動かなくなった。
「せっせんせい! 緑谷先生!」
必死に呼びかけ叫んだ。動く気配すらない。
もがけども、ぼくの身体は壁から出ている部位以外、微動だにしなかった。
壁の花という比喩もあるけど、いまのぼくの状態は現実のそれだった。焦燥感に支配され、先生へ呼びかけるのと同時に、誰かへ助けを呼び続けた。これだけ大声で叫べば、トイレに起き出した寮生ひとりくらい、あるいは夜番の寮監などに届くんじゃないかと考えたのだった。
四階、一年生。
三階、二年生。
二階、三年生。
一階はどうか。
叫びながら目まぐるしく中庭に面した窓から窓へ視点を変えていく。
――あ!
三階の窓に明かりが点いた!
「おっ、おおーい!」
他の階の窓も次々点灯し始める。そのとき、壁の表面に強烈な火花が走った。
――わ!
壁を伝い、電撃とは違う、なにか独特の衝撃に、壁から突き出ているぼくの四肢はびくんと反応した。どこかでぼん、となにかの爆発するような音を聞く。
一階だ。横目で見る真横の窓にオレンジ色の光を見る。
――火? 炎! うっ!
壁に火花。
また衝撃。
ぼん、ぼん、ぼん。
今度は階上の方から連続的に爆発音が響き、がしゃんと中庭に面した窓ガラスが割れた。
――四階か!
廊下に面した四階の窓から、夜目にも分かる黒炎と白煙が混じり合い、もくもくと吹き出してきた。
あちこちから寮生のものらしき野太い悲鳴や怒声も聞こえた。
すべての炎は、ぼくのはまりこんでいるこの壁の延長線上から発生したようで、半円の直線部――つまり女子寮との境部分――から、ドーナツの曲線部分――つまり廊下を含む寮生の居室部分――へあっという間に燃え広がっていった。
ぼくにはもうどうすることもできなかった。
――せめて身体が自由なら……
もっと早く寮全体に警告できたのに! ようやく異変を悟ったのか、一階部分の灯りは次々と点灯していく。
そのとき身体の真横に異物感を覚えた。
「了くん!」
ヘッドフォンから漏れ聞こえるようなかすれた音声が、ぼくの耳元に聞こえた。
ようやく登場か。おそいよ!
3
「ちょっと待って、いまこちらに引っ張るから」
声の主は壁の中でなにかをしているようだ。
菜津さんかどうかは判別不能。
ぼくの首は横を向けないし、目は普通の人間なら、ふだんでも直接自分の首もとを見られないものだし。
異物感はなんというか、刃物か、ものすごく薄い物差しの側面をぴたりと身体の真横に当てられているような、うまく表現しにくい、これまで感じたことのないものだった。
「いままでなにしてたんですか!」
声を菜津さんのものだと仮定し、思わず、愚痴めいたことを言ってしまう。
「こっちも大変だったの」ぐい、と引っ張られる。
「あう!」
「ガマンしててね」
「うわやめて!」
そう叫ぶのと、完全に壁に引き込まれるのとは同時だった。
最初の違和感は聴覚に表れた。絶えず流れる、ごぉ、という耳鳴りのような音を背景に、すべての音は同じレベルだし、上下左右全方向から聞こえてくる。
すごく耳障りだ。
次に視覚。真正面を向いたまま真後ろに引き込まれる際、中庭の風景は何枚も紗を重ねたようにどんどんぼやけ、暗くなっていき、壁へ完全に引き込まれたときには視界の周辺は真っ暗で、中心部に残る視界全体の二分の一ほどの面積から、ぼやけた外の風景を見られるだけになった。横を向き、ぼくは絶句した。なにも見えなくなる。
ていうか、なにもない。
しかし、一番違和感を感じるのは重力の感覚だった。ぼくらはふだんあまり意識していないけど、重力は下向きだ。
でも平面世界での重力は背面方向にあり、いわば床へ寝転がっているような感じになる。背面になにかの張り付いているような、全体重がそこにかかっているような……奇妙な感触なのに、上下左右への移動は自由にできる。
イメージ的には小さなキャスターのついた板に横たわり、がらがらと部屋を移動する、という感覚が一番近いのかも知れない。
「うまくいったわよ」
全方向から音の聞こえてくる状態に慣れず、ぼくはキョロキョロとあたりを見回す。視覚情報は壁面の表面方向だけに発生し、あとは虚無のように真っ暗なので、なんとか自分の向いている方向を判別できるだけで、声の主はどこにいるのか分からない。
――あっ!
身体の中をなにかが通り抜けていく。
「ごめんなさい、横切っちゃった」
「あ、うん」
察するに、ぼくの前か後ろを通り過ぎたってことか。ためしに、自分の手を自分の頬に当ててみる。
「うわ!」
目視のできない手と頬が、細胞ごとなのかそれとも体組織ごとなのか、癒着し、融合したような感覚。
「なにしてるの?」
「手を頬に……」
「やるやる! 初めての時ってみんなそんなコトするわよね」
こんなとき、なにを気楽な。
「な菜津……御鳥……」
壁の外の世界から、聞き取りにくい声でぼくらを呼ぶ声があった。壁の外へ視線を移すと、ぼやけて見にくいながら、緑谷先生は壁のすぐ外に横たわり、こちらを見ていた。
「ジェネレータが……暴走したらしい。放電で……私は……まだ動けない……リセットして……それから」
声はぶっつりと切れてしまった。また気絶してしまったらしい。
「聞いた?」
「え、うん」
「手伝って」
「で、でもなにがなんだか」
「こっち!」
手になにかの癒着した感覚を覚える。そのまま左方へ引っ張られた。
「うあ」
「大丈夫、手を握っただけ」
なるほど、外から見ると、手を握った画になっているのかもしれない。
ぼくは彼女と手を融合させたまま、引かれる方向へ素直についていった。
「壁に入ったばかりで慣れないのに、ごめんね」
たしかにこれは慣れない。ふつうに走っているだけなのにぼくの左足と右足は、それぞれ交差するたび、瞬間的に融合したり切り離されたりするような触感を覚えていた。特に苦労するのは、平面同士の交差する角を通り過ぎるときだ。むりやり身体を折り曲げられ幅の狭い隙間に身体を押し入れられるように思えた。
苦痛ではないものの、できればあまり体感したくない。
「うー、また壁の隅っこですか?」
そのぼやきには答えず、彼女はどこかの壁面を上がったり下がったりと、平面世界を自由に走り抜けているようだ。
「菜津さんはどうやって自分の位置を?」
「時々、壁の外を見るのよ。風景を覚えているの」なんだ、そんな簡単なことだったのか。
走りながらぼくも顔を壁の方へ向けて外を見た。
「ひ!」いきなり小動物の姿が目に飛び込んでくる。ネズミだ。
「いまは壁の裏を進んでいるから」
ふつうの暮らしでは決して目にしない、したくない光景を次々目にする。
壁の裏がこれほど不潔で荒廃しているものだとは。
「まだ平面の世界に入ったばかりで視覚がついていってないと思うけど、慣れればもう少しはっきり見えるようになるわ」
いい、それはいい。見たくないです、こんなとこ。
急に周囲から熱を感じ始めた。
「熱い!」
菜津さんは悲鳴を上げた。
すでに火の回っている場所へ来てしまったのだった。
「ここを通れないなんて……迂回します!」
いつもの部長らしく即決即断だ。
4
ぼくらは来た道を少し戻り、新しいルートで目的地を目指す。……といっても、ぼくはそこがどこにあるのか分からない。菜津さんに聞いてみた。
「先生の言うその、ジェネレータというのはどこに?」
「正確な場所は分からないの……壁伝いにしか行ったことないから。でも、位置的には中央の壁の地下らしいわね」
あの壁の地下にあるのか。
そうだったな、ここは昔私設の研究所だったんだ。
「じゃ、あの壁伝いでまっすぐ下へ向かえば良かったのに」
「そういうわけにもいかない。壁は地面に埋まってるじゃない」
言われていることが分からない。
「意味が分かりません」
「平面だからってどこにでも行けるわけじゃないの」
壁を走りながらの説明によると、平面状態で移動できるのは、基本的に平滑な表面を持つ壁だけで、それ以外の平面に入るためには多少、覚悟も必要なのだそうだ。
「覚悟?」
「絨毯はまずダメ。細かくて入り込めない。それからクロス張りの壁面なんか肌がちりちりして長時間いられない」
つまり、絨毯は一見フラットな平面に見えても、無数の毛足ひとつひとつは細かな平面を持つため、身体がその平面の数だけ折り曲げられ、とても入っていく気になれないのだそうだ。
壁面の段差や角を通るだけでもあれだけ圧迫感を体感するのだから、それが毛足の本数分になるのだとすると、想像を絶する感覚となるに違いない。
クロス張りも表面はデコボコしていて、それで肌に影響もあるのだろう。
「寮の……いえ、たぶんどんな建物でも、中は意外に平面って連続していないものなの。壁はあっても柱が飛び出していたり、クロス張りもそうだけど、パイプやコンセントなんかも危険。壁紙の張り方がいい加減だと、平面同士の接合に穴が空いていて、そこを通るととても苦しいわ」
「じゃあ、保健室のブランケットは? 図書室のカーテンとかも壁から離れてましたよね? 壁伝いが基本なら、あれはどうしたんです?」
「ああ、あれ……」
彼女は息継ぎしたように少しだけ間をとった。
「原理は実はよくわからないわ。でも、感覚で言うと、そうねえ」
首をかしげたそぶりを見ているわけでもないのに、不思議と菜津さんはそんな仕草をしているとわかる。人間の感覚ってひょっとすると、次元を超えて働くのかも。
「変なたとえだけど、ほら、よく飛び移ったりするじゃない。木とかを」
またまたいったい何の話ですか。
「なに? 木?」
「だから、あれよ! ……ほら、あの、小さくて、動物園とかでよく見る」
木に飛び移ったりする小さい動物……
「サル?」
「私サルじゃないわ!」
だからぁ、たとえなんでしょ、それは。
「思い出した、モモンガ!」モモンガならいいのか。
「あんなふうに木から飛び降りるような感じで、ジャンプすると離れた平面に飛び移れる」
「へえぇ……」それ以外、返事のしようもないな。
「保健室では寮監に見つからないように、必死で飛び込んだの。壁にぴったりベッドが設置してて本当に助かった。もう少し離れていたら平面に定着する前に実体化して……図書室のカーテンもそう。でも、顔や体中ちくちくして……あんな経験、もうまっぴら」
なるほど、平面人生も楽じゃないってことだね。
「来たわ、たぶんここを過ぎると……」
壁の表面方向を見ると、あまり見覚えのない雰囲気の部屋だった。
非常灯の暗さと視界の悪いことを加味しても、見たところ室内に調度ひとつない。
「寮の地下。ここに来るまでが結構大変」
道中の苦労を思い返し、その意見に素直に同意した。
ぼくらはドアの脇から、身体全体をこじいれるようにして中へ入ろうとする。
扉の周囲を囲む押縁を越えて進むのに、一瞬だけど、かなりの力と、身体を細かく折り曲げられる感覚に堪える忍耐心も要求された。
やっと中へ入ってみると、室内はうっすら明るく、常時点灯の天井照明で照らされているらしい。壁面はブルーグレー。例の壁と同質であることは一目瞭然だ。
部屋の中心に、ミボケツが壁の手前に設置していたのと同形の機械が置いてある。大きさはさっきのものよりも桁違いに大きい。それは放電しつつ、うなり声のようなモーター音に似た音をたて、作動していた。
部屋の温度はかなり上昇しているようだ。
平面人間のぼくにも壁の温かさを通して室内の気温の高さが実感できた。
「あれ。……女子寮側にあるのと同系種」
「女子寮にもあんなものが?」
「ちゃんと女の子用に赤くペイントしてあるけど」
ちがーう!
室内の壁面を移動し、別の面へ移ったぼくらは、ジェネレータの端から出ているチューブのような太い線が、部屋の隅に向かって伸びているのを発見した。先端は壁の中へ引き込まれており、おそらく、その線を通してなにかのエネルギーを中庭の壁へ送り込んでいるのだと想像した。
「あのチューブを引っこ抜けばいいのね」
菜津さんは対処法を詳しく知らないようだった。
「先生はリセットって言ってたんじゃ?」
「そうだっけ。どうしよう?」
「ぼくに聞かれても」
「冗談よ、あの上のカバーにある赤いボタン。あれを押せば完了」
ったく、冗談を言ってる場合か。
「どうしますか?」
「なにを?」
「ぼくらは壁にいます」
「出ればいいのよ」そう言って菜津さんは壁から出始めた。音こそしなかったが、ぺりぺりと表面の剥がれるような、そんな音のするような出方だ。
「あ、その恰好……」
ワインレッドの衣裳。彼女は部室の衣裳部屋にかけてあった魔女高生ルリムウ第三の変化、エロームウの姿になっていた。
ただ、目前にいるエロームウは雑誌のグラフィックとは微妙に違っている。
衣裳はほぼ完璧なのに、腰に紫色の妙に膨らんだ革ベルトをしている。
顔もこうしてみると、エロームウには似ても似つかなかった。黒く縁取った目の大きなアニメ顔をしていて、リップの毒々しい色は暗い部屋でもはっきりわかる。もちろん、見知った菜津さんの顔でもない。
「袖を通したのは初めて」
そう言いつつ彼女は顔につけたアニメ顔のマスクを外した。
そうか、京山の言っていたなんとかラバーマスクか。
「……こんな時に、なんでコスプレを?」率直に質問する。
「だれかに目撃されても、幻覚だった、で済むじゃない。沓子が持ってきてたから着たの」
わざわざ部室までとりに行ったんじゃないのか。
「でも、あっつい、この部屋」
言いつつ、彼女はうなり声を上げている機械に近づき、赤いボタンを押した。
瞬間、電力の供給でも止められたのか、部屋は真っ暗になった。
「菜津さん!」
「大丈夫。ここだけ消えるの」暗闇から返事をもらう。
すぐに部屋の灯りは復帰し、またもとのような明るさに戻った。外部のどこからからずーん、という地響きのような音がする。
「これだけは気をつかうわ。この音、男子寮のひとに聞こえるんじゃないかって心配で」
ぼくの方を見て、彼女は笑みを浮かべた。
「へー、了くん。平面になるとそんな風なんだ」
じろじろと眺められる。ちょっと世間話はあと。外は火事なんだぞ。
「早く戻りましょう。緑谷先生だってあのままじゃ」
「はいはい、了くん先生心配だもんねえ」
菜津さんは内部にたまった汗らしき雫を、下げているポシェットから取り出したタオル地のハンカチでぬぐうとマスクをかぶり直した。
「なんでそんなものかぶるんですか」
「今回はメイクの時間がなかったの。私は素顔にメイク派なんだけど。沓子はよりアニメそっくりにコスプレしたい人だから、こういうのをかぶりたいのよね。基本的にこういうのは陰影のディテールが飛んじゃうから、これは、ちょっと誇張して作ってあるみたい」
なるほど、それでこのマスクは目元を黒々と縁取ったり、口紅の面積が小さくなってたりするのか。
ん? ……まてよ。
「あの、ルリムウは菜津さんだけじゃないんですか?」
菜津さんはきょとんとした表情になる。
「ルリムウって三人キャラクターがいるじゃない。私たちにぴったりでしょ?」
「ってことは、あの、沓子先輩……真奈先輩も含めて?」
意地悪そうに口の端を上げ、彼女は回答した。
「へへえ、でも誰がいつ、どのキャラで了くんに会ったかは、まだナイショ」
――がーん……平面人は、菜津さんひとりじゃなかった。
「おかしいわ」
「……ん?」ぼく近くの壁際で壁面に手のひらを当て、ぐいぐいと押す。
「壁に入れない……」そうつぶやいた。
5
それから何度も壁入りを試行してみたものの、菜津さんは壁の画に戻れなかった。
「なんでよ、だっていつもは……」
困惑する様子の彼女はぼくを見て、不安げに言う。
「もう一度リセットしてみたら?」
ぼくの提案に彼女は首を振った。頭からふたたびラバーマスクを外す。
「だめ、リセットボタンのランプが消えてる。女子寮の方でやらないと」
なんだかぼくに分からない仕組みらしい。
「だけど、試してみたらうまくいくかも……」
ジェネレータへ近づき、菜津さんは赤いボタンを何度も押した。カチカチと音のするだけで、さっきのようなことは起きない。
「やっぱりだめ」
「そこを使うしかないか」こうなれば部屋のドアから外に出るしかない。
「菜津さん!」
「なに?」
「どうやって出るの」
壁から出るにはちょっとしたコツも必要だった。別に精神の力とかじゃないけど、出るつもりにならないと決して出られない。また、入るのもそうだけど、出るためにはこのブルーグレーの壁面でないとならないらしい。
「焦らないで、リラックスして」
「こんな状況じゃ無理です」
「いいから、ゆっくり。出てきたら引っ張ってあげるから」
「お、ね、が……い、しまあっ……す!」
なんとなくぱりぱりとした感覚を身体の縁(?)に感じ、チャンスだと思ったぼくは力を入れて起き上がろうとした。
キャスター付きの板から身体を起こすような、そういうイメージだ。
「うまいうまい! ……やったあぁ!」
菜津さんの声援に支えられ、なんとか自力で壁を抜け出すことに成功した。
いざ、物理的肉体を取り戻してみると、ジェネレータのある部屋から出るのはものすごく簡単だった。もちろんカギはかかってた。でも、室内からなら、どんなカギでも簡単に開けられるんだ。
つまみをまわせば、ほら、ね。
ドアをすり抜ける前に平面状態で訪れた部屋は、どことなくカビくさく、ほとんど使われていない部屋だ。さっきこの臭いを嗅いだ記憶はない。平面時には鼻もきかなくなるんだろうか。
「そうね、臭わないわね」
「そういや、呼吸ってしてるんでしょうか」
「してないのかも」
じゃ、どうやって酸素をとりいれてるんだろう。二次元の世界には必要ないのか。
非常灯の明かりだけでこの部屋からの出入り口を探す。
「ね、ここを無事に出られたら、みんなで部活を作らない? 歩桜高校二次元部」
「京山を喜ばすだけですよ」……たく、女ってやつはこんなときに。
「みんなでコスプレして」
「いやです」
と、急に菜津さんは叫ぶ。
「了くん! この壁」
触ってみるとその面の壁だけ、暖かかった。外の火事で熱せられているのかも知れない。手探りに、ロックとドアレバーを探し当て注意しながらレバーを回す。ずずっと、重い壁は前方向に少しだけ開き、と同時に足もとから焦げ臭い香りと共に、白い煙も室内へ侵入してきた。
「了くん!」
「大丈夫! 菜津さん、かがんで下さい」
有毒ガスをなるべく吸わないように、ぼくらは袖口で鼻と口を覆い、渾身の力を込めてその重い壁を押し開いていった。
扉の先はなんと、あの図書室だった。
寮の火災はもう、この部屋にまで押し寄せている。
背後で秘密の仕掛け扉がガチャリと音を立てて閉まった。もう、地下室へ戻ることも出来ないんだろう。
部屋の隅や天井にちろちろと炎を出し、棚の本がくすぶったような黒い煙を出しながら赤い火の色に染まっている。
ぼくは菜津さんをかばいながら、廊下へ出た。玄関までは一本道だ。
「走りますよ!」
口元を覆ったコスプレエロームウは目だけでうなずく。でも、こんな恰好で外へ飛び出していったら、みんなにどう思われるんだろう。
まあいいや、後で考えよう。
つくづく、ぼくはこういう運命なのかも知れない。
火はすでに男子寮全体にまわっているようで、いつ天井が崩れてきてもおかしくないような状況だった。玄関に続く中庭に面した廊下に出ると、ガラスに面してない方の壁は、表面に炎をまとわせ、天井付近を覆いつくさんとするかのように猛煙を吹き出していた。
玄関まで二十メートル。
そこを抜ければタイルの敷き詰めてあるピロティ、その先はもう寮の外だ。
ぼくと菜津さんはかがみこみ、小走りに燃えさかる廊下を駆け抜ける。
コスプレ用のブーツは大きいのか、彼女は途中、何度も転びかけた。
何回目かにとうとう熱に耐えかねたらしく、ラバーマスクを顔から引き剥がす。
ぼくは顔中から汗の吹き出している彼女の肩に片手を回し、抱き起こすと、支えたまま先に進んだ。
玄関口では木製の下駄箱も炎に包まれている。
それを避け、ようやく玄関ドアを外に向かってくぐり抜けた。
目の前によろけつつピロティを歩く男の後ろ姿。
逃げ遅れた寮監か。
でも、ここまで来ればもう安全ですよ。
男はぼくらの足音に気づいた様子で肩越しに背後を見る。
あわてて足を止めた。そいつが血まみれのすごい顔をしていたからだけじゃない。
ミボケツだったからだ。
「ミドリリョウヤ……」
ミボケツもとい、どこか外国のひとらしきシボルスキは、火事のすすと血でまだら状になった凄惨な顔を歪ませ、笑い顔を作った。ぼくらの方へ向き直る。
「ひどい顔……あ」
菜津さんはなにかを思い出したように叫んだ。
「リセットしたからよ」意味不明。どういうこと。
「リセットすると、壁に定着しているものは全部吹き飛ばされちゃうの。ものによっては何メートルも。かなり強い力よ」
おかげでシボルスキも壁から出られたってわけか。あの血は、吹き飛ばされたとき中庭の生け垣にでも落ちてケガをしたからかも知れない。
「フロギーはどこだ? 死んだか?」
「あんた負けたくせに……」
「了くん……」
肩を貸している菜津先輩は不安そうな声を出してぼくの腕をきつくつかむ。
「そっちは穂村の娘か」ずい、と一歩踏み出してきた。
菜津さんの身体を横へ押し出すようにして、自分から放す。
「や、やるんならやるぞ、相手になる」
どっかで見た見よう見まねのファイティングポーズをとり、おそらく全く効果の無いだろう威嚇を試みた。
シボルスキは無言で、ぼくの方へずかずかと近づいてきた。
「う、あああああ!」
自分でも驚くような大声を出し、ぼくは相手めがけ突撃していく。菜津さんを見てなにか悪巧みを考えたようだから、少しでも彼女の逃げる時間を稼ぐつもりだった。
ひょいとかわしたつもりなのか、しかしぼくのタックルを受け損ね、やつはピロティ床へどっしりと尻餅をつく。
緑谷先生との闘争はやつの戦闘力をかなり奪い取っていたようで、ぼくの突進は思いがけぬ戦果を得た。……わけもなかった。
足首をつかまれ、ぼくは床へ突っ伏すように倒される。
ちょこまか動かれるよりは、寝技で息の根を止めようって戦略らしい。ま、体力に余裕もないってことだろうけど。
「了くん!」
「逃げろ!」精一杯ひとことだけ叫んだ。
ぼくの身体へ馬乗りになったシボルスキの手指が喉にかかる。
――またかよ!
よほどのど締めが好きと見え、先回のように喉輪を決められたまま絶息していく。
――って、こ、今回のペースはちょっと速いみたいだぞ……
ピロティの燃えている天井を真正面に仰ぎ、周囲からじわりじわりと視界は狭まっていく。
ぴしりと音を立て、ぼくの目の前をさっと黒いものが横切った。
喉の手の力が突然ゆるんだ。
すかさずミボケツの手を両手で頭上へ挙げるように動かし、ぼくは、なんとか喉輪を外すことに成功した。
「じゃじゃ馬が……」やつは言いつつ、ぼくの身体から立ち上がる。
「了くんから離れなさい!」
声の方角を確認すると……ああ、菜津さん、なんでまだいるの。
「三保先生!」
男女混合寮の周囲を走る道路から、ピロティを見下ろすようにして、何人かの寮監はシボルスキに声をかけている。
「三保先生! 早く避難して下さい。……そこの生徒たち、早く!」
だから本当は早くそうしたいんだってば。
ひゅんひゅんと音を立て、菜津さんは紫色のなにかを振り回している。ん?
紫?
エロームウのベルト?
まさか、コスプレ衣装のあれを振り回しているのか。
「たとえ遊びでも、俺にそんなものを当てるのはゆるさんゾ、小娘」
すっかり本気モードになってる。さっきのはよほど痛かったんだな。
「おっほっほほほ、私のエロームウィップ、あなたに見切れるかしら?」
菜津さんの必死の策なんだろうけど、こんなときアニメのマネはちょっとやめて欲しい。
「きみ! やめなさい!」
びゅんびゅんと音を立て、ムチならぬベルトを振り回す菜津さんに向かい、道路から寮監のたちの声も飛ぶ。
「あ、見ろよ!」
寮監たちのふつうじゃない様子に気づいたらしく、おそらく避難していたであろう寮生たちも、次々にガードレールの向こうへ集まりだした。
「おもしれー」「なに、あのコスプレ女」「ミボケツじゃん、あれ!」
ざわざわとした声はぼくの耳にも入ってくる。
これだけのギャラリーだ、シボルスキだって本気で菜津さんを相手にすることはないだろう。ぼくはそうたかをくくっていた。しかし、それはとんでもない間違いだった。考えるとすぐわかる。まず相手はプロフェッショナル。
……なんのかはわからないが、やばいことのプロには違いなさそう。
そしていまは、いわば手負いの状態。
それなのに、菜津さんは調子に乗って攻撃をしかけてしまう。
バシッと音を立て、紫のムチは当たったと思われたのに、その先端はしっかりとシボルスキの手に握られていた。
恐るべき反射神経。本来なら音速を超えるはずの凶器を素手でつかむとは。
「放しなさい! 放して!」
菜津さんの抗議も意味をなさず、シボルスキはぐいとそれを力任せに引っ張る。
ぱっと柄を放せばいいものをしっかり握っていて、ムチばかりか自分までやつの目の前に引き寄せられた。
「や、やめて!」一瞬でムチを首に巻かれてしまった。
「放せ!」ぼくももう一度突進してみるもののかわされ、後ろ蹴りを食らって吹き飛ばされてしまった。
シボルスキは菜津さんの首にムチを巻いたままその柄をゆっくりと持ち上げた。足をじたばたさせ、彼女は相手の身体の至る所を蹴るものの、やつはそれを全く意に介さない様子だった。
その蹴りの反応もだんだん弱々しくなってくる。
「や、やめてくれ!」なんとか立ち上がり、彼女を救おうとした。
周囲の寮監や寮生は場の雰囲気にのまれ、止めようというやつさえ現れない。
「ごるぅあああ!」
そのとき、猛獣みたいなうなり声と共にいきなりシボルスキの背後から跳び蹴りをかませたやつがいた。
元寮監はたまらず菜津さんを放し、床へ膝をつく。
穂村だった。
シボルスキも油断するようなやつじゃない、でも、防御すら間に合わないスピードで攻撃をしかけられたようだった。
「アネキ!」
首に紫のベルトの巻き付いたまま、ピロティの床へ落とされた菜津さんは、ぼくの時のように大きく咳き込んでいた。
「きっさまあ……」シボルスキは立ち上がり、憤怒の形相で穂村をにらむ。
「穂村!」「あいつ穂村だ!」
何人かの寮生に気づかれる。穂村とシボルスキの対峙は、たちまちギャラリーの心に火をつけたようだった。
「いけいけ!」「穂村ぁーっ!」
たちまち穂村コール一色になった。
かたや寮で最も恐れられる最強寮監。
かたや周辺中学を総なめにしたもと不良の新寮生。
この一戦に興奮しないで、人生、なにに興奮するのか。
「こいやあああああああっ!」
穂村は拳を振り上げ、絶叫する。
「うおおおおおおおおーっ!」
ギャラリーから怒号のような歓声も返ってきた。
なんという熱さ、なんというバカっぽさ。
これこそ青春真っ盛りって感じ。暑苦しくてしょうがない。って、て、天井!
ピロティの天井はとうとう燃え始めた。
みるみる全面に炎が広がっていく。上方から炎の色に照らされたふたりの佇まいは、なんだかCGの格闘ゲームのように演出され、それがまたギャラリーの熱狂度を上げたようだった。
ぼくは菜津さんを抱きかかえるようにして、ピロティから道路に出る階段口へ移動した。
「くー、かっけー! 穂村ぁ、ケリだケリ!」
「張り手で終わりだ、ケツ、いけえええ!」
ギャラリーたちは格闘技の試合に臨んだ如く、口々に勝手な期待を声援に載せて叫んでいた。
にらみ合う両者の緊張が頂点に達したとき、ふたりは同時に動いた。
「ずああ!」
張り手気味の掌底を繰り出したシボルスキに対し、穂村は肘でそれを受け衝撃を軽減しつつ、相手の手にダメージを与える。
たまらず腕を戻すその動きに合わせ、穂村はふところに飛び込み、下から思い切りもう片方の肘でシボルスキの顎をかちあげた。
完全に天井方向へ顔を向けたシボルスキは、おそらくもうそのときには気絶していて、悲鳴ひとつあげず、棒倒しの棒みたいにその場に倒れ伏す。
ギャラリーどもの熱い期待感をよそに、勝負はあっけなくついてしまった。
緑谷先生との勝負を経ていなければ、おそらくやつが勝てただろう。
渾身の張り手なら、いくら肘だろうと体重差で簡単に吹き飛ばされ、その後の展開もなかったからだ。
がらがらと崩れ始めた寮舎の周りを、ようやく通報を受けた消防車が幾重にも取り囲み、赤いサイレンの明滅を燃えさかるその壁面へ投射していった。
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