第一章 踏みにじられる青春



       1


「なあぁ、だまされた気分にならねえ?」

 京山は唐突に話題を変えた。

 寝室で一緒の同級生だ。

 入寮時、早速あだ名をつけられた新入生のひとりでもある。

 妙に下ぶくれした顔の形からか、密かに『ナスビ』と呼ばれはじめていた。

 ナスビはぼくの胸元をじろりと見た。

「オトリはそう思わねえの?」

「ミドリだけど」

「ああゴメン。でさ、ミドリも男女共学って思って入ってきたんだろ?」

 再度ぼくの胸元を確認すると、京山はすぐ言い直した。

 そこには新入生が全員義務づけられた名札がついている。


 御鳥みどり了矢りょうやというのがぼくの名前だ。


 小学校から現在に至るまで、およそ学校と名のつく場所において、初見でぼくの名前をまともに読めた人間は、同級生、先輩、教師に至るまでひとりもいない。

 入寮初日、部屋の新寮生同士で自己紹介し合ったけど、たぶん聞いてなかったか、すでに覚えてないんだろう。

 ベッドは隣り合ってても、まだこいつとはまだ数えるほどしかことばを交わしていない。

「オレたち、だまされてるよなあ、ゼッタイ」

 返事をしないといつまでもくだらない愚痴を垂れ流しそうだ。

「そう……かな」

「あのポスターのせいだぜ」

 人面ナスビはそう断言した。


 私立歩桜ふざくら高校へ入学を勧めるA2版のポスターは、紙面のほぼ三分の一が制服男女の画像で占められていた。

 首元から上だけ写ったふたりは仲良さそうに並び、頭を斜め四十五度ほど左上方に傾け、爽やかな作り笑顔を浮かべていたように記憶している。

 いまどきのものにしては、少し古くさいセンスのポスターだと思う。


「あのレトロ感はセンスいいとして、あれ見たら、誰でも男女共学って思わねえ?」

「まあ……そうだね、あのポスターを見たら確かにそう思うひとも多いだろうね」

「だな。あのポスターにひっかけられたんだよな、俺たち」

 男女共学の有無より、むしろ京山はその点が気になるみたいだ。


 それにしても、あのデザインを評価するやつだとは。

 予想通り、こいつと趣味はまったく合わないようだ。

 こうやって惰性的に話を合わせるのはいつまで続くやら。


 実はこの高校を受験するとき、男女共学の件は特に考慮していない。

 親の仕事の関係上、どんな高校であれ、ここへ入学する以外に選択肢はなかっただけだし。

 それにぼくはふつうの高校なら、男女共学は当たり前のことと思っていて、入寮するまでなんの疑問も持たなかった。

 年明け、入試のためにここを訪れたとき、学校の敷地内に女子生徒の姿も散見できたし、ぼくらの住むこの寮の裏半分は女子寮だというから、公的には男女共学で通るのかも知れなかった。

 けど入寮初日の晩、入学オリエンテーションに来た学校長は登壇早々、堂々と『短いながらも伝統ある、この男子部への入学おめでとう』と言い放った。

 数日前に渡されたクラス分け表にも席次は男子の名前しか記載されていない。


 クラスが男女別であることはその時点で決定的になったわけだ。


「別に、男子だけのクラスだって構わないと思うけど」

 ちょっと強がって、そう言ってみた。

 いま思うと、実は共学でない高校生活がどうなるのかということに気を回してないだけだった。

 なすび顔は、すぐ同意する。

「だまされたということ以外、俺も気にはなんないけどね。俺は二次専門だから」

 そう言うと、照れたようにも見える笑顔を見せた。

「ふーん。二次?」

 知ったようなことばに一瞬納得しかけ、それをオウム返しにしてしまう。

「アニ専ってこと」

 ああ、アニ専か。……アニって、アニメ? アニメ専門?


 ……という理解でいいのかな。


 京山は一瞬遅れただろうぼくの反応へ敏感に対応し、追加説明を施した。

「二次元のキャラクターにしか興味がわかない」

「ああ……なるほど」と言ってみた。要するにオタクってことか。

「ちょっと待ってて」

 京山は立ち上がると、ベッド脇に備え付けられた自分のロッカーをごそごそあさり始めた。

 

 学校生活の始まる前に寮生活に慣れておくという目的で、歩桜高校では入学式十日前に新入生を入寮させる。中には、そのスケジュールに合わず遅れて入寮する者もいるようで、寝室に四基設置されている二段ベッドの上段にはふたつほど、梱包の解かれていない荷物が、投げ出されるようにして置いてあった。

 残りの二人はどんなやつなんだろう。


 ちなみに荷物と言えば、スマートフォンとか携帯電話の類、ノートパソコンやそれに類する電子機器、端末類はすべて入寮時に寮へ預けることになっている。

 新入生は入学から半年間は訓練期間なのだそうで、下手にメールやSNS、ほか、インターネットも含め、外部社会との接触手段があると、生活矯正、生活指導にならないという理由からだ。

 いまどきの学校教育にしては、驚くほど古臭い理屈で、情報ツールの無いのは不便だし、京山みたいなオタク人間には、さぞつらいのだろうけど、ぼくは基本的にあまりそれらに依存していないので多少気楽だった。


 今日は入寮して九日目、二度目の日曜日となる。

 明日の月曜はいよいよ入学式だ。

 毎朝六時なのに、日曜日だけは八時に起床の館内放送があった。

 昨夜、というか、早朝までひとり洗濯していた身にその起床時間のずれはありがたい。むろんそれを見越して実行したわけなんだけど、やはり二、三時間しか寝ていないから、眠いことこの上ない。


「これこれ」


 あくびをしかけたタイミングで京山はぼくの元に戻ってきた。

「ふぁい?」目頭に浮かぶ涙をふきながら、差し出された何かを思わず手に取る。

 色とりどりの表紙のついた雑誌だった。

 タイトルはアニ――

「知ってるだろ。ミドリは興味ないかな?」

 ときどき本屋で見かけたことのある雑誌だ。


 表紙にでかでかと描かれていたのは、日本国民の何割かがよく知っていて、もう何割かは名前を聞いたことがあり、結局、七割くらいの日本人が知っているだろう、子ども向けロボットアニメに出てくるキャラクターだ。

「う……ん。見たことはあるよ」

 普段あまり会話はなくても、ベッドが隣り合ったことで最初に言葉を交わしたのは京山で、入寮後、最初の知り合いでもあるから、なんとなく気兼ねして、慎重に返事をした。

 本当はあまり興味のない世界なんだけど。


「だよな」

 その目はきらりと光ったようだった。

「だけど、見せたいのはそれじゃない。ほら」

 ぼくの手にある雑誌を向かい側から器用にぺらぺらめくると、アニ専なすびは目的のページを開いて見せてくれた。


 ――あ……


「俺の嫁だ」

 まるで本当の配偶者でもあるかのようなその言いぐさに違和感を覚えつつ、ぼくの目はそのページに吸い付けられていた。


「これ……も、見たことある」

「お、彼女を知ってたか? ほほぅ」

 京山は意外そうにことばを発したが、正直、見たのはこれで二回目だ。

 

 雑誌の特集はアニメの紹介記事。

 

 倉庫室の壁面に見たのは、紛れもなくこの娘だ。いや、正確に言うと、番組の主役らしい、この女の子の画だった。


「きのう」言いかけて、しまったと思った。

 深夜の洗濯のことはあまり知られたくない。

 しかし時間さえ言わなければ、いつ倉庫室へ行ったかなんて分からないだろうと思い直す。

「……倉庫室の壁にこれが描いてあったよ」

「えぇ? 倉庫室って、向こうの?」

 ナス顔をおおげさに動かし、京山は廊下の方向、その先を見通すように首を振り向けた。

「うん、きのう気づいた」 

「うそぉ。ルリムウがいたら、気づかないはずはない」

 しもぶくれの頬からあごのラインを片手でなで、疑い深そうな顔つきをする。

 

 ――ルリムウってキャラか


 そう知ってもう一度雑誌に目を移すと、確かに『魔女高生まじょこうせいルリムウ』と書いてある。

 いわゆる美少女アニメっていうのか、中世ゴシック調の雰囲気を現代向けにアレンジしたらしい、モスグリーンを基調としたコスチュームに身を包まれていた。


 『魔女』のくせにRPGゲームの僧侶系キャラクターが持っていそうな杖を手にしていた。

 顔立ちはまあ、かわいい系かな。


 イラストレーターのタッチなのか、美人、の一歩手前で止めているように思えた。

 茶髪ショートカットの形状と、アニメ特有のくりくりっとした目に特徴を持たせている。

 雑誌上で改めて見ると、その趣味のない自分にも好ましく思えるくらいだから、きっと京山みたいなファンにはたまらない魅力を持つんだろうな。


「だけど、ぼくだって何回も倉庫に行ったけど、きのう初めて気づいたんだし」

 やつはちっちっと舌打ちし、うそぶいた。

「俺は専門家だ。素人とはちょっと違うんだぜ」

 専門家とか意味不明。なんのことやら。

「でも、間違いない。見たんだ」

「ほんとに?」

「ほんとだよ」

「ホントなんだな?」

 食い下がり方にこいつの不穏当な粘着度合いを感じ、ちょっと引く。

「……別に、信じなくたっていいけど」

「じゃあ、見に行くか」

 ぼくの表情を見て真実だと感じたのか、なすび面を一瞬だけりりしく輝かせ、アニ専男は立ち上がった。

 腕に巻いたカシオのG―SHOCKをちらりと見る。

「右側の奥の方だったと思う」

「てか、一緒に来いよ」

 少ない睡眠時間を空き時間で埋めるつもりだったのに。


 行きがかり上、なんだか同行しなければならないような状況になった。

 

 ま、いいか。

 

 徳用洗剤の箱はロッカーにかさばる。

 いずれ戻しに行くつもりだったし。



       2


 育ち盛りの高校生男子八人を余裕で収容する、だだっ広い寝室から廊下に出ると、ぼくたちはその西奥にある倉庫室へ向かった。

 足早に通り過ぎるまだ名も知らぬ同級生、廊下の壁に寄りかかり立ち話をしている数名の同級生たちとは、お互い相手を伺うようにちらちらと目を合わせても、まだ声を掛け合うことはない。

 京山は横でひたすら、その、ルリムウとかいうアニメ番組の話をし続けている。


「バンクも少ないし、金かかってるんだよな。特に毎回Bパーの盛り上がりは異常」


 アニメ番組は中学生の初めまで結構見てたけど、バンクだとかビーパーだとか、専門用語を使われるとさっぱりわからない。

 さすがアニ専、オタク度爆発だ。


 倉庫室へはあっという間についた。

 お経か呪文でも唱えられているような話は数十秒で済み、正直ほっとする。

 持ち手のない重たい徳用洗剤の箱を抱えなおしながら、ぼくは天井のレールから吊り下がり、床からわずか浮いている引き戸を開けた。

 天井灯を点け目当てのアニメ画を――


「……ないじゃん」


 言われずとも、ぱっと見、倉庫の壁面にそれらしきものは痕跡さえ見当たらない。

「いや、この辺に」

 なにもないと分かっていてなお、それを見た場所周辺の壁に近づいてしまう。

 記憶と現実とのあまりの格差に、自分自身納得がいかなかった。


 ブルーグレーの壁面は、ふつうの家の壁より光沢を帯びている。

 ビニールとも違うし、なにか塗装でもしてあるみたいだ。

 手を置いて撫でてみると、表面のでこぼこを指に感じながらも、感触はなめらかでひんやり冷たい。

「見間違いじゃねえの?」

 そう結論づけるのが最良なのかも知れない。でも、それはあり得なかった。

「いや……」


 ――あんなに大きい画を見間違うわけない


 等身大かと思えるほど大きかったから明瞭に記憶に残っているのであって、断じて錯覚や見間違いなどではない。

 それに、見間違いというには語弊もある。

 ここに別な画でもあれば見間違いだけど、画自体存在しないのでは『消えた』ことになるはずだった。


 ごちゃごちゃとまとまらない思考を巡らすぼくに比して、京山は気楽そうに彼なりの合理的理屈を持ち出した。

「ポスターとか貼ってあったとかじゃね?」

「ポスターだったら……」

 納得したくないけれど、その可能性なら……やっぱりないな。


 だれが共用の部屋壁に私物のポスターを貼って、ひと晩ですぐ剥がす?


「ようするに、俺のほかにルリムウファンがいたってことで」

 やつは勝手に話をまとめ上げ、ぼくを残したままさっさと倉庫室を出て行った。



「なにしてる。そろそろ点呼だぞ!」

 京山の去ったあともまだ納得のいかないまま、部屋のあちこちの壁を触りながら調べていると、突然背後から怒声を浴びせかけられた。

 ふりかえってみると、戸口に腕組みしたメガネの寮監が立っている。

 入学前オリエンテーションの時に見かけたひとだ。

 壁を調べるのに夢中で引き戸の開く音に気づかなかったのだった。

「あ、済みません。いま戻ります」

 あわてて部屋を出ようとすると、寮監は組んでいた手をほどき、片手で通せんぼをした。

「名前は……オ……トリか。オトリ、なにをしてた?」

 返事をする前にぼくの名札を見たようで、読み間違えた名字を連呼された。

「御鳥です」

「ミドリ? なにしてるんだ、こんなところで」

 ことばの中に高圧的な声の響きを感じ、かすかに反発心を覚える。

「なにって……洗剤を置きに」あわてているのを悟られないように、ゆっくり自分の荷物箱の前へ行き、その中へ徳用洗剤の大箱をしまった。

「壁際にいただろ?」

 げ、やっぱり見られてたか。

「なんとなく、珍しい壁だなあって見に行って。いけませんか?」

 寮監はメガネの奥から厳しい視線をぼくに浴びせかけたまま、ちょっとだけ沈黙した。挙げていた手を下げ、唐突に解放を告げられる。

「点呼だ、急げ」

 ぼくは黙礼すると彼の脇をすり抜け、点呼を受けるため急いで廊下を戻った。

 心中にはいまのやりとりに関する釈然としない気持ちもくすぶっていた。



 寮では毎日必ず点呼を取る。

 基本的には起床後、朝の清掃時、夜の清掃時、就寝前、と四回。

 学校が始まると平日には登校前の点呼が加わるそうだから、なんと日に五回も寮内に寮生が揃っているかどうか確認するんだ。


「御鳥、遅い!」


 寝室の大部屋に戻ると、指導員の三添みそえさんに怒鳴られる。


 この指導員制度というのも特徴的だ。


 慣れない寮生活をサポートしてくれる、という名目で一年上の先輩が新入生と一年間一緒に暮らし、あれこれと世話を焼いてくれるわけだった。深読みすれば、早いうちから寮生を管理、統制、指導するためのもの、と考えられる。

 それでも、新入生はみな入寮前に、指導員から入寮を歓迎する旨の内容が記された直筆の手紙をもらっていて、ぼくや両親は三添さんの手紙を読み、その文面の誠実さに、素直に感動したものだった。


 部屋には、まだ入寮していないふたりを除き、指導員を含め六人が起居している。点呼を受けるため、三添さんを除く五人は寝室前の廊下に横一列で並び、気をつけをした。

 ぼくの部屋は四階。

 北向きの部屋で東側から二番目の部屋だから、北の四十二号室となる。


 隣で北四十一号室の点呼が始まった。

「一!」「二!」「三!」数は七まで続く。

 隣室はどうやら新入生が全員揃ったらしい。

「北四十二号室、点呼!」やって来た寮監は、なんとさっきのメガネ。

 じろりとぼくを見る。

「なんだおまえ、三添の部屋か」寮監はそういったあと、すぐ大声を出した。

「点呼始め!」


「ショージに目をつけられたな」


 点呼のあと三添さんに声をかけられる。

 ショージ……姓か名前か。

「さっき倉庫で怒鳴られました」

「うざいんだよ、あいつ。細かいことで」

 そう言われると、神経質そうな顔つきをしていたようにも思う。

「目をつけられると、やばそうですか?」

「あいつは実権ないから怖くない。本当にやばいのは別だ」


 三添さんはそっけなく、ただし、別な危機の存在を漏らした。



       3


 寮に隣接する大食堂は別棟で、歩桜高校に通う全学年男子約三百人が一度に食事を取れる大きな建物だ。

 こういった給食施設特有のにおいのせいで、ぼくはここでの食事にまだ慣れない。


「あー、新入生。午後は予定を変更し、団訓だんくんを実施する」

 食事中に指導員から午後の予定変更を告げられると、大食堂で食事を取っていた各部屋の新入生は一様に大きく不平の声を上げ始めた。

 聞いてない、なんでまた、ふざけんな、など、言っても無駄に思える単純明快な愚痴ばかり。


「うっせーぞ、おまえら!」「静かにしろや!」


 下級生の大声に、食事中の上級生たちもわめき始めた。

「三添、しつけがなってねえな!」

 ぼくらの食事テーブルは上級生たちのそれと隣接していたため、そこに座っている先輩らしき人たちから、かえって三添さんが怒鳴られる。

「あっ、すいません」

 彼らへ頭を下げると、三添さんはぼくらに向かって懇願し始めた。

「頼むから静かにしてくれ」

 こんなに必死になるところを見ると、隣のテーブルにいるのは二年の三添さんよりも立場の上な、三年のひとたちなんだろう。


 寮内で絶対に守らなければならないのは寮則ではない。

 校則でもない。

 上級生に逆らわないことだ、と聞いた。

 その理由は、危険から身を避けるためだ。


 生意気な下級生は夜中にいきなり呼び出しを食らい、下の上級生フロアまで降りていくと、まっくらな寝室にずらりと整列した先輩たちから制裁を受けたりもするらしい。布団蒸しにされたまま、バットやゴルフパターで殴られると身体の表面には暴力の跡が残らず、リンチの証拠にならないのだという。


 漫画に出てくる不良高校じゃあるまいし。


 だいたい、もしそんなことが本当にあるとして、寮監やら教師やらはどう考えているのか。

 三添さんの話によると、――上級生の『指導』に関しては見て見ぬふりをする――そうだ。

 もともと目上を敬う、という考え方は日本的な礼儀作法にかなってもいるから、歩桜高校では上級生を優遇する立場をとり、それを是認している、とでも言うつもりななんだろうか。


 確かに、その一例らしきこともある。


 男子寮は四階建てで、二階から四階が寮生の生活スペースになっていて、各階は学年ごとに割り当てられている。

 ぼくら新入生は四階に寝起きしていた。

 三階は二年、二階は最上級生である三年生の専有フロアだ。


 最初は、え、なぜ? と思った。


 会社の社長だって、自分の立てたビルの最上階に社長室を作ったりして、立場の上の人間はなぜか高いところがお気に入り、みたいに考えていた。

 だから、なんとなく、上級生ほど見晴らしの良い、なんだか偉そうに見える上階を好むものだと考えていたわけ。


 しかし、

 ①エレベーターのない寮舎の階段を上がるのが面倒くさい、億劫

 ②出入り口、食堂、大浴場、売店に近い

 ということで、上級生ほど下の階に住まうのだそうだ。


 ……ナニモノデスカ、オマエラ?


 とんでもない学校へ入学してしまったのかもしれない。


「ゃやぁわかましぇいぃ!」


 ひときわ大きなだみ声が大食堂内に響きわたった。

 驚いたことに、その声ひとつで喧噪はぴたりと収まってしまう。

 いや、新入生の一部は大声に反応せず、まだ声を出し、ざわついていた。

 逆に上級生たちはひと言もしゃべらなくなり、黙々と食事を口に運び始める。

 ふいにどこからか現れた寮監らしい男がひとり、安っぽそうなリノリウムタイルの床を、スリッパの音をぴたぴたと響かせながら、未だ不平不満の大声を出しているテーブルへ近づいていった。


 スポーツ刈りにした、肉付きのいい中年男。

 もっさりしたその様子に、なぜか『東北人』という語を思い浮かべてしまった。


「おみゃえら、みゃぁだしゃべってんのけぁ、んぁああ?」


 鼻にかかっただみ声に加え、なまりのあるしゃべりなので、何を言っているのかちょっと聞きづらかった。


「……ケツ!」

「けっつぁんきた!」

 押し殺したささやき声が周囲の上級生たちから漏れ聞こえてくる。

「……おまえら、ゼッタイ静かにしてろよ」

 ぼくらのテーブルでは三添さんから、小声に短く指示を受けた。

 見たこともないほど切迫した顔つきになっていた。


「せんせ、ええ加減にしてくれます? なんでおれら、日曜まで勝手に予定入れられなアカんねゃ!」


 関西なまりのある、背の高い、体格のいいやつだった。

 今どき珍しい、というか絶滅種に近いような見事なヤンキースタイルをしている。リーゼント? よくわからないけど、髪を金色に染め、まゆ毛を細く剃っていた。

 足もとは見えず、たぶん女物のサンダルなんかも履いているんだろう。


 そいつは傍目に見ても、湯気の出るくらい頭に血をのぼらせ、ようするに、キレていた。入寮時からいままで見たことのない新入生だから、たぶん遅れて入寮してきたやつかもしれない。

 ここの環境について、聞く時間もなかったに違いない。


 東北人の寮監はヤンキーに近づくとなにか言った。

 声は良く聞こえた。

 でも内容はよく聞き取れなかった。

 こちらからはその横顔しか見られない。耳に補聴器をつけているのに気づいた。


「は? なに言うてンの? ぜんっぜんわからへん!」


 ヤンキーは自分より頭ひとつほど背の低い寮監を見下げ、バカにしたような口調で怒鳴る。寮監はやつを見上げてなにか早口で怒鳴った。

「んぁあだ、おみゃんけあにゃあぁやよにゃあわ、れ」

 うーんと。

 そんな風にしか聞こえなかった。

「はぁ? わからへん、って、いうとるやろ!」

 金髪ヤンキーはますます声を荒げる。

「んぁ、しぇくにぇっくぇえんゃぁあ」

 うなり声としか聞こえないことばを発し、寮監は椅子を指さした。

 察するに、座れと言ったのか?


「やばいぞあいつ」

 三添さんはつぶやいた。

 ヤンキーはというと、そのジェスチュアを理解できなかったのか、無視したのか、変わらず立ったまま寮監に応答した。

「なぁせんせ、言うたらおれら客やろ? 結構な食費払ってこんなまずいメシ食わ」

「んあぁだんゃ、にゃきゃあめにゃわれゃんか!」

 やっぱり内容はわからないが、語気の勢いから、突然ヒートアップしたらしい。

 ヤンキーは一瞬口をつぐみ、だが、すぐに言い返す。

「わからん言うとるやろ! 日本語しゃべれや、むかつくのぅ!」


 そっと手を伸ばしたとしか見えなかった。


 寮監が手のひらで軽く押すと、自らとびのいたように見えるほど、金髪はおおげさに後ろへ飛ばされる。

 背後に椅子があったのはラッキーだったろう。


 かなりの勢いでその座面にしりもちをつき、鈍いドスンというその音は室内に大きく反響した。


 近づいて片手でその椅子の背もたれをつかむと、東北人の寮監は手首の動きだけでいともふつうに、ヤンキーがテーブルへ正対するようにそれを回転させた。

 椅子の足が床とこすれる音はまったくしない。

 姿勢も変わらず、引き出した椅子をまた戻すかのような動きだ。

 つまり、握力と手首の力だけで、椅子と人間ひとりの重量を、軽々と支えているのだった。


 ――ゴッ


 椅子のゴム足の着地した小さな音は、やけに大きくあたりへ響いた。

 ヤンキーは椅子の上で前傾姿勢をとったまま、胸元を両手で押さえている。

 ぜえぜえというその呼吸音はここまで届いてきた。

「にゃぁ、おみゃぁあるぁ、はよぅたべぁぇやあぁ」

 寮監は周囲のテーブルを見渡し、そう言うと、呼吸の音すら聞こえない静寂の中、再びスリッパの音を響かせながら大食堂を出て行った。



       4


 午後の団訓までの間、その出来事はちょっとした話題となる。

 あ、団訓というのは、『団体行動訓練』の略称だ。

 ぼくもここへ来て初めて聞いたことばだった。

 内容は、集団での行進やら点呼やら、今後の寮での集団生活に必要な心構えと動きを身につける、のだそうだ。

 まるで刑務所の囚人。

 ぼくらは入寮二日目からそれをやらされている。


 で、話を戻すと、あの寮監は『三保みぼ先生』というらしい。

『ミボケツ』と言う別名もついていた。

 ふだんは『けっつあん』とか単に『ケツ』と呼ばれているそうだ。

 もちろん、そのどれも本人へ直接言ったものはいないようだが。


 なぜ名前の下に臀部の俗称がついているかは三添さんにも分からないらしく、ともかく、三保先生は以前寮監としてここへ務めていたひとで、一度辞めたものの、五年ほど前に再度請われ復帰したひとなのだと教えてくれた。

 寮内の生活指導、大食堂の管理を受け持っているスペシャリティの高い寮監らしい。なんのスペシャリストかっていうのは、食堂の出来事があるから割愛してもいいだろう。ええと、もめ事担当?


「ともかくな、あいつにだけは絶対逆らうな」


 言われるまでもない。

 あの異常な膂力を見せられれば、誰だってそう考える。

「けっつあんは大学時代、相撲部だったんだ。大相撲でちょっと前まで大関はってた、有名な力士の先輩に当たるってさ」

 その当時、大卒で大関になったと言えば……

「相撲部屋としては、本当はけっつあんの方に入門して欲しかったらしい。でも断ったんだと」

 相撲取りのような脂肪におおわれた体型でないだけに、よけい、信じられないような怪力男に見えるのかな。


 昼食後、寝室で高校生六名がまるで密談でもしているかのように、小さく環になり頭をつきあわせているというのも、想像してみるとおかしな光景に思えた。


「……なぜ入門しなかったんっスか?」

 素崎すざきが訊ねる。同室のひょろっとして背の高いやつだ。

「わからない。……だが、そんなことより、とっくに四十歳越えてるらしいのに、いまだ毎日トレーニングしてる。そのおかげか、パワーも、体力も、持久力も」

 アニ専なすびはウケ狙いのつもりか、戦闘力も、と言う。誰も笑わなかった。

「……俺たち寮生をはるかに上回るんだ」


「ブルース・リー伝説っていうのがあると聞きました」


 志田しだが口をはさんだ。

 丸顔の小男だ。

 大きな銀縁メガネで、スケベそうに見える。

 三添さんは大きくうなずく。

「うん。……きみら、ブルース・リーって知ってるな?」

 必要もないと思うのに、さらに声をひそめた。


 もちろん、ブルース・リーくらいは知ってるさ。

 どっかで名前を聞いたことのある有名人で、もうとっくに死んだらしいけど。


「彼の出演作の映画に『ドラゴン危機一髪』というのがある。俺は見たことないが、ネットなんかで見られるらしい」

 そうか映画俳優だったのか。

「でな、その中のワンシーンに、ブルース・リーが壁際の敵を殴ると、ひとの形に壁が抜けるという……」

 三添さん以外の全員、思わず失笑した。

「先もあるんだ」

 声を絞り、真顔でしゃべり続けようとした。

 なんだか、密談どころか怪談めいてきたぞ。


「俺の数コ上の先輩の話だ。……その先輩がある日、配膳をさぼって、食堂の端で遊んでた」

 新入生にはまだ回ってきていないが、学校が始まると部屋ごとの当番で大食堂の配膳係をやらなくちゃならないらしい。

「気がつくと、ミボケツが背後に立ってた」

 あのなまりあるだみ声を真似る。

「ぉおみゃあ、にゃあにをぉしちょるんじゃぁ、んゅぅう」

 本人じゃないから、逆に良く聞き取れた。

 雰囲気もすごく似ていたので、ぼくらは不謹慎にもくすくす笑い声を出す。

「……先輩はあわてて立ち上がった。その瞬間!」

 いきなり三添さんはぼくの胸元めがけ、張り手を放った。

「わ!」

 突然のことに思わずのけぞる。

 手はぼくの体に当たらず、宙で止まっていた。


「……こうやって、けっつあんは、一発張り手を放った。あっという間に先輩は吹き飛ばされ、背後の冷蔵庫に背中をぶつけた。ぶつかった勢いで戻ったところ、張り手をもう一発」

 口から泡を飛ばしながら再び宙に張り手を放つ。

「冷蔵庫に当たってまた戻ると今度は三発目! ……ほかの先輩たちが駆けつけ、冷蔵庫の扉の前で気絶しているその先輩の背後を見ると、冷蔵庫には、くっきり人型のへこみが」


 そこで少し間。


 志田は素っ頓狂な声で言う。

「……うっそぉお」

「死んでるでしょ、それ。いまどきアニメでもそんなベタな演出しませんよ」

 京山なすびも口を尖らせる。

「信じないのは勝手だけど。……じゃあもうひとつ」

 勝手という割に、三添さんは悔しそうな表情を浮かべていた。


〈ピンポンパンポーン〉


 部屋のスピーカーからチャイム音が発せられる。

 もう次の予定の時間になってしまったのか。


〈点呼、点呼、新寮生のみなさんは各部屋ごと一階ピロティに集合、指導員の点呼を受けて下さい〉


 ピロティ、ってここで初めて聞いたことばだ。

 寮の玄関口の、外部に吹き抜けた広場のことをみんなそう呼んでいた。

 広場の天井部はちょうど二階の床下にあたり、コンクリの太い柱で支えられている。あとから知ったことだけど、そんな構造のことを建築用語でピロティと言うのだそうだ。


 ぼくら新入生は部屋ごとに縦列でピロティに並び、点呼を終えると指導員たちの準備ができるのを漫然と待っていた。

「それじゃ、いまからダンクンを始める。各部屋、人数揃ってるな?」

 指導員の中でもリーダー格の先輩は、あたりによく通る大きな声で叫んだ。

「南の四十五、欠員一名!」手を挙げて、その部屋の指導員が報告してくる。

「だれ?」

「さっきのやつ」

 声は出さず、ああ、という感じにリーダーは口を開いた。

「名前なんだっけ」

「吉……」

「あ、こいつか。吉岡、と……」

 リーダーはクリップボードにはさんだ名簿からそいつの名を見つけたらしく、ボールペンでなにやら書き込む。欠席のチェックだろうか。

「それじゃいくぞ!」

 胸元のホイッスルを口にくわえると、指導員リーダーは断続的にそれを吹き鳴らし始めた。



 ダンクン――団体行動訓練を実施する場所は、歩桜高校の敷地を出て数キロ延々走り続けた先にある。

 基本砂利引きの、だだっ広い平地で『やのべつインダストリアルパーク』の一角、工場か、研究施設だかの建設予定地を借りているそうだ。

 ダンクン時は入寮時に必ず買わされる見たこともないメーカーの、ノーセンスな紺色ジャージも必着で、ぼくらはみな、なんだかペンギンの群れにでもなったかのように、まとまって行動しなければならなかった。


「きょうは、そうだな。日曜日で天気もいいし、リバース点呼から行くか」

 リーダーの合図に新入生はみなうんざりした顔になった。

 そもそも天気とはまったく関係ない訓練だし。

 こんな天気のいい暖かい日に、むしろそれはやめてほしい。


 新入生約八十名は二グループに分けられ、それぞれ横一列、向かい合わせに並ばせられる。

「こっちの列三十六名」「こちら三十七名!」

 ぼくらの後ろにいた指導員は、それぞれの列の人数をカウントし、リーダーに報告した。

 未入寮者のいるため、当然八十に満たず、列の人数は合わない。

 いつもは名前のアイウエオ順とか、部屋ごととかに分けられているのに、今日は指導員の先輩の指示で適当に並ばされた。


 ぼくは三十六名側の真ん中あたり。真向かいは同室の志田。

 引きつったような顔をして、何となく落ち着かない様子をしている。そういえばきのう、これは苦手だと愚痴っていたのを思い出した。


「はじめ!」


 リーダーのかけ声で、列の左端にいる人間から右方に向かい、ひとりづつ大声で数を数え始めた。

 それぞれの列が向かい合わせになっているので、両端から数を数える声が聞こえてくる。ぼくのいる真ん中あたりでその声は一旦混ざり合い、めいめい列の終端に別れ離れていった。


「三十六!」


 ぼくの列の終端にいるやつは、声もからさんばかりに絶叫する。

「三十……はち!」

 ひと息遅れて向かいの列の終端からも、同じような絶叫が聞こえた。

 語尾はちょっとやけくそ気味の大声になっていた。

 ぼくらを取り巻く指導員たちは一斉ににやにやしはじめる。


「だれだよ……間違えんじゃねえよ」


 向かいの志田に隣り合う寮生は、舌打ち混じりにそうつぶやく。


「よし、間違えた列、あそこの看板まで、走 っ て こ い !」


 リーダーの怒声と共に、カウントに失敗した側の新入生たちは無言で走り出した。目的地は二百メートルほど先に見える、ここがなにかの建設予定地だということを示す看板だ。

「おまえらは休んでよし」

 全力疾走でぼくらから離れていく同級生たちを哀れみにも似た心持ちで眺めながら、残る全員はその場に腰を降ろした。

「……ざけんなよ、何がダンクンだよ」

 横の同輩はぶつぶつと小声で不満をぶちまけた。

 ぼくも同じ気持ちだった。


 この訓練とも言えないシゴキの恐ろしさは、向かい合わせに大声を出し合うため、自列と向かいの番号とをとり違えやすいってトコにある。

 ごていねいにも左から右へ首を振り向けながら番号を言わなければならず、混乱させる可能性をますます高くしてあるのも意地が悪い。

 数の合わない列はペナルティを課されて、自列にこういうことの苦手な人間がいると連続で走らされることも多く、寮に戻ったあと戦犯扱いされ口々に責められたり、時には殴られてしまうことさえあった。


 志田は先日そんな目に遭っていたのだった。


 向かい列の犠牲者たちは息を切らしながら戻ってきた。

 ぼくらは立ち上がり、もう一度整列した。

 肩で息をする彼らの状態を気にする様子もなく、指導員リーダーはのたまう。

「じゃもう一本いくか」



       5


 寮に戻ってきたのは夕方遅く。

 休日だというのに、ぼくらはへとへとになっていた。

 明日の入学式を控え、今日のダンクンは入学式前最後の特別メニューとして、新入生には予告無く実施されるようにあらかじめ組まれていたのだという。

 あれからリバース点呼を四本、回れ右とか、右向け右とか、軍隊でやるような動作訓練に加え、隊列を組む訓練、行進訓練――どれもこれも非情なペナルティ混じりの――など、一週間にわたりシゴキ続けられてきた目的不明の運動を連続でこなしたわけで、われながらよく体力も続いたと思う。


「なんだこれ?」


 隣から京山の調子外れな声がした。

 見ると、ベッドの上から、ビニールに包装された衣類を両手で持ち上げているところだった。

 自分や、ほかの部屋員のベッド上にも同様のものが置かれている。

 中には薄ねずみ色の綿ぽい上着、それと対になったズボンがそれぞれ二つずつ入っていた。

 もちろんどれも新品の様子。


『ああそれ? 平常服」


 少し遅れて戻ってきた三添さんに質問すると、そんな答えが返ってきた。

「ヘイジョウフク? ……ってなんです?」

 ビニールから上着と思われる衣類を出して広げてみると、ビルの建設作業員の着ているようなデザインをしていた。

 胸には、てかりのある青い糸で『御鳥』と個人名まで刺繍されている。


「新入生は入学したら、寮ではそれ、学校では制服を着ることになってる」

「えぇ?」思わず聞き直してしまう。

「じゃ、明日から毎日これですか?」

「かっこわる!」ほかの部屋員も口々に驚きの声を出した。

「半年ぐらいかな、私服は夏休み後に許可されると思うけど」

「許可って……Tシャツとか着ちゃダメなんですか?」甲高い声。

 部屋の中でも一番口数の少ない、ナマズのようにのっぺりした顔立ちの副島ふくしまが思いきり不満げな声を上げたので、驚いた。

 三添さんも驚いたような表情になって答える。

「平常服の下になら大丈夫だ。色指定はあるけど。基本、白Tだな、プリント、柄物、無地でも赤Tとか黒Tとかはやめとけ。先輩に目をつけられるぞ」

「えー、なんか納得いかない!」

 副島は女子みたいな口調になった。

 なよっとして、おまえ、ちょっと気持ち悪いよ。


「夏もこれ? 洗濯、大変だなぁ」

 なすびはぶつぶつ言い始めた。

「夏服は六月に入ってからな、配られるの。大丈夫、この辺はゴールデン・ウィークを過ぎても結構寒いから。上下二セットあるだろ? それまでローテでなんとかやりくりしとけ」


 そういえば寮で見かける上級生たちの中に、ときどきこれと似たような上着やズボンを着用しているひともいた。

 センスの悪い色とデザインの作業着を買うんだなあと思っていたけど、まさか全員に支給される服だったとは思いも寄らなかった。


「あ、これ不良品っス。ポケットついてない」


 背の高い素崎は大きなズボンを身体にあて、何度もひっくり返しながら言った。

「あれ、ぼくも……」

 自分のを見てもポケットはついていなかった。

 右側の臀部にのみワッペン型のヒップポケットが縫いつけてあった。

「今年からポケットはついてないらしい」

「え?」

「ズボンのポケットに手を入れて歩くとみっともない」

「はぁ?」

「いや、俺がそう思ってるんじゃなくて、寮側の話だよ」

 聞いたこともない理屈だ。

「ズボンのポケットに手を入れて歩くとホラ、姿勢が悪くなるって……」

 三添さんは自分のGパンのポケットに手を入れ、おおげさに背中を丸めた。

「ンなこと言ったって、不便じゃないスか」

 その素崎の不平にかぶせ、下ぶくれた頬をさらに膨らませた京山なすびも抗議に加わった。

「単に寮則で禁止すりゃいいだけじゃん!」

 やっぱりこいつの思考は野菜並みか。


 ――寮内ではズボンのポケットに手を入れることを厳禁とする……


 そんな寮則、どう考えてもヘンテコすぎるだろ。


「ん……まあ、そう思うけどさ。ともかく、俺たちがどんなに不便だろうと、ポケットがついてると手を入れたくなる、ならいっそ無くしてしまえ、ってことだ」

「そんなアホな」

 おどけたつもりはないだろうに、志田のその情けなさそうな声は、みなの冥い笑いを誘った。


 でも、これでわかった。


 高校の寮に入ったんじゃない。

 ここは牢獄だ。


 なんだか、ぼくの青春は始まりからすでに踏みにじられてしまっているのだ。

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