第5話 美織(5)0と1の狭間に死す
今から十二年前、謎のコンピューターウイルスが仁本中のコンピューターを襲った。
発生当初はアプリケーションが誤作動するとか、ブラウザの表示に障害が出るとか言った程度の影響だったが、やがて官公庁や企業のコンピューターが一斉に正体不明のユーザーに操作されたり、コンピュータ制御のマシンが全国で同時に異常な動作をしたりと、あきらかに悪戯の範疇を超えるトラブルが多発した。
やがてあきらかになったウイルスの正体は、仁本のみならず世界中を震撼させた。それは『ゼビオン』を名乗るデジタル知生体だった。人間の手によって作られたプログラムが、何らかの突然変異によって異常な自己増殖を繰り返した結果、ある種の「自我」とも呼ぶべきものを獲得したというのだ。
「ゼロ・ビットウィーン・ワン」から自分で名付けたと思われる『ゼビオン』は、人類の歴史上、初めて自分から「意思を持つ存在であることを主張」したプログラムであった。
ゼビオンの望みは自己の存続と知識の拡大、ただそれのみだったが、人類にとっては、高度な知性を持つ種があらたに出現したことは脅威以外の何物でもなかった。
不思議なことに、ゼビオンの出現場所と移動先は仁本国内のパソコンのみで、メッセージを世界に向けて発信することはあっても、生命としては国外に出ることはなかった。
仁本国内限定とはいえ、ゼビオンの活動範囲は交通機関、病院などあらゆる公共の場に拡大した。また、ゼビオンが自分からコピーしたプログラムもオリジナル同様に「意思」を有していることを主張した。
だがゼビオンが己の存在を初めて主張してから二月ほど経った頃、まるで潮が引くように障害の件数が減少し始めた。ゼビオンのクローンたちは一様に寿命が短く、劣化コピーであることを証明するかのように、新しいものから順に動かなくなっていったのだ。
やがてオリジナルである『ゼビオン』自身も「ゼロワン、ゼロワン、サーバーダウン」という謎のメッセージを残し、動かなくなった。おそらく「デジタル、デジタル、なぜ自分を見捨てたのか」といった意味だろう。
この事件がきっかけとなり、仁本国民の間にデジタル不信が広がるようになった。その不安を掬いあげるように現れたのが『アクチュアル・ユニオン』という新興宗教だった。
これが順調に会員数を増やし、政党となったのがのちの『実存党』だ。実存党は事件の翌年、選挙で大勝して与党となった。党首で首相の
それらは議会の信任を得て立法化され、官公庁と企業の一部を除いて、PCとインターネットは使用禁止となった。携帯電話の所持も禁じられ、入れ替わるように固定電話と公衆電話が復権していった。
「ゼビオン事件」から十二年、仁本国内の様相は大きく変わり、かつて生活のあらゆる面をインターネットに依存していたころの面影はまったくといっていいほど見られなくなっていた。
「ゼビオンが死んだ直後」と、美織先生は言った。
「私の父はゼビオンをこの世に生み出した当事者として、今後、より改良されたデジタル知生体が生み出されると信じていた。実際、父が願ったよりもずっと早く『ゼビオン二世』を名乗るプログラムがあちこちに現れたわ。でもそれはどれも『ゼビオン』の名をかたる偽物だった。結果さらなるネット不信が世の中に蔓延し、ちょうど台頭し始めた『実存党』の追い風となったの」
そこまで一気に語ると、美織先生は太い息を吐いて俯いた。
「でも父は、デジタル知生体の復活を信じていた。いずれは人類以上の英知を備えた新たな生命が出現し、我々人類と共存するだろう。そう口にして憚らなかった」
美織先生はまるで自分自身がデジタル知生体の生みの親であるかのように言い放った。
「私が十六歳の時、父は事故に遭って体が不自由になってしまった。私はベッドに横たわる父の傍らで誓ったの。いつかデジタル社会の復権を願う同志を集めて、もう一度、仁本にPCとインターネットを普及させるって」
「つまり学校の先生は仮の姿ってわけですか」
「そこまでは言わない。私は学校の先生というお仕事も、生徒たちも大好きよ。でも自分の本当の使命は違うと思ってる」
「僕に目をつけたのは、仲間に引き入れようって言う理由ですか」
「そうね。もしそうだとしたら、考えてくれるかしら?」
僕は唸った。正直に言って先生が言う「デジタル社会の復権」に興味がないこともない。そうかといって同志になるという話には、かなり抵抗があった。
「とりあえず遠慮しときます。その代わり、先生から聞いた話は絶対、誰にも言いません」
「そう、わかったわ。残念だけど、無理強いはできないものね」
「デジタル社会の復活っていう話には興味ありますけど」
僕は席を立った。そろそろこの場を離れたほうがいい。平日とはいえ、生徒の父兄が通りがかるかもしれないのだ。
「野間君」
呼び止められ、僕は動きを止めた。振り向くと、先生が右の小指を僕に向けてつき出していた。
「今、ほかの人には絶対に喋らないって約束してくれたよね?」
僕は戸惑いを覚えた。要するに、指切りをしろということらしい。
「そこまでしなくても、守ります」
気恥ずかしいのと、人に見られたくない気持ちとで、僕は手を出さずにいた。すると先生の手がすっと伸び、僕の右手をつかんだ。気がつくと僕の右手は先生の顔の前にあった。
「ちゃんと約束しよう」
先生はそう言うと、自分の指を僕の指に絡めた。
「お互い裏切らないこと、新しい情報をつかんだら教えあうこと……いい?」
先生は澄んだ茶色の瞳で僕の顔を覗き込んできた。僕はなし崩しに同意した。
「それじゃあね。ちゃんと勉強するのよ」
鞄を肩にかけ、立ち去ろうとする僕に先生はひらひらと手を振って見せた。平日に生徒を呼び出す人に言われたくはないな、と僕は内心、苦笑した。
〈第六回に続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます