第49話 明日人(4)君を行かせない
僕は、飛波の日記帳を見てしまった時の事を思い返した。
あの日記の前半は、ほぼ何も書いていなかった。おそらく新しい日記を買った元の「飛波」が、色々な事を書こうとした矢先に事故に遭い、「人工人格」に支配された。だから、これから書きこまれるであろう、心の中を僕に見られた気がしてあんなに怒ったのだ。
「僕は統郷の神社で、飛波の「お父さん」らしき男性と会いました。あの人はおそらく、元の「飛波」の父親であると同時に、人工人格『ゼビオンⅡ』の開発者、つまり『ゼビオンⅡ』のコピーである「飛波」の父親でもあったんです」
そう、あの時、男性が口にした「母親と同じだな」という言葉の「母親」とは『ゼビオンⅡ』のコピーである「飛波」の母親——つまりオリジナルの『ゼビオンⅡ』のことだったのだ。
「飛波」の父、つまり開発者は飛波の事を「オリジナルと同じで不完全だ」と言ったのだ。
「美織さん……残念ながら、人工人格がどれほど脳を支配しようと、肉体に封じ込められた本来の自分を支配することなんてできないんです。自分はどこまで行っても自分でしかないんだから」
「……くっ!」
美織先生は突然、駆け出すと、飛波が落としたナイフを拾って僕らにつきつけた。
「そう……おしまいなのね、なにもかも」
美織先生が振りかざした手を、僕は咄嗟につかんだ。思ったより強い力だった。
「馬鹿な真似は……やめてください」
僕はナイフを必死で食い止めながら、説得を試みた。しかしさすがに大人の力だけあって、ナイフの切っ先がじりじりと顔の前に迫ってくるのがわかった。
「一緒に来てほしかった……本当に」
美織先生の目に光る物が見えた、その時だった。
「やめろっ、美織っ」
突然、太い腕が美織先生を羽交い絞めにした。次の瞬間、美織先生の顔の横から、古屋の必死の形相が覗いた。
「離して……離してってば!」
美織先生が、それまで見せたことがないような狂おしい表情で叫んだ。その手首を、今度は別の手が背後からつかんだ。
「もう終わりなんだ、姉さん」
聞こえてきたのは、修吾の声だった。
「離しなさいっ、修吾っ」
「みくびらないでくれよ、姉さん。もう初めて会った十歳の僕じゃないんだ」
そう言うと修吾は、手首をつかんだ手に力を込めた。美織先生が「うっ」と呻くのと同時に、ナイフが手からこぼれ落ちた。力尽きて床に崩れた美織先生を、古屋が抱き留めた。
修吾は僕と飛波の前まで歩いてくると、僕にぶどう型のフルーツ・ボムを手渡した。
「真淵沢さんから、君に手渡すよう頼まれた。そいつを噛めば、脳に送られてくる人工人格の意識は今後、すべてシャットアウトされるはずだ。さらに今までの記憶も消去され、完全に元の人格に戻るそうだ」
僕は受け取ったぶどうを、飛波の顔の前に掲げた。
「飛波……口を開けて」
うっすらと開いた飛波の歯の間に、僕はぶどうを押し込んだ。
「さよなら飛波……それを思いきり噛んだら、お別れだ」
僕は自分が涙を流していることに気がついた。そうだ、僕もまた、元いた場所に帰る運命にあるのだ。
「飛波……僕もすぐ、同じことをする。決して君を一人では行かせない。いつかネットワークの海でもう一度、出会い直そう」
飛波の頬を涙が伝い、歯の間でぶどうの実がわずかにたわんだ。
「待ちなさい」
ふいに声が投げつけられた。僕は驚き、声のした方を見た。どうやら声の主は美織先生のようだった。……が、何かが違う。
「その必要はないわ、野間君」
声は確かに美織先生の口から発されていた。……だが、いつもの先生の声とは微妙に異なっていた。普段の声よりほんの少し高く、こもった感じだった。
「飛波さんもあなたも、すでに分離困難な状態まで同化しているわ。元の人格が、人工人格を受け入れて吸収しつつあるのよ」
何だって?……ということは、今、喋っているのは、元の「美織さん」なのか。
「美織が……つまり私が『ゼビオンⅠ』のコピーに支配された時、私は半ば強制的に眠らされていた。でも、意識の深いところではいつも、彼女にこう訴え続けていた。……お願いだから、私の事を思い出して。決して追い出したりしないから。一緒に生きましょう」
僕ははっとして、飛波の口からぶどうをつまみ取った。ぶどうは床に落ちて転がり、同時にそれまでうつろだった飛波が、まるでたった今、目覚めたかのように目を見開いて僕を僕を見た。
「野間君……私、今……どっちの「私」に見える?」
僕は、飛波を抱きしめた。
「どっちでもいい。そんなことはもう、関係ないんだ」
——気に入らないからといって、周囲を変えようとするのは間違っている。共に生きてゆく道こそが、唯一の答えなんだ——
「わかってくれたようね、野間君。私もこれから「美織」とうまくやってゆくわ。……でも、たまには昔の彼女のことも思い出してあげてね」
言い終えると、美織先生はがっくりと項垂れた。古屋が、力尽きた美織先生の頭を愛おしそうに撫で、抱きかかえるのが見えた。
〈最終回に続く〉
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