第48話 明日人(3)君は戻ってくる
「飛波!」
飛波はまっすぐ美織先生の方に進むと、傍らでぴたりと足を止めた。
「飛波、これで野間君を殺しなさい」
「はい」
美織先生にナイフを手渡された飛波は、無表情な顔を僕に向けた。
「野間君、死にたくなければナイフを奪って彼女を殺しなさい。……飛波、行きなさい」
「はい」
飛波は体の前でナイフを構えると、僕との距離を詰め始めた。もとより戦う気のない僕は、後ずさりする以外に無かった。
「やめろ、飛波……本気なのか」
飛波が利き足に力を込めるのが見え、僕は反射的に後ろに跳び退った。顔の前を紙一重の距離で刃がかすめ、心臓が跳ねた。とても飛波の動作とは思えなかった。
「やっぱり……だめなのか」
僕はじりじりと後ずさった。本当に僕らの決着はこれしかなかったのだろうか。
「どうしたの?ナイフを奪いなさい」
美織先生が、冷たく言い放った。飛波は表情を変えずに詰め寄り、やがて僕の背中は壁に当たってそれ以上、下がることができなくなった。
「くっ……」
気が付くと僕の前に飛波がいた。飛波はナイフを腰だめにすると、僕を見据えた。
僕はポケットに手を入れると、唯一の武器を取りだした。飛波が突進を始めた瞬間、僕はバナナ型のボムを飛波の足元に投げつけた。
「あっ」
飛波の足元で、衝撃を受けたバナナが液化した。足を滑らせた飛波はバランスを崩し、前のめりに転倒した。僕は駆け出し、飛波が取り落したナイフを蹴り飛ばした。倒れた飛波の様子を見ようと振り返った瞬間、胸の前を鋭い蹴りがかすめた。
「うわっ」
僕は思わず身を引いた。これが本当に、飛波の動きなのか?
「はあっ」
蹴りの次は、手刀が飛んできた。僕はよろめきつつ、どうにか攻撃をかわした。
「やめろ、目を覚ますんだ、飛波」
僕はフロアを横切ると、長テーブルを盾にした。飛波は動きを止めると、長テーブルの両端をつかみ、やおら持ち上げた。恐怖を感じた僕は再び駆け出した。
直後、背中に風を感じたかと思うと、テーブルが折れる派手な音が聞こえた。
振り返ると、ナイフを拾いあげた飛波が僕の前まで迫っていた。もう逃げる場所はない。僕は覚悟を決めると、壁を背に飛波を見た。
「好きにしたらいい。……そのナイフで、今までの僕らの記憶をずたずたにすればいい」
僕は飛波の瞳を見据えた。おそらく何も映ってはいないだろう瞳を。
飛波は僕の正面に立つと、ナイフを構えた。僕は静かに目を閉じた。
——さようなら、飛波。
僕は待った。……が、いくら待っても最後の時はやって来なかった。僕は思い切って目を開けた。そこには奇妙な光景があった。
飛波は、ナイフを構えたまま硬直していた。見ると手が小刻みに震えていた。
やがて飛波の目尻から涙が一筋、流れ落ちた。
「野間君……私は、飛波」
その目を見た瞬間、僕ははっとした。目の前の飛波の表情が、記憶の中のある表情と結びつき、僕は一瞬で何が起こったかを理解した。
「君が……本物の「飛波」なのか」
「そう……長い間、夢を見ていた……あなたを「飛波」に殺させはしない」
今、ナイフを構えているのは『ゼビオンⅡ』の送り込む意識の下で眠り続けていた、かつての「飛波」、つまりこの肉体の本当の持ち主なのだった。
涙が顎からしたたり落ち、ナイフを持つ手の震えが大きくなった。おそらく、本当の「飛波」と、美織先生によって初期化された「飛波」とが、一つの身体の中で戦っているのだろう。
……やがて、ナイフを持つ手が力を失い、手を離れたナイフが冷たい音を立てて床に落ちた。力尽きたようにがくりと崩れ落ちた飛波を、僕は抱き留めた。
「……どういうことなの、これは?」
振り返ると、美織先生が信じられないと言った表情でこちらを見ていた。
「わかりませんか……本当の「飛波」は、自分の心を写し取ったもう一人の「自分」が、友達を殺すことに耐えきれなかったんです」
「まさか、元の人格が人工人格に勝ったってこと?」
「彼女たちはもう、半ば一つの人格なんです」
僕は直感した。僕もまた、元の僕と一つになろうとしているに違いないと。
「僕と飛波は刹幌に来てすぐの頃、ラーメン屋に入りました。そこで飛波は「お父さん」と呟きながら涙を流してラーメンを食べました。思えばあれは、身体の奥深く封じ込められていた本当の飛波の、幼い頃の記憶だったんです。そしてその頃から、元の彼女が徐々に目覚め始めたんです」
〈第四十九回に続く〉
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