第43話 古屋(8)君がいないなんて
一階に降りた飛波の足取りは、まっすぐ特定の方向を示していた。後を追っていた僕はほどなく現れた光景に、目をみはった。
一階の開けた一角に、ピアノに似た楽器が置かれていた。楽器は木製で、その前に椅子に腰かけて一人の女性が演奏を続けていた。
飛波はゆっくりと楽器に近づくと、女性の傍らで足を止めた。すると飛波の動作に合わせるように、女性も楽器を演奏する手を止めた。
「ごくろうさま。あなたの仕事は、終わりよ」
女性が立ち上がり、こちらを向いた。眼鏡の奥の瞳がまっすぐ僕を捉えていた。
「美織先生……」
「なかなかいい頑張りだったけど、ここでおしまいよ、野間君」
「飛波を、どうしたんです!」
僕が問いを放つと、美織先生は、無表情で立ち尽くしている飛波を一瞥した。
「どうもしないわ。元の状態に戻しただけよ」
「元の……状態に?」
「初期化した、と言ったらわかりやすいかしらね」
僕は雷に打たれたような衝撃を覚えた。……今、なんて言った?
「飛波!ぼくがわからないのか?」
呼びかけると、飛波はゆっくりとこちらを向いた。その目は、ガラス玉のように何の感情もたたえていなかった。
「飛波……まさか」
僕の脳裏に、一つの単語が閃いた。しかし、そんな。
「……君は、人工人格なのか?」
「そうよ」
飛波は一切、抑揚のない口調で言った。
「どうして……君は一体、何者なんだ」
「これでわかったでしょ。本当はあなたに彼女のこんな姿を見せるのは忍びなかったけど……あなたがいけないのよ、彼女を信じたい一心でこんなところまでやってくるんだもの」
僕の中で、何かを言わなければならないという思いが渦巻いた。しかしそれは胸の奥でことごとくちぎれ、飛び散った。
「飛波。忘れたのか?今まで一緒に戦ってきたじゃないか。あれは何だったんだ?」
いくら呼びかけても、飛波の瞳に感情の光が戻る気配はなかった。
「無駄よ。一度初期化されたら、過去の記憶などなかったも同じ……そう、あなたのこともね」
「いや、どこかに保存されているはずだ、僕との記憶が」
「もう、あなたの力ではどうにもならないの。あきらめて私と一緒に来なさい」
「いやだ。飛波は僕が連れて帰る。……たとえ、僕のことを覚えていなくても」
「それは無理だって言ってるでしょう。……そんな事より、自分の身を心配なさい。野間君」
「何だって?」
美織先生が指を鳴らすと、楽器の陰に潜んでいた影が、むくりと身を起こした。
立ち上がったのは、全身を金属の強化服に包んだ二メートル近い巨人だった。
「彼を倒さなければ、飛波を連れ戻すことはできないわ……さあ、遠慮はいらないから、あの子を身動きできないようにして」
美織先生が命ずると、強化服のフェイスカバーがすっと開いた。現れた顔を見て、僕は言葉を失った。強化服の中にあったのは、古屋の顔だった。
「久しぶりだね、野間君」
「古屋さん……僕らの味方じゃ、なかったんですか」
「味方だよ……幸福が何かってことを君たちに教えるために、ここで待っていた」
古屋はうっとりした表情で、歌うように言った。僕は背筋に冷たい物を感じた。
「幸福って、なんの事ですか」
「AIの統治する、安全で豊かな未来のことだよ」
「AIの……じゃあやっぱり、敵に洗脳されたんですね」
「違う。私は美織の正しさに気づいたのだ。昔、理解できなかった彼女の崇高な理念に、ようやく気づくことができたのだ……だから理解できない人間は、誰であろうと倒す」
古屋は再びフェイスカバーを閉じると、前に進み出た。まともにやりあっても勝てる見込みは万に一つもない。僕は後ずさって時間を稼いだ。
「さあ、ゆくぞ!」
古屋は金属に包まれた太い腕を、僕に向けて薙ぎ払うように振った。僕は咄嗟に身をかがめ、床の上に転がった。頭上でぶん、と空気が鳴り、腕が空を切る残像が見えた。
僕が身を起こすと、古屋は早くも次の一撃を繰り出すべく、間合いを詰め始めた。僕はダウンベストのポケットに手を入れた。
「おとなしく、やられろ!」
古屋が右脚を引いた。蹴ってくる、そう感じた僕は思いきり跳躍すると、ポケットから出したフルーツ・ボムを古屋めがけて投げつけた。ぐしゃりと果実の潰れる音がして、ボムは古屋の頭部にぶつかった。
「くっ……ふざけた真似を」
僕は勢い余ってつんのめりながら、古屋の脇をすり抜けた。背後に躍り出た僕は素早く距離を取ると、古屋の動きに集中した。古屋の強化服から、ビープ音のような耳障りな音が響き、一瞬、挙動が止まった。
「くそっ、どこに行った」
僕は再びポケットに手を入れると、古屋が攻撃してくるタイミングを計った。
古屋が再び腕を振り上げ、それに合わせて僕は逆の方向に駆け出した。直後、古屋の手首が弾丸のように飛び出して僕の首を捉えた。
「そちらが小道具を使うのなら、こっちも仕掛けを使わせてもらう。同じ手は二度とは食わないよ、野間君」
古屋の手は僕の首を捉えたまま、ワイヤーでつながっている腕の方へ戻っていった。僕はがむしゃらにもがいたが、あえなく古屋の方へと引きずられていった。
「なかなかいいファイトだったが、これまでだ」
緑色の果汁に塗れたフェイスカバーが開き、憎悪に満ちた古屋の顔が現れた。
「ぐうっ……」
古屋は僕の顔を自分の顔の高さにまで引き上げると、もう一方の手で僕の顔をわしづかみにした。強い力で顎を挟まれ、僕の口は否応なしに開いた。
「もうすぐ我々の仲間になれる。怖がらなくてもいい」
古屋が告げると、僕の顔を掴んでいる手の平から、銀色に光る筒が飛び出した。
あれは……ナノボットの射出口だ。
僕は両腕を強化服の脇腹に回し、裏側をまさぐった。ナノボットの射出口が僕の口にねじ込まれ、金属の嫌な味が広がった。と、右手が不意に穴のような物に吸いつけられた。
吸気口だ、と僕は直感した。僕はいったん穴から手を離すと、ポケットに手を滑り込ませた。指先が丸く固い物体を探り当て、僕はそれを握り占めた。
「さあ、もっと大きく口を開けるんだ」
古屋が囁いた瞬間、僕はつかんだ物体を、吸気口にあてがった。
——長く持ってると、おがりすぎて爆発することがある。
「むっ?」
ずずっ、と言う音がした後、ずぼっという派手な音と共に僕の手からオレンジが消えた。
「うっ……ああっ?」
古屋の表情が歪み、僕を捉えていた腕の力が緩んだ。僕は渾身の力を振り絞って腕の束縛から逃れた。
「きさま……いったい、何をした」
強化服の接合部からしゅっ、しゅっ、と音がして、気体が漏れるのが見えた。はたしてこんな方法で奴の動きを止められるのだろうか……そう思った時だった。
「ごがっ!」
強化服の肩のあたりが歪み、膨れ上がったかと思うと、胸から上の部分が凄まじい破裂音とともに吹き飛んだ。消え失せた装甲の下から、茶色い液体に塗れた古屋の顔が現れた。
「こしゃくな……真似を」古屋は口から泡を吹くと、前のめりに床に崩れた。
「さあ、どうする、美織先生」
僕は美織先生に詰め寄った。その時、にわかには信じがたい出来事が起きた。
飛波が、両手を広げて美織先生の前に立ちはだかったのだ。
「飛波……」
「わかった?もう何もかもが手遅れなのよ、野間君」
美織先生は後ずさると、背を向けた。そのまま出口に向かって歩を進めようとした時、苦しげな声が先生の背中を呼び止めた。
「美織……僕を置いていくのか」声の主は古屋だった。
「一緒に未来を作ってほしいというのは……嘘だったのか」
美織先生は振り返り、床に這いつくばって手を伸ばしている古屋を見下ろした。
「古屋君……あなたは私のいる世界には来られない。こんな半分、人間を捨てた女じゃなくて、普通の女性を見つけて幸せになって」
そう言い残すと美織先生は身をひるがえし、外に向かって駆け出した。一呼吸おいて、飛波も後に続こうとした。
「飛波、待って!」
飛波は入り口の所でぴたりと足を止めた。外光にあおられ、シルエットになった飛波は顔をわずかにこちらに向けた。
「さようなら、野間君」
短い言葉を残し、飛波は外に消えた。僕は後を追って、戸外に飛び出した。強い外光に目がくらみ、僕は思わず足を止めた。
やがて光になれた僕の目に飛び込んできたのは、美織先生と飛波が、高所作業型ローダーのバスケットに乗り込もうとしている姿だった。
〈第四十四回に続く〉
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