第33話 メノ(6)素直になれなくて


                 ⑹


三十分後、僕は『ハヌマーン』のテーブル席でチキンカレーを待っていた。創業以来の定番メニューだというチキンを、半ば強制的にオーダーさせられたのだった。


「この店に来るなら、まずこいつを食べてもらわなくちゃね。こいつを食べずにほかのメニューを注文するのは、このあたしが許さないよ」


 弦太の母親で、この店の創業者だという多嶋昌枝たじままさえが得意げに言い放った。


 僕は恐る恐る、焦がしバジルの浮いたスープを一口、啜った。動物性の旨みとフルーティな甘さが深いところで絡み合い、舌の上でハーモニーを奏でるのがわかった。同時に複雑な香辛料の匂いが鼻に抜け、スープが喉を通り過ぎるとより一層、食欲が増すのだった。


「どうだい?うちの一番人気メニューの味は」


「おいしいです。今まで食べた中で一番」


 僕はお世辞抜きで絶賛した。チキンもよく煮込まれ、口に入れるとほろほろと崩れてきた。言うまでもなくスープとの相性は抜群だった。


「そうだろうさ。こいつを食べれば試験に落ちようが、大失恋しようが、たちまち元気が補充されるのさ」


 昌枝は腰に手を添え、どんなもんだとばかりに胸を反らして見せた。


「失恋か……」


 僕はさじを皿に戻すと、口を噤んだ。


「ん?どうしたね、その顔は。ガールフレンドのご機嫌を損ねたって顔だね。違うかい?」


「……ええ、まあ。そんなところです」


 僕は気が付くと、統郷から逃げてきたことも含め、飛波との出会いから今日までをあらいざらい、ぶちまけていた。


ふんふんと頷きながら僕の話を聞いていた昌枝は、一通り聞き終えると「ふう」と大げさに肩をすくめて見せた。


「だらしないねえ。あんたそれでも男の子かい」


「えっ」


「その子があんたに隠し事をしてたことが、そんなにショックかい」


「それは……信じてたから、余計に」


「じゃあ、端末とやらを見られた時、彼女が受けたショックの事は考えてみたかい?バッグに無造作に突っ込んだままトイレに行ったってことは、あんたのことを信用してたってことじゃないのかい」


「あっ……」


 僕は言葉を失った。確かに本気で隠すつもりなら、ほかにいくらでも隠し場所はあったはずだ。


「彼女が何者かってことが、あんたたちの今までの関係にそんなに大きな影響を及ぼすとは、あたしには思えないんだがねえ」


 僕はうつむき、少しだけ恥じ入った。言われてみれば、そうかもしれない。


「その子が出ていった理由だけどさ。よもや、あんたに端末を見られて動揺したからだけだと思ってないだろうね?」


「それは……」


「誰だって信用してた子に、勝手に秘密を見られたら心が折れるに決まってるじゃないか。あんた、彼女にその場で謝ったかい?」


「………」


「正体がばれるだのなんだの以前に、傷ついている女の子を前に一言も詫びの言葉が浮かばなかったことに、彼女は失望したんじゃないかと思うけどね、あたしは」


 僕は頭をぶん殴られたような衝撃を感じた。飛波は僕と同じかそれ以上にショックを受けたのに違いない。


 一つは端末を見られたこと、もう一つは、僕が真っ先に謝ることをせず、疑惑の目で彼女を見てしまったこと。


「そりゃあ怒って出て行くわよねえ……彼女きっと、恥ずかしかったんだよ」


「恥ずかしかった。……そうだったのか」


 僕はがっくりとうなだれた。正体がどうこうなんて、後でいくらでも確かめられるのだ。自分の受けたショックばかりが気になって、僕は飛波の気持ちになど一切、思い至らなかった。


「今からでも遅かないから、今度会ったら真っ先に謝るんだね。それもできないようなら、あんた、男じゃないよ」


 昌枝はテーブルの上のフォークを手にすると、僕に向かってつきつけた。


「……はい。謝ります。色んな事を考えるのは、それからにします」


「そうしな。それが一番だよ。……さあ、さっさとそいつを食べちまいな。ちなみに、うちのスープは冷めてもおいしいからね」


 僕は言われるまま、スープを口に運んだ。驚いたことに、時間が経って少し温度の下がったスープは、一口目とは全く違った甘みとコクがあった。本当に、このおばさんは、何者なんだ?


「あのう、女将さん」


「女将ねえ……実を言うと、この店を始めてまだ十年もたっていないんで、そんな風に呼ばれるのは面はゆいね」


「お店を始められる前は、主婦か何かだったんですか?」


「統郷でエンジニアをやってたよ。プロフェッサー昌枝とか呼ばれてね。「ゼビオン事件」をきっかけにあっちに見切りをつけて、一番弟子だった奏絵ちゃんを引き抜いて、生まれ育った北の大地にランデブーってわけさ」


「えっ……じゃあ、まさか奏絵さんを引き抜いた上司っていうのは」


「あたしのことだけど、気に入らないかい?」


 僕はあっけにとられた。逃避行、なんて言うから、てっきり男性の上司だとばかり思っていたのだ。


「この物件は、もともとうちの親が所有しててね、不肖の息子に任せていたら、さっぱり儲からない楽器屋にしちまったんだ。だから「せっかく調理師免許があるんだから、飲食店をやりな」って喝を入れたわけさ。

 五年も十年もインドやらスリランカやらさんざん放浪してきたんだから、カレー屋でもやればいいんだよって」


 それで、地下がカレー屋になったのか。僕は知っているつもりの人たちの、新たな一面を見たような気がして、少し愉快になった。


「もう少ししたら奏絵ちゃんが来るから、あたしは少し奥で休ませてもらうよ。……あっ、いらっしゃい」


 開いたドアから姿を現したのは、姫川たちだった。全員が疲れたような、それでいて興奮冷めやらぬ表情を浮かべていた。


「いやあ、凄い事実がわかりましたよ……あ、オーナー、お久しぶりです」


姫川が、ぺこりと頭を下げた。おそらく、色々な事で世話になっているのだろう。

「おや野間君、早かったね。……あれっ、飛波ちゃんは?別行動?」


 姫川が首を傾げた、その直後だった。とことこと階段を降りてくる小さな足音が聞こえ、やがてドアが遠慮がちに開かれた。


「あっ……飛波」


 ドアの隙間から顔を出したのは、飛波だった。僕は席を立つと飛波に近づいた。


「あの……ええと」


 口ごもっている飛波を前に、僕は思いきって床に膝をつき、深々と頭を下げた。


「ごめん、飛波。……勝手に端末を見たりして、悪かった。もう二度としないから、許してくれないか」


 頭を下げ続けていると、膝に置いた手にそっと手が重ねられる感触があった。


「私こそ、ごめん。……野間君、明日からも一緒に、旅を続けてくれる?」


 僕は顔を上げ、飛波を見た。目が、潤んでいた。


「もちろん。こちらこそ、よろしく」


 後ろの方で姫川が「何だかわからないけど、良かった」と言っているのが、聞こえた。


             〈第三十四回に続く〉


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