第24話 飛波(5)スパイスと逃亡者



 階段を降り切ると、突き当りに木製の扉が現れた。扉には『ハヌマーン』と彫られた木のプレートが掲げられていた。さすがにここまで来ると、疑いようもないほど濃厚なスパイスの匂いが漏れ出ていた。


 僕は思いきってドアを押し開けた。中は思いのほか、広々としていた。地下のせいか天井が低く、落とした照明の中でアジアの民芸品と思われる人形や装飾品が神秘的な魅力を放っていた。


「あら、もう来たの」


 店の奥から現れたのは、奏絵だった。バンダナを巻き、お経のような文字がプリントされたエプロンをつけていた。僕らは暗い店内を、奥へと進んだ。


「その辺に座って待っててもらえるかしら。……お水を持ってくるわね」


 僕らが適当なテーブルに腰を落ち着けると、奏絵さんが銅製のコップに水を入れて戻ってきた。


「良く見つけたわね。上の店員さんに教えてもらったの?」


「ええ、まあ……でも、看板も出てないし、これじゃあ普通の人には見つけられませんよ」


「うふふ、そうよね。いい具合に時間つぶしになるかと思って」


「まさか地下にあるとは思いませんでした。何だか秘密クラブみたいですね」


「そうでしょ。うちのオーナーのこだわりなのよ。常連さん中心のお店にしたいって……せっかくだから、何か食べてく?」


「実は、ラーメン食べちゃったんで、あんまりお腹が空いてないんです」


「あ、そうなんだ。……わかったわ。じゃ、私がラッシーおごったげる」


 奏絵はそう言うと、キッチンに姿を消した。ラッシーというのはヨーグルトドリンクのことだ。スパイシーな食べ物と相性がいいと言われている。


「こういうお店、私、初めてだな」


 飛波が目を丸くして言った。僕は少しだけ、エスコートしている気分になった。


「僕は刹幌にいたころ、よく両親とスープカレー、食べに来てたよ。納豆の入った奴がうまいんだよな」


 僕はメニューを見ながら、知ったかぶりを披露した。飛波は珍しそうにあたりを見回していた。


「あっ」


 突然、飛波が声を上げた。


「どうした?」


「あの人形……動いた気がする」


 本当かよ、と思いながら、僕は飛波が目で示した方向を見た。踊りの途中で固まったような、猿を思わせる人形が棚に置かれていた。


「あれが、動いたのか?」


「うん。……あ、あっちの人形も動いたみたい」


 僕は飛波が指さした方を見た。反対側の壁の窪みに置かれた鳥の人形が、たしかに一瞬、羽根を震わせたような気がした。


「からくり人形か……?」


僕らはもう一度、動かないものかと人形をまじまじと見た。痺れを切らしたころ、奏絵さんが白い液体がなみなみと注がれたコップをトレーに乗せ、姿を現した。


「どうしたの二人とも、びっくりした顔して」


「あの人形……動いたんです」


 僕が指摘すると奏絵さんは「ああ、あれね」と表情を崩した。


「動くわよ。動くようにできているもの」


「じゃあ、やっぱりからくり人形なんですか」


「そうねえ……からくりっていうか、生きてるのよね。うふふ」


 奏絵さんは不気味な冗談を口にしながら、コップをテーブルの上に置いた。


「やめてくださいよ、怖いことを言うのは」


 僕が顔をしかめると、奏絵さんの顔に一瞬、困惑の色がうかがえた。


「うーん。これはちょっと説明が必要かな。……ま、いいや。とりあえず、飲んじゃって」


 僕らは勧められるまま、水滴のついたコップに口をつけた。甘くとろりとした液体が、舌の上を通って喉に滑り落ちた。


「うん、おいしい」と僕が言うと「私、この味、好きかも」と飛波も唇を舐めた。


 ——なんか刹幌に来て、はじめてだな。こんなにくつろいだ気分は。


 追われていることも忘れ、椅子の上で体をのばしかけた、その時だった。


 どすんと何かをひっくり返すような音が、上の方で聞こえた。続いて金属が床にぶつかるような音、何かを喚き散らすような声が聞こえたかと思うと、何者かが階段をどたどたと駆け下りてくる気配があった。


「何かしら……あっ」


 奏絵さんが言いきらないうちにドアが開け放たれ、丸っこい人影が転がり込んできた。


「あっ、あの人——」


 飛波が床に手をついて全身をあえがせている人影を見て、叫んだ。


「アーケードで見た人だ」


 人影は、先ほど、アーケードの中を外国人から逃げていた男性だった。


「ふう、ふう」


 男性は、しきりに背後をうかがいながら、荒い息を吐いた。血走った眼と額にびっしり浮かんだ汗の玉が、男性がいまだ逃走中であることをうかがわせた。


「……姫川ひめかわさん、どうしたんです?」


 奏絵さんが声をかけると姫川と呼ばれた男性は「と、とにかく鍵をかけて」と、絞り出すように言い、入り口近くのベンチにぐったりと体を預けた。


「追われてるんですか?さっきの外国人に」


 飛波が声をかけると、姫川はぎょっとしたようにベンチから跳ね起きた。


「どっ……どうしてそれを知ってるんだ?」


「だってさっき、私たちにぶつかったじゃないですか」


 咎めるような目を向けてきた姫川を、飛波はばっさり切って捨てた。


「あっ……そうだっけ、それは失礼しました」


 姫川は大きな体を形ばかり折りたたんだ、その時だった。上の方からどたどたという足音とともに、複数の人間の怒声が響いてきた。


「上の店で何かあったのかな」


 僕が呟くと、人間が転倒したような大きな音が響き渡った。


「あ、あいつらが来たんだ。ど、どうしよう……」


 姫川の額にびっしりと汗の玉が浮いていた。が、物音はそれ以上、聞こえては来なかった。様子をうかがっていると、階段をゆっくりと降りてくる音がした。


「く、来る、来るううっ」


 姫川は頭を抱えてうずくまった。やがて足音が止まり、ドアが開けられた。


「上の音、聞こえたかな?」


ドアを開け、顔を出したのは楽器店の店員だった。


「あ、あいつらが来ただろう。こっちに来たら見つかるじゃないか」


「ああ、来た。来たけど、偵察に現れた二人をのしたら帰っていったよ。ああいう、楽器を大切にしない連中に店を荒らされたらかなわないからな」


 丸眼鏡の店員は、立腹をあらわにしていった。


「本当に……帰ったのか?」


「ああ、しばらくは来ないだろう。君の知り合いなのかい、あの連中は」


「いや、違う。あいつらは電子部品を集めて売りさばいてるごろつきさ」


 姫川は目に恐怖を宿しつつ、吐き捨てるように言った。


「そうか。もし知りあいなら、楽器を壊された時に請求書を渡すところなんだが」


 店員はどこか間延びした口調で言うと、上の階に戻っていった。


 僕はふと思い出し、ポケットから黒い電子部品を取りだした。


「これ、落としませんでしたか?」


「ああっ、これ!……どうりで無いと思ってたら!」


「僕らとぶつかった時に、落としていったんですよ」


「そうだったのかあ。……いやあ、助かった」


 姫川は僕からパーツを受け取ると、安堵したように目を細めた。


「……これって、PCのパーツですよね」


 いきなり飛波が割って入り、姫川の目が警戒するように細められた。


「……素人は知らないほうがいい」 


「もし、姫川さんPCに詳しいなら、こんな噂を聞いたことないですか?ホワイトフェスティバルの間だけ開くインターネットカフェがどこかにあるって」


 飛波が問いを発した途端、店内に沈黙が満ちた。当然だろう。インターネットという言葉は、口にしただけで取り締まりの対象になりかねない要注意単語なのだ。


「どうしてそれを……」


 姫川のあからさまな狼狽ぶりに、今度は飛波が目を丸くする番だった。


           〈第二十五回に続く〉

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