第十話 ヒーローは召喚術士を甘やかしていました 後編


「探したぞ、少年」

 リイトが声をかけると、少年は素早く路地裏に駆け込もうとした。

「待て」

 音も立てずに近寄ったリイトに襟首を捕まれ、少年はひょいと持ち上げられてしまう。

「は、離してくださいっ!」

「なに、少し話を聞かせて欲しいだけだ」

 リイトが少年を探していたのは、彼が二度もゲブルに絡まれていたからだ。何か理由があるならば、正義の味方として放っておけない。

「貴方と話をする事なんて無いです!」

「そう警戒しないでくれ……そうだ、腹は減っていないか? 飯でも食べながら話そうじゃないか」

「飯……」

 食いついた! とリイトは歓喜する。このチャンスを逃してはいけない、何としてでも少年と話をしなければと、必死になって言葉を探す。目的と手段が逆転し始めている。

「そうだ。ハンバーグと言ってな、ミンチにした肉をこねて形を整えたものを焼くんだ。ミンチにしたことで柔らかくなった肉から溶け出す脂は濃厚で、甘じょっぱいソースとよく合う。絶品だぞ?」

 ごくり。

 と、少年が喉を鳴らす音が聞こえた。

(勝った!)

 リイトは心のなかで快哉を叫ぶ。

「すぐ近くの宿屋で食べられるんだ。さあ行こう」

「でも僕、お金持ってないし……」

「それくらいならご馳走するとも! さあ、さあ!」

「う、うん……」

 リイトの勢いに思わず首を縦にふる少年。手を引いて年端もいかない少年を宿屋に連れ込むリイトの様は、彼が元いた世界であったらすぐさま通報されてもおかしくない光景であった。

 こうして二人が訪れたのは、先週までクリムとリイトが宿泊していた宿である。

 相変わらずの賑わいを見せる店の戸を開くと、気付いた女将が嬉しそうに駆け寄ってきた。

「リイトさん! 一週間ぶりねぇ、今日はどうしたの? それにそっちの子は?」

「今日はこの子にハンバーグを食べさせてやろうと思ってな。席は空いてるか?」

 リイトが振舞っていた洋食レシピの一部を受け継いだ女将は、リイトが宿を去った後も、彼の許可を得て店のメニューに乗せていた。おかげでこれまでに無いほど繁盛していると感謝されている。

「まぁ! わざわざウチに? リイトさんが作るほうが美味しいでしょう」

「今は屋敷に帰れない理由があってな……」

 もう日も落ちて、そろそろ夕飯の支度をしてやらねばと思うものの、アレだけ拒否されてはどの程度まで世話をしていいのか分からない。いくらズボラな彼女でも、夕飯くらいはなんとかするだろう。

「なぁに? 夫婦喧嘩? こういう時って男は弱いものねぇ」

「それは違うが……」

 邪推する女将に狼狽えるリイトだったが、気を取り直して注文を告げる。

「ハンバーグを二つ頼む。それと酒以外の飲み物をこの子に、俺は要らない」

「それはいいけど……ご飯の前にお風呂に入ってきたら?」

「風呂? そんな物この宿にあったか?」

 以前泊まった時は水で濡らした手ぬぐいで体を拭くことしか出来なかったはずである。不思議そうにするリイトに、女将は得意げになって言った。

「あったのよそれが! まだ私が嫁いでくる前、それこそ旦那が子供の頃には使ってたそうなんだけど、街の中心が上流に移ってからはお客さんが減っちゃって、使わなくなってたんですって。でもリイトさんのおかげで蓄えに余裕ができたからね、綺麗にしてお湯屋さんと契約したのさ」

「お湯屋……?」

 リイトの知る限り、その単語は銭湯などを表す言葉だったはずである。

「なんて言ったかしら、精霊遣いエレメンタリスト? の見習いさんが良くやる仕事よ。それなりに大きい宿屋を回って、浴槽に張った水を温めてくれるのよ」

 クリムもそうした仕事を帝都でやっていたのだろうか? と考えるリイトであるが、こうした小さな宿屋にもお湯屋が回ってくるのは、水の豊富なピルケくらいである。帝都では大きい宿屋か公衆浴場にしか庶民の入れる風呂はなく、もっぱら専属の召喚術士が付いている。

「確かに食事をするにしては二人共汚れすぎていたな、俺も入らせてもらおうか。お代はいくらになる?」

「リイトさんからお金なんて取らないわよ! 前は物置だった部屋がお風呂だから、この鍵で入って頂戴」

「ありがとう女将さん。さ、行くぞ少年」

「え? は、はい……」

 完全に置いてけぼりを食らっていた少年であったが、リイトに促され、勝手知ったるとばかりにズンズン進む彼の後をついていく。

 その様子を微笑ましげに見送る女将だが、これも文化の違いか、リイトの元いた世界で見ず知らずの少年を風呂に連れ込むなど、確実に通報される案件である。彼本人は気付いていないようだが。


 風呂場はさほど広くない。二、三人が入れる程度の浴槽があるばかりだ。洗い場には大きな水瓶が置いてあり、そこで身を清めてから湯船に入る仕組みである。

 相変わらずオドオドと怯えていた少年だったが、背中を流してやる内に少しづつ打ち解けられたようだった。

 沸かしたばかりで熱いお湯に浸かりながら、リイトが少年に尋ねた。

「そういえば自己紹介もしていなかったな。俺の名は藤原リイト」

「ユーリ……です」

「歳は?」

「十歳です」

 栄養状態が良くないのか、痩せて背の低い彼をもう少し幼いと思っていたリイトは、やや驚きながら本題に入る。

「ユーリ、君は何故あんな場所に?」

 彼らが居たのは人気のない路地裏の空き地である。子供が一人フラフラしているような場所ではない。

「その……食べ物を探していて……」

「食べ物? あんな場所でか?」

「あの辺りは酒場が多いから、残飯とかもよく出てて……それで」

 ユーリの言葉にリイトは息を呑む。彼の常識からしたら、年端もいかない少年が残飯を漁って食べているなど信じられなかった。

「君のような子供は、他にも居るのか?」

「この辺には居ません。食べ物には困らないけど、怖い人も多いから……もうちょっと下流に行けば、何人か居ます」

「……両親はいないのか?」

「うん……」

 聞けば、最下流側に行くと彼のような孤児は珍しくないらしい。彼らを受け入れる孤児院もあるにはあるが、収容人数にも限界はある。そこからあぶれた子供達は乞食のような生活を送るか、犯罪に走るかしか生きる道は無いと言う。

 なんとかしてやりたいと思うリイトだが、彼の力は怪人と戦うための物、飢えや貧困をどうにかする力は無い。

 悔しいが、ここはひとまず保留するしかない。

(領主の娘だというクリムなら何か解決法を知っているかもしれない、後で聞いてみるとしよう)

 そう心に留め、続きを問う。

「あのチンピラ達に絡まれていたのは何故だ? どうもユーリと俺を探していたようだったが」

「多分、あの時恥をかかされたから、その仕返しだと思います」

「む……」

 チンピラの思考など考えても居なかったリイトは、己の浅はかさを悔いた。まさかあの程度で仕返しを企てるとは思わなかったのである。それに、今回は散々に痛めつけた挙句落書きまでしてしまった。彼がまたユーリへ八つ当たりする可能性がある。

「済まない、俺の所為だな」

「そんな事無いです! 二回も助けてもらった上に、お風呂とご飯まで……」

「そう言ってもらえると幾らか救われるが……」

 最下流の孤児全員は救えなくとも、自分の責任で危険な目に合わせてしまったこの少年の境遇だけはなんとか出来ないだろうか。そう考えながら水滴の滴る天井を眺める。

 そもそも無法者が彼のような孤児に絡むのは何故か。今回は仕返しという意味もあるが、やはり庇護する者が居ない事が大きいだろう。どれだけ傷めつけても後腐れないから、ゲブルのような連中に目をつけられるのである。親が居らずとも、どこか集団に属しているだけで事情は違ってくるだろう。

 集団。それは家庭や孤児院だけではない、職場でも良いのだ。なんとか彼に働き口を紹介してやれないだろうか……

「とりあえず腹ごしらえをしてから、だな」

 

 風呂から出た二人は酒場に戻ると、忙しそうにする女将と店主に会釈してカウンターに座る。

 準備は終わらせていたのだろう、料理はすぐに出てきた。

「わぁ!」

 皿に載せられたハンバーグを見てユーリの目が輝く。使い慣れていないのか、食べにくそうにしながらもフォークとナイフを使い、慌ただしく口に運ぶ。

「おいひい!」

「そぉ? うれしいわぁ~」

 そう言って微笑む女将を横目に、リイトも食事へ手を付けた。

「少しソースを変えたか?」

「分かる? 調味料を抑えて、煮崩した野菜なんかも混ぜてみたのよ」

「野菜の甘味がよく出ている。美味いな」

「リイトさんにそう言ってもらえると、自信出るわ」

 女将と話しながら、リイトはガツガツとハンバーグを貪るユーリに視線を向けた。幸せな顔で食事をする彼を見て、閃くものがあったのだ。

「ユーリ、お前もこういう料理を作ってみたくは無いか?」

「ん、ぐ……僕が?」

「俺に教えられる範囲ならな。他にも掃除や洗濯なんかも覚えれば、どこかで働き口も見つかるだろう」

「このハンバーグもリイトさんから教わったのよ、この人の料理の腕前は私以上なんだから」

「ホントに、ですか?」

「ああ、君が良ければだが」

 ユーリは数瞬戸惑いを見せたが、決意の見える瞳でリイトを見上げ、頷いた。

「お願いします、リイトさん!」

「よし、そうと決まれば明日からでも――」

 言いかけた時だった。酒場の扉が勢い良く開き、一人の男が転がり込んできた。

「大変だ! また化物が暴れてるぞ!」

 血相を変えて言う男の言葉を聞いたリイトは勢い良く立ち上がると、男の下へ駆け寄り問いただす。

「場所は何処だ?」

「ここより少し下流に行ったあたりだ。トカゲみたいな怪物が何匹も……」

「やはり邪竜帝国か……ユーリ、俺が帰ってくるまでここに居るんだ。いいな?」

「う、うん」

 ユーリが頷いたのを確認し、勢い良く酒場を飛び出し、リイトは叫ぶ。

「変身!」

 夜の街を、一条の蒼光が駆け抜けた。


                 ◆


 リイトが駆けつけた先に居たのは、邪竜帝国の戦闘員レプティリアン、そして蝙蝠の翼と蛇の尾を生やし、額にダイヤモンドの瞳を持つ女型の怪人であった。

「ウイヴル、貴様も復活していたのか……」

「ホーッホッホ! 来たわネ、ジーク・ブルー!」

 頬に手を当て高笑いするこの怪人も、過去にリイトが倒したはずの眷属である。前回のリントヴルムと違い理性はあるようだ。

「さあレプティリアン共、やっておしまイ!」

「ゲギィ!」

 レプティリアンは邪竜帝国の怪人が生み出す下級の眷属だ。戦闘力は低いが敵を恐れない闘争本能と、数にまかせた戦い方はチンピラよりもよほど厄介だ。

 だが、ジーク・ブルーに変身したリイトの敵ではない。

「はっ! とうっ!」

 バルムンクを振るい、一体、また一体と切り捨てていく。

「ギギッ!」

 だがやはり、数が多い。着実に数は減っているが、これまで五人で分担し倒してきた戦闘員を一人で捌くのは骨である。

 リイトは舌打ち一つ、大きく後ろに下がると半身になり、バルムンクを胸の前で水平に構える。蒼い光が刀身に集まり俄に輝き出すと、腰の捻りを加えて強く打ち出した。

「ジーク・カッター!」

 剣先から迸る青い光が三日月を描き飛翔する。蒼月はリイトを中心に大きく広がり、その弧でもって固まっていた戦闘員達の体を両断した。

 ジーク・カッターは先日リントヴルムに放ったジーク・スラッシャーより威力こそ低いが、広い範囲を攻撃できる便利な必殺技だ。ただし無視できない量の力を消費するため、乱発は出来ない。

「グギギィィィ!?」

 戦闘員達が悲鳴を上げ、黒い霧になって消滅していく。

 リイトは振りぬいたバルムンクを納刀すると、視線をウイヴルへと向けた。

「次は貴様の番だ」

「おのれェ、よくもワタシのレプティリアン達ヲ……」

 激昂するウイヴルは宝石ダイヤモンドの瞳でリイトを見据え、構える。そこに駆け寄るのはリイトだ。ウイヴルとの戦い方は覚えている。それはこと。

「ハァッ!」

 真正面から全力で突っ込むと、ウイヴルの眼前で左足を前に出し、踏ん張る。下半身でブレーキを掛け、勢い付いた上半身から右拳を突き出した。

「グゥッ!?」

 顔面を殴られ仰け反った所に追撃の肘落としをかますと、ウイヴルは堪らず転がり逃げる。だがリイトの追撃は止まない。立ち上がった所に鋭いフットワークで連続蹴りを浴びせかけた。

「ヌゥゥ……おのれェ」

 ウイヴルはよろめきながらも大きく腕を広げ、地を這うように駆けると、鋭い爪を振るい掬い上げる軌道の斬撃を放つ。しかしこれは軽く飛び上がったリイトの二度蹴りでいなされた。ならばと放った着地狙いの足払いも、読まれていては効果が薄い。逆にその勢いを利用して再び飛び上がったリイトの空中後ろ回し蹴りで吹き飛ばされた。


 攻防はなおも続く。リイトの拳とウイヴルの爪が幾度も交錯し、火花を散らす。戦況はリイトに大きく有利だ。

 何度も距離を取ろうとするウイヴルだったが、リイトの素早いフットワークから逃げ切ることは出来なかった。

「やはり、近接格闘は苦手なままのようだな!」

「ほざきなさイ!」

 リイトの構える左手を狙い、噛み付こうと乱杭歯を剥くも、死角から打ち上げられた右アッパーで強制的に口を閉じられる。ウイヴルは追撃の掌底で胸をしたたかに打たれ転がった。

「この身に集え、神話の輝き――!」

 とどめを刺すべく再びバルムンクを抜刀。上段に構え勇気の力を剣身に宿す。こうなれば諸共両断できる。

 リイトが勝利を確信した刹那であった。

「リイトさん!?」

 響く声は少年特有の甲高いそれ。

「ユーリ!?」

「やっぱりリイトさんなの……?」

 フルフェイスのヘルメットで顔は覗えないものの、声で確信したユーリが立つのは膝をつくウイヴルとリイトの中間。少年は怯えながらも声を上げる。

「リイトさんが心配で……」

「俺の心配は要らない! 早く隠れろ!」

 叫ぶが、遅い。

 彼の眼前でウイヴルがニヤリと笑った。

「ホーッホホ! ダイヤモンドカッター!!」

「しまった!」

 叫ぶと同時、ウイヴルが勢い良く頭を振ると、額のダイヤモンドが飛び出し円盤状に広がる。

 これこそリイトが距離を取らせなかった理由。ウイヴルの奥の手『ダイヤモンドカッター』だ。

 八角形にカットされたダイヤの円盤は、高速回転しながらユーリへと襲いかかった。

「ユーリィ!」

 リイトに攻撃しても『邪竜両断ジーク・スラッシャー』で防がれると判断したウイヴルは、卑劣にも迷わずユーリを狙ったのだ。

 バルムンクを放り捨てる勢いでユーリの下へと走るリイト。

 エイユウスーツによって強化された超人的脚力は弾丸を超える速度で円盤に追いつき、追い越す。

 だがそれが精一杯だ。

 大きく手を広げユーリを庇った彼の胸に、ダイヤモンドカッターが直撃する。

「ぐわあああああああああッ!」

 スーツの防御力で両断される事こそ防いだが、リイトへのダメージは甚大である。ふらりと体を傾がせ、片膝を着いた。

「リイトさん!」

「ぐっ……無事か、ユーリ」

「ごめんなさいリイトさん、僕のせいで……」

 リイトに駆け寄り、涙目で謝罪するユーリへと、ダイヤモンドの瞳を額に戻したウイヴルが満面の笑みを向けた。

「ホーッホッホ! でかしたワ、ガキ。そして形勢逆転ねェ、ジーク・ブルー」

「くっ……」

 いかにエイユウスーツと言えど、もう一度ダイヤモンドカッターを食らってはひとたまりもない。

(やはり、一人では特殊な力を持った怪人には勝てないのか!)

 ただ一人であったなら勝てただろう。だが、ユーリを庇った状態ではもはや打つ手が無い。勿論、彼を見捨てるという選択肢は絶対にあり得なかった。何故なら彼が正義の味方だからだ。

 そしてその事をウイヴルも当然知っている。だからこその余裕の態度であった。

「フフ、愚かネ、エイユウジャー。自ら守るべき者に邪魔をされて死になさイ! ダイヤモンドカッター!」

 頭を振り、ウイヴルは再び金剛石の瞳を射出した。高速回転する円盤は、雲ひとつ無い星空の輝きを反射しギラギラと光りながら二人に迫る。

 スーツの作用で大量に生み出された脳内麻薬により、高速化された思考で打開策を探る。

 しかし、答えはいずれも『死』のみ。

 せめてユーリだけは逃がそうと、彼を突き飛ばすべくリイトは腕を構えた。


「振り下ろせ――『巨兵のつるぎ』!」


 響き渡る声と同時にリイトの眼前を壁が覆う。

 否、それは壁ではない。天から振り降ろされ、地面に突き刺さった巨大な剣だ。

 見れば家屋の屋根をも越える刃渡りを持った巨剣に貫かれ――いや、と言うべきか、ダイヤモンドの瞳は光り輝く結晶となり散らばっている。

「目がァ! ワタシの目がァ!?」

 額を抑え、悶え苦しむウイヴルを見つめ呆けるリイトの耳朶を震わすのは、美しい少女の叱咤だ。

「さっさとトドメを刺しなさい、リイト!」

 屋根の上から叫ぶクリムが宙空の召喚陣を払うと、巨剣も呼応し掻き消える。

 駆け寄る際にバルムンクを手放さなかった事に安堵しながら、愛剣を大きく振りかぶった。

「この身に集え、神話の輝き! 邪竜ゥゥゥ両ォォォォォ断ッ! ジィィィィィク・スラッシャァァァァァァ!!!」

 蒼き光が視界を埋める。

 勇気が齎す圧倒的な熱量が刃となり、研ぎ澄まされて悪を討つ。

 奇を衒わない真っ向からの唐竹割りが、ウイヴルの体を一刀両断した。

「ギャァァァァァァァァァァ!」

 断末魔と共に立ち上る爆炎の色は奈落のように深い黒。大きく燃え上がった漆黒の炎は地面へ何かを吐き出すと、煙のように消え去った。


「やったわね、リイ……ト」

「クリム!?」

 ウイヴルの消滅を見届けた直後、屋根の上に居たクリムの体が傾ぎ、地面へと真っ逆さまに落ちていく。

 慌ててリイトが駆け寄り受け止めると、クリムは彼の腕の中で恥ずかしそうに笑みを浮かべた。

「は、はは……気が抜けたら、お腹が空いて……」

「腹が空いたって……それに屋根の上で何をしていたんだ、君は」

「いやぁ、朝から何も食べずに研究に没頭してたら、英雄の館ヴァルハラと新たなパスが繋がって『北壁の巨兵』の御業を召喚できるようになったものだから、嬉しくなっちゃって……」

「そ、それで屋根に登ったのか!?」

「あはは……リイトに教えようと思って風精を呼び出したら、集中力を切らした所為で制御に失敗しちゃったのよ。で、空をふわふわ飛ばされてたら、リイトがピンチなのを見つけたってワケ」

「はぁ……あまり危ない事をしないでくれ」

 がっくりと肩を落とすと、腕に抱いたクリムを降ろす。

 と、そこへユーリが駆け寄ってきた。

「り、リイトさん! ごめんなさい!」

 がばりと頭を下げるユーリに、リイトが手を伸ばした。

 叱責されるかと身を強張らせたユーリの頭に触れるのは、ごつごつとした掌の温かい感触だった。

「リイトさん……?」

 困惑気味に頭を上げるユーリに、変身を解除したリイトが微笑んだ。

「無事でよかった」

 優しく呟かれた彼の言葉に、ユーリは顔をくしゃくしゃにして泣き声を上げる。そんな少年の肩を抱いて背を叩いてやると、ユーリの方も抱きついてきた。

「あ~、お取り込み中のトコ悪いんだけど、そっちの子が誰かとかその前に……さっき炎の中から何か出てきたよね? まだ怪人が生きてるとか無いの?」

 クリムが恐る恐る爆炎の立ち上がった場所を見やれば、リイトもそれに追随する。

 果たしてその場所に倒れていたのは、奇抜な服装の禿男。

 ゲブルの巨体であった。


                   ◆


「リイトの兄貴! 屋敷の東側は異常ありやせん!」

「ご苦労、引き続き警備を頼む」

「了解いたしやした!」

 気勢を上げる禿頭の大男が手下を引き連れ、屋敷の裏側へと去っていくのを見届けて、リイトは深い溜息をついた。

 あの後目を覚ましたゲブルは、自分が闇に飲まれて怪人に取り込まれていたことを語った。

 リイトに助け出された事を知ったゲブルは今までのことを謝罪し、彼の舎弟にしてくれと頼み込んできたのだ。

 困惑し固辞するリイトだったが、どうしてもと食い下がるゲブルに押され、仕方なくそれを承諾した。

 結果、バランタイン家別宅の警備が厚くなるという結果になったのである。

「リイトさん!」

 続いて聞こえてくる声に、さっきとは対象的な優しい顔(と、本人が思っている表情。実際は僅かに口端のつり上がった無表情にしか見えない)でリイトが振り返る。

 手を振りながら駆け寄ってくるのは、仕立てのいい使用人服に身を包んだユーリである。

 ボサボサだった髪はさっぱりとし、痩せこけていた頬は徐々にだが歳相応のハリツヤを取り戻していた。

「クリム様の寝室のお掃除、終わりました!」

「ご苦労だったな。じゃあお茶にでもしよう、クリムを呼んできてくれ」

「はいっ!」

 ボールを追いかける子犬のように、慌ただしく駆けていくユーリは、あの後クリムの承諾により、バランタイン家別宅の使用人見習いとして雇われることになった。

 数日経った今では、ある程度の掃除と洗濯をマスターし始めている。そろそろ料理の方も教えていくべきだろう、とリイトは考えていた。

 お茶とお茶菓子を用意すべく厨房へ向かいながら考えるのは、怪人に取り込まれていたゲブルの事。

 ゲブルが語るには、禍々しい声が彼にこう囁いたという。


『ソノ怒リ、我ガ糧トシテヤロウ』


 怒り――つまり負の感情を糧として力を得るのは、邪竜帝国の怪人の特徴だ。そしてウイヴルの物ではないその口調……

「やはりこの世界に来ているか、ファブニール……」

 まだしばらく、元の世界に帰れそうにないな。

 そう考えながら、彼は厨房の扉に手をかけるのだった。

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