第二章

第九話 ヒーローは召喚術士を甘やかしていました 前編


 異世界でも太陽は東から登るらしい。

 徐々に紺から赤、そして青へと色を変えていく穏やかな川面を眺めながら、ジーク・ブルー――藤原リイトはそんな事を思った。

 東から西へと流れるローグ川の南岸、ピルケの港で、船留めに腰掛けて朝焼けの川を眺めていると、ここが異世界だと実感できる。元の世界でも似たような風景はあるのかもしれないが、日本から出たことのないリイトにとって、広大な川が大平原に横たわる姿は、生まれて初めて見る景色であった。

 朝霧に煙る水面にはパラパラと漁船が浮かび、微かにしか見えない対岸にはこちらと同じような港が確認できた。

 晩春とは言え、朝方の川辺はまだ肌寒い。リイトは軍服にも似た隊服の上着の前を閉め直すと、立ち上がって再び走り始めた。

 川沿いを東へと上り、北へと曲がっていく川の向こうに大きな建物が見え始めた辺りで川岸を離れると、古びた建物の間を縫うように南下していく。

 大きな道を横切り、開店の準備を始める商店街を抜けた所で、土壁の長屋の向こうに古色蒼然とした屋敷が見えた。

 薄っすらと汗ばむ肌を冷ますようにスピードを上げると、鉄柵に囲まれた屋敷の周りを一周し、異常がないことを確認してから速度を落とす。

 汗を拭い立ち止まるのは屋敷の裏門前。

 こぢんまりとした裏庭を間に置いて建つ屋敷は眠ったように静かだ。

 恐らくこの屋敷の主人も未だ夢の中を漂っているに違いない。


 所々錆びついた門扉を押し開き、生え放題な芝を踏みつけながら、庭木に囲まれた井戸まで行くと、鶴瓶を落として汲んだ水に首からかけていたタオルを浸す。服を脱ぎ、絞った濡れタオルで体を拭う。井戸水の肌を刺すような冷たさが、火照った体に心地良い。太い首筋を拭えばタオルから垂れた水滴は鎖骨を伝い、厚い胸板を通って六つに割れた腹筋へと流れていく。バランスよく鍛えられた筋肉は、まるで彫刻のような肉体美に溢れていた。

 汗を流し終えたリイトはインナーとズボンだけを身につけ、上着を肩に掛けると屋敷の裏口へ向かう。適当に靴裏の泥を落として屋敷に入った。

 僅かに埃の浮かぶ空気を入れ替えるため、窓を開けながら廊下を進み、向かうのは厨房だ。

 火打ち石を使い火種を作ると、復讐のために身につけた様々な技術の内の一つ、サバイバル技術を駆使してあっという間に竈へ火を着けた。

 昨夜作った野菜スープの残りを温めながら、その横で腸詰めをボイルする。その間に食器を用意し、戸棚からバスケットを取り出す。バスケットの中で布に包まれているのは、これまた残り物のパンだ。それにチーズとボイルしたソーセージを挟み、チーズが溶けるまで火で炙る。出来上がったホットドックへ更に葉野菜を挟むと、スープが温まったのを確認し、竈の火を消して厨房を出た。


 換気の終わった窓を閉めながら次に向かうのは、この館の主――クリムヒルト・フォン・バランタインの居室だ。

 屋敷の中でも一番上等なその部屋の扉をノックする。何度繰り返しても返事がないので、リイトは溜息一つ、乙女の部屋の扉を開けて中に入った。

 部屋は広さに反して物が少ない。在るのは小さなクローゼットと文机、学院アカデミーの研究室から送ってもらった専門書を収める本棚、そこだけ大きなベッドの脇には読みかけの本が積み上がるサイドテーブル。

 その大きなベッドの中央には小さな膨らみが一つ。

 毛布の下からはみ出た手には、ページの中程を開いたままの本が一冊。

 枕を覆うように広がるのは、カーテンの隙間から差し込む光を浴びて、キラキラと輝く滑らかな金髪。

「クリム、朝だぞ、起きろ」

 枕元に立ち毛布に包まれた華奢な肩を掴み揺らしながら、リイトは低い声で朝を告げた。

「ん~……」

 枕と顔の間からくぐもった呻き声を上げるクリムに、リイトは優しく、根気よく声をかけ続ける。

「朝食が冷める。早く顔を洗って降りてこい」

「あさごはん、なに?」

「ホットドックとスープだ。温かい方が美味いぞ」

「つれてって……」

 寝起きの舌足らずな口調で言う彼女は、小柄さも相まってとても十七歳には見えない。良くて中学生だ、少なくともリイトの妹よりは年下に見える。

「仕方ないな……」

 リイトは眉を下げて嘆息し毛布を剥がす。薄手のふわふわとした子供っぽい寝間着が露わになり、だらしなく投げ出された手足に眉をしかめながら、細い腰に手をかけた。

「よっ……と」

 鍛えられた腕力だけで軽々クリムを持ち上げると、肩に担ぐようにして立ち上がる。

「うぎゅ……」

 物のように持ち運ばれても、クリムは変な声を上げるだけで抗議はしない。抗議できるほど覚醒していない。

 リイトはそのまま食堂までクリムを運搬すると、椅子に座らせ朝食をよそい、濡らしたタオルを差し出して顔を拭かせ、濃いめに淹れて井戸水で冷やしておいたアイスコーヒーを注ぐ。

 自分の食事も用意すれば朝餉の準備は完了だ。

「いただきます」

 手を合わせスープを一口、汗を流した体に塩気のある味が染み渡る。ホットドックを大口で噛み切れば、少し硬いパンの食感と、その奥にある腸詰めのプツリ千切れる歯ざわりが楽しい。噛むと葉野菜のシャキシャキした音が顎を通して伝わってくる。腸詰めの脂と溶けたチーズは舌にねっとり絡み美味だ。ホットドックをゆっくり味わい飲み下すと、パンに水分を吸われ乾いた口内をコーヒーで潤す。口に残った脂を洗い流す爽やかな苦味は、ホットドックへ再び手を伸ばさせた。

 対面を見れば、顔を拭き、コーヒーを飲んだことでようやく目が覚めてきたのか、クリムが貴族令嬢とは思えない動作で朝食をがっついている。

「パン屑をこぼし過ぎだ」

 言うものの、スープの一滴までパンで拭い食べ、満足気な息まで付かれては、調理した側として怒る気にもなれない。

「ごちそうさま」

「お粗末さん。着替えて歯を磨いてこい。着替えは洗濯したヤツを昨日の内に用意してある」

「うん……うん?」

 頷きかけ、首を傾げるクリム。

 どうしたのかとコーヒーを飲みながら訝しげに見やると、彼女は眉間に皺を寄せ頭に手を当てている。

「どうした?」

「う~ん、なんかおかしい」

「おかしな事など何もないと思うが」

 何もおかしな所はない、屋敷に住み始め、ミネルヴァが帝都へと帰ってからこれまでの一週間と、全く同じ朝の風景である。

 リイトに起こされ、彼の作った朝食を食べ、研究を始めると定期的におやつやお茶を持ってきたり休憩を勧めて来るので暫し談笑し、夜には掃除の行き届いた風呂に張られた温かい湯に浸かり、綺麗に洗濯された寝間着に袖を通し、きっちり整えられたベッドに潜り日が変わる前に眠る……

「いや、おかしいわよ。おかしくないのがおかしい」

「どういう事だ?」

 疑問を呈すリイトにジト目を向け、

「リイト、アンタ、私の世話、焼き過ぎ」

 一言一言、噛みしめるようにクリムは言った。

「んん……言われてみればそう、か?」

「そうよ! アンタは私の護衛でしょ!? 何で使用人みたいな事やってんの!」

「……つい、幼い頃の妹を思い出してしまうのかも知れん」

 両親が死んですぐの頃、リイトは唯一の肉親である妹を甘やかし、とにかく世話を焼いた。家事全般を行い、その上で洋食屋で働き、合間を縫っては体を鍛え、各種技能を身に着けていたリイトである。両親の死から立ち直り、兄を気遣う余裕ができてからは世話を焼かせてくれなくなった妹に、一抹の寂しさを覚えていた彼にとって、同じ屋根の下でズボラな生活を送る年下の少女は、恰好の世話焼き対象であった。

「実家じゃ身の回りの世話なんて全部使用人がやってたから、全然違和感無しに受け入れてしまったわ……」

「まぁ他にやることも無い。これくらいはやらせてくれ」

「いいえ駄目よ。このままじゃ感覚が鈍る……研究室に篭って硬いパンを齧り、寝る間も惜しんで実験に勤しんでいたあの頃の感覚を取り戻さないと……私は、堕落する」

 由々しき事態であった。召喚術士としてのアイデンティティ崩壊の危機であった。早々に環境を改善――いや、しなくては。

「リイト、お願いだから昼間は外に出ていて」

「何故だ。今日は天気もいい、シーツを干さなくては。それに昼食も作らなきゃならんだろう」

「それが駄目なの! 私のことは私でやるから!」

「……まあ、良い心がけか」

 確か妹の時もこんなやり取りをした気がする。クリムのように命令口調ではなかった上に、もっと遠回しに言われたが。

「実験室にも私の部屋にも入ってこないで、いいわね?」

「それは良いが、ずっと外に出ていては護衛の意味が無いだろう」

「あまり遠くに離れなければ、風精を喚び出して声を届けられるわ。何かあったらすぐに呼ぶし、時間稼ぎくらいなら自衛もできるから!」

「君がそう言うなら……」

 リイトが渋々頷くと、クリムは頬を叩いて気合を入れる。

「よぉし! とりあえず雰囲気出すために実験室散らかして、昼食も当然抜くでしょ? あ、今日はお風呂入らないから」

「食事くらいはした方がいいと思うが……」

 呆れたリイトが言うものの、クリムには聞こえていないようだった。

 才能もあるし努力家なのだが、その方向性がしばしば迷子になるが故、彼女は止まりなのである。


                   ◆


 屋敷を追い出されたリイトは特に目的もなく、下流側の街を散策していた。

 ファブニールを倒すためにこの世界へ残ることを決めたリイトであったが、闇雲に探しだしてまで倒そうと言う気は無かった。ヤツを道連れに時空爆発を起こし暗闇の中で漂っている間に、復讐に囚われていた心の整理はついている。

 もし悪事を企んでいるのならば、動き出す予兆を見逃さなければそれでいい。それよりも今はクリムの目的に協力することが先決だった。そのためにも、彼女が研究に集中できるようサポートするのが仕事だと思っていたのだが……

「ああも拒否されてはな」

 リイトとしては引き下がる他無かった。


 下流側でも中流側に近いこの辺りは、古い街並ながら活気がある。最下流のようにスラム化もしていないため比較的治安も良い。それでも人が集まる場所故か、衛兵が介入しない程度の小さな諍いが後を絶たない。

 それはリイトが酒場と商店の間、狭い路地を通ろうとした時だった。

「やぁっと見つけたぜぇ……」

「今日こそは逃さねえぞ!」

 剣呑な声を耳にし、思わず路地を覗き込む。

 路地裏の物陰に見え隠れするのは大柄な男の影であった。

「酔っぱらいの喧嘩ならいいんだが……」

 呟き、人一人がやっと通れる程度の路地に入っていく。

 建物の裏手、少し開けた空き地に居たのは数人の男達。いかにもチンピラと言った格好の彼らに、リイトは見覚えがあった。特に趣味の悪い服装をした体格のいい禿頭など、一度見たら忘れられない。

「確か……ゲブル、だったか」

 リイトの言葉に、禿頭の大男――ゲブルが振り向いた。

「あぁ? テメェは……!」

 ゲブルの方もリイトの顔をしっかり覚えていたようだった。一週間以上前の出来事だが、流石に公衆の面前で恥をかかされた一件を忘れるはずもない。特に面子に拘るチンピラなどナメられたらお終いであるから、いつか仕返しをしてやろうと探していたくらいである。

「ヘヘッ、探してたヤツらが一緒に見つかるたぁツいてるぜ! ガキは後だ、お前ら! 逃げられねえように囲んじまえ!」

 ゲブルの号令で、固まって立っていたチンピラ達がリイトを取り囲むように動いた。チンピラ達が動いた後ろに現れたのは、以前ゲブルに絡まれていた少年だ。

「貴様ら、また子供に手を上げていたのか」

「元はと言えばこのガキの所為で恥をかいたんだ。コイツにも礼をしなきゃと思ってよぉ」

「今度は……キツい灸を据えてやった方が良いようだな!」

 リイトの三白眼が釣り上がり、笑うように歯を剥く。両腕を胸の前に持ち上げ、ボクシングの構えを取った。

 それを見たゲブル達はニヤニヤとした笑みを浮かべ警戒を弱める。

 眉根を寄せて怪訝な顔をするリイトだが、簡単な事だ。

「変な格好しやがって、紛らわしい」

「貴様に言われたく無い」

「ほざけ! お前ら、やっちまえ!」

 四人チンピラ達が一斉にリイトへ襲いかかるが、その程度で彼の精神は小ゆるぎもしない。正面から来た男にあえて一歩近づくと、タイミングを外され、拳を振り上げた状態で無防備になっている男の顎を、鋭いストレートで撃ち抜く。正面のチンピラは脳を揺らされ失神、その場に崩れ落ちた。

 その間に左右から来ていたチンピラ二人が背後に回っている。大きく振りかぶった拳を前転で転がり避けたリイトは、しゃがんだまま足払いを繰り出し、片方の男を転倒させた。後ろから来ていた四人目は、転んだ男に阻まれ足を止めている。その隙を逃さず二人目にジャブを浴びせるが、これは牽制だ。本命は左手に目を奪われている男の死角から襲い来る、右腕のフックである。

「フッ――」

 短く息を吐き頬を殴り抜けると、男はきりもみ回転する勢いで吹き飛んだ。

「死ねやぁ!」

 罵声を肩越しに見やれば、三人目と四人目の男が拾った角材を振り下ろしてくるところだった。

 リイトはそれを全く無視するように前へ向き直る。そして無造作に手を背後に回すと、二本の角材は吸い込まれるようにその掌に収まった。肩越しに角材を掴んだリイトは男達の勢いをそのまま利用し、姿勢を低くしながら背負い投げの要領で二人を

 咄嗟に角材を離す事が出来なかった二人のチンピラは、物のように地面に投げ出され、ノビている。

 まさに一瞬。姿勢を正した向こうではゲブルが顔を引き攣らせていた。

「て、テメェ……」

「もうあの子に手を出さないと言うなら見逃してやる……と言いたい所だが、灸を据えてやると言ったばかりだしな、お前もこいつらと同じようにノビて貰うぞ」

 ゴキリと拳を鳴らし、酷薄な笑みを浮かべると、逃げようとしたゲブルに一瞬で追いつき、その額に腕を伸ばした。

 ゴン、と音がして勢い良くゲブルがひっくり返る。

 腕を伸ばして棒立ちのままのリイトの指先は、親指と人差指だけがピンと伸びていた。

 仰向けで気絶しているゲブルの額には、真っ赤になった指の跡。

 必殺・剛力デコピンである。

「少年、もう大丈夫……ん?」

 腕を降ろし、振り返り見やれば、空き地のどこにも少年の姿はなかった。恐らくどさくさに紛れて逃げ出せたのであろう。前回見た時もなかなかの逃げっぷりを見せていた少年を思い出し納得したリイトは、さてと倒れたチンピラ共を見下ろした。

「ふむ」

 一つ閃いたリイトは路地を戻り、出た所にある商店で店主に声をかけた。


「インクと筆が欲しいのだが」



                    ◆


「クソッ……! クソクソクソォ!」

 ゲブルは未だに痛む額に手を当て、罵声を上げながら裏路地をフラフラと歩いていた。

 あの後目を覚ましたゲブルが同じく覚醒した手下やすれ違う人々の様子がおかしい事に首を傾げながら、近場の井戸で額を冷やそうと水を汲み、桶の中を覗き込んだ時だった。反射する水面に映ったのは、インクで目の周りにたぬきのような模様とヒゲを書かれた自分の顔である。

 笑いをこらえていた手下を怒りのまま追い散らし、顔を洗ったゲブルだったが、後頭部に書かれた『ハゲ狸』の文字には気づかなかった。気付いても日本語の読めない彼に意味は分からなかっただろうが。

 ともかく再び大恥をかかされ、手下にまで舐められたのは事実である。

「あの野郎、次に会ったら絶対にぶっ殺してやる!!」

 とは言ったものの、あの男リイトの強さは本物だ。恵まれた体格にまかせ、力押ししかしてこなかった彼ではとても太刀打ち出来ないだろう。

 煮えくり返る腸を抱え、ブツブツと零していたゲブルは、奇妙な感覚に囚われ足を止めた。

「なんだ?」

 見やれば、暗くなってきた路地の先で、何かが動いている。

 丁度良い、浮浪者か酔っぱらいの類なら傷めつけてウサ晴らしでもしてやろう。そう考え、路地の暗がりに足を踏み入れた時だった。ゲブルはと気付く。

 いくら夕暮れ時だからと言って、あまりにも暗すぎないだろうか?

 思い、立ち止まった彼の足元で、闇が蠢いた。

「ひっ」

 蠢く闇は影というより、深淵のような暗さをしていた。

「な、なんだこれ!?」

 悲鳴を上げるゲブルに、闇が囁いた。

『良イ、怒リダ』

 ずるり、と彼の足が闇に沈む。

『ソノ怒リ、我ガ糧トシテヤロウ』

 そして悲鳴を上げる間もなく、ゲブルの姿は深淵へと消えた。

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