輜重隊 腹が減っては、戦は出来ぬ

 花音の逃走劇から、明けて四月二十一日。

 通常、考課測定に参加した学生には都が認めた休暇が与えられるのだが、


『昨日のドタバタは、考課測定とは認めません。文句のある方は考課測定を滅茶苦茶にした赤髪メガネにその恨みをぶつけて下さい。 BY東京都議会』


 と書かれたFAXが各校に送られ、その文章どおり、花音は登校を余儀なくされた墨田区、江東区、合わせて二万人近い高校生の頭の中でめちゃめちゃにされた。


 しかし江東区解放同盟の首脳陣は、そんな悠長なことを言っている場合ではない事態――清洲高校生徒会から受け取った江北の動向を聞くと、すぐに対策会議を開こうと言い出した。

 その開催日は明日。各校でまとめた意見を協議する形にしようと決定されたのだ。


 というわけで、代表校である清洲高校生徒会は自校の意見を早朝から協議……してはいなかった。

 何せみんな、昨日の戦闘で心身共にぼろぼろだったのである。


 すっかり重役出勤で三々五々生徒会室に集まると、おとり部隊を三時間にわたって指揮し続けた上に花音救出の決定打を準備した最大の功労者、滝川たきがわ徐珠亜ジョシュアが長机で組まれた円卓の正面に立ってのんびりと声を上げた。


「んじゃ、今後の方針決定会議兼ランチを始めるぞ~」

「待ってました!」

「はいはい、そんなにがっつかないの。お座り!」

「にゃおん!」

「毎度ぉ、おめぇは従順だなぁ。ほれ、お手ぇ」

「ぶっ殺すぞ流胡」

「いぃ度胸だ野良犬ぅ! 返り討ちにしてぇ、そのポジションにうちが居座る!」

「まあそう言うな。そもそも柴田、お前は花音のパンを食べきる自信があるのか?」

「ネトゲは黙ってろぉ! じぎじょーーーー!」

「おお! な・ん・で! その流れで俺を殴るんだこのアマ! ざけんな!」


 緊張の面持ち、という言葉が彼らには圧倒的に欠落している。

 そこが清洲の弱点であり、そして強さの源だ。さらに、花音はこれをチャームポイントと呼んでいる。


 生徒会室には全役員、つまり三年生の佐久間さくま愛団ちかまる、二年生の織田おだ花音かのん柴田しばた流胡るう、滝川徐珠亜、丹羽にわ樹雄たてお佐々さっさ悠斗ゆうと、そして一年生の木下きのした霞蒲羅かふら佐久間さくま郁袮あやねがパイプ椅子に座って目の前にお弁当箱を出しながらいつもと変わらぬ会話を展開していた。


 花音大好きっ子である流胡は、転入早々花音の彼氏のような立ち位置に納まった郁袮を敵視しており、小姑もびっくりというイビりを繰り返している。

 だが、郁袮はもっと怖い思いを東京に戻って以来体験し続けているためにまったく効果がなく、流胡のフラストレーションを一身に受ける悠斗のダメージが日に日に膨れ上がっていた。


「たぁった十六日一緒にいるくらいでいぃ気になってるんじゃぁねぇぞ野良犬ぅ! うちなんかメガネと一年間一緒だったんだぞぉ!」

「おお、こら! いてえなこのっ! 十四日だ、十四日! こいつ二日だけ蟹江かにえにいやがったんだから」

「そこで織田氏を見初みそめて転校なさるなど、一途いちずで微笑ましいことです。此方こなたが褒めて差し上げましょう。それに、四つん這いになる野生児キャラは必須のカテゴリーですし。ねえ、総受け佐久間氏」

「かふらおじょうちゃんは、なんでも掛け算トークにしちゃうのやめようね」


 江北が墨田に従属した以上、すぐにでも考課測定の打診が届くだろう。

 今川勇兵は三年。彼が全区統一を狙うなら一秒でも惜しいはず。

 そう考える徐珠亜がパンパンと手を鳴らすと、皆集中して手を止めるかと思いきやそれを合図に弁当へ集中し始めた。


 よくもまあ、これだけ自分勝手なのが集まったもんだと嘆息しながら、徐珠亜もポケットからチョコバーを一本取り出した。


「ま、食べながらの方が建設的な意見が出るだろし、いっか。そんじゃあまず、かのんちゃんは基本的にどうしたいのさ?」


 会議の指針にするべく、まずは花音の基本方針を確認した。

 だが、ここからが清洲高校生徒会の本領発揮となる。


「滝川君、いつも思うんだけどチョコバー一本で足りるの?」


 花音が平常運転の受け答えをしながらお弁当の包みを広げると、大きなタッパーが二つ、コンビニお手拭を乗せて現れた。


「あ、これはデザート。ファンの子が作ってくれるお弁当、ローテーション覚え切れないから毎日三個は食べないと……って、俺の話し聞いてた?」


 花音が、何が? という顔でタッパーを開きつつおしぼりを郁袮に渡すと、ようやく拳のラッシュから解放された悠斗が獣のような細目を徐珠亜へ向け、


「ああ? てめえ、いつか女子に刺されっぞ」


 舌打ちと共に愚痴ぐちる。すると、


「そうなのよ! いい加減な男子はいつか嫌われちゃうなのよ?」


 悠斗に続き、ピンク色の小さな蝶があしらわれた髪ゴムでハイツインにした美少女が、思わず見とれてしまう甘い笑顔&可愛らしい声で徐珠亜をたしなめた。

 この美少女は、清洲高校生徒会メンバーを見渡して消去法で分かるとおり、佐久間愛団である。


 ピンクの唇は可愛らしくアヒルっぽく、でも切れ長の眼は涼しげな、どこかで読モでもしていておかしくないほどの風貌だ。


 高校入学時、舐められるといけないと思って家にあったマンガを参考にした服装と言葉遣いをしたところ、持ち前の戦術眼、戦略眼、そしておっかない立ち居振る舞いとで畏怖の対象となり、一気に生徒会の重鎮、学園の有名人となり……、そして正体を明かせなくなった不憫ふびんな身の上を持つ。

 彼女の正体が漏洩ろうえいしたら解放同盟の軍事モラルは崩壊することだろう。


 そんな愛団は花音の肩にちょこんと手をかけると、


「その点、郁袮はいい男なのよ。好きになった女の子が準備したもの以外、一切口にしないのなの。今時見事な心構えなのよ?」

「こえぇよぉ」

「おお。こええよな」

「その風習、なあに? まあ、自分の分焼くから二人前焼くのも手間じゃないけど、ほんとに他になんにも食べないんだもん」


 花音がタッパーの蓋を開けると、独創的な形をしたパンがいくつも現れた。

 彼女はパンを焼くのが趣味で、毎朝欠かさずパンを焼く。中に入れる具も一つとして同じものが無いため飽きることは無い。


 鳴き声とは裏腹に、犬のように机に顎を乗せてパンを見上げる郁袮が返事をするはずもないため、愛団が代わりに答えた。


「パパがね、ママの準備したものしか食べないから郁袮も同じ考えになっただけなのよ。郁袮は一生、花音ちゃんの準備した物しか食べないと思うのなの」

「うむ。怖いな」

「さすがに怖く思います」


 一同が引く中、まるでピクニックのようなたたずまいの三人だけはお構い無しに会話を続けた。


「よく一日一食でもつよね。それに学校が無い日は食べてないんでしょ?」

「うん。だから花音ちゃん、土日にもうちに来てなにか作ってあげてなのよ。その時は私に連絡してから来るのなの。隠しカメラとか準備いやなんでもないの」

「まあ、暇な時くらいならいいですけど……」


 花音は手に持ったパンを綺麗に半分に割ると、一つを郁袮に手渡した。

 清洲高校名物なのだが、この瞬間、近隣にいる全員が劇画調の同じ顔になる。

 とは言え本日一つ目の作品はそこそこ無難だ。

 二つに割ったパンからは、ワカメがもさっと現れた。


「いただきま~す」

「おお! うまそう! じゃあ花音、ありがたくいただくぜ!」

「はいはい」


 二人はにこにことパンにかじり付き、その美味しさに鼻を鳴らして顔を見合う。

 花音のパン。別名、ドラパン。


 この箱を開けた者は期待と喜びを与えられ、パクパクと食べ進むとその最後、箱の底にたった一つ、絶望が詰まっている。


 見た目に反して具材の味付けはパン向けなのだろうとドラパンに立ち向かった勇者は何人かいるのだが、彼らは揃って同じ呪文、「プレーン」とだけ言い残して去って行くのだった。


「さて、じゃあ本題にもどるのなの! 可愛い花音ちゃんが佐久間家へ嫁いで来る日取りなんだけど……」

「その瞬間郁袮の命とかのんちゃんの貞操、両方あんたに奪われるから却下だ。てか、脱線しすぎだ!」

「そうだ。昨日は思いのほか時間をとられたからな。だから、帰っていいか?」

「だから真面目に話し合おう、では無いのですね。彼方あなたはそればかりではありませんか」

「おお、そうだぞこのソーシャル弁慶。昨日はまるで役に立たなかったんだ、今日こそちったあ役に立て」

「私はソーシャルでは強気に出んぞ。無課金はそれなり肩身が狭いのだ」


 徐珠亜はさすがに頭を掻いたが、花音がようやく添加物ゼロのワカメパンを食べ終わって郁袮に水筒のほうじ茶を淹れてあげながら、本題に入ってくれた。


「なんか松平さん、今川さんとの同盟に乗り気じゃなかったみたいだけど……。みんなもそう思ったよね?」


 この言葉に、樹雄と霞蒲羅が頷きを返す。


「ふーん。そんじゃ、調略ちょうりゃくでもかけてみるか?」

「ちょう? え? どういうこと?」

「事情を探ってぇ、ぺったんちゃんをこっちに寝返らせるってぇ作戦のことだょ」


 松平まつだいら亜寿沙あずさによく似合う岡崎高校のセーラー服、そのリボン近辺にまつわる酷い呼び名で流胡が話しを継いだ。


 ……清洲高校は、全体方針を花音に決めさせる。

 そのために必要な知識を与える戦略三教官は、徐珠亜と流胡と樹雄だ。

 本当は愛団の方が知識はあるのだが、生徒を甘やかすばかりで役に立たない。


 花音は流胡の説明を聞くと、虚空を見上げて考えながら二つ目のパンを割った。


「事情は知りたいし助けてあげたいけど、根が深い感じだったからそれはいいや」

「じゃあそうするとうげっ! ……こ、江北とも戦うことになるけど、いいのか?」

「織田氏。それはデザートではないので?」

「デザートはこっちのみたらし団子。うーん、松平さんとことは戦いたくないなー」


 花音はスイカの詰まったパンを郁袮に手渡しつつ、


「なにか、江北を従属させるような手段があったら状況が変わるのかな?」


 残った半分のパンにふかっとシャクっと、複雑な音を立てながらかじりついた。


「変わらないだろう。三すくみの場合最も勢力の小さい国が生き残る術は、負けそうな軍へ力を貸してを共に食らい合わせることなのだが、ここ数ヶ月我々に力を貸してきてからのこの判断。恐らく墨田の内部にあって生き永らえるすべ見出みいだしたのだろう」


 樹雄が、すべて白米という大政奉還以降には存在が怪しい弁当をつつきながら説明すると、心底がっかりした様子の花音は上品に口元を隠しながらちり紙へタネを出し、折りたたんでタッパーの蓋に乗せた。


「今回ばっかりは、かのんちゃんに提示できる作戦を思いつけないなあ。ちかちゃん、上手い方法、なんか無い?」


 徐珠亜が花音の後ろに立つ先輩に話しかけると、なぜか息を荒くして切れ長の眼をぎりぎり一杯まで見開いた愛団は、


「そ、それ。それをくれたら、教えてやるのなのよ」

「え? パンですか? かじりかけですよ?」

「それも捨てがたいけど……、はあ、はあ、そっちのタネの方が濃厚そうなの……」


 よだれをたりーと流し始めた愛団の視界の先で、いつの間に傍へ来ていたのか、悠斗がちり紙ごと彼女の垂涎すいぜんする物体をゴミ箱へ投げ入れた。


「あああああああああああっ! 何をするのなの! 一度花音ちゃんのお口に入って受胎じゅたいした聖なる種を!」

「おお、花音の唾液が欲しけりゃ数学の教科書を貸してもらえばいい。てめえはうるせえからこっちへ来い」


 イヤイヤと暴れる百七十センチもあるモデル体型の女性が引きずられていく姿を眼にしながら、霞蒲羅は手にしていたサンドイッチを一度弁当箱に戻してからころころと笑い転げた。


「もしそれが本当でしたら、ちゅうをすると子供ができると幼児に教える大人もあながち間違いではないですわね」

「いや、そうだとしたなら、あの種を植えると何が生まれるのだ?」


 樹雄の発言に、ドラパンが割られた時よりも苦々しい表情を浮かべた徐珠亜は、


「うげえ……、なんかいろいろ想像しちまった。唯一の救いは、対抗馬の姉御あねごがここまでの変態じゃないってことか」


 そう言うと、一人だけ極めてスタンダードな弁当をかき込む流胡が幸せそうに答えた。


「あぁ、うちはぁ、天使ちゃんの具しかきょぅみねぇ」


 恵比須顔のまま花音を見つめる目に嘘偽りはなさそうだ。とは言えそれはそれでアウトという気になりつつ、


「……姉御、毎日違う弁当箱だけどさ、まさかそ」

「うちのだよ?」

「かのんちゃんにバレなきゃいいってもの」

「うちのだよ?」


 花音の前では悪魔のような姿を隠し通す流胡を眺めながら、徐珠亜は呆れかえってため息をついた。


「各地で生徒会内の恋愛沙汰が原因のいざこざがよく起きるけど、ウチはお前らのせいでどうにも冷めるんだよね」

「佐久間弟氏はどうなのです? 毎日のように玉砕なさっておりますが」


 霞蒲羅の見つめる先、スイカの皮とパン生地を口に含んだ郁袮は、皆が自分を見る空気を察して口をもぐもぐさせつつ全員の顔を見回し、最後にきょとんとした顔で霞蒲羅を見ながら自分のことを指差した。


 すると霞蒲羅がころころと鈴のような笑い声を上げ、ごくんと口の中のものを飲み込んだ郁袮がようやく口を開いた。


「江北だったら、攻めて来ないようになるかもしれねえぜ」

「その話しじゃねえよ郁袮! じゃなかった、合ってるんだった!」

「どうやって?」


 混乱する徐珠亜を捨て置き、花音がスイカの皮を差し出しつつ郁袮に尋ねると、それを素手で摘んで美味しそうに平らげた郁袮がぺろりと舐めた親指を生徒会室のドアへ向けた。


「来てるよ?」


『はあ?』


 一斉に怪訝な顔を浮かべた一同が見る先から、ノックの音が響く。


「ほ、報告! 江北連合主宰、松平亜寿沙様をお連れ致しました! 入室許可をいただきたく思います!」


 緊張のあまりひっくり返った声が響く生徒会室で、即座に返事を出来る者はいなかった。


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 ここは府中ふちゅう高校大会議室。毎週定例となっている墨田すみだ会議の真っ最中である。

 墨田会議とは、墨田区各校のVIPが参加する定期戦略会議のことで、総勢四十人もの人員が一堂に会することとなる。


 とはいえ昨日のドタバタのせいで、各校、参加メンバーがいつもといささか異なるようだ。


「……松平は、先ほど田原たはら中学の事務室で府中高校への転入手続きを済ませたようです」

「なんで田原中学なんだ?」

「府中高校まで一足で来てしまうのは矜持に反するとか何とか。とにかくその後、同僚の戸田とだと二人で一度忘れ物を取りに帰ると言ったきりいなくなってしまったようですが」

「…………聞いていない…………、ぞ」


 金髪の大男、今川いまがわ勇兵ゆうへいが閉じていた目を薄く開きながら呟くと、何人かの参加者がいやらしくにやりと口をゆがめて笑い出し、そのうち、高天神たかてんじん高校生徒会長の小笠原おがさわらが返事をした。


「もっと褒めて下さって結構なんですよ? 合成写真を作ったり企業の出納すいとう記録を改ざんしたり、かなり骨が折れたんですから」


 一人が発言すると、会議参加者の半分以上――陰謀に加担していた者は皆、表情を緩め、


「そうそう、俺たち犬居いぬい学園高校もずいぶん金をばらまくことになっちまった。携帯の改造業者のやろう、足元見やがって……。でもこれで、今川会長の念願だった江東制圧が現実的になったってものですよ」


 幾人かは笑い、幾人かは状況を把握できず無表情になり、しかしむっとした表情になった者も幾人かいる。

 特に府中高校の制服を着ているメンバーは、この話しを不愉快に感じていた。


「…………おれはもう、会長じゃねえ」


 今川勇兵はそう言うなり大きく嘆息しつつ、また目を閉じてしまった。


 たった三校の兵力で今まで墨田と対等に渡り合ってきた女丈夫じょじょうふに特別な感情を抱いていた勇兵としては不本意極まりない企てが進行していたようだ。


 彼は、己とその家族の力ですべてをこなすことができるため、彼の周りを囲む面々への依存が少ない。

 がゆえに、虎のきつねのようなチンピラが群がりやすい体質なのだが、そんな狐どもに今回もまた意にそぐわないようなことをやられてしまった。


 だが墨田のためと言われれば仕方ないと考えなければいけないのだろう。

 そう結論付けた勇兵は、再び大きく嘆息したきり押し黙った。


「とにかく、後は決行をいつにするかってことだけです」


 一人がそう言ったところで、憮然ぶぜんとしたままの朝比奈あさひな拓朗たくろうがぶかぶかの制服の手を上げた。


「……江北三校は戦線に投入するんですかい?」

「当然だろう。そのための人質だ」


 その返答に、いよいよ気分を害した拓朗は舌打ちとともにさらに訊ねた。


「松平亜寿沙を人質に取ったって、江北の連中の知ったこっちゃないでしょう? やつらがあっしらの挙兵に合わせて出れば、解放同盟の学校をいくつも占領できやす。挙句に支配した高校をあっしらへ引き渡さないで従属解消されたら解放同盟よりでかく膨れた敵が一瞬で誕生ですぜ? こんないい加減で汚いやり方、だれも反対しなかったんですかい?」


 拓朗にいつも不信感を抱き続けている者たちは、これに揃って気分を害して口々に文句を言い始める。


「なんだと貴様……」

「我々がどれだけ苦労してここまで漕ぎつけたと思っているんだ!」

「今川会長といつも一緒にいるからって、調子に乗ってるんじゃないわよ!」

「…………こいつは、そんな小さい男じゃ、ない」


 今川勇兵は目を閉じたまま騒ぎを止めると、舞が拓朗の意見を引き継いだ。


「口約束だが、江北は解放同盟から不可侵の約を取り付けてんだ。下手すりゃ、解放同盟はアタイたちの学校ばっか襲って来やがる。拓朗の言った通り、江北を絶対に従わせる確証が無けりゃあ、アイツらを動かすべきじゃないねえ」

「…………俺も、あの江北が素直に言うことをきくとは思えん。…………根拠は?」


 目を閉じまま腕を組んだ勇兵は、勝手に策を動かしていた全員に聞いた。


 これに対し、未だむっとした表情の大宮おおみや高校生徒会長、富士ふじが返答した。


「……江北の軍事の長についたのは、四月に入ってから生徒会役員になったばかりの本多ほんだ朱埜あけのという二年生です」

「…………それが?」

「本多が小学生の時、東京に転校してきたの、俺のクラスだったんですよ……」


 富士は事のいきさつを説明し、本多朱埜が松平亜寿沙の身を守るためには何があっても逆らわないと断言した。

 そしてこの戦いで解放同盟ばかりでなく、江北連合も壊滅に追いやる手立てを聞いた府中高校生徒会の面々は、その口を閉ざし、奥歯をぎりりと噛み締めた。


 その後、具体的な挙兵時刻、江北への連絡、進軍進路などをざっと確認した皆は意気も上がらないままに府中高校を後にするのであった。



 墨田会議参加者が退出した会議室に、低く空調の音が唸る。

 府中高校の面々はお互いの顔を見ることもなくテーブルについたままでいた。


「……アタイ、いままで下種げすやろうって奴をさんざん見てきたけどさ……。あいつら、最悪だぜ。ロックにいかれてやがる」

「おれも、あそこまでの連中だとは思っていなかったです……」


 舞と拓朗とが、手元に目を落としながら呟いた。

 すると現生徒会長である今川ういが少し震える声で、


「にいちゃ……、また、たたかうろ? ……いたいの、だめなろ」


 と、勇兵の大きな手に紅葉のような自分の手を重ね、いつもの言葉でいさめてきた。

 そもそも妹を戦場に連れていく気など持ち合わせていない勇兵は、舞と拓朗へ、


「お前らも…………、無理に付き合わなくて、良い。こいつと共に、ここを守っていてくれ」


 厳しい中に優しさを湛えた表情で言葉をかけた。


 自分達が信頼している男の気遣いに舞と拓朗は顔を見合わせ、やれやれといった表情を浮かべながら肩をすくめると、


「こりゃ……、ロックじゃなかったぜ。ま、愚痴は全部終わってからにしよう」

「おれがいないと、誰が会長の代わりに早口の指示を出すんですかい?」

「…………おれはもう、会長じゃねえ」


 勇兵の返事に、皆は声をあげて笑った。

 それぞれ、ちょっとやけになって、ちょっと涙交じりに。


 四人にとってそれぞれの大願だった、そしてそれぞれが不本意な想いを抱く大戦が間もなく始まろうとしていた。


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 その部屋には調度ちょうどたぐいが無く、無骨なCADキャドデスクとロッカー、そして五脚ほどの安っぽいオフィスチェアが備え付けられているだけであった。


 デスクの背にある広い一枚ガラスには新宿の街並みが映り、そこから差し込む午後の日差しに照らされた中年の部屋の主は、肘掛も無い椅子に座って机に足を投げ出しながら携帯電話に向けて低い声を放っていた。


「おいリズ。そんなことを聞いてるんじゃねえよ。言霊スキルってなぁ何なのかって聞いてるんだ」

『だからぁ、発現したての時は青の光。これが『和光同塵わこうどうじん』。熟練すると、黄色い光で高機能の『星火せいか燎原りょうげん』を扱えるようになるの。で、真実にあと一歩まで迫ると赤い『竜驤りゅうじょう虎視こし』に成長するのよ。ここまで来ると、普通の力じゃ敵わないわ。どう、分かった?』

「やかましい。そんなことはネットで検索すればいくらでも書いてあるんだよ。のらりくらりごまかすんじゃねえ! お前は「ゆとり」時代の政治家か?」

『あはっ! 太陽クンだって、あたしがいないと何にも出来ないゆとり政治家じゃない?』


 太陽と呼ばれた男は濁した相槌を返しながら、正面に置かれたパソコンのモニターを見た。

 そこにはいくつかのウインドウが開いたままになっているのだが、そのうち一つの魔女裁判に関する考察ページに目をやりながら、言葉の構築に迷っていた。


「……まあいいか。本題は明日、会った時にでも話そう」

『なになに? 愛の告白? お気に入りの下着で行ったほうがいい?』

「ばか言ってんじゃねえよ。てめえの狙いについて話せってことだ。客だ。切るぞ」


 全面ガラス張りのために何物も隠すことの出来ない部屋にスーツの男が書類を小脇に抱えながら入ってくるのと、彼が電話を切るタイミングはほぼ一致していた。


「失礼します」


 スーツの男は通話が終わって少し間を置き、遅まきながらに来室の挨拶をした。


「……遅かったじゃねえか。税金の無駄遣いだぜ?」


 部屋の主に文句を付けられたスーツの男はインテリ眼鏡を中指で押し上げると、


「精一杯頑張ってますよ。私だって、税金泥棒と後ろ指をさされたくないですから」


 そう言いつつ、適当な椅子を一つ転がしながら机に寄り、彼の正面に腰掛けた。


「お前さんは自分を中心に考えるクセを何とかした方がいい。俺が待たされた分、いったいいくらの都税が吹っ飛んだと思ってるんだ?」


 そう言いながら机から足を下ろした男は、東京都知事、足利あしかが太陽たいよう


 彼は平時から文句を枕詞に付けて話すため、書類を持ってきたベテランの都議会議員は説教臭い挨拶にも特に気分を害すること無く用件を話し始めた。


「こちらは愛知県、広島県、宮崎県との契約についての書類になります。ご確認のうえ、承認の印をお願いいたします」

「なんだよ、承認するのが前提か? 俺が許可しない可能性だってあるだろう」

「いいえ。それではあなたが今までやってきたことが無意味になります」

「ははっ! お前さんはいつもそうだ。十年前に俺が再選した時からの付き合いだが、ムダ話しひとつしやしねえ」

「税金の無駄遣い。そう思いませんか?」


 そう言われた足利は肩をすくめて鼻を鳴らすと、書類をペラペラとめくりつつ、


「……三県とも、学校間抗争システムの意味はわかってくれてるようだが……、広島だけ、ちっとばかし気になるな」

「そちらは、知事が自ら説明に行っていただけると助かります」

「この時期でも牡蠣は食えるのかな!」

「ご自分のポケットマネーでどうぞ」


 この言葉に、足利はひどく真面目な表情を浮かべ、


「……当たり前だ。都民から集めた金を何だと思ってやがる」

「お好み焼きくらいでしたら経費で落としても構いませんが?」

「あのなあ。出張先の飯を経費で落とせるような優良企業、何社あるっていうんだ? そんな会社からは事業税を倍とってやる」

「誰の成果なのかは知りませんが、最近では企業の業績が著しく上がっています。優良企業も増えていますが」

「うるせえなお前さんは。東京都おれのかいしゃはそんな連中と違って、借金まみれじゃねえかよ。知事しゃちょうがお好み焼きを経費で食ったりしたら、都民しゃいんは俺にもよこせと大暴動だ」

「当然でしょう。私も都民の側につきます」


 そう言いながら眼鏡を押し上げる男に対して足利は大仰にため息をついて、


「ほんっとに面白くねえ男だなあ。まあいいや、広島行きの準備、始めてくれ」

「そちらの、四つ目の資料が必要書類です。ご確認のうえ、承認の印をお願いいたします」

「……準備が良すぎる男は、モテねえぜ?」


 足利は面白みの無い男との会話に不機嫌となったことを隠しもしない乱暴さで机を漁ると、印鑑を取り出してポンポンと書類に押していった。



 足利太陽。……彼は十四年前、圧倒的過半数を占める政党の推薦で知事の職に治まると、最初の任期の間は傀儡かいらい政治家としての仮面をかぶり続けた。


 しかしその間、都の教育機関と人口の大多数を占めるお年寄りからの人気を確固たるものにし、四年後の選挙に無所属で当選するとその本性を現したのだ。


 彼は再選したその日のうちに、半ば強引に「学校間抗争システム」を開始した。

 そして三年後、「考課測定」についての条例を打ち出す。

 これに対して都内はおろか日本中から、いや、世界中からバッシングが発生した。


 武器の先端はゴム製にしたり、金属製の材料の使用を制限したりと安全に気を使っているとは言え、高校生達が本気で戦争をするわけである。

 各所から異常であると、すぐに止めさせるべきとの声が上がったがこれを柳に風と彼は強引にシステムの運営を始めてしまった。


 そのため各所でケガ人は続出、挙句に死者まで出してしまうということになり、東京を慌てて離れる家庭が後を絶たず、しばらくは大パニックになった。


 さらにリコール運動が起こり、東京都議会でも彼の更迭こうてつを強く願う動きが進んでいった。


 だがそんな世論であるにも関わらず、なほど大量の票を得て知事へ再選されると、そこから数年と待たずに彼の評価はガラッと変わることになる。


 都内の高校卒業生達のほとんどは進学せず、就職を希望した。


 しかも、今まで最低レベルの評価しか受けてこなかった高卒社員達が企業を急激に成長させていったのだ。


 彼らには今までの新卒者と大きく異なり、甘えがない。

 常に「勝つ」ことを真剣に考え、考えたら即実践し、多大な成果を上げていった。


 莫大な外貨を稼ぎ出し、国民総所得が驚くほど向上した日本経済。その原因を辿ると必ず、「学校間抗争システム」経験者の名前が上げられた。


 ……「学校間抗争システム」は、自分の力で考え、即時行動できる人材を育成する最高の土壌となったのだ。



 スーツの男は、一枚、また一枚と捺印なついんされていく資料に目をやっていたが、急に顔をほころばせてぽつりと呟いた。


「知事。……日本は、あなたのお陰で良い方向へ生まれ変わろうとしている」

「はあ? バカいってんじゃねえよ。俺がやってることは退行だよ。爺さんの時代の日本ってヤツに戻したかっただけだ。……戦争ってヤツが、人を強く育てるって話を実際に見てみたかっただけだよ」

「この三県でも「学校間抗争システム」が上手く運営されて効果を証明できれば、日本全土に一気に広まることでしょう」

「あのなあ。このシステムに対して賛否があるとすりゃ未だに否定が四割超えてるんだぜ? まだ、どうなるかなんて分からねえよ」


 毎日のようにテレビに登場し、どちらかと言うと悪役として報じられる男がため息混じりに言いながら書類をめくると、そこで彼の手は停止した。


「なあ、さっき俺、言ったよな。準備が良すぎる男はモテねえってよ」

「ああ、五つ目の資料ですね? このシステムの最大の障害について、対策を講じたものとなります。ご確認のうえ、承認の印をお願いいたします」

「まあ、そうだな。コイツらに潰されるんだったら俺の力もその程度だったってことだ。手え出すんじゃねえぞ」


 足利はにらみを利かせながら男に言ったのだが、彼は肩をすくめて反論した。


「残念ですが、この夢は既にあなただけの物では無くなっていましてね」

「なんだ? もう手を出しちまったってことか?」

「はい。墨田区には少々コネがありましてね、根回しさせていただきました。勝幡と蟹江を使った作戦は失敗しましたが、今回は間違いありません」


 足利は大きく舌打ちをすると、五つ目の書類へ目も通さずにつき返した。


「一応、仁義みてえなもんだ。責任は俺がかぶるが、許可なんか出してないからな」

「はい。結構です」


 スーツの男はにっこり笑うと、捺印済みの書類の上に『江東区解放同盟排除計画』と書かれた未承認の書類を乗せて小脇に抱え、椅子から立ちつつお辞儀をした。


「あなたの夢が、全国に広まるといいですね」

「いや。俺の夢はそいつらのせいで少し変わり始めてるんだ。そいつが潰してくれるのも、ちいとばかし楽しみになってきてる」

「…………そうは、させませんよ?」


 スーツの男は、ぎゅっと足利をにらみつけてから都知事室を後にした。


 足利は肩をすくめて彼を見送ったあと、パソコンのモニターに目を向けた。

 そこには二十三区の勢力図が表示されたウインドウと、今川勇兵の写真、そして、


「…………へっ。てめえのせいで、にらまれちまったじゃねえか」


 足利が目をやるウインドウには、ぶかぶかのヘルメットを被って号泣しているメガネの少女が写っていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 生徒会メンバーしかいない時には、落ち着きがなく世話焼き大好きな愛団ちかまるが、なのよなのよと全員分の好みの飲み物を準備してくれるのだが、


「……どうした。とっとと座れ」

「あ、はい。し、失礼します」


 他の者がいる時にはそんなことが出来るはずも無い。


 ホスト側に徐珠亜だけが腰掛けた接客用のミニソファーを勧める不敗の小隊指揮官――『攻め佐久間』と恐れられる愛団のくぐもった声が、亜寿沙あずさ達を室内へと導いた。


「はいはいおまたせ~! あったかいのでいいよね?」

「え、ええ」


 接客用のテーブルへ、花音が不器用にかちゃかちゃとティーカップを並べていく姿を見て、ようやく亜寿沙は緊張を解いた表情を浮かべると、


「解放同盟では、代表が自らお茶を運ぶのですか? 習わし?」

「え? ちょっとだけそんな気がしてなくは無かったんだけど、やっぱ変?」


 屈託くったくの無い笑顔で小首を傾げる花音を見てクスリと笑った。

 そこには昨日最後に見せた江北連合主宰としての面影はなく、四ヶ月にわたって温め合ってきた友誼ゆうぎが余すことなく溢れていた。



 花音は昨年の十二月までの間に、解放同盟加入校を六校にまで増やしていた。


 江東区内に残ったのは不自然な拒否の姿勢を見せる南方の二校と、亜寿沙が取りまとめている北方の三校。

 それらにも解放同盟に加わって欲しいと願う花音は、再三にわたり直接出向いて根気良く説得していた。


 南方の二校はケンカ腰でなかなか話しを聞いてくれなかったのだが、亜寿沙とは会合を重ねるうち親しく話すようになっていった。

 しかし江北三校は理想の違いを理由に解放同盟への参加を拒否し続け、墨田の猛攻に対して共闘する同盟勢力という立ち位置を維持していた。


 ……松平亜寿沙の理想は絶対的な武力。ただしそれを振るうことはしたくない。

 岡崎高校の生徒を極限まで鍛え、その強大な武力を盾に平和と平等を説き、一校一校勢力を伸ばしていったのだ。


 やがてそのまま二十三区を平らにしたところで武力解除し、平和で争いの無い社会を作ろうと画策していたところへ区内中央部に圧倒的なカリスマが出現する。

 そんな彼女と会話をするうち、その真似などできない遠大な理想と夢とに共感し、感嘆し、そして自分ではこの勢いを止める事は出来ないだろうと落胆するようになっていった。


 だが、丸腰で夢を説く宣教師のような彼女の姿が亜寿沙には確実な歩みであると思えず、自分を信じて付いてきた者たちを花音が引っ張る宝船のような代物に乗せるわけにはいかなかったのだ。



 清洲高校生徒会室の、安物ながらふかふかな来客用四人掛けソファー。

 そのゲスト用、壁側手前に腰掛けているのは岡崎高校のスタンダードなセーラー服にゆるふわなセミロングが映える、松平亜寿沙。


 さらに奥に座るのは、花音には毎度顔なじみとなった岡崎高校生徒会庶務長、二年生の戸田とだ圭子けいこだ。


 亜寿沙と中学からの親友である圭子は、スポーティーながらもオシャレな短髪をさらさらと揺らす健康的な笑顔を清洲の面々に向け、座りながらも慇懃いんぎんな、そしてやたらとのんびりした挨拶を改めて行った。


「皆様~、昨日の今日でこのような不躾ぶしつけ~、まずはこの通りおびいたします~。ですが~、織田代表を友人と見込んで~、お話しを聞いていただきたくお邪魔させていただいた次第~。どうぞ、よしなに~」


 このテンポと、見た目の快活さとのギャップに、花音以外の全員はがっくりと半目になった。だが一人だけ、


「おお。なんというか、その、平和的でいいな、あんた」


 気に召したのであろうか、こういう席ではあまり発言をしない悠斗が口を開くと、圭子はあらあらとにっこり微笑み、そして彼女の斜め正面に座っていた花音がふくれっ面になった。


「こら、ゆーと! なんでナンパとかしだすし! バカじゃないの!」


 花音が小学校からの幼馴染である悠斗に容赦の無い突っ込みを入れると、


「なにぐっ……、お、おお、ナ、ナンパじゃねえ。そこのちゃら男じゃあるまいし」


 すると慌てた悠斗は人身御供ひとみごくうを持ち出してごまかした。


 それにつられて岡崎高校の二人が揃ってちゃら男と呼ばれたグレーアッシュの髪をスイングショートにセットしたイケメンを見ると、その男性は涼しげな笑顔を浮かべてバックに花を咲かせながら、


「お綺麗で剛毅ごうきな江北連合主宰しゅさいのレディーと、江北を支える内助ないじょ麗人れいじん。お二人とお近づきになれて光栄です。私が、江東区解放同盟軍司令官、滝川徐珠亜です。ああ、親愛の意味を込めて下の名で呼んでくださってもいいですが……、先着一名様で、お願いしますね」


 最後に白い歯をきらりと輝かせ、二人にウインクしたが、


「あ、どうも、滝川さん。この度はよろしくお願いいたします」

「滝川さん~。どうぞ、よしなに~」


 さすがにこの二人が相手では分が悪かった。

 あっさり玉砕して流胡に指をさされてまで笑われた徐珠亜は素の喋り口調と態度に戻しながら、ネタを振った悠斗に文句を言い始める。


「ちょっと滝川君まで何よ! ごめんね松平さん、ウチのみんな緊張感無くて。でも可愛いでしょ?」


 その表現に亜寿沙は声を出して笑っていた。それは誰もの心を掴む、朗らかで幸せな笑い声。

 清洲の面々は一瞬驚いた表情を浮かべたが、その口角こうかくはすぐに柔らかく持ち上がり、気付けば優しい笑顔で彼女を見つめている……そんな素敵な笑い方だった。


 だが亜寿沙はひとしきり笑った後、まるでうたげの終わりの時を迎えたようなけだるさを表情に浮かべ、


「……圭子が無理に私を連れて来てくれたのですから……。何かが変わるはずも無いのですけど、お話ししましょう。聞いていただけますか?」


 ティーカップの縁に目を落としたまま、戸田の手をそっと握った。


「今回の墨田への従属は、私の家の事情でもあるのです」


 部屋にちりぢりになっていた清洲の面々もソファーの周りに集まってきたところで、亜寿沙は語り始めた。


「……四月に入ってすぐのことです。父の浮気が、事の始まりでした。あんなにお母様を愛していた父が本気で行ったこととは思えないのですが……。それでも母は父を許せなかったらしく、腹いせにお父様の会社のお金を横領したらしいのです。ひとまず父が補填したため事なきを得たのですが、毎日ケンカが絶えなくなった父と母は離婚することになりました」


 急にシリアスな話しになり、皆は息を呑んだ。

 だが、もともと家庭環境が悪い悠斗だけはつまらなそうにパイプ椅子の背もたれに顎を乗せ、大きくあくびをする。


「……そして父は母の横領したお金の返却を見逃すかわりに、離婚の際に慰謝料を一切払わないと言い出したのです。横領などしていないと主張する母は途方にくれたのですが、それでもお友達の経営するアパートへ格安で入居する目処めどが立ってそこへ引っ越すことにしたのです。私はそんな母がかわいそうで、母と共に転居することを決めました」

「それが……」


 訊ねる花音の目を正面から見つめなおして、亜寿沙は結ぶ。


「はい。支配区外への転居のため、所属校を変更しなければならない私の事情です。そして今しがた、江北連合主宰しゅさいの地位を剥奪はくだつしないむね約定やくじょうと引き換えに、府中高校への転校を済ませてきました」


 数秒の沈黙の後、パイプ椅子をぎしりと鳴らしながら一同は静かに息を吐いた。


 確かにそんな家庭の事情があったのなら転校は仕方ない。

 そして求心力であった亜寿沙が主宰の地位を保つということならば、江北は無理に抵抗せずに大人しく墨田へ従属することを選択するだろう。


 そう考える皆の中、花音だけが合点がてんのいかない顔で口を開く。


「あの……、それだけ? それで墨田に行くことに決めちゃったの?」


 いまさら何を質問されているのか分からない亜寿沙は、返事にきゅうした。


「あ……、その。はい……?」

「何でなの? みんなのこと、大切なんじゃないの?」

「え? いえ、もちろん大切です。そして皆を守るための最後のピースも、昨日滝川さんからいただきましたし」


 自分を見つめる亜寿沙の目に、徐珠亜は肩をすくめつつ、


「従属したことでひとまず墨田から攻められることは無くなり、自らは解放同盟の領地を取ることができる。反撃する俺たちは墨田の領地を食らうことは出来るが、不可侵ふかしんを守る場合江北の領土へこちらから挑む訳にはいかねえ」


 徐珠亜は一息入れ、飲み物を一口すすってからさらに話しを進めた。


「なんでティーカップにウーロンなんだよ。……てことは、だ。俺たちは墨田に取られた学校を奪い返しつつ、背後からあんた方に学校を取られ続ける。上手くいけば江東区全域は、あんた達のものになるってわけだ。でも、墨田が占領校を全部明け渡せって命じてきたらどうすんだよ? あずさちゃん、自分が人質だって立場、分かってる?」

「その命には一切従わずとも良いと指示してあります」


 亜寿沙の返事に、徐珠亜は思わず息を呑んだ。そして下唇を噛んで俯く圭子を見つめた後、ティーカップへ目を落としてトーンを下げた抑揚の無い声で呟いた。


「……そりゃ、まいった。いい手だよ。上手くいきそうだ」

「私もそう思います。ですから皆様にはひどい話しとは思いますが、このタイミングで墨田の勢力に加わるのは江北にとって最善の選択なのだと……」

「違うよ! 松平さん、間違ってる!」


 亜寿沙は、急に涙目になって叫びだした花音に胸をえぐられる思いをした。


 だがこれも戦のならわし。そう自分に言い聞かせつつ、考えた。


 織田さんは同盟側に付いた方が江北のためだと話しを持って行きたいのだろう。

 それはそうだ、あたしは一方的に解放同盟を占領していきますと宣言したわけなのだから。


 だが、自分の夢を貫くためなのだと分かってもらうために、亜寿沙は涙を呑んでかつての盟友へ反論した。


「解放同盟と墨田の支配校は同数。解放同盟の生徒数は墨田の一・五倍にも及びますが、動員兵力は逆に五分の一程度しかありません。これは、兵徒分離を掲げる弊害です。そんな兵力差のせいで、我々と手を取って戦ってもようやく墨田と互角程度だったでしょう。ですから私の転校を機に、江北を大勢力へ変貌へんぼうさせる奇策きさくを選択したのです。そのための墨田への従属。そのための解放同盟からいただいた、一方向の不可侵条約」

「違うもん! そういう話しじゃないよ!」

「違いません。今の世は力こそが正義。あたしが考える学校間抗争を終結へ導く道。これを叶えるために仲間を鍛え上げて力をつけ、それを振るうのは当然の……」

「うそ! だって松平さん、自分のために仲間の力も使ってないじゃない!」


 亜寿沙は、自分の根幹を見抜かれた気がしてハッとした。


 彼女は武力最上思考ではあるが、同時に平和主義者でもある。

 平和を説くために「振るわない」武力を所持する必要があると考え、今まで江北を武力集団に鍛え上げてきた。それを同盟締結させるための背景として利用してきたものの、一度も侵略行為に使用したことはない。


 これを防御にしか使ったことが無いのは、自分の臆病の表れかもしれない……。

 でも、


「たとえ今までがそうだとしても! あたしの考えが間違っているだなんて言わせないわ!」


 これは自分が信じる道であり、二十三区を平和にするための正道だ。

 しかも自分は人質として、いや、江北が自分を切り捨てることが前提の策を採ってまでして江北の未来を、平和への希望を繋いだというのに。


「あなたになんて! 何が分かるって言うの! あたしの気持ちなんて!」


 気付けば涙を流しながら叫んでいた亜寿沙は、しかし目の前の花音がもっとボロボロに泣き出したことに目を奪われた。


「だから! 江北とか墨田とかの話しじゃないよ! もっと大事なことでしょ? 家族みんなじゃなきゃ! 学校のみんなとじゃなきゃいやでしょ!」

「…………え?」

「絶対! なんとかするの! そのために皆がいるの! 自分のみんなのために、一杯みんながいて、ひっく、みんなでがんばって…………、うええええええ!」


 とうとう大声を上げて泣き出してしまった花音を前に、いままで自分が何を間違っていると言われていたのかようやく気付いた亜寿沙は、


「まさか……、織田さん、あたしが両親と、学校の皆と離れるっていうことが……」

「そーだも~~~ん! 違うんだも~~~ん! うええええええ!」


 亜寿沙は、驚愕きょうがくした。そして、花音の言葉を振り返った。


 みんなのことは、大切じゃないのか。

 私は、間違っている。

 なぜ仲間に力を借りなかったのか。

 そんな話しはしていない。

 そして、なぜあたしが家族みんなでいようとしないのか。江北のみんなと一緒にいたくないのか。


 ……この少女は、今の今まで江北と解放同盟と墨田との関係についてまるで考えていなかったのだ。

 この子が間違いだと言っているのは、ただあたしが父親と別れると、学校の皆と別れると決めたことに対してだけ。


 あたしの一番の痛みを、自分すら気付いていなかった本当の気持ちを心配して、なぜあらがわないのか、ただそれだけを言いたくて……。


 亜寿沙は自分も同じように、痛みに苦しんで我慢するだけの者に対して「なぜ戦わなかったのか?」と叱りつけた過去を思い出し、今、ようやく気がついた。


 どうして私は戦わなかったのだろう、と。


 両親の離婚、家庭の変化、友との別離……。

 誰にも相談しなかった。力を貸してと叫ばなかった。あがくことすらしなかった。


 未だ涙をぬぐうことすらしないで泣き続ける少女に「間違っている」と、愛情で叱られたのだと気付いた亜寿沙もとうとう涙をなく流し、


「織田さん……」


 ソファーから立ち上がり、彼女の元へ一歩踏み出した。が、


「おお。待て、おんなぁ」


 と、それまで黙って聞いていた清洲の面々を割るように悠斗が歩み寄ってきた。


 悠斗は、驚いて足を止めた亜寿沙の、セーラー服の胸倉を掴みあげ、


 パンッ!


 手加減なしの平手を見舞った。


 胸倉を放され、呆然としてソファーに崩れ落ちる亜寿沙に花音は慌てて駆け寄る。


「松平さん!」


 彼女は左頬を押さえる亜寿沙を力強く抱いて、


「なにすんのよバカゆーと! なんでこんな酷いことっ!」


 校庭にも響き渡るほどのキンキン声で悠斗を非難した。

 それをうるせえなあといった表情で聞きながら、悠斗は、


「ああ…………。気に入らねえから、殴った」

「バカじゃないの? もうゆーとなんかしんじゃえっ! ばかーーーっ!」


 容赦の無い罵声ばせいを浴びせる花音を無視して、悠斗は亜寿沙に声をかけた。


「おお。あのなあ、お前。てめえが決めたことなんだろ? ダチと父親と別れるってえ話し」


 亜寿沙は悠斗の目を恐る恐る見上げると、獣のような目をした男はさらに告げた。


「オレは家族とか、でえっきれえだけどもよ。てめえで決めたことを、家族のせいにするやつぁ最低だぜ」


 悠斗の言葉を遠くに、しかし確かに耳へ入れながら、亜寿沙は考えた。


 その通りだ、と。


 家庭の事情という言葉は、言い換えれば両親のせいと言っているのと変わらない。

 これは、何たる言い草だろう。今回のことは全部、


「あたしが……、臆病で、ただ受け入れたから……」


 震えながら呟く亜寿沙に、悠斗はとどめをさした。


「てめえのせいだ」


 そこまで言った悠斗は、郁袮がすぐ横に立っていることに気付いた。

 悠斗がそちらをゆっくり振り向くと、


 ガツッ!


 郁袮が渾身のストレートを顔面に叩き込み、その勢いで壁に鈍い音を響かせながら叩きつけられた悠斗は尻から床に落ちた。


「ああ? てめ……っ! なにしやがる!」


 殴られた鼻面はなづらを押さえながら悠斗がうめくと、これだけのことをしながらきょとんと首をひねる郁袮が言った。


「俺も、悠斗が松平を叱ったのは正しいと思うんだ。でも、なんだろうこれ? しいて言うなら……、気に入らないから、殴った?」


 郁袮はそう返し、ソファーの二人の前にかがみこんだ。


「ああ……、じゃ、しょうがねえか」


 悠斗はあっさりと認め、両手を膝についてよっこらせと立ち上がった。

 が、すぐにまた、今度は徐珠亜と樹雄に引きずり倒される。


「いてて! てめえら、なん……っ!」

「この突発性暴力男め。こうしてくれる」

「女の敵は、この徐珠亜様の敵だ! このっ!」


 緊張した場の空気を、男どもが変えてくれた。

 戸田も亜寿沙も肩から力を抜いて、すこし微笑みを浮かべて清洲のおかしな生徒会の一同を見上げるのだった。


 ……だが、余計なことに、股間を押さえながらくねくねする霞蒲羅がもう一段階おかしな空気に変えてしまう。


嗚呼ああ! 僕、こんな人前でなんて初めてだよ! しかも、二人同時だなんてっ!」

「こんのバカ! 勝手に人にモノローグつけてんじゃ……、いてててて! そっ、そこは! 止めろっ!」

「そこは! らめ~っ!」


 最後の最後はいつもこんな方向にぐずぐずになる清洲高校生徒会だった。


 そんな皆を羨ましいと感じずにはいられない亜寿沙は、涙のままにクスクスと笑い声を漏らしていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「……ごめんね~。私が清洲なんかに連れてきたばっかりに……」


 清洲高校校舎から校庭に出るなり、戸田圭子は親友の顔色をうかがった。

 だが、眩しい春の日差しに負けないほど輝く笑顔で振り向いた亜寿沙は、


「何を言ってるの? 中学の頃から変わらないあなたの強引さに、心から感謝してるっていうのに!」


 と言って、戸田の手を握った。


「だって~。あんな……、痛かったでしょう?」

「うん! でもね、嬉しかった! 叱ってくれる友達がいるって、幸せだよ!」


 戸田は、亜寿沙の声が透明感のある澄んだ音色であることに気がつくと、自分の選択が間違っていなかったことに喜びをかみ締めるのだった。


「それに帰る間際、織田さんがすっごいこと約束してくれたし!」

「あれは……」


 花音は、亜寿沙の家庭の事情をなんとかしてみせると豪語したのだ。


 さすがに顔をしかめた自分達をよそに、清洲高校の面々は大真面目に、いや、また始まったよという顔で全面協力を約束してくれたのだ。


「もちろん……、そんなこと、無理だって分かってるけどね……」


 亜寿沙は両手の指を組んで前にぎゅっと伸ばし、


「でも、頼もしい味方が出来たって感じで、すっごく嬉しいの!」


 そう言って、未来に思いを馳せる。


 いまさら転校を覆すことは出来ない。でもそれならそれでやりようはあるはずだ。

 まずは今川勇兵。彼の理想を過不足無く理解すること。そして、それを元に共存共栄の道を探っていく。

 なにより、織田さん達の役に立ってあげたいから……。


「うふふっ! 面白くなってきたわね!」

「ちょっと……、本気~?」

「ええ! もちろん! 早速今から、あなたと朱埜あけのに頼りまくることにしたから覚悟して! そして最終的には……」


 亜寿沙は、くるっとまわって戸田の目を見つめながら、


「あたし、必ず江北へ帰ってくるわ!」


 そう言うと、校庭まで笑い声が響いてくる生徒会室へと目を向けた。


「あ! そうそう! それと、忘れちゃ嫌よ?」

「え? ……ああ~。朱埜に説明~。オッケ~、後で直接会って説明しとくよ~。でも……買ったばっかりなんでしょ~?」

「うん。……あたしの携帯、動かなくなっちゃった。データ無事かな?」

「もし消えてたら~、あたしの携帯から送ってあげるから平気~」

「明日の夕方にはショップに行って見てもらうけど……、もしもの時はよろしくね」


 よりによって、一番力になってあげたいこのタイミングでLINEもメールもしてあげられないなんて。

 戸田圭子はしばらく会えなくなる親友のために、今日は沢山甘やかしてあげようと心に決めながら一緒に清洲の生徒会室を見上げたのであった。


「……ほんとは、あたしから直接謝らなければいけないんだろうけど」


 亜寿沙が呟くと、圭子は彼女の手を握りながらちょっと意地悪な言い方をした。


「朱埜~、怒ってるよ~? 転校するって聞いてから~、この世の終わりみたいな顔してたんだから~」

「だから……、その、ちょっとわがままなんだけど、圭子から……」

「いや~ん! 早速頼られちゃったのかな~?」


 圭子は亜寿沙の顔を覗き込みながら、力強く胸を叩いて見せた。


 ああ、本当に馬鹿だった。

 織田さんに教わるまで、こんな大切なことを忘れていたなんて。


 亜寿沙はそう思いながら圭子の顔を見つめ返し、心から微笑んだ。


 彼女は智謀を、そしてあの子はあたしに武力を貸してくれる。きっと上手くいく。


 本当の意味での友情というものを知り、亜寿沙がひとつ大人への階段を上った自分に気付いたその時、彼女の瞳から一滴の澄み切った涙が零れ落ちた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 亜寿沙達がいとまを告げると、随分と打ち合わせの時間を削られてしまった清洲高校の生徒会面々はそれでは本題をとばかりに、やはり馬鹿騒ぎを開始していた。


 明日の会議に向けた準備をしなければいけないところを次々と邪魔された徐珠亜はついに諦め、髪ゴムを探して床を這う愛団の手伝いなどし始めた。


「急にお客様とかやめて欲しいのなの! 慌てて外したから、どっかに飛んじゃったよ……。滝川君、ありがとなの~」

「いやいや、女性にとってアクセサリーは心の欠片かけらって言うしね。必ず見つけ出してやるからそんな顔すんなって」

「なにそれきゅんと来たのなの! でも私には花音ちゃんという嫁がいるからおととい出直してくるといいのなの!」

「べつに口説いてねえって……。ねえ、姉御ぉ。そっちに飛んでない?」

「こっちにゃぁ来てねぇょ~。野良犬が食っちまったんじゃねぇかぁ?」


 流胡がニヤリといやらしい笑みを作りながら郁袮に小姑こじゅうと攻撃をすると、


「俺じゃない! ねえちゃん、俺じゃないから!」

「なにびびってるのなの? 疑って無いのなのよ」


 愛団が優しい言葉をかけ、郁袮は震えるような息を吐いて胸を撫で下ろした。

 それを見た霞蒲羅は日傘の差された肘掛付きの揺り椅子に音も無く腰掛けながら、


「佐久間弟氏は、なぜ佐久間姉氏を狼狽ろうばいの震源となさるのです? 少々興味があります」


 郁袮に質問したのだが、霞蒲羅の使うおかしな日本語を理解するのがへたくそな郁袮は困った顔を浮かべたまま通訳士の顔を見た。


「なぜ、弟佐久間は姉佐久間にびびるのか、と尋ねているのだ」


 その通訳は郁袮の顔も見ずに、撥水はっすい生地のショッパーから単三電池が八本もはめ込まれた外部バッテリーを取り出して携帯に繋げながら教えてやると、郁袮はごまかすために慌てて他の話題を探し始めた。


「あ……、えっと、そうそう! 悠斗、ごめんなさっきは! 怪我してねえ?」

「あぁん? ……何のことだあ?」

「ゆーとは頑丈だし忘れっぽいから平気平気! それにあんなにひどいことしたんだから良いお灸よ! 郁袮、ゆーとを殴ってくれてありがとね!」

「あ、うん。……それよりさ、いつまで踊ってるんだよお前。邪魔だよ」

「邪魔じゃぁねぇよぉ? くるくる回るメガネぇ、かぁいぃな~」


 亜寿沙とすっかり元通りの関係に戻った花音は幸せを三拍子さんびょうしに例えたダンスを踊り続けながら郁袮のことを褒めると、自分のことをいつもの恵比須顔で見つめ続ける流胡に気付いて、


「あれ? 柴田さん、右手、怪我してない?」


 さらっと地雷を踏んだ。

 これがデリケートな問題だということを知る悠斗と徐珠亜は緊張するが、


「蚊に食われたぁ」

「そうなの? まるで誰かを殴ったあとみたいな食われ方だね!」

「うん。蚊に食われたぁ」


 天然素材百パーセントな花音のお陰で事なきを得た。

 流胡は、花音にケンカを封じられている。

 そして彼女の前では良い子として振舞っているのだ。……これでも。


「おお、ほんとウゼえから踊んのやめろ。……でもまあ、よかったじゃねえか花音」

「ほんとだよ! 後は松平さんのお父さんとお母さんを説得するだけで万事解決!」


 ポーズを決めて右手を高々と挙げた花音だったが、さすがに一同揃ってため息をついた。


「だけって、それが簡単にできたらこんな事態になってないって理解できてるのか? お前のここに詰まってるやつらが言ってるだけなら信用しないほうがいいぞ?」


 郁袮が花音の頭にチョップしながら言うと、その能天気は自信満々に両手を腰に当てた。


「大丈夫! なんてったって、あたしには秘策があるし!」

「ああ? 珍しいな、ちゃんと考えてるとは思わなかったぜ。なんだよ秘策ってな」

「諦めない!」


 さすがにため息もつかず、とうとう主を無視して皆は話し始めた。


「松平のご両親の件は置いておいてだ。さっきの話し信用できるとは思えんのだが。柴田、どうなのだ? お前は昨日、会っているのだろう」

「さぁねぇ。でも、信用して貧乏くじ引くくらいならぁ、ハナから信用しねぇ方が正解だぜぇ?」

「でもさあ、松平さんの友達って言うなら、なんか信頼できそうな気がするけど」

「佐久間弟氏、それは佳人かじんには佳人が、亜人あじんには亜人が集まるという根拠ですか?」

「何言ってるかわかんないけど、多分それ。えっと、何て言ったっけ、あけ……、あけ……」

本多ほんだ朱埜あけのだ。江北にはもっと適任が多くいそうだが、始めて聞く名だな」

「あたしも聞いた事無いのなの。そんな子に軍の司令官なんかさせて大丈夫なの?」

「そのあけちゃんがもし可愛かったら、俺が連絡係になっから! よろ~!」

「おお、てめえはDD自重じちょうしろ。昨日も話したが、あいつは墨田のスパイかもしれねえんだ。本当に松平の名前を出したら俺達に寝返るのか?」


 悠斗の言葉に、一同は揃って熟考した。


 確かに、挙兵のタイミングで寝返れば、今川軍を倒すことが出来るかもしれない。

 だが、もし寝返らなければ勝ちを拾うことは困難だ。


 しばらくの沈黙の後、徐珠亜は肩をすくめて長テーブルの下から呟いた。


「ま、信じない、ってのを前提に、寝返ってくれる分には儲けもんって考えときゃ損にはなんないかな?」

「ん……、そぉんなとこで考えとかねぇと危ねぇよなぁ~」

「え? 信じてあげないの? だめだよ、滝川くんも柴田さんも!」

「怒ったメガネぇ~、超もえぇ~」

「徐珠亜さん、江北もあっちに付いて、防ぎきれるの? さすがに今回は兵力差が尋常じゃないんだろ?」


 なぜか徐珠亜だけ「さん」付けで呼ぶ郁袮が机に手をかけながら下に入ったままの徐珠亜に問いかけると、さすがにこの話題には全員が集中して彼の方を向いた。


「わかんねえ。この兵力差だから墨田はゆっくり確実に、ひらで押してくるはずなんだ」


 徐珠亜は手の平を立てて、すうっと顔の前の空気を押し出すような仕草をしつつ、


「だからこっちには、上手いこと奇襲して敵の本陣を襲うって手しか無いんだけど」


 今度は逆の手を真っ直ぐにして、先ほど墨田に見立てた手の平の真ん中辺りを突く。

 そして両手を上げて肩をすくめ、


「それは今から準備できるもんでもないからな。要は当日、敵さんが隙を作ってくれた時に対応できるかどうかが勝負になるわけだ……っと、おれが全部決めちゃあいけねえな。かのんちゃん、そんな方針でOK?」

「うん! でも、本多さんはちゃんと味方になるから、戦力はとんとんだと思うよ? 松平さんのお友達なら、きっと優しい人なんだろうね! あ、そうだ。本多さんがピンチになったらすぐに助けに行くんだよ? さっき松平さんと約束しちゃったんだから、絶対怪我させないよって」


 あくまでも亜寿沙の話しを信じる花音は能天気なリアクションを見せるのだった。


「佐久間弟氏。このお天道てんとうさまを射止めた場合、つぼを十や二十安置できるお住まいが養うに必須となりましょう」

「…………」

「織田は詐欺さぎ商法に引っかかりまくるだろうから注意しろと言っているのだ」

「分かった。でも戸田さんみたいな人が詐欺師だったら、俺でも引っかかりそうだ」


 その言葉に、皆がカタツムリのようにのんびりとした戸田圭子を思い出そうとしたのだが、あの喋り口調からかけ離れたルックスがどうにも思い出せない。


「なんか、ギャップが痛々しい子だったのなの」

「あぁ? そのギャップがいいんじゃねえか!」


 可愛らしい声をアヒル口から発した愛団に食ってかかった悠斗の肩を、郁袮が力いっぱい叩きながら、


「いやわかる! ギャップこそ王道だよな! 戸田さんのパラメ配分は神よ! 萌える!」


 同調して拳を突き出すと、だよなと言いながら悠斗が拳を合わせた。だがその時、


「……郁袮。今、なんつった?」


 全員が体の底の方から冷たくなる吹雪の音を耳にした。

 低く、重い、その聞きなれた声は、しかし自分達以外誰もいないこの部屋で聞こえるはずのないものだ。


 これを聞いて、真っ青になってがたがたと震え始めた郁袮が首をその声の主に向けると、


「パラメ? 神? またお前あれか、ゲーム機からボイスが漏れていないかイヤホンを何度も何度も外して確認しながらプレイしないといけないソフトとかやってたわけか?」


 薄氷を思わせる切れ長の目を郁袮に刺しながら、机の下からむくりと立ち上がった愛団が両手をスカートのポケットに突っ込んだ。

 すると郁袮は慌ててその前にひれ伏し、床にこすり付けた額が音を奏でるほど震え始めた。


「ねえちゃん言ったよなあ! 尋常じゃない金額のプレゼントを毎月違う女にみつぐゲームはやるんじゃねえって! あのきもオタ、愛団ちゃんの弟なんでしょ? って言われながら日に日にお昼ご飯の机が皆と離されていくのがどれほど辛いか分かってんのか! あぁん?」


 郁袮は勢いよく顔を上げ、目線を自分の幼少期に向けて泳がせながら、甲高い子供の声に戻って叫び始めた。


「ごめんなさいおねえちゃん! ごめんなさい!」

「てめえのせいでねえちゃんがハブられて! 何度転校したと思ってんだ! お別れ会の度に愛団ちゃん、実はこういうの好きなんでしょ? って言われながら魔法少女ステッキとか渡されて、悔し涙でそれをハートに振った時のクラスメイトの顔が今でも夢に出てくんだぞ!」

「ごめんなさい! じいちゃんから貰った『キミ萌んじぇる☆』はもうやらないよ! だから、ボクの武器スロットにそのステッキを装備する実験はやらないで!」


 郁袮はまたうずくまると、床に口をつけた状態で呟き始めた。


「痛いし気持ち悪いしどこまでも入って行くから怖いし、それに実験の後、ステッキを手で洗ってると地球上のすべての皆さんに生まれてきたことを謝ってまわりたくなるんだ……。あれは嫌だ……、やめて……」


 呆然と口を開けっ放しにしながらその様子を眺めていた一同は、なぜ郁袮が愛団を恐れるのか得心とくしんしつつ机の下の徐珠亜へ顔を寄せて話し始めた。


「なによこの症状。すっごく怖いんだけど」

「私は実験の方が怖い。よく弟佐久間の自我が崩壊しなかったな」

「おお、もう高校生なんだし、ギャルゲくれぇいいんじゃねえのか?」

「あの様子だとぉ、他にもいろんな実験されてそうだなぁ~」

「その実験映像に登場する佐久間姉氏には徐珠亜さんをコラさせていただきます」

「やめて。そんな脳内変換お願いだからやめて」


 そんなやり取りをしていると、全員の携帯電話が一斉にメールを着信した。


 この音に驚いた郁袮は自分の携帯電話を投げ捨てて生徒会室の隅まで四つん這いで走り、頭を抱えてうずくまってしまったのだが、他の者は眉間にしわを寄せ、お互いを見つめ合った。


 これは、都からの一斉メール。そして恐らく考課測定の通知だ。


 考課測定の攻撃側は、都に対して必要な書類を前日までに提出して認可を受けなければならない。そしてその情報は、攻撃対象となった高校へ即時通達される。

 そのため、相手に準備されぬよう期限ぎりぎりで都へと提出するのが常だ。


 そしてあんじょう、メールには翌日、四月二十二日九時より二十四日十七時までの予定で墨田区八校、江北連合合同軍による、江東区解放同盟への考課測定が行われる旨がテンプレートに従って書かれていた。


 皆はあまりにも素早い挙兵に言葉も無く携帯画面を見つめていたのだが、やれやれと口にしながら机から這い出してきた徐珠亜がパンと手を一つ叩いて、指示を飛ばし始めた。


「さあ忙しくなったぜ! ちかちゃんは各校へ出兵の準備を急がせて! 姉御あねごと悠斗は装備を昇降口まで運んでくれ! 樹雄とおじょうちゃんはシミュレーションに付き合ってくれ!」

「む。今日は早く帰りたいのだが」

「毎日ではありませんか。さあ、こちらで携帯のうちよりおもむきのあるゲームと参りましょう」


 皆はそれぞれ動き出したのだが、花音だけきょろきょろと皆を見回しつつ、


「ねえ、滝川君。あたしは?」


 徐珠亜は円卓になっていた机を中央へ寄せてその上に地図を広げながら部屋の隅を親指で示すと、


「かのんちゃんは、自分の馬が明日元気に走り回れるよう、回復させといてくれ」


 そう言って、親指の爪をかじり続ける郁袮の面倒を押し付けたのであった。


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