第三陣 敵影あり、かの者、電撃を伴いて立つ

 花音かのんが、おでこと後頭部、そして心に食らった矢の痛みをなんとかこらえて泣きやむと、視界一メートルほどという豪雨がぴたりと止まった。


 するとギリギリ視界の外、つまり自分達から一メートルと一センチ先をぐるりと囲む十数人もの府中ふちゅう高校陸上部員が急に姿を現したが、これを奇跡的に振り切って脱出に成功し、郁袮あやねに乗って南へ逃げていた。


 なぜ南かと言えば、陸上部員達から逃げ回ったことによりかなり西側へ移動してしまったので、江北領から遠のいたからである。


 敵の最終防衛ラインが頑強なことは分かっているのだが、それでもこれを突破する方が、今来た道を引き返すより遥かに安全だ。


 そう考えた郁袮の独断によるルート取りだったのだが、彼は急に走る速度を落として眉根を寄せた。

 先ほどまで敵がびっしりと縦深に陣取っていたのに、自分達の向かう先だけ防御が薄くなり、ついには敵の気配を感じなくなったのだ。


「……花音。正面だけ、敵がいねえ」

「やったじゃない! 今のうちに行きましょ!」


 郁袮はようやく薄まった雲の下、さらに集中して気配を探った。


 さっきから、西の方で多人数による戦闘が行われている。

 東には、小規模ながら味方の部隊がいるような空気感があるが戦闘は行われていないので、その近辺に敵はいないはずだ。


 ということは、三方のうちどれかが罠だとするならば、圧倒的に怪しいのは南。つまり、正面。


「……いくらなんでもあからさまだ。相手は『黒衣こくい宰相さいしょう太原たいげんだぞ。わざと歯抜けの防御陣にしたように見せかけて、罠を張っているんだ」

「そんなことないって!」

「どうしてそう思うんだ?」


 何かその答えに辿りつく、自分の知らない根拠のような物があるのだろうか。

 伊達だてに墨田区と半年近くも戦い続けていないなと思いながら頭上に問いかけたら、


「今日のてんびん座はラッキーワードがストレートだったから! 行ける!」

「おおおぉ! こいつに感心した一秒前の右腕! 気持ちは分かるが抑えてくれ!」


 郁袮は、音が鳴るほどに握りしめた右手を必死に左手で抑え付けつつ、左へ曲がった。


「ちょっと! なんで曲がるのよ!」

生憎あいにくだが俺はてんびん座じゃあないからな!」

「あたしだって違うわよ!」

「わーお! どうなってるんだよお前のシナプス! 右脳だけで喋るな! それともあれか? 左脳と右脳の国境が迷いの森になってるのか?」


 あるいは、右脳が面白がって高速スライダーとか投げるから左脳がキャッチできないのだろうか。


 そんなことを考える郁袮の目に、大きな障害物が映る。

 彼は、慌てて急ブレーキをかけた。


「なんだ?」


 目の前の道路を塞ぐように、ライブステージが出来上がっている。


 脇をかすめて通れないこともないが、違う道を選ぼうとして郁袮は後ろを向いた。

 執念深く自分達を追ってくる十数名の陸上部員達に追いつかれる前に、急いで他の道に抜けなければ。


 そう考えて走り出そうとした郁袮は、ハウリング交じりの大音量を背中から浴びせられた。


「待ちな、お客さん! 今日はワンミュージック&ワンドリンク制だぜ! とっととドリンクを注文して席につきな!」

「あ、ごめんなさい。俺たち、客じゃなくて……」


 お辞儀をしつつ郁袮がふり向くと、その頭上から緊張感のある叫び声が響いた。


「太原さん!」

「太原? まさかあれが、『黒衣の宰相』だと?」


 郁袮が驚くのも無理は無いだろう。

 二人の目の前、ステージ中央には革のボンテージスーツに身を包んで金髪を逆立てたパンクメイクのヴォーカリストが立っているのである。


 そんな舞がステージ中央のマイクスタンドにガイコツマイクを挿し込むと、巨大なアンプから思わず顔をしかめたくなるようなガコンというノイズが響いた。


 その時、郁袮達の背後に十人の追っ手が次々と到着したが、彼らは疲労のため、その場へ仰向けになって倒れ込む。そんな連中に向かって、


「待たせたなあフリークス共! 今日はアタイのGIGギグでイキっぱなしの夜にしてやるぜ!」


 バンドメンバーは舞のMCに合わせて楽器で合いの手を入れ、盛り上げるのだが、


「おいおい、誰もレスポンスしてねえぞ?」


 郁袮が思わず突っ込みを入れつつ陸上部員達へ目を向けると、近辺から酸素がすべて無くなってしまうのではないかと思えるほどの荒い呼吸が折り重なるように聞こえていた。


「まあいいや。あんたには悪いが、ステージの横を抜けさせてもらうぜ! バンドメンバーも含めて五人がかりで来ようと楽勝だ!」


 背後の屍を踏み越えて逃走するのも悪くないが、ステージを抜けて逃げる方が手っ取り早い。

 郁袮が最も抜け易そうなルートを探っていると、


「駄目! 郁袮、早く逃げて!」


 花音は郁袮の髪をぎゅうぎゅうと引っ張りながら、大声を上げた。


「いてて! こっちの方が近道なんだって。ちょっとだけ無理するぞ」

「そうじゃないの! あれは……」


 花音が見つめる先、舞はガイコツマイク――『死神の肋骨ブラック・ブラッディー・クロス』を愛おしそうに撫でていた。

 そしてマイクの裏側、釘の掻き傷のような、乱暴に掘り込まれた「人生の答えディスティネーション」、『ENDLESSエンドレス EXTACYエクスタシー(果てなき興奮)』の文字を指でなぞり上げると、マイクを手前に寄せながら唇を付け……、



 言霊スキルを、つむいだ。




死神の肋骨ブラック・ブラッディー・クロスに刻まれし人生の答えディスティネーションよ! 官能かんのうともないて、今こそ歌に宿れ!』



 舞が叫んだ瞬間、彼女の『共に歩むものトークン』であるガイコツマイクが効果を発現し、激しく青い、白い光を電撃のように放ちだした。


「ス、スキルか!」


 始めて見る言霊スキルの発現に、郁袮は肝を抜かれたかのように立ち尽くす。

 そんな郁袮に舞は怪しく微笑むと、両手をマイクに被せながら叫んだ。


「食らいな! これが、アタイの言霊スキルだ!」


 アンプを通した舞の叫びは圧力となって花音の髪をなびかせ、郁袮を一歩後ずさりさせた。

 そして『死神の肋骨ブラック・ブラッディー・クロス』からマイクスタンドを伝って激しく青く、白く輝く十本の光の筋が地面を這うと、瞬く間に陸上部員、十人の体を光で包み込む。


 郁袮が警戒して振り向くのと同時に、いままで息も絶え絶えに横たわっていた陸上部員が勢い良く立ち上がった。

 だがそこに生まれたのは若々しい軍勢ではなく、疲労のために俯いたまま口をだらしなく開いて喘ぎ、だらりと落とした腕と相まってさながら呼吸の荒いゾンビといった風情だ。


 そんな十人は、生気の無い瞳で一斉に花音を見上げた。


「ひい! あたし、お化け屋敷は二十歳からって決めてるのに!」

「バカな! なんて回復技だ!」

「回復ぅ? そんなご褒美くれてやるわけねえだろ。あたいのスキルは十人までのフリークスの脳から、アドレナリンをどばっと出すだけだ」

「ひでえ! それに後遺症がめっちゃ気になる!」

「さあ、てめえら! 最高のエクスタシーをアタイに捧げて悶えるがいい!」


『イェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイ!』


 脳内麻薬の恐ろしさ。体を破壊しないように脳から出る信号を強制的に興奮へと上書かれた陸上部の十人は、腹からの叫び声と共に一糸乱れず右手を上げた。

 そんな墨田兵を見て真っ青になった花音は、ぽかぽかと郁袮の頭を叩きつつ、


「どうすんのよこれ! 逃げ道が塞がれた! あと、あたしにお化け屋敷はまだちょっとだけ早いの!」


 大騒ぎで暴れているが、これに反して、事象をすべて理解した郁袮は落ち着きを取り戻していた。


「いてえよ、安心しろ。太原の言霊スキルはお前の特異体質と相性が悪い」

「……ほう。大したもんだな、江東の名馬」

「不本意な呼び方すんな!」


 花音の太ももに挟まれた首だけをステージに向けた郁袮だったが、その視線の先で、こちらも余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった風情の舞がマイクを指先でトンと叩きつつ、


くうじょうの計に引っ掛かるのは有能な戦術眼を持っている証拠だ。そこの姫様が相手ならこんな手は使わない。だがこうしてお前は罠にかかった。アタイの方が上手うわてだったってことだろ?」

「ああ。でもな、残念だけど電気機器関係の武器相手にゃ、こいつの能力は無敵だ」


 余裕を持った若造というものは精悍と可愛らしさを併せ持つ。

 郁袮を愛でつつ、こいつはなかなかの玩具おもちゃだなと笑いをこぼした舞は、


「アンタの方が残念だ! 発動まで時間がかかるその特異体質、食らう前に終わらせてやる! 最初のナンバーは……」

「いや、こっちが先だ! しかとその目に焼き付けろ! これがを可能にした紋章、百獣の王キング・オブ・キングスだ!」


 郁袮は叫ぶと、舞に背を向けたままで花音の中に封印されし紋章――白い世界の中で燦然さんぜんと輝きを放つ獣を解き放った。


 舞達に牙を向けたその野獣は爛々らんらんと光る黒い瞳を見開くと、大地の震撼しんかんを伴って見る者すべての心臓を穿うがつような咆哮ほうこうを上げた。


 にゃ~ん


「なにいっ! こ、高校生にもなってそれは……」


 事態を呑みこめずにキョトンとするばかりの花音は、郁袮の頭に手を置いて背中をそらしつつ振り返り、驚愕きょうがくのあまり凍りつくステージ上のバンドメンバーに目を向けた。


 そして彼らの視線の先をのんびりと確認すると、背中までめくられたスカートの下から、お気に入りが微笑んでいる姿を発見したのだ。


 花音は瞬時に息を吸い、大声で叫んだ。


 どざーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 まさに無詠唱。一瞬で豪雨を召喚した雨女は、涙を流しながら郁袮の首を絞める。


 郁袮は、言霊スキルの効果が切れてぐったりと倒れる墨田兵を踏みつけないようこそこそと逃げ出しつつ、こいつの罵声がやかましい時は泣かせてしまうのが便利だなと、雨音のためにまったく耳に入らない花音の叫び声を頭上に感じながら脱出した。


 対して、舞はバンドメンバーに肩を貸して貰いながらすぐそばのコンビニに転がり込むと、タイトミニの中に隠したガーターから抜き出した携帯に向けて叫ぶ。


「FXXK! なんて卑怯な手だ! 勇兵!」

『…………わかった。後は…………、まかせろ』


 勇兵の声を聞いて思わず口端を歪めた舞の手に、タオルが突きつけられた。


 地元では有名人、住民からも慕われている舞とバンドメンバーに惜しげもなく売り物を渡してくれる店長へ感謝の言葉をかけつつ、再び立ち上がった舞だった。



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 現在、どの区でも五割方を支配する一つの学校が生まれ始めている。

 そんな大勢力の一つ、墨田すみだ区の府中ふちゅう高校。

 一年生の秋で生徒会長になった今川勇兵は元々の勢力を一気に広げ、たった半年で墨田区の九割方を勢力下に収めた。


 その後、台東区と小競り合いを繰り返していたが、昨年の夏、花音の名が墨田にも広まり始めると台東区と不可侵条約を結び、夢見がちながら危険な影響力を持つ江東区へ矛を向けたのだ。


 だが、徐珠亜ジョシュアの計略により江北がこれを迎え撃つ図柄となり、思わぬその粘り腰によって戦果はまったく上がることはなかった。

 そして今年、ういが入学するとすぐに生徒会長の座を譲り、自らは軍務のみに専念することで江東攻略を果たそうと本腰を入れ始めたのだ。


 彼の望みはただ一つ。学校間抗争システムのルールの一つ、他校の支配権を獲得する考課測定こうかそくていを使って二十三区を支配し、とある夢を叶えようというものだった。


 そんな考課測定には、基本的に大人は介入できない。

 都の職員や、警察、自衛隊員が、一定以上の危険を感じた場合のみこれに影響を与えても良いことになっている。

 ただ、学校間抗争システムは地域意識の活性を促すものでもあるため、どうしても地元住民の介入が発生する。


 常識を疑うほど厳しい罰金や禁固が科せられる条例で抑制しているのだが、こっそりとばれない程度、敵兵を見たら生徒会へ通報したり、食料などを供与したりする者が後を絶たない。

 地元意識というよりは、ファン心理といった感じなのだろう。


「…………恨みは、ない。だがこれも戦。三十日ほど、大人しくしていてもらおう」


 太原たいげんからの通信を受け取った今川いまがわ勇兵ゆうへいは、身を隠していた喫茶店の席を立つとレジへ千円札を置いて出て行こうとした。

 だがレジに立っていたデザイン髭の若い店長は慌ててそのお金を突き返して、


「待てよ今川君! このあたりは君のファンが多くてね、俺もその一人だ。お代はいらないよ」


 そう言って、百九十五センチの大男を見上げた。

 しかし勇兵は上手い返事を見出せず、不器用に、思うままの返事をした。


「…………そうは、いかない。釣りも、いらん」

「いやいや、すぐそこにたむろしてる江北の連中を倒すんだろ? 君の刀さばきを生で見ることが出来るんだ。安いもんだよ」


 勇兵はこの言葉に、心底困ってしまった。


 まず、敵は江北兵ではない。

 それに、自分達の戦いを見世物のように言われることも心外なうえ、とにかくコーヒーを飲んで代金を払わないわけにはいかない。

 そして自分のファンだとも言っていたが、自分は矮小わいしょうの部類だ。

 他に傾倒すべき人物などごまんといるではないか。


 それらをすべて説明するには、拓朗のように頭の回転が早い者が傍にいない今、不可能に等しい。

 そこで勇兵は考えることを止め、少々暴君ぜんとした行動をとってみることにした。


「俺は…………、気に入らなかったら、金など、払わん。…………ここのコーヒーには、千円の価値が、ある。不味いコーヒーと、同じ扱いにするわけに、いかない」


 若い店長は、やれやれと軽いため息をつきながら、


「分かった、代金は受け取っておくよ。頑張ってくれ、府中の生徒会長さん!」

「…………おれはもう、会長じゃねえ」


 勇兵は手にした図面運搬用の筒の中から、竜が掘り込まれた木の棒を引き抜く。


「また…………、来る」


 そして飲食店に対して最高の褒め言葉を残し、その力強い一歩を踏み出した。


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 今川勇兵の両親は、何よりも体裁ていさいを気にする人物であった。


 そんな二人にとって、許容仕切れない存在があった。

 それが勇兵の妹、ういである。


 低出生ていしゅっせい体重児たいじゅうじとして生まれ、特に知能の発達に遅れが見られるこの娘に対して、両親はまるで愛情を注ぐことはなかった。


 屋敷の一室から出ることを許さず、周囲の憶測をも恐れずにその存在をまるで無い物と言わんばかりに扱った。


 そんなういを、一心に愛したのが勇兵である。


 だが、勇兵が中学に上がった年、学校間での抗争が絶えない東京の学校にこれ以上通わせるわけにいかないと、両親が彼を海外へ留学させる手続きをとってしまった。


 勇兵は最大の懸念、愛のことを両親に尋ねるが、その答えは曖昧なものだった。

 彼は必死にその目論見もくろみを探り、ついに愛を養子へ出す手はずをつけているということを知ると、愛と共に遠縁にあたる親戚の下へと家出してしまった。


 これに腹を立てた両親は愛ともども勇兵とも絶縁し、彼らは養子として貧乏暮らしをする老夫婦の下で暮らすことになったのだ。


 愛は知能の発達ばかりでなく、発育も周りより遅れている。

 だが手先は驚くほどに器用だ。


 彼女は写真などを見ながら精巧な木製レプリカを作る事が得意で、置物や実用品を三角刀ひとつで彫り、勇兵がこれを販売することで苦しい家計の足しにしていた。


 病弱ながら心から二人を愛してくれる養父と養母。

 四人の生活は幸せだった。


 勇兵は高校へ進学すると、学校間抗争にのめり込み、週に数日しか家へ帰ることができなくなった。

 しかし、帰宅の度に暖かく出迎えてくれる家族との心は一つ。

 勇兵は、その思いに応えるため、大きな野望を抱くようになっていった。


 そんなある時、勇兵が考課測定において大怪我をして帰ってきたことがあった。

 家族は揃って心配したが、その気持ちを形にしたのが、愛だった。


 彼女はそれから一ヶ月もかけて、一枚板から円月刀を掘りあげた。

 図鑑に書かれた強そうな武器を真似て掘ったというこの武器は、もともとは柄が一メートル、刃渡りも一メートルというなが得物えものだった。


 刃と背の部分に、都の規定通りのゴム加工を施してこれを振るい始めると、勇兵は一気にその名を墨田に轟かせるほどの戦果をあげた。


 だがこれを、当時他校の参謀として敵対していた太原たいげんまいの策略に落ちた大混乱の中で、真っ二つに折られてしまう。


 その失意を癒そうと、珍しく休暇を取って愛と遊びに来た花畑で妙な男に会った。

 その日、愛は勇兵のそばに座り、楽しそうに笑いながら花輪を作っていた。


 愛は小学校二年生程度の体の大きさにそぐわぬ産毛うぶげ頭に、隙間の空いた幼児のような歯。決して見目みめうるわしいとは言えぬ容姿だ。

 そんな愛に眼を奪われて呆然と立ち尽くしていたメガネの男は、真剣な面持おももちで愛に近付くと、なんといきなりプロポーズをしたのだ。


 からかわれているか、あるいは異常な感性の持ち主なのであろうと思った勇兵は、自分の身長の半分ばかりと表現できる小さな背丈の男を思い切り蹴り上げた。

 だがこの男は、非礼を詫びつつも真剣であると早口で説明して食い下がり、結果何度も勇兵の重たい蹴りに宙を舞うことになった。


 それが六度、七度と続き、とうとう立ち上がれなくなった時、勇兵の足に隠れて様子を窺っていた愛が急に飛び出して、仰向けに倒れる男に先ほどの花輪を被らせたのだ。


 勇兵は慌てたが、その男は愛に目を向けると、思った通りだと切れた口で呟いた。


 花を手折たおる度、その花へお辞儀をするような心の綺麗な方は、こんな自分にも優しくしてくれるのかと心からのお礼を愛に捧げたのだった。


 愛に叱られ、その男を自宅へ連れ帰って手厚く看病したのだが、そのせいで住まいが割れ、この男は毎日遊びに来るようになった。

 自分より一つ年下、愛の一つ年上に当たるこの男は誠実と見えなくも無いが、勇兵としては気が気でなく、丁度夏休みでもあったのでなるべく家を空けないようにしていた。


 だが考課測定ともなれば出陣しなければならない。

 一軍の指揮を任されている勇兵は、家から離れたその日、嫌な予感を抱えていた。


 そして、それは的中した。やはり太原のしわざで、乱闘にかこつけて自宅を破壊されたと部下から報告されたのだ。


 勇兵が現場の指揮を他の者に任せて家へ駆けつけると、そこには以前のようにぼろぼろのメガネ男を看病する愛の姿があり、怪我一つ負っていない養母が、その男が体を張って愛と自分とを守ってくれたのだと説明してくれた。


 勇兵はこの時、初めて男のことを拓朗と名前で呼び、仇をとるべく家を出ようとした。

 だが丸腰であることに気付くと、刃は失われたものの手に馴染んだ円月刀の柄を持ち、そこに愛する者の名と、自分など足元にも及ばぬ強さを持った男が守ってくれたもの、二つの字を彫刻刀で彫りつけて敵の中へと飛び出した。



 ……その日、青い雷撃が敵校を蹂躙した。

 そして生徒会長の捕縛により、府中高校が大逆転の勝利を収めたのだ。


 誰の目にも夏休み明けの生徒会長選挙で勝利する者が明らかになった瞬間だった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 錦糸きんし公園の北部から通りへ展開する解放同盟の兵士達は、敵地とはいえ近辺に墨田の兵が見えないことで弛緩しかんしていた。


 手にした長得物や木刀、弓矢などをぶらぶらさせつつ樹雄たてお霞蒲羅かふらが伏兵をしらみつぶしにしているであろう西の方角をぼーっと眺め、至近距離に敵の総司令官が近付いてもまったく気付いていなかった。


 三十人ほどの江東兵の背後に立った男は手にした竜の棒を両手で軽く握りしめると、そこに刻まれた人生の答えディスティネーション、『家族愛』という文字を見つめて、言霊スキルつむいだ。



『戦を止める者『左文字さもんじ』に刻まれし人生の答えディスティネーションよ。絶念ぜつねんやいばに乗せ、すべてを蹂躙じゅうりんせよ』



 勇兵の呟きに気付く者はいなかった。だが『共に歩むものトークン』である円月刀、『左文字』が激しく黄色い、白い光を放ち始めると、江東兵は振り向いて狼狽のあまり声も上げることができずに後ずさった。


「その身をもって知るがいい。我が言霊スキル…………、『砕我サイガ』」


 勇兵が言霊スキルを発動すると、彼の持つ柄の先端、竜の口から十メートルにも及ぶ真っ赤な火柱が噴き出した。


 そして黒い竜のシルエットが炎に巻き付くように伸びて先端へ達すると、竜と炎はゆらりと立ち消え、その中から赤い刀身に波打つ黒竜を封じ込めた巨大な円月刀の刃が姿を現した。


 激しく黄色い、白い電撃をまとった赤い刃は、五・二メートル。

 質量を持った金属にしか見えない刃だが、これは実体を持ってはいない。


 勇兵が『左文字』を腰だめに構えると、建物や塀に当たる時にその部分だけ炎に姿を変えて宙へ消える。

 だが刃はまるで物質を貫通しているかのようにその先で再び生まれ、今も電柱に半分食い込み、民家の壁を通り抜け家の中へと刃を横たえていた。


「い、今川勇兵だっ!」

「なんだってこんなとこにいるんだよ! 退却したんじゃなかったのか?」

「ちょっ! 丹羽さん! 丹羽さーーーーーーーーん!」


 慌てふためく敵兵を見やり、勇兵は、


「…………ふんっ!」


 三十人の敵兵に向けて巨大な刃を横薙ぎにした。


 だが、これに吹き飛ばされた兵はたったの四人だけ。

 七人は屈んだり、射程外であったためにその刃に触れていない。

 問題なのは、残る十九人。


 質量すら感じる巨大な刃に体を真っ二つにされたその全員は、傷どころか服も切れてはいなかった。

 だが彼らはその場にへたり込み、あるいはぐったりと横になり、戦意を喪失させつつ体の奥の方から何かが折れるパキンという音を発するのであった。


 今川勇兵の言霊スキル、『砕我サイガ』。

 この効果は、『共に歩むものトークン』である『左文字さもんじ』の刃で、「この敵には勝てない」と感じた者の戦意を根元から折る。


 そう感じていない者には木製の巨大な円月刀そのものの打撃が与えられるのだが、一合か二合切り結ぶことによって心に弱さが生まれると、自分の得物ごと左文字の刃が体をすり抜け、心を折られる。


 この効果はどんなに心が強い者でも回復までに数日を要し、もともと心が弱い者は一ヶ月近く戦えない体にされてしまうのだ。


 突き飛ばされた者も切られなかった者も、そして彼らを頼って今、合流した主とその馬も、一合たりとて戦うことは出来ないであろう。

 皆、崩れ落ちる味方を目の当たりにして心に隙が生まれ、『左文字』が放つ激しく黄色い、白い光に飲み込まれる時を待つばかりとなっていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 北西、すぐ近くに水属性のマップ兵器を確認した樹雄たてお霞蒲羅かふらは、徐珠亜ジョシュアに指示されたポイントに部隊を残して雨雲との途上に配置された伏兵を排除するために、走り回っていた。


「はっ!」


 そして花音達が通るであろう交差点に建つ六階建てのビルの上で、樹雄は使い込んだ竹刀を弓兵に叩きこんで沈黙させると、背後でくるくると日傘を回す霞蒲羅に質問した。


「私は、手分けして伏兵を潰すぞ、と言ったはずだが?」

「残念ですが此方こなたはこのように丸腰。ですので、彼方あなたが敵の男性を叩き伏せる姿を見て馳走ちそうといたしております」

「……まあ、こんなところにガルネリウスを持ちこまれても困るしな。あれを使われたら、隠れている伏兵の何十倍もの民間人に被害が出る」

「被害という単語は意にそぐわないのですが、まあ、こんな昼間から眠ってしまうでは社会活動に支障など出るやもしれません。良い配慮です。此方が褒めて差し上げましょう」

「いらん」


 樹雄は溜息と共に、遠くの部下たちに目をやった。

 ここからだと、東の路上に陣取る三十人ほどの部下達も良く見える。


「弟佐久間はこういう時便利だな。連絡せずとも気配だけでこちらの意図が伝わる」


 先ほどの豪雨は、すぐに大人しい霧雨に変わった。

 このパターンはいつものヒステリックな泣きべそではなく、笑い泣きか怒り泣きの類だろう。これならこちらの気配を探れるはずだ。


 樹雄は真後ろにいた霞蒲羅に向かって振り向いたが、彼女はそこにはおらず、代わりに頭上から声が返ってきた。


「此方も多少は気配を探ることができますが、あれは別格。いったいどのような訓練にてあれを体得したのか大変興味があります」


 樹雄の見上げた先から、清州高校の制服に、勝手にフリルをたっぷりとあしらった若草色のプリーツスカートの中、真っ白なニーソックスを止めるピンクのガーターベルトというショッキングな映像が飛び込んできた。

 そこから先は光が入り込まずに真っ暗だったことと、一瞬で目をそらしたことにより樹雄の目には入っていない。


「ば、ばかもの! いくらバランス感覚が良いからと言って雨に濡れたフェンスに上る奴があるか!」


 霞蒲羅は、滑りやすさではかなり定評がある清洲高校の指定ローファーで、二メートルはある屋上のフェンスの上に器用に傘を差したまま立ち、


「その慌てよう、下着が見えましたでしょうか。その姿はみやびに欠けると言うものです。此方といたしましては、彼方には女性の痴態やLSに対してまったく動じないのに、男子がTシャツを脱ぐときに真っ赤になりながら大慌てで注意する男性になっていただきとう存じます」

「また始まったか。LSとはなんだ? 分かる言葉で言え」

「ラッキースケベ」

「……あまりのショックで文脈を忘れた。結局貴様は何が言いたいのだ?」


 しかしこの質問に霞蒲羅が答えることは無かった。彼女は真下の交差点を見つつ、


「あらあら。確かにはだかうまへまたがる場合たてがみを掴むものとは承知あるのでしょう。ですが、あれは馬ではないでしょうに。禿げてしまいます」

「なんだ? やつらはもう来たのか? では、我々も降りよう」


 樹雄はそう言って階段のあるペントハウスへ向かったのだが、霞蒲羅が付いて来る気配がない。


 首を仲間の留まる辺りへ向けたまま微動だにしない後輩の下へ戻った樹雄は、霧雨の中に激しく輝く黄色い、白い光を目にして軽く舌打ちした。


「あれは……、無理だ」

「そうですわね。もはや対処できません」


 遠く、赤黒い刃が直線的な軌跡を引く中、花音達を含めた三十二人が叩き伏せられている様子が見て取れる。


「蜀軍発揮値補正付きのSSR装備品は惜しいがやむを得まい。奴等が花音たちを連れ去る方向を確認して脱出するぞ。……しかし、滝川が太原に戦略で負けるとは」


 その言葉を聞くと、霞蒲羅はフェンスの上で器用にしゃがみ、樹雄を見つめた。


「これは気付きませんでした。急ぎませんと! 此方が一肌脱ぎましょう!」

「なんだ、木下は滝川のファンだったのか。そんなにヤツが負けるのが嫌なのか?」

「いえ、負けるからこそです! 今、彼のはべりには佐久間姉氏がいるはずです。傷ついた彼を癒すのがあの方などでどうします! なんという不潔な! さあ、丹羽氏、急ぎ彼の元へ! 此方が時間を作ります。膝を突いた徐珠亜さんの肩を抱くのは彼方でなくては!」

「私はヤツと仲が良いわけではないぞ。姉佐久間に任せればよかろう」


 この返事に呆れを隠しもしない表情で人差し指を樹雄へ向けてフラグの重要さを言い聞かせようとした瞬間、霞蒲羅は何かを察知したようで、しゃがんだ姿勢のまま南の方を見つめた。


「……残念。これでは崩れ落ちる徐珠亜さんを見ることが出来ませんわね」

「む? 援軍でも来たのか? どれくらいの規模だ?」


 しかし、急ごしらえの寡兵かへいでは今川勇兵に返り討ちにされるのがオチだ。

 おとりになっている本陣の三百人から割ける人員は、無理をしても五十が限界だろう。

 他に、今日出陣していた兵力はどこにも無い。


此方こなた彼方あなたも、あのとぼけた雨女氏も、ゆるりと帰ることが出来ましょう」


 霞蒲羅はそう言いながら、まるで体重が無いのではと思うばかりの優雅さでフェンスから樹雄の横に着地した。


 そして樹雄がピンクのガーターベルトのさらに先、一着何千円するものなのか見当も付かない高級そうな下着が見えたことについてとがめたものか黙っているべきなのか悩んでいると、


「五百」

「五百円なのか? ……………………何っ? ばかな! 五百だと!」


 樹雄のリアクションをすべて把握できた霞蒲羅は口元を隠してころころと笑いながら階段へ向かい、樹雄は不信を抱きつつも素直にその後を追った。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 学校間抗争システムを円滑に運営するため、高校に通う者は、その支配地域内に住まねばならないという条例がある。

 つまり入学したい学校がある場合、まずそこの生徒会が準備した試験に合格せねばならず、さらにその支配地域に住まなければならないのだ。


 通っている学校の情勢により転入、転出を希望する高校生は年々増え続け、一人暮らしを良しとしない家庭は引越しを繰り返す遊牧民のようになることすらある。


 そんな中、江東区の人口は目に見えて膨れ上がっていた。


 花音の政策は、各地から転校してくる生徒が後を絶たないほど魅力的で、二十三区内の各校が絶対に真似をすることのできないものだった。

 周辺各校はその政策に恐怖し、転出希望者を引きとめるために多額の給金を与えるなどの対応を取らねばならず、江東区を敵視し始めるまでになったいた。



 ……霧雨の中、激しく黄色い、白い電撃をその刀身にまとう円月刀を構えた今川勇兵は、五度のぎにも心折られること無く、しかし体中を打ち据えられて満身まんしん創痍そういの二人を睥睨へいげいしていた。


 この刃の効果は味方にも及んでしまう。

 そのため花音達を背後から追って来た、舞を含めた三十人ほどの墨田兵は射程から遠く離れた位置で成り行きを見守っていた。


「いてて……。今川、勇兵さんですよね?」

「……………………そう、だ」

「なんにも言わずに殴りつけるなんて! 駄目です! 暴力反対!」


 地面にしゃがみ込んだままふらふらと上体を起こす赤い髪の少女を見る勇兵の口元に、少しだけ笑みが浮かんだ。

 そして、毎日のように同じ言葉で自分をいさめる者の顔を思い出し、『左文字』に彫られた、彼女を表す『愛』の文字に指を沿わせた。


「…………織田、花音。お前の主張が、俺と…………相容あいいれるとは思えん。お前の思想は、危険だ」

「なんで話してもいないのに決めつけるのよ!」


 花音はしゃがみ込んだままふくれっ面になって手をじたばたとさせていた。

 これだけ打撃を食らってもまだ元気な理由は、すぐ隣で息を荒げて大の字になっている郁袮あやねにある。

 彼が縦横無尽に襲い来る赤い刃を先に受け、花音が食らう衝撃を和らげたのだ。


「話し…………、か。考課測定をはじめ、近隣校と競い合わねばならないという都の条例に逆らう…………。そんな危険な政策をとるお前と、何を話せと言うのだ」

「あたし、逆らってないもん! ちゃんと他の学校と、勉強でも部活でも規定の競技会やってるもん。ただ考課測定の時、よそと違って『生徒』の皆さんに参加を強制してないだけだよ?」


 郁袮の髪を撫でて労をねぎらいながら、花音は続けた。


「ほとんどの皆がケンカには反対だからね。ケンカをしたくて入学してくる『兵士』の皆さんが一割もいないのがその証拠。あたしもホントは参加したくないんだけど、いっつも無理矢理連れてこられちゃうんだよね……」

へい分離ぶんり政策…………。それで戦争嫌いな役立たずを東京各地から集め何とする」


 戦争を嫌う人達を役立たずと呼ばれては黙っていられない。

 花音は立ち上がろうとしたが、足に力が入らなくて思うようにいかなかった。


 そこで、すぐ隣でようやく上体を起こし、逆の手でさすっては激痛のあまり顔を歪めていた郁袮の肩によっこいしょと両手をかけて思い切り力を込めながら立ち上がると、聞き慣れない周波数のうめき声をあげてまた倒れこんでしまった郁袮を捨て置いて勇兵の前に一歩進んだ。


 ……花音の政策の一つ、兵徒分離。

 これは考課測定に参加したくない者は参加しなくても良いとしたルールである。


 それに対して、兵や将として解放同盟軍に参加する者は、まったく授業を受けずとも良いとした。

 つまり、完全に兵と生徒とを分離させたのである。


 そして、各校が徴収する「学校運用費」――各学生から年間三十万円程度徴収される費用が『生徒』に対しては三割ほど高くなっており、『兵士』はこの費用を完全に免除される。

 生徒と兵士の比率が九対一程度なので、余った莫大な費用は軍備に充てることができるのだ。


 他校は考課測定のたび、食料や武装などを準備する都合で、兵士の一部しか実際には動かすことができないという不安を抱えるが、解放同盟は潤沢な運用費用によりそれがまったく無く、常に全兵力を活動させてもおつりが来るという健全な経営スタイルを確立させていた。


 例え費用は高くなろうとも考課測定に参加したくない、あるいは軍役のみを希望する、さらには学費の完全免除、それぞれを希望する生徒の転入は後を絶たず、解放同盟各校はそれまでの一・五倍もの生徒を抱えることになったのだ。


 だが花音は『学校間抗争システム』の意味をちゃんと理解してもいた。


 編入される学生のほとんどが『生徒』希望者だったのだが、花音は彼らがだらけた学生生活を送ることを良しとしたわけではなく、学業に、部活動に、趣味に、高い水準の結果を求めていた。

 だから「ケンカが嫌い」という理由で「役立たず」などと決め付けられて、甘受かんじゅできるはずはない。


「みんな、役立たずなんかじゃない! ちゃんと戦ってるよ? 勉強だって、運動部だって、文化部だって戦ってるよ? この間、八校対抗格闘ゲーム大会開いたけど優勝した学校のみんな、必死に練習したんだって泣いてたし。準優勝の人達は、悔しくてもっと泣いてたし!」

「…………知っている。それを貰い泣きして、表彰式を大無しにした女と、今話していることも知っている。…………織田。それが、社会に出て何の役に立つ。人類にとって、何の役に立つ」

「なにが役に立つかなんて分からないから高校生なんだよ? いろんなものを沢山体験して、自分の好きな物を見つけていくの。そしてそれをお仕事にするの」

「そして…………、十年前のように、社会を崩壊させるのか」


 この言葉に、花音は息を呑んだ。

 考課測定を用いた教育は、確かに大きな改革をもたらした。その話しを持ち出されると、花音はいつも首を捻り、堂々巡りの思考に陥ってしまうのだ。


「…………どうした、織田。過去の教育へ戻そうとするなら、その根拠を、教えろ」

「あたしね、昔の方が、みんな笑ってた気がするの」

「…………なんの、話しだ」

「価値観! 今川さんは、日本がしっかりしているのが望みなんでしょ? でもあたしは、みんなが好きな仕事をして笑ってる日本の方がいいの! たとえ貧乏でも!」


 花音の言葉に反応して、『左文字さもんじ』のやいばが揺らぎ、うっすらと炎へ戻る箇所が出来始めた。

 自分の過去と現在、どちらの家庭が良いかと問われたような気がした勇兵は、霧雨に冷えた空気を吸いながら少しだけ悩んだ後、素直に思ったことを口にした。


「それは…………、いいな。好きなもののために、戦う。そして、笑顔になるのか」

「そうそう! 今川さんの好きなもの、何?」

「…………家族。俺は皆が家族を想う、世を作りたい。そのために、戦っている」


 気付けば墨田の兵も、花音達の周りへ近寄ってきていた。

 その中で一人、太原舞はまずい流れに持っていかれたと感じて口を挟もうとしたのだが、花音の返事を聞いて愕然がくぜんとした。


「家族! 素敵! ねえねえ今川さん! 今川さんが解放同盟の代表になってよ!」


 舞だけではない。勇兵も周りを囲む墨田兵も、揃って開いた口が塞がらなかった。

 だが、この頓狂とんきょうに二週間で完全に順応できるようになった男だけが正しい対応をした。


「バカかお前! 肯定した上に降参すんな!」

「肯定するよ。あたしだって、家族のためなら何でもするよ? それに降参して無いじゃん。あたしと同じ考えで、あたしよりしっかりしてる人なんだから、代表が今川さんになるだけ。解放範囲も一気に広がるね! あ、やった! あたし高校生の間にスカイツリーに行ける!」

「スカイツリーのために身売りすんな! それに、さっき行ったじゃねえか!」

「あんな高速で通り過ぎたのを行った数に入れないでよ! バカ!」


 そんなやり取りの間、勇兵は考えていた。

 織田が、障害者を他区へ追いやる政策を行っているという話しがデマではないかと言っていた舞は正しかった。彼女の人となりは信頼できる。

 すると、この提案もあながち悪くはないなとまで考え始めた。


 しかし、肩の痛みに顔を歪めながら体を起こした郁袮が、この流れを否定した。


「わりいが、現実問題そうは甘くねえ。あんたら二人の考え方の方が特殊だ、押し付けられる身にもなれ。現に今川、あんたは家族の全員を漏れなく愛せるのか?」


 この言葉に、『左文字』の刀身から立ち昇っていた炎がさらに大きく揺らぎを見せた。

 勇兵にとって家族とは、ういと養父、養母。そして拓朗たくろうまい

 彼らのためなら、自分はどんなことでも出来る。どんな苦労も苦難も、いや、例え外から見たらそんな言葉で言い表すであろう事柄も、辛くなど感じることはない。


 ……だが、この男の言っていることは、恐らく五年前に自分達のことを捨てた二人も愛せるのかという意味だろう。


 あれは家族ではない。ただの血の繋がった他人だ。だが……。


 考え込んでしまった勇兵を、まったく逆の方向からさらに揺るがす声が響いた。


「だめよ郁袮! あんたはそんなだから年下なの!」

「ものの考え方で年齢が変わるわけあるか! それに、一般的には自分が一番大切。両親や兄弟は友達の下だ」

「駄目だって! 例えば友達との付き合いは大切よ? そのためにお母さんとの約束を反故ほごにすることもあるかもしんない。でもそれは切っても切れない関係に、今回は甘えるねって、ごめんねって思わなきゃ!」


 勇兵は唖然としていた。自分はさっき、説き伏せられる直前だったはずだ。

 それを阻止したのは、こともあろうに織田の配下。

 しかも、さらにそれを論破しようとする織田の意見は、自分の理想とまったく変わらない。


「む。まあ、確かにごめんって思うべきだろうけど……」

「だから、普段は感謝とか親愛とか沢山注がなきゃだよ! 当然でしょ?」

「いや、やっぱ待て。そんな気持ち悪い考え方するの、やっぱお前だけだって。一般的じゃねえよ、変な考え押し付けんな。じゃあ例えば家族の中に優劣は付けるのか? 妹とプールに行く約束して、母親からは昼飯作るように頼まれたらどうすんだよ」

「ウォータースライダーで流しそうめんすればいいじゃない」

「お前は天才的なバカだな! そうめんの中にお前の赤い髪が混ざってて、わーい、当たりだ~って、そういう話じゃなくてだな……って、何の話ししてたんだっけ?」


 目の前で展開される問答に、唖然あぜんと立ち尽くす墨田の面々。

 それもそのはず、片や理想を正義の名の下に叩きつけ、片や現実を理論武装して打ち返す。


 どちらも正しく、どちらも肯定したい。


 そんな決着の付かない攻撃の応酬につい聞き入ってしまった面々は、花音のテクニカルなボケでようやく我に帰った。


「おらテメエら! ちったぁ静かにしやがれ! あと勇兵はできるだけ離れとけ! 万が一があるといけねえ」


 舞が左文字の異常に目を向けつつ手をかざすと、墨田兵は手にしたザイルロープで花音と郁袮をぐるぐると縛り始めた。


 勇兵は舞の指示に素直に従い、指示通りに、しかしゆっくりと距離を取った。

 そして先ほどの花音の話しは、媚薬びやくのようなものではないかと考え始めた。


 自分の中の理想を肯定し、それを増幅してくれるもの。

 だが、もう一人の男の方が夢から覚ましてくれたようだ。


 そう、現実はそんなに甘いものではない。

 理想を叶えるためには、それを二十三区全体に強制させるだけの力が必要だ。


 そのための武力、資金。それを得るための、考課測定。

 例え織田のような変わり種が生まれてこようとも、結局はこうして力が思想を凌駕りょうがする。


 勇兵は考えながら歩き、舞達との距離が開いたその時、背後の異変に気付いた。


 花音や舞が入ってきた交差点、同じ方向から大軍が押し寄せ、怒号と共に墨田兵に襲い掛かったのだ。

 乱入勢力を『左文字』で薙ぎ払おうとした勇兵なのだが、その先頭を走る、良く見知った長髪の女が舞をダイビングアタックで押し倒す姿を見てその手を止めた。


 その女に引き続き、けたたましい叫び声をあげつつ墨田兵三十人へ次々とダイブしてくる敵兵は百五十人。そしてその周りを何百人もの兵が埋め尽くす。


 墨田側はまったくなす術もなく、一瞬で勝負をつけられてしまった。


 ……兵数が圧倒的優位な場合に被害を少なく、かつ敵を確実に鎮圧させる大技である『サーフダイブ』は先頭を走っていた女性のお家芸。

 しかし、味方被害の少なさも、敵を確実に鎮圧する効果も、実はただの副産物に過ぎない。


 この技の本当の目的は、別のところにあるのだ。


 何度か戦場で目にしたことがあり、自分も食らいそうになったことがあるこの山を見るたび、勇兵には魂をいくつも持った妖怪ようかい変化へんげたぐいに見えてしまう。

 今もこの生き物は、内側からくぐもった呪いの言葉を吐きながらもぞもぞと脈動して、体内から目を回した花音と郁袮をぺっと吐き出した。


 そして皮が剥けるかのように、兵達が山から一人ずつ離れていくと、最後にどたばたと暴れる二人が残る。


「てめえ! 酒井っ! や、やめろ! どこ触って……ひゃう! お、おっぱいなんか、さわっちゃだめ!」

「うふふ、役得~! たいげんちゃんの真っ白な肌、ずっと狙ってたのよね~。ぺろぺろ」

「ぎゃーっ! や、やめて! お願い、これ以上は駄目なの……、いやん!」

「見た目と違って、ほんと恥ずかしがり屋さんよね~。さあ、お姉さんに全部まかせちゃっていいのよ! はあ、はあ!」

「あんたは何をやっとるんだ!」


 雷鳴のような音を響かせて、江北連合作手つくで商業高校会計、二年生の石川いしかわかいは、酒井さかい麻紀那まきなの頭をハリセンでひっぱたいた。


 すると両手両足を絡めたいましめから脱出した舞が、切れ長の目に浮かんだ涙を手の甲でこすりつつ勇兵の元へ大慌てで逃げ出して、


「テメエら! こここ、こんなことしてただですむと思ってんじゃねえだろうな!」

「ええ、ただなんて言わないわ。舞ちゃん、柔らかかったわよ。御馳走様」


 長髪に片目を隠した麻紀那は満足そうに立ち上がると、からし色のブレザーから五百円玉を取り出し、それを指で弾いて舞の足元へ転がした。


「んなっ……、こっ、こっ、こんのセクハラ女!」


 舞は顔を真っ赤にして胸をかばいつつ握りこぶしで叫んだが、これだけの大軍に囲まれては分が悪い。

 あるいは勇兵ならこの尋常でない大軍を倒しきることができるかもしれないが、そもそも敵の思惑は自分達の捕縛では無いのだろう。


 そう考える舞の目に、この世で最も憎い恋敵が悠々とした足取りで現れた。


「今川さん。当方との考課測定中でしたので、不意打ちに詫びはいたしません」


 岡崎高校のスタンダードな紺のセーラー服にゆるふわなセミロングが映える江北三校主宰、松平まつだいら亜寿沙あずさ

 物腰は柔らかいが心根こころねの強いこのいくさ上手じょうずは、上品に手を組み、しかし堂々と胸を張って五百人の精兵を背にした。


 徐珠亜の策略で、江北と墨田とは今まで幾度もその刃を削り合ってきた。

 その中で勇兵は亜寿沙に感嘆し、信頼するようにまでなっていたのだ。


 勇兵は『左文字』を肩に担いだまま、亜寿沙へと向き合った。


「…………当然、だ。おおよそ卑怯ひきょうと対極にいる女丈夫じょじょうふよ。狙いは織田の救出、か」

「いいえ、それはただの条件に過ぎません。あたしも戦の中に身を置く者。実の無い事に動くなどありえません」

「解放同盟に…………、売りつけるのか」


 普通に考えればお宝の横取りである。だが勇兵には、仁のために動いた亜寿沙の心情がよく分かっていた。

 そして亜寿沙は友人を救い出すためとは言わず、江北を背負った者としての態度を最後まで貫いた。


「はい。売値も決まっています。それは、江北連合への一方向不可侵」


 この条件に、勇兵達はおろか、江北軍の兵たちも驚きの声を上げた。


 こんな大それた交渉をしたのは滝川だろう。それが本当なら江北が全軍を挙げてここへ来たのも頷ける。そう考えた勇兵だったが、しかし彼は、


「…………破格ゆえに、信用しがたい。口頭の契約だろう。いつか、破棄されるぞ」


 亜寿沙の素直さを利用した口車なのではないかと心配した。

 その言葉を聞いて、舞は悔しさに俯き、亜寿沙はにこやかな笑顔を返した。


「織田さんは、守ります」


 勇兵からのダメージに加え、もみくちゃにされた花音は、これだけの褒め言葉に対して返事すらしないで目を回したままだ。

 勇兵は、そんな花音に目をやりつつ鼻から嘆息すると、


「戦に、裏切りは付きものだ」

「彼女だけ、例外ですよ」

「だがこいつの部下達は、聞きはしないだろう。…………先日の江南完封戦は、部下が勝手に起こしたものだった」

「ふふっ。そうですね」


 心底楽しそうに笑う亜寿沙を見て口端をゆがめた勇兵は『左文字』の光を消した。

 敵対の意思を収めたのだ。


「よろしいのですか? あなたの力なら、いい勝負となりそうですが」

「…………お前が小者なら、力で叩き伏せ、指導する。それが上に立つ者の務めだ。だが、俺より大きいお前に…………、何を指導すれば良いのだ」

「それは嬉しい評価です」

「…………また、すぐ、試合しあおう」


 勇兵は道の脇へ避け、亜寿沙達が帰るべき東への道を空けた。

 だが、勇兵が予想していた表情とは異なるものを浮かべた亜寿沙は、


「叶うのならば」


 一言だけ呟くと、皆へふり向いて手をかざしただけで五百人もの大軍をまたたく間に整列させ、花音たちと勇兵に倒された江東兵を回収した。

 そして丁寧なお辞儀と墨田の兵を残して、堂々とその場を後にした。


 残された墨田兵にも無用な攻撃をされた跡は無く、皆、悔しそうに制服の埃を叩きながらも江北勢力に恨みを抱いてはいない。

 むしろ清々しい気持ちで東方を見やっていた。


 …………ただ、一人を除いて。


 片手で胸を、もう片方の手でタイトスカートの裾を押さえたまましゃがみ込む舞の横に片膝を付いた勇兵は、下唇を噛みしめて俯き、震えるほど悔しがる彼女の気持ちを和らげるため、その肩に手を置いた。

 すると舞は、まるで怖がるように身を引くと、普段からは考えられないほど弱々しく震える声を発した。


「もう、負けないから……。お願いだから、捨てないでください……」


 勇兵は舞の前に屈み、肩に置く手に力を込めて、逆境に弱い少女を見つめた。



 ……太原舞は、孤児だった。


 高校生になって施設を出ると、学費や生活費を稼ぐためにアマチュア歌手として働き、傭兵軍師としても体を張って戦った。


 中学生の頃から発動のきざしがあった言霊スキルは、ひがしあずま駅の北東に建つ花沢はなざわ高校に入学するとすぐに使えるようになり、各校から契約料をちらつかせた引抜きの声が絶えないほどだった。


 彼女が戦場に出れば連戦連勝。六月までの三ヶ月で、京成けいせい曳舟ひきふね駅の東にある葛山かつらやま高校を勢力下に収め、東向島ひがしむこうじま大宮おおみや高校を従属させるまでになった。

 舞の名は墨田区内外へとどろくばかりとなり、そして歌手としての人気もうなぎ上りとなった。


 だが、破竹の快進撃はそこで止まることになる。


 東京スカイツリーの北に建つ府中高校との考課測定で、同じ一年生の、やたらと体の大きな男に策を見破られて大敗を喫したのだ。


 その戦で本拠地の花沢高校を占領された舞は葛山高校へ転校し、勇兵のいる府中高校と再三にわたり考課測定を行った。

 しかし、どうあっても一進一退で決定打が取れない舞に不信感を抱いた葛山高校生徒会は、舞の地位を剥奪し、追放してしまう。


 身寄りの無い舞にとって、いままで築き上げてきたものだけが自分のすべて。

 それを一人の男に奪われて復讐の鬼と化した彼女は、台東区で勢力を広げていた北条を頼り、西方から再三にわたる侵攻を繰り返した。


 そしてついに勇兵の部隊を罠にはめることに成功したものの、得物である円月刀を真っ二つにすることしかできずに彼の身柄は取り逃がすという結果となる。


 すると今度は北条にも暇を出されてしまい、さらに西に位置する文京区の武田に兵を借りてまで府中高校へ乗り込むと、勇兵の家族を人質に取って失地を回復しようとした。


 だが金剛こんごう不壊ふえの心を持つ男に家族を守られた挙句、府中高校の軍勢を壊滅させるまであと一歩というところで、武田旗下であり、今回の大遠征を指揮した高校の生徒会長が敗北を宣言してしまうのだった。


 府中高校は今回の勲功一位、比類無い活躍をした勇兵に敵校へ何を要求するか決めさせた。

 すると驚くことに勇兵が要求したものは、府中高校では黒衣こくいの悪魔と忌避きひされていた舞の身柄のみであった。

 武田はこれに快諾した上、遠交えんこうを結ぶべしと同盟協定をおまけに付けて来た。


 そして講和条件にされた舞は、府中高校へ引き立てられる。


 その身柄をどうするものかと皆が見守る中、勇兵は家族を襲われた怒りを込めて彼女を殴りつけようとしたのだが、強引に縄抜けをした舞はタイトスカートの中のガーターに隠したナイフを取り出して逆に勇兵へと襲い掛かった。


 その刃は彼の左胸に刺さり、騒然とする中で舞は組み伏せられ、勇兵は病院へと運ばれた。


 ……幸い凶刃は致命傷とはならず、勇兵は一命を取りとめる。

 その勇兵に、最初に面会したのは朝比奈拓朗だった。

 彼は大怪我をおして舞のことを調べていたのだ。


 そして彼女に身寄りが無いということを知った勇兵は、彼女の行動のすべてをやっと理解することが出来、舞を救いたいと考えた。


 そのため、殺人未遂の罪で書類送検される寸前だった舞の犯行について事情聴取に来た警察官へ、彼女の行動は自分と話し合った上での芝居であると証言し、関係者全員を驚かせたのだ。


 舞が一切の自供をしていなかったためこの話しが信憑性を持ってしまい、監視対象とされながらも留置所を出された舞の身柄を引き取りに来たのは、その勇兵だった。


 そして彼は舞を養父母の元へ連れて行き、人が正しく生きるために必要な、大切なものを与えたのだ。


 ……それは、一つの文字。決して切れぬ絆で結ばれた、人の集まりを表す言葉。


 『族』。



「…………あの時言った、はずだ。お前は、あの日から、俺達の家族だ。捨てようにも、その繋がりは消しようが、無い」


 勇兵は舞がしっかりと確認できるよう、『文字もんじ』の柄に彫られた三文字を突き出した。


 そこに彫られた文字は、『家族愛』。


「…………お前が抜けたら、愛と拓朗だけでは、この言葉にならぬだろう」


 その言葉と共に、しっかりと舞の肩を掴んだ時、勇兵の左胸のブレストプレートが軽い金属の音を奏でた。


 舞は自分がプレゼントした鎧の音を耳にしながら、肩に添えられた勇兵の手を赤いジェルネイルがめり込むほどに強く握りしめた。そして、


「もう、絶対に負けないから……」


 戦術で凌駕りょうがしておきながら戦略で負けた悔しさを、恨みを、江東の軍司令へ向けていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 江北こうほく勢は、一駅離れた江東区内の亀戸かめいど駅まで移動するとそこから南下。首都高速道路のほぼ真下という立地の岡崎高校まで軍を退いた。


 校庭に規則正しく整列した江北の兵は、墨田の兵や解放同盟の兵と比べ物にならないほど屈強で、そのほとんどが格闘系の部活に所属している。


 今は考課測定の終了を告げる会が執り行われているのだが、規律正しく滞りなく、流れるように連絡事項が言い渡されていき、最後に松平亜寿沙が締めの演説を行い始めたところだ。


 花音かのん郁袮あやね、そしてどこから現れたのか樹雄たてお霞蒲羅かふらも合流した江東区解放同盟の重鎮じゅうちんは司会側、つまり前に並び、五百人もの江北兵に対面して立っている。


 居並ぶ江北諸将と異なり、締まりの無い顔をした四人。

 彼らは居住まいの悪さから、どこかもじもじとしていた。


「……ということで、数校を束ねる主宰は明確な指針を出すことが肝心と言えます。その中でも特に異彩を放つ提案で八校もの同志をまとめ上げる織田花音さんは……」

「あ、ハイっ!」

「返事すんなバカ!」


 解放同盟だったならば、今のは笑うタイミングだ。

 だが、江北の鍛え上げられた戦士達は頬をぴくりとも動かさない。


 松平亜寿沙は花音に優しく微笑むと、壇上へと促した。


「あのバカ、平気で上がって行きやがった! 大丈夫かな?」

「心配なく、佐久間弟氏。織田氏の社交スキルは神懸かみがかり。前後同時にご挨拶もこなすほど」

「……なんだそりゃ?」

「織田氏が正面の方にご挨拶すると、後ろの方には熊さんがこんにちはするのです」


 同盟勢力とは言え、別勢力の大将が自分達の主宰のすぐ横に迎えられたのである。

 最大限に緊張して固唾かたずを飲む江北勢の中で、こらえきれない笑いを漏らす二人の男子は全員からにらみつけられた。


 そんな二人に振り向いて、なにか自分がおかしなことをしたのかと不安に駆られた花音は、泣きそうな顔になってスカートの裾をぎゅっと両手で握りしめる。

 すると、鮮やかな夕日から群青ぐんじょうへのグラデーションが見渡せるほど晴れ渡っていた空に明らかな陰りが見え始めた。


「お、織田さん。どうか緊張なさらないで下さい。あなたが泣くと、その、アレですので。ええと、そうですね。織田さんの掲げる方針についてでも話していただけないでしょうか」


 なんとか落ち着いて話せる内容を提案した亜寿沙だったが、これは異常とも言える譲歩だろう。

 なにせ、敵勢力の方針を配下に聞かせるわけだ。

 悪くすると、忠誠心に揺らぎがでる可能性すらある。


 花音は亜寿沙の顔を上目遣いに見ながら、自分の方針について語り始めた。



 信念である、「戦争反対!」は、ただの個人のスローガン。

 そして「兵徒分離」は政策の一つ。


 花音が近隣校の生徒会長に罵られつつも、根気よく説得を続けて、ついに八校まで勢力を伸ばすに至った根本の「方針」は、他にある。


 他校では絶対に真似をしたいと思わない方針。

 それは、先ほど花音自身が言っていた通り。

 高校生のうちにスカイツリーに行きたい。一言でまとめるとそれだけのこと。


 幼いころの母との約束から始まった、同盟全体の方針。……それは、「解放」だ。



 花音は母親から託された夢を実現するため、高校進学と共に誰も思いも付かなかった活動を始めた。

 それは清洲高校の支配地域を、他校生徒が自由に行き来して良いというルール作りだった。


 彼女がこの活動のために選んだのは都立夢の島公園。

 東陽町とうようちょう駅の傍にある清洲高校の支配地域は潮見しおみ駅を経由し、新木場しんきば駅にかけてと縦長で、この公園はかなり南方に位置する。


 新木場駅周辺と公園には、どの区の高校生も自由に出入りしてよいという取り決めを、愛団ちかまるを含めた当時の清洲生徒会、町会、そして公園に認めてもらい、都内すべての高校へ通達した。


 最初は半信半疑だった他区の高校生も度胸試しや興味本位でこの公園を訪れ、そして本当に危害を加える様子も無いという噂が瞬く間に広がると、公園は連日多くの高校生で賑わうようになったのだ。


 とは言え当然そんなカオスな空間が平穏無事なわけは無い。すぐにいざこざや戦闘行為が頻発するようになり、都は仕方なしに警察官や都の職員を夢の島公園に常駐させ、清洲高校へは活動の中止を求めた。


 しかし、新木場駅周辺の商店や公園自体が獲得する莫大な外貨の旨味に当てられた清洲高校は、この指示を聞かずに解放区を広げ、ついには支配地域のすべてを解放区としてしまった。


 いつ奇襲があってもおかしくないようなこの無法も、他校を侵略するためには前日までに考課測定を行う申請を都に提出しなければいけないというルールのお陰で守られ、スパイ行為以上の被害は特に発生しなかった。


 花音らしい発想なのだが、「自分がここに行きたい!」を叶えるために、まずみんなの「お前のとこに行きたい!」を満たしてあげようとして、見事にそれを叶えてしまったのだ。


 花音はここから、次のステップへ乗り出した。


 近隣校へ直接乗り込み、解放運動への参加を呼びかけ始めたのである。

 この制度が清洲を利するものでは無いことが伝わると、千石せんごくにある鳴海なるみ高校が追従した。


 そんな流れから、秋の生徒会長選挙で圧倒的な支持を得て一年生ながら清洲高校の生徒会長になるころには大島おおじま沓掛くつかけ技術高校、菊川きくかわ駅南の小牧こまき岩倉いわくら工業高校とも同盟を結びつつ、そのすべてを解放区としたのである。


 こうして江東区解放同盟ができあがり、その勢力は現在八校に及ぶまでとなった。


 しかし、花音の望みは単純なのだが、その性格のせいで政治は複雑を極めた。

 彼女は支配地域に住むすべての住人の願いを聞き入れようとし始めたのだ。

 その中でも声高だったのが考課測定による被害についてである。


 この問題に取り組むうち、花音はほとんどの生徒が考課測定に対して否定的な意識を持っていることを知ると、兵徒分離政策を打ち出した。

 解放区宣言の時点でかなり危機感を感じていた東京都議会だったが、さすがに兵徒分離には厳しい意見を示した。


 だが支配地域住民の九割を超える賛同者の嘆願と、近隣から続々と江東区へ移住する家庭がこれに反論し、都はこの問題を棚上げにせざるを得なくなってしまった。


 しかし、東京都は花音の暴挙を黙って見過ごしていたわけでは無かった……。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 花音の話しは、最初はまるで亜寿沙へ語り聞かせるように始まったのだが、調子に乗ってくるとマイクに向かって喋り出し、そしてとうとう脈略不在の意味の分からないたとえ話しになってしまっていた。


 もう止まれと身振りでサインを出し続ける男子二人の気持ちはまったく届かない。

 そのうち、苦笑いを後ろに向けてくれた亜寿沙には意図が伝わったようで、やんわりと話しを終わらせて、代わりに自分がマイクの前に立った。


 だが彼女はそのまましばらく花音の顔を寂しそうに見つめたまま、いつまでも話し出そうとしなかった。

 沢山話せて満足の笑顔を向ける花音も、その様子に少し首を捻る。


 ……いつもの、はちきれそうな笑顔で小首を傾げる花音を見ているうちにとうとう涙ぐんでしまった亜寿沙は、しかし意を決してマイクに向かうと、江北連合三千人の命運を背負う主宰の仮面を強引に顔へ張りつけて、語り始めた。


「皆さんの中には、自分のどころを主義や思想に求める方も多いことでしょう。私の理想は、暴力無き世。そのため、今まで武力による他校の制圧を行わないで来ました」

「うん! 暴力反対!」


 亜寿沙は花音に笑顔を向け、ふふっと笑いをこぼした。

 そして、


「あたしはこんな織田代表だからこそ、盟友と感じています。あたしと織田代表の理想はさして変わりません。ですから、いつか二つの勢力が手を取り合う日が来るのではないかと信じていました」

「え? それって……! もしかして松平さん!」 


 花音は満面で微笑みながら慌てて両手を出し、その手が汚れていることに気付いてスカートでごしごし擦ってから再び差し出した。


 だが、亜寿沙は遠くを見つめたまま、言葉を続けた。


「ですが、それも叶わぬ夢となりました。本日この時をもって、江北連合は墨田区、今川愛に従属します!」


 さすがの江北兵達も、この宣言には一瞬騒然とした。

 だが郁袮の隣に立っていた酒井が一歩前に出て右手を挙げただけですぐに静まる。


 郁袮達はにわかに厳しい表情を浮かべて徒手ながら身構えたが、江北の役員達は腕を組んだり腰に手を当てたりしつつ、彼らを見て寂しそうな笑顔を浮かべて嘆息するばかりだった。


 解放同盟の者に、ここで危害を加える意図は無いのだろう。

 そして、残念そうな表情が語るように、これは江北にとって嬉しい方針では無いのだろう。


 そう感じてひとまず安堵した三人だったのだが、花音だけは受けたショックに未だ胸を貫かれたたまま凍り付いていた。

 そして心に痛みを運ぶ薄墨うすずみ色のもやは、目に見える形で空に映し出された。


「従属の証として、私は江北連合主宰という地位のまま府中高校へ転校することになります。そして近日、墨田の挙兵に乗って我ら江北は解放同盟の領土を蹂躙します! 皆はそれまで鋭気を養っておくように!」


 五百もの江北兵から勇ましくおおと声が挙がり、それを受け止めて大きく息をついた亜寿沙は花音を見ることもなく壇上を後にした。


 進行を務めていた石川いしかわかいの散会宣言と共に、江北兵は整然と岡崎高校を後にしたのだが、そのしんがりを歩く役員一同が最後に花音へ振り返る。


 たった一人、真っ直ぐ前を見つめたままの亜寿沙を除いて。



 取り残された解放同盟の面々は、言葉を発することもできず立ち尽くしていた。


 これで、戦力バランスは大きく変わってしまう。

 その危機感に襲われて無言になる樹雄と霞蒲羅だったが、花音と郁袮は違うことを考えていた。


 郁袮は、壇上で膝を突き、友に裏切られた絶望感をうまく心が理解できずに泣くことすらできないでいる不器用な花音のことを想うと、その心の色へ目を向けた。

 そこには薄墨のような雲が広く浮かび、まるで空に沈殿するかのように張り付いていた。


「……そうか。つらいんだな」


 郁袮が花音の心に向かって小さく呟くと、彼の鼻のてっぺんに、小さな雫で一粒だけ、彼女は返事をした。

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