第二陣 一番槍の誉、初陣の涙に思いを馳せて

 東京スカイツリーとソラマチは、府中高校から三百メートル程しか離れていない。

 そんな場所に、開放同盟が放った爆弾が発見された。


 この爆弾は気まぐれで、ふらっと他区へ遊びに行っては飄々ひょうひょうと帰ってくるようなやからだ。


 普段なら付かず離れず、構わず無視せずの監視さえしておけば問題無いのだが、今は話しが違う。

 考課測定の宣言を出している今ならば、府中高校へ乗り込んで今川愛いまがわういを捕らえることすら出来るのだ。


 その結果、墨田区が解放同盟に飲み込まれることになるかもしれないし、領土を侵されないにしても相当の代償を払わねばならない。

 だから、この爆弾は確実に排除しなければならない。


 朝比奈あさひな拓朗たくろうから柴田しばた佐々さっさの二名を排除するよう言い渡された花沢はなざわ高校生徒会長、三年生の小原おはら桐杜きりとは、手勢の百人を連れて南からの進路をすべて固めた。

 そして地下鉄の入り口から悠々と出現した二人を発見すると、様子見など入れずに全軍で近接戦闘を挑んだ。


 だが、五分。

 たったの五分で三十もの部下を削られた小原は、残った兵を一旦退かせ、距離を取るよう指示を出す。


 激戦地となった線路脇の見晴らしの良い路地には、二人に倒された花沢高校生徒が呻きをあげて地を這っていた。


 そしてその中心に、強く肩で息をする悪魔のような瞳の色を持つ長髪の女と、白に近い金髪をソフトモヒカンにした男が拳を握りしめ、ボロボロになりながらも背中を合わせて立っていた。


「おお……。あのまま押し切られたらヤバかった。将軍さんが臆病で助かったぜ」

「ちげぇって。兵隊はビビリばっかだけどそいつ自身は勇敢だぜぇ? 随分前の話しだが、ヤバそうな倒れ方した仲間ぁ助けるためだけに一人で突っ込んできて、うちに一撃入れたこともあるくれぇだぁ」

「ああ? まじか。すげえな」


 これはもちろん流胡るうが、受け身も取らずに倒れて頭を打った敵と、小原がそれを助けに来たことの両方に気付いたため起きた事だ。普段の流胡なら、そんな遅れを取ることはない。


「だぁが、相手がてめぇで助かったぜぇ! これだけ仲間がやられりゃぁ、優男やさおとこのてめぇは退くよなぁ! 小原ぁ!」

「くっ……、この……。あなたがたは、化け物ですか……っ!」


 小原桐杜は、墨田では屈指の良将だ。強者とは言えたったの二人に、全火力を惜しまずぶつけるという選択など凡庸ぼんような将ではなかなか出来ない。

 だが、一年生が大半を占める編成したての部隊はその采配に応えてくれなかった。


 流胡と悠斗ゆうとを挟んで路地の両端に立つ小原軍の残兵は、明らかに怯えている。

 だがそれも、折り重なるように倒れて、這ったまま逃げようとする仲間の姿を目にしては当然の反応だ。


 戦意が明らかに折れたところで全軍を退かせた小原だったが、心を鬼にして押し切れば、この二人を倒せたかもしれない。

 あるいは、最初から得物えものでの打撃を捨て、押しつぶすように指示を出しておくべきだった。

 小原は路地へ無数に転がった、刃と背の部分がゴムでコーティングされている東京都指定の木刀を見ながら反省しつつ、起死回生の手を探っていた。


「おお。百を攻めに回してるって事は、守りは薄いだろうけどよ。どうする」


 避けることは苦手ながら重い拳と頑丈な肉体を持つ悠斗は、一対多に大変強い。

 しかしそれにも限度というものがある。


 敵を一人殴る間に、十もの突きが体中に入るのだ。

 しかも足に決死の生徒が絡みつき、それを流胡が蹴り付けて抜け出すまでタコ殴りにされた。


 左肩に入った突きのせいで腕を上げるのもままならず、横面よこつらを木刀で叩かれた時に切った口の中から流れる血はまるで止まる気配が無い。

 そして腹のダメージは後々足に来る事だろう。


 対して、敵の攻撃を薙ぐ、払う、避けることに異常なまでに特化した流胡は、一撃のパワーは悠斗に劣るものの、この五分で二十五人を倒していながら有効打をひとつも浴びていない。

 これだけの敵にもみくちゃにされて、自由に走り回ることができるほどの体術を持っているのだ。


 とは言え五、六度ほど防ぎ切れない攻撃や逃げ切れない敵の布陣に出くわしたのだが、そんな時は必ず悠斗が道を切り開く。

 この二人の性格が自然に決めたコンビネーションは、百人の兵を退かせるという常識外れを生み出した。


 ……だが、ここまでだ。

 小原には強気な発言をしたものの、悠斗が限界だ。つまり流胡も先ほどのような無双はもうできない。


 それでも流胡は、悠斗を捨て置いてでも府中高校を目指したかった。

 なにせ、今回の獲物はでかい。


 徐珠亜が描く戦略の中では、これがただの牽制攻撃だと分かっていても、上手くすれば自分の仕事一つで主君の覇道が確固たるものになる。


「……まぁ、当のメガネはぁ、うちが暴れたこと知って泣き出すだろぅけどなぁ」

「ああ? 何か、言ったか?」


 たったこれだけのことをしゃべるのに、三回も息を突いた悠斗が回復するまでには時間が必要そうだ。


 撤退を決めた流胡が、退路を探るために小原のいない側へ目を向ける。

 ……するとその時、驚く光景が目に入った。


 悲鳴を上げて左右に割れる花沢兵が、まるで舞台の幕を開いたようだった。


 その舞台の中央には、ゴム加工された槍を回し、美しい演武を披露する女がいた。


 赤い癖っ毛をオールバックにセットした日焼け肌。

 江北三校主宰と同じ、岡崎高校のスタンダードなセーラー服から覗く四肢は、女性らしさはどこへやら、しっかりと筋肉が浮いている。


 そんな彼女の動きは、まるで大気中の水分子を切り裂くような印象があった。


 早く正確な突き、静から動への切り替えが美しい薙ぎ。

 実戦でも相当の腕前であることは、常に戦いの中に身を置く二人に容易に理解できた。


 型を一つ舞うたび、道の両端にへばりつく花沢兵からは悲鳴があがり、それが絶妙な合いの手にすら聞こえてくる。


「…………えっとぉ、てめぇ何者だぁ? 見たことねえけどよぅ」


 これだけの腕を持つ者が岡崎高校にいるなど、聞いたことが無い。

 流胡の質問に、演武を終えてなお水平に構えた槍で敵を威嚇する槍使いが答える。


「岡崎高校生徒会、本多ほんだ朱埜あけのだ。役職は、まだ無い。はるばる偵察に来てみたら何の騒ぎだ。敵はまだまだいる。ここは退くぞ」


 この言葉に、流胡と悠斗は違和感を覚えた。

 もし逆の立場だったなら、恐らく残り少ない守備兵を想像して、満身創痍の俺達を踏み台にしてでも大将首を狙う。


「ふぅん。あのぺったんこちゃんの部下かぁ。じゃぁ、寝ぼけたこと言ってねぇで覚悟ぉ決めなぁ! うちらが露払ってやるから、付いてこい!」

「ま、待て!」

「小学校ぉ、てめぇも根性見せろぉ!」

「……じゃあ、しょうがねえ」


 悠斗の言葉が終わる前に、流胡は走り出した。

 口は楽しそうに、しかし歪に笑い、鬼の目は赤と黒の尾を曳いて流れる。


 この突撃を見て花沢兵は叫び声を上げながらその進路を空けたのだが、ただ一人、腰だめに槍を構えた小原が立ちふさがった。


「仲間の仇です! くらいなさい! 柴田っ!」

「やぁだよぅ!」


 全速力で走る者は、ちょっとした攻撃にも対処できない。

 木製の長物ながものを流胡へ突き出した小原の攻撃は正確で、その腹部を穿つほどの勢いで放たれた。


 だが流胡は、槍が当たる直前の一歩を横に蹴り、横腹を突いた槍がまるで自分の体を回転させたかのようにくるりと一回転して受け流すと、次の二歩で小原の脇を掠めて抜けた。


「はっはぁ! てめぇの肉より、大将の肉の方がうまそぅだからなぁ!」


 後ろ手をひらひらと振って逃げる流胡の後ろを、悠斗も追う。

 さすがに満身創痍だが、残る敵は五十といないはずだ。

 そう考えながら、二人は府中高校までの百五十メートルを駆け抜ける。


 流胡は悠斗を見る間に引き離して赤信号を二つ無理やり突破し、府中高校のフェンスらしき物をついに視界に入れたとき、狭い道を塞ぐ十人――水色のワイシャツに身を包んだ二俣ふたまた大学第一高校の生徒を見つけた。


 正面へ抜けるにはこの十人が繰り出す槍をかい潜らねばならない。

 後ろを走る悠斗も心配だが、流胡はこれを真っ直ぐ抜けることを選択した。


「止ぉめられるもんならぁ! 止めてみろぉ!」


 気で威圧しながら敵へ突っ込むと、驚くほど緩慢な槍が突き出されてきた。

 だが、それが怪しいと感じた時には既に彼らを抜き去ってしまっている。


 流胡は思わず減速したが、その時、足下に違和感を感じた。


「……やべぇ」


 彼女が足下に感知したもの、それは半透明の強靭な糸――釣り糸だった。


 格子状に地面へ敷かれた釣り糸の網が、空気を切り裂く音を鳴らしながら一瞬で持ち上がると、さすがの流胡も逃げることなどできずに上空へ持ち上げられ、袋状に包まれた網の中でもがくことしか出来なかった。


 その時、


「撃て!」


 どこからか聞こえてきた号令と同時に、無数の矢が放たれた。

 地上から二メートルほど浮いているので威力は落ちるものの、避けることのできない打撃が流胡を襲う。


 そんな中でも冷静に周囲を確認した流胡は、


「いてっ! ……あっはははぁ! ばかじゃねぇの? てめえら過保護だなぁ!」


 府中高校の校庭の中央に今川愛いまがわういの姿と朝比奈あさひな拓朗たくろうの姿を見つけ、その周りを囲む三百人程の兵を見て呆れながら笑った。


 墨田区が花音を捕まえるために全軍挙げていると思いきや、花沢の百人、二俣の五十人を加えると総勢四百五十人もの兵が見て取れる。恐らくもう百や二百が、たった一人を守っているのだろう。


「こりゃあむりだぁ。おい小学校! 帰ぇるぞ! これなんとかしろぉ!」


 流胡の叫び声は矢の音に紛れてまるで聞こえなかったのだが、言われなくとも、悠斗は必死に戦っていた。


 全力で足止めしてきた十人の槍兵にもみくちゃにされながらも、罠に使われた支柱の一本、福祉保健センターの掲揚ポールになんとか辿り着くと、釣り糸を歯で噛み切った。

 すると袋の一方が勢い良く開き、かなり高い位置からなすすべなく地面へ落とされた流胡は矢のダメージに加えて落下の衝撃で立ち上がることすらままならないように見えた。


「さすがの鬼も、立ち上がれないようね」


「ちげぇよ。もぅ一人ぃ、連れがいるんでね。ヤツが連れてこられたとこでぇ、元司令官のてめぇを人質にとって逃げるってぇ手はずだぁ」


 流胡は痛みに顔を歪め、震える四肢ししに力を込めて立とうとしたが、失敗して尻から地面に落ちた。

 そうするうちに各所から兵隊が近寄り、流胡に武器を突きつけてその周りをぎっしりと囲んだのだった。


 ひっつめにした栗色の長髪をなびかせながら流胡を睥睨へいげいするのは松井まついしずかだ。

 彼女は猛獣討伐に罠を選択し、それが見事に当たった事に高揚していた。


「鬼と直接戦えるからって期待してたのにね、期待はずれだよ。今までお前にめちゃくちゃにされた連中はごまんといるようだが、全員、鍛え直さないとね」

「こいつらが弱ぇえわけじゃねぇだろ。てめぇ、嫌われっぞぅ? やめとけばぁ?」

「はっ! 笑わせる! せめてまともに使えるまでしごいてやるさ。元々、こいつらにゃ嫌われてるしね。散々死んで来いって指示出してきたからねえ」

「金髪のデカい男が司令官になったからぁ、左遷されちまったてめぇに言われたかぁねぇだろぉ?」


 静は安定した手堅い手を打つ良い司令官だったのだが、勇兵が司令官に就いたために前線将軍へ戻ったのだ。

 それを左遷と呼ばれ、プライドを傷つけられた静は言葉を選ばずに言い返した。


「お前が捕まったと聞けば、織田も投降するだろうさ! そしたら、飢えた男共の中に仲良く放り込んでやるよ! 今までの借りを体で返すんだな!」


 俯いたまま抵抗もせず、二俣兵に荒縄で体を縛り付けられていた流胡は、これを聞いてばきりと歯を鳴らした。


 その時に発せられた気は圧力となり、周りを囲む者の足を一歩退かせたほどだ。


「ぅちのぉ……かぁわいぃメガネをぉ……」


 さすがにたじろいだ静は流胡を警戒し、もっと縄を打てと叫んだのだが、


「あいつを汚しやがったらぁ! 地の果てまでも追ってぇ! てめぇの体ぁ真っ二つにしてやるぁ!」


 叫びと共に勢い良く立ち上がった流胡は、バツンと快音を鳴らして両腕ごと体を巻いていた縄を引き千切り、


「おぉおおおおらぁああああっ!」

「ごはっ!」


 強烈な拳を静のあごへめり込ませ、骨の砕ける音を響かせながら地面へ叩きつけた。


 流胡の様子が本当に芝居だったことに気付くまでかなりの時間を要した静は、未だに脳震とうによって思考がまとまらない頭で自分の体が仰向けのまま彼女の肩に担がれたことをなんとか把握すると、


「ら、らにをしている! 俺ごとぶっららけ!」


 周囲を囲む兵に対して、砕けた顎で必死に指示を出した。

 だが、流胡の尋常ならざる怒りに触れた皆は、怯えたまま一歩も踏み出すことが出来ない。


「さぁすが元司令官。もぅお目覚めかよ? でもよぅ、これでもまだ言えるかぁ?」


 流胡はその手に力を込め、常人なら気絶するのではないかと思うほど痛々しい音を静の背骨からべきりと響かせた。


「ぐおぁぁぁぁあっ! くっ……はやう……、しろっ!」


 すると二俣の兵は静の命令に背き、次々に得物を捨てて両手を上げ始めた。

 だがこれは自分の助命のためではない。

 そのことは、血の涙を流さんばかりに鬼をにらみつける眼光からうかがい知ることが出来た。


「おお、なんで江北の女が来るまで待てねえんだこのアマ!」


 こういうことになった場合の作戦通りに、捕縛されたふりをしていた悠斗は、騒ぎに紛れて自力で拘束を振りほどく。

 そしてバックブリーカーで敵将を持ち上げた流胡に文句を言ったのだが、流胡はその言葉に返事もせずに大声を上げた。


「てめぇはぁ! 自分のことをもっとわきまえろゃあ、松井ぃ!」

「らぁ……、なんだと?」

「てめぇはてめぇが思うよりぃ、ずっと兵士どもにしたわれてるみたいだ……ぜっ!」


 そう言うなり、流胡は静の体を地面に叩き落として走り出した。悠斗もその後を慌てて追う。


 そんな二人を追うこともせず、静の配下である兵たちは涙を流し、自分達の将をできるだけ早く病院へ運ぶ手配をしろと、本陣へ向けて叫び続けていた。


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 江北本陣は手際よく、瞬く間にその撤営を終えていた。


 そして丹羽にわ樹雄たてお木下きのした霞蒲羅かふらは整列する五百人もの江北陣営から離れ、三十人の小規模な軍勢を整列させていた。


 三列に横隊を組んだ江東兵の正面、日傘をくるくると回す変な副官を横に置き、樹雄は無表情なへの字の口を開いた。


「皆、動揺して江北に気付かれることがないように。この後、大きな捕り物に手を貸してもらうことになる。陣容、形勢を考えるに、恐らく我が部隊が曲者くせものを捕らえることになりそうだ。その大罪人は、例の不気味な雨雲を背負ってこちらへ接近中だ」


 樹雄の話しを聞いた一同は最初の指示を忘れ、半目で大きなため息をついた。


「すぐにでも総司令部から特命が入るだろう。そうしたら皆は木下の指示に従え」


 この指示に、新人ばかりで編成された三十人は驚きの表情を浮かべ、霞蒲羅の顔を見た。

 浮世離れしたこの同級生は、そこまで大物なのだろうか。


「私は帰る。携帯のバッテリーがもう限界なのだ」


 緊張していた皆は樹雄の発言を聞き、あきれ果ててうな垂れた。


 そんな重大な任務を指示されたにもかかわらず、事も無げに日傘をゆるりと回す霞蒲羅は、


「それは一向に構いません。しかし、此方こなたはこの通り携帯電話を持っておりません。どのように徐珠亜さんの指示を迎えるとよろしいのでしょう」

「ああ、通信兵を立てるといいだろう。良いか、滝川は総司令官。あいつの指示には絶対服従だ。我々将軍位がその範を示すことで組織が成り立つ」


 樹雄が適当な通信兵を立てようと数名の顔を見渡した時、携帯の着信音が響いた。

 ポケットから携帯を取り出した樹雄は発信者の名前を見て眉根をしかめつつ、ぶっきらぼうに通話ボタンを押す。


「滝川か。電池が無いんだ、後にしろ。……ああ、把握しているが、お前の指示を聞く気なら無いぞ。理由? 面倒だからに決まっているだろう。他のやつにかけ直せ」


 不信感という漢字を顔で表現してみよう、というお題を与えられた三十人は、各自が考えた解答で樹雄をにらみつけていたのだが、夢中で自分の正当性を主張する樹雄にはまったく届いていないようだ。


「高校生の身の上では課金できない以上、もっとマメにログオンしたいのに、なんだこの忙しさは。この間など丸二十四時間ログオンできなかったせいで漢中戦のイベント進行がリセットされたんだぞ。夏侯淵の体力を半分まで削っていたはずなのに、敵将の名がえんやくに戻っていた時には携帯を投げ捨てそうになった。なんで劉璋りゅうしょうのせいで寝返った顔無し武将を二度も倒さねばなら……、何? 雌雄しゆう一対いっついの剣だと? お前、どうやって……、ふむ。そういうことなら喜んで手を貸そう。どこに行けばいいのだ? ……ふむ。わかった」


 徐珠亜との通話を終えた樹雄は、電池残量が心もとない携帯をブレザーのポケットに押し込みながら、無表情に指示を出した。


「私が指揮を執る。全軍、滝川のいる本陣へ! 墨田を見かけても挑発するな!」


 この指示の意味を把握した霞蒲羅は先頭に立ち、優雅なペースで歩き出した。

 これに竹刀とショッパーを左手にした樹雄が続くと、他の者も後を追う。


「おい、木下。そのまま聞け、これは……」

「ご心配なく。視線が通らぬころあいで、西へ折れましょう」


 花音を迎えに行くための偽装で大声を上げたということを把握していた副官に、樹雄は鼻を鳴らすだけで返事とした。

 そして進路を考える必要が無くなった余裕を、違うことへ回すことができた。


「おい誰か。気付かれんように松平の様子を見ろ。何をしている?」


 樹雄の声に幾人かがちらちらと後方を確認し始め、そのうち一人がひそひそと報告した。


「なんか、電話してるみたいです。あとは、首脳陣が集まって何かしてますね」

「ふむ……」

「松平氏が何か?」


 日傘を先ほどよりも速く回転させつつ前を歩く霞蒲羅に、樹雄が呟いた。


「俺との通話を切る直前、松平の名を呼ぶ滝川の声が聞こえたのだ。同盟軍とはいえこのタイミングで何の連絡だ?」

「……徐珠亜さんのなさることに、何の疑問を得ましょうか。さて、ただ歩くのも無粋。此方が楽しくなる歌を馳走いたしましょうか?」

「いらん」


 樹雄はそれきり黙りこみ、墨田軍が先ほどまで詰めていた錦糸きんし公園を目指したのであった。


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 隅田川と言えば水上バス。そしてこの、屋形船。


 川の上から眺めれば、視界の左右に並ぶビルやマンションに切られてもなお、空の広さを満喫できる。

 その青い空も、次々に現れる橋で横に仕切られて、視覚的な変化が妙にのんびりとしたテンポを刻んでいくのだ。


 つい先ほどまでの激戦の記憶はどこへやら、遊覧気分でご機嫌になった流胡が、今時キセルで煙草をくゆらすお年寄りに声をかけた。


「おやじぃ、いいのかぁ? うちらぁ、タダで乗せてもらってっけど」

「……てやんでい、どの口が言いやがる。無理やり土足で乗り込んできやがって」


 流胡と悠斗は南へ逃げようとしたのだが、花音達を取り逃がした墨田の兵に見つかり、言問橋ことといばしを越えて台東区――北条領へ逃げ込んだ。


 同盟関係にはあるものの、事前通達も無しに大軍で領土侵犯するわけにはいかない墨田軍は、追跡を諦めて、強盗同然に屋形船に乗り込んだ流胡達を歯噛みと共に見送るしかなかった。


「おお、舳先へさきに座るんじゃねえ。落ちるぞ」

「大丈夫だぁ。それよりてめぇ、おやじに礼くらい言うもんだぜぇ」

「おお。……じいさん、貸し切りのとこ、済まなかったな」

「借りてなんかねえ、こいつは俺の船だ。……隠居記念に客気分を味わおうと思ってたら、とんだ野良猫が三匹も転がり込んできやがった。酒が不味くならあ」


 屋根のある座敷の一番先頭、その障子を開け放った先の船首には流胡と悠斗、そして憤懣やるかたない表情を浮かべた岡崎高校の本多ほんだ朱埜あけのがいた。

 流胡が逃げる道すがら無理やり手を掴んで連れて来た江北の槍使いは、大きく嘆息すると、ぐい飲みを空けたばかりの老人に声をかける。


「クレームは江東区解放同盟へ入れてくれ。私は、無理やり連れてこられただけだ」

「ふん。今川勇兵の敵なら、誰だっていいさ」


 しわがれた声で紡がれたのは、随分物騒な言葉だった。空を見上げていた流胡が何となく振り返って老人を見ると、彼は徳利とっくりを傾けながら語り始めた。


「……孫がよ、指の骨を折っちまったんだ。小さいころからピアノを習ってて、世界に出ることを目標に、そりゃあもう頑張っていやがったんだ」


 老人は、流胡を見つめてため息をつきながら、


「今時、東京で習い事なんて可笑しいと思うだろうけどよう、あいつの先生がここの住まいってんじゃしょうがあんめい。でも、やっぱり戦争ばっかしの東京じゃ無理だったんだよ。……考課測定で、今川に襲われて右手複雑骨折。それがきっかけで息子夫婦共々、横浜に越しちまった。あいつも、リハビリ頑張ってるらしいけど、ピアノを弾けるほどには回復しねえって話だ」


 老人はぐい飲みを煽り、それきり黙ってしまった。


 ……三人の招かざる客は、考課測定が当たり前のように行われている東京で育ってきた。

 だから、この手の話を聞いて同情するような人生など送っていない。

 もっと理不尽で、もっと残酷なことをいくつも体験している。


 そして、流胡には分かっている。

 間違いなく、悠斗は老人を許さない。

 自分の不幸を他人のせいにする者を、こいつは許しはしない。


 だから、思ってもいない、妥当な同情の言葉で相手をした。


「そうかぁ。そいつ、運だけ足んなかったんだなぁ。船賃を返してやれる保障はねぇけど、まあ、うちらが仇くれぇとってやるよ」


 悠斗は、流胡の言葉を聞いて踏み出した足をそこで止めた。

その意図が伝わったからだ。年寄りの間違いを指摘したところで、何も変わることなどない。


 だが、そんなことを考えた二人は、自分の未熟を噛み締めることになった。


「仇? ばか言ってんじゃねえ。……いいか? 俺はいい歳して、他人ひとさまを恨むことになっちまった。まだまだ人間が小せえってこった。だからよう、いつかあの野郎を許せるように、大人になんなきゃなんねえ。それまでは奴を倒さねえでいてくんな」


 ……その言葉は、老人特有の冗談には聞こえなかった。

 この老人は本気で、まだ人として成長しようとしていた。


 流胡は少しだけ鬼の目を開いて、自分の好敵手へ嬉しそうに宣言する。


「そぃつぁ約束できねぇ。おやじが男になるかぁ、うちがあのデカブツを倒すか、早いもん勝ちだぁ」

「おぅ、いいぜ。もし俺が負けたら、次の日からてめえを恨むことにすらあ」


 今度こそ、老人特有の冗談にまんまとやられた。

 流胡が眉間に皺を寄せると、悠斗と老人は大声を上げて笑い出した。


 頭を掻いて一緒に笑い始めた流胡だったが、横から水を差されることになった。


「……鬼。随分と余裕があるようだが、貴様は主人が心配ではないのか?」


 ずっと不愉快な表情をしていた朱埜が腕組みのまま問うと、流胡はポケットから取り出したものを突き付けた。

 それは、携帯。LINEの画面。


「あのちゃら男がぁ、下らねぇミスするかっての。金額は知らねぇが、どえれえもん動かしやがったぁ」


 その言葉に、滅多に携帯を見ない悠斗が画面を覗くと、


「おお、子供がほっぺた引っ張り合ってるとこに、イージス艦持ち出しやがった」

「……何の話だ」

「うちらが北でぇ、本陣が西。二か所で暴れてた理由、わぁかるかぁ?」


 流胡の問いかけに、朱埜は必要以上に警戒した。


 解放同盟は、どこまで江北が抱える大問題のことを知っているのか。

 自分は今、探りを入れられているのだろうか。


「兵力を……、織田の方に回されたら、困るからだろう」

「はぁずれぇ。おぃおぃ、そんなことでスパイが務まるのかょ?」


 警戒していたにもかかわらず、朱埜は左目をぴくっと痙攣させた。

 だが、そんなことには興味無しと言った風情の流胡は、


「なんだょ、ばれてねぇとか思ってたとしたら相当だぜ? あんだけの腕であんだけのチャンス。うちらを今川愛から遠ざけようとした理由なんか他にねぇだろ」

「違う! 私はスパイなんかじゃない! 私の主は亜寿沙だけだ!」


 ムキになった朱埜だったが、すぐに悔しそうに俯いて、


「私は……、あの子を助けるために動いているんだ。貴様などに分かるものか」


 震えるように言葉を吐くと、奥歯を軋むほどに噛み締めた。


「あぁ、わっかんねぇ。さっき手ぇ貸してくれりゃぁよぅ、今川のちいせぇ方、二度とボール遊びできねぇ体にしてやることくれぇできただろぅに」

「ばかか。亜寿沙は、そんなこと望んでいない」

「望んでるさぁ」


 朱埜は、貴様に何が分かるのかと言わんばかりに流胡をにらんだ。

 だが、ばかばかしいとつぶやいた後、逆に問いただす側へ回った。


「……織田は平和主義と聞いていたが、とんだテロを考えるもんだ」

「ああ? あのお花畑がこんなことやれなんて言い出す訳ねえだろ」

「でもぉ、あいつの望みだぁ」

「……お前ら、意見が食い違っているじゃないか」

「どこがぁ?」


 顔を見合わせて肩をすくめる二人を見て嘆息した朱埜は、船の縁に片足をかけた。どうやら、泳いで帰る気らしい。


「……あぁ、なるほどねぇ、てめぇと話があわねぇわけだぁ。てめぇ、槍捌きはすげえけど、おつむはまだぁ、がきんちょじゃねぇかぁ」


 去り際、辛辣な言葉を浴びせられた朱埜だったが、もはや問答などする気は無くなっていた。

 だが、


「おい鬼。今度会った時、勝負しろ。今日の非礼、お前の体であがなってもらう」

「はぁ? やぁだよ。てめぇが、おいたでもしたらしつけてやるけどよぅ。それに、味方とケンカすっとうちの天使ちゃんにばれるからだぁめだぁ」

「……なら、平気だな。覚悟しとけよ」


 意味深な言葉と共に、隅田川へと着衣のまま飛び込んでしまった。


 二人が、いや、船主の老人も含めて見守る先、朱埜は危なげなく岸へ迫る。

 そして船をもやうロープを掴んで岸に上がった姿を確認したところで、


「ガキはぁ、水遊びが好きなんだょ。小学校ぉ、てめえも入ればぁ?」


 流胡は悠斗に向けて話し始めた。


「おお、ガキ……、か。なんでそう思うんだ。スパイだからか?」

「ちげぇ。……主のために生きるって意味を、はき違えてっからさぁ」

「ああ? ……わっかんねえ」


 頭を掻く悠斗を見て流胡がため息をつくと、軽く笑い声を漏らした老人が、キセルに火をつけた。


 流れる煙草の煙を目で追いながら、流胡は船の舳先へさきに座り直して、


「小学校ぉ。てめぇ、うちの天使ちゃんと小学生の頃からの付き合いだよなぁ」

「ああ? ……そうだな」


 悠斗がYシャツをめくりあげて脇腹のあざを確認しながら生返事をすると、流胡は右手のテーピングが剥がれて傷だらけになった拳を舐めて、珍しく寂しそうなトーンで聞いた。


「あいつぅ、昔っからあんな生き方してたのかぁ?」

「おお、なんだそりゃ。あのバカが器用に生き方変えられるわきゃねえだろ」

「…………ははっ。そりゃぁ……、すぅげぇ小学生だぁ」

「おお、考え方によっちゃ、な。……俺は人知を超えた、とてつもねえバカだと思ってるが」


 悠斗は流胡の方を向きながら、ニヤリと笑った。

 すると、流胡もいつもの恵比須顔を浮かべながら、


「あぁ、そだな…………。ありゃぁ、ただの大馬鹿女かもしれねぇなぁ……」


 今頃、徐珠亜の作戦によって助けられているであろう愛しい主に思いを馳せて、遠く漂う南東の雨雲を見つめながら暢気のんきに歌い始めた。


 ……それは調子の外れた、音程もおぼつかない、不器用な子守歌だった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 アパートの前に設置されたダストボックス。

 その蓋が、中から聞こえる子供の声に合わせて小さくぱくぱくと開いたり閉じたりしている。


「こ、怖かったね~。みんな、大丈夫だった?」

「ぼ、僕はぜんぜん平気だったよ!」

「おお、てめえ最初に逃げてたろうが。あと花音。パカパカうるせえ。隠れてる意味無くなるだろ」


 声変わりを終えたばかり、少しかすれた男の子の声が叱りつけると、燃えるような赤い髪を肩で揃えた女の子が蓋と自分の口を勢いよく開けながら立ち上がった。


「ここ臭い! さあ、あと少し! 頑張って行くよ!」


 ダストボックスの中には三人の小学生が入っていて、二人からの制止も聞かずに赤い髪の少女はスカートを翻しながら外へ飛び出した。


 慌てて後を追うのは、グレーアッシュの髪をインテリヘアにきっちりセットした少年だ。

 半ズボンをサスペンダーで吊り、小学生なのにYシャツなど着ている。


「かのんちゃん、すぐに隠れて! 敵がいたらどうする気だよ!」


 そう言いながら少女の腕をつかみ、すぐそばにある椿の茂みに押し込むと、その後から大柄の子供が茂みに飛び込んできて押しつぶされた。


 ……彼らは、ご近所名物の迷惑チーム。世の中の悪と戦う『ゆうと団』。

 小学六年生の名物三人組以下のメンバーは、塾とか習い事とか、お母さんに「あの子達と一緒に遊んじゃだめ」と叱られたとかの理由で流動的に変化する。

 その活動内容も、その日の団長の気分次第というありさまだ。


 さて、このチームの名は、ゆうと団だ。ゆうと団だが、団長は赤い髪の女の子だったりする。

 チーム名を決める時、団長は自分の名前を使うことを嫌がったのだが、おお、俺の名前がチーム名とかちょうかっけえと喜んだ幼馴染のおかげでこんな名前になってしまったのだ。


 今日は、ゆうと団の基本方針「戦争反対!」を目指して戦っていた。


 小学生のやることだ、それが子供たちのケンカを止めることでも、商店街のいざこざを止めることでも、同じレベルで考える。


 しかし、今回の活動は身の丈に過ぎるものだった。

 導入からまだ二年、安全性についてはなはだ疑問が残り、ルールすら確立されていない考課測定に介入しようとしていたのだ。


「滝川君、こんなとこに隠れないでも平気だよ。もし危なかったら、新入団員君が教えてくれるって」

「何言ってんのさ。彼、捕まってるって。さっき俺達を逃がそうとして敵に向かって行ったじゃないか。勇敢で、感心したよ」


 茂みの中でなんとか体勢を整えようともがく三人に、遥か頭上から声が聞こえた。


「捕まってねえぞ」


 彼らが慌てて見上げた視線の先、アパート三階のベランダの縁に、ぼさぼさ髪のシルエットが見える。


「おお、新入り! 何やってんだ!」

「何って見張りだけど。さっきの連中なら見当たらないぞ。元の場所に帰ったんじゃないか?」

「見張りって、君ねえ」

「だって、その女に言われたから……」


 シルエットが下を指差して文句を言うと、赤い髪の団長は大柄の少年に向かって興奮しながら、


「ね! あの子、すごいよね! さっきひょいひょいベランダを飛び移って登って行くの見て、見張りを頼んだの!」

「おお、まじか。玄関から入ったんじゃねえのかよ。おい新入り、降りてこい」


 大柄な、かすれ声の男の子に言われ、痩せこけた野犬のような男の子は四つ足でベランダを走り、かなり離れたところに立つ電柱に飛び移ると、頭を下にして滑り降りてきた。


「すごいね。かのんちゃん、どうやってこんな子、見つけてきたのさ」

「なんか、クラスのみんなに嫌われて明日転校しちゃう子が五年生にいるって聞いたから、思い出作りになるかな~って」

「な、何その理由……」


 グレーアッシュの少年は眉をしかめたが、野犬のような少年の返事を聞くと、さらに唖然とした。


「これ、隠しシナリオだろ? こんな珍しいの、なかなか無いぜ。攻略可能キャラの誰からも嫌われてたし、サポート同級生男子も一度も話しかけてこなかったから変なルートだと思ってたんだ。世界で俺ぐらいしか発見できてないんじゃねえか?」


 ……見た目の野生っぷりと真逆の発言は、誰にも理解できなかった。


「何言ってるか分かんないけど、君、なんでカエルみたいにしゃがんでるの?」


 もう数年していたら、いくら能天気な赤髪の少女でもドン引きしていたかもしれない。だが、幸い彼の発言は意味の分からない言葉として扱われた。


「あ、ああ。俺、二本足で歩くの、慣れてなくて……」


 グレーアッシュの少年と大柄な少年は、いよいよ変人を見る目で彼を見た。

 だが、自分達を助けてくれた勇気は本物だ。


「おお、さっきは助かった。お前、なんて名前だ?」

佐久間さくま郁袮あやね

「僕は徐珠亜ジョシュア滝川たきがわ。よろしくね。それにしても女子みたいな名前だけど、男子だよね」

「うん。かあちゃんがつけたんだけど、女の子が欲しかったらしくて生まれる前に名前を決めちゃったんだって。姉ちゃんは逆パターン。女なのに愛団ちかまる


 郁袮が説明すると、六年生は三人とも眉根を寄せた。


「……げ。君、あのおかしな中学生の弟なのか?」

「姉ちゃんの事、知ってるのか?」

「おお、なのなの言いながら花音の写真撮る変なやつだ。なんだよあれ」


 その説明に首を捻る郁袮だったが、


「……別人かなあ? ……執念深い?」

「うん。しつこいんだよ」

「じゃあねえちゃんだ」


 そう断言した郁袮は、ぼさぼさ髪を何本か千切って飛ばし、風向きを確認すると、


「鳴海の方から結構な人数のにおいがする。清州を目指すなら今のうちだ」


 赤い髪の団長を見ながら、そう言った。

 だが団長はそこから動こうとせず、


「え? 他の四人は?」


 きょとんとしながら、Yシャツに付いた葉っぱを取り続けていた軍師に聞くと、


「囮の四人なら、もう鳴海高校に捕まってると思うけど。そのおかげで僕たちこんなに清州高校のそばまでたどり着けたんだ。さあ、行こう!」


 平気な顔をして、囮に使った四年生と三年生の別動隊を切り捨てた。


 だが、この団長がそんなことを許すはずが無い。

 泣きそうな顔を浮かべると、今来た道を戻り始めた。


「ちょっ……、逆だよかのんちゃん! 清州高校はこっち!」

「……やだ。みんなのこと助けに行く」

「おお、そしたら戦争止めらんねえけどいいのか?」

「……止めるもん」


 残された三人は団長の背中を眺めていたが、郁袮が四つ足で飛び出してその横に並ぶと、残る二人も慌てて後を追った。


「かのんちゃん! 台無しになるからやめて! 悠斗も郁袮もそう思うだろ?」


 徐珠亜の訴えに、郁袮はたどたどしく二本足で歩きながら返事をした。


「この女、何言ってるか分かんねえけど、隠しヒロインだからな。攻略しなきゃ」

「おお、てめえも何言ってるか分かんねえぞ」


 意味不明の受け答えに突っ込みを入れる悠斗は、花音が握り締めてぐしゃぐしゃになった手紙へ視線を送った。



 ……これを、清州高校の生徒会室へ届けてほしい。


 戦争反対のプラカードを持って、東陽とうようちょうにある清州きよす高校と、千石せんごくに建つ鳴海なるみ高校の境に陣取っていたゆうと団。

 彼らの目的は、今日行われる二校による考課測定をやめさせるというものだった。


 そんな彼らに、すがり付くように、あるいは何かから逃げるように、清州高校のお兄さんが手紙を押し付けてきたのは一時間くらい前だった。


 戦争反対活動中だからと断った花音だったが、その手紙を届ければ戦争が終わると聞かされて二つ返事で了承。

 愛用のピンクのポシェットに手紙を突っ込むと、領区の境から南側、自分達の住む清州領へ向けて走り出したのだ。


 だが、自分達が手紙を託されたという情報が一気に伝わり、清州領まで侵攻していた鳴海の生徒に追いかけまわされることになった。

 そこで一計を案じた徐珠亜は、目立つポシェットを囮部隊に押し付け、中身だけ花音に握らせて清州高校まであとわずかというところまで迫ったのだ。


 しかしタイミング悪く、清州高校は籠城を選択したばかりで、学校の周りは鳴海高校の生徒ばかり。あっさり見つかって一旦清州から離れ、自宅近くのアパート前に逃げてきたのだ。


「なあ、そっちは敵が一番集まってるとこだけど、このまま行くのか? 策は?」

「……無いけど、助ける」


 悲壮な宣言をする隠しヒロインの言葉を聞いた郁袮は、仕方ないなと覚悟を決めたのだが、その時ぽつりと頭に滴が落ちたのを感じた。


「あ……、これ、あれだ。一番苦手な奴だ」

「おお。花音、分かった。手伝うから泣くんじゃねえ」


 悠斗と呼ばれた大柄な少年が花音に声をかけると、次第に雨粒が落ち始め、とうとう本降りになって来た。


「悠斗。君は、慰め方が下手だねえ」

「ああ? うるっせえぞ徐珠亜! お前がこんな作戦立てたから花音が泣いちまったんじゃねえか!」


 ぐすぐすと泣き出した少女を挟んで、二人の少年が口喧嘩を始めると、


「……いたぞ!」


 進行方向から、十人を超える鳴海兵が走って来た。


「しまった! おい、郁袮! 花音を連れて、さっきみたいに走れるか?」

「え? でも、雨が降ると俺……」

「おお! ぐずぐず言ってるんじゃねえ! やるんだよ!」


 徐珠亜に無理やり花音を背負わされ、悠斗が先頭を走って来た高校生の足へ必死にタックルする姿を横目にしながら、郁袮はよたよたと走り出した。

 だが先ほどまでの運動能力はどこへやら、何歩も離れることができずに転んでしまうのだった。


「あやね!」

「だから、二本足じゃ無理だし、そもそも雨が降ると頭が痛くなる……」


 愚痴る郁袮だったが、それでも花音の腕を掴もうとしてきた高校生の顔にまるで野犬のように飛び付くと、目の辺りを引っ掻いてバク宙で着地した。


「ぐああっ!」

「このっ!」


 だがこの人数差。

 顔を押さえてうずくまる高校生の横から、木刀を構えた人が飛び込んできた。


 離れたところから、組み敷かれながらもこちらへ手を伸ばす二人の叫びが響く。


「かのんちゃん!」

「花音!」


 郁袮は花音を抱きしめ、衝撃に備えて目をぎゅっと瞑った。

 ……だが、いつまで待っていても、木刀の衝撃は来ない。


 目を開けて振り向くと、そこには何本もの木刀を背に受けた女性の姿があった。


「ママ!」


 花音が自分を守ってくれた者の名を大声で叫ぶと、エプロン姿の女性はにっこり微笑んで、自分達を囲む鳴海の生徒の前で仁王立ちした。


「ちょっと……、おばさん! 邪魔しないでもらえるか?」

「大事な情報をその子が持って逃げ回っているんだ!」

「大人が考課測定の邪魔をしたら重い刑罰があることを知らないのか!」

「都の職員を呼んで来い! この無知なおばさんを排除してもらえ!」


 激しい剣幕でがなり立てる高校生と、事の成り行きを、手をこまねいて見ていた近隣の大人達を前に、花音の母、織田おだ香澄かすみは鼻の頭を親指ではじくと、


「あなた達の方がよっぽど無知だと思うわ! 我が子がやいばの前にさらされた時、死ぬ覚悟ができない母親なんてどこにもいないわよ!」


 何十人もの高校生が一瞬で萎縮するような、ドスの利いた声を上げた。そして、


「さあ! 私は命をベットした! この子に手を触れたくば、見合う掛け金を準備なさい!」


 この宣言に、誰もが指一本動かすことなど出来なかった。

 そして、誰かがポツリとつぶやく。


「……あれ、織田香澄じゃないか?」


 その声に改めてエプロン姿の女性を確認すると、居並ぶものは皆、週に一度はテレビで見かける女性の姿だと気が付いた。


 織田香澄といえば国民的人気を誇るママさんマラソンランナー。

 バラエティー番組でもお馴染みで、竹を割ったような快活な人柄と笑顔が魅力的な女性だ。


 東京都が高等学校領区制になったため、マラソンすらトラックでしか開催できなくなったことを嘆き、東京都の高校生のためとして都民運動をおこした人物だ。

 その活動の結果、十月一日、つまり都民の日は領区を完全開放して、東京二十三区全域でスポーツ大会を開くという日になったのだ。


 騒然とし始めた高校生を背に、花音へ向かってしゃがんだ香澄は、自分と同じ、花音の赤毛を撫でながら、


「さて、お姉ちゃん」


 妹か弟がいる少女に対する呼称で、少しきつめに問いただした。


「なんで襲われてるの? ちゃんと理解してる? ちゃんと説明できる?」

「あた、あたし……戦争、反対だから……」


 母親の言葉に、手にしたくしゃくしゃの手紙を見つめつつ、


「これをね、清州の生徒会室に持っていったら、戦争が終わるって聞いたから」


 母親の目を見ることも出来ず、俯きながら、でもしっかりと説明した。


「そう。じゃあ、許したげる。でも、ひとつお姉ちゃんに教えなきゃいけないことがあるの。ちゃんと聞きなさい。……それ、見るわよ」


 香澄は花音から手紙を取り上げると、慌てふためく鳴海の高校生達をよそに封を切り、中を確認した。そして、


「あんたが運んでたのは、鳴海高校生徒会長の、妹さんが避難している家の住所よ」

「え? なんで?」

「この情報を見たら、今籠城してる清州の人たちは全軍でこの子を襲いに行く。抵抗もできない中学生に大けがをさせて、降伏を迫る予定だったのね」


 オブラートも何もない、包み隠さぬ母の説明に、花音は真っ青になった。


「お姉ちゃん。いえ、花音。よく聞きなさい。大人に騙されないように生きなさい。誰かに言われて動いたらいけない。自分と、仲間で一生懸命考えて、戦争反対を貫きなさい」


 香澄は後ろ手にその手紙を鳴海の高校生へ渡すと、郁袮を右腕に、花音を左腕に抱きしめた。

 周囲にいた皆は、きっと泣きだすと思って花音を見ていたが、この厳しくて優しい母親が育てた子は、誰もが想像もできなかったことを言い出した。


「じゃあ、あたし、鳴海高校の生徒会長さんに会って、謝らないといけないの。あと、捕まってる仲間を助けに行かないと」


 この返事ばかりは、母親でも予想していなかったようだ。

 だが、親であることの最大の喜び、そして耐えがたい悲しさ、つまり娘の成長を見て、誇らしくもあった。


 そんな思いを感じさせないほど、香澄は気軽な言葉を花音にかける。


「あんた困った子に育ったわね。じゃあ、そうね。少年、この子を守ってくれる?」


 急に声を掛けられた郁袮は、しかし事もなげに、


「ああ。こいつ、今、傷ついてるからな。選択肢的に「はい」しかありえねえ」


 そう答えると、香澄は一瞬驚いた顔をして、


「なあに、選択肢って。ゲーム? でもあなた、素敵じゃない。花音の旦那さんになってくれない?」

「え……、ええっ!?」


 急に予想外の事を言われ、真っ赤に俯く郁袮の隣で、きょとんとした花音は、


「やだよ、あたし」


 はっきりと断り、郁袮の膝を地に付けさせた。

 すると香澄は優しく笑いながら、


「あなたがつらい思いをしてるから力になりたいって言ってくれたのよ? 素敵な子じゃない。あなたも、他の人の一番痛いところを感じてあげることができるようになりなさい。あと少年。あんたは一回ふられた位でなんてザマなの!」


 多くのギャラリーを尻目に、楽しそうに子供を教育するママさんマラソンランナーは、テレビで見る姿と寸分違わず、厳しく、優しい人だった。

 そう感じながら、ついその様子に目を奪われる一同は、異変に気付くことが遅れてしまった。


 香澄に煽られ、なんとか気概を取り戻した郁袮は、香澄に宣言した。


「じゃあ、俺、騎士になる。花音の事、一生助けてやる。ピンチになったら、白馬に乗って助けに行ってやる」

「すごい、そんなプロポーズのセリフ、どこで覚えたの?」

「……馬になるの? ねえママ、郁袮、何言ってるの? バカなの?」


 そしていちいち頓狂とんきょうな花音の言葉に思わず噴き出す周囲の人々。

 香澄はいよいよ笑顔になって、


「違うわよ。この子、花音の彼氏になりたいって言ってるの」

「え? やだよ。だって、あたしより下だし……」


 花音は郁袮を少しだけ見下ろしながら言った。

 香澄は手を水平にかざして背を比べてため息をつき、


「あんたが見た目を気にするとは思わなかった。じゃあ、無事に鳴海まで送り届けてもらえたら付き合っちゃいなさい。少年、男を見せろよ!」

「わ、わかった。約束する」


 周囲を囲む鳴海の高校生達は、この男の子の勇気と女の子の誠実さを応援する気になっていた。

 彼らにとっては未だ大冒険だ。

 だが、その道は自分達が守ってやるから安心しろと、そう思っていた。


 皆の表情が柔らかくなったことを感じた香澄が高校生達に振り向いて、頼んだわよと言わんばかりに親指を上げた時、悲壮な叫び声が離れた所から上がった。


「き、清州の軍勢だ!全軍で出て来たぞ!」


 その大声を上げた鳴海の兵士が、人の波に突き飛ばされる。


 交差点から怒涛の勢いでなだれ込む清州兵の目的は、一つだった。


「いたぞ! 密書の女の子だ!」

「怪我をさせても構わん! なんとしても捕えろ!」


 赤い髪の女の子が密書を運んでいるという情報が入った清州軍は、高校を全軍で飛び出してこれの確保に乗り出したのだ。


 そして清州兵の逆の側からは、東京都の職員、十数名も走って来た。

 考課測定へ大人が介入した事について、通報があったのだろう。


 だが花音と郁袮、そして離れた所でしゃがみ込む徐珠亜と悠斗を、付近の住民が、鳴海高校生が、身を挺して清州から、東京都の職員から守るように立ちふさがった。


 ……結果、総勢、百人を超える人間が激突した。


 怒号が、ただの一つの音になった。

 数十秒鳴り響く、醜い音になった。


 そして後から駆け付けた警官隊の宣言により、この時点で考課測定はノーコンテストとされた。


 パトカーに設置された巨大なスピーカーから考課測定の中止を聞いた者は人込みからよろよろと離れて行ったが、その後には高校生ばかりでなく、多数の民間人、そして都の職員もうめき声をあげて倒れ込んでいた。


 そして、その中央では、二人の子供に覆いかぶさったまま、声も上げることが出来ずにぐったりとしている女性の姿があった。


「ママ! ママーーーーーー!」


 少女の叫び声と、その様子を見た者は、心に深い傷を負った。

 自分達は、二度と武器を持つことは無いだろう。誰しもが、そう感じた。


 子供にすがりつかれる女性は、その足が、膝からあらぬ方向へ曲がっていた。この女性は、自分の選手生命を落としてまで、子供達を守ったのだ。


 鳴海の生徒が嗚咽と共に涙を流しながら香澄の体を道路に横たえると、彼女は激痛を微塵も感じさせない気丈な声で、赤い髪の少女の頬を撫でながら語り始めた。


「お姉ちゃん。……もう一度、あなたの望みを、言いなさい」


 ショックの為に呆然自失していた花音は、それでもしっかりと、口にした。


「……戦争、反対」


 香澄は満面に笑みを浮かべると、花音の後ろに立つ少年に、厳しい声をかけた。


「少年、泣くな! 男が泣いていいのは、諦めた時だけよ。諦めない限り、泣いたらだめ。この子を、一生守る騎士なんでしょ! そんなに弱くてどうする!」

「う……、わか……。俺、ずっと……諦めない大人になる。だから、ながな……」


 郁袮は嗚咽を頑張って飲み込んだが、もう口を開くことなどできなかった。ただ花音の頬を撫でる女性の目を、一心に見つめていることしかできずにいた。


「……お姉ちゃん。お母さんの夢はね、十月一日みたいな、境のない日がたくさんになるといいなってものなの」


 多くの救急車がこの惨状に到着すると、次々とストレッチャーが運ばれてきた。

 作業の邪魔にならないよう、香澄の周りからも人が離れて行ったが、花音と郁袮だけは最後までその言葉を胸に刻んでいた。


「お母さんの夢、あなた達が持っていきなさい。自分の夢と、あたしの夢、両方を叶えてみせなさい」


 香澄と共に、花音は救急車に乗った。

 その扉が閉まるのを、まるで合図にしたように、辺りは豪雨に包まれた。

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