45 EPILOGUE

 初夏の忍び寄る足音が聞こえてきそうな五月の休日、眩しい日差しの下で俺と梧灯は連れ立って歩いていた。

 場所は東京都の辺境である学園都市よりも更に奥まったド田舎にある閑静な霊園。四月前後ならば桜並木が美しいと評判の通り道も、今ではすっかり葉桜となり、見渡す限り新緑の木々が広がっている。

 やたら広い場所なので松葉杖を突いている梧灯とでは目的地にたどり着くまで少しの時間を要した。その間、俺と梧灯は景色が殺風景だの道順はあっていたのかだのと、どうでもいい話をちらほら交わすのみだったが、特に険悪な雰囲気というわけでもない。場所柄もあって俺のほうが話すのを自重していただけだ。

 そうこうしているうちに目的地が見えてきた。あたり一面に墓石が広がる広場の一角に、『信』という一字が刻まれた墓石が建っている。

 梧灯は供えられた花を交換し、墓石のあたりを軽く掃除する。その間に俺はバケツに水を入れて来た。

 墓のあたりを一通り手入れしたあと、梧灯は線香を取り出して火をつける。

 か細い煙が空に立ち上るのを見送ってから、俺たち二人は静かに祈りをささげた。ここでただ一人眠るアキラさんの冥福を願って。



 あれから本当に目まぐるしい毎日だった。

 あの嵐の夜のあと、梧灯は一週間ほど眠り続けていた。

 あの日、俺は集中治療室から出てきた八代医師センセイから梧灯の状況を聞かされた。

 ヤツは体育館の天井から落下した建材の断片によって左肩と右脚を複雑骨折する重傷を負っていたものの、幸いにも命に別状はなかった。しかし、俺を落下物から守った際に頭を床に打ち付けていたらしく、いつ意識が戻るかわからない状態だという。

 医師センセイは平静を装おうとしていたが、自分の口にした客観的な診断にひどく打ちのめされている様子だった。話を聞いた俺もまた、絶望感に苛まれた。

 梧灯が目覚めるまでの一週間は、無断で夜間の学校に忍び込んだことに対する謹慎という名目で休みを取らされた。とはいえ、ただ家でじっとしていても不安と焦燥に押しつぶされそうで居ても立ってもいられず、結局は学校の命令を無視して梧灯の病室に毎日通い詰めた。朝から面会時間ぎりぎりまで病床で眠る梧灯の側に居たせいで病院関係者にはだいぶ煙たがれたが、そんなことはどうでもよかった。

 ちなみに鶏冠井や牧も俺と同様の処分だったそうだが、学校で刃傷沙汰を演じたにしては甘々すぎる措置だ。間違いなく母さんが裏で手を回している。その証拠に、梧灯の見舞いにやってきた氏家ウジイエ教諭センセイからは、「お、お母さまにはくれぐれも、よよよよろしくとお伝えください」なんて高校生相手には不釣り合いなほど平身低頭で申し送りされてしまった。

 梧灯が眠る大部屋にはたびたび八代医師センセイが様子を見に来た。激務の合間を縫って時間が出来次第やって来るというマメさが、どことなく梧灯と似ていると思えた。

 梧灯の入院から三日ほど過ぎたころ、俺は八代医師センセイに呼び出しを受けた。

 病院の応接室に通された俺は、ソファに腰掛けるや八代医師センセイから深々と頭を下げられた。

「事情はすべて娘から聞いています。謝って済むことではありませんが、本当に、本当に申し訳ありませんでした。貴方には何とお詫びすれば良いのか……何もかも、親である僕の責任です。本当ならもっと早く、お宅に伺って謝罪するべきだというのに、僕は――」

 あまりに潔い謝りっぷりに面食らって黙り込んでしまったら、そのまま医師センセイが土下座でもしそうな勢いだったので俺は慌てて口を出した。

「ま、待ってください。私は別に、医師センセイに謝ってもらおうなんて……」

 しかし、八代医師センセイは俺の言葉を聞いても頭を振ってしまう。

「娘の罪は親である僕の罪でもあります。貴方が受けた辛い仕打ちを思えば、娘ともども法の裁きを受けるべきだと考えています。だというのに、僕たちはルミエールさんのお母様よりをいただいてしまった。こんなこと、当事者である貴方を抜きにして話すようなことじゃないというのに――」

 ……また、なのかよ。

 鶏冠井がしでかした盗聴などの行為は警察沙汰になってもおかしくなかったはずだ。しかしあの嵐の夜のあと、鶏冠井から俺に関する全ての盗聴データを手渡されてからというもの、この件について不自然なほど進展がない。警察が介入した様子も、鶏冠井が自首した様子も見られないのだ。

 梧灯の病室に詰めながらもずっと気にはなっていたのだが、八代医師センセイの話を聞いてようやく合点がいった。また母さんが人様に言えないような汚い手を使って鶏冠井一家の口を塞いだのだろう。

 いつもなら俺に危害を加えた輩なんか問答無用で社会的に抹殺してもおかしくないというのに。

 あの魔女め、一体どういうつもりだってんだ。鶏冠井が俺の友達だから手を抜いている……なんていっちょ前の親らしい動機じゃないことだけは確かだろうが。

 なんにせよ、この件に母さんが出張ってきた以上は、八代医師センセイが望むような真っ当な償いは絶対にさせてもらえないのだろう。それがわかっているから、俺にはせめて直接詫びを入れたかったんだろうな。

「私は――いや俺は」

 すべての事情を知っているであろう八代医師センセイに仮面をかぶり続ける意味はない。俺は素の自分に戻って話を続けた。

「むつらさんが後悔していて、心から反省しているのをわかっているつもりなんで、それでもう充分なんです。だから、そんなに自分を責めないでください」

 俺の言葉を聞いた八代医師センセイは、はっとした顔で俺を見つめ返した。

 医師センセイは驚きと後悔が滲んだ、今にも泣きだしそうな表情をしていた。

「どうして君たちは……」

 か細い声でそう呟くと、医師センセイは俺に背を向けて眉間に手を添えていた。

 大人の威厳を保つためにそうしているのだとしたら、これ以上余計なことを言うのは野暮なのかもしれない。だけど俺は、おそらく医師センセイがこの瞬間に想っていたであろう相手のことを訊かずにはいられなかった。

医師センセイは、その……どうして、アキラさんと?」

 口に出してから早々、あまりに直球過ぎたと後悔した。もっと上手い聞きようがあっただろうに、言葉が勝手に出てきてしまった。

 それは多分、二人の関係が俺と梧灯の関係と似ていたから、もしも梧灯ならどう考えたのか、その答えを知っておきたかったからなのかもしれない。

 言葉少なな問いかけで俺がすべて察していることに気づいたのだろう、八代医師センセイは俺に背を向けたまま、静かに語り始めた。

アキラと出会ったのは僕が医大に入ったすぐあとだった。あの頃は本当に楽しかったんだ。みどりちゃんが居て、ばあちゃんが居て、お隣さんのアキラが作ってきた手料理を皆で囲んで食べたりして……僕にとってアキラは、友達というより家族――兄がいたのならこんな感じだったのかなって思わせてくれる人だった。アキラの身体の性別が女性だということは、出会ったときから何となくそうなのかなとは思ってたけど、そのときの研究テーマの一つがちょうど性同一性障害についてだったものでね、あまり気にしてはいなかったんだ。ただ、僕が医者の卵ということもあったのか、ある日アキラの方から打ち明けられてね。ずっと誰にも事情を説明できなくて苦しんでいたアキラの力になりたくて、カウンセラーを紹介したり、色々と相談に乗ってたりもしたんだ。今思うと、確かにあのときのみどりちゃん――妻は、おっかない目つきをしてアキラを見ていたっけ。アキラが料理修行のために兄弟子を頼ってフランスへ行ってしまったときは驚いたけど、まさか妻の口利きもあったとはなぁ……」

 昔を懐かしむような、時折くすりと笑いを零しながら語り口調なのに、医師センセイの後ろ姿はとても寂しそうに見えた。

「いなくなってからも、アキラはずっと僕の大事な家族だった。だけど、あのあとしばらくしてばあちゃんが亡くなって、妻も家に帰ってこない日がずっと続いて……ああ、もう僕はこの世で一人ぼっちになってしまったんだなぁなんて、そんなことばかり考えてたら……わけがわからなくなってしまって。いつの間にか、死んだらばあちゃんには会いに行けるじゃないかなんって意味の分からない考えに囚われてしまって、それで……だから僕はきっと…………自分の傍に居て欲しくて、縛り付けておきたくて、を………………!」

 声を震わせて嘆く医師センセイに、俺は掛ける言葉が見つからなかった。

 運命とはどこまで皮肉に出来ているのだろう。八代医師センセイも梧灯も、まるで孤独に生きることを強いられているかのようじゃないか。しかも、孤独に押しつぶされそうな彼らの傍に居たのが、たまたま俺やアキラさんのような境界に立つ人間だけだったなんて。

 医師センセイが本質的には善人であるということは、これまでのやり取りで充分すぎるほど伝わってきた。だからこそ、自らの過ちによって大事な人の運命を狂わせたという罪悪感で心を引き裂かれそうになっていることも、痛いほどわかる。

 だってこの人の姿は、あの日の梧灯にあまりにも似すぎている。

「梧灯君が僕の子供だったとわかったあとも、アキラは僕のことを少しも責めなかったんだ。さっきのルミエールさんのように」

 振り返った八代医師センセイはまだ涙ぐんだままだったが、無理やり笑い顔を作って言った。

「むつらを許してくれて、ありがとう。梧灯君を見守ってくれて、ありがとう。僕の子供たちの傍にいてくれて、救ってくれて、本当にありがとう」

 そうして再び深々と頭を下げられてしまって、俺が困り果てたのは言うまでもない。

 ちなみに鶏冠井自身が俺に謝りに家まで訪ねて来たときは、父親よろしくひたすら謝り続け、こちらは本当に玄関で土下座したまま話そうとするので対処に困った。

 あれから二か月近く経った今となっては普通に話せる程度には恐縮しなくなってくれたのでほっとしている。鶏冠井としては自身の罪が正当に罰せられないことに未だ負い目を感じているようではあるが、そこはもう母さんの介入があった以上は割り切るしかない。二度と同じ過ちを繰り返さないと誓ってくれただけで充分だし、こちらとしても終わったことでいつまでもウジウジされるのは良い気がしないしな。

 ただまあ、あの一件があってから鶏冠井本来の趣味嗜好が明るみになってしまったことで、どうも彼女は開き直ってしまったらしい。おかげで俺への距離感が妙に近づきすぎているのは気のせいじゃないだろう。

 あのね、確かにあの嵐の夜、俺は梧灯を受け入れるなんて啖呵を切ってやりましたけどね、別に俺の性的指向がガラリと変わったはずもなくてね、今でも普通に可愛い女の子のことを目で追ってしまう自分に嫌気が差しているし、漫画雑誌を回し読みしながら平然とボディタッチしてくる鶏冠井にドキッとしてしまう自分を張り倒したい気持ちでいっぱいなんです。そんな俺の苦悩する様子を見て興奮するのマジで止めてもらっていいですかデコピンすっぞチビ介。

 友達付き合いの在り方について真剣に悩んでいる俺を、これまた野次馬根性丸出しで愉しそうに眺めてる牧にも腹が立っている。三年生になって梧灯や鶏冠井だけでなく牧とも同じクラスになってしまったせいで、昼飯時には毎日俺の席の周りを陣取って全員で食事を始めやがるから、端から見ると意味不明な四角関係みたいになってるんで勘弁してもらっていいですかこのニヤケ野郎ほっぺた引きちぎるぞ。

 あの一件以来、鶏冠井が人前で牧を罵る場面が散見されるようになって同学年の誰もが驚愕して彼女を見ていたが、分厚い壁が取り払われた感があったのか、鶏冠井は以前よりも学校に溶け込んでいるように思えた。牧がそれを心底嬉しそうにしているので、俺は二人の口汚いやり取りには基本的に口を出さないようにしている。夫婦喧嘩は犬も食わない、なんてボソッと口に出したら鶏冠井が顔を真っ赤にして牧に蹴りを入れてたんで、満更でもないんだろうが。

 とはいえ、こんな日常に戻り始めたのもつい先月くらいのことだ。

 それまでは日本中が文字通り大騒ぎの日々だったから。

 日本中があの大震災に見舞われた日、俺はまだ高校で授業を受けていた。病院でリハビリ中の梧灯が心配で、俺は机の下で縮こまりながらスマートフォンを手に取ったが、そもそもあのバカは携帯電話を持っていないし、かといって病院に電話しようとしても電話回線がパンクしていて連絡の取りようがなかった。日が落ちてキリヲさんが学校へ迎えに来たときになって、ようやくヤツの無事を聞かされたのだ。

 まったく心臓に悪い。俺がああまでして活かしたかった相棒をこんなしみったれた自然災害なんぞで喪うなんて冗談じゃない。

 翌日の早朝、病院に出向いていくと、梧灯は勢い余って松葉杖を取りこぼしたのも無視して俺に駆け寄ってきた。そんなヤツの様子を見て俺も胸のつかえが取れたようで、不覚にもちょっと涙腺が緩んでしまった。なんというか、もう俺の中で梧灯が家族みたいなもんになってたからなんだと思う。

 だのに、こんな歴史に残るほどの大災害に巻き込まれても唯一の肉親である母さんは俺の顔一つ見に来やしない。さすがに何度か電話でやり取りはしたけれど、相変わらずの事務連絡と悪意ある茶々を入れてくるだけで辟易させられる。何が『フィアンセが生きてたのが嬉しくて泣いちゃうなんていよいよ乙女ね、おめでとう』だ。フィアンセじゃねーし泣いてねーしうっせーわクソが。

 ただ、そうやって俺が電話をぶち切っている横で、梧灯がニュース画面をまじまじと見つめていたのがやけに印象に残っている。談話室の共用テレビにどっかの町が大波に飲まれて海に沈む映像やら、公共団体の差し替えCMばかりが流れていてうんざりしたのだろうか。鬱蒼とした前髪に隠された瞳からは光が消え失せていて、ただただ冷め切った雰囲気を纏っていた。

 それはまるでいつぞやの雨の日や、先日の嵐の日の梧灯が戻ってきてしまったかのようで、俺はどうしても話を深堀することが出来なかった。

 俺はヤツをテレビから引きはがすように談話室から連れ出し、リハビリ室へと付き添って行った。

 梧灯が抱えている心の傷はきっと、俺が考えているより遥かに深くて大きいのだろう。きっと迂闊に触れて良いような話題じゃない。

 それでも、梧灯がテレビニュースを見て一体何を思っていたのか、いつかヤツ自身の口から話してもいいと思ってもらいたい。そのためにもまずは、心身ともに健常に戻ってもらわなきゃ困るのだ。

 無傷だった右腕を強引に引っ掴んで行こうとする俺に目を白黒させる梧灯を尻目に、俺は心ひそかにそんなことを考えていた。



 アキラさんの眠る墓地を後にした俺と梧灯は、再び雑木林が生い茂る路地を歩いている。

 正午を過ぎたばかりのため日は高いままだが、頭上に広がる新緑の葉が日光を遮っているせいで帰りも変わらず陰気臭くて殺風景な通り道である。

 俺たちはバス停にたどり着くまでの数十分間、ほとんど会話らしい会話をしなかった。寂れた路地の雰囲気も相まってギスギスしているように見えたのか、通りすがりの参拝者たちは皆一様にこちらを見ないようそそくさと通り抜けていった。まあ、自分で言ってて悲しくなるが、超絶美少女でも明らかに異邦人な俺と、ギプスやら松葉杖やらでごちゃついた手負いの大男なんて、訳アリな匂いがプンプンしすぎて誰も関わりたくないのだろうが。

 行きの時もそうだったが、別にケンカしているわけじゃない。ただ、出来上がったばかりの墓へ初めてお参りに行ってきた帰り道に、どんな言葉をかけていいのかわからなかっただけだ。

 俺はわざとらしくバス停の時刻表を読み上げながら、改めて時間を稼ぐことにした。

 あの嵐の夜、梧灯の自宅に放置されていた大金は、すったもんだの末にアキラさんの墓石の建立費用になった。

 当初俺たちはあの金を母さんに返すためキリヲさんを窓口に交渉していたのだが、鼻で笑われるばかりで話にならなかった。「貧乏人風情が社長のご厚意を無駄にするとは、もらえるものはもらっておけばいいものを」と吐き捨てられた際にはさすがに肩パンしたくなったが、俺たちの間を取り持ってくれた八代医師センセイの勧めもあって、行き場のなくなっていたアキラさんの遺骨を弔うために使うことになったのだ。

 元をただせば犯罪行為の報奨金として渡された真っ黒な金だし、そもそも梧灯やアキラさん達からしたらである母さんに墓の費用を払わせる形になるのは如何なものなのか。梧灯は当然そのように難色を示すと思っていたのだが、ヤツは意外にも八代医師センセイからの提案をすんなりと受け入れた。

 その後もあまりにスムーズに三人の話が運んでいくためツッコむ暇もなかったが、どうにも俺だけ知らされていない裏事情があるような気がしてならない。もしかしたら梧灯は俺が拝み倒せば訳を話してくれるかもしれないが、それはなんか違う気もするしなぁ……

 まあ、キリヲさんの言う通りもらえるものはもらっとけばいいのだ。金自体に善悪があるわけじゃないしな!

 おかげでこんな片田舎の霊園とはいえ、あれだけ立派な墓が建ったんだ。充分すぎるほどの孝行息子なんじゃねーの?

 車一台通らない閑散とした道路を茫洋と眺める梧灯に、そんなふうに軽快に話を振れればどれだけ気が楽か。さすがにそんな雰囲気じゃないことぐらい俺にだってわかる。あれだけ母さんたちに虐められてきたんだ、今さら話題になんかしたくもないだろうしな。

 とはいえ、こういう沈黙はむず痒くてたまらない。おしゃべり好きは牧の専売特許であって俺にそんな嗜好はないつもりだが、さすがの俺でも限界だ。

「そ、そういえばよー、最近鶏冠井カエデの門限が緩くなったっつって、牧と三人で学園都市まで遊びに行くって話になってよー。鶏冠井カエデのヤツ、ゲーセンの音ゲー最高難度をノーミスでクリアとかすんのな。なんか最近母親の機嫌がすごく良いって嬉しそうだし、今度こそ四人そろって――」

「行かない」

 そっぽを向きながらぴしゃりと断られてしまった。

 思いついた端から喋ることに必死でヤツの地雷を踏んでしまうとは、なんて俺はバカなのだろう。

 あの嵐の夜以降、梧灯と鶏冠井カエデの絶縁状態は継続したままだ。

 八代医師センセイが認知届を出したことで、梧灯と鶏冠井カエデは法律上異母兄妹ということになった。そこで問題になったのが、梧灯の今後の学生生活をどうするかという話だった。

 未成年後見人やら親権者がどうやらという難しい話は抜きにしても、未成年の学生が誰のサポートもなしに独り暮らしを続けるというのは世間的にも褒められた生き方じゃない。梧灯が大学卒業を迎えるまで鶏冠井かえで家が援助するというところまでは早々に話がまとまったらしいのだが、八代医師センセイが同居の提案をしたときだけは梧灯は頑として受け入れなかったのだという。

 元をただせば八代医師センセイに責任の一端はあるのだろうが、そうは言っても梧灯が鶏冠井かえで家に与えてきた影響はあまりにも大きい。これ以上彼らの負担になるつもりはないとして、退院後も例のボロアパートでの一人暮らしが敢行されることなったらしい。

 経緯を教えてくれた八代医師センセイはとても寂しそうに自嘲していたけれど、梧灯の気持ちを考えれば致し方ないとも思う。鶏冠井カエデにも非はあったとはいえ、あんなか弱い女の子をあれだけ痛めつけた人間が同じ敷居で生活するなんて、ヤツの信義が許さなかったに違いない。

 しかしあれだけのことがあったにも関わらず、鶏冠井カエデは真摯に反省する素振りを見せているのは驚きだった。あれだけ自身の秘密を暴露されて、人によっては逆恨みしてもおかしくないだろうに、「ジョーのためにも梧灯君とは仲良くしなきゃって思ってるんだ」と言ってたびたびヤツの家やリハビリ室に訪れるなど、歩み寄る姿勢を見せているのだ。

 ただし、それでも梧灯は一貫して鶏冠井カエデとの対話を拒絶し続けていた。

 理由を聞いても「合わせる顔はない」と短く呟かれるだけで、ほかの答えは返ってこない。ヤツ自身、先日の件はやりすぎだったと後悔しているのかもしれないが、もしくは鶏冠井カエデの反省がただの虚偽ポーズだと訝しんでいる可能性もある。現に梧灯の家から立ち去ろうとしていた鶏冠井カエデが「あの野蛮人めぼくが非を認めてやってンだから素直に受け入れとけよカスがジョーを困らせンなよ解体バラすぞクソボケが……」などとニコニコしながら呟いていたのを陰で聞いてしまっているのもあって、彼女の反省の方向性がズレているのかもしれないと思い当たる節がないわけではないんだが。

「ま、まぁそう邪険にするなよ。こう見えて友達の少ない俺が、その数少ない友達同士仲良くやって欲しいって、それだけなんだから――」

「彼女は友達じゃない」

「い、いや、確かに妹なんだろうけどな? ならなおさら家族としてもっと話をしても――」

「家族でもないよ。向こうもそうは思ってないだろうし」

「……そりゃあな、ある日突然、おまえらは実は血のつながった兄妹だったんだーなんて言われて、いきなり家族らしくできるかって話だろうけども。ずっと無視し続けるのもなんつーか……大人気おとなげなくないか?」

「いいよ子供で。まだ未成年なんだから」

「………………あああああああああっめんどくせぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!」

 バス停の看板に思い切り裏拳を放ったら、力加減を間違ったのか骨が金属部分に当たってメチャクチャ痛い。

 二人きりのバス停は、一人は痛みに悶絶し、もう一人は完全にそっぽを向いてしれっとしている奇怪な空間と化していた。

「おまえもほんっっっっと頑固だよなぁもうっ! いいからさっさと仲直りしろよこの野郎!!」

「君の雑さには負けるよ」

「うるせーよ、う・る・せ・え・よっ!! なんでおまえはこう鶏冠井カエデが絡むとムキになるんだよっ」

「…………さあね」

「クールぶってんじゃねぇよ、これじゃあいつまでたっても四人予約必須のコラボレーションカフェに遊びに行けねぇだろうがっ!!」

「僕抜きで行ってくればいい。最近は同じクラスになった柊さんとも交流があるんでしょ?」

「あのバカでかいソフトボール女を呼んだら百パーあの睦月とかいう撮影オタクを連れて来るから人数あぶれるんだよっ!! いいからおまえが来やがれ!!」

「嫌だよ」

「何で⁉」

「好きな人が鶏冠井イヤなヤツといちゃつくところを見たくない」

 …………こいつはこういうことを恥ずかしげもなく真顔で言いやがって。

 梧灯は目覚めてからというもの、俺に対して遠慮することが少なくなった。口喧嘩になればまあまあ言い返してくるし、一見すると前より仲が悪くなったように思えるかもしれない。ただ、それはヤツが前よりも本当の自分を見せてくれているから、心を開いてくれて無理をしなくなったからなのだとわかっている。

 とりわけ大きな変化は、臆面もなく俺への好意を口に出すようになったことだ。

 常日頃は俺の男としての生き方を尊重しているくせに、時折ひとかどのレディにでもするかのようにアプローチをしかけてくる。俺はその都度ハイハイと適当に流してはいるものの、その真意も一応汲んでいるつもりではある。

 梧灯は俺という人間を――フランス人の血を引いていて、容姿端麗な女性の身体を持ち、男性の精神を抱えて生きているルミエール・ジョスリーヌという名の人間を丸ごと好きになったのだと――俺の心だけではなく、身体をも好きになってしまったのだと、隠しているのは公平フェアじゃないからと馬鹿正直にそう告白し続けているのだ。

 またいつぞやのように、自分は君にとって安全な存在ではない、いつでも振り払っていいのだと、そう言いたいのだろう。

 大層立派な考え方だよ。自分は選ぶ側じゃなく、俺に選んでもらう側なのだと決めてかかってるんだからな。

 そんな梧灯に対する俺の答えは、あの嵐の夜から何一つ変わらない。

「この際だからはっきり言っておく。よく聞けよ」

 真剣な面持ちで見つめられていることに気づいたのか、梧灯は松葉杖を付いて器用に俺の方へと向き直った。

「袴田梧灯。。おまえがどれだけ俺を好いてくれていても、それだけは絶対だ」

「……わかってる」

「だけど、それでもなお、俺は誓うよ。梧灯、。そのために必要なすべてのことをする。俺が今、この地球上で一番一緒に居て欲しいのは、おまえだからだ」

 これは契約だ。

 大切な人と、ただ共に生きていくために交わす純然たる約束だ。

「先のことはまだ何もわからない。俺はいつか手術を受けて男の身体になるかもしれない。おまえと結婚して夫婦になることはできないかもしれない」

 俺たちの間に、男女が取り交わすような甘いだけの言葉はいらない。

「もしかしたらその前に、俺とおまえとの間に……子供を授かる未来すら、ありえるのかもしれない。万一そうなったあとでさえ、俺は俺のことを諦めきれないのかもしれない。いま確かなことを言うことはできない。でも、おまえにだけは誤魔化したくないんだ」

 俺たちの間柄は、決して悲恋なんて言葉で片付けられる安っぽいものじゃない。

 だってそもそも俺たちは最初から、互いに恋焦がれていたわけじゃないんだ。

「おまえのことが、何より大切だから」

 歯が浮くようなセリフだろうと、何だって言ってやるさ。

 それでおまえが、この手を取ってくれるなら。

「もしも、こんな俺でも良いと言ってくれるなら、どうか俺と生きて欲しい」

 俺は梧灯へと真っ直ぐ手を突き出し、深く腰を折って両目をつぶった。

 自分を好きだと言ってくれている相手に告白するなんて、結果が判っている出来レースだって思うかい? 頭の片隅では俺もそう思うよ。とんだ茶番だってね。

 でも俺は人から受け入れられた経験なんて片手で数えられるほどしかない。自分の母親にすら認めてもらえない半端者。

 俺は決して、ただ選ぶ側の人間じゃない。梧灯やそのほか大勢と同じ、選んでもらう側の人間でもあるんだ。

 梧灯に手をはねのけられる可能性だって皆無じゃない。俺はそれだけ重荷になり得る存在なのだから。

 それでも、もしも、ありのままの俺自身を受け入れてくれるというのなら――

 恐る恐る両目を開けると、さっきよりも地面の日陰が色濃くなっている。

 そう気づくのが早いか遅いかわからないほど急に俺は後頭部を押さえつけられ、身体を引き寄せられた。

 梧灯の厚い胸板に頬をぶつけてびっくりしていたら、頭の上で鼻水をすする音が聞こえてきた。

「こんな僕でも、良いと言ってくれるなら……喜んで……!!」

 …………ああ。この感情を、なんと言い表せばいいのかわからない。

 天にも昇る気持ち?

 全身の細胞が湧きたつほどの幸福感?

 そのどれも正しいようで、たぶん正しくない。

 俺は今、生れて初めて、本当の意味で救われたのだ。

 ここに居てもいいのだと、ありのままでいいのだと、生きていていいのだと、認めてもらえたのだ。

 開錠不能だったはずの牢獄は破られ、幽囚の魂はようやく共に在ることのできる魂と出会えたのだ。

 たとえ今この瞬間、雷が落ちてきて死んでしまったとしても悔いはない。

 そう感慨に打ち震えていたというのに、遥か遠くからエンジン音が轟いてくるのが聞こえてくる。ようやく路線バスがやって来たのだろう。

 急に現実に引き戻されて恥ずかしくなってしまい、勢い任せで梧灯の胸を両手で押し返した。だが梧灯が松葉杖を落として片足立ちだったのに気づいて、慌てて中空に伸ばされたヤツの右手を掴むと、体重全てを使って倒れかけの梧灯を引っ張り起こした。

 ああもう、こんな雑な感じで手を取るはずじゃなかったのに。野暮ったいたらありゃしない。

 そうこうしているうちにバスが到着してしまい、後部ドアが観音開きされた。

 俺たちが唖然として顔を見合わせていたら、「乗らないんですかぁ?」という間の抜けた運転手の声が聞こえてきて、慌てて「乗ります!」と返事をした。

 俺は地面に落ちた松葉杖を拾い上げると、一足先にバスのステップに乗り込む。

 そうして、片足立ちになっている梧灯へと改めて手を差し出した。

「行こうぜ、相棒!」

「……うんっ!」

 強面の風貌に似合わない、無邪気な笑顔を浮かべて俺の手を掴み返す梧灯を車内へと引っ張り上げる。

 梧灯がケガ人だと気づいたのか、運転手は俺たちが優先席に腰掛けるのを見届けてからバスを発進させた。

 道の両脇を木々で囲われ、碌に日も差さない暗がりな道をバスはゆっくりと突き進んでいく。

 しかし、この霊園を離れればすぐそこには初夏の日差しが眩しい田舎町が広がっている。神妙な雰囲気ともすぐにサヨナラできるはずだ。

 この道の先につながっている学園都市に、いつか必ず梧灯も連れて遊びに行こう。どんなに嫌がったって必ず鶏冠井とのわだかまりを解消させてやる。家族間のモヤモヤなんて母さん一人だけでもゲップが出るほどうんざりなのだから。

 その母さんとだって、いつか面と向かって話す機会を設けたい。俺の正直な気持ちを茶化さずきちんと聞いて欲しい。それくらい高望みでも何でもない、あれでもれっきとした親子なんだから。

 未来は明るく、無限の可能性が広がっている……なんて大言壮語なことを宣うつもりはない。俺たちの行く末には、そこいらの人たちとはまた全く違った形の苦難が待ち受けているに違いない。

 でも、今ならそんな苦難さえ何とかなるんじゃないかという気分になってしまう。

 横長な座面の三分の二近くを占領している隣の巨漢を見上げると、「ん?」という野太い声でも聞こえてきそうな表情を返してくる。

 相棒の絆は永遠、か……

 いつかどこかで、誰かからそんなクサイ台詞を聞いたような気がするが、こいつとならそれも悪くない。

 バスの揺れが疲れた身体を睡眠に誘う。俺は眠気に導かれるままに、梧灯の肩を枕にしてひと眠りすることにした。

 梧灯はそれを何も言わずに受け入れてくれるし、ここで寝入ってしまったとしても、起きたら必ず梧灯がそこにいると信じられる。

 こんな穏やかな日々を、取り立てて何もないような日常を、当たり前のように送ることは、今やただの夢物語ではないのだ。

 俺はそれを信じる。信じて前に進む。

 だから今は、そのための一休み。

 地元に着いたら何をしよう、授業の予習でもするか、それとも先に梧灯から教わったチャーハンでも作って一緒に晩飯でも食おうか――さまざまな希望は混ざり合って、胸の内を暖かに満たしていく。目覚めの時を期待しながら、俺はゆっくりと眠り落ちるのだった。




――完――



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