44 OTHERS -10-『愛執の脚本《シナリオ》』

 時刻が深夜零時を回るころ、私は一人酒をあおっていた。

 といっても、取引先との接待や商談で普段使っているような高級店でもなければ、華美なグラスにビンテージもののワインが注がれているわけでもない。場末の小規模な食堂のカウンター席で、何の特徴もない瀟洒なコップに注がれた日本酒を口にしているだけ。普段は二十四時間休みなくグループ企業全体の経営状況を見張っていなければならないだけに、オフの時間はこうして誰に気兼ねするでもなく羽を伸ばしている。

「へへ、お嬢ちゃんは何をしても絵になるってぇのに、こんな場所じゃあ似合わねぇよなあ」

 酒のつまみとして頼んでいた田楽をテーブルに置きながら、店主が朗らかに声をかけてきた。

「こんな会社の下っ端やら、工場の若い衆が飲み食いするような場所じゃあ、お嬢ちゃんの気品が霞んじまうようで申し訳ないったらねぇ」

「よしてくださいお義父さん。これでも故郷フランスでは下町みたいな下流育ちだったんです。こちらの方がよほど性に合っているんですよ」

「そういうもんかい? まあワシとしちゃあ、お嬢ちゃんみたいな子がウチの飯を美味しそうに食ってくれるだけで鼻高々なんだがよぅ」

 真っ白な髪を気恥ずかしそうに掻きながら、店主は店仕舞いの作業へと戻っていった。

 この食堂の店主――亡き夫の伯父にして育ての親である夏目氏には、私が日本で活動する際の拠点の一つとして協力してもらっている。

 私がこの店に誰かを連れてくるときは、相手の信頼性を見極めるときと決めている。まわり中が敵だらけの私にとって、百パーセント味方になってくれる身内のテリトリーで事を進められるのはそれだけで有益だった。

「それで、あンときの坊主はお嬢ちゃんのお眼鏡にかなったのかい?」

 食器を洗いながら夏目氏が声をあげた。

「ええ。彼になら娘を任せても問題ないと思っています」

「だがそのぅ、性同一性障害……だっけか? ワシには難しいことはわからんが、心が男の女と、男の相方っていうンは、そう上手くいくもんなんだろうか。お嬢ちゃんの弱みにならんよう会わないように気ぃつけちゃいるが、ジョスリーヌちゃんはワシにとっちゃ孫娘だ、これでも心配しとるんよ」

 夏目氏の心配も尤もではある。私がアキラからゴトー君の件で依頼を受けたとき、最初に心配したのはまさにそのことだったからだ。

 ゴトー君が娘の状態について理解があるのは百歩譲って納得してもいい。しかし、そうは言ってもたかだか十七歳になりたてのお子様レベルの理解でしかない。そんな彼が本当に娘のことを想って行動できると信頼するには根拠として不十分過ぎた。

 アキラには申し訳ないけれど、私は私なりの方法で彼を試すほかなかったのだ。

「袴田梧灯君はとても誠実な少年でした。不幸にも周囲の悪意ある人々によって歪められこそしていましたが、余計な手出しをされなくなれば本来の人となりへと戻れるでしょう。娘も彼をいたく気に入っているようですし、きっと良いパートナーになってくれると期待しています」

「お嬢ちゃんがそこまで人を褒めるたぁ、地震でも起きちまうんじゃねぇか?」

 呵々と笑う夏目氏の姿は、亡き夫の笑い方とよく似ていた。

「それにしてもあン時は驚いたぜ。あの坊主を店に呼びつける何時間も前にお嬢ちゃんがやって来て、厨房を貸してくれなんて言うんだからよ。それも坊主の心を折るために飯をぶちまけたいからなんて、お嬢ちゃんの頼みじゃなかったら絶対断ってたよ」

「あれは……やりすぎるくらいでなければ、彼のような賢しい少年を動揺させることはできないと思ったからで……」

「でもさすがに人の作った飯を台無しにすンのは抵抗があったんだろ? まったく妙なところで律儀なんだからよぅ」

 故郷フランスでアキラや夫に出会った頃も、二人にはよくそう言ってからかわれたものだ。

 いまとなっては、こんなふうに気さくに接してくれる人は義父しかいない。キリヲは恩義があるからと言って出会った時から十数年間あの調子だし、娘に至っては毛嫌いされているせいで親子らしい会話すらできない。

 まったく自分が嫌になる。私が歩む覇道が私を孤独にすることはわかりきっていたのに、それでも虚しさを感じてしまうなんて。

 夫の死後、夫の事業を引き継ぐにあたって、私は人並みの幸せは全て捨てると決めた。

 生涯関わらないと心に誓ったはずの実父に頭を下げ、組織の一兵卒に成り下がったあのとき考えていたことは、いかにして夫の無念を晴らすかということと、どうすれば娘を守り切れるかということだけだった。

 同士の誰もが嫌がる極東を拠点としたのも、親友との繋がりを覆い隠してきたのも、すべては目的のため。

 ようやく憎き実父を追い落として実権を握りこれからというときに、再会した親友は病に瀕していた。

 昔からそうだった。私を愛してくれた人々は皆、死神にでも魅入られたかのように不幸になっていく。母も、夫も、ついにはたった一人の親友まで。大切な人々が幸せでいて欲しくて、守りたくて、それだけを考えて我武者羅に力を求め、現在の地位にまで上り詰めても、不幸の連鎖は終わらなかった。

 それでも娘だけは守りたい。ならばどうすればいいのか。

 私が出した結論はこう。私を愛する者が不幸になるのなら、私が愛する相手から。娘が幸せになるための障害として、倒すべき怨敵として私が立ちはだかり続ければ、娘は愛する誰かと手を取り合って戦おうとするだろう。

 そのために私は、娘の理解者である道を切り捨てたのだから。

 そもそも私は、ジョセが女だろうと男だろうとどちらでも構わなかった。私にとって重要なのはあの子が私と愛する夫の血を受け継いだ掛け替えのない存在だということだけで、あの子の心の性別が云々などという話はどうでもよかったのだ。

 自分が男であると主張し、その通りに振る舞いたいというのなら好きにすればいいとすら考えていた。

 しかし、娘は法律上も男であること――つまりは性別適合手術を受けることを望んでいた。

 まったくおかしな話だ。自分が思うように生きるために周りの目を気にして、不完全な法律に合わせて健常な身体をわざわざ切り刻むなんて、不合理にもほどがある。健康上のリスクを負ってまで望みを叶えたとしても、その先に幸せがあるとはどうしても思えなかった。

 だからアキラから受けた依頼が修正を余儀なくされたとき、もしやこれはチャンスなのではないかと閃いた。

 私が執拗にゴトー君を追い詰めれば、彼を守るために娘の望みを捻じ曲げることができるのではないか。私とよく似て強情なあの子なら、たとえ自己犠牲を払ったとしても、大切な人を優先させてくれるのではないかと。

 かくしてすべては私の目論見通りになったというわけだ。

 今回のことで娘は深く傷つき、より一層私のことを憎んだだろうけれど、それで娘が幸せになれるなら何ら問題はない。

 何故なら私は、娘が幸せを勝ち取ることができるなら、いつ討ち滅ぼされても構わないのだから。

 私はテーブルの上にお勘定を置いて立ち上がる。

 夏目氏はいつも息子の嫁から飯代は取れんと言ってくれるので、これは店を貸切りにしてくれた手数料ということにしてある。そうとでも言わないと頑として受け取ってくれない真っ直ぐな気性も、在りし日の夫を思い起こさせる。

 生まれたばかりのジョセを抱えて未亡人となった私を、夏目氏をはじめこの町の人々は本当に快く迎え入れてくれた。私が闇の世界に身を置いて良かったと思えた数少ないことのひとつに、町に迫っていた再開発計画を廃止に追い込んだことがある。これでこの人たちに恩を返せたとは思っていない。私に付きまとう死神がいつ義父たちに牙を剥くかわからない以上、目を光らせ続けなければならないのだから。

「またいつでもおいでよ? 町内会のみんなもお嬢ちゃんに会いたがってたんだから」

 軽く会釈してから私は店を出た。

 もう三月に入って十日ほど経つのに夜半はまだまだ冷え込む。アーケードを抜けた先の路上で目当ての車を見つけてホッとした。

 私の姿を視認するや、助手席から降りたキリヲが素早く後部座席のドアを開く。

「お疲れ様です」

「こんな遅くまでありがとう。進捗を聞かせてくれるかしら」

 私とキリヲが車に乗り込んだあと、車は夜の町を走り出した。

 何の変哲もない、どこにでもあるような長閑な商店街だが、それでも夫が生まれ育ち、愛していた故郷だ。私の目のうちは誰にも手出しさせるつもりはない。

「さっそくですがご報告します」

 助手席からキリヲの凛とした声が聞こえてきて、一瞬の郷愁から引き戻される。

 ここからは夜の闇よりも色濃く暗澹とした現実の話になる。

鶏冠井カエデむつらの関わった犯罪の証拠はすべて我々が確保いたしました。これで警察の捜査の手が及ぶことはありません。父・八代および母・みどりについても説得を終えています。今後、みどりが我々の要求に従って業務を受託することを条件に、娘の件は不問とすることで話がまとまりました」

 本来なら娘に仇名した者を捨て置く道理などない。しかし、娘が懇意にしている友人の家であることや、ゴトー君の父君である鶏冠井医師センセイの家でもあるため、彼らについてはかねてから念入りに身辺調査をさせていた。すると驚いたことに、市井に置いておくにはもったいないほどの金の卵が埋もれていることがわかってしまった。

 鶏冠井家の金回りを調査していると、大学病院の医師をしている夫の給与収入だけでは説明がつかないほどの収益があった。詳しく調べ直してみたら、夫の資産の数倍にあたる金融資産が妻の名義で保有され、その利子や運用益を得ていることが判明したのだ。

 そこで鶏冠井みどりの学生時代まで遡って調べたところ、彼女の大学ではある一定時期だけ突出して、各分野の学術論文が革新的との評価を得ていることがわかった。その数は七本におよび、提出者はすべて別名義になっていたものの、そのいずれも彼女が片手間に書いたものだったと名義人が口を割った。

 本来ならば今ごろ何かしらの分野で名声を得ていたであろう才女が、夫と娘に奉仕するためだけにその才覚をひた隠しにしていた。

 こんな事実を黙って見過ごすほど盆暗でいるつもりはない。利用できるものはすべて利用させてもらう。たとえ娘の友達の親だろうと娘の相方の身内だろうと関係ない。

 しかし、あれはとんでもない荒馬だ。操縦を誤ればこちらに噛みつかないとも限らない。それで娘に累が及んでは何の意味もない。

 とはいえ、あの狂人たちにはそれぞれ最適な餌があるのも事実。愛で動く人間は行動原理が明確でわかりやすい。彼女たちの逆鱗に触れない範囲でコントロールすることも、大きな利を得ることも私にとってはとても容易い。

 直近でみどりに任せられる案件を数件ほどピックアップしてキリヲに伝えたあと、報告の続きを促した。

「次に袴田創建グループについてですが、さきほど議決権の過半数に至る株式の買収が完了したとの報告がありました。まもなく現会長夫妻の贈賄の証拠も報道各社へリークさせる予定ですので、ターゲットの命運は尽きたと言って差し支えないかと。詳細な日程についてですが――」

 キリヲの報告を聞きながら、車窓の外で流れていく対向車線のライトへ目を向ける。網膜に光の影を焼き付けて、車は一瞬で視界から消えていく。誰も時の流れを止められないのと同じように、ただそこにあったという記憶だけを残して消えてしまう。

 母との記憶も、夫との逢瀬も、長い時の中で少しずつ薄らいでいく。自分を構成しているパズルのピースが欠落していくような喪失感を覚えているうちはまだいい。本当に恐ろしいのは、忘れてしまったこと自体を思い出せなくなることだ。

 私は瞼を閉じ、数か月前の経緯を思い出す。あの人のことを決して忘れぬように、忘却の摂理からわずかでも逃れるために。

 それは昨年の秋ごろ、室町大学付属総合病院で養生していたアキラに面会しに行ったときの出来事だ。

『つまり、誰にも見つからないよう秘密裏に長崎故郷へ送り届けてほしい?』

 窓辺で病室の下に広がる雑木林を見下ろしながら、アキラは言った。

『シルヴィには助けてもらってばかりで心苦しいのだけれど、お願いできないかな』

『どうして今すぐなの? 妹さんの命日は一か月以上も先なのでしょう?』

『お墓参りだけなら、そうだね。なにせ二十年近く帰っていないんだ、いつお迎えが来るかもしれないと思うと、気が急いてしまってね』

 冗談めかして言っていたけれど、それが建前であることはわかりきっていた。

『それは、最後までゴトー君の傍に居てあげることよりも優先しなければいけないことなの?』

 言外に責める口調になってしまい、思わず口元を手で覆ってしまった。

 同じ一人親として生きてきた私たちにとって、子供の存在は自分の存在理由そのものと言ってもいい。二つとない大切なものを投げうってまで果たすべき目的があるとは信じがたくて、事情を聴かずにはいられなかったのだ。

 アキラは振り返ると、いつもするように遠慮がちに目を伏せた。

『……僕がここに居座り続けることで深く傷ついている人がいる。僕はここに居るべきじゃないんだよ』

 それが鶏冠井みどりのことを指していることはわかっていた。フランスから帰国したアキラが彼女のために東京から離れたということも、アキラが彼女に対してがあることも、全部わかっていたつもりだ。

 それでも、血を分けた実の子を差し置いてまで気に掛けることじゃない。

『わからないわね。あなたはいま、投薬と治療によって無理やり延命しているにすぎない。ここを出ていくということは、自ら死期を早めるということなのよ。たとえ残りわずかな時間でも、いまあなたが傍にいてあげることが、この先たった一人で生きていかなければならないゴトー君にとってどれだけの支えになるか。わからないあなたじゃないでしょう?』

『シルヴィがそれを言うのかい? 君だって本当はの傍に居たいのに、敵役を演じ続けているじゃない』

『……はぐらかさないで頂戴』

 ふっと目を逸らした私に対して、アキラは申し訳なさそうにごめんとつぶやいた。

『これが自己満足だということは僕もわかっているんだ。それでも、との約束は果たさなければならないんだよ』

 夕日がかかった山の稜線を見渡すアキラがどんな表情をしていたのかはわからない。

 しばしの沈黙のあとアキラは、少し昔話に付き合ってくれるかなと言って静かに語り始めた。

『昔々あるところに、それは仲の良い2人のきょうだいがいました。青年は仕事で家を空けがちな両親に代わって一回り年下の妹の世話を焼き、妹もまた青年をよく慕ってくれていました。青年は妹が生まれる前、両親に連れられた洋食屋での食事が忘れられず、幸せの味を再現しようと料理人の道を歩み始めていました。青年は誰にも明かすことのできない大きな秘密を抱えていましたが、いつも寂しい思いをさせている妹を不安にさせないためにも、この秘密は生涯抱えていくのだと覚悟をしていました。それでも青年は幸せだったのです』

 あの秋の夕暮れ時、アキラの物悲しそうな後ろ姿がずっと脳裏に残っている。

『しかし、幸せな時間はそう長くは続きませんでした。妹が小学校を卒業する頃、母親が事故で亡くなったのです』

 事故のことは当時の地方紙でも報道されていたことが確認できている。アキラの実家が経営する会社の社員が資材運搬用のトラックを運転中に居眠りし、母親が轢死したという事件。その経緯が社会欄の隅に十数行だけ記載されていた。

 だが当時の事件関係者を見つけ出し、事件の裏側を問い詰めたところ、その実態が報道内容とはかけ離れていたことがわかっている。

 当時、袴田創建グループの跡取り候補だったアキラの父親は、愛人だった継母を籍に入れたくて母親へ執拗に離婚を迫っていたらしい。しかし、アキラたちを育てるために母親はどんな目に逢わされても離婚に応じなかった。事故が起きたとき、まわりの誰もが父親の手引きを疑ったが、政財界にまで強い影響力を持つ袴田創建の長子を追及できる者は、警察を含めて誰一人としていなかったという。

『母親の喪が明けぬうちに父親は再婚しましたが、継母はきょうだいを大層嫌っていました。特に幼い妹には口にするのも憚られるほど辛辣に当たり散らしました。青年は妹を守るため毎日のように継母と争いになりましたが、父親は常に継母の味方をし、青年の反論を暴力でねじ伏せます。来る日も来る日もその繰り返し。きょうだいに安息の日はありませんでした』

 あの日の病室には乾いた秋風が吹きこんでいた。

『そしてある日の朝、青年は妹がベッドから抜け出していることに気が付きました。また継母から酷い虐めを受けているのかもしれないと心配になり、青年は家中隈なく探します。しかし、妹はすぐに見つかりました。彼女は、納屋の梁にぶら下がって揺れていました。まるで、テルテル坊主みたいに』

 身震いしたのは、秋風が冷たかったからだけではない。

 アキラが長年抱えていた疵の一端が垣間見えたからだ。

『必ず守ると約束したのに、みどりはまだたったの十三歳だったのに、僕はあの子を守ってあげられなかった』

 窓に背を向け振り返ったアキラの眼には涙が浮かんでいた。

みどりちゃんは妹とは違う、そんなことはわかってる。でも彼女と出会ったとき、今度こそ守らなければならないと、そう思ったんだよ。だから僕はあのとき、首を括ろうとした八代君が――』

 アキラは頭を振り、言いかけた言葉を飲み込んだ。

 病でやつれ、見る影もなく痩せこけたアキラの鬼気迫る様子に、私は何も言うことができなくなってしまう。

『違う、そうじゃない。僕は自分の寂しさを埋めるために八代君の哀しみを利用した。みどりちゃんを悲しませた。そうまでしてあの子を産んだ罰が下ったんだ。八代君もみどりちゃんも梧灯も悪くない。みんな、約束を果たせなかった僕が悪いんだ』

 アキラがこんなにも取り乱す姿を見たのは、二十年来の付き合いの中で初めてのことだった。

『僕がいなくなりさえすれば、すべて丸く収まるんだよ。みどりちゃんは八代君と幸せに生きていける。梧灯にだって、きっとジョーくんが付いていてくれる。僕の代わりにあの子が梧灯を――』

 あの時アキラが抱いていた想いはいかなるものだったのか。不義を成した親への義憤か、亡くした妹への哀惜か、守りたかった女性への慕情か。

 恐らくそれらすべてが渾然一体となった中、ゴトー君の名前を口にしたその一瞬、ただひとえに息子への愛情を感じさせたのは――

 親としての責任を果たせないまま逝く身勝手な自分はきっと地獄に堕ちるのだろうだなんて、心底悔しそうに顔を背けてしまったから。

 私はたまらずあの人を抱き留めた。

 その身はとしては不健全なほど骨ばっていて、今にもぽきりと折れてしまいそうだった。

『あなたが地獄に堕ちるなら、そもそもこの世に神も仏もいないのよ』

 私と夫はアキラのお蔭で縁を結ぶことが出来た。ずっとそのことに感謝し続けてきた。アキラがその手で幸せにしてきた人はきっと星の数ほどいるはずなのに、こんな良き人が堕ちる地獄なんてあってたまるものか。

 かくして私はアキラの願いを叶え、逃避行の手助けをすることにした。

 移動手段の確保や警察への根回し、長崎での隠れ家や専門医の手配など、やれるだけのことはやったつもりだ。

 当初の見立て通り、設備の整った病院から離れた隠遁生活は一か月ほどしかもたなかった。あの秋の時点ですら生きているのが奇跡と呼べる病状だったことを考えれば、大往生と言っていいのかもしれないけれど。

 妹さんが眠る墓地でお迎えが来たんだもの、今頃きっと向こうで再会の手料理でも振る舞っているに違いない。

 私は瞑っていた瞳をゆっくり開く。

 一通りの業務報告を終えたキリヲが、フロントミラー越しに私の顔色を窺っていたことに気が付いた。

 切れ長な瞳が何かを訴えかけるように見つめていたので、私は微笑み返して話すよう促した。

「お疲れのところ恐縮ですが、お聞きしたいことがあるのです」

「なにかしら改まって」

「袴田創建を落としたことで我々の地盤は更に強固なものになりました。しかし、今回のように急進的なプランですと不要な敵を増やしてしまったことも事実です。騒乱の種は目立たず植えていかなければ、我々への疑いの目はより厳しくなるでしょう」

「何が言いたいのかはわかるわよ。トップ自ら私情を優先するようなやり方を続けると造反者が出かねないと言いたいのでしょう?」

「はい。しかし、その……」

「珍しいわね、キリヲが言い淀むなんて。怒らないから言ってみなさいな」

 まるで子供でもあやすかのように言ってみたものの、キリヲの表情は曇ったままだった。

 彼女が何を気にしているのかは言われずともわかっている。

「社長は、すべてご承知のうえでアキラ氏のシナリオに乗ったのですよね?」

「もちろん。、わかったうえで舞台にあがったわ」

 私は迷わず即答した。

 もともと私たちは、九州地方に票田を有する袴田一派の牙城を突き崩す計画を立てていた。ビジネス抜きにしてもあの一族――特に継母側の人間は数年前にアキラ達の住まいを放火した件に関与していた疑いがあった。彼らを野放しにすることは、ジョセやゴトー君の未来に禍根を残すことになりかねない。そう遠くないうちに彼らを破滅の道へと招待するつもりではあった。

 しかしそれをアキラに悟らせるようなマネは一度たりともしていない。

 それにも関わらず、アキラは私の義侠心を掻き立てるようなエピソードを、あの絶妙なタイミングで言い聞かせた。まるで私に早く計画を実行に移せと言わんばかりに。

 考えすぎかもしれない。でも、そもそも私たちが西日本側への勢力拡大に本腰を入れ始めたのも、アキラの病状が明らかになったあとなのだ。

 私がゴトー君やジョセに試練を課したことも、鶏冠井みどりをこちら側へ取り込んだことも、そのすべてがアキラの誘導によるものだったのだとしたら――

「社長はご不快に思われなかったのですか。私には、あの方がまるで自らの死まで利用して、関わった全ての人間の運命を自在に操っていたように思えて……恐ろしいのです」

 キリヲが慄くのも無理はない。もしも本当にそんな芸当が可能だとしたら、人知を超えた悪魔の所業だからだ。

 だから私は、敢えてそれを一笑に付す。

「そんな大業なことをあの人が考えていたわけないじゃない。確かに私はあの人の思惑通りに動いたのかもしれないけど、あの聖人のようなアキラにも人並みに復讐心があったなんて、ちょっと嬉しかったのよ。だからいつもより少しばかり忖度してあげた、それだけのことよ」

 キリヲは不承不承といった様子だったが、私のお道化た様子を見てこれ以上の質問は無粋と思ったのか、この話はここで打ち切りとなった。

 キリヲの言う通り、もしかしたら私たちは、アキラが指揮棒タクトを振るカドリールを踊らさせられていただけなのかもしれない。

 だけど、それはそんなに悪いことなのだろうか。

 自分の為だけに相手を利用することと、相手がより良い方向へ進めるように導くことが、等価であるとは思わない。

 実際、アキラが望んでいたのはゴトー君やみどりが幸福であることだ。

 だからこそあの人は、自分がこの世を去るその時まで、自らが侵されていた病魔の正体を決してゴトー君には告げさせなかった。

 ゴトー君には真実を知る権利があったのかもしれない。でも、それを伝えたところで彼が幸せに生きられるはずもない。二人の家が焼かれた数年前には既にアキラの身体は死に至る病に蝕まれていて、延命のためには乳房を切り落とすしかなかったなんて伝えたところで、今さら何の意味がある。

 愛する子供の目をごまかし、耳を塞ぎ、取り合う手すら用意してでも、幸せに生きていて欲しい。歩んでほしい未来があるとアキラが望んだのなら、私はその遺志を――愛を尊重したい。

 もちろん、愛があればすべてが許されるなんて言うのは傲慢だ。

 アキラの愛は、ゴトー君のためとはいえ、ジョセにへと舵を切らせてしまうことでもある。アキラがそれを手放しに容認できたはずがない。あの人はきっと、最期の瞬間まで迷い続けていたのだと思う。

 だからこそ、あの人が遺した愛の行く末は私が見守っていくと決めた。

 彼らがこの先どんな未来を描くのか、はたまたその愛でこの私――シルヴェーヌ・カトル・ルミエールという巨悪を破滅へと導いてくれるのか。

 ふふふ……愉しみが尽きることは当分なさそうね。

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