43 SCENE -21-『ゴトー』

 梧灯は真っ暗な闇の中で目を覚ました。

 あたり一面が墨で塗りつぶされたかのように黒で覆いつくされて、どこが地面なのかもわからない。

 それにもかかわらず、自分の両手や身体だけはしっかりと視認できる。

 これはおかしい、そう感じるよりも先に訪れたのは奇妙な納得感だった。

(ああ、僕はようやく死んだのか)

 ここはおそらく死後の世界とか三途の川とか呼ばれる類の場所なのだろう。人は死ねば虚無に還るとばかり思っていたのに、まだ続きがあるとは。

 死んでまで意識が続くとしたら、ここはむしろ地獄と呼べるのかもしれない。生きている間も地獄にいる気でいたというのに、死んでからも地獄にいなければならないなんて。

 思わず苦笑が漏れてしまう。

 いつまでこの場所にいなければならないのか想像もつかないが、もう何もかもがどうでもいい。自分はもう充分に生きた。後悔はない。

 後悔などない、はずだ。

 ただ、もしもひとつだけ悔いがあるとすれば、最後の最後に『彼』を悲しませてしまったことだろう。

 自分の矜持を捨ててまで梧灯に生きろと言ってくれたのに、手を差し伸べてくれたのに、その手を振り払ってこの場所に来た。

 『彼』の期待に応えられなかったこと。『彼』と共に生きる道を選んであげられなかったこと。それだけは申し訳なく思っている。

 でもこれでいい。これで『彼』は今度こそ自由に生きることができる。

 腐食した足枷など捨て去って、自分の足で歩いていくことができるはずだ。

 梧灯は目を閉じた。もう何を見ることも聞くこともない。

 しかし、そんな梧灯の虚ろな思いはあっさりとを打ち砕かれる。暗闇の中、瞼を透過するほど強烈な光明が灯ったのだ。

 眼を開くと、まばゆい光の奥には一面に草原が広がっていた。ところどころ植えられた木々は天を衝くかと思えるほど背丈が高く、背中をのけぞらなければ頂上を見上げるのも困難に思われた。

 そんな木の一本に、真っ白な何かがへばりついている。

 よく見るとそれは白いワンピースの布地で、へばりついていたのは小さな子供だったのだ。

 子供はただまっすぐに上を見据えて、節くれだった木の幹を両手両足でよじ登っていた。

 梧灯は暗闇の中、じっとその光景を眺めていた。

 これは始まりの記憶。今となっては梧灯しか覚えていない過去の記録。

(そして僕の、たった一人の友達との思い出)

 子供の視線の先では枝に引っかかった帽子がひらひらと風になびいていた。

 なんとか枝の地点まで登り切った子供は、帽子に向かって手を伸ばす。

 あとちょっと、ほんの数センチで手が届く。

 子供の指先が帽子にかすったその時、ひときわ強い風が吹いて、帽子は枝から離れて飛んでいってしまう。

 木の根元からその一部始終を見ていた幼少の梧灯は、慌てて帽子が落ちていったほうへ駆け出した。

 帽子はゆるやかに草原へ着地したものの、次いつ強風が吹くかわからない。

 見ず知らずの子のために必死に走る必要などなかったのかもしれないが、当時の梧灯にはそうすることが当然のように思えたのだ。

(きっとこのころにはもう、母さんの教えの影響があったからなんだろうな)

 梧灯が帽子を拾い上げた瞬間に突風が吹き抜けていった。土埃が目に入って涙目になってしまったが、帽子がこれ以上飛んでいかなくてほっとしたことを今でも覚えている。

 だがその時、木の枝にしがみついていた子供がバランスを崩して木から落ちていくのが見えた。

 危ない、と声を上げることすら間に合わず、子供は足から地べたへ落下した。

 幸い枝の位置がそれほど高くなかったこと、両足をそろえて着地できたことで、一見すると大きなけがはなさそうに見えた。

 それでも両足の衝撃が大きすぎたのか、子供はぎゅっと目をつぶって痛みに耐えているようだった。

 梧灯はその子のことが心配になり、大急ぎで木の根元へと向かった。

 頭半分ほど背丈の小さなその子は、うめき声をかみ殺すばかりで、泣き声を上げることもない。もしかしたら年下かもしれない幼児にどう接したらいいかわからず、梧灯はおずおずと拾った帽子を差し出すことしかできなかった。

 まだ足が痛いのか、その子供はとてもゆっくりとした動きで帽子を受け取ると、おもむろに口を開いた。

「あとちょっとで、とれたんだ。ジョーひとりで、できたんだ」

 声を震わせながら俯くその子の様子があまりに気の毒で、どうにかして元気になって欲しくて、梧灯はなんとか話しかけようとした。

 しかし幼少期から口下手だった梧灯はうまい言葉がみつからず、ただおろおろと子供の前で右往左往することしかできない。

 そうこうしているうちに足の痛みは治まったのか、子供の眼にはまだ涙が滲んでいたけれど、その子はそれを乱暴に腕で拭い払った。そして、困り果てた梧灯の挙動を見てあどけなく笑ってくれた。

 二人はそのあとしばらく木の根元に座り込んで話をした。梧灯は母親の帰りを待ちかねて職場へ向かう途中だったことや、母親はどんなご馳走でもたちどころに作ってしまうすごいシェフなんだと。

 一方でその子は、自分の母親のことはよくわからないと言った。会えるのは月に3・4回だけで、いつも母親の部下という人がお世話してくれる。しかも、母親の仕事の都合で頻繁に引越しをしなければならず、誰と仲良くなってもすぐに離れ離れにされるからつまらない、らしい。

 かくいう今日も引越しのために町を離れなければならないのだとか。だから、町から居なくなる前に母親たちの目を盗んで、もう一度だけ木に登りに来たのだという。

「かーさん、ジョーが木登りするのスゲーおこるんだよ。はしたない? からやめろって」

 その後も互いの母親の話や、身の回りの話をした。互いに数か月後には小学校に入学するのだと知って同い年だったのかと梧灯は驚きもしたが、二人の話は夕暮れ時まで続いた。

 夕べのチャイムが公園中に響き渡ったころ、スリムなスーツを着こなした年若い女性がこちらに向かって歩いてきていることに気が付いた。

 子供は「げぇっ」と毒づいたものの、すぐに立ち上がってお尻の泥埃を叩いた。

 梧灯もそれに合わせて立ち上がる。女性がその子を迎えに来たことはすぐにわかった。

「なあゴトー。おまえけっこーおもしろいヤツだから、ジョーの『ブカ』にしてやるよ」

 それなら離れても、と子供は言いかけて口をつぐんだ。その声には心なしか元気が感じられなかった。

 おそらくもう、これまでの友達のように二度と会うことはない。そう思ったのかもしれない。

 だから梧灯は――

「『あいぼう』になら、なる。あいぼうのきづなは、えいえんなんだって。だから――」

(またいつか会おう、そう言って――)

 光の窓は収斂し、かつての光景は闇の中へと消えていく。

 暗闇の中に取り残された梧灯は、もう見えるはずもない草原をじっと見つめ続けていた。

 はじめて『彼』と出会ったときのことは今でも鮮明に思い出せる。あのとき梧灯は不思議なことに、草原で偶然出会ったその子を見て「」と思ったのだ。木から落ちてきたその子は真っ白なワンピースを着て、白い肌によく映える黒髪を肩の下まで伸ばしていたというのにである。

 どう考えても可愛らしい女の子にしか見えないはずなのに、その子と言葉を交わすより前から、何故か梧灯はその子が男の子であると確信していたのだ。

 当時から梧灯は大きな身体をからかわれ、友達はまったくといっていいほどいなかった。しかしどういうわけか、この子とは仲良くなれるかもしれない、友達になりたいと、そう思ってしまった。

 いま思えば、それは『彼』が自分の母親と同質の存在であることを幼心に見抜いていたからだったのかもしれない。そういう意味でも梧灯が『彼』の中に自分の母親を見ていたことは決して否定できない。

 しかし、しかしそれでも、こんな自分と仲良くしようとしてくれた人を忘れられなかったことまでもが不実だったとは思えない。思いたくなかった。

 学校のどこにも居場所がなくても、誰から迫害されようとも、自分には相棒と呼ぶにふさわしい友達がいたのだと思い起こすだけで、孤独な日々も我慢できた。

 『彼』に教わった『ジョスリーヌ・ナツメ・ルミエール』というの不思議な響きを反芻しながら、いつか再会することをずっと夢見てきた。

 あれから10年近い年月が流れて再び『彼』と巡り合ったとき、『彼』は梧灯のことを覚えていなかった。だがそれでも構わなかった。『彼』がこの地獄のような世界でも五体満足で生き延びてくれていた。それだけで充分だったのだ。

 しかし再会した当初の『彼』は、世界を覆う激しい排斥の重圧を受け続けて、『彼』本来の姿を押し殺してしまっていた。誰にも後ろ指をさされない完璧な女生徒を演じながら、『彼』はときおり冷め切った眼差しを覗かせた。他の誰も気づかないほど一瞬だけ現れる素の表情からは、言い知れないほどの虚無を感じさせた。

 このままではいけないと思った。かつて自分を相棒にすると言って手を取ってくれた『彼』の力になりたかった。心を守りたかった。

 そんな思い上がりの末路がこれだ。

 因果は巡る、人を呪わば穴二つ――言い方は様々だろうが、これが最初の志を喪った梧灯への罰であることは明らかだった。

 だが、そんなことはもうどうでもいい。こんな奈落に放り込まれたということは、もう生きる必要はないと判断されたということだろう。それならそれで構わない。最後の最後に『彼』を守ることができたなら、自分が生かされていたことへの恩も返せたはず。

 思えば『彼』との再会は果たして運命だったのだろうか。それすらもあの恐るべき麗人がもたらした謀略のひとつだったのではないのか。

 考えても詮無きことだとわかっているのに、どうしても『彼』のことを考えてしまうのは、きっとそれだけ未練があるからなのだろう。

 しかしすべては終わったのだ。

 梧灯は光の窓があった場所から背を向ける。目の前には相変わらず天と地の境すら判然としない暗黒が広がるばかり。

 ここが梧灯が行き着いた終着点。もはやどこにも行けなくても、『彼』の未来に幸多からんことを祈ることしかできなくても、この運命を受け入れる他ない。こんな何もない無間地獄のような真っ暗闇の中でいつまで正気を保っていられるかわからないが、それでも祈り続けたいと思う。

 どんな咎人だろうと、誰かの幸せを願う権利くらいはあっていいはずだから。

 たとえ二度と会えなくても、愛する人の幸せのためなら――

 込み上げた想いに呼応するように涙が次々とあふれ出す。

 泣くことなんて許されるはずがない。己のしでかした過ちの重さを考えるなら、本当に『彼』の幸福を願っているのなら。

 信義を尽くして祈ることだけが、最後にできるただ一つの償いなのだから。

 だが涙はいくら拭っても止まらない。たまらず梧灯は瞼を閉じたが、それでも涙はあふれ続けた。

 そうして梧灯が何度か目じりを拭っていると、突然視界に何かが現れた。

 驚きの余り息をするのも忘れてしまう。

 十数歩ほど先に、自分の肩ほどしか上背のない小柄な人が立っていた。

「母さん……?」

 往年のやせ細った姿ではなく梧灯が幼かった頃の、『彼』と出会った頃の母がそこにいた。

 母は手先の器用な超一流のシェフだったが、反面とても感情表現の苦手な人だった。相手のことを思うあまり容易に口を開くことができず、いつもぎこちない愛想笑いを浮かべていた。

 そんな母の姿が目の前にある。

 梧灯は無意識のうちに母に近づこうとしたが、その距離はいつまでたっても縮まらなかった。母はずっと立ち尽くしているままなのに、こちらが近づけば同じだけ向こうは離れていった。

 母は物悲しそうな、慈しむような眼で梧灯を見上げていた。

 その眼差しで、どれだけ歩を進めても母のもとにはたどり着けないのだと梧灯は察した。

 きっとこれは神が与えた最期の情けなのだろう。天国へ逝った母に、地獄に堕ちる息子を見送る機会を与えたのだ。

 もしくは、これはすべて既に正気を失っている梧灯が見ている都合のいい幻なのかもしれない。

 ならせめて、触れ合うことすらできないのならせめて、言葉くらい交わさせてくれてもいいではないか。

「母さんは、本当に幸せだった? 僕を産んだことを後悔しなかった?」

 幼いころからずっと黙っていた梧灯の本音。大切だからこそ言えなかった、聞けなかった言葉たち。

「僕は母さんから、『男としての袴田あきら』を奪ったんじゃないの?」

 後悔してもし足りない、撃ってしまった不実の弾丸。

「僕が母さんの胸の裡をあばかなければ、母さんは『僕の母親』のままでいられたんじゃないの?」

 梧灯のせいで蓄財を焼かれ、女性性と共に母親である矜持も奪われて、かといって男になることも選べなかった。梧灯を守るために、運命に翻弄され続けた母。

 梧灯の未熟さが、最愛の母をどっちつかずの存在に貶めてしまった。

 生前に母を『父』と呼び続けたのは、ありのままの母を受け入れるためだけではない。そんな後ろめたさがあったからなのだ。

 母は黙して語らず、ただ静かに首を横に振るだけだった。

 明確な否定の意思表示は自分を慰めるためのものにしか思えず、梧灯は食い下がる。

「どうして何も言ってくれないの? どうして僕を許そうとするの? 母さんはもっと言いたいことを言ってよかったのに、もっと自分自身のことを優先したってよかったのに、どうして人のことばかり気に掛けるんだよ……‼ 八代さんとのことだって、母さんは黙ったまま逝ってしまって……何もかもを母さん一人で背負う必要なんてなかったのに、どうして自分のことを大切にしてくれないんだよ。僕はただ、もっといろいろなことを話したかったんだ。母さんには幸せでいてほしかったんだ。ただ、それだけだったんだよ」

 母は申し訳なさそうに微笑み返すだけで何一つ応えてはくれない。

 同じ死後の世界に居るというのに、もう声を返すこともできないほどに彼我は分かたれてしまったというのか。

 それでも声をかけ続けようとする梧灯を止めるように、母はゆっくりと梧灯の後ろの方を指さした。

 さっきまで光の窓があった方向から、微かな光が明滅している。光はゆっくりと暗黒を侵食しはじめ、奥の空間から純白に塗りつぶされていく。

 やがて光は梧灯の足元まで到達し、梧灯の身体をも包み込む。彩色は徐々に薄れていき、透けた手のひらの向こう側に母の姿が見えた。

 白い光は梧灯と母との中間地点を等分するところで浸食を止め、母は変わらず暗黒の中に佇んでいた。

「母さんっ‼」

 溶けていく。消えていく。白に飲み込まれていく。

 堕ちるべき場所へ送られるだけならまだいい。ただこれが母との永遠の別れなのだとしたら、最後の最後まで何の言葉も交わすことなく離れ離れになることが堪らなく恐ろしかった。

「僕は――」

 たった一言で良い。あなたからの言葉が欲しい

 いや、そうではない。

 梧灯はこれまでの人生の中で充分すぎるほどの言葉を――愛を受け取ってきた。

 梧灯が本当に欲しかったのは、母から与えられる何かではなく。

 ただ純粋にひとつだけ。

 母が笑っていてくれることだけだ。

 下半身の色はすでに喪われ、伸ばした腕もわずかな輪郭を残して透けてしまった。

 白色は喉元まで這い上がり、ついには自分の声すらろくに聞こえない。

 それでも梧灯は裂帛の気魄で叫んだ。

「あなたの子供として生まれて、心から幸せでしたっ‼」

 やがて梧灯の視界も白に包まれていく。

 意識すら白に塗りつぶされていく、その刹那に。

「――――――」

 母はとびきりの笑顔を向けて応えてくれた。

 たとえ二度とその声を聞くことができなくても、母が言おうとしたことは伝わった。

 ありがとう――母の唇は確かにそう呟いていた。































 目が覚めると、やけに身体が重かった。

 ベッドで寝かされているようだが、両手両足の感覚がない。いや、厳密にはどれだけ動かそうとしてもわずかに身じろぐくらいしかできなかった。

 とても懐かしい夢を見ていたような気がするが、朧げな思考から記憶はすぐに霧散してしまう。あとには胸を締め付けるような寂寥感だけが残った。

 首を動かすこともままならないため、ピントの定まらない目を凝らしてひとまずまわりを見渡してみる。

 見慣れぬような、どこかで見たような天井を茫然と見上げていると、視界の端で吊り下がった布地が揺れた。

「ちょうど目覚めの瞬間に立ち会えるなんて、これも思し召しかしらね」

 見目麗しい異国の女性と、冷徹な雰囲気を放つ妙齢の女性がカーテンを開いて梧灯を見下ろしていた。

「社長、担当医を呼んでまいりますが――」

「少しだけ二人きりにさせて。彼にはちゃんと話しておかなければいけないもの」

「………………かしこまりました」

「もうキリヲったら、そんなに拗ねないで。彼とあの子とじゃそんなに心配なの?」

「………………いえ、そのようなことは」

「顔に出すぎ。仮にも雇用主相手にそんなしかめっ面しなくても」

「家族ですから。お二人とも、少なくとも私にとっては」

「私にとってもよ。後処理の方もよろしくね」

 妙齢の女性は異国の女性に一礼したあと、速やかに部屋から出て行った。

 混濁した意識がはっきりしてきたら、目の前の人物が何者かわかって目を見開いた。

 梧灯は思わず叫び声を上げそうになったが、唇に人差し指を当てられ、抵抗を封じられてしまう。

「無理に声を出してはいけない。あなたは一週間も眠り続けていたの。いまさら取って食おうなんて思ってないから、けが人は安静にしていなさい」

 異国の女性――『彼』の母であるシルヴィは、『彼』と瓜二つな顔で妖艶にほほ笑んだ。

 最悪な状況だが、こうも身体が動かなければ逃げ出すこともできない。

 梧灯は観念して起こしかけた頭を枕に沈ませた。

 慌てふためく梧灯の姿が愉快なのか、シルヴィは笑みを含ませながら話を始めた。

「まずはあの子、ジョセについてなのだけれど、お陰様で大事には至らなかったわ。あなたが身を挺してあの子の盾になってくれたおかげでね」

 ほとんど動かせない梧灯の右手を柔く握りながら、シルヴィは続ける。

「去年の秋も、そして今回も、あなたは自分を顧みずにジョセを救ってくれた。あの子の母親として、心からの感謝を」

 伏せた顔からは表情こそ伺い知れないが、ほんのわずかだけシルヴィの手が震えているように感じた。

 しかし右手を包んでいた温もりがなくなったころには、シルヴィは先ほどまでと同様の婀娜っぽい雰囲気のままだった。

「どこから話せばいいか迷うけれど、まずはあなたがキリヲに告げたことに対する解答から。お察しの通り、この茶番はすべてジョセとあなたのために仕組んだの」


「あなたのお母さん――アキラの頼みでね」


 何となく、そういう気はしていた。

 きっかけは本当に些細なことだ。シルヴィに初めて呼び出しを受けたあの夜、食堂で食べさせられた定食のチャーハンの味が、幼いころ母が作ってくれたものにとてもよく似ていた。

 母は自分の過去をあまり話したがらなかったが、フランスに修行に行っていた間にも、に料理を振る舞って感想を聞いていたということを何度か話してくれたことがあった。

 母が体調が悪化しているにもかかわらずしきりに『彼』との面会を望んだことといい、梧灯が自宅で包丁を手に取っていたところを取り押さえられたときといい、不自然な兆候はそこかしこにあったのだ。

「アキラと再会したのはちょうど一年くらい前、アキラの病状が明るみになった頃だった。それまでも時々、個人回線でやり取りしてたんだけど、あの人ったら自分が病気で苦しんでいることを一言も教えてくれなくて。たまたま仕事で北海道に行ったとき顔だけでも見に行こうと思ったら、もう手の施しようもないほど症状は進んでいたわ。すでに終末医療に切り替えることも検討しなければならなかったけど、鶏冠井カエデ医師センセイの強い希望もあって、東京で最先端治療を受けさせることにした。……アキラは望んでいなかったでしょうけれど、私も医師センセイもあの人には生きて欲しかったのよ」

 病院関係者から漏れ聞こえてくる母の莫大な治療費を負担していたのが本当は誰だったのか。もはや考えるまでもない。

「アキラは自らの死を受け入れていた。だけど、たった一つだけ心残りがあるからと、私にとある依頼をしてきたの」

 梧灯は病室の天井へと視線をずらしてから、シルヴィが語る経緯に耳を傾けた。

「自分が死んだあと、あなたが後を追わないよう見守って欲しい。できれば、とね。最初は随分と迷ったわ。私があなたの保護者パトロンになって欲しいと言うなら一も二もなく引き受けるところだったけど、ジョセにあなたを守らせて欲しいなんて言うのだもの。アキラはあの子が自分と同じ境遇だということを知っていたのに、どうしてそんなややこしい依頼オファーを投げるのかしらって。でもアキラの話を聞いて、私はその提案を受けることにした」

 母とシルヴィが旧知の仲だったなら、当然母は『彼』の存在を知っていたはず。もちろん、『彼』と自分が似通っていることも含めて。シルヴィはきっと『彼』のことについて、先達としての意見を母に求めたこともあっただろう。

 それでもこの麗人は、『彼』の生き様を認めようとはしなかった。

 それなのにどうしてシルヴィは母の提案に乗ったというのか。

 母の言葉を思い出しているのか、シルヴィは感慨深そうに息継ぎをしてから続けた。

「あなたはアキラと共に生き、アキラの苦悩を最も間近で見続けてきた人。だからこそ、あなたならジョセの苦悩に共感し、理解者になることができる。ジョセがあなたを守る騎士シュヴァリエになるなら、あなたはきっとジョセを守る侍になってくれる。私やキリヲの手の届かないところでジョセに危険が迫ったとき、あなたがあの子を守ってくれる。あの人はそう言ったのよ」

 実際その通りになったものね、とシルヴィは皮肉気に鼻を鳴らす。

「最初は半信半疑だった。いくら親友の頼みとはいえ、私にとってあなたは赤の他人。愛しの我が子と手を取り合わせるには信用が足りなすぎる。それでもあの人の頼みだから、色々と根回しすることにした。あなた達の引越し先のすぐそばにあの子の仮住まいをあてがったり、奨学金の申込やら高校の編入手続きやらがスムーズに済むようにしたり。ああ、もちろん編入試験を裏金で解決したりはしていないから気を落とさないでいいわよ。あの程度のハードルも越えられないようなら、そもそもあの子の側になんて置いておけないもの」

 何でも金の力で解決する汚らわしい金持ちの権化のような人間だとばかり思っていたが、妙なところで律儀なものだ。

 梧灯の呆れ混じりの感歎を知ってか知らずか、シルヴィは語り続けた。

「あなたが高校に編入してからは、必要以上の干渉は行わないつもりだった。ジョセがあなたに近づくようにこそ用意したけれど、そもそもあの子があなたを気に入らないのならそれまでだもの。そのときは鶏冠井カエデ医師センセイを介してあなたの生活を援助するだけでいいし、あの子をこの件に関わらせるつもりもなかった。だけど、あの子は何かと悪態をつきつつもあなたに心を許し始めていた。だから当初の予定通りこのまま陰に徹しようとしていたのに、あろうことか余計な害虫があの子に危害を加えようとしたものだから、計画が狂ってしまったのよ。このままではあの子は立ち直れなくなる。自身の身に起きたことと、あなたに濡れ衣を着せてしまった罪悪感で今度こそ潰れてしまう。一方で、すでに死期が近づいているアキラを目の当たりにしているあなたを一人きりにしてしまえば、衝動的に何かしらの過ちを犯しかねない。だから私は、たとえ強引にでも二人が一緒に過ごさなければならない状況をプランニングした」

 そのプランとやらがあの脅迫行為だと言うつもりなのか。

 性同一性障害の苦しみを訴える娘を黙らせるために、娘を襲わせようとする悪魔の計画。

 しかしそれは梧灯を操るためのお題目でしかなかった。

 本当の目的は、操られている襲撃者をだったのだ。

 母とシルヴィとの繋がりが頭をかすめたとき、それに連なってこの狂気の沙汰ともいえる要求の真相も想像できていた。

 だからこそ、梧灯は絶望したのだ。

 あのとき梧灯があそこまで心を乱されてしまったのは、瀕死の母が行方を晦ました直後だったからだ。もしもシルヴィに脅迫されたとしても、母と連絡が取れさえすればあんな愚行はしでかさなかったに違いない。

 そう、ああなってしまったのは母と言葉を交わせる状況でなかったから、母以外に梧灯の暴走を止められる人間がいなかったから。

 つまり、母の失踪がシルヴィの計画に組み込まれていたということ――母がシルヴィの計画に協力していたということだから。

 梧灯には母の考えが理解できなかった。いつも隣に寄り添い導いてくれた最愛の人が、どこか見知らぬ遠くへ行ってしまったようで悲しかった。

「あなたがプランを実行に移すかどうかは些末な問題だった。あの時点でジョセの心は明らかにあなたに傾倒していた。たとえどんな経緯を辿ろうと、あの子は最終的にあなたを許してしまうという確信があった。友情、同情、愛情……あなたへ抱く想いがどんなものであったにせよ、あの子があなたのために、私にとってこれ以上の成果はないのだから」

 くつくつ笑うシルヴィを前にしても、もはや怒りは沸いてこなかった。

 覚醒したてのぼやけた思考が巡らせるのは、今は亡き母に対する疑念だけ。

 梧灯の知る母は、謙虚で前向きで包容力に溢れた愛情深い人間だったはず。誰に対しても信義と礼節を尽くすことを重んじていた母が、親友の子を――梧灯の友を陥れる計画に加担していたなんて、信じたくなかった。

 だが、ときに信義は別の信義とぶつかり合う。真っ向から対立する二つの約束を同時に叶えることはできない。そんな矛盾を解決する最も単純な指針は、より早く信義を誓った相手を優先させることだろう。

 母にとって一番大きな信義の針が梧灯に向けられていたのだとしたら、たとえ母であったとしても、梧灯以外に犠牲を強いることはあったのかもしれない。

 それこそ親子の愛だと評してしまうのは簡単だ。

 しかしそれはあまりにも――

「一方的だって思う? でもね、愛って本来そういうものなのよ。相手のことを思いやるだけが愛じゃない。を人は愛と呼んでいるだけ」

 まるで梧灯の疑念を読んだかのような答えに軽い驚きを覚え、思わずそらしていた視線をシルヴィの方へ向けてしまった。

 そこにはジョーと見紛えるほど若々しいながら、長い人生をかけて醸成された大きな器を感じさせる――一人の母親の姿があった。

「アキラはあなたを愛していた。私もジョセを愛している。だから私たちは、それぞれ自分の子供を幸せにするための方策を取っただけ。でもね、その愛をあなたたちがどう受け取るかはあなたたち次第。すべてを知ったあなたがあの子と今後どういう関係を築くのか、それとも放棄するのか、あなたたちが決めなさい」

 その凛とした物言いは、彼女のこれまでの悪辣な振る舞いがまやかしであったかのように錯覚させるほどの迫力があった。

 言い終えるやシルヴィは出口へ向かうそぶりを見せた。

 しかし、彼女は数歩だけ進んで立ち止まる。

 後姿のシルヴィからは肩の下まで伸ばした黒髪で表情こそ読み取れないが、彼女は何かをためらっているようだった。

 仕切りのカーテンに手を掛けながらシルヴィは重たい口を開く。

フランス私の祖国にはこんな古い言葉がある。『幸福な者は語るべき話を持たない』とね。アキラはあなたに、平穏で幸福な日々に生きて欲しいと願っていた。たとえその願いのためにジョセを利用することになったとしても、あなたを愛していたから。その想いだけは忘れないであげて」

 その言葉にかつての母の姿が、霊安室で眠る母の表情が思い起こされる。

 誰に頼ることもせず、たった一人で梧灯を守り育ててくれた母。自らの死期を悟ったとき、梧灯を一人残して逝くことがどれほど無念だったか想像もできない。にもかかわらず、そんな母の死に顔からは一片の後悔も感じ取れなかった。

 それはきっと、信じていたからだ。

 自分の息子なら、梧灯であれば、たとえ病に侵された末の愚かな計略だったとしても、いつか自分の意志で歩き出し、幸福な未来を掴み取るはずだと。

 母の想いを――愛を受け止めてくれるからと。

「わかって、いますっ……‼」

 一週間ぶりに自分の意志で吐く言葉は、がさがさに掠れていた。

 母の考えを今すぐに納得することはできそうにない。

 できることなら今すぐ母を問い詰めたい。いつものように、悠然とした言葉の応酬がしたい。

 死ねばあの世でそれも叶うかもしれないが、、そうしたところで決して母の言葉を聞くことはできないだろうという妙な確信があった。

 それに、そもそも梧灯はもう死ぬことなど微塵も考えてはいなかった。

 母が整えたレールを破壊し、己自身も破壊しようとしていた梧灯はもういない。

 『彼』が気づかせてくれた新しい希望を胸に、愚直に生きていこうと思う。

 きっとそれこそが、亡き母に尽くすべき最後の信義なのだろうから。

 梧灯の答えを聞いても、シルヴィは背を向けたまま動かなかった。

 黒髪の間から透ける一筋の輝きは、もしかしたらシルヴィの流した涙だったのかもしれない。

 こんな損得勘定を中心に生きているような人でも人並みの感情は捨てきれなかったのだろうか。

 しかし肩越しに振り返ったシルヴィは、例によって蠱惑的な流し目を向けてこう言った。

「仮にあなたが私の義理の息子になる日が来ても私は祝福してあげる。けれどね、万が一にでもあの子の信頼を裏切ったり、傷つけるようなことがあったなら、。アキラの元へ送ってあげるから、忘れないでいて頂戴」

 逆らう者を生き地獄へ堕とし破滅させることを信条とするはずの支配者が、その信条を捨ててまで梧灯を殺すと言った意味を、梧灯は深く噛みしめる。

 そんな日など来るはずがないと反論しようにも思うように声が出ず、梧灯は強くシルヴィをにらみ返すことしかできなかった。

 満身創痍の梧灯が虚勢を張っているように見えたのか、シルヴィは鼻で笑いながらカーテンを閉めた。

「それではまた逢う日まで御機嫌ようゴトー君。

(えっ……⁉)

 聞き間違いであるはずがない。

 カーテン越しに聞こえた些細なワンフレーズは、きっと単なる皮肉などではなかったはずだ。

 どういう意味か聞き返そうにも、すでにシルヴィは病室を出てしまっており、あとにはケガで動けない梧灯だけが残された。

 この世界には恐ろしい人間がたくさんいる。呼吸するほど当たり前のように誰かを傷つける者、誰かを裏切っても何ら心の痛まない者、愛を秤にかけ金や立身出世を得る道具にしようとする者……挙げ連ねていけばきりがない。

 そんな魑魅魍魎が跋扈する世界でも、あれほど特異な人物を梧灯は他に知らない。

 まるで鋼鉄製の愛を悪意で塗り固めた末にできた、何ものにも染まらない闇そのものような人だった。

 どうしてあのような人物と母が友好関係を築けていたのかはわからない。たとえ母の親友だったとしても、『彼』の母親だったとしても、シルヴィの全貌を理解できる日は恐らく来ないだろう。

 そう遠くないうちに、『彼』の幸福を巡って再びシルヴィと対立する日が来てもおかしくない。

 ほとんど動かなかった右手を何とか動かし、強く握りしめる。

 『彼』はこんな自分でも共に生きようと言ってくれた。その言葉の意味がどのように変遷しようとも、きっと『彼』の意思は固いのだろう。

 ならば『彼』の意思を最大限に尊重しつつ、『彼』の未来を一緒に考えていこうと思う。

 『彼』が望まないのなら、今後指一本触れられずとも構わない。『彼』が望むのなら、それが本当の本当に最良の選択なのか、二人で話し合っていけばいい。

 決して『彼』の意に唯々諾々と従うのではない。『彼』に縛られるのでもない。時が来れば、共にいないほうがいい未来が来ることすらあるかもしれないのだから。

 たとえそんな未来が来て、離れて生きることになったとしても、梧灯が『彼』の幸福を願い続けることだけは変わらない。ただ己の幸福を見つめ直して、改めて愚直に生きていくだけだ。

(そのためにも、まずはこのケガを何とかしなきゃな……)

(それから――)

 乱雑に開かれたカーテンの隙間から、あの恐るべき麗人と同じ顔をした『彼』が――ジョーが血相を変えてのぞき込んでいた。

 母さんに何かされなかったか、ケガの具合はどうだ、テメェ危ないマネしやがってくたばれこの野郎――などなどと、思いついた端から荒っぽい口調でがなり立てるジョーをどうやって宥めようか、手始めにそんな悩みを楽しむことにした。

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