42 SCENE -20-『ジョー』~ c

「ジョセ様、到着いたしました」

 二十三時をまわったころ、俺と牧を乗せたワゴン車は都立法武高校の正門前に停車した。

 梧灯のアパートを出発してから一時間ほど経っているはずなのに、それほど時間が掛かったようには思えなかった。

 それもこれもすべて、牧から聞かされた話が原因だ。

 鶏冠井カエデが俺の秘密を知っていた。それだけでも驚きだったというのに、文化祭の事件が起きることを知っていてわざと見逃していた。

 正直、牧の話を聞いた今でも信じられないでいる。あんな大人しくて気立てのいい子が、まさか盗聴の常習犯だったなんて。

 怒りと悲しみと失意がない交ぜになって、訳もわからず涙が出てしまう。

 でも、そうやって感情のままに振舞うのは後でいい。今はまず梧灯の暴走を止めることが先決だ。

 あいつがどういう経緯で鶏冠井がやったことに気づけたのかはわからない。だが、自暴自棄になっている梧灯が鶏冠井と二人きりになっているのだとしたら、行き着く未来は決まりきっている。

 それだけは何としても止めなきゃならない。これ以上、梧灯自身を傷つけさせるのだけは。

 ワゴン車から降りた俺と牧に冷たい雨が降り注ぐ。出発前より水玉が大きくなっているようで、ジャケットの肩口がみるみる濡れていく。遥か頭上では稲光が閃いて、雨音と雷鳴が夜の帳に皹を入れているようだった。

 助手席から降りたキリヲさんが正門脇の勝手口まで駆けていく。扉の前で数秒ほど何かをしていたと思ったら、いとも簡単に扉を開けてしまった。

「うちの学校のセキュリティはどうなってんだよ、おい」

「い、いまはそんなこといいじゃない、それより早く体育館に向かわないと」

 キリヲさんの話によれば、二人は今体育館にいるらしい。どうしてそんなことがわかるのかを尋ねても「企業秘密ですから」としれっと答えられるだけだった。だがあの母さんの配下が調べ上げた情報なら、正確さは折り紙つきだ。おおかた梧灯に発信機を付けてるとか、学校中に監視カメラが設置してあるとか、非合法な手段で得た情報なのだろうが、今は方法の是非について問いただす暇はない。

 俺と牧は勝手口を通って夜の学校へ侵入を試みる。

 古臭いばかりで冗談交じりに牢獄と評していた校舎が、暗闇を背負ったことで不気味さに拍車をかける。

 たじろいでいる場合じゃない、いまは牧もキリヲさんもいる。大丈夫だ。

 明かりのない新校舎前を横切って、俺たち三人は旧校舎側へと回りこむ。雑木林の小道の先に体育館が見えてくる。目を凝らすと、わずかに開いた扉の隙間から明かりが漏れていた。

 俺は二人を置き去りにして、全速力で体育館の中へ踏み入った。

「梧灯!! 鶏冠井!!」

 しゃがれた声が体育館の中を反響する。

 俺の声が消えると、雨音に混じって小さな声が聞こえてきた。

 声のした方向を目で追うと、明かりの点いた舞台の前に人影が二つあることに気がつく。

 一つは直立し、もう一つは地べたにうずくまっている。

 俺は最悪の事態を想像しながら、二つの人影の元へと駆けていった。

 舞台に近づくにつれて、二人の輪郭がはっきりしてくる。

 姿

 梧灯は駆け寄ってきた俺を一瞥した。

「来ちゃったんだね、ジョー。まあ、可能性もなくはなかったけれど」

 梧灯はいつぞやと変わらない、困ったような笑みを浮かべてそう口にする。

 その手に馴染みの牛刀を携えたまま。

「ああ、これ?」

 驚愕する俺の視線に気づいたのか、梧灯は牛刀を掲げて鷹揚に答える。

「まったく期待はずれだったよ、この子。、その願いを叶えてあげようと思ったのに。いざとなったら怖気づいちゃってさぁ……」

 牛刀が二度三度と素振りされ、風切り音がする。

「ひぃぅっ!!」

 床にうずくまり、頭を抱える鶏冠井から小さな悲鳴が聞こえてくる。

「まあでも、僕を殺せようと殺せまいと関係ないけどね」

 梧灯は空いた左手をポケットに突っ込むと、中からスマートフォンを取り出した。それは今朝から行方がわからなくなっていた俺のスマホだった。

「鶏冠井さんのやり方にあやかって、僕も君の犯行の瞬間を盗撮させてもらったよ。おめでとう、これで君も立派な殺人未遂犯だ」

「うぅっ、ううううぅぅぅぅ……」

 スマホをしまいながら、まるで日常会話でも交わすように梧灯は話し続ける。

「それで? 君はどうしてここにいるんだい、ジョー。僕は君を利用して、あわよくば手篭めにしようと考えていた卑劣漢だって教えたはずだよ? まさかまだわからないっていうの?」

 表情も声色も平静そのものなのに、隠しようもない明白な悪意で溢れかえっている。

 これがあの梧灯だというのか。

 巨躯に似合わない穏やかさと、誰にでも気を遣う謙虚さを併せ持っていた、あの袴田梧灯と同一人物だというのか。

 ……いや、そうじゃない。

 どれが偽者で本物という話じゃない。この悪意に満ちた側面もひっくるめて梧灯という人間なんだ。

 今までの言動すべてが嘘だったということにはならない。

「もういいんだよ梧灯。おまえが俺の代わりに怒ってることも、俺を自由にしたくてそんなことを言ってるのも、みんな知ってる。俺はおまえを恨んじゃいない」

「知ってる? 何を」

「おまえは母さんに脅されて、訳わかんなくなっちまっただけなんだよ。でももういいんだ。あれは全部、母さんの仕組んだ芝居だったんだよ。おまえがしなくても、俺に危害は与えられなかったんだ。母さんのことは俺が何とかしてみせる」

 母さんは人を人とも思わないようなクソッタレだが、恥ずかしげもなく俺を愛しているとのたまう程度には母親だ。

 もしも俺が本気で、それこそ刺し違える気で抗いさえすれば、もしかしたら梧灯から手を引いてくれるかもしれない。

 いや、必ずそうさせてみせる。

「だからもう、おまえは悪者にならなくていいんだ」

 俺はそう言いながら少しずつ、一歩ずつ梧灯に近づいていく。

 背後からは複数の足音が聞こえてきた。ようやく牧とキリヲさんが体育館に着いたらしい。

「梧灯ちゃんっ――」

 呼びかけた途中で牧は息を呑んだ。梧灯の手に握られたものに気がついたのだろう。

「ジョセ様っ、近づいてはなりません!!」

 キリヲさんを見やると、射殺されんばかりの眼光で梧灯を睨み付けている。

 彼女の手に握られた凶器はまっすぐ梧灯に照準を合わせられている。

 拳銃だ。

「やめろキリヲさんっ、そんなもん必要ねえっ!!」

 俺はすかさず梧灯への射線へ立ち入ってキリヲさんの動きを牽制する。

「これは俺たちの話だ、余計な手出しはするな」

「そうはいきません、私は社長よりあなたのお世話を拝命している身。もう二度とあなた様を傷つけさせるわけにはいかないのです」

「梧灯はそんなことしない、あいつは――」

 必死に説得を試みている緊迫した状況で不釣合いな声が上がった。

 梧灯が笑っている。

 狂ったように哄笑していた。

「ジョー、君は本当に何もわかっていないんだね。だからこの期に及んでそんな甘いことが言えるんだ」

 梧灯がのっそりと動き出す。その動きに合わせて移動する銃身に気を取られて、あいつの側へと近づけない。

 梧灯は四つんばいで泣いていた鶏冠井の首根っこを掴むと、ムリヤリに立ち上がらせた。

「梧灯、おまえっ……!」

「ジョー、君が僕の何を知っていたというんだい。僕は本来、こういうことができる人間なんだよ」

「あっ、く、はぁっ」

 首を掴んだ手に力を込めたのか、鶏冠井が苦しそうにうめきだした。

「もうやめてよ、梧灯ちゃんっ!!」

 牧がその場で土下座する。

「鶏冠井ちゃんがやったことの責任はわたしにも――オレにもあるんだ。オレたちはちゃんと罰を受ける、罪を償うから、だから……! 鶏冠井ちゃんに乱暴しないであげてよぉっ!!」

 声を張り上げて牧は許しを請う。

 だが、梧灯はそんな牧を静かに見下ろすだけだった。

円舞ワルツ君……残念だよ。やっぱり君もグルだったんだね。あの呼び出しメールはあまりにもタイミングが良すぎた」

「そう、そうなんだよっ。あれはわたしたちが計画したのよ、鶏冠井ちゃんだけが悪いんじゃない、責めるならオレにしてくれ!」

「下手な芝居は止めよう、円舞君。君が巻き込まれただけの共犯だってことはわかってる。だから、君の役目はもうないんだ」

「うぅっ、ぐ、ふぅぅっ……!!」

せ梧灯っ! 俺はこんなこと望んじゃいない!!」

 大きく一歩踏み出した俺の眼前に、牛刀が突きつけられる。

 首筋から滴った液体は雨水か冷や汗のどちらだったろうか。

「そう、君はこんなことは望まない。君は優しいから、円舞君から事情を聞けばきっと鶏冠井コイツを許そうとするだろう。でもね、君の思いなんて関係ないんだよ。これはすべて僕の意思だ。僕が鶏冠井コイツを許せないから、こうしてるんだ」

 梧灯は鶏冠井の首から手を離すと、今度は髪を鷲づかみにして鶏冠井を立たせた。そして、強引に持ち上げた顔を見せ付けるかのように俺へと突き出した。

 散々泣きはらしたのか、鶏冠井の顔面は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

鶏冠井コイツは君が男だってことを知っていながら、君の心を打ち砕こうとした。信義に反することをしたんだ。許される道理はないよ」

「たとえそうだとしても、許す許さないはおまえが決めることじゃない。それは俺の権利であって、おまえのものじゃない。おまえだってわかってるだろ!!」

「そうだね、これは越権行為だ。僕には僕にされたこと以上に鶏冠井コイツを憎む権利はない。そして僕は僕自身のことが心底どうでもいい。だから、僕が鶏冠井コイツを裁くなんてお門違いって、もちろんわかってるよ。だからこそ彼女にはチャンスを与えたんだ。僕という障害を取り除くチャンスを」

「だからおまえは……鶏冠井カエデのか?」

 その瞬間、頭上に広がる窓ガラス一面が白く光った。

 梧灯の目鼻は深い陰影が刻まれ、その口元はうっすらと歪んでいる。

 ドクンという脈動と連動するかのように、地響きするほどの雷鳴が轟いた。

「そんなことしていったい何になるっていうんだ」

「彼女にとっては僕という邪魔者を永久に消し去ることができる。その対価として僕は彼女に殺人犯の汚名を着せて、君の元から永久に引き離すことができる。なかなか公平フェアなやり取りだったと思うんだけど」

「何が公平フェアだ、そんなことのために命を粗末にするなんて、おまえどうしちまったんだよ」

「そんなこと?」

 梧灯の声色が固くなる。

「君こそどうしてしまったんだ。これは君の魂に係わる問題じゃないか」

「俺の魂だと?」

「こいつの身勝手な自己保身のせいで、君の魂は存亡の危機に瀕した。僕にしてみればあれだって充分に殺人行為だよ。それなのに、どうして君はそんなに冷静でいられるんだ?」

「冷静なもんか、俺だって怒ってるし、ショックも受けたさ。それでも、こんなになるまでこいつを追い詰める必要はないだろ」

「いや?」

 操り人形のように吊るされた鶏冠井の口から苦悶が漏れる。梧灯がわざと鶏冠井を揺さぶったのだ。

「こいつを野放しにすれば、いずれまた同じようなことを繰り返す。君の側で友達面しながら、いざとなったら君を見捨てるに決まってる。そんなの僕は許さない。こいつは君の側にいちゃいけない人間なんだ」

「うぅっ、うぅぅ……」

 両手で何度も涙をぬぐうせいで、鶏冠井の目元は真っ赤に腫れ上がっていた。

 その様子があまりにも不憫で、俺の中で怒りの熱が冷めていくのを感じた。

「ほら、君も最後に言い訳の一つでもしてみれば? もうどうせ全部バレちゃったんだし、友達ごっこも終わりなんだからさ」

 掴んだ髪の毛を雑に揺らして梧灯は鶏冠井に促した。

 脱力してされるがままにされていた鶏冠井が力なく俺の顔を見上げた。

「ごめん、ごめんね、ジョー……ぼ、ぼくは、あなたと仲良くなりたくて、話しかけるきっかけが欲しくて……それだけのはずだったのに。ずっとずっと、あなたに隠れて、あんな……いけないことだってわかってたけど、それでも……それでも、あなたの一番の友達でいたかったんだよぉ……」

 嗚咽をこらえながら、途切れ途切れに鶏冠井は言う。

「嫌われたくなかったんだ。だって、だって……ジョーに嫌われたらぼく、一人になっちゃう……誰もぼくなんか、見てくれない、相手にしてくれない……そしたら、もう……い、生きて、いけないもん……」

 ……そういうこと、だったんだな。

 だから鶏冠井はずっと寂しそうにしていたんだ。

 いつだか鶏冠井が自分自身のことを『ゴミクズ』だなんて卑下していたのも、自信のなさの表われだったんだろう。

 大多数と同じことができないで、いつも周りから浮いてしまって、心無い連中から嫉妬されて、嫌がらせされて。最後にはいつも一人ぼっちになって。

 そんなことばかり繰り返していたから、彼女は思い込んでしまったのだ。

 自分は誰かに好かれる価値のない人間だと。友達なんてできっこないのだと。

 まるで、昔の俺のように。

 でもな鶏冠井。そうじゃないんだよ。

「おまえにはいつだって牧が付いててくれたんだろ。おまえは俺なんかに執着しなくたって、見守ってくれるヤツがいたんだよ。もっと早く、おまえはそれに気づくべきだった。受け入れるべきだったんだ」

 鶏冠井、おまえが牧の優しさを受け入れることさえできていたなら、こんな間違いは起こさなかっただろう。

 そしたら今頃は俺と鶏冠井と牧の三人で――もしかしたら梧灯も含めた四人でファーストフード店で駄弁ってたかもしれない。仲良く勉強会なんてのもやってたかもしれない。

 でもきっと、そんな光景は二度と訪れない。ここまで拗れてしまった関係は元通りにはならない。

 、どうにもならないのだ。

 梧灯よ。おまえはこれで最後なんて言ってたが、それは違うぞ。

 誰かが手をつなぐことをあきらめない限り、人と人との繋がりってヤツはそう簡単には絶ち切れやしねえんだよ。

 だから俺は諦めない。鶏冠井のことも、梧灯のことも。

 真正面からぶつかって、おまえらの間違いを正してやるよ。

 まずは手始めに、俺自身の間違いを正す。

「俺も、鶏冠井にずっと隠し事をしてた。おまえに気味悪がられたくなかったから、まるで女友達みたいなフリをして。そういう意味じゃ俺だってお相子だ。黙ってて、すまなかった」

 俺は鶏冠井に向かって深く一礼した。

「でも、盗聴の件はそれとは別問題だ。詫びる気持ちが少しでもあるなら、今まで盗み聞いてきたことを包み隠さずすべて話せ。そんでちゃんと罪を償え。そのあとでも、まだ俺の友達でいたいって思ってくれるなら……また遊びに行くのに付き合ってくれればいい」

 鶏冠井は俺の言葉を聴き終えても、しばらく呆然としていた。

 何を言われたのか信じられないというように首を振り、最後には幼子のように泣き出してしまった。

 そんな鶏冠井の様子を梧灯は冷め切った目で見下ろしていた。

「本当に君は丸くなってしまったんだね。抜き身の刀みたいに鋭かった君はどこに行ってしまったんだ」

 そしてその鋭い視線を今度は俺に向けてくる。

「その甘さが君の信義だって言うのか?」

 苛立ち混じりで述べる梧灯。

 さあ、今度はおまえの間違いを正してやるよ。

「梧灯。賢いおまえのことだから本当はもうわかってるんだろ?」

 俺の言葉を聴いて、梧灯は一瞬だけ顔を顰めた。

「確かに鶏冠井はやっちゃいけないことをした。自分の罪が暴かれるのを恐れてたのも、そうなんだろう。でもここに来るまでの間、牧の話を聞いてて思ったんだ。鶏冠井が誰にも事件が起きることを打ち明けなかったのは、それが最良の方法でもあったからじゃないかって」

 俺はゆっくりと梧灯へとにじり寄りながら、鶏冠井の思惑を代弁する。

「盗み聞いて知ったことを教師や警察に相談したところで、あのゴミ共は捕まるはずもない。なんせまだ何もしちゃいないんだからな。それに上手いこと文化祭当日の犯行を防いだところで、る気満々のヤツらがそう簡単にあきらめるわけはねぇ。それこそ、帰宅途中を襲って無理やりに……って可能性だって充分ありえたんだ。だから鶏冠井は犯行場所も時間も明らかな状況で、あえてあいつらを泳がせたんだ。使

 俺に嫌われたくないから盗聴したことは黙っておきたい。俺を守りたいから俺を撒き餌にして暴漢たちを一網打尽にする。どれもこれも倒錯しきっていて正気の沙汰とは思えない。だけど、そこには鶏冠井なりの想いが込められていたのだろう。

「だからおまえはこんな回りくどいことをしてるんだろ? おまえと鶏冠井の体格差なら、その気になりゃ簡単にくびき殺せる。そうしないのは、おまえが鶏冠井の中にある良心に気づいてるからだ。違うか?」

 俺の言葉を聴いても、梧灯は黙ったままだった。

 小雨だったはずの雨脚は、いつのまにやら豪雨へと変わっている。とうとう台風が関東地方に到来したのだろう。

 体育館に雨粒が窓ガラスを叩く音だけが広がっていく。

「……君はどこまでも甘いね。僕自身が手を汚したくないからとは考えないんだ」

 ぼそりと呟いたと思ったら、梧灯は大きく腕を振り払った。

 髪の毛を離された鶏冠井が床へと転がされる。そんな彼女の元へすかさず牧が駆け寄っていった。

「君の言うとおりだよ。彼女の罪は死ぬまでには値しない。そう判断したからこその今回の計画だったんだ」

 鶏冠井を掻き抱く牧の姿を認めてから、俺は再び梧灯へとにじり寄る。

 もう手を伸ばせば届く距離まで近づいている。あとはあの牛刀さえ何とかしてしまえばいい。

「でもね、本当は鶏冠井むつらを排除することはついででしかなかったんだ。一番の目的は――」

 俺の前に突き出されていた牛刀が、ゆっくりと梧灯の頚動脈へと吸い寄せられていく。

 梧灯の首筋に添えられた牛刀が電光によって煌いた。

「だから、そんな必要はないって言ってるだろうが! おまえは悪くない。どうしておまえはそう自分を虐めたがるんだよ!」

 予期していたこととはいえ、いざ目の当たりにすると動揺してしまう。

 こいつは、本気で死ぬつもりなんだ。

「悪いさ」

 伏し目がちに梧灯は言う。

「あの手紙に書いたことは、みんな本当のことなんだ。僕は人間が大嫌いだ。金持ちなんて全員苦しんでのたうち回って死ねばいいと思ってる。君を手籠めにしようとしたっていうのも本当だ」

「だからそれは、母さんの指示で仕方がなく――」

 えっ?

「あれが君のための――いや、、気づいていたんだよ」


「僕は全部気づいたうえで、君をどうにかしようとしていたんだ」


 予期していなかった答えを聞いて、俺の思考は一瞬の空白に包まれた。

「いつ……いつから」

 ようやく口にできたのは、問いかけとも言えない呟きだけだった。

 か細い言葉は豪雨によってかき消されてしまう。

 俺が言葉に詰まっていると、梧灯は俺の背後に立つキリヲさんに向かって声をかけた。

「あなたも、だから僕を撃てないんですよね。それがあなたの上司からだから」

「……クソガキが」

 キリヲさんの苦々しい返し声が聞こえてくる。

 なにが、なにがどうなってる。

 母さんが梧灯に命令したのは、俺に自分が女だってことを認めさせることだろ。

 そのために梧灯の過去の傷を抉ってまでヤツを脅迫して、俺たちが男女の仲になることを強要しようとした。

 それなのに、なんなんだよ。

 母さんの本当の命令って、なんのことだよ。

 驚愕の抜けない俺のことを梧灯は柔和に見返している。

 そして俺の疑問には何一つ答えないまま、梧灯は静かに語りだした。

「母さんがいなくなってからの僕は、ネジの取れた機械人形みたいだと思ってた。何をやっても現実感がなくて、生きてるんだか死んでるんだか、わからなくなってたんだ。それでもジョー……君と一緒にいる間だけは、確かに生きているって実感できた。君に触れ、君の温もりを感じている間だけは、血潮の流れを感じられた。そうしているうちに僕は、いつの間にか考えるようになってしまったんだ。君さえ側に居てくれたなら、僕はこの現実地獄を生きていけるんじゃないか――」

 一拍の呼吸にわずかな躊躇いを感じた。

、君を僕だけのものにできるんじゃないかって」

 悟りきった微笑みを湛えて梧灯は断言した。

「君と出会えてうれしかった。君みたいな人がこんな薄汚れた世界にも存在してくれたことを知れて、うれしかった。楽しかった。幸せだった。君と話している時も、君とご飯を食べている時も、ずっとずっと幸せだった。ずっと側に居たかった。だから僕は、脅されているフリをし続けた。僕たちのために敷かれたレールを黙って進み続けたんだ」

 そこまで言うと梧灯は言葉を途切れさせる。

 そして、溜め込んでいた感情を決壊させるかのように滂沱の涙を流した。

「でも、それじゃあ君が幸せになれない。君が男になれないじゃないか!!」

 口角を飛ばす勢いでまくし立てる。

「僕の幸せは君の犠牲の上にしか成り立たない。散々君の事が心配だと言ったくせに、ふとした拍子に君を我が物にする方法を考えてしまう。君に触れることを愉しんでいる僕がいる。悦び興奮している僕がいる。でもそれじゃあ君を襲った連中と変わらないじゃないか。こんな不実な人間は君の側に居ちゃいけない。もう一緒には居られないんだよ!」

 それはまるで懇願するみたいな口ぶりだった。

「僕はこれ以上、僕のせいで大切な人が不幸になるのは耐えられない。君には幸せになってほしい。僕の母さんみたいになって欲しくない。だから僕は君の前からいなくなるって決めたのに……」

 無様な泣き顔をさらして、悔しそうに言葉を搾り出した。

「ジョー、どうしてここに来てしまったんだ……!」

 どうして。

 どうして?

 どうしてだって?

 ……ふざけるな。

 ふざけンなよっ!!

「勝手なこと言ってんじゃねぇこのクソバカヤローが!!」

 言うが早いか、俺は無我夢中に梧灯へ飛び掛っていた。

 突飛な挙動に梧灯の目は大きく見開かれる。

 しかし、梧灯はすぐさま自らの首筋へ牛刀を滑らそうと腕を振りかぶった。

 俺は両腕でヤツの腕に絡みつく。それでも梧灯の挙動は抑えられない。だから腕力では力負けるとわかった瞬間、俺はヤツの腕に噛み付いた。

 突然の激痛に梧灯はうめき声を上げ、俺を腕にぶら下げたまま尻餅をついて倒れた。

 その間ずっと握られていた牛刀が俺の耳を掠めたが、すぐさまヤツの手を床に叩きつけて牛刀を手放させた。

 それでも床に落ちた牛刀を拾おうと這いつくばる梧灯の頬に、俺は渾身の握り拳をお見舞いした。

 仰向けに倒れた梧灯にマウントをとって押さえ込む。梧灯も負けじと俺を振り払おうとするが、重心を押さえられたせいでうまく起き上がれない。

 そうしてもたついてる梧灯の胸倉を掴んで、強引に正面を向けさせた。

「何が俺の幸せだ、ふざけンなっ!! 人の幸せをおまえが勝手に決めるんじゃねえよっ!!」

 力いっぱいに梧灯を引き寄せて怒鳴りつける。

「おまえわかってんのか? おまえがそうやっておまえのせいで誰かが不幸になるって言い続けるってことは、おまえの大好きなアキラさんの人生を否定することになるんだぞ!?」

 梧灯は俺から目を背けて、唇をかみ締めている。

「たった一度しか話せなかったけど、俺にはあの人が幸せだったのが充分伝わってきたよ。何でだかわかるか? 翠さんはな、おまえのことが必要だって……心から愛してるってそう言ってたんだぞ!?」

 短く息を呑み、梧灯は絶句する。

 彫りの深い双眸からとめどなく涙が溢れ出ていた。

「それなのにおまえはそんな翠さんの生き様を、翠さんの選択を否定するのか? 不幸だったと決めつけるのかよ!?」

「不幸だったに決まってる!!」

 梧灯は声を震わせながら怒鳴り返した。

「僕さえいなければ母さんは男としての人生を全うできたんだ。立派な料理人として成功できたはずなんだ。それを全部僕がぶち壊したんだ。母さんの夢を奪って、財産も燃やさせて、挙句路上で野垂れ死にさせた。僕さえいなければ、僕さえ産まれてこなければ、母さんは幸せになれたんだっ!!」

「このドチクショーがっっっ!!」

 俺は梧灯を力任せに張り飛ばした。

「まだわからねえのかっ! 翠さんの生き様は、全部全部、翠さんが自分で選んだ結果なんだ!」

「違う!! 母さんはいつだって選べなかった。選ばされてきただけだ!! 母さんは誰も見捨てることができなかった。八代さんのことも、僕のことも! だから母さんは死んだんだ! 僕らが母さんの未来を奪ったんだ!!」

「違わねぇよっ!! 人間はおまえが思ってるほど単純じゃない。誰もが他人に勧められた道を言われるがままに辿るわけじゃない。他人からあーだこーだ口を挟まれても、道を阻まれても、最後にどの道を通るか決めるのは他の誰かじゃない、そいつ自身だ。迷いに迷ったその先で答えを出せるのは自分だけなんだよ!! それともおまえは、翠さんが他人に強要された人生を仕方なしに生きてたっていうのか? おまえのせいで不幸になったと言い訳する卑怯者だったっていうのか!?」

 そんなはずはない。翠さんは自分の意思で人生を選び取ったんだ。まわりの人みんなの幸せを願って、誇り高く生きたんだ。

 本当はおまえにもそれがわかっているから、そんなに苦しそうなんだろう?

 そうじゃなきゃ、おまえだって母さんの敷いたレールとやらから外れるようなマネはしないはずだ。

「翠さんの幸せは翠さんのもの。俺の幸せだって俺のものだ。おまえになんか決めさせてやるかよ」

 だから聞かせてやる。

 おまえがかたくなに否定したがる、俺の幸せってヤツを。

「おまえは自分のことが大嫌いみたいだけどな、俺はこの数ヶ月の間、おまえと過ごせて本当に楽しかったんだ。俺にとっちゃ、牧以外にできたはじめての男友達だったんだ」

 確かに出会いは最悪だった。最初はデカイばかりの根暗な野郎だと思って警戒したりもした。それでも梧灯と関わるたびに、こいつの優しさや温かさに触れた。何かにつけて一生懸命で、真面目すぎるところが玉に瑕ではあったが、それを含めてこいつの良さなんだと思うようになっていた。

「おまえが歩み寄ってくれたから、俺を見つけてくれたから、認めてくれたから……俺は俺のままでいいんだって許された気がした。いつも後ろめたい気持ちでいっぱいだったのに、おまえの前ではありのままでいられたんだ」

 本当はずっと辛かった。泣き叫びたかった。誰にもわかってもらえなくて、母親にすら認めてもらえなくて、苦しかったんだ。この苦しみを分かち合えるのは、よく似た境遇の牧しかいないんじゃないか。この苦しみが、不安と恐怖が、寂しさと恥ずかしさが――自分自身に胸を張れない魂の苦悩が、他の誰にも届かないんじゃないかって、バカにされるんじゃないかって、ずっとずっとそう思ってたんだ。

「あの時だって、おまえが助けてくれなきゃ俺は壊れていたかもしれない。おまえが支えてくれなきゃ学校にだって戻れなかったかもしれない。おまえがいてくれたから、、俺はずっと救われてたんだよ」

「ち、違う、そんなはずない。僕は疫病神だ、生まれてきたのが間違いだったんだ」

「生まれた命に間違いもクソもあるかっ!! 誰が生まれた命を裁定できるって言うんだ!!」

 そんな権利クソくらえだ。そんなこと誰にも決めさせてやるものかよ。

 俺だって、梧灯だって、牧だって、鶏冠井だって――翠さんだって、間違った命なんか一つもない。

 命ってヤツは、尊いものなんだ。

 その是非を、価値を、意味を――誰にも比べさせやしない。

「俺にとっておまえは、日常なんだよ。ずっと欲しくても手に入れられなかった、かけがえのないものだったんだ」

 朝目が覚めたとき、家にはいつも誰もいなくて。

 一歩外に出れば外国人だと囃し立てられて。

 興味もないのに男たちに言い寄られて。

 学校には語り合える友達もいなくて。

 誰にも言えない秘密の重さに押しつぶされそうでも、誰もわかってくれなくて。

 そんなくすんだ毎日に初めて光が射し込んだ。

 眩しすぎて辟易したこともあったけど、その暖かな光は俺の冷え切った日常に温もりを与えてくれたんだ。

「あの日々を失いたくなかった。おまえが俺のことをどう思っていようと構わない。おまえさえ側にいてくれたら、きっとこの苦しみにも意味があったんだって思える日が来るかもしれない。だから俺は……

 俺の視線から逃げるように梧灯は両目を腕で覆った。

「やめてくれ……君は男なんだ。男になるべきなんだ。男はそんなこと言わない、考えない。君はそんなこと言っちゃいけないんだ」

「言うさ。俺は今だって、自分のことを男だと思って話してる。でもそれ以上に、俺は俺以外の何者でもない。

 梧灯の言うとおり、もしも俺が生まれながらの男だったら、きっと今とまったく同じ結論には至らなかっただろう。大切な人を守るために身を差し出すことができたのか。本当のところ自信はない。

 でも、これは出せた結論だ。女の身体に生まれ、男としての精神を与えられた、俺だからこその結論だ。

 もう男だの女だの、惚れた腫れただの言う段階はとっくの昔に超越してる。

 俺はただ、共に生きたいと見定めた相手のために、できることをすると決めただけなのだから。

「俺はおまえと一緒にいても不幸になんかならない。それだけわかってくれりゃそれでいい。あとはおまえ次第だよ梧灯」

 力任せにねじりあげた胸倉を解放する。両手の震えが止まらないのは、力の入れすぎだけが原因ではないだろう。

「俺はおまえの選択を尊重する。どうしても俺の側に居るのが辛いなら、好きにしろ。おまえに選択を強いることはできない。それでも、な……」

 言葉の代わりに涙が出てきて止まらない。

 目頭が熱くて、視界が滲んで、前が見えない。

「頼むから、死なないでくれ……!! どうか生きることを選んでくれっ……!!」

 梧灯の胸元へ雨粒のように涙が落ちていく。

 こんなに泣くつもりじゃなかった。もっと毅然とした態度で、こいつを諭してやるつもりだったのに。

 今になって、梧灯が死のうとしていた事実に傷ついている自分がいる。

 丸くなった、か。きっとそうなのだろう。

 俺は梧灯と関わることで、今までの俺とは違う人間になったのかもしれない。

 でもそれはきっと悪いことじゃない。たった一人、檻の中で閉じこもっていただけでは一生気づけなかったことがたくさんあったはずだから。

 だから俺は、こんな自分にも誇りを持てるようになったのだから。

「ふふ、く、ふふっ……」

 梧灯の口から自嘲の声が聞こえてくる。

 がっしりとした腕で隠された目元からは、止め処なく涙が流れ続けていた。

「こんなゴミのような世界でまだ生き続けなきゃならないの? 僕にはもう何も残されてないのに、こんな現実地獄に耐え続けなきゃいけないっていうの?」

 梧灯は痛みを堪えるように歯を食いしばる。

「どれだけ信義を尽くしても、貶されて、馬鹿にされるだけの世界で、母さんにも死なれて、それでもまだ、苦しみ続けなきゃいけないの?」

 まるで幼子のように嘆き悲しむ姿があまりに痛々しくて、たまらず俺は声を震わせた。

「誰だって苦しいさ。真面目なヤツばっか損する世の中だ、辛いに決まってる。でもさ、生まれてきたからには、やっぱ生き抜かなきゃダメなんだよ。辛くても苦しくても、希望があるなら、そこに向かって歩かなきゃウソだろ」

「希望なんて――」

「あるはずだ。おまえにはまだ果たしていない希望がある」

 涙に濡れた瞳をまっすぐに見下ろしながら俺は告げた。

「梧灯、おまえはこれからも愚直に生きて、いつか必ず幸せになれ。そして、翠さんの人生は不幸なんかじゃなかったんだって、おまえの生き様で証明して見せろ」

 梧灯は両目を見開いて俺を見上げてきた。

「僕が、証明……?」

「そうだ。これはおまえにしかできない、人生を懸けてでも果たさなきゃならない使命なんだ。おまえを送り出した翠さんの幸せを、誰にも否定させるな。口さがない連中にも……おまえ自身にも。おまえがよりよく生きていければ、それが何よりの証明になるはずだ。違うか?」

 目元を乱暴に拭いながら思いの丈をぶつける俺のことを、ゴトーはまっさらな瞳で見返してくる。

「そんなこと考えたことも、なかった……」

 まるで冷や水を浴びせかけられたかのようにはっとした顔つきで、ほとんど唇を動かさずに梧灯は呟いた。

「もしそれができるなら、どれだけ素晴らしいだろうね」

「できるならじゃねぇ、絶対にやるんだよ。一人じゃ難しいって言うなら、俺がいつでも力を貸してやる」

 梧灯の上から除けて立ち上がる。

 そして俺は、床に倒れたままの梧灯に向けて手を差し伸べた。

「だから、生きよう。俺たちはまだ、何かを結論付けるには早すぎるはずだ。どう生きればいいのか、一緒に考えよう。だからっ――」

 どうか、この手を取ってくれ。

 これで無理なら文字通り俺にはもう手は残されていない。

 俺が梧灯の希望になる、そんな大それたことは言えない。それでも、こいつが希望を果たすための、希望を見つけるための助けにはきっとなれる。

 運命に翻弄される苦しみを知っている、俺とおまえなら、きっと――!!

 体育館の外から滝のような雨音が響いてくる。暗がりに包まれた中、誰一人として言葉を発さない。湿気を帯びた冷風が髪を揺らす。

 それら一つ一つを克明に感じるほど、とても長い時間が流れたように錯覚した。

 長い長い静寂を破ったのは、梧灯の衣服が衣擦れする音。のっそりとした動きでゴトーは上体だけを起こした。

 憎悪に染まっていた先ほどまでとは違う、所在なさげに微笑む、いつもの梧灯がそこに居た。

「君のそういう真っ直ぐなところが、僕にはずっと眩しかったんだ」

 差し伸べられた俺の手を梧灯はじっと見つめながら語り続ける。

「君の力になりたいと思っていたことは嘘じゃない。でも心のどこかでわかってた。きっと本当は、君の傍にいることで、自分がちょっとでもまっとうな……誇り高い人間になったような気になりたかっただけなのかもしれない」

 ゆっくりと持ち上げられた梧灯の視線と交錯する。

 それがまるで救いを求めているかのように哀しげな視線で。

「それでも……こんな僕でもまだ、やれることがあるのなら――」

 梧灯の腕が迷いがちに差し出される。

 たまらず俺は、そんな梧灯の手を取ろうと腕を伸ばしたした。

 だが、次の瞬間。

 突然視界が白一色になった。

 続いて目の前が真っ暗闇になり、鼓膜を破らんばかりの轟音が鳴り響いた。

 俺は反射的に音がした方――体育館の外へと目を向ける。校舎入り口の方角から煙が上がっていた。

 校門付近の木に雷が落ちたのだと察したが、今度は開け広げられた門扉から正視できないほどの風が吹き込んでくる。

 すると、頭上から金属か何かが弾け飛んだような甲高い音が聞こえてきて。

 体育館の屋根が、端から空中にめくり上がっていくのが見えた。

「――――――っっっ‼」

 たぶん足元の梧灯が何かを叫んだのだろうが、風雨の音量が大きすぎて聞き取れない。

 すると強い力に引っ張られ、俺はたちまち体勢を崩して倒れ伏した。

 目を白黒させる間もなく俺は仰向けになり、再び目の前が真っ暗に。

 そして全身を震わせる激しい衝撃と音量が続き、数秒ほど経って風音だけがその場に残った。

 何が起こったのかわからない。打ち付けた背中の痛みだけが鮮明で、ほかの感覚は麻痺しているらしい。

 相変わらず視界は黒色に包まれていたが、鼻腔をふさがれた息苦しさのせいで布地が顔に被さっていたのだと分かった。

 だんだん感覚が戻ってくる。手足は動く。呼吸もできる。だが身動きは取れない。目の前は皺くちゃな黒色の布が視界をふさいでいる。

「ジョー」

 しわがれた声が聞こえてくる。音が聞こえにくいのは、耳がやられたわけではなく、声自体が弱弱しいからだろうか。

「ケガは?」

 大丈夫だと口にした、のだと思うが、自分の声がなぜか耳には入ってこない。

 心拍が乱れているのを感じる。

 俺はもう何が起きたのか理解しているはずなのに、五感が理解するのを拒否している。

 首を反らして顔に被さった黒いTシャツをどかすと、暗闇の中におぼろげな輪郭が目に入った。

 苦し気に眉根を寄せ、それでも無理やり笑みを浮かべようとする梧灯の顔。

 夜雨に濡れそぼった前髪を払うこともせず、ただじっと俺を見下ろしている。

 そうして俺に大事ないことをひとしきり視認したあと、梧灯は受け身も取らず俺の耳元へと墜落した。

「梧灯?」

 俺は声を震わせながら呼びかけたが、ヤツは固い床に突っ伏したままだった。

 梧灯の肩を揺すっても何の反応もない。

 俺はもう、何が起きたのか理解していた。

 梧灯の肩越しに、何か大きくて平たいものが覆いかぶさっているのが見える。きっと暴風で吹き飛ばされた屋根の破片なのだろう。

 梧灯が叫び声をあげたあの一瞬、ヤツは俺を床に引き寄せて体勢を入れ替え、落下物から俺を庇ったのだ。

 その結果がこの有様。

 おい梧灯テメー、なに満足げに気なんか失ってやがる。

 こんなことで詫びを入れたつもりなのかよ、えぇ?

 いつものように憎まれ口のひとつでも叩いてやりたい。なのに、どうしても声が出てこない。

 床に突っ伏したまま雨に打たれ続ける梧灯の横顔が、いつぞや霊安室で見下ろしたアキラさんの顔と重なってしまう。

 おまえにはまだやるべきことがあるって言ったじゃねえか。

 こんなことのために、おまえを生かしたかったわけじゃない。

 俺は、俺はただ、おまえに――――


 


 そのあとのことは、ほとんど覚えていない。自分で梧灯の下から這い出たのか、キリヲさんや牧たちに救助されたのかも定かじゃない。

 覚えているのは、救急治療室の前で思いつく限り梧灯の馬鹿さ加減を罵倒し、力の限り自分の無力さを呪ったことだけ。

 もっと他にやりようがあったんじゃないか、こうなる前に打つ手があったんじゃないか。そんな後悔ばかりが頭の中をぐるぐると巡っている。

 牧も鶏冠井も待合所のスツールで寝落ちしている中、俺だけが一人、『手術中』のランプを見上げながら悔悟していた。

 日付をまたぎ朝日が昇ったころになって、ようやくランプは消灯した。

 心臓が一段と高鳴ったのを感じる。

 ほどなくして扉の奥から出てきた医師はマスクを取り外したが、その表情は厳めしいものだった。

 鶏冠井八代医師は俺の姿を認めると、重々しく口を開いた。

 彼の言葉を聞いて俺はただ天井を仰ぎ見た。

 俺にできることはもう何も残されていない。

 それがそんな無力感に抗うためにできる唯一の、情けない意思表示だった。

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