41 OTHERS -09-『狂想曲《カプリッチオ》』
ジョーに肩を借りてワゴン車に乗り込んだとき、慄く心の片隅で
(ああ、やっぱりこの子は男の子なんだわ……)
キリヲというジョーの世話役から聞かされた情報に心を乱されながらも、やけに冷静に働く部位が思考をめぐらせる。
まるで自分の過ちをカラダの外側から見下ろすような、心の中からもう一人の自分が這い出てくるような、こそばゆい感覚。
頭の中から、カラダの外から、あるいは魂の奥底から、至る所から声が聞こえてくる。
償いをするべき時がきた、という声が。
円舞がジョーと出会ったのは中学校に入って間もない頃だった。
当時、円舞はとある事情から心療内科に受診していた。
そこは個人の診療所ではあるものの、その界隈では名の知れた精神科医が診てくれると評判だった。それも特に、円舞の父親のように裕福で外聞を気にするような者にとって。
患者のプライバシーを守ることを重視するその診療所において、患者同士が接触することはそう多くはなかった。診察は完全予約制で、待合室でほかの患者と遭遇することもほとんどなかった。
しかしある日、迎えの車が交通渋滞に巻き込まれて予定の時間に来ないことがあった。
手持ちのお金も心もとなく、行く当てもない円舞は待合室で車を待たせてもらうことにした。
ジョーが診療所にやって来たのはそんなときだった。
そのときもジョーはキリヲに付き添われていた。やたら顔立ちの整った美女が二人もやってきたので、円舞は遠巻きに彼女たちの様子を伺ってみた。
有名私立中学の制服の上からトレンチコートを羽織っていたジョーの横顔は、新進気鋭の舞台女優といわれても納得してしまうほど美しかった。けれど、しきりにコートの襟を正そうとするので何となくせっかちな印象を受けた。
こんな綺麗な少女も、心に爆弾を抱えているのだろうか。
お節介焼きな性分なせいなのか、それともジョーの容姿が美しすぎたせいなのか、円舞は彼女のことが気になって仕方がなかった。
それで必要以上に覗き見してしまったのがよほど気に食わなかったのだろう。キリヲが待合室から立ち去った途端にジョーは円舞に向かって歩いてきて、
「お姐さんよお、あんまじろじろ見ねーでくんない? ここはそういうルールのはずだろうが」
と、まるで仁侠映画の男衆みたいな物言いで睨みを利かせに来たのである。
麗しい外見との落差があまりに大きすぎて、思わず息を溜めてしまう。
だがその直後、数秒ともたずに円舞は腹を抱えて笑ってしまった。
自分は相手を美少女だと思っていたのに、実際は侠客みたいで。
相手は自分をお姐さんと表現したのに、本当はそうではなくて。
その対比が妙におかしくて、そこが病院だということも忘れて大笑いしてしまったのだ。
当時のジョーは初対面の相手を前にして笑い転げた円舞を危険人物だと判断して距離を置きたがっていたという。
しかし、円舞の方がジョーのことを気に入ってしまい、待合室で顔を合わせるたびにムリヤリ話し相手になってもらった。
そんなことが一年以上続いたころ、ジョーもとうとう根負けしたようで、徐々に自分自身のことを円舞に話してくれるようになっていった。
ジョーとは本当にいろいろな話をした。
お互いの学校生活、家庭環境、交友関係、趣味思考、そして――お互いの抱える心の病について。
円舞は幼いころから自分の性別が認識できない子供だった。
身体の性別は男である。ただし、自分が男であるということに確信を持つことができない。それどころか、円舞の性自認は常に不安定に推移していて、その精神は時に男のようになったり女のようになったりした。
そのせいで円舞は、中学校の制服を身にまとうことができなかった。身体の性別は男なので男子用の制服を用意しても、性自認の周期が女寄りのときに男子用の制服を着てしまうと、不快感のあまり嘔吐してしまうのである。
円舞の通っていた中学校はまともに制服を着用できない円舞の扱いに困り果て、しきりに転校を勧めてきた。しかし、どうしても転校したくない事情のあった円舞はその要請を頑なに断り続けた。
やがて円舞は心療内科にかかることになり、ジョーとの出会いを果たしたのである。
円舞は生まれながらにして不安定な心を持っていた。しかし、円舞自身はそのことを不幸だと感じたことはなかった。
円舞にとっての幸運は、すぐ傍に自分の理解者がいたことである。
母と二人の姉たちは、円舞のぐらつく心をありのままに受け入れ、献身的に支えてくれる。
幼馴染の
そして診療所で出会ったジョーも、似た境遇だからこそ身の上話を真剣に聞いてくれた。
いつも色々な人に助けられてきた。円舞を支えてくれた多くの人たちが、円舞に普通の人たちと同じような生活を送らせてくれた。
円舞は自分の肩へと視線を落とす。
この手に励まされてきた。何度も勇気づけられてきた。
ジョーはきっと、円舞のことを聞き上手の世話好きだと思っているだろうが、本当はそうじゃない。自分よりもずっと辛い境遇に置かれているジョーが自らの運命と立ち向かっているからこそ、円舞も挫けずにいることができたのだ。
それなのに、どうして。
どうして自分は、この手を振り払ってしまったのだろう。
「何があったのか、話してくれるな?」
力強さの中に確かな慈しみを感じさせる声音でジョーは言った。
これ以上は黙っていられない。
たとえどんな理由があったとしても許されることではないけれど、円舞はすべてを打ち明けることにした。
「ゴトーちゃんはたぶん、あの子がやったことに気づいたんだと思う」
「あの子って、もしかして――」
「そう、
「鶏冠井がやったことって、なんなんだよ。それとあいつらが一緒にいることと関係があるのか?」
ここから先を口にすれば、もう元には戻れない。鶏冠井も円舞も罰を受けることになるだろう。
この身体の震えは寒さのせいでも車の振動のせいでもない。
自分が思っていた以上に、真実を話すことを恐れていたのだと改めて実感させられる。
それでも円舞は意を決して真相を告げた。
「……盗聴よ。それも一回や二回じゃない。あの子は学校中の至る所に盗聴器を仕掛けて、他人の弱みや隠し事を嗅ぎ回っていた」
ジョーは目を見開いて絶句している。
無理もない、円舞もこの事実を知ったとき、まったく同じ反応をしたのだから。
あんな優等生がそんなことをするはずがない。
きっと誰しもがそう考えるだろうから。
「最初のうちは、単純に自分の技術力を試したかっただけみたい。でもそのうち他人の隠された一面を暴くことが楽しくなって、盗聴の範囲はどんどん広がっていった。わたしがあの子のしていることに気がついたときには、もう趣味の範疇を遥かに超える規模になってたわ。教室に食堂、旧校舎に部室棟、果てはトイレの中まで……わたしはあの子にこんなことは止めるように何度もお願いした。だけど、あの子は決して聞き入れようとはしなかった。それどころかあの子は逆にわたしの口を塞ごうとして……おどかしてきたの」
「……まさか、あいつはおまえの秘密を?」
円舞は力なく首を振る。
「それだけなら、私はバラされたってかまわなかった。特段隠してるわけでもないしね」
「じゃあいったい、何だっておまえは鶏冠井に脅されることになっちまったんだ」
これだ。
この問いかけに答えたくないばっかりに円舞は、ジョーの手を振り払ってしまったのである。
たとえそれが、誰のためにもならないとわかっていても。
「アンタの正体をネット上にぶちまけるって、そう言われたわ。それが嫌なら、黙って自分に協力しろって」
「…………ちょっと、待ってくれよ」
理解が追いつかないのか、ジョーは額に手をかざして黙考していた。
「それはつまり、鶏冠井は……ずっと前から俺のことを――」
「ええ。知っていたわ。何もかもを、ね」
ジョーと円舞が学校の外で特別親しくしていることも、ジョーの心が男のものであるということも、すべて知っていた。知っていて黙っていたのだ。
きっかけは数ヶ月前、ジョーと円舞が郊外にある『学園都市』でお茶をしていたときのことだという。鶏冠井は母親の言いつけで父親の職場へ荷物を届ける途中だったらしい。その道中で鶏冠井はジョーと円舞がファーストフード店のカウンター席に腰掛けているところを目撃した。
女なのに男の格好をしているジョーと、男なのに女の格好をしている円舞を。
鶏冠井は当初、円舞たちが付き合っているのではないかと疑ったという。しかし、二人の間に色恋の空気が一切感じられないことから、そんな簡単な間柄ではないとすぐに考えを改めたらしい。
「鶏冠井ちゃんはずっと、アンタと仲良くなりたがっていた。アンタに憧れて、アンタみたいになりたい、アンタのすべてを知りたいって、いつもそんなことばかり言ってたわ。それなのに、わたしがあの子にナイショでアンタと親しげに話してたものだから、すごく怒ってね。いったい何を話してたのか、どうして今まで黙ってたのかって。終いには『裏切り者』なんて言われちゃった」
それから鶏冠井は答えを求めて円舞に何度も詰問した。だが円舞はそのたび単なる友達付き合いだと言ってはぐらかし続けた。
業を煮やした鶏冠井はジョーの私物にまで盗聴器をしかけるという強硬手段に出る。やがて鶏冠井はジョーの秘密の核心を掴み、それをネタに円舞を脅迫するようになった。
「……なあ。さっきから気になってたんだが、おまえと鶏冠井ってそんな話をするほど仲良かったのか? 俺はてっきり、単に吹奏楽の部活仲間なんだと思ってたんだが」
「確かに……言ってなかったわね」
そのそっけない口ぶりは、言っている円舞本人すらわざとらしく聞こえるものだった。
言い忘れていたのではない。あえて言わなかったのだ。
これこそが円舞の罪の本質。ジョーにすら隠し続けていた本心。
「わたしね……ずっとずっと前から、鶏冠井ちゃんのことが好きだったの」
円舞が鶏冠井と出会ったのは、ジョーと出会うよりもさらに数年前にさかのぼる。二人は小学校以来、ずっと同じ学校に通い続けていた。
「鶏冠井ちゃん、昔から戦隊ヒーローものの特撮とか、ロボットがいっぱいでてくるアニメとかが大好きでね。女の子といるよりも男の子と一緒にいることが多いような、ちょっと変わった子だった。アンタもあの子と関わるようになって、心当たりあるんじゃない?」
「ああ、どうりで……」
「そんなんだから悪目立ちしちゃったのね、鶏冠井ちゃんはいっつもみんなからイジメられてた。それが放っておけなくて、わたしはあの子をかばおうとしたけど……知ってのとおり軟弱な男だったから、たいした力にはなれなかった。それに何か問題が起こるたび、鶏冠井ちゃんのお母さんが学校に食って掛かってたから、一応はそれで丸く収まって見えた」
「見えた?」
「そう、見えただけ。確かに鶏冠井ちゃんはわかりやすくイジメられることはなくなったけど、そのせいで友達なんて呼べる子は誰もいなくなってしまった。ほかの子たちの気持ちもわからないでもないのよ。何かあると物凄い剣幕でしゃしゃりでてくるような母親がいるんだもの、そんな子と付き合うなって自分の親に言われたら、ちっちゃな子たちは言うことを聞かざるを得ないもんね」
「それでもおまえだけは鶏冠井と友達付き合いしてたのは――」
「好きだったから。あの子のことが、どうしようもないくらい」
きっかけが何だったのかは、今となっては思い出すこともできない。
鶏冠井が楽しそうに話している姿に惹かれたのか、女々しい円舞を強く引っ張っていく姿に惚れたのか。
ただ一つだけ言えるのは、この想いが幼心に抱いた恋では片付けられないほど根深い感情だったということ。
「あの子の側に居たかった。友達でも何でもいい、この気持ちが届かなくたっていい。ただ、鶏冠井ちゃんと一緒に居たかった」
中学生のころ鶏冠井にムリヤリ吹奏楽を薦めたのだって、彼女と同じ時間を過ごす口実が欲しかったからだ。たとえ女の子らしい会話が苦手でも、同じ趣味で繋がる相手が見つかればきっと鶏冠井にも友達ができる。またいつかのように笑ってくれる日が来ると、そう思った。
でも現実はとても非情だった。どの集団に属しても、どの学校に進級しても、鶏冠井はいつも除け者にされた。結局彼女には、心を許せる友達なんて一人もできなかったのだ。
それは鶏冠井が優秀すぎて妬まれたからなのか、そもそも彼女に他人を受け入れる意思がなかったからなのか、はたまたその両方が原因だったのかもしれない。
それでも円舞だけは鶏冠井と関わり続けた。どれだけ邪険にされても、暴言を投げつけられても――強引に関係を迫られても、どうしても彼女を嫌いになれなかった。
家に帰りたがらない鶏冠井を少しでも笑顔にさせてあげたい。もっと色々な話をしたい。円舞の願いはたったそれだけのささやかなものだった。それなのに――
(それなのに、わたしは……どうして間違えちゃったのかしらね……)
円舞の目尻から一筋の涙が零れ落ちる。
「さっきはアンタを庇ってたみたいなこと言ったけどね、ホントはそうじゃなかったのよ。わたしはただ、あの子とアンタを天秤にかけただけ。アンタよりもあの子が大事だったから、あの子の言いなりになることを選んだだけなのよ。アンタからの連絡を無視したのだって、アンタの家を盗聴したのだってそう。全部、鶏冠井ちゃんのために望んでやったことなんだ」
本当はわかっていた。鶏冠井がジョーの秘密を言いふらすなんてただのハッタリだということくらい。それでも円舞が鶏冠井に従ったのは、結局は鶏冠井に嫌われたくなかったからに過ぎない。
ジョーの視線に耐えられなくなり、円舞は両手で顔を覆った。
「お笑い種よね……梧灯ちゃんにはあんな偉そうな口を叩いたくせに、わたしにはできなかった。鶏冠井ちゃんのことが大事なら、本当の本当に大好きなら、たとえ彼女に嫌われたってあんなことは止めさせるべきだったのに。あんな、ネットを使って梧灯ちゃんを貶めるようなマネ」
「……それってまさか、あ、あの写真を学校裏サイトに載っけたのって……」
ジョーの声からは驚きと同じくらい、失意が滲んでいた。
「なんでだよ、いったいどうして……!」
「……鶏冠井ちゃんは、もっとたくさんアンタに自分のことを見てほしかったのよ。だから、アンタの視界に割って入る梧灯ちゃんのことが憎くて憎くて仕方がなかった」
「だからってあんな……あの写真のせいで、あいつは警察にまで疑われて、ムリヤリ学校を休まさせられたんだぞ。それなのに――」
突然、ジョーの声が途絶えた。
数秒の沈黙の後、掠れた声が幽かに聞こえてきた。
「お、おい、ちょっと……待てよ 。おまえの話はおかしい」
とうとう答えに辿り着いてしまった。
いや、ここまで言えばどんなお人よしでもわかってしまう。
「あの写真を撮影できたってことは、鶏冠井はあの日、あそこで何が起こるか、あらかじめ知ってなきゃならない。まさか――」
声を震わせて、ジョーは事実を口にする。
「鶏冠井は、俺が狙われていることを知ってたっていうのかよ」
円舞がその事実を聞かされたのは、すべてが終わったあとだった。
文化祭の日、円舞は幼馴染の睦月から奇妙なメールを受け取った。
映研の催しに使ってた座席が足りないから、地下倉庫まで取りに行ってほしい――。
どうして映研とは無関係の円舞にそんなことを頼むのか不思議だったが、あれもすべて鶏冠井の計画のひとつだったのだ。
鶏冠井は事前に睦月の弱みを調べ上げ、彼を言いなりにさせた。盗撮用の高性能カメラを睦月から奪い取った鶏冠井は、睦月に円舞を呼び出させたあと、一人で事件現場の外で待機する。
鶏冠井の計画では、事件の目撃者は円舞になるはずだったらしい。彼女が当初描いていた構想では、ジョーが不埒者たちに襲われた直後に円舞が現場を目撃し、円舞の助けを聞いた(ことになっている)睦月が教師たちを引き連れて来るはずだった。そうすれば、犯行の間際に犯人たちを取り押さえることができる。ジョーへの負担はせいぜい野良犬に噛まれた程度で抑えられると、鶏冠井は考えていたという。
しかし実際に地下倉庫を訪れたのは円舞の仕事を代わってくれた梧灯だった。その梧灯も事件の首謀者である四人の生徒たちの妨害を受けてしまい、さらには教師を呼び集めに向かったはずの睦月も時間通りに地下倉庫へ辿り着けなかった。鶏冠井の計画はことごとく上手くいかず、結果としてジョーにあのような熾烈な体験を強いることになってしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……」
「泣いてちゃわかんねーよ、何とか言えよ、牧っ!!」
ジョーの言い分は尤もだ。円舞はこの事件に関わった加害者側の人間として、被害者であるジョーへ責任を果たさなければならない。
嗚咽を噛み殺してでも語らなければならないのだ。
「文化祭の数日前に、鶏冠井ちゃんは、アンタのクラスの奴らが、アンタを襲う計画を立ててることを、盗聴で、知って……それで、その計画を利用しようと、思ったって……言ってた。犯行の決定的な場面をおさえて、そいつらを学校から追い出してやるつもりだって。ついでに、集めた素材を流用して、梧灯ちゃんの悪評をネットでばら撒いて、アンタから離れさせてやるんだって……」
「あのくだらねぇ噂話まで、鶏冠井の仕込みだったって言うのか……!?」
「ち、違うっ、それは、それだけは、本当に、違うの。鶏冠井ちゃんは……あの子はあの子なりに、アンタを必要以上に傷つけないよう、気をつけてた。ネットにだって、アンタが写りこんだ写真は、一枚もアップロードしてない。あの子は、ホントウにどうしようもない子だけど、大バカだったけど、それだけはやってない、やってないんだよぅ……」
噂話の出所を円舞は知らない。それどころか鶏冠井ですらわからない様子だった。
しかし今になってみれば、可能性はいくつか考えつく。
たとえば、鶏冠井に弱みを握られ言いなりに動かされていた睦月。彼が鶏冠井に対する意趣返しとして、鶏冠井が嫌がる話を広めたのかもしれない。
それとも、ジョーのことを毛嫌いしていた女生徒たちが事後処理に追われる教師の会話を立ち聞きして、事実に尾ひれをつけて言いふらしたのかもしれない。
なんにせよ、本当のところはわかりようもない。わかるのは、ジョーや梧灯を排撃したくてウズウズしていた連中がそこかしこに居たというおぞましい現実だけだ。
「でも……気づいたらあんな大事になって、アンタは二ヶ月近くも休学することになって……梧灯ちゃんも変に疑われて……」
もし円舞にその気があったなら、消耗しきったジョーの見舞いに行くことだってできた。梧灯の無実を訴えることもできた。できたはずなのに、何もしなかった。鶏冠井の暴走を止めることもなく、事態を静観していたのだ。
謝ったって許されることではない。
「だから、だから梧灯ちゃんは……こうなるきっかけを作った、鶏冠井ちゃんを許せないんだと思う」
「……梧灯はどうして鶏冠井がやったことに気づけたんだ。おまえが告白したわけじゃないんだろ?」
「わからない。でも、そうでもなきゃ梧灯ちゃんが鶏冠井ちゃんを呼び出す理由なんてないじゃない」
円舞はここ一ヶ月ほどの梧灯の様子を思い返す。
他の生徒たちの目も憚らず、強引にジョーを側に置いておこうとした梧灯の目付きは、明らかに普通ではなかった。学校内に潜む迫害者を一人残らず見つけ出そうとする狩人のような、敵対者を食い殺そうとする野獣のような、空恐ろしいまでに血走った目をしていた。
数ヶ月前に転校してきたばかりの頃のような、頼りないくらいに人の良さそうな雰囲気は霧散してしまっていた。
あんな状態の梧灯が、事件の黒幕とも呼べる鶏冠井と対峙したらどうなるか。そんなこと、火を見るより明らかだ。
「うぅっ、ううぅぅ……」
「…………………………」
ジョーの沈黙に胸が痛む。耳の穴から針金を通されて心臓を縛り上げられたようにすら感じる。
円舞が勇気を出して鶏冠井と向き合って入れば、こんな悲しい成り行きにはならなかったはずだ。ジョーが恐怖に怯えることも、梧灯が憎悪に飲み込まれることもなかった。なにより、鶏冠井を取り返しのつかない悪者にさせることはなかっただろう。
これ以上、愛する人たちに傷つけ合って欲しくない。それは心からの願いだ。
しかし、果たして今の自分にそんなことを願う資格があるのだろうか。
我が身可愛さに大切な人たちが嘆く姿を黙って見ていただけの牧円舞に、彼らの幸いを願う資格があるというのだろうか。
頭の中で、無数の自分が反駁する。
身体の外から、無数の視線が自分を責め苛む。
この震えはきっと車が揺れているのが原因ではない。
固定されない円舞の心が、行動したかったはずの無数の円舞たちが、何もしなかった円舞の罪を糾弾しようと肩を掴んで揺さぶっているのだ。
このままではもう二度と
そう諦めかけたとき、円舞の頬に熱が走った。
小雨に濡れ、血の気が引いていた頭が活力を取り戻す。
ジョーが張り手をしたのだと気づいたのはそのすぐ後のことだった。
「……今のおまえはきっと女に近いから、グーパンするのは勘弁してやる」
「ジョー、わ、わたし――」
「今はなにも言うなっ!!」
ジョーは円舞から顔を背け、後部座席に拳を振り下ろした。
「俺は聖人君子じゃねえ。おまえがやったことを――いや、やらなかったことを、何もかもを許すことはできねぇ」
爆発しそうな感情を必死に押し留めるようにジョーは話し続ける。
「だが俺は、誰かの告げ口をバカ正直に信じて誰か一人を悪者だと決めつけるような人間にだけは、なりたくねぇ」
そう言ってジョーは円舞の両肩を力いっぱいに掴んだ。
「だから、あいつらに会いに行こう。会ってちゃんと話をしよう。鶏冠井がどんなつもりでこんなことをしたのか、どうすれば梧灯の気が済むのか、ぶっ倒れるまで話し続けよう」
車内灯に照らされたジョーの両目は、真っ赤に充血していた。
「みんなで思いの丈をぶちまけて、それでもし、みんなが納得できる落しどころが見つかったなら――」
鼻水を啜って、不細工な笑みを浮かべながら話すジョーの姿は――
「どっかに茶でもしばきに行こうぜ。四人全員で」
最高に格好良かった。
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