40 SCENE -20-『ジョー』~ b

 梧灯の手紙を読み終えたとき、外から微かに雨音が聞こえてきた。

 開け放たれたドアからは寒風が吹き荒び、俺とマキの身体を凍えさせる。

 手紙を持つ手が震えているのだって寒さのせいだ。

 そう思い込まなければやってられない。

 梧灯に付き纏っていた暗い影の正体がようやくわかって、いろいろと腑に落ちた。

 先日アキラさんにも言われたじゃないか。俺はいろいろなものを与えられているから、いつかそれらを妬んで攻撃してくる者が現れるだろうって。

 学校の人間は、俺が異国の血を引いていることに対して攻撃した。

 俺は、自分の心と身体の食い違いに嫌悪して俺自身を攻撃した。

 そして梧灯は、俺が裕福な家庭で育った点を突いて攻撃した。

 それが真実。

 たったそれだけの単純な話。

 梧灯の手紙を頼りにあいつの心情を推察すれば、そういう話になってしまう。

「こんな、こんなものが、おまえの本心だって言うのか……?」

 小刻みに震える手が抑えられない。

 手紙を横から覗き見るマキの声も耳に入らない。

 どうしてなんだ梧灯。

 、梧灯っ!!

 おまえが金持ち嫌いな理由はこの手紙通りなのかもしれない。それでも、だからといっておまえがそんな逆恨みのような感情で俺とつるんでいたなんて、信じられると思ってんのか!?

 読みようによっちゃこの手紙、あいつが俺を手篭めにするために策を弄してきたようにも取れる。だけど、俺はおまえが母さんとどんなやり取りをしたのか知ってるんだぞ?

 どんなに脅されても俺を庇おうとしてくれたことも、俺のためを思って自分が悪役になろうとしていたことも、すべて知ってるんだぞ?

 それをなんだよ、こんな手紙を残しやがって。

 こんな手紙、おまえの本心の何パーセントも書かれてねーだろうが。

 金を鶏冠井の親父さんに渡してくれだと? 奨学金に頼らなきゃならねーほど貧乏なおまえのどこにこんな金を貯めこめる余裕があるんだ、なにもかも母さんの差し金だったんだろうが!

 最後の最後まで自分をないがしろにしやがって。

 自分の出自も、母さんとの取引のことも、すべての真実を呑み込んだままいなくなろうっていうのか?

 それが俺のためになるとでも思ってるのか?

 俺の覚悟なんて、俺の感情なんてどうだっていいっていうのかよっ!?

「あらあら、やはりこうなってしまいましたか」

 身を切るような風に混ざって、玄関から冷淡な声が聞こえてきた。

 慌てて振り返った先で見知った女が肩を濡らす霧雨を払っていた。

「……キリヲさん、どうしてアンタがここに居るんだよ」

 ぎょっとする俺たちをよそに、彼女は土足で居間まであがってくる。

 そして何を思ったか、深々と腰を折って口上を述べた。

マキ円舞ワルツ様ですね? お久しゅうございます。お会いするのは確か中学以来ですかねぇ。

 余所行きの笑顔に空々しい挨拶。

 訝しげな視線が牧のつま先から頭のてっぺんまでを行き交う。

 キリヲさんの態度には、牧が中学時代から変わっていないことを揶揄する含みがあった。

「あっ、その、こ、これは……」

 ようやく自分の身なりの不自然さに気づいたのか、牧は羞恥に顔を赤らめた。

 牧は身体をよじって衣服を隠そうとする。

 スカートの下に古びたジーンズを穿き、迷彩色のモッズコートの下には明らかに女物だとわかるハート柄のカットソーが見え隠れした。統一性の欠片もない、ごちゃ混ぜの服装だった。

 きっと鶏冠井カエデの家出を知らされて、気が動転したまま家を出てしまったのだろう。いまの牧がなのか、きっと本人にもわかっていないに違いない。

 牧の窮状を推し量る俺とは裏腹に、キリヲさんは関心が失せたと言わんばかりに牧から視線をはずした。

 そしてキリヲさんはたじろぐ俺から梧灯の手紙を奪い取った。

「『たとえこれから何があっても』ね。まったく、お里が知れるというものです」

 手紙を一読して、彼女は皮肉げに鼻で笑った。

 あまりに侮蔑的な態度に腹がたち、俺はキリヲさんの手から手紙を分捕っていた。

「なに笑ってるんだよ、なにもかもアンタらがあいつを追いつめたせいじゃねーか!!」

「追いつめた?」

 やれやれといった体でキリヲさんは首を振る。

「仮にそうだとしても、あのクソガキが貴方あなたから逃げ出したのは彼自身の意思ですよ。我々の関知するところではない」

「なにを――」

「いいですか、ジョセ様」

 騒ぎ立てようとした俺の口を指一本で押さえつけた。

「あのクソガキは社長との取引を貴方が知っているという事実を知らない。あれが狂言だったということを含めてです。にもかかわらず彼は、自分が泥を被るのを嫌って貴方から逃げ出した。彼が役目を果たさなければ、貴方がどうなるのかを知っていたはずなのに」

 梧灯が命じられた役目とは、俺に自分が女だと認めさせること。

 梧灯が役目を果たさなければ、母さんの息のかかった誰かが俺を強引に犯しに来る。あいつはそう信じきっていた。

 それがわかったうえで、梧灯は行方を晦ました。

「つまり、あのクソガキは貴方のことを見捨てたのですよ」

 酷薄な言葉が俺の心臓を撃ち抜く。

 あいつが俺を、見捨てただって?

 俺がどうなろうと知ったこっちゃないって?

 俺の目を誤魔化すために、思わせぶりな手紙を書いたって?

 それがあいつの、本当の本心だって、そう言うのか?

「ね、ねえ、取引って、いったい何の話なの……?」

 牧がおっかなびっくり尋ねてくるのを、誰も答えようとしない。キリヲさんはもちろん、俺すらも無言だった。

 口なんて簡単に開けるはずがなかった。

 

 しかし怒りの矛先が向いたのはこの場にいない大男にではない。

 目の前に立つパンツスーツ姿の女にだ。

「だから何だってんだ……」

 しわがれた小声しか出てこない。

 部屋の寒さと激しく脈動する心臓のせいで身体の震えも止まらない。

「あいつが俺を見捨てただと? だから何だよ、それの何が悪いっていうんだ……?」

 ゴポゴポと沸き立つマグマのような感情を必死に押し殺す。

 そうでもしないと、いまにもキリヲさんに掴みかかってしまいそうだった。

「アキラさんがいなくなっただけでもショックだったはずなのに、あいつは母さんからいらない圧力までかけられたんだぞ? 誰だって逃げ出すに決まってる、それだけのことじゃねーか……」

「おや、では貴方は彼のことを許すと仰るのですか?」

 目の前の女はおどけた調子で俺を侮る。

「死に行く母親の代替品を見つけて猫可愛がりし、母親が死んだあとは貴方の厚意につけ込んで私娼のように扱った。彼の行為のどこに許されるべき点が見出せるのでしょう」

 うるせえ。

「結局は彼もそこいらの有象無象と同じ。貴方の美貌に引き寄せられただけの害虫だったのですよ」

 うるせえよ。

「たとえ圧力があったにせよ、これまでの日々は彼にとって充分すぎるほどの役得だったとは思いませんか」

 うるせえっっっ!!

「アンタが梧灯の何を知ってるって言うんだっ!!」

 その一言で、溜め込んだ怒りが噴出した。

 床に向かって怒声を上げたのは、女を殴ってはいけないというひとかけらの良識が拭い去れなかったから。

「キリヲさんよ、アンタにわかるか? ろくに口を聞いたこともない相手の力になりたいって話を切り出すのにどれだけ勇気がいるか、ケンカ慣れしてないヤツが三人も相手に立ち向かうのにどれだけ勇気がいるのか。自分だってそれどころじゃなかったろうに、散々警戒されても、嫌味を言われても、濡れ衣を着せられても、あいつはずっと俺に寄り添おうとしてくれてたんだ」

 キリヲさんの胸ぐらを鷲づかみして引き寄せた。

「それなのに寄ってたかってあいつを責め立てたんじゃねーか、追いつめたんじゃねーか! 何が役得だ、ふざけるなっ!! あいつの善意を汚したのはアンタらだろっ!!」

 飛び散る唾が女の顔を点々と濡らしていく。

 それでもこの女は、ただ淡白な目つきで俺を見返すだけだった。

 その態度が無性に腹立たしくて、俺はスーツ服姿の美人を乱暴に突き飛ばした。

「アンタの挑発に付き合ってる暇はねえ。こっちはクラスメイトの家出問題も抱えてんだ。用がないなら消えてくれ」

 もうこんな女のことなんて知るか。

 怒りが冷めやらぬ中、彼女に目もくれず家を飛び出す。

 霧雨が俺の全身をポツポツと濡らしていく。だけど、どれだけ身体が冷えようと逆上せきった頭が冷えることはなかった。

「ああ、そのことについてですがねぇ」

 まるでたったいま思い出したかのようにキリヲさんは言った。

「ジョセ様がお探しのご友人の居場所でしたら、すでに把握してございます」

 そのたった一言で俺の足はぴたりと止まる。

「ついでに、あのクソガキの居場所も」

「アンタいい加減にっ――」

「二人はいまジョセ様の高校にいらっしゃるようです」

 玄関口で屹立するキリヲさんの様子を見て、俺は言葉を呑み込んだ。

 さっきまでの人を小馬鹿にするような雰囲気が消え失せている。

 360度どこから見ても隙のない完璧なビジネスパーソンがそこにいた。

 オフタイムおふざけはここまでということなのだろう。

 まったく、本当にこの人は性質が悪い。ここまでオンオフをはっきりされてしまったら、面食らって怒るに怒れない。

 だが、問題はそれだけで終わらない。

 そんな彼女の後ろで、牧が膝から崩れ落ちるのが見えたのだ。

「おい牧、どうしたんだっ!?」

「そんな、まさかそんな……」

 慌てて駆け寄った俺の問いかけに何も答えない。

 牧はただ真っ青な顔をしてうわごとを繰り返すだけだった。

 いったい何がどうなってる。

 どうして梧灯と鶏冠井カエデが一緒にいる?

 どうしてそれを知って牧がこんなにも動揺してる?

 どれだけ声をかけようとも答えは返ってこない。静かだったはずの雨音がやけに大きく耳を打ち、俺の焦りを募らせていく。

「あまり時間がありません。話の続きは車の中で」

 俺が牧を介抱している間にアパートの前に黒塗りのワゴン車が接地されていた。きっとキリヲさんの同僚が近くで待機していたのだろう。キリヲさんは俺の目の前で恭しく傅いていた。

 俺は牧に肩を貸すと、一も二もなくワゴン車に乗り込んだ。

 こういうときキリヲさんは決して冗談を言わない。子どもの頃から世話してもらってるんだ、それくらい俺にだってわかる。

 詳しい話はあとで聞き出せばいい。

 今はただ、一刻も早くあいつらを見つけないと――

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