38 SCENE -20-『ジョー』~ a

 電車の揺れを感じながら、早朝の日差しに顔を顰めた。

 俺は隣に座るゴトーに話しかける。

「あの、ゴトーさん。私のスマートフォンをどこかで見かけませんでしたか?」

「…………家に、置いてきたんじゃない?」

「ふぅむ。まあ、なくても学校では困りませんけど」

 今日はゴトーの家で朝食をとるために早めに家を出た。そのとき確かメッセンジャーバッグの中に入れたと思ったんだけど、スマートフォンはどのポケットにも入っていなかった。

 別に学校でスマートフォンを使う用事があるわけじゃないから、家に置き忘れることもたまにある。今朝もちょっと寝ぼけてたし、案外充電しっぱなしっていうこともあるか。

 俺は一人でそう納得し、少しだけ仮眠をとることにした。

 電車の外から入ってくる冬の張り詰めた空気と、電車の中を満たす暖気。それに座席の微振動が合わさると、電車の中は絶好のうたた寝スポットに変身する。

 かくいう俺も、ものの数分で寝入ってしまった。

 数十分経って目が覚めたとき、俺はゴトーの肩――というか二の腕の辺り――に首を傾けていた。

 もうじき目的の駅に着くから、習慣で勝手に目が覚めたのだ。俺は目元を擦って、うつらうつらとした意識を振り払おうとした。

 そのとき、ゴトーが横から俺を見下ろしているのに気がついた。

「おはよう」

 とても穏やかな声だった。

 柔らかで、消え入りそうな笑顔だった。



 シャワーバルブを閉めてお湯を止める。

 額に張り付いた前髪を掻きあげて水分を落としていく。髪が伸びてきたせいか水気はなかなか取れなかった。

 復学する前に行き着けの千円カットの床屋で髪を切ったきりだから、前髪を真っ直ぐ伸ばすと目に覆いかぶさってしまう。

 髪は極力短くしてもらっている。ただ、あまりに短いすぎるとそれはそれでダサい。だからいつも耳にギリギリかからないくらいで抑えてある。

 風呂場から脱衣所に移動して、おもむろにバスタオルで身体を拭いていく。その間、あまり鏡には視線を送らない。

 鏡に映った自分の顔が嫌いだった。人より美形なのかもしれないけど、まわりの人たちと全然違う外人の顔つきが嫌いだった。なにより、自分の顔はあまりに母さんと似ていた。

 婀娜っぽさを振りまいて歩く女の中の女みたいな人と自分がそっくりなんて認めたくなかった。それでも遺伝が成せる業なのか、最近では体つきまで似始めている。

 だからといって俺の心が突如にせよ徐々にせよ女性化するわけもない。人間なんて不思議なもので、一卵性双生児の片割れが異性愛者で、もう片割れが同性愛者という例すらあるのだ。心が身体に引っ張られるなどというのは幻想にすぎない。

 ただ、そんな俺の身体を瀕死の友が求めている。

 求めに応じなければ友は死ぬ。見せかけだけでも母さんを納得させられなければ、友はあの魔人に殺されてしまう。

 求めに応じることで俺の心にどれだけの負荷が加わるかはわからない。

 それでも、俺はもう心に決めている。

 俺は今夜、ゴトーに抱かれる。

 今日の放課後、ゴトーは俺を置いてそそくさと教室を出て行ってしまった。

 ゴトーがよからぬことを考えているのではないかと心配で、俺はすぐにあとを追った。だけど、ゴトーの下駄箱の中身は上履きだけになっていた。

 これまで散々お手々をつないで登下校していたくせに、今日になって俺を解放するなんておかしい。胸騒ぎがした俺は、急いでゴトーを追いかけようと外履きに手を伸ばした。

 すると、俺の下駄箱の中に置手紙があることに気がついた。

 手紙はゴトーからで、要件は簡潔だった。

「今夜二二時に君の家に行く。シャワーを浴びておいてください」

 ああ、とうとうこの日が来てしまったのか。

 これはゴトーからの最後通牒なのだ。

 ゴトーはまだ、母さんの脅し文句が狂言だと気づいていない。ゴトーが俺を女にできなければ、別の誰かが無理矢理俺を奪いに来ると信じてしまっている。

 否定しようにも、俺は母さんから口止めされているせいでそれもままならない。

 だからゴトーの道は二つに一つ。

 俺を抱かずに見捨てて破滅するか、俺を抱いて助けて地獄に堕ちるか。

 一ヶ月近く悩みぬいた末、ゴトーは後者を選んだのだ。

 なら、俺の答えは決まっている。

 俺はゴトーの選択を尊重する。

 ゴトーはきっと、生き地獄にいることは望まない。俺を女にするという母さんとの取引を達成したら、あいつは本当に地獄へ堕ちる気でいるはずだ。

 それだけは絶対に阻止してみせる。

 なに、今度は文化祭のときとは違って強引に犯されるわけじゃない。十全に覚悟を決めたうえで事に望むのだ。相手があのゴトーなら、どんな無茶苦茶もしないはず。

 すべてが終わったあと、何にも気にしていないというふうに笑いかけてやればいい。

 いつか母さんの眼の届かないどこかに逃げ出すその日まで、優等生の仮面を被り続けていればいいのだ。

 俺が一時的に耐えるだけでことが丸く収まるなら、それで万々歳じゃないか。

 それでゴトーが救われるなら――

 俺の思考を打ち切るように、甲高いチャイムが鳴り響いた。

 洗面台に置かれた時計は二二時を指し示している。

 定刻通りにやって来たのか。相変わらず律儀な男だ。

 ここで俺がこのチャイムを無視するという選択肢もあるのだろう。そうすれば俺の貞操は守られ、俺の男としての矜持は傷つかないで済む。

 しかしそれは、ゴトーの死と引き換えにだ。

 俺の決意はこんな誘惑ごときで覆らない。

 素早くTシャツに身を包んで、リビングへと舞い戻る。

 壁に備え付けられたモニタの電源を入れた。

 一階ロビーの様子が画面に映し出される。

 そこにゴトーはいなかった。

 代わりに立っていたのは意外な人物。

「マキっ!?」

 所在なさげにキョロキョロしていたマキは、通信スイッチが入ったことに気づくと画面に向かって話しだした。

「夜分遅くにごめんなさい、ケータイに出なかったものだから直接来たの」

 どうしてこのタイミングでおまえが来るっ!?

 もうすぐゴトーが来るかもしれないんだぞっ!?

 俺は気まずくなってそっぽを向いた。

 俺の選択を知ったら、マキはどう思うのだろう。

 呆れるのだろうか。失望するのだろうか。

 でも、わけもわからず俺と距離を置きだしたマキにそんなことを言われる筋合いはない。

 いままで散々無視しておいて、今更どの面下げて来やがった。

 だけど俺はそれらの言葉を呑み込んだ。ここでマキとケンカになったら、ゴトーがマンションに入って来れない。

 ただ、俺のそんな態度をマキは怒っていると読み違えたらしい。

「虫のいい話なのはわかってる、でも、でも……お願い、話を聞いて!」

 やけに必死だった。

 とにかく、何でもいいからさっさと帰ってもらわねば。

「…………何の話だ」

鶏冠井カエデちゃん、来てないっ!?」

「来てないけど、鶏冠井がどうしたって?」

「ああっ、どうしよう、どうしよう……!!」

「まどろっこしいな、さっさと説明してくれよ」

「鶏冠井ちゃんが、家出しちゃったんだよぉっ!」

 半泣きの顔が画面いっぱいに表示された。

 鶏冠井が家出っ!?

 こんな夜遅くにかよっ!?

 俺は焦った。できることならマキの力になってやりたい。家出したという鶏冠井のことはもっと心配だ。

 だけど、あまりに日が悪い。よりにもよって何で今日なんだ。

「ジョー、あたし、いったいどうすればっ……」

 両手で顔を覆い、カメラの前で右往左往するマキ。

 まずい、マキがこんなに情緒不安定になるなんて危険な兆候だ。

 どうしてで街中に出て来たんだ、見た目だってちぐはぐになってるじゃないか。

 俺はいろいろ考えたあと、マキに三分間だけロビーで待っているように伝えて通信を切った。

 ゴトーのことは気になるが、いま優先するべきは家出の問題だ。

 できれば、いや無理を言ってでもゴトーにも手伝ってもらう。約束を反故にしたままあいつを家に放置するのも充分に危うい。

 俺は固定電話からゴトーの自宅に電話をかけた。

 いかにあいつがズタボロの精神状態でも、俺が頼めばきっと応えてくれるはず。俺の心は決まってるんだ、逢瀬は明日にでも延期してもらえばいい。

 だけど、何度電話してもゴトーは出ない。

 ダイヤル音が繰り返されるばかりで、留守番電話にすらならない。

 もう俺の家に向かっているのかもしれない。

 それなら道中で合流すればいい。あいつと俺の家は一本道、どう転んでも行き違うことはない。

 俺は急いで外着に着替えてロビーへ向かった。

 エレベーターを降りると、自動ドアの前でうろちょろしているマキの姿が目に入った。

「ジョーっ、あのっ、あたしっ」

「いまは時間が惜しい。ゴトーにも声を掛けて手伝ってもらおう」

 俺は泣き出しそうなマキを連れてゴトーの家まで走った。

 湿気の多さと真っ暗な路地に心を乱されつつも、俺たちは一分かからずにゴトーのアパートへとたどり着いた。

 途中の道でゴトーとすれ違わなかったということは、まだあいつは家の中にいるはずだ。

 塗装の剥げたドアをノックした。

 応答がない。

 それどころか室内は電気が消えていて、誰かがいる気配もない。

 試しにドアノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。

 俺は息を呑んだ。

 最悪の事態を予想した。

「ゴトーっ!!」

 ドアを開け放って、室内へと飛び込んだ。

 部屋の電気をすべてつける。1DKのボロアパートの一室はそれですべて見渡せる。

 ゴトーはいない。

 トイレにも、風呂にも、ベランダにも、ゴトーはいない。

「ジョー、これっ」

 マキが円卓の上を指差している。

 円卓の真ん中に食卓傘が置いてあった。

 俺が今朝ゴトーの家を出たときにはなかったものだ。

 食卓傘をどけてみると、中から札束が出てきた。

 百万円の束が十個、占めて一千万円。

 こんな大金、どうしてあいつが……

 その札束の下敷きになっている封筒を見つけ、俺は急いで中を開いた。

 それは、ゴトーの遺書だった。

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