36 SCENE -19-『ジョー』
昼休みのグラウンド脇のベンチで、俺とカエデは昼食を取っていた。
二人とも弁当箱を持参していたが、その中身にはだいぶ差があった。
カエデの弁当箱は見た目よりも栄養価を考え抜かれたのだとわかる、茶系統の地味な色彩。
一方で俺の弁当箱は、ゴトーがその料理の腕を遺憾なく振るった色とりどりの代物。昨日の晩飯の残りであるファルシとかいうロールキャベツがまた絶品で、俺の空腹を十二分に満たしてくれた。
しかし、空腹は満たされても心の中までは満たされない。
俺はベンチの後ろを振り返った。
食堂の窓ガラスから、ゴトーが血走った目で俺のことを見ていた。
真顔だった。ほとんど瞬きしていないのではないかと思えるほど、俺の動向をじっと窺っていた。
「……何だか、気味が悪いよね」
カエデがぼそっと呟いた。
「新学期が始まってからずっとだよ? 監視されてるみたいで、ちょっと怖いよ……」
ちらりと肩越しに食堂を顧みて、身体を震わせるカエデ。
その気持ちはわからないでもない。身長一九〇センチ台で強面の大男が一指の動きも見逃さないよう凝視しているのだ。普通の子女なら恐れ戦いて当然だろう。
俺もゴトーの様子は不気味に思っていた。
ただそれは、ゴトーの不審さが恐ろしいということではない。あいつの豹変ぶりに胸騒ぎがするという意味だ。
年明けにアキラさんの遺体を確認しに長崎までついて行ってから、ゴトーは急に活力を取り戻した。
アキラさんの死が発覚したときにはさめざめと泣いていたのに、いざ自分の親の遺体を確認してもあいつは涙ひとつ流さなかった。
最初それは、ゴトーが現実を受け入れて努めて冷静になろうとしているのかと思った。
だけど違う。いまのあいつは、俺が知っているゴトーじゃない。
完全に別の何者かに変わってしまっている。
そうとしか思えないくらい、ゴトーの変化は急激だった。
学校が始まってから、ゴトーは校内の至るところで俺に付き纏うようになった。
俺が誰と話していても無遠慮に割り込んだり、用事があると俺の手を引っ張って目的地まで連れて行ったりもした。
登下校中など、誰の目も気にしないで俺の手を掴んで離さなくなった。最近では例の噂が悪乗りの域に達していたため、それを見た生徒たちの多くが「ひゅ~、ラブラブ~」と囃し立てた。
即座に否定したい衝動に駆られたけれど、俺は我慢せざるを得なかった。
母さんの部下たちがどこで監視しているかわからない。それに、その手を無理に振り払ってしまったら、ゴトーがどんな行為に及ぶかわからない。
いまのゴトーはやけくそになっている。誰かが側にいなければ自殺してしまうかもしれない。
だから俺は冬休み中と同様、毎日ゴトーの家に通った。
いつ犯されるとも知れない相手と一緒にいるのはたまらなく憂鬱だった。自分の性がこじ開けられ、歪められてしまうかもしれない。そんな憶測が俺を不安にさせた。
実際、東京に戻ってからのゴトーは以前よりも荒々しく俺を抱きすくめた。立っていようと座っていようと後ろから抱きついてきた。手や腕が俺の胸や股間に触れていても構わずに、力強く抱きしめた。
頭上から聞こえる鼻息が荒くなっていた。
背中から感じる鼓動が激しくなっていた。
そして例の如く、ゴトーは股間を堅くしていた。
もしかしたらあいつは、とうとう俺を犯す決意を固めたのかもしれない。
いまはその猶予期間で、俺に逃げ出すための時間を与えているつもりなのかもしれない。
これ以上自分に構うなら、君をメチャクチャにしてやる。
あの血走った目つきは、そんな警告の意図なのかもしれない。
だけど、俺は――
「別に、大したことはありませんよ。たまたま私を見ているように見えるだけで、冬景色を眺めているだけかもしれませんし」
「いや、でも、あんなに血走った目をしてるんだよ?」
「ドライアイでは? 空気の乾燥する季節ですから」
「……ジョーは、ゴトー君が怖くないの?」
「怖い?」
怖くないわけないだろ。
なあカエデ。おまえはあんな凶悪な顔をした大男が、台所で嬉々として包丁を振るってる姿を想像したことがあるか? 魚を捌いて手が血まみれになったときなんか、おまえどこのスプラッター映画だよって大笑いして突っ込んでやったこともあるんだぜ?
「怖いわけないじゃないですか」
あんなに厳つくて、野太い声で、屈強で、大柄で、腰が低くて、繊細で、優しくて、自分のことよりも他人のことばかり優先させるような男のことが、怖いわけないだろ?
「親友ですから」
もう俺は、あいつの友達なんかじゃない。
親友だ。
盟友だ。
心の友だ。
相棒だ。
俺が一番辛かったとき、あいつはずっと俺の側にいてくれた。
助けてくれた。
守ってくれた。
支えてくれた。
励ましてくれた。
だから今度は俺の番。
俺は自分がどうなろうとあいつを救ってやると決めた。
なあゴトーよ。
そんなに俺が欲しいなら、俺の身体なんかくれてやる。
好きなだけ抱けばいい。こんな脂肪の塊が欲しいなら好きなだけ揉みしだけばいい。赤ん坊のように吸い付けばいい。まさぐればいい。欲望のままに貫けばいい。
俺はもう大丈夫だ。
充分に自分の心と向き合った。
女の中で着替えることが辛くても、夜に一人で出歩けなくても、月に一回の生理が死にたくなるほど苦しくても、俺はもう下を向かない。
自分を蔑まない。決してくじけない。
この命が続くかぎり、俺はこの身体と、俺の運命と闘い続ける。
万が一その途中で倒れてしまうようなら、俺はその程度の軟弱者だったというだけのこと。
だけど、これだけは確かだ。
たとえどんな目に遭おうとも、俺の心が変わることなんてない。
俺は女にはならない。
俺は女にはなれない。
死がこの魂を肉体から分かとうとも、俺は永遠に男であり続ける。
冷たくなったアキラさんにすがりつく、ヤシロという名の医者を見たときに、俺はやっとアキラさんの真意を理解した。
いまの俺と同じだったのだ。
アキラさんは確かに自分の人生を選び取ったのだ。
あの人は、たとえどんな手を使ってでも友達のことを守りたかったのだろう。
そこにどんな経緯があったかなんて俺にはわからない。
でも、四十代にもなろうという男が謝りながら号泣している姿を見て、察しがつかないほどバカじゃない。
ゴトーは、アキラさんとヤシロという男の子どもなのだ。
そしてたぶん、ゴトーもそれを察したのだと思う。
いかにあの医者が生前にアキラさんと親しかったからといって、火葬から何から任せてしまったのは、ゴトーが未成年だったからというだけではないはずだ。
ゴトーはヤシロに何も言わなかった。怒りも詰りもせず、黙って彼の指示に従った。だけどそのことがかえって不気味だった。
もしもゴトーがその事実に傷ついていたら。
もしもゴトーがアキラさんたちの関係を俺たちの関係に重ね合わせてしまっていたら。
俺を抱き、母さんとの取引を全うさせたあと、自ら命を絶つのではないか。
絶対にそんなことはさせない。
ゴトーには生きていて欲しい。
また互いにバカをやって笑いたい。
一緒に行きたい所だってたくさんある。
たとえ元の関係に戻れなくなったとしても。
俺は絶対におまえを助けてやる。
「…………それなら、いいんだけど」
そう答えたカエデの表情は、少しだけ寂しそうだった。
遠く彼方で分厚い雲が広がっている。
近日中に東京は豪雨に見舞われるらしい。
嵐が近づいてきている。
終わりのときが、近づいてきている。
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