34 SCENE -17-『ジョー』

 塗装のはげたドアに雪の粒が張り付いていた。

 アパート一帯に薄っすらと積もった雪には足跡一つない。

 もう昼過ぎだというのに、その部屋の住人が昨晩から一歩も外に出ていない証拠だ。

 かじかむ両手を暖めるように熱した息を吹きかける。口から漏れる白い吐息が、余計に寒さを思い出させた。

 憂鬱な面持ちのまま、俺はドアをノックした。

 今日も来てしまった。

 友達だと思っていた男を慰めるために。

 ドアの鍵はすぐに解かれた。しかし、そのドアが内側から開けられることはない。

 少しだけ躊躇ったあと、結局俺は自分からドアを開けた。

 部屋に入ると、醤油とみりんが煮立った香ばしい匂いがした。

 台所で料理していたゴトーの顔がゆっくり、フライパンから俺の方へと向けられる。

 虚ろな眼をしていた。

 もはや何の感情も読み取れない、死んだ眼をしていた。

 ゴトーはまるで何も見なかったかのように、そのままフライパンへと視線を戻してしまう。

 胸がズキリと痛んだ。

 俺は不快感を紛らわすために、わざと軽い調子で声をかける。

「今日はお魚ですか? なに作ってるんです?」

「…………煮付け」

 十秒近く待たされてから、ゴトーはぼやくように答えた。

「それは見ればわかります。だから、何の魚の何料理ですかと」

「…………ぶりのあら煮。…………和食」

「相変わらずレパートリーが広いですよね。フランス料理も中華料理も日本料理も作れるなんて、店だって開けるのでは?」

「…………料理人には、ならない」

「なぜですか、せっかくアキラさんが――」

 菜箸を持っていたゴトーの手がピタリと止まった。

 アキラの名前は禁句だったのだ。

「……ごめんなさい、なんでもありません」

 呆然とするゴトーに労いの言葉を伝えてから、俺は円卓の前で腰を下ろした。

 台所に立つゴトーの背中は、とても小さく映った。

 九月の半ばにはじめてこの家にあがったとき、ゴトーの後姿は意気揚々としていた。

 いまのゴトーは、その頃と比べると見る影もない。立っているのがやっとといった様子だった。

 まるで糸の切れかかった操り人形のような、そんな危うい佇まいだった。

 料理はすぐに完成した。ゴトーのよそった白米と味噌汁を受け取って、俺たちは少し遅めの昼食をいただいた。

 味は依然として美味い。どこに出しても恥ずかしくない、上品な味わいがある。

 しかしどの料理も雑然と盛り付けられていて、丁寧さの欠片もなかった。

 正面に座るゴトーはそれらの料理を細かくつついている。それは、いかにも仕方なく食べているといった体だった。

 そんな様子のゴトーを見ていられなくて、俺は黙って食事を箸を動かし続ける。

 そして俺は、どうしてゴトーがこんなことになってしまったのかについて考え始めた。



 クリスマスの夜、俺はゴトーに押し倒された。

 あいつが持ち込んだビニール袋には、コンドームと思しき小箱が入っていた。

 犯されると思った。

 あいつに跨られて、本能的に身体が強張った。

 だけどあの日、ゴトーは俺を奪わなかった。

 俺の胸元に顔を埋めて、ただただ声を上げて泣いていた。

 そんなゴトーを俺は振り払うことができなかった。

 哀れだった。堰が切れたように号泣し、誰かに許しを請うゴトーのことが、嘆かわしかった。

 ゴトーが泣き疲れて眠りに落ちたのは深夜十二時を過ぎたあとのことだ。

 俺はゴトーの巨体の下から這い出て、寝入ったヤツが風邪を引かないように毛布をかけてやった。

 腫らした目元が痛々しかった。

 寝息とも呻きともとれる声が虚しく響いた。

 苦悶の表情で眠りにつくゴトーを前にすると、さきほどまでの困惑と憐憫の感情が治まっていくのを感じた。

 あとに残ったのは、抑えようもない怒りの感情だった。

 俺は自室へと駆け込んで、スマートフォンを手に取った。

 連絡帳に登録されたわずかな人間の中から、目的の相手の名前を激しく連打した。

 相手が電話に出ることは期待していなかった。

 たとえ留守電でも構わない。それでも俺は、この怒りをぶちまけずにはいられなかった。

 意外なことに、数秒待たずに目的の人物は電話に出た。

 聞きなれた声が嫌味を喋る前に、俺は嫌悪を込めて言ってやった。

「ゴトーに何をした」

「数ヶ月ぶりの第一声がそれなの、ジョセ」

 気だるそうな声がねっとりと返ってきた。

 電話の向こう側で長い黒髪をかきあげる女のイメージが思い起こされる。

「何をそんなに怒っているのかしらね、この娘は。別に彼に危害を加えたわけじゃないのに」

「何をしたかって聞いてンだよっ!」

 からかうような話し声が癇に障って、俺は怒鳴り返していた。

 しかし、母さんは俺の怒号なんてどこ吹く風に聞き流した。

「事後のあなたに電話をかける体力が残っているとは思っていなかったけれど、その様子じゃ彼は失敗したようね」

「……やっぱり、アンタがゴトーを焚き付けたのか」

「お気に召さなかった? お似合いのカップルに見えるのに」

「ふざけンじゃねえぞっ!? ゴトーは泣いてたんだぞっ!!」

 幼子のように泣いていたゴトーの姿が思い出された。

「あんな良いヤツをあそこまで追いつめやがって、いったい何の恨みがあってこんなことをする!?」

 母さんはいつもそうだ。死んだ父さんの会社を数年足らずで再建し、莫大な財を築いた辣腕で凡百の相手を従わせてきた。

 中学時代に俺にちょっかいを出していたクソ共は全員、あのあとすぐに地方の学校に転校したと聞かされた。俺が片思いしていた女の子だってそう。全部、母さんが汚い手を使って無理矢理そうさせたんだ。

「何回こんなことを繰り返せば気が済むんだ、そんなに俺のことが気に入らないなら、直接会って話せばいいだろう!? おいっ、聞いてンのかこの――」

 母さんは凄みのある低い声で俺の話を遮った。

 しかも、わざとわかりにくい異国の言葉を使ってだ。

 フランス語なんて日常生活じゃほとんど使わないから、子どもレベルの聞き取りだけで精一杯だっていうのに。

 ただ、ゆっくり喋っていたからおおよその意味はつかめた。

 母さんはこう言ったのだ。

「その汚らしい日本語で喋るなら何も話すことはないわよ?」

 俺はスマートフォンを握る手に怒りを預けて、ぐっと堪えた。

 そして、いつもやっているのと同じ要領で演技をした。

 見せ掛けだけの優等生の演技を。

「……いったい、何のつもりだったのかをご教授願いたい」

「はい、よくできました。目上の人間に啖呵を切るなんて、ろくな大人になれませんよ?」

 馬鹿にした調子で言われても、俺は耐えた。

 すべてはゴトーが何をされたのかを知るためだ。

「何のつもりと言われても、あなたのためとしか言えないのだけれど。それだけじゃ不満?」

「では質問を変えます。あなたがアキラさんを攫ったのですか?」

「ああ、彼の母親? 彼にも問い詰められたけど、私は何もしていないわよ? ただ、私の言うことを聞けば彼女を探すのを手伝ってもいいとは言ったけれど」

「……それで、ゴトーは何と?」

「頑なに拒否されたわ。余程あなたのことが大事だったみたい」

「私のことが? きちんと説明してくれませんかね……!」

 怒りで化けの皮が剥がれかかっていたが、それでも敬語を心がけた。

 敬語でしか話せない親子関係なんて異常だと思うが、ウチではこれが普通なのだ。

 なぜなら、母さんは俺のことを認めていない。たとえ医師からの診断を受けていようと、俺の心が男のものであるということを一切認めようとしない。

 だからなのか、ここ数年では口調を改めなければ話すら聞いてもらえない日々が続いている。

 恫喝に近い俺の問いかけに、母さんは涼しげに答えた。

「あなたを女にすれば大金をやると言っても断った。母親を見つけてやると言っても断った。言うことを聞かなければ紛争地帯に送り飛ばすと言っても断った。彼の克己心は賞賛に値する」

 血の気が引いた。

 くつくつと笑う母さんが得体の知れない化け物に思えた。

 言葉を失う俺を気にせず、母さんは嬉々として話し続ける。

「あなたの信頼を裏切るくらいなら死んでもいいとまで言っていたけれど、やっぱり彼も男の子よね。あなたが他の誰かに奪われるくらいなら、代わりに自分がやると快諾してくれたわ」

「…………なにを、言ってる?」

 それだけ搾り出すのがやっとだった。

 他の誰か? 奪う?

 いったい、何の話をしてる?

「なにって、ジョセを女にするということ?」

「違う、そうじゃない……」

 それはアンタがいつも言ってる妄言だろ。

 そんなことを聞いてるんじゃない。

「他の……誰かって……いったい、ゴトーに何て言ったんだ……」

「ああ、そのこと? まさか本気にするとは思わなかったのだけれど、存外これが彼には一番堪えたみたい」

「っっっ、だからっ――」

「部下に命じてジョセを妊娠させてやると言っただけよ。彼の母親のようにさせてやるとも言ったかしら。もちろん、大事な娘にそんなことをする気なんて最初からなかったのに。ふふふっ、彼、おもしろいくらいに動揺していたわ」

「……………………」

 絶句した。

 この女は、本当に人間なのか?

 なんて酷いことを言うんだ。

 俺に対してだけじゃない。

 それは、あいつにだけは絶対に言っちゃならない言葉だったんだぞ?

 アキラさんが母親になってしまったせいで不幸になったと思い込んでるあいつには、絶対の禁句だったんだぞ?

 それなのに、こいつは……!!

 俺が義憤に駆られているあいだに、ひとでなしはまだ悠々と喋っていた。

「まあでも、結局は債務不履行となったことだし、約束どおり彼には破滅してもらわなければならない」

「や、やめろっ」

 もう充分だろ、これ以上ゴトーを苦しめないでくれ。

 あいつは今も過去の記憶に囚われてる。

 あいつが昔、どんな目にあったかなんてわからない。

 それでも、あいつが悪くないということだけはわかる。

 寄ってたかって善意ある男を虐めていい道理なんてどこにもないはずだ。

「やめろと言われても、そういう取り決めだったのだから」

「何でそうなるんだよっ、あいつはちゃんとやったよ、俺を押し倒して抱きついてきたよっ!」

「『俺』?」

「わ、私を抱こうとして、抵抗されたから諦めたんですよ。未遂も既遂も同罪なんだから、ゴトーは役目を果たしたって言えるじゃないですかっ!!」

「それならジョセ、あなたは自分が女だと認めるのね?」

 冷徹な声が俺の頭を打ち抜いた。

「わたしと彼との取引は、『あなたを女にする』ことによってのみ完遂されたと認める。目的が達成されなかった取引は債務不履行となり、債務者は責任を負う。私の娘のあなたなら、それを嫌と言うほど知っているはず」

「わ、私は……」

「女だとは認めないのね? それならそれで構わない。他の方法を考えるだけよ。あなたの前から彼がいなくなっても、変わりの駒なんていくらでもいるのだから」

「待ってくださいっ!!」

 見えざる相手に頭を下げた。

 噛み締めた唇から血が滴り落ちる。

 ……言うだけだ。

 言葉にするだけだ。

 こんなもの踏み絵と同じだ。

 大したことはない。

 何を言わされたって、俺の心までは侵せない。

「認めます」

「何を」

「女だと認めます」

「誰が」

「私は女だと認めます」

「私とは誰」

「ルミエール・ジョスリーヌは女だと認めます」

「もう一度」

「ルミエール・ジョスリーヌは女だと認めます」

「もう一度」

「ルミエール・ジョスリーヌは女だと認めます!! だからゴトー君を助けてあげてくださいっ!!」

 自分の言葉が自分の身体を切り裂いていった。

 あまりに鋭すぎて、痛すぎて、目尻から涙が零れ落ちた。

 あんまりだよ。

 こんな無理矢理に言わせるなんて、ひどすぎるよ。

 人質をとって逆らえなくして、自分の望む言葉を引き出すなんて。

「なら、それを証明してみせなさい」

 とても退屈そうな声だった。

「あなたは女の子なのでしょう? それを私に証明しなさいと言っているの」

 証明なんて、そんなものどうしろっていうんだ。

 全裸になって性器を見せびらかせば証明したことになるのか。

 遺伝子型がXXだとわかれば証明したことになるのか。

 女らしい言葉遣いをすればいいのか。女らしい服を身につければいいのか。女らしい趣味があればいいのか。女らしい仕事につけばいいのか。女らしい恋愛をすればいいのか。

 でも、なんなんだよ、女らしいって。

 そんな曖昧なもん、わかりっこないじゃないか。

「できないの? それなら彼は――」

「できるっ、できますからっ」

「なにができるって言うの、ジョスリーヌ」

 ぴしゃりと言い切られる。

「駄々っ子じゃないのだから、中身のない言葉を使うのはおやめなさい。それは何も言っていないのと同じことよ。私はあなたの口から具体案が聞きたい」

「ぐ、具体案なんて……」

「……真夜中に電話をかけてきた挙句、愚にもつかない話を聞かせるなら、もうこの話はおしまい」

「待ってよ母さんっ、待ってよぉ!!」

 スピーカーから相手の吐息が聞こえなくなる。

 きっと電話を顔から遠ざけたのだ。

「おやすみなさい」

 あっ……

 ダメだ、このまま電話を切られたら。

 母さんは本当にやる。

 本当にあいつを破滅させる気だ。

 あいつは、ゴトーは……!!

 ボロボロになったゴトーの寝顔が浮かんで、

「抱かれるからっ」

 そう、無意識に叫んでいた。

「…………ふぅん?」

 愉悦の滲んだ声がスピーカーに戻って来た。

「面白い提案ね。もっと聞かせてちょうだい」

「……あなたの望みどおり、ゴトー君に抱かれて、女になりますから……」

 悔しくて悔しくて、目を開けていられない。

 もう嗚咽を止めることはできなかった。

「ゴトー君に手を出さないでください……大事な友達なんです、お願いします、お願いします……」



 それから六日経って、時は現在、大晦日へと戻る。

 あの日以降、俺は毎日ゴトーの家に通っている。

 母さんの手の者がゴトーに危害を加えないかが心配というのが一番だが、本当の理由は先日の経緯の通りだ。

 俺がゴトーに抱かれなければ、ゴトーは破滅させられる。

 こんなの間違ってる。

 狂っている。

 頭がどうかしている。

 当人同士の意思どころか人権すらも無視して、母さんは俺を女にさせようとしている。

 いままでも、女子小学校に入れられたり、一方的に女物の服を送り付けられたりしたことはあった。でも今回はその比じゃない。

 どこの世界に自分の子供を犯させて喜ぶ親がいるんだよ。

 散々汚い商売ばかりに手を出してきた人でも、俺の言葉に耳を傾けてくれない人でも、それでもたった一人の母親だと思っていたのに。

 こんな仕打ち、あんまりだ。

 もう何を信じればいいのかわかりゃしない。

 そんな思いが俺を深く憂鬱にさせる。

 昼飯を食べ終わったあと、俺とゴトーは二人でテレビを眺めていた。

 といっても、見ているのはアニメのDVDボックスだ。年末番組が始まるまでにまだ数時間もあるから、暇潰し用に俺が持ってきた。

 地上波未放送の回もあるからゴトーが喜ぶと思っていたのだが、ゴトーは例によって無反応。

 笑いもしなけりゃ泣きもしない。ただ呆然とブラウン管テレビに映されたイケメンと美少女のドンパチを見つめている。

 そんなゴトーの表情だが、俺は窺い知ることはできない。

 なぜならゴトーはいま、俺を背後から抱きすくめているからだ。

 居間で俺が胡坐をかいていると、たいていゴトーがふらふらやって来て、俺の背中をすっぽり覆う形で床に座る。俺はちょうど、ゴトーの両膝の間に収められている状態だ。

 腰に丸太のような腕を回されているせいで、俺は身じろぎするのも難しい。ゴトーが意識してやっているのかわからないが、まるで俺のことを逃がしたくないようにも見える。

 ぴたりつくっついた背中全体でゴトーの熱を、鼓動を感じた。

 ここのところ毎日こんなことが続いている。

 しかしゴトーはこれ以上の行為に及ぼうとはしなかった。

 母さんに脅された件を引き摺っているのか、新たな指示が出されたのか。それともアキラさんがいなくなったショックでおかしくなってしまったのか。ゴトーが黙っているせいでわかりようもない。

 ただ、今日のゴトーは一日中非番だ。アルバイトに行く前に俺を解放し、家まで送り届けてくれた昨日までとは違う。

 俺が帰らなければ、帰れなければ、正月の朝までこの家にいることになる。

 そうなったら、いよいよゴトーの気が変わってしまうかもしれない。

 あの日のように、力任せに押し倒されるかもしれない。

 その予兆がまったくないわけではないのだ。

 後ろから抱きすくめられる様になってから、俺の尻にゴトーの股間がずっと当たっている。

 そしてそこが膨らんで硬くなっていることも、俺は気づいていた。

 何ともいえない気持ちにさせられた。がっかりしたのとも失望したのとも違う、空虚な思いが胸中で渦を巻いていた。

 ゴトーはこれまでずっと、俺のことを男として接してくれたように思う。俺の粗暴な振る舞いにも下卑た言動にも、自然に受け答えしてくれた。

 まあ、ゴトーは元々誰が相手でも気を遣う人間だ。体力仕事があると俺の分まで勝手に引き受けてしまう。だから実際には、俺のことを自分より腕力の低い男として扱っているのか、か弱い女として扱っているのか曖昧な部分も多かった。

 それでも、ゴトーが好奇な目線で俺を見ていなかったことだけは確かだ。あいつは俺のことを恋愛対象としては見ていなかったはず。

 それなのに、ゴトーの男の部分はしっかりと俺の女の部分に反応している。

 自然現象だと言えばそれまでだが、それでも俺は薄ら寒いものを感じていた。

 結局、俺の主張は精神的なものなのだ。俺の境遇を理解してくれる人も納得してくれる人も世の中にはそれなりにいるのかもしれない。でも、遍く人には性欲がある。相手の心が男であると頭で理解していても、相手の見た目が自分好みなら身体が原始的な欲求に負けてしまうことは少なくない。

 心が身体に負けてしまうなら、身体通りの心になるのも必然だ。

 そんなデタラメな理屈でも通用してしまいそうで、恐ろしい。

 もし俺が今日、ゴトーに押し倒されてしまったら、俺はどうなってしまうのか。

 いつぞやの三人組の時のように咽び泣くのだろうか。

 嫌悪感が爆発してゴトーを殴り飛ばしてしまうのだろうか。

 それとも、本来あるべき性の組み合わせに従って、難なく受け入れてしまうのか。

 想像したくなかった。

 考えたくなかった。

 友達だと思っていた相手が自分の貞操を奪おうとしているなんて、性質の悪い冗談みたいだ。

 俺はただ、あの心地よい関係がいつまでも続いてくれればいいと思っていただけなのに。

 どうして俺は男の身体に生まれなかったのだろう。

 どうして俺は男の心に生まれついてしまったのだろう。

 俺が普通の女として生まれていたなら、こんなに苦しむことはなかったのだろうか。

 普通に女としてゴトーからの愛情を受け入れることができたのだろうか。

 でもそしたら、俺とゴトーはきっと出会えなかった。

 俺が『俺』だったから、ゴトーは俺を見つけてくれたのだ。

 この出会いが不幸の始まりだったなんて思いたくない。

 ゴトーが俺のことを好きだなんて信じたくない。

 そうでなければ、俺たちの行く末はたった二文字にまとめられてしまう。

 『悲恋』という、二文字に。

 俺にはもう、この状況をコントロールする力はない。

 母さんと約束してしまった以上、俺が女になったという証を立てる以外にゴトーが生き残る道はない。

 そうでなくともいまのゴトーは、いつ死んでもおかしくないほど弱っている。

 目を離せば自ら命を絶たないとも限らない。

 俺にできることはゴトーの側にいることだけ。

 選択肢を与えてやることだけなのだ。

 夕日が沈んで、街灯がぽつりと灯っていく。

 ベランダへ続く窓越しにそんな光景を眺めていたら、電話が鳴り出した。

 ゴトーは電話にまで反応を示さない。

 俺はゴトーに抱えられて身動きが取れないから、ゴトーの膝を揺さぶって電話に出るように急かした。

 それでゴトーはようやくはっとして、ふらふらと電話を取りに行った。

 聞き取りにくいほどの小声で一分ほどボソボソと話してから、ゴトーは俺の方へ向き直った。

「…………母さんの遺体が、見つかったって」

 その場で膝を付き、ゴトーは声なく涙した。

 そんなゴトーの姿があまりに哀れで、俺の涙を誘った。

 俺は少し逡巡したあと、泣いているゴトーの肩を抱いて引き寄せた。

 そうすることが自然だと、そう思った。

 アキラさんが死んだ。

 これでもう、ゴトーの支えは何ひとつなくなってしまった。

 世界でたった一人きりになってしまった。

 これから待ち受けるゴトーの孤独を思って、俺は泣いた。

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