32 SCENE -16-『ジョー』

「メリークリスマス、ジョー!」

「メリークリスマス」

 日本中がどこぞの神の聖誕祭を口実にはしゃぎまわるその日の夕方、俺はカエデとグラスを鳴らして乾杯した。

 もっとも、注がれているのはただの炭酸飲料だ。乾杯したのは単にそんなムードだったからというだけの話。

 場所は相も変わらず俺の家のリビング。教室の倍の面積はあろうというその場所にたった一人でいるのは寂しかろうと、わざわざカエデが遊びに来てくれたのだ。

「っていうのはまあ口実でね。冬休みになって部活もお休みになっちゃったから、暇を潰させてもらいたいなーって思ったんだ」

 そう言って照れくさそうにカエデは笑った。

 実際にはそちらの方が口実で、本当は俺の体調を気にしてくれているのだろうと思う。

 復学初日に過呼吸で失神なんてマネをやらかしてしまったのだ、小心者なカエデが心配しても不思議じゃない。

 控えめで押し付けがましくなく、自分のためと言いながら相手のために行動する。いまでは死語となった大和撫子の姿をそこに見た気がした。

「せっかくのクリスマスなのに、私なんかが相手では退屈でしょう。自慢じゃないですが、話題の乏しさには自信がありますから」

「乏しくなんてないよー。わたし、ジョーとマンガとかアニメのお話するの好きだよ?」

「幻滅したのではありませんか? 優等生ぶっていた人間の中身がこんなちゃらんぽらんで」

「ジョーがちゃらんぽらんだったら、わたしなんかゴミクズだよ、ゴミクズ。目くそ鼻くそ同士――いやだからこれじゃ悪口だってば――似たもの同士、もっとお話しさせて欲しいんだよ」

 こぼれんばかりの笑顔を浮かべて、カエデは言った。

 思えばこうして女子と歓談したのなんて何年ぶりだろう。

 俺の身体的性別や容姿に従うなら、俺の母集団は女子になってしまう。だが、中身の性質がまったく異なるもの同士で雑談したところで会話なんてそう長くは持たない。一方がアクセサリーやらスイーツの話をしたがっているのに、ゲームや格闘技の話を持ち出したって意味はない。お互いがつまらなくなるだけだ。

 そのはずなのに、カエデは俺の話題についてこれる。

 もちろん気を遣って合わせてくれているだけの可能性もあるが、それにしてはカエデの話し振りには無理がない。なんというか、俺が好きな物事についての基礎知識があるように感じる。

 まさかこんな偶然があるなんて。こんなに話すことが楽しいと思える相手なんて、マキやゴトーぐらいのものだったのに。

 そう考えかけて、俺はフォークを握る手を止めた。

 テーブルに置かれたロール状のクリスマスケーキが視界に入る。

 今朝方ゴトーが手渡しに来た、「ブッシュ・ド・ノエル」と呼ばれる手作りのケーキだ。茶色いパン生地にクリームなどでデコレートされたチョコレート味の代物で、ほっぺが落ちるほど美味かった。

玄関でケーキをもらったあと、せっかくだから家で一緒に食べないかと誘ってみた。

 だがゴトーはアルバイトがあるからと言って、素気無く帰ってしまった。

 そのときもやはり、俺の顔を見ようとはしなかった。

 アルバイトがあるのは本当のことだろう。レストランにとってイベント行事は稼ぎ時なのだから。でも、あいつの仕事は早くても昼からだったはず。早朝から出なきゃいけないなんてありえない。

 つまり、俺と一緒にいたくないということだ。

 マキにしたってそうだ。学校でときおり遠巻きに俺を見ているだけで、絶対に声をかけようとはしない。それどころか、近ごろではメールにすら返事しなくなった。

 もうわけがわからない。

 心配なのか心配じゃないのか、いったいどっちなんだ。

「――それで彼女、戸塚一太と松林風雅の甘々シーンなんか邪道だって言って、風雅と親友の百合マンガなんか描いててさぁ……あれ、ジョー?」

 おっといけない。カエデの話を話半分に別のことを考えてしまった。

 俺は気を取り直して、前後の文脈からカエデの話を推測した。

「『トッカータとフーガ奇譚帳』、確かにあれも面白い作品ですよね。それで、彼女というのは……?」

「ほら、文化祭で脚本家をやってくれた文学さんのこと」

 そのあだ名から、冗談みたいな丸眼鏡をしている女生徒の顔が思い出された。

「ああ見えて彼女って雑食でねぇ、百合好きで腐女子ってスゴイと思わない?」

「え、ええ。結構なことです」

「文化祭の劇のオチって、護堂ヒカルの遣いとして終盤に出てきた幸田キラって子どもがヒカル自身だったってヤツじゃない? 彼女のことだから、絶対あれにもBLかGLの要素が入ってたと思うんだよね」

「と言いますと?」

「時にはネットを介して、時には電話で、または手紙でっていうふうに、ヒカルは4人の登場人物たちに一切姿を見せないまま恋をしてた。だけどさ、ヒカルの正体が男にしても女にしても、4人の中には男も女もいたんだよ? それってやっぱり変だと思うんだ」

 両腕を組んで首を傾げるカエデ。

「男なら女を好きになるはずだし、女なら男を好きになるのが普通じゃない? どっちも愛せるなんて、節操がないっていうか……」

 ……まあ、それが普通の人間の考え方だよな。

 人間には男と女しかいないのだから、片方がもう片方を愛するのが当然だという理屈。その理屈はシンプルすぎるが故に頑強で、誰も疑問にすら思わない。

 男と女の両方の性質を持って生まれる人間もいれば、俺のように身体と異なる性別を自認する人間もいる。はたまたそのどちらの性別とも自認できない人間までいるということを、多くの人々は知りもしない。

 知らないし、関心もない。教えてすらもらえない。

 カエデの無知や無関心だけを責めるのは酷なのだとはわかっている。

 しかし、続くカエデの言葉に俺の心臓は射抜かれる思いがした。

「まあそもそも、同性愛自体が理解できないんだけどねー。気持ち悪いとまでは思わないけど、なんかこう、しっくりこない」

 彼女には何の悪気もない。ただ、思ったことをそのまま言っているだけだ。

 異物に対する嫌悪感なんて人なら誰しも持っている。カエデだけが非情なんじゃない。むしろカエデの差別意識は寛大な部類に入るだろう。

 ただ、そうとはわかっていても、俺はカエデの言葉に上手く答えられないでいた。

 ぎこちない笑みを作った俺を見て、カエデは慌てて言葉を訂正する。

「ゴ、ゴメン、ジョー。いや、ジョーが百合好きでもBL好きでもわたしは全然気にしないからっ! むしろ、面白い話があったら教えてもらいたいくらいで……」

 この子は本当によく気がまわる子だよな。

 いつも人のことばかり見て、誰かのことを思いやってる。

 まるでゴトーみたいに。

 思わず溜息が出そうになる。

 ああ、ダメだ。こんな曇り顔でカエデをもてなせるものか。

 俺はグラスのジュースを飲み干して、思い切って話題を変えた。

「ところで、あの舞台で使われた調光機はカエデさんが持ち込んだという話だったと記憶していますが、もとから演劇の経験でもおありだったんですか?」

 幼い頃からクラリネットを吹いていたというカエデのことだ、もう一つくらい何かを習っているかもしれない。

 我ながら上手い切り出し方だと思った。

 しかし、カエデの答えは意外なものだった。

「ううん、違うの。あれ、夏休み中に自分で作ったんだ」

「自分で作った!?」

 地声になりかけてしまった。

 カエデがビックリした顔でこっちを見てる。

 俺はわざとらしく咳払いして、話の続きを促した。

「あんなスイッチとか、明るさを調節する摘まみとか、あれらすべてカエデさんが手ずから?」

「うん。ちょっと大変だったけど、いい勉強になったよ」

 照れ隠しの中にほんのりと自信の色が混ざっていた。

 驚いた。てっきりウチのリビング用のCDコンポと同じで出来合えの機械を用意したものとばかり思っていたのに。まさかあれがカエデの手製とは。

「もしかして、工作関連に造詣があるのですか?」

「そんな大したものじゃないよー。昔から手作りラジオとかプラモデルとか作るのが好きだっただけで、わたしなんか全然……」

「それでも素晴らしい技術じゃないですか。どうして今まで黙っていたんです」

 俺はカエデの話を聞いていろいろと腑に落ちた。

 カエデはどうも一般的な女子よりも男寄りの趣味の持ち主だったらしい。だから内心男の俺と話が合ったのだ。

「将来もそちら方面の進学を考えているのですか?」

「……うん。まだ、お母さんたちには内緒だけどね」

 もじもじしながらカエデは口を開いた。

「私立室町大学の理工学部が第一志望なんだ。あそこ、先端医療機器のメーカーとも繋がりがあるから」

「そこ、私も第一志望なんですよ。こちらは経済学部ですが」

「ほ、本当!? 本当に!?」

 打って変わってテンション爆上げとなるカエデ。

 眼が爛々と輝いていて、ちょっとだけ怖かった。

「え、ええ。あっ、確かゴトーさんもそうだったはずですよ? 確か彼は薬学部を狙っていたはず」

 どうしてゴトーの名前が口から出たのかわからない。

 ただ知っていることがたまたま声に出てしまっただけかもしれない。

 ……いや、それだけアイツのことが気になっているのだろう。

 夜になったら電話でもしてみるか。

 まあ、また居留守を使われるかもしれないけど。

 そう思いながら、意識をカエデへと戻す。

 カエデはなぜか、暗く沈んだ顔をしていた。

 感情の触れ幅が大きすぎて、その落差に驚いた。

 まるでマキでも見ているみたいだった。

 カエデは腕時計を凝視している。

 リビングにある時計を振り返ってみると、もうそろそろ帰らないとカエデの門限に間に合わなくなりそうだった。

 そんなに帰りたくないんだろうか。

 カエデは自分のことは話してくれても、家のことはほとんど教えてくれないから、どんな家庭環境なのかはわからない。ただ、この様子だと俺と同じくあまり幸福な状況とは言えないのかもしれない。

「もしお時間があれば、また遊びに来てください。年明けにお出かけしてもいいですし」

 俺の声が聞こえていないのか、カエデはしばらく反応しなかった。

 訝しがる俺の視線に気づいて、何ともいえない愛想笑いを返してくる。

 そのあとカエデとは玄関先で別れた。

 しょげ返るカエデは気の毒だったが、いつまでもここに居ていいとも言えないし、これ以上はどうしようもない。

 二時間くらい話したせいか、高揚感と共に疲労感も溜まっている。

 外は暗くなっているし、もうどこかに買い物に行く気にもなれない。

 俺はスマートフォンで出前料理を頼み、リビングへ戻った。

 テーブルの上に置かれたグラスと食器を片付けていく。

 カエデの食器には、ケーキが半分近く残っていた。

 あれ、あいつ確か甘いものには目がなかったはずだけど……

 俺は仕方なく、カエデが食べかけた部分だけを包丁で切り分けて捨てた。口がついていない部分は明日にでも食べればいい。

 ゴトーから教わった節約術を実践して、俺は出前が来るまで部屋に引き篭もった。



 夜九時を過ぎた。

 そろそろゴトーが家に帰ってきている時間のはず。

 俺はスマートフォンを手にとり電話をかけた。

 しかし案の定、ゴトーは電話に出なかった。

 絶対に家にいるはずなのに、また無視しやがってあの野郎……

 どうしたんだよ、なんでみんな俺を避けるんだよ……

 思い当たる節が一つだけある。

 俺はふと、復学初日の出来事を思い出した。

 あの日の昼、保健室で目が覚めたあとのことだ。

 俺は保険医に早退を薦められたが、それを断って授業に出ることを選んだ。

 昼休みの終わりごろになって教室へ向かったとき、教室から甲高い女の喚き声が聞こえてきた。

「あんな脳筋共のこととかどうでもいーんだよ! わたしはあの女が特別扱いされてるのが我慢ならないっつってんのっ!!」

 一発で俺の陰口だとわかった。

 声の質から言って、多分あの鼻持ちならないPTA会長の娘とかいうバカ女だと推察した。

 俺は廊下の柱に隠れて、教室内を覗き見た。

 バカ女は聞くに堪えないような卑語を並び立てて俺を貶め続けた。

 どいつもこいつも外人外人って、うるせーよ。

 俺は日本国籍を持ってる日本人だって何度言えばわかるんだ能無し共が。

 怒りで頭が熱くなっていくのと同時に、身体が震えていた。

 怒りよりも恐怖の感情が優っていたのだ。

 あの恐怖を思い出してしまったから。

 非難され、排斥され、異端視されたかつての記憶を。

 教室に突貫して怒鳴り込むことすらできず、俺は柱の影に隠れて脅えていた。

 そんなとき、教室内でズドンという太鼓のような音が響いた。

 犯人はゴトーだった。

 ゴトーはバカ女の元へ歩いていくと、俯いたまま立ち止まった。

 そして何を思ったか、バカ女の目の前でスチール缶をぺしゃんこにしてしまった。

 バカ女の負け惜しみをガン無視して自席に戻るゴトーの顔を俺は見た。

 あの時と同じ顔をしていた。

 俺が倉庫で襲われたとき、ゴトーは俺にまたがる男を引き摺り倒して、首を絞めた。

 アキラさんの病気を嘆くときとも違う、真っ暗な瞳。

 怨念という言葉では足りないほどの深い憎しみが、あいつの眼から光を奪っていた。

 あんなに臆病で物腰柔らかな男が、抜き身の殺意で人を脅かすなんて。

 俺には信じられなかった。その瞬間だけは、あいつがまったく別の生き物に変わってしまったように思えてしまったから。

 だからこそ、今までそのことに触れようとはしなかった。触れてしまえば最後、ゴトーの憎しみがこの俺へと向かうのではないか。そんな漠然とした恐怖があった。

 だけどやっぱり、もうそんなことを言ってはいられない。

 最近のゴトーの様子は明らかにおかしい。絶対に何かがあったはずなのだ。

 あいつは俺のことを心配させまいと、気丈に振舞っているつもりなのかもしれない。余計なことを言ってしまわないように、いつも以上に黙っていただけなのかもしれない。

 でも、誰にも言わずに悩んでいたって仕方がないじゃないか。

 無理をしたら破綻してしまうって言ったのはおまえじゃないか。

 ダメだ、やっぱりアイツを放ってなんておけない。

 俺はお気に入りの赤いジャケットを引っ掴んで玄関へと向かった。

 そこで急に足が止まる。

 続いて動悸が激しくなる。

 今はもう、外は真っ暗闇の世界だ。いかにこのマンションが無駄に豪華絢爛な街灯で飾り立てられていても、ゴトーの家までにはまったく街灯のない箇所があるのだ。

 地面との境目もわからなくなるほど、真っ暗な場所が。

 俺の手はドアノブを掴んでいる。だけど、マンションの外に出ると意識してしまったら、ドアノブをひねることができない。

 たった十数メートル耐えればいいだけじゃないか、何を恐れることがある。

 誰も、俺を捕まえたりなんてしない。そんなことはもう起こりっこない。

 わかってる。わかってる!

 でも、手の震えが収まらないのだ。

 俺はゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 いつまでも過去の事件に囚われていてはダメだ。

 強くならなきゃダメだ。

 前を向け、立ち止まるな。

 おまえが本当に男なら――

 俺は勢いよくドアを開いた。

「おっと危ないっ!」

 ドアの影から知っている声が聞こえてきた。

「まったく、考えなしに行動しないようにとあれほど言っているのに全然懲りてくれませんねえ、ジョセ様は」

 全開になったドアの裏から、タイトなパンツスーツを着こなした妙齢の女性が姿を現した。

「キリヲさん……」

 母さんの腹心の一人にして俺の世話役、キリヲさん。

 彼女とは俺が物心つく前からの付き合いだ。多忙を理由に家にも帰らない母さんの代わりに、俺の生活が乱れていないかを監督するのが彼女の役目。ついでに空手や柔道、合気道といった武術の達人でもあるため、俺のトレーナー役をも買ってくれている。

「今日は訪問日じゃないのに、急にどうしたんだ?」

 未だにドキドキしていることを勘付かれないように、気安く話しかけた。

 キリヲさんは俺の秘密を知る人間の一人だ。俺が男言葉を話すことを快く思ってはいないようだが、それを注意することもしない。

「社長のご指示でこれをお持ちしました」

 廊下に置かれた取っ手付きの白箱を指差した。

 両手でやっと抱え込めるほどの大きさ、だいたい三辺一五〇センチくらいだろうか。

 中身は開けずともわかる。どうせいつぞやのように女物の衣服の詰め合わせだろう。

「……なんだよ今さら。無宗教者はどこぞの神の聖誕祭を祝ったりなんかしないんじゃなかったのかよ」

「さあ、私にはなんとも。社長は気まぐれなお方ですから」

 しれっとした顔で俺の嫌味を聞き流した。

 さすが俺の大人観のモデルになった人だけのことはある。スルースキルが高すぎてイライラが止まらねえ……

「それでは私はこれで」

 ビジネスライクに言い切って、キリヲさんはエレベーターへ踵を返そうとした。

 しかし、俺はそんな彼女の腕を掴んでいた。

 怪訝な顔をするキリヲさんに、俺は一つお願いをした。

 結局俺は、キリヲさんにゴトーの家までついて来てもらうことにした。

 一人で行ってやると息巻いていたものの、頼れる人間がいるとどうしても頼ってしまいたくなる。

 自分の軟弱さに反吐が出る思いだったが、いまはそんなことどうでもいい。

 とにかく、ゴトーに会って話をしなければ。

 マンションの外に出ると、けたたましい雨音がした。

 コンクリートに跳ね返った水滴が霧状になっていて、視界が白く濁っている。

 俺とキリヲさんは傘を差して驟雨の中を進んだ。

 ジャケット一枚では凍えるほど寒い。早くゴトーの家にたどり着きたい。

 足早に道行く俺たちだったが、すぐに歩みを止めることになる。

 暗闇の先で不審な黒い物体が建っていた。

 切れかけた街灯がせわしなく明滅を繰り返すせいで、雨の向こうがよく見えない。

 しかし街灯が数秒灯ったおかげで、その物体の正体がわかった。

「ゴトー!!」

 真っ黒いTシャツに真っ黒いジーンズを身につけたゴトーが、傘も差さずに俯いていた。

 俺は慌ててゴトーの側まで駆け寄った。

 ゴトーは片手にビニール袋を握り締めていた。ビニールに雨水が当たるせいで、煩い雨音がより一層煩く感じられた。

「こんな所で何やってんだ、ずぶ濡れじゃねーかっ!」

 ゴトーは俺の呼びかけに反応しなかった。

 雨に濡れたゴトーの髪が、彫りの深い顔にべったりと張り付いている。

 その髪の隙間からゴトーの瞳が見えた。

 また、あの暗い目をしていた。

 その目が孕んだ闇の深さに気圧されて、俺は言葉を失ってしまう。

 ゴトーはようやく俺の存在に気づいたようで、仄かに笑いかけた。

 生気の抜けた、マネキン人形のような笑みだった。

 その直後、ゴトーが膝から崩れ落ちた。

 俺は傘を放り投げてヤツの体を受け止めた。だけど、俺よりも三十センチ近くも身長差のある巨体を支えきることはできなかった。

 俺も一緒に転んでしまいそうになったとき、突然身体にかかる重さが軽くなった。

 キリヲさんがゴトーの片腕を肩にしょっていた。

「ここからならジョセ様の家の方が近い。不本意ですが、ひとまず介抱してやりましょう」



 二人掛りでゴトーの両脇を担ぎ、俺の家まで運んでいった。

 ゴトーの身体は雨に打たれて冷え切っていた。意識はあるものの、低体温症になりかかっているらしい。

 キリヲさんはゴトーを脱衣所まで案内し、濡れた衣服を脱がせて乾燥機に叩き込んた。

 俺はその間、客室にしまい込んであった来客用のバスローブやタオル類を引っ張り出していた。どれも、どの家に引っ越しても必ず母さんが用意していたものだった。

 客を招く予定などないというのに、いまは母さんの無駄遣いに感謝するべきだろう。

 俺は脱衣所に用意した物を置いてから、キリヲさんに声をかけた。

「ゴトーは?」

「いま、シャワールームに放り込みました。まったく迷惑なガキですよ」

 磨りガラスの向こうから断続的に水の流れる音がした。

 風呂場の中も教室並みに広いため、ドア越しだと人影はよく見えない。ただ、わずかながら人が動いている気配がする。

 俺はほっと胸を撫で下ろした。

 いったいどうしたっていうんだ。

 こんなおめでたい夜に、雨の中たった一人で立ち尽くして。

 これはもう、いよいよゴトーから話を聞かねばなるまい。

 俺はゴトーがいつ風呂からあがってきてもいいように、ホットミルクを用意していた。風呂上りに熱い物はどうかとも思ったが、冷めた身体を内側からも暖めたほうがいいと考えた。

 甲斐甲斐しく世話を焼いている俺の元にキリヲさんがやって来た。

「この数ヶ月で随分と親しくなられたようで」

「……別に普通だよ。クラスメイトなんだから」

「その割には彼の家へ頻繁に通いつめていますよね」

 その声には詰問する響きがあった。

 電子レンジのスイッチを入れる。

 マグカップがぐるぐると回転し始めた。

「別に母さんに迷惑かけてるわけじゃないんだからいいだろ、俺が誰と仲良くなろうと」

「もちろん、構いませんよ」

 キレイな顔がニコリと笑った。

 でも彼女の切れ長な目はまったく笑っていなかった。

「ただ、いくら助けてもらった恩義を感じているとはいえ、特定の個人と親しくしすぎることはあまり感心しませんねえ。ジョセ様は他人との距離感を調節するのが下手クソすぎますから」

「何が言いたいんだよ」

「昔のようなことになりかねないと、そう申し上げております」

 昔のようなこととは、俺の中学時代を指して言っているのだろう。

 俺はあのとき、仲良くなった女の子に近づきすぎてしまった。それがきっかけで、俺を快く思っていなかった下衆連中が、その子のことまで虐めのターゲットにした。

「例の一件以来、ジョセ様の学校にて恐れ多い噂が流布していると聞きました。しかし、それもこれもあのゴトーとかいうクソガキのせいではありませんか?」

「……ゴトーが何をしたっていうんだよ」

「いえね? 奇妙な関係もあったものだと思いまして」

 水を思わせる透き通った声が厳しく追及する。

「淫らな噂話を囁かれている当人同士が、それらを気にも留めずに仲良くし続けているというと、何か特別な意図の様なものを感じてしまいます」

「ねーよ意図なんて。気が合うから話す、それだけだ」

「ジョセ様にはないかもしれませんが、彼の方はどうでしょう」

 風呂場のある方角を見つめて、キリヲさんは顔を顰めた。

「噂になってもジョセ様から離れないのは、彼が貴方に格別の興味を示しているからではないかと」

 電子音が鳴って、トレイの回転が止まった。

「……それは、俺が『俺』だからってだけだよ。あいつはただ、俺を心配してくれてるだけだ」

「それは思い違いでしょう」

 溜息交じりに言葉を続ける。

「私にはあのクソガキが、ジョセ様に懸想しているように思えてなりません」

 …………は?

 あいつが、この俺を?

 俺のことが好きだって?

「なに、言ってんだよ。そんなこと、あるわけねーじゃん」

「おや、声が震えていますね。どうしたんです、自信がないんですか?」

 レンジがピーピー鳴り続けている。

「お忘れかもしれませんが、ジョセ様は心はどうあれ、その外見は紛れもなく女性そのものです。それも社長に似てとびきり美しい。貴方に心惹かれない人間がいるとすれば、ゲイくらいのものでしょう」

 煩い。

「彼が本当に同情や友情で貴方の側にいてくれるのだとお思いですか。そんな吹けば消えるような弱い火種で彼が動いていると?」

 煩い。うるさい。

「人間が一つの目的にこだわり続けられるのは、欲があるからです。動機があるからなのですよ。そしてその動機の大半は、ほとんどすべて愛憎で説明できる」

 煩い。うるさい。ウルサイ。

「彼は貴方を憎んでいるのでしょうか。それはないでしょう。憎んでいる相手の復学にあそこまで献身的になれる人間はいません。それなら答えは明白なのではありませんか?」

「煩いっ、黙れよっ!!」

!!」

 その声を掻き消すように、俺は電子レンジの扉を開けた。

 電子音が鳴り止んだ途端、リビングは一気に静かになった。

 俺はマグカップを台所に取り出し、言った。

「悪い、キリヲさん。今日はもう帰ってくんない?」

「ジョセ様――」

「帰ってくれよっ!! そんなくだらない邪推、しないでやってくれ!!」

 流しに向かって怒声を上げた。

 もう、キリヲさんの顔なんて見たくもなかった。

 キリヲさんは深い溜息をついた。

「後悔しないでくださいよ。貴方は、あまりに優しすぎる」

 玄関のドアが開き、閉まる音が聞こえてくる。

 誰もいなくなったリビングで、俺は一人頭を抱えた。

 それが、ゴトーの様子がおかしくなった理由なのか?

 俺を避けていたのも、話もしなくなったのも、全部それが原因なのか?

 俺を好きになってしまったから。

 俺の『女』の部分が欲しくなってしまったから。

 それなら、いったいあの眼はどう説明するんだ。

 憎しみの対象が俺じゃないなら、あいつはいったい何に対してあんな負の感情を向けてるんだよ。

 わかんねえよ、そんなもん!!

 シンクを殴りつけても、大理石製だから音も出やしない。

 痺れた手に視線を向けると、俺の両肩がビクリと跳ねた。

 いつの間にかゴトーがリビングの入り口で佇んでいたのだ。

 屈強な身体にタオル地のバスローブを纏った大男が何も言わずに俯いていたら、誰だって驚きもする。

「お、おお、あがったのか。まあ、どこでもいいから適当に座ってくれ」

 ゴトーは緩慢な動きでソファに腰を落とした。

 やはり、俺の顔は一切見向きもしないで。

 さっきのキリヲさんとのやり取りが耳に残る。

 いや、そんなはずはない。

 きっと何か事情があるに決まってる。

 俺はゴトーにマグカップを手渡そうとしたが、ゴトーはちらりともカップを見ようとしなかった。

 仕方なくカップをテーブルに置き、俺はゴトーの正面に腰掛けた。

「何があった?」

 真剣な声で問いかける。

 しかし、ゴトーからの反応はない。

 俺は諦めずに問いかけ続けた。

「何かあったのなら教えてくれ。おまえには世話かけてばっかりだったんだ、俺にも心配焼かせてくれてもいいだろ?」

 ゴトーは俯いたまま返事をしない。

 視線の先にはゴトーが持っていたビニール袋が置いてあった。

「もしかしておまえ――」

 俺を好きになっちまったのか、とはどうしても言えなかった。

 言ってしまえば、認められてしまえば、二人の関係はきっと壊れてしまう。

 だから俺は、最も可能性が高そうな懸念を指摘した。

「アキラさんに何かあったのか?」

 ゴトーの心配事なんて、それくらいしか思いつかない。

 もしかしたら、キリヲさんの邪推なんてまったく的外れで、アキラさんの身に何かが起きたからゴトーが変になったのかも知れない。

 罰当たりだが、そんな期待を込めて言った。

 するとゴトーは、始めて顔をこちらに向けた。

 どんよりと濁った双眸が俺を見つめている。

 ゴトーは聞き取りづらい声でボソボソと話し出した。

「…………死んだ、と思う」

「思うって、どういうことなんだ、ちゃんと説明しろって!」

「…………いなくなった」

「いなくなった!? あの病院からか? いつだ?」

「ジョーと会った……次の日……」

 それって、もう一ヶ月近くも前のことじゃねーか。

 しかもコイツがおかしくなった時期とも合致する。

「どうしてもっと早く言わなかったんだ! 警察には言ったのかよ!?」

「…………探しようがないって、言われた」

「な、なら探偵とか、興信所とかあるだろっ!? 探す方法なんていくらだって――」

「簡単に言うなっっっ!!」

 突然の剣幕に俺の全身があわ立った。

 あまりの声の大きさに頬が痺れた。

「それにいったいどれだけの大金がかかるかわかってるのか? 僕らは君たちみたいな金持ちとは違うんだっ!」

漲る敵意が俺の両目を射抜く。

「君たちはいつもそうだ、何でもかんでも金で動かして、金で操れないものはないって思ってる! 自分たちが神にでもなった気でいる! 君たちはいったいどれだけ僕らから奪えば気が済むんだ、僕らがいったい何をしたっていうんだっ!!」

 ゴトーの瞳は確かに俺を捉えている。

 でも、ゴトーは俺のことなんて見えていない。

 さっきから『君』ではなく『君たち』と連呼しているのがその証拠だ。

 こいつも俺と同じように、過去の呪縛に囚われていたんだ。

 俺は堪らず、ゴトーの側まで飛び出した。

「落ち着けよ、ここには俺とおまえしかいない、誰もおまえを虐めたりなんてしない!」

 ゴトーは俺など目もくれず、頭を抱えて髪を掻き毟りだした。

「どうしてウチが貧乏なのかわかったうえで言ってるんだろ、君たちのくだらないプライドが僕らの幸せを壊したんじゃないかっ!!」

「俺を見ろゴトーっ! よく見ろっ!! 俺はおまえの敵か? 違うだろう!!」

「返せよ、、返してくれよおおお!!」

「ゴトーっっっ!!」

 肩を掴んで、両膝の間に埋められた顔を揺り起こした。

 ゴトーはまるで迷子のようにボロボロに泣いていた。

「…………ジョー」

 瞳にほんの少しだけ生気が戻った。

 ようやく俺を見てくれた。

 なんとか落ち着かせてやらなければ。

 でも、ゴトーがまともに見えたのは数瞬の間だけだった。

 ゴトーは俺の顔をまじまじと見るや、縮み上がった。

 片手で額を掴み、なにやらブツブツと唱え始めた。

「僕が、やらなきゃ……」

 かろうじて聞き取れたのはそれだけだった。

 俺はゴトーの気が触れてしまったのではないかと心配で、必死にゴトーの名を呼び続けた。

 でも何回呼んでも、何度肩を揺さぶっても、俺の呼びかけに答えてくれなかった。

 そうして奮闘しているうちに、俺の足が何かを蹴倒した。

 ゴトーが持ってきたビニール袋が横に倒れ、中から小箱が顔を覗かせた。

『L』と書かれたその小箱を見て、俺は目を見開いた。

 しかし小箱が意味するところを理解したときには、俺の身体は宙に浮いていた。

 ゴトーが俺のことをソファの上に投げ出したのだ。

 視界が急激に変化してわけがわからないうちに、ゴトーの顔が俺を見下ろしていた。

 ちょうど、押し倒されたような格好になっている。

 ゴトーは俺の両肩を押さえつけて、涙ながらに言った。

「許してくれ……」

 それはまさしく、懺悔だった。

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