31 SCENE -15-『ゴトー』~ b

 ジョーを保健室に預けたあと、ゴトーとカエデは体操着を脱ぐために教室へと戻った。

 道中、カエデは一言も口を聞かずに女子たちが着替える教室へ入っていった。

 小さな後姿から強烈な怒りを感じさせた。

 前々からカエデからはあまり好かれていないという実感はあったが、今度の態度は露骨だった。

 その原因を作ったのは、紛れもなくゴトーである。

 ゴトーは、自分の不甲斐なさに失望していた。

 ジョーを失神するまで追いつめてしまった。

 見守るどころか、余計に傷つけてしまった。

 ゴトーは自分の手の平を見つめた。

 この手がジョーを苦しめた。

 この醜い手が、ジョーに女を意識させたのだ。

 次の瞬間、ゴトーの手は激しい熱に侵された。

 廊下の支柱にゴトーの拳が突き出されていた。

 隣接する教室の窓ガラスすべてが割れんばかりに顫動する。

 まわりの生徒たちは何事かと振り返り、教室で着替えていた男子の何人かが戸の隙間からゴトーの様子を窺っていた。

 痛みはない。肘の痺れと、沸騰した頭の熱さがあるだけだ。

「ちょっ、どうしたんよゴトーちゃんっ!?」

 私服に着替え終えたワルツが血相を変えて駆けて来た。

「血が出てるじゃないの、保健室に行かないと」

「行かない」

「はぁっ!? 骨に罅でも入ってたら――」

「ルミエールさんが、保健室にいるから」

「えっ!?」

 ゴトーの言葉にワルツは驚愕していた。

「いったい何が……!!」

 大きく口を開きかけて、そのまま止まった。

 ワルツは我に返ったかのように静かになった。

「い、いや、何でもない。そうだよね、ジョーちゃんと一緒ってわけにはいかないよね」

 一人で勝手に納得して、ワルツは教室へと戻っていった。

 ゴトーは一連のやり取りなどなかったかのように、ワルツのあとに続いた。

 誰もがゴトーを怪訝な目で見ている。

 衆人環視の視線に晒されても、ゴトーが動じることはない。

 ゴトーの頭の中にあったのは、先ほどのジョーの脅えきった顔。

 そして、あの地下倉庫で泣いていた女の子の顔だった。

 二人が同一人物なのは言うまでもない。

 だけどそれを認めてしまえば、ゴトーは二度と『彼』と――ジョーと向き合えなくなってしまう。

 まわりの人間たちと同じように自分の視覚が捉えた情報に従い、ジョーを女性と認めてしまったら。

 ただの女の子と見なしてしまったら。

 いったいどうやって接すればいいというのか。

 手の感触が消えない。

 抱きかかえた身体の温もりが腕にまとわりつく。

 肉の柔らかさが、髪から仄かに香る石鹸の匂いが。

 離れない。消えない。なくならない。

 イメージが頭の中で渦を巻いている。

 頭を振っても、錯覚は残り続けた。

 いつまでも、いつまでも。



 体育の授業のあと、ゴトーは教室で一人、昼食を取っていた。

 保険医の話によると、ジョーの症状は一時的なもので、昼休み中には体調が改善されるだろうとのことだった。

 本当なら、保険医から禁じられようとジョーの側についていたかった。

 だが、いまのゴトーにそんな資格はない。

 烏合の衆と同じように、ジョーを女のように意識してしまうゴトーには。

 自前のサンドイッチを噛み千切る。

 レタスの歯ごたえと、トマトの酸味が口内を満たす。

 口の端から垂れたトマトの汁が傷ついた手の甲に落ちた。

 抉れた肉から滲む血に混ざって判別がつかなくなった。

「まったくさあ、あの女マジで何様なわけえ!?」

「ちょっと、声が大きいって」

「そ、そうだよ。真面目ちゃんだってまだ病み上がりなんだから」

「はあ!? 何自分たちだけ良い子ちゃんぶってンだよ!? アンタらだってあいつが休んでるあいだ好き放題言ってたじゃん!」

 高価そうな衣服を身につけた女子のグループが騒いでいた。

「何ヶ月もズル休みしといてお咎めなしで? そのクセ中間試験だけは受けさせてもらって? やっと学校に来たと思ったら今度は保健室で仮眠かよ。まったく外人の女に優しい高校だよねえ!?」

「言いすぎだってば、誰が聞いてるかわかんないんだから……」

「あのバカ連中が学校来ないのだって、それが原因かもって話あったじゃん」

「うっせーんだよっ!!」

 長い黒髪を振り乱して、リーダー格の女が立ち上がった。

「あんな脳筋共のこととかどうでもいーんだよ! わたしはあの女が特別扱いされてるのが我慢ならないっつってんのっ!!」

 顎に力が入る。

「だいたい病欠ってなんなんだよ、学校で男とヤったのがバレて休まされてただけだろーが」

 歯茎が軋む。

「真面目そうなフリしてやることやってんだよあの女。ほら、見た目通り外人だからさ、わたしらと違って性欲旺盛なんじゃね?」

 鉄の味がする。

「クソビッチだよクソビッチ。調子悪いとか言ってんのだって、手術したからかもしれねーだろ」

「しゅ、手術?」

「決まってんじゃん」

 口の端から血が垂れる。

「堕胎――」

 女が言い終わる前に、教室の最後尾で何かが爆発した。

 いや、爆発したように音が弾けた。

 ゴトーが両手で机を叩きつけたのだ。

 教室に残ったわずかな生徒たちが、驚きの顔でゴトーを見ていた。

 先ほどの破裂音とは打って変わって、ゴトーは静かに立ち上がった。

 誰もが口を閉ざす中、ゴトーはゆっくりと女子グループの座る席まで歩いていった。

「なんだよ、ビビリのヤリチンが大事な彼女を庇おうって?」

 リーダー格の女が、ゴトーを侮るように両手を構えた。

 さながらボクサーのようにゴトーの眼前へ拳を突き出してくる。

 緩い風がゴトーの眼に当たった。

 女はニヤニヤ笑いながらゴトーを眺めている。

 しかし、ゴトーはまったく動じない。

 自分が女だから、何をやっても暴力を振るわれないと思い込んでいる典型的なバカ女が目の前でどれだけ挑発しようとも、ゴトーの心は動かない。

 ゴトーは女が飲んでいたコーヒーの空き缶を掴んで、女の目の前に翳した。

「は? なにそれ? 中身空っぽなんですけど――」

 次の瞬間、円柱だった缶の形が砂時計型に変形した。

 鈍い金属音とともに、女の目の前で缶がひしゃげて潰されていく。

 女はその様子を顔をこわばらせて見つめていた。

 ゴトーは大きく振りかぶって、女の足元に缶を叩き付ける。

 床に転がった缶は、中央だけが棒のように細まっていた。

 女は恐怖のあまり、他の生徒の机へとよろけた。

「ぼ、暴行罪で、う、訴えてやる!! ウチの親、PTA会長なんだからな、テメーなんか一発で退学にしてやるぅぅぅっっっ!!」

 喚き叫ぶ女を無視して、ゴトーは自分の席に戻った。

 手の甲だけでなく、手の平からも血が滲んでいた。

 そのすぐあと、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

 女はまだくだらない戯言をほざいていたが、残りのメンバーが必死に宥めていた。

 ジョーは始業ギリギリになって教室に戻って来たため、この件については知る由もない。

 ジョーの顔には疲労の色が見て取れた。

 席に着く前にジョーはゴトーに何かを言おうと口を開きかけたが、結局は何も話さなかった。

 このあとジョーは恙なく授業をこなし、記念すべき復学初日は過ぎていった。

 ただ、本当に恙ないかは実のところわからない。

 あのあとゴトーは、ジョーの様子をまともに見ていなかった。

 いまジョーの姿を見てしまうと、自分がまたろくでもない勘違いをしてしまう。

 ジョーが女だなんていう、そんな勘違いを。



 ジョーが復学して一週間ほど経ち、学期末試験も終えた。

 試験休みの昼下がり、ゴトーは自宅で一人、受験雑誌に目を通していた。

 高校から配布された粗雑な紙の雑誌だったが、パソコンを持たないゴトーにとっては貴重な情報源である。

 それをゴトーは、たった一人で読み進めていた。

 ジョーが復学して以来、ゴトーはジョーを家に招かなくなった。

 それどころかこの一週間、ジョーとほとんど声を交わしていない。

 朝にジョーを迎えに行き、「おはよう」と言う。

 夕方ジョーを送り届けて、「また明日」と言う。

 ここ最近でゴトーがジョーにかけた言葉は、ほぼほぼこれですべてだった。

 いまの自分に、ジョーと口を利く資格はない。

 ジョーがか弱い女の子にしか見えないだなんて、どうかしている。

 初めてジョーと出会ったとき、自分は疑いなくジョーのことを男だと思ったのに。

 そう思えていたのに。

 あの氷のような麗人に会って以来、日に日にゴトーの中で錯覚が積み重なっていく。

 五感が正しく作用しない。

 いつかの光景が頭から離れない。

 こんな自分に、ジョーの側にいる資格はない。

 それでも、ジョーを見守ることだけは続けていたい。

 そんな未練がましい思いが、ジョーの側にいながらほとんど声を発しないゴトーという構図を作り上げた。

 まるで、転校した当初に戻ってしまったみたいだ。

 いままでの苦労はいったいなんだったのか。

 何のために努力してきた。

 なけなしの勇気を振り絞って、慣れない会話に慣れようとして。

 すべてはジョーの助けになりたかったからのはず。

 それなのに、結局はジョーを突き放すのか。

 学生に、教師に、警察に、そして実の親に傷つけられてきたジョーを、自分の未熟さを理由に見捨てると言うのか。

 こんなとき、何と言うのだろう。

 あの理知的な眼差しで、自分のことを窘めてくれるのだろうか。

 ゴトーは本棚に立て掛けられたアルバムを開いた。

 小さいころからゴトーの身体は大きかった。小学生の高学年になった頃には、一六五センチあるアキラの伸長を十センチも追い越していた。

 小学校の卒業式の写真を眺める。

 パンツスーツに身を包むアキラの胸は、まだ膨らみがあった。

 昔からアキラは肌の露出を嫌う傾向があった。

 よほどのことがないかぎり、真夏でも長袖に長ズボンを着ていた。スカートを穿いて外出するところも、家の中でキャミソールを着ている姿だって見たことはなかった。

 とはいえ、当時のゴトーにとってそれはとても自然なことに感じられた。

 他の母親たちとは違うのだから、違うことは当り前。そんなトートロジーのような納得の仕方ではあったが、幼いゴトーにはそれだけで充分だったのだ。

 服装ひとつで、アキラがアキラ以外の何者になるわけでもないのだから。

 アルバムをめくり、中学生の合唱コンクールの写真を眺める。

 それは、数ヶ月前にジョーに見せた写真でもあった。

 この頃のアキラは背広を着ていた。

 そして、その胸からは以前の膨らみは消え失せていた。

 ゴトーが中学生の頃、アキラは乳房切除手術を受けた。

 多くのFTMと呼ばれる人々が、男の身体によりも前に望むことが、この手術だった。

 女が女たりうる外見上の最たる特徴である乳房。それさえ無くなってしまえば、衣服の上からでは相手が男か女かを見分ける術はほとんどなくなる。そのためFTMの中には、胸だけ取り払って終わらせる者というのも存在するのである。

 アキラもまた、完全な性の移行を目指さない一人だった。

 そもそもアキラはゴトーが熱心に薦めなければ乳房を取り去ることも躊躇っていた。

 なぜなら、アキラは自分が性同一性障害であると自分からカミングアウトしたわけではなかったからだ。

 アルバムを片しに本棚へ近寄ると、窓の外から真冬の陽光が視界に突き刺さった。このアパートに越してきたばかりのころは隣家にあたるマンションの異様な大きさばかりに気をとられていたが、太陽高度が低いはずの冬であっても光は差し込むらしい。

(……あの日も、こんなふうに日差しが眩しかったっけ)

 中学二年生の夏、ゴトーはをきっかけに、決して口にしてはいけないことを口にした。

 幼いころから気にも留めていなかったはずの疑問を――いや、、アキラに問い詰めてしまったのだ。

 自分の正体を指摘されたアキラは、これまでに見せたこともないほど悲しい顔をした。

 言葉は弾丸と一緒だ。口にした言葉は、二度と引っ込めることはできない。

 その言葉がどれだけ母を――アキラを傷つけたかわかっても、どれだけ悔やんでも、なかったことにはできない。

 その日一日、アキラはゴトーに泣いて謝った。

 不甲斐ない親でゴメン、変態が親になってしまってゴメン、気持ち悪がらせてゴメン。

 アキラは、本当はずっとひとりで苦しんでいたのだろう。

 誰にも秘密を明かせないままゴトーを産んでしまったから。

 男に戻りたかったはずなのに、母親なんかになってしまったから。

 母は――『父』は、何一つ悪いことなどしていないのに。

 本当に謝らなければならないのは自分の方だったのに。

 アキラを苦しめていたのは他でもない、ゴトーだったのだ。

 やがてアキラは病に倒れ、ついには日常生活すらままならなくなった。今となってはその行方すら定かではない。

 世界は本当に理不尽にできている。どうしてアキラにばかりこんな辛い運命を強いたのか。

 本来の自分を偽って生きたのがそんなにも罪深いことだったとでもいうのか。

 度重なる不幸と艱難を前に、いつしかゴトーはこう考えるようになる。

 人は皆、生まれながらにして進むべき海路が刻み込まれている。

 その海路に逆らったとき、遺伝子積荷は海に沈み、を諸共に泡沫へと消える。

 なればこそ人は、その本分に忠実に生きるべきなのだ。

 自分が望んだように生きられなければ、幸せになんてなれない。

 幸せでないなら、生きているとはいえない。

 

 だからこそ、アキラは行方をくらませたのだ。

 警察からの連絡がなくたってわかる。アキラはもう、遠いどこかでのたれ死んでいる。


 自分なんかを産んでしまったせいで――


 暗く沈むゴトーの耳に、電話のベルが聞こえてきた。

 自分にかかってくる電話なんて、アルバイト先か病院くらいしかなかったのに。

 ジョーと関わるようになって、電話を心待ちにしている自分がいた。

 だけど、いまジョーと話すことなんてできない。

 こんなネガティブな状態じゃ、かえってジョーを苦しめる。

 いまはただ、遠くから見守るだけでいい。

 それこそ最良の選択だ。

 留守番電話が作動した途端、親機のスピーカーから非難された。

 全身が一瞬で強張った。

(この声は、まさか……!!)

「あなたが居間にいるのはわかっているわ。留守電が切れるまでに出ないなら、ジョセを他の男にわよ」

 冷淡に告げる声に当てられて、ゴトーは慌てて受話器を取った。

「御機嫌ようゴトー君。その後の調子はどうかしら」

 ジョーの母親、シルヴィがアンニュイに問いかけてきた。

「……答える気はない」

「あら、ずいぶんと好戦的な態度なのね。わたしが怖くないのかしらね」

「あなたのことなんてどうでもいい。もう僕は覚悟を決めている」

「覚悟……?」

 スピーカーの向こうから、くぐもった笑い声が聞こえてきた。

「それは、母親を見捨てるという覚悟? それとも自分が破滅する覚悟のこと?」

「どちらもだ。僕はもう、いつ死んだって構わない」

「そうなの。つまりあなたの母親への思いはその程度だったというわけね」

 姿の見えない麗人がゴトーを嘲り笑う。

 ゴトーはそれを、歯を食いしばって耐えた。

 どんな挑発にだって乗ってやるものか。

「取引に応じなければ待っているのは死ではない。破滅させると言ったはず。忘れたの?」

「退学でも逮捕でもなんでもすればいい」

「そうそう先日伝え忘れてたけど、事件のもみ消しに協力したあなたの学校の学年主任さん、来年度には偏差値三十の底辺高校にされるらしいのだけれど」

 シルヴィは愉悦たっぷりに話し続ける。

「あなたには中東で地雷撤去員になってもらうオファーがある。しくじれば片足が吹き飛んで地獄の苦しみに咽び泣いても、いつまでたっても死ねない。あなたに与える破滅は、そんな

「やればいい。戦争地帯だろうと地獄の底だろうとどこにだって行ってやる!」

 電話口にそう怒鳴りつけて、ゴトーは受話器を叩き付けた。

 電話を切ったあと、部屋には静寂が広まった。

 しかしその直後、今度はドアベルが鳴り出した。

 シルヴィの配下の人間がお迎えに来たのかもしれない。

 あっけない終わりもあったものだと、ゴトーは自嘲した。

 ドアベルはしつこく鳴り続ける。

 ゴトーはそれに取り合わず、流しの下の棚を開く。

 そこから細長いジェラルミン製のケースを取り出して、中を開いた。

 アキラの愛用していた牛刀が電灯の光を受けて閃いた。

 そのとき、ドアの鍵が解かれる音がした。

 ゴトーがドアに顔を向けると同時にドアが開け放たれる。

 家の外から灰色の塊が入ってきて、ゴトー目掛けて突っ込んできた。

 ゴトーは片腕をねじり上げられ、台所に押さえつけられる。

「社長、取り押さえました」

「ご苦労様、キリヲ。相変わらず腕がたつわね」

「任務ですから」

 腕の関節が極められて、少しでも動こうものなら激痛が走った。

 身動き取れないゴトーの髪の毛を掴んで、無理矢理頭を持ち上げる。

「まさかとは思うけれど、死んで逃げようとしたわけじゃないわよね?」

 ニコリと笑っている。

 いや違う。この人の黒髪はジョーよりもずっと長い。

 ゴトーの眼は状況を再認識する。

 ニンマリと嗤っていた。

「わたしに歯向かう人間に死は与えない。そんな楽な終わりを迎えられるとは思わないことね」

 狩猟者の眼でシルヴィは言った。

 自分でもどうしてアキラの牛刀を取り出したのかわからない。

 本当に死のうとしたのか、それとも現実から眼を背けたかっただけなのか。

 いまやその包丁は、シルヴィの手に奪われてしまった。

「……なかなか良い仕事をする。さすがは副大統領夫人が探し求めていた料理人だわ」

 そんな独り言を漏らしたあと、シルヴィは包丁をケースの中へと納めた。

 シルヴィは掴みっぱなしだったゴトーの髪を離して、今度は顎を掴む。

「自暴自棄になってはいけない。たとえあなたの人生が破滅したって、生きてさえいれば何度でもやり直せるかもしれないのよ?」

 含み笑いを浮かべるシルヴィ。

 それが本心でないことは明らかだった。

「自分の未来を度外視して他人に尽くす人間がごく稀にいるけれど、あなたもその手の人間だったのかもしれない。わたしはあなたを見くびっていた」

 どこまでも愉しそうにシルヴィは言う。

「でもそれなら、やっぱりあなたはわたしから逃れられない。瀕死の母親は見捨てられても、あなたにはまだジョセがいる」

「なにを、言われたって……僕は……!」

 シルヴィの唇がねじ伏せられたゴトーの耳へ覆いかぶさる。

「あなたがやらないなら、わたしの腹心に命じてジョセを妊娠させて、母親にさせる」

 吐息と一緒に、呪詛のような言葉がゴトーの耳を絡め取った。

 ゴトーは肩の痛みも無視して暴れた。

 なんとしてもこの麗人に物申してやりたかった。

 しかし、ゴトーの全力の抵抗はあっけなく潰された。

 呟くように、囁くように、ゴトーの耳に言葉を重ねる。

「絶対に、確実に、妊娠させる。動物のように交尾させて、繁殖させる。孕ませてやる。何人でも子どもを産ませてやる」

 いつかの光景が頭の中で再演される。

 男たちに組み敷かれ、ガムテープで口を塞がれ、ほとんど全裸に剥かれていた女の子の姿。

 涙に濡れるジョーの顔。

「ふざけるなっ、あなたは正気か!? ジョーはあの事件のせいで、夜一人で出歩くこともできないんだぞっ!?」

「子どもまで産めば、さすがのあの娘も自分が何者かを理解するでしょうね。もうくだらない妄言を吐くこともなくなる」

「答えろっ、シルヴェーヌ・カトル・ルミエール! あなたはそれでもまだ自分が母親だと言うのかっ!! ジョーを愛していると言うのかっっっ!!」

 全身の力を使って吼えるゴトー。

 シルヴィはそれを冷たく見下した。

「あなたがわがままを言うから次善策を教えてあげただけなのに、酷い言い草だわ」

 シルヴィの細い指がゴトーの耳を摘まみあげる。

 痛みで熱を持った耳にシルヴィは口付けした。

「あなたがジョセを女にすると誓うなら、そんな野蛮なマネはしないと約束してあげる。あなたが自分でするなら方法は任せるわ。避妊しようとどうしようと、好きにすればいい」

 まるで睦言でも口ずさむように言う。

「でも断るなら、ジョセは確実に母親になる。未成年の子どもを持つ親は特例法での性転換が認められていない。もしもジョセが妊娠すれば、少なくとも向こう二十年、ジョセを女に留めておける」

 シルヴィはそっと耳打ちした。

「まるであなたの母親と同じような人生ね」

 この人は、アキラがトランスジェンダーであることも知ったうえでこんなことを言っているのだ。

 どこまで人を愚弄すれば気が済むのか。

 この、は。

「ねえどうする? 大事な大事なジョー君を見捨てて自分だけ地獄に落ちて楽になりたいの?」

 煽る。蔑む。

 金持ちの常套句。

「同じ地獄に落ちるなら、せめて人の役にたって御覧なさいよ」

 操る。弄ぶ。

 金持ちの常套手段。

「あなたの愛するジョー君が見知らぬ誰かに奪われてもいいの? あの子を守れるのはあなたしかいないのに」

 囲う。取り込む。組み入れる。

(いつだってそうだ、はっ!!)

(そうやって僕たちを貶めて)

(母さんを苦しめたっっっ!!)

「あの子を愛しているなら、憎まれたって愛せるはずでしょう?」

 ゴトーの眼から涙が零れた。

 怒りと憎しみと絶望を混ぜ合わせたような瞳の色から、光は完全に消えていた。

 忘れようとしていたのに。

 必死に押さえ込んでいた地獄の釜が、とうとう開いてしまった。

 生きながらに地獄に落ちるというのはこういう感覚を言うのか。

 砕けた心は、もう元には戻らなかった。

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