30 SCENE -15-『ジョー』

 何かがおかしい。

 俺はバスの振動を尻と背中に感じながら、窓の外で流れ行く町並みを眺めていた。

 何が、と明確には言い表せないが、それでも何かがおかしい。

 そんな漠然とした疑念が数日前から俺の中で燻っている。

 自宅でのゴトーは、いつも通り彫りの深い顔面を陰鬱に翳らせていた。二人で勉強しているときも、飯を食っているときも、俺の薦めでスマホゲームをやらせたときも、いつもと同じ自信のなさそうな顔をしていた。

 ただし、それがゴトーの素の表情だということを俺は最近わかってきた。ゴトーは口数が少ない代わりに、いつも黙って考え事をしていたのだ。

 だからゴトーが今朝からずっと黙り通しだとしても、何もおかしなことはないはず。

 そのはずなのに、何かが釈然としない。

 吊革に掴まるゴトーをちらりと仰ぎ見る。

 いつもと同じく、景気の悪い表情を浮かべていた。

 ゴトーに悟られぬよう、俺は再び窓の外へと視線を戻す。

 いったい何がどうなっている。

 病院でアキラさんと話したあと、俺はすぐに復学を決意した。

 いずれ俺は自分の身に降りかかる様々な問題と闘わなければならない。そうとわかっているなら、いつまでも家に引き篭もって逃げ続けている場合じゃない。来るべき時に備えて、俺は理想の俺を演じきってみせる。

 その決意を伝えたあたりから、ゴトーの様子はおかしくなった。

 何かがおかしい。

 一見いつもと同じようだが、やはりおかしい。

 何かこう、どこかで大きな変化があった気がする。

 服装? いつもお決まりの古いジーンズに黒のブルゾンだ。

 持ち物? 誰も使いたがらない学校指定の野暮ったい鞄だ。

 病気? いや昨日も一昨日も手際良く晩飯を作っていた。

 何がおかしい?

 挨拶をすれば、遠慮がちな声が返ってくる。

 今朝俺の家に迎えに来たときだって、力なく「おはよう」と言っていた。

 特段おかしなことなんて……

 いや待てよ。

 そうか、声が変なんだ。

 奴の声から心なしか張りがなくなっている……と思う。

 普段から地の底から這い出るような野太い声で喋る男だが、その声がいつも以上に張りがなかった。

 何というか、心ここにあらず、というような。

 ゴトーはこちらから話を振らないと自分からはあまり口を開かない男だから気づかなかったが、確かにそうだ。

 こいつ、もしかして悩み事でもあるのか?

 バイトでへまをやらかしたとか?

 アキラさんの病状が急変したとか?

 でもそうだとしたらもっとゴトーの周りが騒がしくなっているはずだし、何より俺に一言もないなんて不自然だ。

 それならいったい、何があったっていうんだ。

 わからないなら聞けばいい。ゴトーはきっと答えてくれる。

 だけど、俺はそのたった一言が言えないでいた。

 ゴトーの暗澹とした雰囲気に気圧されたからというのもある。

 でももし、ゴトーが俺の質問に答えなかったら。

 困ったような顔で黙殺したら。

 拒絶されたら。溝を感じてしまったら。

 そんな未来を想像したら、疑問を口に出すことが憚られた。

 まったく、俺は何てヒドイヤツなんだろう。

 ゴトーを心配しているフリをして、結局は我が身が可愛いだけなのだ。

 自分で自分を罵倒しつつ、表情だけは涼しさを装う。

 俺はどこまでも卑怯だった。



 登校してからまず、職員室で担任のウジイエと面談した。

 事前に連絡を入れていたにもかかわらず、ウジイエは脂ぎった顔を驚嘆に歪ませて俺を迎え入れた。

 面談の内容は復学の手続きについてと、留年の有無についてだ。

 俺は二ヶ月近くも休んでいたせいで単位認定に必要な出席日数がギリギリになっていた。

 しかし中間試験が好成績だったことや、補修課題をすべてクリアしたことで、何とか留年は免れそうだと説明された。

 涼しい笑顔を浮かべる反面、俺は内心ほっとしていた。

 第一関門は突破した。あとは、教室へ向かうのみ。

 鼓動の乱れが収まらないまま、俺は職員室の外へ出た。

 扉の前にゴトーが突っ立っていた。

 何でまだいるんだコイツ、教室に行っとけって言ったのに。

 優等生モードを継続中な俺は、清ました顔でゴトーに尋ねた。

「君を一人にはしておけないから」

 そう言うゴトーは、俺の顔をちっとも見ようとはしない。

 思えばここ数日、ずっとこんな調子だった。

 いつでも俯き気味なゴトーは、鬱蒼とした前髪が邪魔をして視線がわかりにくいことがある。

 それでもこれまでは、俺と話をするときにこんな態度は取らなかった。

 こんな、あからさまに顔を背けるなんてことを。

「過保護ですね。まるで子ども扱いだ」

 苛立ちが声に滲んでしまった。

 何なんだよ、何も言わなきゃわかんねーよ。

 思ってることがあるなら言ってくれよ。

 どうしてそんなに悲しそうなんだ。

 どうしてそんなに俺に気を遣うんだ。

 もう知らない仲じゃないんだぞ。

 そんなに俺は頼りなく見えるのか。

 いくつもの抗議の声を胸の奥に押し留めて、俺は精一杯の皮肉を吐いた。

「かたじけねぇな、兄弟」

 言い終わるや、ゴトーを置いてさっさと教室へと向かった。

 ゴトーの真意が知りたい。

 でも、それを聞けばこれまで築き上げた関係が崩れそうで、怖い。

 俺は本当の本当に卑怯だった。



 二ヶ月ぶりに会うクラスの面々は、思いのほか普通に俺を迎え入れた。

 そもそも優等生風味が強すぎた俺は、クラスでは少し浮いた存在だった。積極的に話しかけてくるのは真面目な気質の男女ばかりで、すなわちクラスの少数派。大半の生徒にとって、俺はいてもいなくてもいい存在だったのだろう。

 それでも、カエデは俺の復学を涙ぐみながら喜んでくれた。

 カエデはこれまでも、週に数回は俺の家に様子を見に来てくれていた。俺が学生の雰囲気を忘れないでいられたのは、カエデやゴトーの献身があったからだ。

 第二関門は突破した。これで俺はようやく再スタートを切れる。

 きっと俺は、誰からも後ろ指差されない、普通の人間になってみせる。

 この学校を卒業して、大学に行きながらバイトして金を貯めて、もう一度精神科に受診する。

 性適合手術を受けるためには、多額の治療費のほかに、二名以上の精神科医による性同一性障害の診断が必要なのだ。

 そのためにも、今度こそ俺は全力でこの高校生活を

 だから当然、この関門も突破しなければならない。

 第三関門は、体育の授業だ。

 冬の着替えは楽でいい。上は脱がずにジャージを羽織るだけでいいのだから。

 問題は下の方。いくら細身のパンツを穿いたところで、ズボンを重ね着することはできない。

 俺はいつものように教室の隅に移動した。誰も視界に入れないよう、床の木目に焦点を合わせる。

 ジーパンを脱いで、ズボンを穿くだけ。事は三秒で済む。

 俺はジーパンに手を掛けて、一気に引き下ろそうとした。

 でも、できなかった。

 まわりの視線が気になった。

 教室中の女たちが、俺のことを後ろから見ているような気がした。

 いやそんなことはない、誰も俺になんか注目していない。

 わかっているのに、どうしても脱げない。

 手は震え、額には脂汗が滲んでいた。

 中腰のまま固まる俺を心配して、カエデが声を掛けてきた。

「大丈夫? おなかでも痛いの?」

「……いえ、そんなことは」

 搾り出すように答えたことが、かえってカエデの心配を煽ったらしい。カエデは声を潜めて聞いてきた。

「もしかして、月の物……? キツイなら、保健室まで一緒に行くよ?」

「違いますっ!」

 俺はほとんど反射的にそれを否定した。

 恐ろしい勘違いだった。

 冗談でも聞きたくない言葉だった。

 言ってしまったあと、大きな声が出ていたことに気がついた。

 みんながこちらを見ていた。

 着替え途中の女子たちが、素肌をあらわにして。

 色とりどりの下着を――

 俺は慌てて床の木目へと視線を落とした。

 心臓が爆発しそうだった。

 どうして、どうして……!

 今までなんとかやってこれたのに、どうして今になって……!!

 俺は固く目を瞑り、さっき見た光景を忘れようとした。

 卑怯者め。自分の立場をいいことに女の裸を盗み見ようなんて。

 誰かが俺を責めているような気がした。

 実際は誰でもない俺自身が、俺のことを責めていた。

 そんな俺の様子をカエデはまだ心配してくれた。

 あんな素っ気ない態度を取ったのに。いい子すぎるんだよ。

 俺はカエデに謝ってから、トイレに行くと伝えた。

 着替えの入った袋を鷲掴んで、誰もいない旧校舎のトイレへ駆け出した。

 二つの扉が俺を迎える。

 青い紳士の扉と、赤い淑女の扉。

 扉の前で俺は、自分が涙を流していることに気がついた。

 青い扉を見つめながら、身体は赤い扉を開けようとしている。

 俺は青い扉を潜ることはできない。

 潜ったら最後、俺は変態の烙印を押されてしまう。

 普通ではいられなくなってしまう。

 たった一メートルにも満たない距離がこんなにも遠いなんて。

 俺は一人、静かに泣いた。



 第三関門は堅く閉ざされた。

 女子トイレで着替えを済ませた俺は、始業チャイムギリギリになって体育館にたどり着いた。

 着替えで戸惑ったからといって、身体に不調があるわけじゃない。休んでいた間も筋トレとルームランニングは欠かさなかった。

 俺は頭を切り替えて授業に臨もうとした。

 しかし俺は、散々なミスをやらかした。

 バスケットボールのチーム戦でフリースローは外すわパスは届かないわ。

 せっかくカエデと同じチームだったというのに、何一つ役に立てないまま惨敗してしまった。

 普段はわざと手を抜いて、ギリギリ負けるかギリギリ勝つように試合をコントロールしていたのに。今日は最初から本気でやっても、まるで本調子が出なかった。

 俺はまだ、事件から立ち直れてなどいない。

 そう指摘されてしまったようで、俺はますます気を落とした。

「ジョー、本当に大丈夫なの? 辛いなら早退しても……」

 体育館から出て行くとき、カエデが小走りで側に来た。

 カエデにも迷惑をかけてしまったというのに、そんな様子はおくびにも出さない。

 気を遣ってもらうのが申し訳なくて、そんな自分が情けなくて。

 俺はまたしてもカエデに粗暴な対応をしてしまった。

 だからきっと、俺はその報いを受けたのだろう。

 振り返りざまに俺はバランスを崩し、足を滑らせた。

 受身も取れないような速度で俺は地面へ落下する。

 次の瞬間には頭に激痛が走る。

 そう覚悟して目を瞑ったのに、痛みはいつまでも訪れなかった。

 誰かが俺を後ろから抱きかかえていた。

 とても大きなごつごつした手が俺の身体を鷲掴む。

 俺の腰と、矯正下着で押さえつけた俺の乳房を。

 その手は慌しく俺の胸から離された。そして俺は、その手によって真っ直ぐに起こされた。

 胸に、触られた。

 胸を鷲掴みされた。

 女の象徴たる胸を。

 あの男たちがしたように。

 急激に沸点を超えた俺の視界は真っ白な光に包まれた。

 気がついたら握り拳を振り上げて、後ろに立っているはずのそいつに殴りかかろうとしていた。

 でも俺の目がそいつを捉えた途端、俺の全身が硬直して、上手く動けなくなった。

 ゴトーだった。

 俺を助けたのはゴトーだったのだ。

 白く黄色く濁った視界が、ゴトーの顔を中心に正常化していく。

 俺は震える拳を無理矢理下ろした。

 こいつは違う。あいつらとは違う。

 こいつは俺を守ろうとしてくれた。

 他のヤツとは違うんだ。

 そう自分に言い聞かせて、俺は落ち着きを取り戻そうとした。

 ただ一言、ありがとうと言えればそれでいい。

 でも、身体が震えて上手く声が出せなかった。

 仕方なくゴトーの腹に軽い抜き手を食らわせて、俺はその場を立ち去った。

 どうかしてるのは俺のほうだ。

 ゴトーがどうのと言っている場合じゃない。

 おかしいのは俺の方だろう。

 どうしてこんなことで動揺するんだ。

 俺はもう大丈夫なんだ、大丈夫になったはずなんだ。

 こんなところで立ち止まれないのに……!

 不整脈にでもなったのかのように、俺の心臓は乱れたリズムで音を打つ。

 くそっ、落ち着けよこのっ!!

 ジャージの上から心臓を殴りつける。

 人気のない廊下でくぐもった音が虚しく響き渡る。

 肋骨が軋んで、拳が痛くなるだけだった。

 そんな俺の無駄な奮闘を、廊下の奥で見ているヤツがいた。

 気配を辿って顔を見上げると、二人の視線がかち合った。

 マキ……!!

 学校では極力顔を合わせないようにしようと取り決めていたのに、どうして。

 物悲しそうな顔つきで俺の様子を窺っているマキに、俺は鷹揚に片手を上げてみせた。

 大丈夫だ、何も問題はない。

 引きつった笑顔にしかならなかったが、そんなアイコンタクトを試みたつもりだった。

 しかしマキは、俺の合図に目を背けた。

 堅く唇を結んで、そのまま階段を駆け上がっていった。

 俺はその光景に唖然とした。

 いまアイツ、俺を避けたのか?

 いったいどうして返事すら寄越さない。

 なんでそんな耐えるような顔をするんだ。

 どうして、どうしてなんだよ……!!

 息が乱れる。

 心拍が収まらない。

 胸が苦しい。

 息ができない。

 苦しい。

 胸が痛い。

 足がふらつき、俺は壁にもたれ掛かった。

「ジョーっ!!」

 後ろから女の叫び声が聞こえた。

 声の主が慌てて駆けて来る足音も、ぼんやりと聞こえた。

「いけない、過呼吸になってる……!」

 カエデ……?

 俺の背中をさすりながら、俺を廊下に座り込ませるように誘導する。

「大丈夫、心配しないで、これは悪い病気じゃない。息を吸いすぎちゃダメだ。落ち着いて、ゆっくりと息を吐くことに集中して」

 カエデは俺を安心させようと、極力柔らかい声を作っていた。

 でもその表情は、今にも泣き出しそうだった。

 遠のく意識の中、カエデの声と、廊下を踏み荒らすけたたましい足音を聞いた。

 そして俺は、何も聞こえなくなった。

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