29 SCENE -15-『ゴトー』~ a

 ゴトーにとってその日の朝はいつもより少しだけ違っていた。

 バスのつり革に掴まって揺られるゴトーの前に、美しい学生が座っている。

 ジョーである。

 今日は長らく学校を休んでいたジョーが晴れて復学する。それまで定期試験などを受けるために保健室登校していたのとは違い、いよいよ教室へと復帰する。

 ジョーは涼しい顔をして窓の外を眺めていた。

 それが精一杯の虚勢であることにゴトーは気づいていたが、あえて口にするつもりはない。

 そんなことよりもゴトーの頭を占めていたのは、これから先どのようにジョーをサポートしていくのかということだった。

 これまでは風聞とジョーのプライドを気にして、目立ったことはしないように心がけてきた。しかし、文化祭のときのようにジョーの正義感や美貌を妬んで攻撃してくる者が現れないとも限らない。

 心が弱っている今のジョーに、それが耐えられるとは思えない。

 だから今後は恥も外聞もかなぐり捨ててジョーの動向を見張ることにした。   ジョーに敵対する生徒がいれば必ず緩衝材となり、ジョーを外国人だと囃し立てる生徒がいれば即座に反論する。

 それでたとえゴトーとジョーが深い仲にあると揶揄されても、その都度否定すればいい。いっそのこと自分がゲイであると偽ってもいい。

 ゴトーはすべてを投げ打ってでもジョーを守ろうと決めたのだ。

 彼がそう決意するに至った背景にはもちろん、二つの出来事が絡んでいる。

 ゴトーの産みの母親にして『父』――アキラの失踪。

 ジョーの母親であるシルヴィからの裏取引。

 ゴトーは、それらすべてに目を瞑って、ジョーのことだけを考えることにした。

 それだけが正しいことに思えたから。

 そうでもしなければ、頭がおかしくなってしまいそうだったから。

 アキラが失踪して早半月。警察から朗報が届くことはなかった。

 それどころか、ジョーが襲われた件について捜査すらしなくなった。

 テレビや新聞は、有名私大の生徒たちが集団強姦容疑で一斉に逮捕されたうえに民事訴訟まで起こされたという一連の事件をセンセーショナルに報じた。

 ただし、ジョーが事件の被害者として取り沙汰されることはなかった。

 おそらく、シルヴィが裏から手を回したのだろう。

 事件被害に遭った子どもを迎えにも来ないくせに、無遠慮なマスコミから我が子を守ろうとする配慮。そうかと思えば、自分の娘を犯して女にしろと命じたその口で、娘を愛していると嘯く倒錯。

 ゴトーはあの麗人が恐ろしくてたまらなかった。

 ジョーと瓜二つの顔をして、色香を振りまく絶世の美女。

 シルヴィに逆らえば、遠からず自分は破滅させられるのだろう。

 でも、そんなことはもうどうでもいい。

 きっとアキラはもう死んでいる。ゴトーの元には二度と帰ってこない。

 ジョーの信頼を裏切るなんて真っ平御免、そんなことをするくらいなら自ら命を絶ってやる。

 遅かれ早かれ破滅させられるなら、最期の瞬間までジョーのために何かがしたい。

 ゴトーのは固かった。

 しかしその決意が絶望と言い換えられる類のものであることを、ゴトー自身は気づいていなかった。



「おはざーっすっ!!」

「おはよう、ゴトー君」

 ジョーを職員室まで見送った帰り、渡り廊下でワルツとムツキに出くわした。ワルツは吹奏楽部の朝練習に、ムツキは次回の放送コンテストに向けた早朝撮影に参加した帰りだった。

「ねえ、いまの、もしかしてルミエールさん……?」

 職員室の扉を指差して、ムツキは言った。

「やっと学校に来れるようになったんだね、良かった……!」

「あー……うん、ホントねー。何よりだわ」

 ワルツは殊更興味なさそうに、携帯電話を開いて時間を確認していた。

「ムウちゃん、時間時間」

「あっ、日直か」

「早く戻んないとキィちゃん泣いちゃうぞー」

「うるっさいな。行くよ、もう」

 不貞腐れて廊下を駆けていくムツキと、彼を追いかけるワルツををゴトーは見送った。

 文化祭の事件以来、ムツキは以前より明るくなった。

 より正確には、文化祭の事件のあとに例の四人組が不登校になってからだろうか。

 彼らはムツキやカエデといった弱気な生徒を虐めていたスクールカーストの頂点だった。彼らの凋落ぶりがよほどおもしろいのか、学校ではここぞとばかりに不穏な噂が広まっている。

 曰く、学内で合法ドラッグに手を出して中毒になった。美人局を働いて逮捕された。全員ヤクザに攫われて海外に売られたなどなど。好き勝手に囁かれていた。

 どれもこれもが悪意に満ちた、根も葉もない噂話だ。ゴトーは携帯電話を持っていないないが、安否確認なんてメール一通、電話一本で事足りるはず。

 こんな他人を貶めるためだけの噂でも嬉々として広まるあたり、学生というものは本当に愚かで度し難い。

 きっとこれも、裏でシルヴィが動いたに決まっている。

 おおかた彼らも全員、破滅させられたのだろう。

 そのこと自体には何の感慨も抱かない。彼らは罪を犯した。。ただそれだけのことだからだ。

 しかし、このことをジョーが知ったらどんな反応を示すのか、予想ができない。

 だからこそゴトーはジョーにこの件を一切伝えていなかった。

 実はこのほかにも『彼』に伝えていないことがある。

 それは――

「終わりました」

 担任のウジイエとの面談を終えて、職員室からジョーが出てきた。

 口元には自信たっぷりの笑み。

 相変わらず優等生の風格が漂っていた。

「先に教室に行ってよいと伝えたはずですが」

「君を一人にはしておけないから」

「過保護ですね。まるで子ども扱いだ」

「そうじゃないけど……」

「別に怒ってなどいません」

握りこぶしで胸元をぽんと叩かれた。

「かたじけねぇな、相棒」

 ジョーは素直な性質ではないから、お礼ひとつ言うのも皮肉っぽくなってしまう。

 足早に廊下を歩いていくジョーの背中を追いかけながら、ゴトーは黙考する。

(こんなに心を開いてくれたジョーを犯せだって?)

(そんな馬鹿げたことを、僕がするとでも?)

(なんでもかんでも自分の思い通りになると思ったら大間違いだ)

 絶望は、着実にゴトーの心を蝕んでいった。



 ジョーが教室に現れたとき、クラスの生徒たちの反応はまちまちだった。

 カエデを始めとする真面目で大人しいタイプの女子はジョーの復学を歓迎した。体育会系の女子は静観を決め込んだ。身なりの良い女子は露骨に顔を顰めた。男子の半数はゲンナリし、残り半数は単純に驚いていた。

 これまでの自宅学習の成果もあって、ジョーは授業で遅れを取ることはなかった。

 パッと見ただけでは、ジョーは万全な状態で学校に戻って来たように思えるかもしれない。

 たとえ『彼』の被る優等生の仮面が多少ぐらついていたとしても、ほとんどの生徒は気づきもしないだろう。

 しかしジョーはまだ事件後の精神的ショックを引きずっている。

 そんな状態にもかかわらず、ジョーは体育の授業にも参加するつもりでいた。

 女子に混じって着替えをすることに耐え難い苦痛を感じているはずなのに。

 ジョーは自分がもはや傷ついてなどいないということを証明するのだと言って、ゴトーの制止を聞かなかった。

 ゴトーは校庭でサッカーをし終えたあと、体育館前でジョーを待った。

 体育館からジャージを着た女子たちがぞろぞろと出て来る。出入り口の脇で待ち構えていたゴトーを女子たちは奇異なものを目で見るか、嘲り笑った。ゴトーはすべてに目を瞑り、耳を塞いだ。

 ジョーは最後の方になってようやく体育館から出て来た。ジョーの後ろには気が気でない様子でカエデがついていた。

 体育館から出てきたジョーの顔色は目に見えて悪かった。

「ジョー、本当に大丈夫なの? 辛いなら早退しても……」

「もう、平気です。ありがとうございました」

「でも着替えてるときから具合悪そうだったじゃない、まだ体調が戻ってないんじゃ――」

「平気ですからっ!」

 声を張り上げてカエデに振り返ろうとしたジョーは、廊下のタイルで足を滑らせら。

 肩から倒れ落ちるジョーを、ゴトーは慌てて抱き留めた。

 心臓が止まるかと思った。

 こんなところでジョーを傷つけてしまったら、何のために自分がいるのかわからない。

 ゴトーの嘆息は震えていた。

「……ねえ、ゴトー君、それはちょっと、さすがに……」

 珍しく、カエデが険しい声を上げた。

 カエデの視線はゴトーの手に注がれている。

 視線に釣られて手の平へと意識が移る。

 ジャージの上から、堅いような柔らかいようなものが当たっていた。

の正体に気づいた瞬間、ジョーを真っ直ぐに立たせて後ろに飛び退いた。

 後姿のジョーは、黙って肩を震わせていた。

 とんでもないことをしてしまった。

 ジョーが最も嫌悪する行為の一つだったろうに。

 ジョーは振り返り際に、雷の如き速度で拳を上げた。

 しかし、拳がゴトーの顔面へ繰り出されることはなかった。

 わなわなと震える拳をジョーは静かに降ろした。そして若干強めのボディブローをゴトーに食らわせて、走り去ってしまう。

 カエデは咎めるような目でゴトーを睨みつけてから、ジョーのあとを追った。

 廊下に一人残されたゴトーは、自分の手の平を見つめていた。

 自分の手が、触れたものの感触を覚えてしまっていた。

 触覚は導線に火を燈し、いつかの記憶を想起させる。

 長雨の湿った空気。埃っぽい空気。

 暗い倉庫。何人もの男たち。

 組み敷かれた少女。

 はだけられた、胸。

(――――っっっ!!)

 ゴトーは頭を振り、そのイメージをかき消した。

 手の平をジャージの袖で何度も拭った。

 何度も、何十回も。肌が擦り切れるほどに。

 そんなゴトーの頭の中でシルヴィが嘲笑する。

「ほら見たことか」

 気だるさの中に凍り付くような妖艶さを湛えた顔で。

 ジョーと同じ美しい顔で。

 紛れもない、女の顔で。

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