28 OTHERS -06-『魔女の追憶』

 生きていることが恥ずかしかった。

 わたしの家は代々医者の家系で、父は医大の学部長を勤めていた。母は医薬品メーカーの社長令嬢で、わたしは何不自由ない暮らしを送ってきた。

 小学生になりたてのころ、わたしは動物園で両親とはぐれた。

 それでもわたしはたった一人で淡々と園内を歩き続けた。

 旦那様――ヤシロさんと出会ったのは、その道中でのことだ。

 ヤシロさんは憮然とするわたしを見て、元気に駆け寄ってきた。

 当時小学5年生だった彼は、わたしからすれば大人と大差ないほど大きかった。それなのに、ヤシロさんがみすぼらしい体操服姿だったことが今でも印象に残っている。

 二三問いかけたあと、彼はわたしを迷子だと判断して、入り口近くの迷子センターまで連れて行った。

 彼の隣にはなお婆さんがいた。二人は泣きも笑いもしないわたしを心配して、すぐにお父さんとお母さんが迎えに来るからねとしきりに励ました。

 大きなお世話だった。

 わたしはそのまま誰かに攫われてしまいたかった。

 あの家に帰りたくなかった。

 あんな、息をするだけでも恥ずかしくて仕方がない家になんて。

 園内放送を聞いた両親がわたしを迎えに来たのは、放送があってから一時間も経ってからのことだった。

 その間、ヤシロさんと彼のお祖母さんはずっとわたしに話しかけていた。

 迷子センターに訪れたわたしの両親が最初にしたことは、係員を怒鳴りつけることだった。放送の仕方が悪い、声が聞き取れなかった、センターの場所がわからない。果てはなぜ自分たちに迎えに来させるのかと、理不尽極まりない暴言を投げつけた。

 わたしは耳を塞いで蹲った。

 こんな人たちの子どもに生まれてきたくなかった。

 お金があるだけで、頭がいいだけで、身分が高いだけで、まるで自分が神にでもなったかのように振舞う両親の元になんて。

 そんなとき、ヤシロさんがしゃがみ込んで、わたしの眼を覗き込んだ。

「ごめんね」

 ヤシロさんは、いまにも泣きそうな顔をしてわたしに謝った。

 彼は理解したのだ。わたしがわざと両親から逃げ出したことを。彼がわたしの目論見を潰してしまったことを。

 意外そうな表情で見返すわたしを、彼はただただ哀れんでいた。

 スタッフに怒りを発散し終えた両親は、地べたに座り込んだわたしを無理矢理立ち上がらせた。その余波でヤシロさんが尻餅をついてしまったのに気づいて、両親は眉間に皺を寄せた。

 汚物でも見るような目だった。

 ヤシロさんを転ばせたことを謝りもせず、両親は彼のお祖母さんに何枚かのお札を握らせた。お祖母さんがこんなものはいらないと呼び止めても、両親はそれに取り合わず、わたしを引きずって出口へと向かっていった。

 両親に連れて行かれるわたしを、ヤシロさんはいつまでも目で追っていた。

 その日から、わたしはヤシロさんのことが忘れられなくなった。

 どうしても彼ともう一度会いたかった。

 会って話がしたかった。

 そのためにまずわたしは、両親の運転手である男を脅迫した。言うことを聞かなければおまえに犯されたと言いふらして牢屋に入れてやると言った。

 運転手はわたしの言いなりになった。私立の女子小学校と家を往復する時間を使って、わたしはとある公立小学校の校門を見張った。ヤシロさんが着ていた体操服に刺繍された校章で、彼の通う学校はすぐにわかった。

 ヤシロさんが下校したのを確認して、運転手に彼のあとを追わせた。彼の住む場所もあっさりと判明した。

 彼はいわゆるといわれる退廃した場所に住んでいた。

 運転手を介して探偵に身辺調査もさせた。ヤシロさんの両親は、彼が三歳のときに相次いで病死したらしい。唯一の肉親は、わずかばかりの年金で細々と暮らす母方の祖母だけ。二人はあばら家のような木造アパートで肩を寄せ合うように生きていた。

 ヤシロさんの日課は、近所の図書館で読書をすること。

 同じ服を一週間着まわさなければならないほど貧しかったヤシロさんにとって、様々な本を無料で読むことができる図書館は貴重な憩いの場だった。

 わたしはそこに、偶然を装って立ち入った。

 わざとヤシロさんの隣で本棚を眺めていたら、彼はすぐにわたしに気がついた。

 それからわたしたちは、ほとんど毎日のように図書館で顔を合わせた。

 わたしの動向を疑う家庭教師の女には、父と不倫している事実を暴露して多額の賠償金を支払わせると言って黙らせた。彼女もまた、わたしの言いなりになった。

 ヤシロさんは将来、お医者さんになりたいと言った。

 足腰の弱いお祖母ちゃんを治して元気にしてあげたいと、無邪気に夢を語っていた。

 それを聞いたわたしの心は冷めていく一方だった。

 わたしがヤシロさんを付け回していたのは、なにも彼に興味を持ったからではない。

 彼が、に気づいていないかが不安だっただけだ。

 当時のわたしの知能は、ゆうに成人の域を超えていた。いわゆる天才児というヤツだった。

 しかしそれは、自分の両親にさえ隠し通していることだった。

 両親がこの事実に気づけば、彼らは嬉々としてわたしを見世物にするだろう。わたしにはそれが我慢ならなかった。

 絶対に知られるわけにはいかない。いずれあの家族地獄から永遠に逃げ出すそのときまで、誰にもバレるわけにはいかなかった。

 動物園でわたしの本心を見抜いた彼を見逃すわけにはいかなかった。

 だからわたしはヤシロさんに近づいて、ずっと監視していたのだ。

 それなのに彼は、わたしを新しくできた妹のように扱った。

 ねえミドリちゃんこの本は読んだことある、ミドリちゃんは小さいのに一人で図書館に来て偉いなあ、ミドリちゃんはどんな食べ物が好きなの、ミドリちゃんはマンガやアニメは見るの、ねえミドリちゃんミドリちゃんミドリちゃんミドリちゃん……

 彼の無警戒さに腹が立った。どうしてわたしが悪意を持ってあなたに接しているのに気づけないのかと、無性に腹立たしかった。

 そのうえ彼は、医者なんかになりたいなどとのたまった。

 父のような、派閥争いに明け暮れて患者をモルモット扱いする医者という職業に。

 彼の夢を聞いたわたしは、彼から計算ドリルを奪い取っていた。

 彼の夢を汚してやりたかった。分数の掛け算ごときに手こずっている人間が医者になんてなれるはずがないと嗤ってやりたかった。

 ものの数分で小学五・六年生の問題をすべて解き切ってドリルを突っ返したとき、わたしは冷静さを取り戻した。

 やってしまった。暗い感情にまかせて、隠したかった秘密を明かしてしまった。

 ドリルを受け取った彼は、目をまん丸に見開いてわたしを見ていた。

 そのときのわたしは、さながら処刑台に寝かせられた女王の心境だった。

 だけどヤシロさんはわたしの脅威もお構いなしに、

「すごい、すごいよミドリちゃん!」

 とはしゃぎたてた。

 そこが図書館であることを思い出してヤシロさんはすぐに声を抑えたけれど、ありとあらゆる言葉でわたしを誉めそやし、興奮冷めやらない様子でわたしの頭を撫で回した。

 ヤシロさんは、わたしがお金持ちの子どもだからたくさん勉強を頑張っているのだと、単純にそう解釈したらしかった。

 彼の勘違いに気づいたわたしは、曖昧に笑ってその場を誤魔化した。

 それからもわたしたちは、何年も図書館で共に過ごした。図書館の職員たちにはすっかり顔を覚えられ、仲の良い兄妹のようにみなされていた。

 ヤシロさんはわたしがいくつも年下なのを気にせずに、勉強でつまづくと教えを請うた。

 それは彼にプライドがなかったというわけではなく、お勉強ができるわたしを純粋に尊敬していたからのようだった。わたしが彼の疑問に答えてあげると、「教え方が上手いからわかりやすい」といつも褒めてくれた。

 長い時を二人で過ごすうち、わたしはヤシロさんに恐れを感じなくなっていた。

 ヤシロさんが中学生になる頃には、彼の家でご飯を食べさせてもらうほど親しくなっていた。

 ヤシロさんのお祖母さんは、わたしのことをとても可愛がってくれた。わたしの両親があんな無礼を働いたことなど関係なしに、わたしを実の孫のように受け入れてくれた。

 いつしかわたしの居場所は、ヤシロさんの隣になっていた。

 わたしには親しい友達などいなかった。お嬢様学校に通う同級生たちは、特権意識にどっぷり漬かったマヌケばかりでお話にならない。両親はわたしを家庭教師に丸投げして、ろくに見向きもしない。

 でも、それはわたしにとって非常に都合が良かった。

 わたしは自分の学業を程ほどにする傍ら、付きっ切りでヤシロさんの学力向上に努めた。素直な気質だったヤシロさんは、わたしが彼を指導することに一切反発しなかった。それどころか彼は、自分にばかり構っていていいのかとわたしの心配をしてくれた。

 わたしは自分の未来なんてどうでもよかった。どうせ大学までエスカレーター式の学校だし、あのゴミのような人間性の両親から離れられるなら、学校を中退したって構わなかった。

 そんなことよりもわたしは、ヤシロさんの夢を叶えてあげたいと思うようになっていた。

 高校受験の勉強を小学生が教えるなんて、「勉強ができる」なんて言葉じゃ説明がつかない。ヤシロさんは黙っていたけれど、ずっと以前からわたしの正体に気づいていたはずだ。

 それでもヤシロさんはそのことを誰にも言わないでいてくれた。彼には何人かの友達がいたけれど、わたしの頭脳が普通ではないことだけは秘密にしてくれた。

 わたしは何も言わなかったのに、ヤシロさんはわたしの思いを察してくれていたのだ。

 猛勉強の成果もあり、ヤシロさんは進学率の高い都立高校に推薦入学することができた。

 同じようにして、彼は国立大学の医学部への入学を果たした。

 その頃には、わたしは自分の家には寝に帰っているだけというほどヤシロさんの家に入り浸るようになっていた。

 たまの休みには、ヤシロさんとお祖母ちゃんと三人でよく公園に出掛けた。とても質素だったけど、両親が金に物をいわせてリゾート地に連れて行ったときの何百倍もわたしの心は安らぎを感じていた。

 そしてわたしが十六歳になったその日に、わたしはヤシロさんに結婚を申し込んだ。

 ヤシロさんはとても驚いていた。妹のように思っていた子どもから求婚されるとは、思ってもいなかったのだろう。

 でもわたしは、本当は彼がわたしを欲しがっていることに気づいていた。彼がわたしに手を出そうとしなかったのは、わたしの未来を真剣に考えてくれていたからだ。

 わたしはヤシロさんがいなければ未来なんていらないのに。

 ヤシロさんは首を縦に振ってはくれなかった。どれだけ頼んでも、泣きついても、未成年のうちから人生の重大な決断をするべきではないと至極まっとうな反応が返ってくるだけだった。

 さめざめと涙を流し、わたしは絶望の淵に沈んだ。

 この人に拒絶されたら、もうわたしの居場所はどこにもない。

 わたしと向き合ってくれた人はヤシロさんしかいないのに。

 悲しむわたしを哀れに思ったのか、ヤシロさんはわたしに、

「大学を卒業したあとでもまだ自分と結婚したいと思ってくれているなら、僕から改めてプロポーズする」

 と言ってくれた。

 彼はきっと、それまでにわたしが心変わりすることに期待したのだろう。自分のような貧乏人など相手にせずに、もっと身分の釣り合った心優しい人がいるはずだと、彼がそう考えていることは手に取るようにわかった。

 幼い頃からずっと、わたしはヤシロさんしか見てこなかった。最初こそ憎んでいたけれど、今も昔もヤシロさんに惹き付けられていることに変わりはない。こんなに心優しい人はどこにもいない。

 わたしの身も心も、すべてヤシロさんだけのものだった。

 医大に入ったヤシロさんは勉学に忙殺され、二人でゆっくり過ごす時間は以前よりも格段に減った。

 わたしは高校の授業の大半を聞き流して、ヤシロさんの学んでいる病理学や医科英語などの学習に励んでいた。医学を志す気など毛頭なかったけれど、少しでも彼の役に立ちたかった。

 あの女がわたしたちの前に現れたのは、そんなときだった。

 長らく空室だったヤシロさんの隣の部屋に引っ越してきたその人物を、最初わたしは男だと思っていた。

 わたしがヤシロさんとお祖母ちゃんとお昼御飯を食べていたとき、あいつは尋ねてきた。緊張のあまり異様に引きつった顔をしながら、手作りの焼き菓子を持ってきた。

 その菓子はわたしの両親が買い与えたどんな銘菓よりも美味しかった。

 アキラと名乗ったその人物は、知人の伝を頼って料理の修業をするつもりだと言っていた。

 アキラとヤシロさんは年齢が近かったことや、穏やかな気性が似ていたことから、すぐに仲良くなった。

 やがてわたしとヤシロさんが過ごしていた時間に、アキラが混ざってくることが多くなった。アキラは持ち前の料理の腕を披露して、わたしたちを喜ばせようとした。

 ヤシロさんと二人きりになれる時間が減ったことで、わたしの中で確実にフラストレーションが溜まっていった。ヤシロさんにはわたしとお祖母ちゃんがいれば充分なのにと、子どもじみた嫉妬を覚えることもしばしばだった。

 それでもわたしが我慢したのは、アキラの腰が低くて押し付けがましくなかったから。

 そしてなにより、アキラが男だと思っていたからだ。

 いくらヤシロさんを独り占めしたいといっても、友達付き合いも許さないほど狭量な妻にはなりたくない。それこそ百歩譲って許してやるつもりで、わたしはアキラの介入を見逃した。

 だけど、わたしは見てしまった。

 アキラと知り合ってから二年余りが経った梅雨の日。いつも通りにヤシロさんの家を尋ねたわたしは、アキラの部屋のカーテンが半開きになっているのに気づいて、なんとなく中を覗いてしまった。

 アキラは着替えをしている最中で、ちょうど上着を脱いでいるところだった。

 シャツを脱いだアキラの胸に、さらし布のようなものが巻きつけられていた。布の締め付けが甘くなっていたのか、アキラは何度か布を引き締めようとした。それでも充分ではなかったようで、最後には物憂げな顔で布を取り払った。

 アキラの胸は、ありありと膨らんでいた。

 わたしはその事実を、すぐさまヤシロさんに伝えた。あいつは変態だ、何を考えているかわからない、そんな旨のことを言った。

 わたしの言葉を聞いても、ヤシロさんはまったく驚かなかった。

 ヤシロさんはわたしが気づくずっと以前から気づいていて、アキラから相談を受けていたのだと告白した。

 アキラは性同一性障害を患う女性だった。

 当時この病名の知名度は日本ではかなり低かった。男のフリをした女でも、女のフリをした男でも、みんなまとめて「オカマ」と呼ばれるような時代だった。

 いくら知能が常人離れしていようと、専門的な知識を持っていなかったわたしにとってもそれは同じことだった。

 ヤシロさんは自分の生徒に教授するかのように、この病気にまつわる知識を与えてくれた。

 そもそも「性」という日本語には、実際には二つの意味が込められている。生物学的なオス・メスを表す「SEX」と、夫・妻のように性別ごとに社会が割り当てた役割や性差を表す「GENDER」がそれだ。

 「性同一性」とは「GENDER IDENTITY」の直訳であり、日本語としてはむしろ「性自認」と言う方が近い。つまり、先にあげた「性」のうち「GENDER」を、という意味になる。

 性同一性障害とは、自分の心が認識する性別と、自分の身体の性別とが食い違っていて、それによって日常生活に支障を来たすほどの精神的苦痛を感じ続けている状態を表す言葉なのだという。

 この病気の原因は未だに判明していない。学者の中には遺伝子の異常や、生育環境に基づく心理的要因を挙げる者もいるらしいけど、そのどれもが信憑性に欠ける考察だという。

 ヤシロさんの説明が意味するところはすぐに理解できた。アキラに悪気があってわたしたちを騙していたわけではないということも、不本意ながら納得した。

 なにより、その当時の日本では性転換手術(現在では性別適合手術)を合法的に行うことができない状況だった。どうしても自分の身体を自分が求める性別のものに変えたければ、高い手術費用とリスクを負担して海外に行かなければならなかったのだ。

 アキラの置かれた境遇には、確かに同情の余地はあった。

 でもそれは、わたしには何一つ関係のないことだった。

 いくら心が男だと言われても、女であることに変わりはない。

 ヤシロさんの側に女は二人も必要ない。

 わたしは何とかしてヤシロさんとアキラを引き離そうと工作した。

 その直後、アキラがフランスに料理の修業に行きたいと考えていることがわかった。それを知ったわたしは、有り余る私財を無利子で貸し出すから旅費の足しにして欲しいとアキラに申し出た。

 アキラはしきりに困惑したけれど、ほとんど強引に貸し付けた。

 ほどなくして、アキラはフランスへと旅立った。

 それから四年近く、アキラは帰って来なかった。

 貸し付けたお金の大半を自分が日本にいない間の家賃として払ったらしく、アキラの部屋は引き払われなかった。

 部屋の鍵を預かっていたヤシロさんは、時おりアキラの部屋を掃除しに行った。

 アキラはいなくなったはずなのに、まだそこにいるような気がした。その部屋の存在がずっとわたしの心を締め付けた。

 いっそ火でも付けてやろうかとも思ったけど、そんなことをすればわたしたちの家まで燃えてしまう。

 ヤシロさんと同じ国立大学に通いながら、わたしは憂鬱な日々を送っていた。

 そしてそのころ、わたしたちの運命を変えてしまう出来事が起こった。

 それは、悲劇だった。

 高血圧の兆候が現れたお祖母ちゃんは、以前からわたしの父が勤める大学病院に通院していた。

 そのお祖母ちゃんがある日、死んだ。

 病院側はお祖母ちゃんの死を急性心不全で片付けようとした。

 ヤシロさんもわたしも病院側の医療過誤を疑った。だけど、病院はそれを認めようとしなかった。

 だからわたしは、ありとあらゆる手段を講じて病院内を調べまわった。当時院長にまで登り詰めていた父の名前を勝手に使って、違法なことでもやってのけた。

 その結果わかったのは、わたしの予想を超える非情な真実。

 お祖母ちゃんの死は、研修医でもミスしないような簡単な投薬ミスによるものだった。だけど、その証拠となるカルテは何度も改ざんされたあとがあった。

 それを指示したのは、わたしの父だった。

 だけどそれは、病院の威信を守りたかったからなんて生易しいものじゃない。投薬ミスを犯した看護師が、何人もいる父の愛人の一人だったからだ。

 父はその女を守りたいがために、わたしたちのお祖母ちゃんの死の真相を隠滅しようとした。

 絶対に許すことはできなかった。

 わたしはすべての証拠を取り揃え、それをマスコミにリークした。

 世間はこの事件を面白おかしく書きたててくれた。「淫蕩に耽る乱交院長、愛人の不正をもみ消しか」なんて見出しが載ったときには笑いが止まらなかった。わたしにも何度かマスコミが取材に来たから、ここぞとばかりに父に不利なコメントをしてやった。

 その結果この事件は世間の注目を集めた。後年、父は証拠隠滅罪で有罪となり、医師免許を剥奪された。そんな父に愛想を尽かした母は、裁判が始まるや離婚届を残して若い愛人の元へと逃げた。いまでは二人とも行方知れずだ。

 お祖母ちゃんを失ったヤシロさんは、魂が抜けたような有様になってしまった。彼はお通夜でも告別式でも涙一つ流さないで、ただ呆然と肩を落としていた。すべての真実が白日の下にさらされたあとも、それは変わらなかった。

 そんなヤシロさんが不憫で、わたしは彼にかける言葉が見つからなかった。

 だって、お祖母ちゃんを死に追いやったのはわたしの父でもあるのだ。仇の娘ともいえるわたしが、どんな顔をして会いに行けばいいのか。

 その怒りと悲しみがわたしを真相究明へと駆り立てていたのだろう。わたしはそのころ、あまりヤシロさんの顔を見ないように過ごしていた。

 だからわたしは、ヤシロさんの異変に気づけなかった。

 四十九日を終えたその日の深夜、ヤシロさんは自室で首を吊ろうとしたらしい。

 わたしはそれを、その前日に日本に戻ってきたアキラから聞かされた。

 ヤシロさんは飲めないお酒を浴びるほど飲んで、大泣きしながら死のうとしていたという。隣の部屋で眠っていたアキラがそれに気づき、事なきを得たのだと言う。

 愕然とした。あれほど側にいたのに、わたしはヤシロさんの悲しみの深さを理解できていなかった。

 しかもそれだけじゃない。苦悶の顔で寝入るヤシロさんの部屋へ足を踏み入れたとき、わたしは幽かに嗅いだ。

 女だけが発する、血の匂いを。

 わたしはアキラに掴みかかった。まだ説明していないことがあるはずだと問い詰めた。だけどアキラは、どれだけ詰ってもありのままの事実を答えようとはしなかった。

 業を煮やしたわたしは、かつてしたのと同じようにアキラへ札束を押し付けた。

 もう二度とわたしの、ヤシロさんの前に現れないで欲しかった。

 わたしからヤシロさんを取らないで欲しかった。

 わたしが嫌っていた両親と同じように、わたしも金に物を言わせてアキラを排除しようとした。

 その矛盾に胃が爛れそうになっても、わたしはどこまでも身勝手にアキラを責め立てた。

 アキラはいつものように申し訳なさそうな顔をして自分の部屋に戻っていった。

 その数日後、アキラはわたしたちの前から姿を消した。

 部屋の荷物はほとんどそのまま残されていた。ただそこから、アキラだけがいなくなっていた。

 ヤシロさんはアキラが帰ってきていたことに気づいていないようだった。死のうとしたその日の出来事も、ほとんど覚えていなかった。

 わたしはヤシロさんに許しを請うた。もう一生あなたに寂しい思いはさせないから結婚して欲しいと哀願した。

 心が弱っていたヤシロさんは、私の求愛を受け入れてくれた。

 わたしたちは大学卒業を待たずに結婚し、ついにヤシロさんはわたしの旦那様になってくれた。結婚して一年経たないうちに、二人の間にムツが生まれた。

 それからの十数年は、まるで夢のような毎日だった。

 傲慢な両親のもと、生きているだけで後ろめたさを感じていた幼少期とは違う。わたしだけを見つめてくれる素敵な旦那様と、愛するわが子がいる。なんという理想的な情景だろう。

 ムツはわたしに似てとても聡い子どもだった。そのせいか少しだけ生意気なところがあって、学校では虐められることが多かった。けれどわたしたち夫婦はいつでもあの子の味方をした。問題が起これば、何があっても学校側の責任者と相手の子どもの両親に土下座させて謝らせた。

 わたしはあの忌々しい両親とは違う。いつでも家族のことを考えている。わたしは有名な私大付属病院でメスをふるう旦那様を献身的に支えた。旦那様の手を煩わせないよう、ムツにはわたしが付きっ切りで面倒を見た。

 すべては上手くいっていた。

 それなのに、あの女は三度わたしの前に現れた。

 しかもあの女、ムツと同い年の子どもを連れて東京に戻って来たのだ。

 それが誰の息子かなんて、言われずともわかっていた。

 旦那様はシングルマザーとなったあの女の境遇に大層同情して、治療費の大半を肩代わりしたいとわたしに相談してきた。

 わたしには旦那様がすべてだ。旦那様の頼みを無碍にはできない。わたしは不承不承にそれを聞き入れた。

 あの女はいったいどれだけわたしを苦しめれば気が済むのか。わたしの心は千々に乱れた。点滴に入れる薬剤の量を増やして事故死させてやろうか、それとも屋上から突き落として自殺に見せかけてやろうか。憎しみと殺意は日々募るばかりだった。

 旦那様は十数年ぶりに再会した友と久闊を叙した。二人の楽しそうな姿は、彼らが出会った当時を思い起こさせた。

 わたしは焦った。もしかしたら、このまま旦那様の心がわたしから離れていってしまうのではないか。わたしを捨ててあの女の元へ行ってしまうのではないか。

 どうしようもない不安に駆られたわたしは、自分の肉体を誇示して旦那様を誘惑した。わたしの容姿は日々の努力によって若さと美貌を保ったままだった。旦那様はいつにも増して激しくわたしを愛してくれた。

 それでようやく不安から解放されると思ったのに。

 旦那様の机の引き出しの奥にDNA親子鑑定書が隠されていた。

 旦那様はあの女の息子が自分の子供であると気づいてしまったのだ。

 旦那様はかつての自分の過ちをほとんど覚えていなかった。顔に出さなくても、旦那様が罪悪感に押し潰されそうになっていることは明らかだった。

 わたしはとうとう、我慢ができなくなった。

 あの女の病室へ向かったとき、ちょうど部屋から誰かが出てくるところだった。わたしは物陰に身を潜めて様子を窺った。

 外国人の女だった。白人……たぶんケルト系だろうか。すらっとした若々しい女が目元を腫らしていた。

 女は足早に廊下を歩いていった。女が消えたときを見計らって、わたしはあの女の病室に入った。

 窓辺に立っていたあの女は、わたしに気づいて振り向いた。

「やあミドリちゃん、お久しぶり。元気だった?」

 十数年前と変わらない柔和な笑みを浮かべて、あの女はそう言った。

 わたしが元気かって? そんなわけがないでしょうっ!!

 おまえのせいでわたしがどれだけ苦しんできたか。

 旦那様がどれだけ傷ついているか。

 おまえなんかにわかってたまるかっ!!

 わたしはありったけの言葉であの女を罵倒し、糾弾し、最後には大粒の涙を零しながらわたしたちの前から消えて欲しいと頼んだ。

 こんな女のせいで、旦那様の愛を失いたくなかった。

 幸せを奪われたくなかった。

 あの女は、いつかと同じ申し訳なさそうな顔をした。

「……ヤシロ君が愛しているのは、君だけだよ。僕は君から彼を取り上げたりしない」

 そんなこと信じられるはずがない。

 おまえがあの人の側にいるかぎり、わたしは永遠に苦しみ続けるんだ。

 泣き崩れたわたしの前に、あの女がしゃがみ込んだ。

 間近で見たあの女の胸は、十数年前とは違って平らになっていた。

「僕はもうすぐ死ぬ。君たちの前から永遠に消え去る。君は僕のことなんか忘れて、ヤシロ君を支え続けて欲しい」

 まるで子どもをあやすように、わたしは頭を撫でられた。

「どうか幸せになってね、ミドリちゃん」

 それからすぐ、あの女はまたどこかへと消えた。

 結局それがわたしとあの女との最後の会話になってしまった。

 あの女はいつも、慈愛の籠もった目つきでわたしを見ていた。

 あの女がわたしのことをどう思っていたかはわからない。

 それでも、あの女が決してウソをつかない人間だということをわたしは理解していた。

 あの女に悪気がないことも、本当はずっとわかっていた。

 あの女の言葉は、すべて本心だったのだ。

 あの女は自分のことを忘れて欲しいと言ったけれど、わたしにはとてもそんなことはできそうにない。

 きっと死ぬまで忘れることはないだろう。

 そしてわたしはまた、あの感情に悩まされることになる。

 生きていることが恥ずかしいという、あの感情に。

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