27 SCENE -14-『ゴトー』

 心身ともにしばれる十一月下旬の夜のことだった。

 いつも通り、ゴトーは二十時三十分にレストランでの仕事を終えた。錆びついた自転車にまたがり、疲れた身体を奮い立たせるようにペダルをこぎ始める。

 ジョーをアキラと引き合わせてから十日ほどが経っていた。

 そしてそれは、アキラが病院から失踪した日数でもある。

 ゴトーがジョーと二人で室町大学付属病院へ訪れた翌日、アキラは忽然と病室から姿を消した。

 VIP待遇の患者が行方を晦ませたことで、一時病院は騒然となったものの、騒ぎはすぐに沈静化した。病室からアキラの自筆の手紙が発見されたからだ。

 手紙には一言、「長い間お世話になりました」とだけ書かれていた。

 この手紙の存在によって、アキラが自発的に病院を飛び出したのだと断定された。

 アキラの失踪後、すぐに警察に捜索届を提出した。しかし失踪者が自発的にいなくなってしまった場合、警察が本腰を入れて捜査することはほとんどないという。

 それを聞いたヤシロは私財を投じて興信所に依頼してでもアキラを探そうとしていたが、ゴトーはそれを丁重に断った。

 ヤシロにはこれまで、新居の世話から病室の手配、治療費の立替と、アキラとゴトーのために何百万円単位の負担を強いているはず。これ以上はもう、一円だって払わせるわけにはいかない。

 アキラがいなくなったことでヤシロは大層取り乱した。一方でゴトーはというと、アキラの失踪を聞いてもむしろ淡々としていた。

 いつかこうなる予感があった。

 遠い北海道の地でアキラが倒れ、搬送された病院で会合に出席していたヤシロと再会したとき。

 ヤシロからの強い勧めで東京への転居を決めたとき。

 そして、アキラの病室へジョーを連れて来るよう言われたとき。

 父の存在がいつもより希薄になっているような気がした。

 そこに居て、確かに会話をしているはずなのに、触れたら煙のように掻き消えてしまう。そんな錯覚を感じていた。

 『父』はまっすぐな人だった。不用意なウソをつけない不器用な人だった。責任感に溢れる、心優しい人だった。

 きっと、旧友であるヤシロに迷惑を掛けている自分が許せなかったのだろう。残された手紙に記された文字から、深い後悔と謝罪の感情が伝わってきた。

 もはや歩くこともままならないほど弱った身体で、いったいどこへ行こうというのか。

 わからない。わかりたくもない。

 わかってしまえば、最悪の想像が現実のものとなってしまいそうで、恐ろしかった。

 アキラはもう、生きてゴトーの元へ帰ってくるつもりはないのだと。

 不穏な考えを払い去るように、ゴトーは頭を振った。

 いまはただ、目の前の生活のことだけを考えていればいい。

 学費は奨学金で、生活費はアキラの貯蓄とアルバイト代で賄える。足りない分は、自分がもっと働けばいいのだ。

 日々の忙しさに埋没すれば、こんな不安もいつかは忘れられる。

 もしかしたらその間にアキラが帰ってくるかもしれない。

 現実はそんなに楽観的ではないとわかっていても、そうでも思わないと不安に押し潰されてしまう。

 ゴトーはそれから無心で自転車を漕ぎ、やがて自宅へと帰ってきた。

 およそ屋根とは言えないほど錆びて反り返ったトタン屋根の駐輪スペースへ自転車を停める。

 そのとき、どこからかゴトーを呼び掛ける声が聞こえてきた。

 水を打ったように静かな声。それでいて、あまりにも敵対的な声。

 ゴトーは声がした方へ顔を向けた。

 そこには夜の暗闇に同化しそうなほど黒い車と、パンツスーツを着こなした女性がいた。

 県境のベッドタウンには似つかわしくない、物々しい車。女性の風貌と合わせれば、それがそこいらの庶民には手が届かないくらいの高級品だということは容易に想像がつく。

「おまえと話がしたいと望まれているお方がいる」

 女性はそう言い終わると、車の後部座席のドアを開いた。

 車から降りたその人物は、恭しく傅く女性に短く礼を述べた。

 街灯に照らされたその顔を見て、ゴトーは思わず息を呑んだ。

 視線を引きつけて離さない、鮮烈な翡翠の瞳。真っ白な雪にも似た、まるで熱を感じさせないほど透き通った肌。双眸も鼻梁もこれ以上ないほど完璧に整っていて、まるで彫刻が意思を持っているようにすら思える。パンツスーツの女性も相当な美貌の持ち主だったが、その人物の美しさは格が違う。

 だが、それすら驚きの半分に過ぎない。

 ゴトーは以前、これと同じような衝撃を体験している。

 驚いて言葉も出ないゴトーを見て、その人物は薄く微笑んだ。

「瓜二つで驚いたでしょう」

 肩より下まで流れる黒髪を掻き揚げながら、その人物はゆっくりとこちらに向かって来る。

「あと何年もしないうちに、もっと見分けがつかなくなるくらいあの子は成長するのでしょうね。今はそれが楽しみでもあり、不安でもある」

 その人物は緩やかな動きでゴトーを見上げると、こう言った。

「シルヴェーヌといいます。ジョセの……いいえ。ルミエール・ジョスリーヌの母です」



 車に乗せられてから一時間ほど経った。

 あの会話のあとすぐ、ゴトーは数人の男たちに囲まれた。いずれもゴトーと引けを取らないほど長身で、屈強な体つきをしていた。

 ゴトーは男たちにワゴン車の後部座席に座らせられた。窓にはスモークシートが貼り付けてあり、ゴトーは外の様子を見ることすらできなかった。

 手荒なことは一切されなかったが、紳士的にもてなされたわけでもない。

 彼らの無言の圧力と、何よりもあの女性、シルヴェーヌの妖しい眼光がゴトーの反抗を許さなかった。

「降りてください」

 運転席の男にそう言われてはじめて、車が止まっていたことに気がついた。

 隣に座っていた男たちが素早くワゴンから降りる。感情を窺わせない淡白な目つきで、ゴトーに車から降りるよう促してくる。

 ゴトーは彼らの顔色を覗き見つつ、素直に従った。

 ここは商店街の一角のようだった。

 車二台がぎりぎりすれ違えるほどの道の両側に様々な店が軒を連ねている。薬局、文具店、書店、床屋、コーヒーチェーン店などの看板が見渡せるが、ほとんどの店はシャッターが降りていた。夜間に開いているのはコンビニエンスストアか食事処くらいである。

 電柱に取り付けられた住所表記を見ると、県境のすぐ近くにある町のひとつだとわかった。

 ゴトーが見慣れない町並みを眺めている間に、男たちはワゴン車に乗り込みゴトーを置き去りにしていった。

 けたたましくエンジンを噴かせて車が消えたあとには、子虫の羽音が聞こえるほどの静寂が残った。

 午後十時をまわろうという頃合のせいか、商店街には人通りがほとんどない。そのせいもあってか心細さが弥増していく。

「こちらに来い」

 後ろから急に呼びたてられたせいで、ゴトーは少し肝を冷やした。

「社長はすでにお待ちしている。はやくしろ」

 ゴトーの返事を待たずに女性は歩き出した。

 慌ててゴトーも彼女についていく。

 商店街の出入り口を示す大きなアーチの脇に、一本の細い裏道が隠れていた。女性はこじんまりとした中華料理店の前で足を止めた。

 暖簾はまだ下がっている。ガラス戸の張り紙には、深夜の一時まで営業と書いてあった。

 女性は戸惑っているゴトーを一瞥すると、顎をしゃくってガラス戸を示した。それ以上は口を開くのさえ面倒という様子でゴトーから視線を外す。

 ゴトーは意を決してガラス戸をあけた。

 カウンター席が六席、二人がけテーブルが四脚。昼食や夕食を提供する料理店としては小規模な造り。

 シルヴェーヌは無人の店の中心にあるテーブル席に座っていた。

「いらっしゃいゴトー君。さあ、お座りなさいな」

 どこか憂いを帯びた瞳で、妖艶に微笑みかけてくる。

 その仕草に困惑しつつ、ゴトーは彼女の正面の席に腰掛けた。

「ご店主、いつものを二人前」

 カウンターの奥から総白髪の老人が現れた。手にも顔にも深い皺が刻まれ、料理の道をひた走ってきたという貫禄を感じさせる。

 しばらくして、厨房から炒めた野菜の匂いが漂ってきた。

「ここは昔からの行きつけでね。時折ここを貸切にしては、偉い人たちと秘密の相談をするのに使っているのよ」

 詳しくは話せないけど例えば、と前置きをした彼女の口から出てきたのは、この国を代表する大企業の名前や高級官僚の役職だった。

 にわかには信じがたいが、ここがお偉方との密会場所というのは本当なのかもしれない。

 さも当然のことのように語るシルヴェーヌの口ぶりには、奇妙な説得力があった。

 それになにより、翠緑の双眸がゴトーの両目をじっと捉えて離さない。気だるさの中に見え隠れする冷淡な視線に、心を乱される思いがした。

「まずは食事にしましょう。賄料理を食べてるかもしれないけど、あなたくらい大柄な子ならもう一食でも平気よね?」

 厨房の奥から店主が両手で盆を持ってやって来た。

 ひび割れた手でテーブルに料理を並べていく。

 鶏肉の野菜炒めと、チャーハンの定食だった。

「お食べなさいな」

「は、はい。いただきます」

 塩胡椒で味付けられた鶏の腿肉と一緒に、ほんのりと焼き目がついたピーマンや赤パプリカを頬張る。口の中に広がる肉汁と夏野菜のさわやかな風味が溶け合い、深い満足感を得られる一品だった。

 桜海老と炒り卵で和えられたチャーハンも、香辛料が効いていて芳ばしい。どこか懐かしさを覚えるその味付けに、口へと米を運ぶ手が止まらなくなっていく。

「食べながらでいいから、聞いて頂戴」

 何でもまっすぐに受け止めるゴトーの反応が面白いのか、彼女の口元には淡い笑みが浮かんでいた。

 シルヴェーヌはレンゲを置こうとしたゴトーを手で制して、食事を続けるよう促す。

「改めて自己紹介するわね。私の名前はシルヴェーヌ・カトル・ルミエール。職業は経営コンサルタント、機関投資家、不動産業代表取締役……まあ、いろいろと掛け持ちしているから、単純に『社長業』と思ってくれればいい」

「あの、ルミエールさんのお母さん――」

「シルヴィでいいわ。長い名前は日本人には発音しづらいでしょうから」

 ゴトーは居住まいを正して、もう一度訊き返した。

「シルヴィさんは、僕に話したいことがあると聞きました」

「ええ、だからここに招待させてもらったの」

「……それは、あなたのお子さんのこと、でしょうか」

 一瞬の逡巡は、ジョーのことをどう言い表すかを迷ったため。

 もしもシルヴィがジョーのを知らないとしたら、ゴトーがこの場で『彼』の秘密を悟られるような呼び方は避けるべきだ。

 そもそも男であるゴトーが、クラスメイトの女生徒を『ジョー』と呼ぶこと自体が不自然だろう。

「お子さん、ね。随分ませた言い方をするのね」

 片足を組み直して、シルヴィは言う。

「そうよ。ジョセのことで、、私はあなたに話がある」

 鮮烈な緑の眼光がゴトーを捉える。

 あまりにも、無機質な視線。

「まずは一人の親として、あなたには感謝の言葉を述べなければならない。あなたはその身を挺して暴漢からジョセを守ってくれた。本当にありがとう」

 まったく心のこもっていない声だった。

 そう言うのが親の役目として当然だから、それ以上でも以下でもないと言わんばかりのセリフだった。

「その後もジョセのことを気にかけて、ほとんど毎日夕飯の支度までしてくれているんですってね。よほど友達思いなのね、あなた」

「それほどでもありません」

「あら、もしかして気分を害したのかしら。こちらは感謝してもしたりないくらいなのに」

 シルヴィはさも愉快そうに口の端を吊り上げた。

 ジョーが事件に巻き込まれたあと、この女性がただの一度もジョーに会いに来なかったことをゴトーは知っている。仕事の都合がつかないということで、いつも先ほどのパンツスーツの女性が代理として現れたらしい。

 自分の子供があんな壮絶な目に遭わされたというのに、連絡一つよこさないなんて。それもアキラのように病でやむを得なかったならまだしも、たかだか仕事が忙しいくらいのことで。

(こんな人が、ジョーの親だなんて)

 沸々と湧き上がる怒りが、ゴトーの態度を頑なにした。

 そんなゴトーを試すかのように、シルヴィはゴトーを流し目で見つめた。

「あなた、ジョセのことが好きなの?」

「……大事な友人です」

 その言葉に、シルヴィは笑った。

 ゴトーの短い人生の中で見たどんな笑顔よりも美しく、涼やかで、艶のある表情で彼女は笑った。

 いや、

「見え透いた嘘をつくのね。それがあなたの本心だとでも?」

 時折クツクツと嗤いながら、シルヴィは続ける。

「ところでゴトー君、あなたはどこまで知っているのかしら」

「どこまでとは?」

「ジョセの

 心臓が一際大きな鼓動を打つ。

 ゴトーは自分の表情が強張っているのを感じた。

「なんの、ことですか」

「本当に嘘が下手なのね、あなた。いいわよとぼけなくても。あなたの顔に、『僕はすべてを知っています』って書いてある」

「……なら、あなたは」

「もちろんすべてを知っている。あの子の囚われているをね」

 その二文字だけを殊更に強調して彼女は言った。

「あの子が小学六年生の頃だったかしら。プールの着替えをするときに突然大泣きしたらしくてね、それから何ヶ月も不登校になったの。身体の調子が悪いのかと思って医者に連れて行かせたら、性同一性障害がどうとか診断されたわ。昔から負けん気の強い娘だったけど、それからの数年間は特にひどかった。本当は自分は男なんだ、男に産まれるはずだったんだなんてことを世話役に言って聞かないらしいのよ」

 彼女は一拍おいたあと、

「本当になんて憐れなのかしら」

 そう、ため息交じりに吐き捨てた。

 この人は、ジョーの抱える事情を知っていた。

 すべての子供が、どんな些細なことでも自分の親に打ち明けるとは限らない。それ故すべての親が、自分の子供がどんな想いを胸にしまいこんでいるかに気付けるわけではない。

 しかし先ほどの口ぶりから察するに、シルヴィはそうとう前からジョーの秘密に気付いていたのだろう。

 それなら、どうしてジョーはなってしまったのか。

 他人を疑い続けることで自分を守り、優等生の仮面を被ることで自分を偽る。その裏で、生きることそのものに嫌気がさしていると云わんばかりの表情を、どうしてするようになってしまったのか。

(ああ、そうか。そういうことだったのか)

 ゴトーは理解した。

 数十センチ先で足を組んでいるこの麗人が、そうさせたのだ。

 『彼』の切なる思いを妄想と切り捨てて、受け入れなかった母親が。

 ゴトーはいつの間にか膝の上で拳を握り締めていた。

「ジョーは、男です」

 震える唇が勝手に動き出す。

「妄想なんかじゃ、ありません」

 シルヴィの冷徹な態度に圧され、ゴトーはずっと俯いたまま、彼女の顔を見ることすらできない。

 だがそれでも、ゴトーは黙ったままではいられなかった。

 そんな彼の懸命な反論を、シルヴィは一笑に付した。

「その呼び名も、馬鹿げてる。彼女は産まれたときからずっとだった。自分で自分の恥を上塗りするなんて、愚かにも程がある」

「そんな言い方――」

「ここで娘の馬鹿さ加減を議論しても埒が明かないわね。そろそろ本題に入らせてもらおうかしら」

 ゴトーの言葉を強引に断ち切って、シルヴィは話を進める。

「改めて聞くわ。あなた、ジョセのことが好き?」

「ジョーは、僕の、大切な友人です」

 一言ずつ発音を確かめるように、ゴトーは喋った。

 それに対してシルヴィはかすかに目を細め、鼻で笑った。

「私はねゴトー君、この世界の誰であっても、男と女の間に本当の友情なんて芽生えるはずがないと思っている。あなたもジョセも、ルミエール・ジョスリーヌは男だと主張する。でもね、端から見ればジョセはただの女の子なのよ。そしてそれは、あなた自身にも当てはまる。あなたはいずれ、ぬるま湯のような友達ごっこに満足できなくなる。あの子がこの私の娘だから。私は私の美しさを自覚している。今も昔もこの美しさに惹かれて、有象無象が寄り集まってくることばかりだった。私の遺伝子を色濃く受け継いだジョセは、いずれ私のような大人に成長するでしょう」

 彼女は身体を抱えるように腕を組むと、

「そのときあなたは、ただの友人として彼女の隣にいることが出来るのかしらね」

 と、ゴトーをねめつけた。

「ぼ、僕は――」

「あなたは必ずジョセを好きになる。

「違うっ!!」

 ゴトーはイスを後ろに蹴倒しながら立ち上がった。

(僕が、ジョーのことを、好きに……だって?)

(違う、そうじゃない、違うんだっ!!)

(そんなこと、考えていない、考えたことなんて)

「だからこそ私は、そんなあなたと取引がしたい」

 動揺するゴトーをよそに、シルヴィは隣のイスに置いていたハンドバックから何かを取り出した。

 ゴトーの座っていた席に一枚の紙切れが差し出される。

「前金で一千万円。成功報酬はその十倍お支払いしましょう」

 その紙切れが小切手だということは、初めて目にするゴトーでもすぐにわかった。

「これで、ジョセを女にしてやってほしい」

 小切手に釘付けになっていたゴトーは、数瞬遅れて顔を見上げた。

 いま、いったい何を言われたのかわからなかった。

 言葉の意味はわかる。そんなことがわからないほど幼くはない。

 そんな表面的なことが問題なのではない。

 ゴトーがわからないのは、どうしてこんなことを彼女が言えるのか、どうして顔色ひとつ変えずに言ってしまえるのかということだ。

 だからゴトーは、敢えて問い質した。

「何を、言ってるんです」

「わかっているのに聞き直すは時間の無駄よ、ゴトー君。このお金でジョスリーヌを犯して欲しいと言っているの」

 シルヴィは上目遣いに微笑んだ。

「あなたにとっても悪い話じゃないでしょう? お金を受け取れるばかりか、親の公認のもと生娘一人を好きにしていいと言っているの。あなたはただ、好きなだけジョセと一緒にいい」

「……あなたはそれでも母親ですか」

「れっきとした母親よ、私は。親だからこそ、実の娘の病気は治ってほしいと願うものでしょう?」

 妖艶に笑う彼女の表情が、ゴトーには悪魔のそれに見えた。

 最初からわかっていた。

 この国では――いや、この世界では、ジョーやゴトーのような考え方をする者のほうが圧倒的な少数者だということを。

 『生まれたときから身体の性別が間違っていて、本当の自分はこうではない』。そんな主張はただの放言で、気味悪がられる妄言だとみなされるということを。

 シルヴィの言い分は極端だが、ある一面では正しい。

 世間一般から言って、ジョーの状況は病気として扱われる。

 『性同一性障害』、『性別違和』、『異性装』など、症状の度合いや内容で言い方こそ変わるが、どのみちすべてWHOが定めた国際疾病分類にも取り上げられているなのだ。

 だからこそジョーも病気として扱われてしまう。

 なぜなら、彼ら彼女らの主張はではないから。

 圧倒的大多数の健常者たちが疑問視しないことに首を傾げる異端者だから。

 常識はずれだから。頭がおかしいから。狂っているから――

 

 悔しかった。

 ゴトーは何も言い返すことが出来なかった。

「ジョーは病気なんかじゃない!!」

 そう叫ぶことができたらどれだけよかったか。

 だが、そうすることに意味などない。

 ゴトーの前に座った麗人にそんな言い分は通用しない。

 シルヴィはきっと信じているのだろう。

 ジョーの考えは一過性のものでしかなくて、成長とともに消えてなくなるなのだと。

 それなら好き嫌いがなくなるように教育を施せば、その他大勢と同じような健康状態に戻れると、彼女は確信しているのだろう。

 その確信を突き崩す言葉をゴトーは持ち合わせていない。

 いや、たとえ一万の言葉を費やしても、シルヴィの考えを変えることなどできないに違いない。

 シルヴィの冷酷にも映る微笑みは、そう思わせるのに充分だった。

「ねえ、ゴトー君?」

 突然、視界を何かが横切った。

 続いて甲高い破砕音。

 ゴトーは目を見開いた。

 テーブルの上にあった料理が全て、地面にぶちまけられている。食器は粉々に砕け散り、食べかけだったチャーハンも土ぼこりに塗れていた。

「ご店主。片しなさい」

 ひどくドスの効いた声に、ゴトーは一瞬体を震わせた。

 厨房の奥から、総白髪の老人がちりとりと雑巾を持ってそそくさと現れる。

 唖然とするゴトーをよそに、老人はわき目も振らず床を掃除し始めた。

「ゴトー君、私にはあなたが想像もつかないほどの権力と財力がある。私にはあなたの周りのものすべてを買い占めることができる。家、学校、職場、街の重要産業、何もかも支配することができる。この町もそう。このあたり一帯すべてに私の会社の息がかかっている。私に歯向かえば誰もここでは生きていけない」

 老人は、シルヴィの足元に広がる食器の破片を雑巾ごしに集めている。

「当然私には、誰かを社会的に抹殺することも、破滅させることも容易い」

 老人を歯牙にもかけず、シルヴィはゴトーに近づいて来た。

 シルヴィはゴトーに三枚の写真を取り出してみせる。

 そこに写っていたのは忘れもしない人物、ジョーを襲った三人の男たちだった。

 しかしその写真の内容は、どれも普通ではなかった。

「三人とも私立明早大学のテニスサークル『クライシス・フリー』に所属する大学一年生。全員が十九歳では、逮捕されても実名報道されることはない」

 写真を押し付けられたゴトーは、震える両手でもう一度写真を表にした。

「でもそれじゃあ私の気が済まない。私の愛娘を傷つけた代償は払ってもらう必要がある。だから彼らには、社会的に死んでもらうことにしたの」

(こんな、こんな恐ろしいことが……!!)

 息を呑むゴトーをよそに、シルヴィは愉しそうに彼らの顛末を話しだした。

「三浦成司は大手銀行の支部長を父に持つお金持ち。でも可哀想なことに、お父上が指示した不正融資が『』リークされたことで一家は離散。財産はあらかた差し押さえられて大学も中退。いまは路上で暮らす惨めなホームレス」

 無精ひげを生やし、泥まみれの衣服を身にまとった男が、コンビニ裏のゴミ捨て場をあさっている写真。

「大野平造は有名商社の代表取締役の母を持つ、これまたお金持ち。でも哀しき哉、お母上が主導した企業買収が『』妨害され、彼女は解任動議にかけられた。しかも彼自身は買収先企業の社長令嬢との婚約が破談となり、令嬢の遠縁にあたる暴力団組織から命を狙われる日々」

 どこかの事務所に連れ込まれ、顔中青あざだらけにした男が大男たちに囲まれて泣きじゃくっている写真。

「最後に、主犯格だった君島龍之介。市議会の議長の父と警察OBの祖父をもつ大金持ち。彼の威光を笠に着た十数名の不埒者たちによって多くの留学生や外国人労働者が涙を飲んだ。だけど、『』彼女たちは集団訴訟を提訴した。今や彼ら親族の住居には連日連夜のように石が投げつけられている。議長の父君が罷免されたことは、いままさにニュースでも報じられている」

 シルヴィはカウンターの側に置いてあったリモコンを手にとり、天井に吊るされたテレビの電源を入れた。

 民報のテレビ局で、彼女が言った通りのニュースが特集を組んで流れていた。

「そして彼自身は、ご覧の有様」

 写真を指し示した細い指を追って、もう一度その写真に視線を落とす。

 病床に横たわり、人工呼吸器を取り付けられ、半開きの口から涎を垂れ流す男が写っていた。

「この先の人生がどのように壊れていくのか、一ヶ月ほどかけて懇切丁寧に説明してあげたら、お家に帰した途端に首を吊ったみたい。でも結局は失敗して、半身不随になったそうよ」

 声を殺して笑う彼女の姿は、さながら魔女のようだった。

 そして突然、彼女は腕を突き出してゴトーを壁際に追いつめた。

「もうわかっていると思うけれど、?」

 立ちすくむゴトーの胸元に緑の黒髪が擦れるほどにじり寄ると、シルヴィは囁いた。

「断るなら、あなたも破滅させるわ」

 吐息をたっぷりと含んだ、艶やかな声。

 男を誘惑し、心の奥深くまで虜にするための魔性の手管。

 鮮烈な色を放つ翠緑の瞳には、かすかな光も見て取れない。

 暗い昏い深遠に呑み込まれそうになる。

 それでもゴトーは、震える身体を押さえ込んで抵抗した。

「……やらない」

「学校にいられなくすると言っても?」

「やらない」

「莫大な借金を背負わせると言っても?」

「やらないっ」

「あなたにこの世の地獄を見せると言っても?」

「僕はやらない、絶対にだっ!!」

 撒き散らされた唾をよけもせず、なおもシルヴィは嗤っている。

 それどころか彼女は、ゴトーの頬に手を伸ばしてきた。

 魂まで凍りつくほど冷たい指が頬を撫でた。

「……あなた、本気なのね」

 その気になれば、シルヴィを突き放すことだってできるはずなのに。

 ゴトーの身体は金縛りにあったかのように動かない。

「金や権力で動かない人間は面倒ね。理屈が通用しないから。だけど、そんな人間を操るとっておきの方法がある」

 湿った唇が耳打ちする。

「それは、愛情を利用すること」

 言葉は甘い香気を放っている。

「あなたのお母さん、病院を抜け出して失踪したんですってね?」

「……っ!」

 叫びかけたゴトーの口を、白い指が覆った。

「誤解しないで。私が手を下したわけじゃない。あなたの母親は望んで蒸発した。そうでしょう?」

「……あなたが糸を引いていない保証はない」

「信じるのも疑うのもあなたの自由。でも確かなことが一つだけある。それは、私ならあなたの元へ母親を送り届けられる力があるということ」

 心拍が勢いを増す。

「大事な母親の最期を路傍で迎えさせたくはないでしょう?」

 鼓膜の裏まで血流のリズムが響いてくる。

「実の母親と、ただの女友達。どちらか一人しか救えない」

 二人の顔が脳裏にチラつく。

「ジョセはあなたを信頼している。あなた以上にジョセの信頼を勝ち取った男はいない。あなたが相手なら、あの子も納得するはず」

 笑顔が、怒った顔が、沈んだ顔が、皮肉った顔が。

「またいつ誰がジョセを手籠めにしてもおかしくないのよ?」

 いつかの光景が頭をよぎる。

「その前に、あなたがジョセをしてあげればいい」

 イメージが交錯する。

 明滅する。

 煩い鼓動。

 荒くなる呼吸。

 そして――

「受け取りなさい」

 眼前に先ほどの小切手が添えられる。

「これは私からの情けだと思いなさい。もしもあなたがこれを受け取らないなら、私は別の誰かに取引を持ちかけるだけなのだから」

 ジョーと同じ顔をした麗人が、『彼』とそっくりな声でそう諭す。

 シルヴィは淫靡に微笑みながらゴトーに取引を迫る。

 ゴトーは、絶望した。

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