26 SCENE -13-『ジョー』
翌日、俺は電車で二十分ほど揺られて、ある町に連れて来られた。
車窓から見える風景は空き地やら畑やらばかりで、郊外にある俺の住居よりもさらにド田舎に思える。
しかし、いざ駅に降り立つとガラリと印象が変わってしまった。
ここには全国でも有数の知名度を誇る学校がいくつも立地している。それらに通う学生たちを主な顧客とする様々な店舗が軒を連ねる地方都市だ。もっとも、『都市』なんて言えるほど活気づいているのは駅を中心とした数キロメートル内だけで、圏内から一歩外に出ればベッドタウンと耕作地のオンパレードという有様である。
この町――通称『学園都市』にはよくマキと遊びに来ているが、何度訪れてもこの急激な風景の変化には慣れそうもない。
「都会の喧騒から離れて、金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんを純粋培養するための箱庭」なんてマキが皮肉っていたのを思い出す。
その箱庭の中にゴトーの目的地があるというのだから驚きだ。
室町大学付属総合病院。繁華街からだいぶ離れた閑静な場所にそこはあった。十数階はあるだろう病院施設の辺りには自然公園の緑地帯が広がっていて、黄色く色づきはじめた木々の薫りが微かに漂ってくる。
およそ一ヶ月ぶりの遠出だけあって、少しだけ疲れた。普段なら心地よい秋風も、いまは風に混じった銀杏の匂いばかりが気になってしまう。
この程度で精神が磨り減るなるなんて、やはりまだ全快というには程遠いのか。我ながら情けない限りだ。
そんなことを考えながらを病院を見上げていると、ゴトーが呼びかけてきた。
「病室まで案内するから、こっちに」
俺たちは病院の中に入ると、受付で面会者名簿なる用紙に名前などを書くように求められた。
こんなところでまで俺は自分を女だと表明せねばならんのか、と舌打ちしたくなるのを堪えて記入する。
用紙と引き換えに面会者を示すバッジを受け取る。帰るときは受付にバッジを返却するよう説明を受けた。
ただその際、受付の女性からやけにジロジロと顔を見られた。
今日は土曜日で学校は休みだし、特に後ろ指差されるほど男男した服は着てないはずなんだが……
それとも、見た目が外国人そのまんまなのに日本語でペラペラ話すから珍しいのだろうか。
妙な不快感を感じつつも、俺は適当にハイハイ言って手続きを終わらせた。
俺たちはその足でエレベーターに乗り込んだ。
それにしても、と俺は操作盤の前に立つゴトーの後ろ姿に目を向ける。
病院に入ってからというもの、ゴトーは終始無言のままだった。
それが病院内のマナーだからなのか、単に話したい気分じゃないからなのか、それとも別の思惑があるのか。
ゴトーは何も喋ろうとはしない。ただ、エレベーターが上昇するのに反比例するかのように、ゴトーの背中に何かが圧し掛かっていくような、そんな幻を奴の後姿に見た気がした。
ほとんどの乗員が途中の階で降りていく中で、俺たちはひたすら上の階に昇り続け、結局一番最後までエレベーターに残っていた。
ようやく目的の階にたどり着いたのか、ゴトーが扉の前で待機した。そのとき電光板が示した階数は九階だった。
確か入り口の案内掲示では、八階以上は大型の個室になっていた気がする。重篤患者や、いわゆるVIP待遇の入院患者が寝泊りするための部屋だ。
んん? いやだけどそれ、おかしくないか?
ふとゴトーの家の有様を思い出す。あのあばら家みたいなアパートは、どう欲目に見ても裕福な住まいとは言えなかった。
それなのにゴトーの親は一泊あたり数万円もしそうな高級病棟で養生している。
釈然としないが、黙ってエレベータから出て行くゴトーに置いて行かれるわけにはいかない。俺はヤツのあとを足早に追った。
近頃の病院の方針なのか知らないが、どの病室にも人の気配があるのに、名札は下がっていなかった。
ゴトーがノックしたのも、やはり名前のない扉だった。
「どうぞ」
朗らかだが、どこか線の細い印象を受ける声だった。
ゴトーが扉を開けると、大きなリクライニングベッドに背を預けて本を読んでいる人が目に入る。
声の主、なんだろう。
それはつまり――
「父さん、ルミエールさんを連れてきたよ」
ゴトーは言うが早いか、備え付けの洋服タンスに持ち込んだ荷物を詰め込み始める。
いきなり病室前で放置され、唖然とする俺。
おまえ、そんなにテキパキ動けたんだな――じゃなくて! なんでおまえはいつもそう物事の手順が……って、あああもおおお!
ゴトーの段取りの悪さに思わず頭を抱えたくなったが、このまま扉の前で突っ立っているわけにもいかない。
俺はいつものように対外用の仮面を意識して、一歩前に出た。
「ルミエール・ジョスリーヌと申します。本来ならお見舞いの品でも持参するべきところを身一つで訪ねてしまい心苦しくはありますが、本日は何卒よろしくお願い致します」
言い終わるや、きっちり四五度に腰を折り曲げる。スイッチさえ入ってしまえば、社交辞令はほとんど反射的に出てきてしまう。
それもこれもすべて俺の教育係であるキリヲさんの指導の賜物なのだが、こういう堅苦しい言い回しはちょっとむず痒くもある。
あの鉄面皮のキリヲさんに「外面の良さだけは超高校級ですね」と苦笑させた俺の所作を見て、相手は目を丸くして驚いていた。
「これはこれはご丁寧に。えーっと、アキラといいます。その子の……『父』、です。はい」
開いていた本を閉じて居住まいを正すと、ゴトーの実の母――アキラさんは申し訳なさそうに口を開いた。
その物腰の低さがあまりにもゴトーに似ていたため、俺は内心で「ああ、確かにゴトーはこの人と親子なんだな」と思った。
短く切りそろえられた髪の毛をくしゃくしゃ掻きながら、アキラさんは言葉を続ける。
「ごめんね、こちらのわがままにつき合わせてしまって。ここに来るまでの間、ウチの子に失礼なところはなかったかな?」
「いえ、特にそんなことは」
「彼は僕に似てしまったせいか、ひどく口不調方だから、そのぅ、会話を続けるのは我慢してばかりかもしれないけれど、どうかゆるーく気長につきあってやって欲しいな」
「ちょっ、と、父さん、やめてよもうっ!」
自分の無作法ぶりを突かれるのに耐えられなくなったのか、ゴトーは珍しく顔を真っ赤にして恥じ入っていた。
そんなゴトーの姿を見て、アキラさんはニコニコ笑っていた。
「僕と居るときは、年相応に明るい子なんだけどねえ。外ではそうもいかないらしい。もっと笑えばいいのに、ねえ?」
「そ、そうですね」
「ほら見なさい、ルミエールさんだってこう言ってるんだ。君に足りないのは、年齢に見合った幼さだよ」
「老けっぽく見えるのは父さんのせいじゃないか……」
「その点だけは申し訳ない。僕の実家では僕以外みんな大柄で老け顔だったからねえ」
まあ僕が言っているのは外見のことじゃないんだけど、と言って笑声を漏らすアキラさんを見て、ゴトーはふて腐れたようにそっぽを向いてしまった。
学校でのゴトーは、どこか達観しているというか、世捨て人みたいな雰囲気を醸し出していた。そのせいか他の生徒と打ち解けられず、教室の片隅で置物のように鎮座していることが多かった。
多少なりともこいつと会話するようになって、少しだけゴトーのことがわかってきた気でいたけど、その考えはまだまだ甘かったらしい。
こいつも親の前では、どこにでもいる普通の子どもでしかない。
そう改めて気づかされたことに安心したような、少し悔しいような、複雑な心境だった。
ゴトーが一通りタンスの整理を終えるのを見計らって、アキラさんが口を開いた。
「それじゃあ、お仕事、頑張ってね」
「……わかった」
えっ、なにっ?
おいおい、まさか俺ここに置いてかれるのかよっ!?
ちょっ、こんな訳のわからん病室でよく知らない相手と二人っきりにさせるとか、なに考えてンのおまえっ!?
「ジョ……る、ルミエールさん、本当にごめん。これからちょっとバイト先に顔を出さなきゃいけないんだ。悪いけど、四時間ほど病院で時間を潰して欲しい」
「……ほんっっっっっとうに、悪い人ですね、あなたは」
アキラさんに背を向けた状態で、ゴトーに渾身の力を込めた睥睨を喰らわせる。
悪いことをしている自覚はあるのだろう。ゴトーは俺の眼を直視しないよう俯いてしまった。
「ろくな説明もせずにこんなド田舎まで連れてきて、挙句の果てに私を放置してバイトに直行って、どういう了見ですか」
「あの、その、それは――」
「あぁんっ!?」
おっと、いかんいかん。怒りのあまり、つい素に戻ってしまった。
こいつと話すことに慣れてきてしまったせいか、たまに外でも仮面が取れちまうんだよな。
「こ、この埋め合わせは、か、必ずするから、その」
「たとえば?」
「えっと、その……今晩、いつもより豪華なご飯をご馳走する……とかじゃダメ?」
直立すれば上から見下ろせる体格なのに、腰を曲げて上目遣いで見つめてくるゴトー。
ああもう、やめろキモイ、そのゴツイ顔で気弱そうにすんな!
アキラさんの手前、そんな暴言を吐けるはずもなく、俺はただため息を吐くしかなかった。
「……仕方のない人ですね。ちゃんと迎えに来てくださいよ?」
やれやれという体で言ってやったところ、ゴトーにはそれが赦免の言葉に聞こえたらしい。塞ぎこんだ表情がわずかに緩んでいた。
ゴトーはタンスから入れ替えた衣服を手提げ袋に詰め終えると、
「必ず」
とだけ言って、病室から出て行こうとした。
そのとき、アキラさんがゴトーのことを呼び止めた。
ドアを半開きにさせた状態で、ゴトーは病室内へ振り返る。
「忘れていないね?」
アキラさんは微笑みながら、ゴトーに問いかけた。
忘れ物を確認している、という雰囲気ではなかった。
「うん、忘れてないよ」
「人として成すべきは?」
「信義を尽くすこと」
「……そう。それでこそ僕の息子だ」
笑みを一層濃くして、アキラさんは静かに瞑目した。
それはほんの数秒足らずの出来事だったが、どうしてか俺の胸の中に引っかかりを与えた。
アキラさんは打って変わって朗らかな調子で言った。
「さ、急ぎなさい。接客業なんだから、笑顔も忘れずにね」
ゴトーは無言で頷くと、静かに部屋の外へと消えた。
立ち去る足音こそ聞こえなかったが、もう廊下にはゴトーはいないようだった。
「さて、と」
気がつくと、アキラさんが緩慢な動きでベッドから降りようとしていた。
「彼はとても心配性でね、一緒に居るときは僕を立ち歩かせてさえくれないんだ。でもこれでようやくくつろげる」
アキラさんは小型の冷蔵庫から紙パック入りのジュースを取り出すと、それを俺に手渡した。そのまま窓際に据えられた二脚の椅子のうちの片方に腰掛けると、こちらへと手招きする。
俺は少し戸惑いながらもその指示に従った。
相手はゴトーの親とはいえ、見ず知らずの他人と二人きりという状況はあまり得意ではない。自分で言うのもなんだが、俺はかなり人見知りするところがあるのだ。
ゴトーの話によれば、俺をここに呼びつけたのはこの人――アキラさんなのだが、そもそも俺はなんで自分が呼ばれたのかもよくわかっていない。
優等生スマイルを浮かべた裏側で、俺はしきりに困惑していた。
「何で自分が呼びつけられたのかわからない、そんな顔だね」
思ってたけど、まさか図星を突かれるとは。
「そう構えないで欲しい。ただ、あの子と親しくしてくれている人が困っていると聞いて、いてもたってもいられなくなってね」
青白い顔に困ったような笑みを浮かべて、アキラさんはそう言った。
「彼は言っていたよ。君はいまどき珍しいくらい真っ直ぐな人で、心から尊敬していると」
褒められて悪い気はしないが、それが同じ歳の人間からの言葉だと思うと歯がゆくて仕方がない。
まったく、そんなことを思っていたのか、あいつ。
「ただ、だからこそ心配だとも言っていたね。君はその……この僕と同じような存在だから、と」
「私とアキラさんが同じだと? いったい何の話です?」
「……ここは取調室じゃない。誰も責めてやしないんだ。とぼけなくてもいいんだよ?」
一応は誤魔化してみたものの、あいつとアキラさんの様子からして、アキラさんに俺の事情が伝わっていないとは思っていなかった。
ただ、こうして面と向かって突きつけられる、どう反応していいかわからない。
なにせ初めてなのだ。こうして、俺の同類と直に会話することが。
紙パックを掴んだ手がじとりと濡れていることに気がついて、慌てて袖で拭ってしまった。動揺するなんて自分らしくないといくら言い聞かせても、してしまったことは取り消せない。
俺はアキラさんの視線から逃れるように顔を背けた。普段通りの仮面のつけ方が、わからなくなってしまったのだ。
「いまルミエールさんが置かれている状況については、よく理解しているつもりだ。何を思い、何を悩んでいるのか。僕でよければ相談相手にならせて欲しい」
……相談、か。
まるでカウンセラーか何かみたいな口ぶりだ。
小学生から中学生までの間、俺は精神科の先生のご厄介になったことがある。
先生は俺の話を親身になって聞いてくれたし、俺の抱えている問題に名前を与えてくれた。そのことには感謝している。俺と同じような人間が世界中にそれなりの人数いると知ったのもそのときだ。
ただ、職業カウンセラーというものは精神的に重労働だからなのか、先生からは落ち着いた雰囲気の中に刺々しさが見え隠れすることが多かった。先日数年ぶりに再会したときも、それは変わっていなかった。
聞き手の反応が冷ややかだったり呆れが滲んでいたりしたら、心の裡を詳らかにしようなんて気は失せてしまう。だから先日はたいして突っ込んだ話もしないまま薬だけ処方してもらって診察を終わりにしてしまった。
自分でもムキになって強がってるってわかっちゃいるけど、こればかりは性分だ。
当然、目の前で干からびた微笑を浮かべている重病人相手にだって、何かを相談したいとは思わない。
そう、思わないはずなのに。いつもなら。
アキラさんから発せられる雰囲気があまりにもゴトーのそれと似すぎていたせいか、俺はこの人に対して警戒心を抱くことができなかった。
「……自信が、持てなくなったんです」
そんな弱音が、ぽろっと口から零れ落ちた。
口に出してからはっとした。なにを思ってそんなことを言ったのか、自分でもよくわからなかった。
「自信とは、何に対する?」
小首を傾げるアキラさんは、どこまでも穏やかだった。
あとはなし崩し的に、流されるように自分のことを話し出していた。
「私はその……自分が何者なのかということに、強い確信を持って生きてきました。自分はこんな見た目ですけど、日本で生まれ育った日本人だし……男として、生きていくのが当り前だと、ずっとそう思っていました」
「でも、その自信が揺らいだと」
「……はい」
「それは何故? やっぱり、例の件があったから?」
「それもありますけど、普段から積み重なっていた不安がアレを機に……崩れてしまったんだと思います」
「……まわりの人たちに恵まれなかった?」
「有体に言えば、そうなんでしょうね」
窓に目を向けると、透明なガラスに薄っすらと自分の顔が写っていた。
「私はこれまでずっと、優等生のフリをして生きてきました。ありのままの自分を表に出せばどんな迫害を受けるか、昔、思い知らされたから」
曖昧に浮かび上がった自分の顔が母親の顔とダブりそうになって、そっと目を伏せた。
自分の魂を自覚した小学生のとき。
押さえつけられた魂が慟哭した中学生のとき。
どれもこれも思い出したくない記憶だ。
「こんなけったくそ悪い言葉遣いをしてきたのも、自分の心を誤魔化すためにです。大人な自分を演じることで、心の中に棲みついてる粗暴で露悪的な男としての自分を慰めていたんです」
もっとも、そんな浅はかな企みはゴトーによってあっさり見破られてしまったわけだが。
自分では完璧に演じきっていたつもりでも、きっとどこかに無理が生じていたのだろう。仮面の罅から僅かに覗く俺の素顔を、あいつは目聡く見つけてしまった。
しかしそれは何も、ゴトーだけの特殊技能だったわけじゃない。誰も言わなかっただけで、クラスの何割かは俺の振る舞いを疑問視していたのだろう。
「おかげで学校では、正義感溢れる厄介者として敵視されていましたけどね。文化祭の準備をしていたときなんか、ついに面と向かって気持ち悪いなんて言われてしまいましたし」
「そう言われて、傷ついた?」
「多少は。それよりも外国人扱いされたり……同性愛者呼ばわりされることの方が、よほど胸に来ました」
俺は自分の正体を知られることを恐れて、殻の中に閉じこもることを選んだ。
自分らしく生きていきたいと願っているのに、自分の核心を指摘されるのを恐れるなんて、矛盾もいいところだと自分でも思う。
「結局私は、何も誤魔化せてなんていなかった。外人扱いされれば頭が煮立つし、レズビアンだと囃し立てられただけで否定の声が心内に溢れ返った。他人からどう思われているか、ただそれだけであんなにも動揺させられたんですから」
知らず知らずのうちに、握りこぶしを固めていた。
「いくら私が大人のように振舞っても、親から与えられたこの名が、この顔が、この身体が、私を異国の女だと定義づけてしまう。どんな抵抗も無意味だったんですよ」
……あの三人組だって、俺をそういう目で見ていた。
「あの事件だって、被害届を出すかどうかとても悩んだんです。事件のことを根掘り葉掘り聞かれるかもしれない、事件の被害者としていらない同情を買うかもしれない。でもそれ以上に、届出を出すこと自体が屈辱だった。私がその……強姦被害に合いそうになったと申告するということは、自分が女であると認めるということだから」
この国の刑法における強姦罪は、「暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は」という文言で始まる。わかりやすく言えばこの罪は、男が女を犯したときにしか適用されないのだ。それ以外に相手の性的自由を侵害するパターン――男が男を、女が男を、女が女を――は、暴行罪や傷害罪扱いになる。もっとも、犯人が複数いてその中に女がいたという場合、その女が強姦罪の共同正犯に問われる可能性はある。でも、そんなものはレアケースだ。
いろいろ悩んだ末、最終的にはキリヲさんの強い薦めに従うかたちで被害届を出した。それなのに警察はこちらの話をまともに取り合わず、事実関係を調査するの一点張り。
犯人たちはいまもどこかで自由を謳歌している一方で、俺は精神を病んで不登校。
まるで冗談みたいな話だ。
「いま学校に戻れば、まわりの人間は私のことを可哀想な『女』として見るでしょう。そのとき私は、自分の中にいる本当の自分と、まわりが見ている『ルミエール・ジョスリーヌ』という女との乖離に苦しめられることになる。その落差に耐えられるのかわからなくて、怖いんだと……そう思います」
不安は一息で、流れるように口から出て行った。
今日初めて会った相手にこんな話をするなんて、本当にどうしてしまったんだろうか。
自分の弱みを軽々に明かすなんて、いつもの自分らしくない。
ただ不思議なことに、そんならしくない行動をしでかしてしまった割りには、あまり後悔していない自分がいた。
この人なら自分の話を受け止めてくれるという、そんな直感めいたものがあったからかもしれない。
アキラさんは俺の話を聞いてから、しばし無言で考えをまとめているようだった。
そのときの視線の送り方や手の組み方は、いつかゴトーがしていたものとそっくりだった。
顔を伏せていたアキラさんはやがて、ゆっくりと俺を見上げた。
アキラさんの表情は、困ったときのゴトーに似ていた。
「どうも君は、自分が画一的な存在でなければならないと思いすぎている節があるようだ」
俺はその言葉に反感を覚えた。
自分の不安を言下に否定されているような気がしたからだ。
「君は本当の自分と言うけれどね。本当の自分なんてものは、いったいどこにあるのだろう。自分が理想とする自分がそうなのか、それとも万人から受け入れられている自分のイメージがそうなのか」
俺が気分を害していることを知ってか知らずか、まるで謎掛けするかのようにアキラさんは問う。
それに対して俺はほとんど反射的に答えていた。
「それは自分の心の中にいる自分のことでは?」
「それなら、いま僕の目の前にいる君は仮初の姿というわけかい? 僕には君が、とても格好いいステキな学生さんに見えているのだけれど。これは僕にだけ見えている幻なんだろうか」
「……そんなことは」
「人はこうありたいと願う自分を体現することはできても、他人が思い描く自分をコントロールすることまではできないんだよ? それはつまり、たった一人だけの本当の自分なんてものは存在しないってことなんじゃないかな」
「そんなの、詭弁じゃないですか」
「どうしてそう思うんだい?」
「だってそれは場面によって態度を使い分けているということであって、認識される本人はたった一人しか存在しないからです」
「そうだね。そうやっていろいろな場面で様々な顔を使い分けるのが人間というものだ」
「その様々な顔を束ねている
「まさにそこが重要なんだ」
アキラさんは人差し指を真上に立てて、諳んじるように言った。
「果たしてその
……なにを訳のわからないことを言っているんだこの人は。
そんなのそうに決まっているだろう。多重人格者でもあるまいし。
「だってよく言うじゃないか。自分の頭の上で天使と悪魔が言い争っていて、悪魔の誘惑に負けたなんてことを」
「それは、その人の迷いを擬人化して説明しているだけじゃないですか。いくつかある選択肢のうち、それらを選ぶ意志はやはり一つだけです」
「そう。人はそうやって、その都度なにかを選択して生きていく。でももし、中心の人格がたった一つの揺るぎない存在だとしたら、そもそも迷いなんて生じないはずだよ? なにせ揺るぎないものなんだ、分差路に突き当たったら常に右を行くというように、その人格の行動指針にあった最適行動を取り続けるはずじゃないかい?」
「まさか、そんな機械みたいな人間なんていませんよ。人は誰だって迷いながら生きてる」
「そう、迷いだ」
アキラさんは立てた指を折りたたんで、両手の指を互い違いに組み合あわせて見せた。
「迷いこそ人の本質だよ。人生なんていう途方もない暗闇を彷徨っている人間の心が、ただ一つに固定されているなんてありえないんだよ」
狐につままれたような気分だった。
口不調法なんて言っておいて、ゴトーなんかよりも百倍弁が立つじゃないか。
納得できたような、できないような、なんとも言えないモヤモヤした思いが胸中に広がった。
「あの子は君にありのままに、あたかも男らしく振舞って欲しいと思っているみたいだけど、僕は必ずしもそうは思わない。だって、君のやり方は実にスマートじゃないか」
「スマート、ですか?」
「君が優等生を演じているのは、まわりの人たちに自分を受け入れてもらうためだろう? 見た目と内心の差異に折り合いをつけて、自分が妥協できるギリギリのラインを守る。闇雲に境界を跨ぐよりも賢い方法だと思うね」
そんなこと、考えたこともなかった。
俺はただ、かつてのように後ろ指を差されたくない一心で、自分の本心から目を背けていただけだ。
こんな茶番を演じていてきたのだって、まわりの人たちに男として受け入れられることを諦めたからだ。
諦めて、逃げたからだ。
だから俺は、心のどこかでいつも後ろめたさを感じていた。
自分は本当は男の心を持っているのに、真実を告げないまま他人を騙している。いつでも罪悪感が付きまとっていた。
それなのに、俺の行動原理を指してスマートと評する人がいるなんて、思いもしなかった。
「でも私は、みんなを騙してっ――」
「そんなことはないさ。だって君は、思ってもいない虚言で級友たちを傷つけたのかい? 騙すというのはそういうことだよ」
「それでも私のせいで傷ついた人はいる。彼女は何も悪くなかったのに、ただ……私が側にいたせいで、あんなひどい中傷を……」
遠い記憶の彼方に追いやった、中学時代のあの子。
こんな俺を健気に心配してくれるカエデ。
二つの顔がモンタージュ写真のように浮かび上がって、暗闇に消えた。
「……それは、君が傷つけたことにはならない」
深い声音で、言い聞かせるようにアキラさんは話した。
それでも俺は、そんな慰めを聞き入れることはできなかった。
「私の行いはあなたが言うような立派なものじゃないんだ。もう二度と昔のような思いはしたくないから、誰も傷つけたくないから、防衛線を張ってるだけなんだ。本当の自分をウソで塗り固めて、滑稽な演技をしてるだけなんだっ」
「さっき言ったじゃないか、本当の自分なんてものはひとつではないって。優等生としての君も、猛々しい少年としての君も、どちらも本当の君だよ」
俯く俺を励ますようにアキラさんは続けた。
「演技だっていいじゃないか。いまはそうとしか思えなくても、そんな君の誠実さを見てくれている人は必ずいる。君の行いは欺瞞なんかじゃない。滑稽だなんて、哀しいことを言っちゃいけないよ」
そんなのウソだっ!!
俺は卑怯で臆病な、ただの負け犬野郎だよっ。
本当の自分を見せて拒絶されたくないから、誰からも後ろ指差されないで済む便利な仮面を被ってるだけなんだっ。
誰も俺のことなんかわかりっこないっ。
俺の苦しみなんて、理解できるはずがないんだっ!
「あなたは自分と私が同じだと言うけど、私にはそうは思えない。私には、あなたが苦しんでいるようには見えないっ」
「……そうかい?」
「だってそうでしょう? あなたが心と身体の違いに苦しんできたなら、そんなに悠然としていられるはずがない。第一――」
「ゴトーがこの世に生まれるはずがないじゃないかっ!!」
捨て鉢になった俺は、とんでもないことを口にしてしまっていた。
慌てて口を噤んでも、もう遅い。
なんという失言だろう。
自分のことを心配してくれている人に対して、なんという暴言をぶつけてしまったのだろう。
あれほど自分が傷つけられたくないと思っているくせに、他人のことは平気で傷つけられるなんて。
自分の身勝手さに、思い違いに、身が引き裂かれそうな心境だった。
俺の言葉に対して、アキラさんは何も反論しなかった。
その沈黙が痛々しくて、アキラさんの表情を知るのが怖くて、俺は伏せたままの顔を上げることができなかった。
そんな自分が惨めで、涙が滲んでいた。
嗚咽を噛み殺すので喉が痛かった。
今すぐ謝ってこの場から消えてしまいたいのに、謝罪の声すら出てこない。
情けなかった。心の底から自分のことを殴ってやりたかった。
だけど、アキラさんは俺のことを責めなかった。
そればかりかアキラさんは、そんな俺を気遣って、俺の頭を撫でてくれた。
優しさが身に染みた。髪を撫でる手の温もりに救われる思いだった。
アキラさんは俺が落ち着きを取り戻すまで、ただじっと待ってくれた。
やがてアキラさんは穏やかな口調で語りだした。
アキラさんの過ごしてきた長い人生の、その一端を。
「僕は長崎の出身でね、地元では多少名の知れた資産家の長女として生まれた。今の僕からは想像もつかないだろうけど、幼い頃からテニスやサッカーが大好きでね。よく父の部下の子どもたちに混ざって遊んでいたんだ。父のまわりには常に部下の男性社員たちがいたし、僕のまわりにも男の子たちが大勢いた。けっして運動が得意なわけじゃなかったけれど、僕は彼らと同じように笑い、泣き、そして育っていった。程なくして我が家に妹が生まれて、僕たちは彼女をたくさん可愛がった。とても大切な子だったよ。保育器に入れられた彼女と対面したとき、絶対に守らなければならないと心からそう思った」
アキラさんの懐かしむような表情が午後の日差しと共に目に焼きついた。
「ただ、その感情が世間一般からずれていると気づくまでには少し時間が必要だった。僕の両親も、親戚も、父の部下たちも、そして多くの友達も、僕が姉として彼女の面倒を見ることを期待した。僕はその期待に精一杯応えたけれど、いつも何かが違うと感じていた。成長するたびに、友達との間に距離ができた。母からは泥まみれになるまで遊ぶなと叱られるようになった。父は部下の子たちと遊ぶことさえ許さなくなって、それに反発して大泣きする僕に向かってこう言ったんだ。『女は女らしく家で家事の手伝いでもしていろ』ってね」
それまで穏やかだった声の調子が、少しだけ落ちた気がした。
「そこでやっと気がついたんだ。僕はそれまでずっと、自分がまわりの男の子たちと同じような気持ちでいた。妹に対する愛着は、兄としての感情だと思っていた。だけど、それは父たちからすれば異常な考え方だということに、はじめて気づかされたんだ。そのとき僕は小学五年生だったよ。前触れなく生理が始まったのも、ちょうど同じころだった」
憂いを帯びた流し目が俺に、「君はどうだった?」と聞いているのがはっきりと伝わってきた。
「…………わた、しは――」
「いいんだ。無理に聞き出したいわけじゃない。ただ、君に話したいのは、考えて欲しいのは、そのあとの出来事についてなんだ」
一気に話して疲労が出たのだろう、アキラさんは一息ついてから再び、昔を思い出すかのように話し始めた。
「成人を機に上京して、実家とはそれきり音信不通になったけど、後悔はなかった。東京では料理の修行に明け暮れていたし、なにより新しい出会いもあったからね。僕はその街で、始めて人を好きになったんだ。馬鹿にされそうで嫌なのだけど、はじめは緊張しちゃってまともに口もきけなかった。当時の僕は、自分が普通ではないことがわかっているだけの、宙ぶらりんな存在だ。今と違ってネットで何でも調べられる時代じゃないし、自分だけが異常で、後ろ暗い存在のように感じていたというのも、その人と話せなかった理由の一つかもしれない」
どこかあっけらかんとした、朗らかな口調でアキラさんは話を続ける。
「結局その人には思いを伝えないまま、僕はフランスに料理の修行へと旅立った。見るものすべてが新鮮で、あのころのことは一生忘れられないよ。日本とは違った開放的で革新的な社会が、そこにはあった。もちろん、どこの国にもいる心の貧しい人たちに傷つけられたことも多かったけど、それでもあっという間に時間は過ぎていったね。一瞬だけ、この国にずっと住んでいたいと思ったこともあったけど、やっぱり日本に自分の店を出したいっていう目標があったから、帰ってくることにした」
アキラさんはそこまで言うと、しばし無言になった。
日が傾き始めて、山の峰際には淡い橙色が滲み始めている。
しんとした空気を断ち切るように、アキラさんは重たい口を開いた。
「それからほどなくして、僕はあの子を産んだんだ」
その言葉は、そうなって当然だったという強い意志が感じられる響きがあった。
だけどずっと話を聞いていた俺には、それがどうしても奇妙なことに感じられた。
「……どうして、ですか」
「それは、なにについてかな?」
はっきり聞かなきゃ答えてやらない、と言外に言われた気がした。
だから俺は、震える両手を押さえ込んでアキラさんを見返した。
「どうしてあなたは、ゴトーを産んだんですか? だってあなたは、自分が男だって思ってたんじゃないんですか?」
視線に多くの混乱と、ほんの少しの怒りを込めて、そう言った。
それに対してアキラさんは、まるで俺をなだめすかすように答えた。
「誤解しないで欲しいのだが、僕が何らかの犯罪に巻き込まれて、もはや産むしかないという状況に追い込まれたのではないということなんだ。僕は僕の意志で、あの子の存在を求めた。あの子に産まれてきて欲しいと願って、僕は僕の身体を使い、あの子を産んだ。たったそれだけのシンプルなことなんだよ」
「……俺にはシンプルだなんて思えない」
もう、自分を誤魔化すことも面倒になり、丁寧な言葉遣いを維持する気力さえわかなかった。
「どうしてそう思うのかな?」
「だってアキラさんはさっき言ってたじゃないですか。自分は兄として妹を可愛がってた、まわりの男友達と同じだと思ってたって。それなのにどうして子どもを産むなんて、女の象徴みたいなマネができたのか、俺にはわかんないです」
ゴトーが自らの出自を告白したときから、心のどこかでひっかかっていた。ゴトーが言うように、ゴトーの産みの親であるアキラさんが俺と同類なのだとしたら、当然アキラさんも俺と同じように苦しみながら生きてきたはずなのだ。
俺は幼い頃、何の疑いもなく自分は男なのだと思っていた。それなのに、女しかいない私立校に押し込められて、淑女たる振る舞いを求められる日々。腹立たしかった。悔しかった。でも、その思いをどう表現していいかわからなくて、いつも隠れて泣いていた。無理矢理にスカートを穿かされるたび、布地を滅茶苦茶に引き裂いて壁に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。心臓を少しずつヤスリで削られるような、そんな毎日だった。
どうして自分だけ女の中に組み入れられるのか、どうして自分の身体だけ男のものと違っているのか、まるで理解できなかったあの頃の苦しみが、この人にもわかっているはずなのに。
それなのに、いったいどうして。
アキラさんはそんな俺の疑問に、静かに答えた。
「さっきの話を覚えているかな。人はいつでも、何かを選択して生きていくと僕は言ったね。ルミエールさん、それは僕にとってもそうだったんだ。僕はね、自分自身を選び取ったからこそ、彼を産む決意をしたんだよ」
「自分自身を選び取る……? 俺には、なんのことだかさっぱりですよ」
イスからのっそりと立ち上がり、俺はアキラさんに背を向けた。
これから話す不躾な言葉がまたアキラさんを傷つけるかもしれないと、わかっていたから。
「ゴトーからあなたの話を聞いたとき、俺にはどうしても、あなたが男であるという自負を捨てて、母親になることを選んだとしか思えなかった。それまでの苦しみに目を瞑って、世間に合わせることを、逃げ出すことを選んだんだって」
それでも、これまでの話を聞いてきて、これだけはわかる。
「でも、俺の想像は間違っていたんですよね?」
「ああ、断じて違うとも」
そんな逞しい声が自分のすぐ後ろから聞こえてきて、俺は一瞬はっとなった。
振り返るとそこには、病院服のやせ細った男が立っていた。
「生物学的に言って、僕は女だ。これは揺るぎない事実であって、誰であろうと否定できない真実だ。僕が何をしても、何を選んでも、どんな努力をしたところで、僕が女であるという事実はなかったことにはできない」
一六七センチある俺の背丈と同じか、それよりもやや小さな上背。胸部には既に女特有の膨らみはない。病で骨ばってさえいなければ充分に小奇麗な男として通用したに違いない。
「でもね、僕の心が、僕の魂が、僕は男であると叫んでいるかぎり、僕は男なんだ」
圧倒された。決して威嚇されているわけでも、脅されているわけでもないのに、その意志の強い眼差しにたじろいでしまう。
「僕は弱い人間だった。一人で生きるにはあまりにも弱かった。だから僕には彼が必要だった。だから僕は、神様から授けられたあの子をこの世界に送り出したいと願った。でも、そうまでしてあの子を産んだって、僕の心は叫び続けたんだ。この器は、この身体は、本当の僕がいるべきところではないのだと」
俺の両肩を鷲づかみし、彼はまくし立てるように口を開く。
「もしも自分が、自分の望んだ性で生きていきたいと願うのなら、諦めてはいけない。社会にそれを認めさせる努力をするんだ。そしてその手段は、自分たちが最も幸福に生きられるものを選ぶべきなんだよ。信頼のおける誰かに心のケアをしてもらうのも、一生通院する覚悟をしてホルモン療法を試すのも、多額の費用と身体へのリスクを背負って自身にメスを入れるのも、すべては選択なんだ。誰のせいでも、誰のためでもない。自分らしい自分でいることを、未来を選び取るんだよ」
そこには、ゴトーの母親ではなく、父親としてのアキラさんが立っていた。
太陽は山脈から頭半分まで沈み、空はすっかり茜色に染まっていた。
温厚だったアキラさんの昂ぶりを前にして、俺のちっぽけな怒りなどいつのまにか霧消していた。
唖然として見返すばかりだった俺に、アキラさんは再び微笑みかける。それは、数十分前に初対面したときと寸分変わらぬ穏やかな表情だった。
「どれだけ迷っても構わない。決断するのはいつからだって遅くはない――とまでは言えないけれど。人間には寿命というものがあるからね。まあ僕の場合、人よりそれが早く来てしまったようだ」
まったく笑えない冗談なのに、アキラさんはさも楽しげに笑っていた。
そしてすぐに背すじを正すと、今度は真っ直ぐに俺を見据えてきた。
「君は人よりたくさんのものを与えられているから、人一倍苦労するかもしれない。君の血に混じった異国の血や、身体にそぐわない心、裕福すぎるがゆえの孤独。それらを理由に攻撃してくる誰かに、それらを嘆く自分自身の心に、立ち向かわなければいけないときが来るだろう。やがて君は恋をして、誰かを愛するようになるかもしれない。でももしかしたら、その愛は他の人からすると少しだけ変わったものに映るかもしれない」
この世界から差別や偏見がなくなることはないから、いずれ俺にも試練が訪れるのだろう。
考えたくもないが、また誰かに襲われないとも限られない。
壁はいつ何時、俺の前に高く聳え立つかわからない。
「だけど、それを悲観して欲しくはないんだ。自分にもっと自信をもって、自分のことを深く見つめ直して欲しい。男か女かなんて二者択一の狭い話じゃない。自分のそれまでの生き方を、これからの人生を、じっくりと考えて欲しい。どうすれば満足なのか、どうすれば幸せになれるのかを、ね」
考えろと言われても、恋だの愛だの幸せだのなんて、俺にはまだピンと来ない。
そのことについて考えるのは、できればこの心と身体の問題に決着をつけたあとにしたい。
中途半端な状態で熱病に浮かされたら、立ち向かうどころの話じゃなくなってしまう。
俺の黙考をよそに、アキラさんはさっきまで掴んでいた肩に、今度は労わるように手を置いた。
「大丈夫、心配いらないさ。君にはあの子もついていてくれる。きっといい相談相手になってくれるはずだよ」
アキラさんはそう言うと、ゆったりとした動きでリクライニングベッドへと戻って行った。
そしてサイドテーブルに置いてあった封筒を、俺に手渡した。
「帰りの交通費と、今日のお駄賃だよ。それでちょっぴり値の張る食材でも買って、彼に料理させるといい。彼は僕の唯一の、そして自慢の教え子だ。味は保証するよ?」
封筒の中身をあらためると、福沢諭吉が2人も忍ばされていたため、咄嗟に返そうとした。しかしアキラさんは有無を言わさず微笑むばかりで、取り合ってくれなかった。結局、封筒は鞄の中に詰め込んで、荷物をまとめることにした。
俺は病室を出て行く直前に、聞くかどうかを迷っていたことをアキラさんに尋ねてみた。
「あいつは、父親が誰かということを知っているんですか?」
「……然るべきときに、彼には伝えるつもりでいるよ」
つまりそれは、あいつは何も知らないってことだろ。
「一人で子育てなんて、辛くなかったんですか? 俺――私には実感がわきませんけど、働きながら子どもを育てるなんて……」
「……辛くなかったと言えば嘘になる。でも、辛いよりも幸せなことの方が多かったよ」
それはどうしてか、と聞く前に、アキラさんはきっぱりと答えた。
「あの子を心から愛しているから」
そう答えたアキラさんの横顔は、父親のようでもあり、母親のようでもあった。
病院の会計前にある待合席でゴトーと合流してから、俺たちは帰途についた。
時刻は十七時を回っており、家につく頃には十八時になっているだろう。電車に乗っている間に太陽は完全に沈んだ。後尾に広がる闇夜へと飲まれていく田畑を眺めながら、俺はふと先ほどの出来事を思い返していた。
不思議な人だった。どこからどう見てもひ弱な中年男性(女性?)なのに、心に鋼鉄の芯が一本通っているような、強い信念を持っている人だった。
ゴトーを愛しているから、ねえ。
世の中には自分の子どもを手放しに愛せる親もいる――なんてことは、詐欺師の戯言くらいに思っていたのに。こうも表裏ない態度で言われてしまうと、反論できなくなってしまう。
俺の親なんて……俺を見ようともしないのに。
隣に座ってうとうとしている大男に顔を向ける。
バイト疲れが溜まっているのか、さっきからヤツの二の腕が俺の肩に覆いかぶさってきてウザイ。
鼻でも摘まんで起こしてやろうかとも思ったが、止めた。
ちょっとだけ、いや本当はかなり本気で、ゴトーのことが羨ましくなってしまった。
それで勤労学生を叩き起こすというのも、嫉妬に駆られているみたいでみっともないからな。
俺は再び真っ暗なガラス窓へと視線を戻した。
さっきの言葉とは別に、もうひとつ気がかりなことがあった。
俺が病室を出る直前に、どうしてアキラさんはあんなことをつぶやいたのだろう。
そんなことを考えていたら、中継地点の駅から塾帰りの学生たちが次々に乗り込んで来た。
彼らの騒々しい声のひとつが、頭の中であの人の言葉とダブって聞こえた。
「……ごめんね」
この日が、俺が生前のアキラさんと話した最初で最後になることを、この日の俺はまだ知らない。
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