22 SCENE -11-『ゴトー』
ジョーが学校を休んでから三日経ったあと、ゴトーは応接室に呼び出された。
目の前には五十がらみの学年主任の男と担任のウジイエが苦々しい顔をして座っている。
学年主任はいかにも小馬鹿にした調子で尋ねてきた。
「学校裏サイトというものくらいは聞いたことがありますよね? 嘆かわしいことにウチにもそんなものがあるらしい。そこにこんな写真が掲載されていてねぇ」
そう言って学年主任はゴトーの前に写真を差し出した。
そこに写っていたのは、男に馬乗りになって首を締め上げているゴトーの姿だった。
「ルミエールさんがお休みしている間にネット上でこんな写真が出回ったことで、いまじゃ校内で不純な噂が持ちきりだ。学校側としても対処に困ってるんですよ」
溜息混じりに吐き捨てて、ゴトーを睨みつける。
「先日、君と悶着を起こした相手のご厚意によって被害届は出さないでもらえるように話がついたというのに、これじゃあ何のために私が出向いていったのかわかりませんよねえ、ウジイエ先生」
脂汗まみれのウジイエを横目に、学年主任は鼻で笑った。
「いま警察は君たちの言う第三者が現場にいたかどうかを調べていると言うし、君たちの主張が真っ向から否定される材料が見つかったわけでもない。まあでも、こんな写真が出てきて正当防衛と言い張るのはどうかとは思うが」
「ですが主任、やはりあの状況で彼らを疑うというのは――」
「その場にいなかった私にそんなことわかるわけがないだろう!! それくらいもわからんのか君はっ!!」
唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らされ、それ以上ウジイエが口を開くことはなかった。
ウジイエを黙らせたあと、学年主任はゴトーへ冷淡な視線を向けた。
「まったく転校早々に厄介ごとを持ち込んでくれましたね。君には噂の火消しが終わるまで学校に来ないでもらいますよ」
「……停学、ということですか」
「勘違いしてもらっちゃ困る。警察の判断もまだだというのに、我々が君に処分を下せるわけがないでしょう」
学年主任は重厚なソファにふんぞり返って、煩わしそうに続けた。
「君はあくまで自主的に休むんです。理由は病欠でも家庭の事情でも何でもいい。事態が落ち着くまで、とりあえず一週間くらい休みなさい。あとのことは学校側が穏便に治めてあげますから」
そのあと学年主任は、学校を休んでいる間は同級生たちと連絡を取り合わないこと、生活に必要なアルバイトや親の看病以外での外出を控えることを要求してきた。
およそ十五分ほどで話は終わった。
その間、ゴトーはほとんど口を開かなかった。
無意味だとわかっていたからだ。
反論なら事件直後に嫌と言うほどした。自分をひっ捕らえた教員にも、担任のウジイエにも、あとからやって来た警察にも、包み隠さず事情を説明した。
でも、誰もゴトーの言うことをまともに取り合ってくれなかった。
暖簾に腕を押すかのように、どれだけ説明しても手ごたえがない。
いくら話したところで相手が話を聞く気がないのは明らかだった。
ゴトーはかつて、これと似たような感覚に陥ったことがある。
今回の事件もそのときと同じ匂いがした。
だからゴトーは、無駄な抵抗を止めて理不尽を受け入れた。
追っ払われるように退室させられ、ゴトーは一人、とぼとぼと歩き出した。
そんなゴトーの元へ駆け寄ってくる人影が二つあった。
それは体育の時間以来、なんとなく話しかけられるようになった同級生たち。
ワルツとムツキの二人だった。
「ゴトーちゃん、いったい何の話だったの?」
「も、もしかしなくても、文化祭のアレ……?」
二人とも悲痛な面持ちでゴトーを見上げていた。
「……しばらく、学校を休むことになったんだ」
ワルツは目を見開いて驚いた。
「それって処分されたってこと?」
「違うよ。その……親の看病でね」
ゴトーの言葉に二人は訝しげに顔を見合わせる。信じていないのは明らかだった。
「ねえゴトーちゃん、あの噂、ウソなんだよね? ホントに君がジョーちゃんに手を出したわけじゃないんだよね?」
「……うん。僕はそんなこと、しない」
「じゃあどうして休むんだよっ!? やってないならやってないって言えばいいじゃん! 噂なんかすぐに飽きられて見向きもされなくなるんだからさぁ!!」
必死に言い募るワルツだったが、ゴトーはそれを黙殺した。
ゴトーからの反応がないせいか、次にワルツはムツキに食って掛かった。
「ムウちゃんもさぁ、先生を呼びに行ったのアンタなんでしょ!? もっとちゃんと先生たちに事情を話したりとかしなかったの!?」
「は、は、話したよ! ゴトー君が二人組に殴られてるから助けてって」
「ならどうして――」
「ぼ、僕たちが地下階に行ったときには廊下には誰もいなかったんだ。そのあとすぐにルミエールさんの叫び声が聞こえて倉庫に向かったら、例の写真みたいな光景になってて。だからそのあといくら先生たちにゴトー君が被害者だって話しても誰も信じてくれなかったんだよぉ……」
「そんなバカな話があるかい! ゴトーちゃん身体中痣だらけなんだよ!? どう見たってあの場に何人かいたってことじゃん!!」
放課後の廊下でワルツが地団駄を踏む音が虚しく響き渡る。
彼がゴトーのために怒ってくれていることを差し引いても、彼の主張はもっともだ。
この件に関する学校や警察の見解が異常なのは、誰の目から見ても明白だったのだ。事実、現場に駆けつけた一人であるウジイエは学校の方針に懐疑的な様子だった。
それでも大人たちは加害者側の言い分に重きを置く。
もちろんそれはネット上に流出したという件の写真のせいもあっただろう。しかし大人たちがゴトーの話を聞き流したのは、写真が出回る前のこと。つまり、直接的な理由は他にあるということだ。
こんな理不尽がまかり通る理由なんて、一つしかない。
「圧力、だろうね」
「圧力って、まさか学校と警察の両方に? 誰がそんなこと――」
ワルツの言葉を遮ってゴトーは話し続ける。
「たぶん、あの人たちの誰かが地位の高い人の子どもだったんだ。案外、学校とか警察とかの関係者かもしれないね。事実が表沙汰になるのを恐れて、あんな無茶を通したんじゃないかな」
「……それ当たってるかも」
ムツキが思案顔で呟く。
「倉庫から連れ出された男の人、去年まで生徒会長をやってた卒業生に似てた。確かあの人、親が市議会の議長だって聞いたことがある。教育委員会とも関わりがあるとか」
「なんだよそれ……なんだよそれっ!!」
ワルツの怒声はいよいよひび割れんばかりに強まっていった。
そんなワルツを前にしても、ゴトーの心はどこまでも平静だった。
ムツキに指摘されなくても、おおよその予想はついていた。
わかりきっていたことだからこそ、ゴトーの心が波立つことはない。
ただただ静かに、目の前の現実を受け入れる。
それしかゴトーにできることはなかった。
しかしその静けさは、湖畔や竹林に佇むようなものとは違う。
それは底の見えない深海の奥、あるいは先の見えない漆黒の闇。
鬱蒼とした前髪が覆い隠したゴトーの瞳に宿る奈落を、その場の誰もが気づけない。
ゴトー自身でさえもそうだった。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いいんだよ。あの日は夜勤明けで非番だったし、久しぶりに母校も見れたし。そんなに畏まらないでくれよ」
「本当にごめんねヤシロ君。本来なら僕が行くべきだったんだろうけれど。僕ら親子は君に助けられっぱなしだね」
自宅待機を命じられてから四日後、ゴトーは父・アキラの衣服を取り替えに病院へ訪れていた。
病室には定期診断も兼ねてヤシロが来ていたため、ゴトーは改めて先日の礼を述べた。
事件があったあの日、ゴトーには身元を引き受けてくれる大人がいなかった。
ジョーは母親の部下という人が迎えに来たらしいが、ゴトーの親であるアキラはこの通り、病室から離れることができない。そのうえゴトーには他に頼れる身内もいなかった。
困り果てた学校が連絡を入れたのが、アキラの担当医であるヤシロだった。
ヤシロの家は学校から自転車で来れる近場にあった。そのため彼は学校からの連絡を受けると、雨の中レインコートを着る手間すら惜しんで駆けつけてくれた。
ヤシロが来てくれなければ、ゴトーは警察に連れて行かれる可能性もあった。彼の到着が早かったことや、強弁にゴトーを庇ってくれたこともあって、その日ゴトーは自宅に帰ることができた。
もちろん、ヤシロが知名度の高い医者だったことも学校や警察の態度が軟化した理由のひとつだろうが。
その事実がゴトーの中で
(ヤシロさんの善意は本物だ。この人は何の裏表もなく、僕を守ってくれた)
感謝こそすれ、彼に何らかの負の感情を抱くなんて道理に合わない。
たとえヤシロが、ゴトーが心の底から厭わしく思う権力者の一人だとしても。
「助けたなんて大げさな。水臭いこと言うなよ。同じ下宿先で苦労を分かち合った仲じゃないか」
「まさか二〇年近く経ってそこに出戻ることになるとは思わなかったけどね」
「確かに。大家さん今年で米寿なんだろ? タフだなーあの人。あっ、今度祝いの酒を持って行くよ。昔話に花咲かせたいしさ」
「ヤシロ君、絡み酒だからなぁ。また話す前に眠っちゃうんじゃないの?」
「甘いなアキラ。今はノンアルコール飲料という便利なものがあってだな――」
朗らかに言葉を掛け合う二人の姿が、ゴトーを沈んだ思考から引っ張り上げる。
おそらく、彼らの認識は彼らが学生だったころに遡っているのだろう。とても四十代には思えないほど二人は楽しげに談笑しあっていた。
(……僕も、いずれジョーとこんなふうに笑い合える日が来るんだろうか)
この数ヶ月の間に二人のやり取りを何度も眺めてきた。
二人には確固たる絆があった。
学生時分のように笑いあったかと思えば、必要ならばたとえ辛辣なことでも相手に伝える。
それは互いに信頼し合っているからこそできることだ。
とても理想的な友情の形。
美しく、誉れのある、完璧な在り方がそこにはあった。
他人をここまで想い合えるなんて、幻想にすぎないと諦めていた。
いまも九分九厘は諦めている。しかし、彼らの姿を見るたびに、もしかしたら自分にも手が届くものなのではないかと高望みしてしまう。
輝かしくも眩しくもあり、羨ましくも妬ましくもある。
憧憬と嫉妬が混じり合った歪な感情がゴトーの中にはあった。
そんな思いが自分の心臓をカリカリと引っかき続けていることが、とても情けないと嘆く感情もまた同居している。
そうして威厳ある顔つきを持つ巨躯の少年は、今日もまた沈黙を選ぶ。
さながら彼らの友情に一抹の不安を覚えている、下種の勘ぐりを働く自分を押し殺すかのように、口をつぐむ。
ゴトーが押し黙って数分もしないうちに、アキラの病室に白衣を着た恰幅のよい男が顔を出した。
ヤシロは入り口に立つ男に気づくと、緩んだ表情を引き締めた。
名医と呼ばれる顔つきになっていた。
「待たせて悪いねワカツキ先生。もうカンファレンスルームに向かうから」
男は無言でヤシロに会釈して、病室を去っていった。
さてと、と言いながらヤシロは腰を上げる。
「いつもありがとうね、こんな病人の長話に付き合ってくれて」
「患者の心のケアも医者の大事なお仕事です。気にしないで?」
テーブルの上に広げた書類をかき集めつつそう言った。
「あと、そうだ」
ヤシロはゴトーの目を真っ直ぐ見据えてきた。
「これからも、困ったことがあったらいつでも相談してくれよ? くだらない噂なんかに負けンじゃないぞ」
「……はい」
「ならよし。ぼくはもちろん、ウチの子も君の味方だからね?」
ゴトーを励ますように、ヤシロの手がポンポンと肩に置かれた。
そしてヤシロは部屋を出て行き、その場はゴトーとアキラの二人だけとなる。
ヤシロがいなくなったことで部屋は一気に静かになった。
山稜に沈みかけた夕日が気になり始めて、ゴトーは窓のカーテンを閉める。
ベッドに横たわるアキラは、その様子を優しく見守っていた。
「噂、か。いまごろルミエールさんはどうしているのだろうね」
「わからない。先生からは、ただ病欠扱いにしてあるとしか」
「心配なら会いに行けばいいのに。幸い家はお隣同士なんだから」
「あんなの、お隣なんて言える規模じゃないよ。僕なんかじゃあまりに場違いだ。それに……」
「それに?」
「……なんて声をかければいいのか、わからない」
事件があったあの日、ゴトーは見てはいけないものを見てしまった。
男たちに組み敷かれて、泣き崩れているジョーの顔。
細く引き締まった艶かしい素足。
そして、無理矢理に肌蹴させられた乳房。
どれもこれも鮮明に網膜に焼き付いて離れない。
どれだけ忘れようと努めても、ジョーのことを考えるたびにあの光景がセットになって想起されてしまう。
自らの性別に強烈な違和感を持つ人間の多くが、自分の身体を他人に見られることを嫌うらしい。
それはきっと、ジョーにとっても当てはまるはず。
あんな姿、誰にも見られたくなかったに違いない。
一般的な女性とて、異性に裸を見られることは嫌悪や恐怖の対象だ。ましてやジョーのような事情を抱えた人間なら、その何倍もの衝撃があったはずなのだ。
襲われただけでもトラウマものだというのに、自分の無遠慮な視線がジョーを余計に傷つけてしまったかもしれない。
その考えが、ジョーと連絡をとることを躊躇わせた。
「これ以上、『彼』を傷つけたくない。不安にさせたくないんだ」
もしもジョーがゴトーの顔を見るだけで、声を聞くだけで嫌な記憶が思い出されるというなら、もう二度とジョーの側には近寄らない。
それがいまの自分にできる精一杯の配慮だと思った。
しかし、アキラはゆるやかに首を横に振った。
「言いたいことはわかるよ。それも信義の形かもしれない。だけど、それは本当にルミエールさんのためを思ってのことかい?」
いつも通りの柔らかな微笑みがそこにある。
それでも、アキラの眼はまったく笑っていなかった。
「学校で噂が広まっていることを知ったルミエールさんは、どんな気持ちでいるだろうか。いくつか考えてみよう」
人差し指を立てて「1」を示す。
「たとえば、自分が汚れた泥人形にでもなったかのように感じてしまい、絶望しているかもしれない」
中指を立てて「2」を示す。
「もしくは、現場を目撃した君にもそう思われていると嘆いているかもしれない」
薬指を立てて「3」を示す。
「はたまた妙な噂が立って君を悪者にしてまったことに責任を感じて、罪の意識に苛まれているかもしれない」
「……まさか、そんな」
「沈黙は金とはよく言ったものだけれどね。それは、言わずとも伝わるほどの相手だからこそ意味があるんだ。果たして君は、ルミエールさんとそんな関係を築けているのだろうか」
アキラの言葉には、言外にゴトーを責めるニュアンスがあった。
なぜ肝心なことを伝えないのか。
なぜ差し伸べた手を引っ込めてしまうのか。
憂いを帯びた両目にそう言われている気がした。
(ジョーのためと言いながら、僕は『彼』から逃げていたのか……?)
木枯らしが窓を鳴らす中、ゴトーは自分の無責任さを思い知らされた。
いつだかワルツからも指摘されたというのに、自分はまったく学習していなかったのだと情けなくなる。
相手の気持ちを理解できないなら、受け止めきれないなら、誰かを助けるなんて傲慢な考えを持つべきではない。
それでも誰かの力になりたいなら、その誰かと正面から向き合うべきなのだ。
たとえ、自分が傷つくとしても。
「内容なんかどうでもいい。声をかけることが大切なんだ。口に出さなければ伝わらないものというものは、確実にある」
アキラが言いたかったことは充分に伝わった。頭では理解できている。
それでもやはり、何をどう伝えるべきなのかわからない。
ゴトーの逡巡を読み取ったのか、アキラはやれやれといった調子で溜息をついた。
そしてアキラは、連絡を渋るゴトーにある秘策を授けた。
ゴトーが病院から自宅に戻ってきたのは、夕日が完全に沈んだあとだった。
電気をつけて置時計を見やると、長針と短針がちょうど縦一直線に並んでいた。
回収したアキラの衣服を洗濯籠に放り込み、水道の蛇口をひねってコップ一杯の水を飲んだ。
これからしようとしていることを考えると、緊張のあまり喉が渇いた。
ゴトーは自分の机から連絡網の記されたプリントを取り出して、受話器の前に立った。
(大丈夫……あらかじめイメージした順序で話せば……)
煩い心拍を鎮めようと、何度も深呼吸を繰り返した。
決心を固め、いざ受話器へ手を伸ばす。
そのとき、電話から着信音が鳴り響いた。
伸ばしかけた手を反射的に引っ込めてしまった。
まさにいま受話器を取り上げようというタイミングだったせいで、心臓の高鳴りは爆発寸前になっている。
息を止めてディスプレイに表示された相手の情報を確かめる。
電話帳に登録していない相手のため、十桁の数字が並んでいた。
だが、ゴトーにはその数字が何を意味するのかすぐに理解できた。
なにせ、たったいまボタンに入力しようとしていた番号なのだから。
ゴトーは慌てて受話器を取り、耳に押し付けた。
受話器の向こうから、若い女性の凛とした声が聞こえてきた。
相手の女性はこの番号がゴトーの家宛てで正しいかを尋ねた。
しかしゴトーは鼻息を荒くするだけで、思うとおりに話すことができないでいた。
ただ「はい、そうです」と言えばいいだけなのに、息が詰まって声が出てこない。
予想外の出来事に脳みそが対処しきれないのだ。
そうして受話器を持ったまま、ゴトーが黙りこくって十数秒が経過したとき。
受話器の向こうから特大の溜息が聞こえてきた。
「あなたは相変わらずなんですね、ゴトーさん」
(……えっ!?)
まさかとは思った。てっきり大人の声だとばかり思っていた。
しかしよくよく考えてみれば、その声は最近耳にたこができるほど聞いている。
電話の相手は、ジョー本人だったのだ。
「いま、お時間はよろしいですか」
「ひゃ、ひゃいっ」
「いや、ひゃいって。どれだけ動揺してるんですか」
いかにも呆れた調子で言われてしまった。
「どうしてあなたはそう挙動不審なんですかね。毅然としていれば、ヤクザも斯くやといった容姿なのに」
「ご、ごめんなさい……」
「そしてすぐに謝る。なんでもかんでも土下座外交で済ませようとするその根性が気に入らないんですよ」
「ごめ――」
「話聞いてねぇのか!? 謝る必要はないと……!!」
電話の向こうからガシガシという音が聞こえてくる。
たぶん、あの艶やかな黒髪を掻き毟っているのだろう。
「……こんなことが言いたくて電話したんじゃないんですよ。お願いですからこれ以上苛立たせないでくれませんかね」
「ご……はい」
「謝りかけてるけど、まあいいでしょう。本題に入ります」
咳払いしてから続きを話し出した。
「あれから、お変わりありませんか」
言わずもがな、事件のことだろう。
「ウジイエ先生から、学校があなたに自宅待機を命じたと聞きました。あなたがそれに黙って従ったとも」
「僕は、大丈夫だよ。何も変わり映えしない」
「……私のせい、ですよね」
いつも通りの口調を装っているものの、ジョーの声からは普段の張りが感じられなかった。
やはり、相当に消耗しているようだ。
「あなたはただ私を助けてくれただけなのに。私がもっと訴え出れば、きっとこんなことには――」
「いいんだ。君は何も悪くない。僕は君を恨んでなんかいないよ。あれは、仕方ないことだったんだ」
「そんな訳がっ……」
ジョーは声を詰まらせて、黙り込んでしまった。
やはりアキラの言うとおり、ジョーは今回のことに責任を感じていたのだ。
良かれと思って黙っていたことが、ジョーにとっては負担になってしまっていた。
もっと早くに気づくべきだったのに。
あとどれだけ同じ過ちを繰り返せば自分は変われるのか。
そう思うと、両肩にズシリと後悔の念がのしかかってきた。
このままジョーに対して、あらかじめシミュレートしていた言葉をかけることは信義に反する。
本音を語ってくれた相手に対する誠意は、本音で返すことだけだろう。
すると不思議なことに、ゴトーの口は自然と言葉を紡ぎ出していた。
「君は、強い人だね」
「……何を、言ってるんですか」
「だって君は、僕のことを心配してくれたじゃないか。自分はもっと辛い目に遭ったのに、僕なんかのことを。そんなの、なかなかできることじゃない」
あの件で責任を感じているならそんな必要はないと教えてあげよう、傷ついているなら慰めてあげようと、そんなことを考えていた。
だがジョーは、ゴトーが考えるよりもずっと強く逞しい精神力の持ち主だった。
なんの混じり気もなく、素直に賞賛に値する。
それだけが紛れもない本心だった。
「そんな立派なものじゃない、俺はただ、あなたに許されたかっただけだ……」
「それでもいい。気にかけてくれただけで、僕は嬉しかったよ」
スピーカー越しに鼻水を啜る音が聞こえてきた。
さぞかし辛かっただろうに、他人のことまで心配するなんて。
どうしてそんなに良い人でいられるのか。
どうしてそんなに高潔でいられるのか。
どうして、そんな『彼』が苦しまなければならないのか。
もう楽になって欲しい、ただそれだけの思いでゴトーは話し続けた。
「また今度、学校の行き帰りにいろいろ教えてよ。僕、まだ東京のこととか全然わからないし。もうすぐ中間試験だから、勉強範囲のズレとか、教えてもらえると助かる。もし良ければ、またウチにご飯でも食べにおいでよ。ついでに一緒に勉強とかできたら一石二鳥だしさ」
応えはしばらく返ってこなかった。
その沈黙の長さがジョーの悲しみを物語っている。
もしもジョーの悲しみを癒すのに言葉が足りないというなら、いくらでも喋り続けよう。
そうして次の句を考えている間に、ようやくジョーは口を開いた。
「……俺のレクチャーはスパルタだからな、覚悟しろテメェ」
優等生を演じ間違えた時に出てくる暴言とは違い、最初から最後まで、はっきりとした男言葉だった。
きっともう、ジョーは大丈夫だ。
もしかしたら、学校に復帰できるまでにはもうしばらく時間が掛かるかもしれないけれど。
それならそれで自分が『彼』を支えればいい。
そんなことを考えながら、ゴトーはジョーと約束を取り付けるのだった。
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