21 SCENE -11-『ジョー』
あれから一週間経った。
教員たちによって保護された俺を、母さんの部下であるキリヲさんが迎えに来て学校側と揉めに揉めたり。
小・中学生の頃にお世話になったカウンセラーの先生との面談を取りつけて診察してもらったり。
担任のウジイエが脂ぎった顔を真っ青にして家庭訪問しに来たり。
自宅に来た女性警察官からの事情聴取に応じたり。
いろいろな人が入れ替わり立ち代り、俺の前に現れては消えていった。
こういうとあっという間に時間がすぎていったように思われるかもしれないが、当事者たる俺にとっては一日一日があまりに長かった。
事件直後は自分でも信じられないほど取り乱し、頭の中で歯車が噛み合わないような有様だった。何でもないふうを装いたいのに、勝手に涙が出てきて止まらない。いざ口を開こうとすると、喉が詰まったような音しか発せられない。物音一つで肩が震え、いつも後ろに誰かがいないか気になった。自宅に帰ったあとも、暗い部屋の中にいることが耐えられなくて、すべての電気をつけっ放しにした。それでも何日ものあいだ安心して眠りにつくことができなくて、最後には処方された睡眠導入剤を飲む羽目になった。
そうしていまは落ち着きを取り戻しつつあるが、薬の副作用なのか何をやる気力も起きず、日がな一日ベッドの上で毛布に包まってぼーっととしていた。
バルコニーへと続く窓から橙色の夕日が差し込んでいる。デジタル時計が今にも十七時へ切り替わろうとしていた。
俺はいま、病欠扱いで学校を休んでいる。事件のことは教職員を始めとした一部の人間にしか知らされていなと聞かされた。
俺が休んでいる間に、マキから何度も着信があった。メールも昼夜問わずに送られてきた。始めのうちは着信音が鳴るだけでも脅えていたから、返事をする気力も沸かなかった。マキに「無問題」という短文を送り返したのは、眠れるようになってからのことだ。
だけど、どうしてもマキに子細を話す気にはなれなかった。
あの世話好きなマキのことだから、俺を心配してくれているのは想像に難くない。それでも、いまマキの声を聞いてしまったら、俺はきっと甘えてしまう。せっかく小康状態にまで持ち直した心が、泣き言の波濤で決壊してしまう。
くだらない見得だとはわかっている。それでもこれ以上、弱い自分を誰にも見られたくなかった。
自分が弱い存在であることを認めたくなかった。
自分の身体が――頼りない女のものであることを、認めたくなかったのだ。
あの日の俺は、無力だった。
絡みつく腕から逃れようと必死に抵抗しても、びくともしなかった。
おぞましい手が身体中の至るところをまさぐっているのに、されるがままにならざるを得なかった。
悔しかった。
憎らしかった。
殺してやりたかった。
そしてそれ以上に、あんな下らない男たちに恐怖を感じた自分自身が許せなかった。
人一倍鍛錬を重ねている自負があった。護身を兼ねて、キリヲさんと組み手形式での訓練だって数え切れないほどしてきた。それでも俺は、たった三人の暴漢相手に反撃一つできなかった。
滑稽だった。
惨めだった。
いったい何を根拠に強がっていたのかわからない。
目尻に涙が滲んだ。
ああダメだ、これじゃいけない。この思考はどつぼにはまる。
乱雑に目元を腕で拭い、のそりと立ち上がる。俺は毛布を引きずりながらリビングへ移動しはじめた。何畳間なのか数える気も失せるほどバカ広い居間を横切って、キッチンへと向かう。
電気ケトルでお湯を沸かす。戸棚から取り出した紅茶のティーバックをマグカップに突っ込み、お湯を注ぐ。紅茶ができたらシナモンシュガーと砂糖を少量ずつかき混ぜる。あっという間につんと来る香ばしさがウリのシナモンティーの出来上がり。
キリヲさんからの受け売りレシピとはいえ、沈んだ心を落ち着かせるにはちょうどいい。
マグカップを手に、リビングのど真ん中に居座っているソファへと腰掛ける。
一つ一つのサイズが規格外な家具ばかりが並んだ、無駄に豪華なリビング。景観だけで騒がしそうなのに、家の中は物音一つしない。
水を打ったような静けさの中、マグカップから揺らめく湯気を見つめていた。
すると突然、甲高い電子音が部屋の静寂を破った。
あやうくマグカップを落としそうになった。
俺は恐る恐る、壁に備え付けられたモニタのスイッチを入れる。モニタは一階ロビーの入り口前の様子を映し出した。
その人物の姿を認めて、俺は思わず息を呑んだ。
相手はロビーと俺の部屋とで通信がONになったことに気づき、折り目正しく挨拶してきた。
カメラの前でお辞儀する、大きなリュックサックを背負った小さな少女。
カエデだった。
これまでの人生で、家に同級生が訪ねて来たことなんて一度もなかった。
それは母親の都合で事あるごとに引越しさせられてきたせいもあるが、俺が誰に対しても深い交友関係を結んでこなかったことが大きい。
自分のテリトリーに他人を招き入れることには抵抗があったし、そもそも俺には人に言えないことが多すぎた。うっかり私物を見られてしまえば、俺がひた隠ししてきた秘密がバレてしまう。
とはいえ、自宅とは正反対の方角にあるはずの街まで交通機関を乗り継いできたカエデの苦労を思うと、玄関先でバイバイするのは心苦しい。
おまけに秋風邪にやられたのか、ずっと咳き込んでいるし。
せめて茶でも振舞ってやるべきかと思い、カエデをリビングに通すことにした。
まあ、俺の部屋さえ見られなきゃ問題ないか……
ソファにちょこんと座っているカエデにマグカップを手渡す。
「こんな片田舎までわざわざお越しくださってご足労様でした。道中、大変だったでしょう?」
「そんなことないよー。これも学級委員の務めだもん」
「またそんなことを言って……。おおかたウジイエ先生から仕事を押し付けられたのではありませんか?」
「いいのいいの。わたしが行きたいって言ったの。それに――」
カエデは俺の顔を窺うと、言い難そうに付け足した。
「ゴトー君がお休みしてて、ジョーにプリントを渡しに行ける人がいなかったから」
カエデはそう言うと、俺が用意したシナモンティーに口をつけた。
事件のあと、ゴトーには秘密裏に自宅待機の通達が下された。
現場に駆けつけた教員たちは、真っ先にゴトーが俺に乱暴したと疑ったらしい。保健室に連れて行かれた俺は、それを匂わせる口調で事情を尋ねられた。
キリヲさんが学校に来るまで、俺はまともに口を利ける状態ではなかったものの、たどたどしい口調で必死に経緯を説明した。
それでゴトーの疑いは晴れたかに思えた。
しかし、事態は思わぬ方向へと進んでいった。
「あ、あのねっ!」
意を決したようにカエデが口火を切る。
向かい合ったソファから身を乗り出す勢いだった。
「先生たちが何も教えてくれないから、学年中で噂になってるの。その……ゴトー君が、ジョーに……」
言いながら意気消沈していくカエデに微笑みかける。
「ご冗談を。私と彼の間には何の問題も起きてはいませんよ。私はただの体調不良ですし、彼だって、たまたまご家庭の事情でお休みしているだけでしょう」
「でもっ……!」
「考えすぎです。そんなに心配なさらないでください」
カエデは俺の言葉に曇り顔を浮かべて黙り込んでしまった。
納得していないのは明白だったが、俺はもう、この件について触れられたくなかった。
なぜならカエデの言うこの噂こそが、もっぱらの悩みの種となっているからだ。
文化祭当日、俺を襲った三人の暴漢のうち、二人は学校から行方を晦ませた。通報を渋る学校を押し切ってキリヲさんが警察を呼び出したところ、残った暴漢も複数犯だったことを否定。それどころか、自分は不純異性交遊していた高校生に注意しただけで、男子生徒が逆上して襲い掛かってきたなどと抗弁しはじめた。むしろ、ゴトーを暴行罪で告訴すると息巻いていたという。
事件後に自宅へ事情聴取に訪れた女性警察官からは、双方の言い分が食い違っている以上、事実関係を調査しないことには暴漢たちを逮捕できないと説明された。
担任のウジイエからは、学校は事態が落ち着くまで、事件があったことを公表しない方針にしたと聞かされた。
こうして事件が内々に処理された煽りを受けて、学校では下世話な噂が実しやかに囁かれている。
曰く、転校生のゴトーがジョスリーヌ嬢に狼藉を働いたのだ、と。
ゴトーは事件後、しばらくは通常通りに登校していた。しかし、学校内で不穏な噂が広まったことを理由に、学校側はゴトーに自宅待機を命じた。
ゴトーは学校からの理不尽な要求に対して、何も言わずに首肯したという。
シナモンティーに息を吹きかけて冷ましつつ、少しずつ啜っていく。胃の中にぽとりと落ちた熱い雫が身体を内側から温めていく。
警察や学校から事のあらましを知らされたときには、これとは比べ物にならないほどの激情が身体を芯から熱した。
もちろんその大部分は魂から噴き出るほどの怒りの業火がもたらした熱だが、原因は他にもあった。
それは、罪悪感だ。
事件があったあの日から、俺はゴトーと顔を合わせていない。
この一週間、ゴトーからの接触もない。
刻一刻と時が過ぎるごとに被害に遭ったことへの恐怖心がほんの少しずつでも薄れていく実感があった。だがそれに反比例するかのように、ゴトーに対する罪悪感が俺を苛み続けた。
ゴトーは俺を助けてくれただけなのに、謂れのない謗りを受けている。そうとわかっていても、いや、そうとわかっているからこそ、俺はゴトーと話す勇気が持てなかった。
だって、いったいどんな顔をすればいい?
散々気を遣ってくれた相手の顔に泥を塗りたくるようなマネをして、どんな言葉をかけてやればいい?
あいつがいまどんな思いでいるのかだって、想像するだけでもやるせない。
だからだったのか、自然と俺は気になっていたことを口に出してしまっていた。
「ゴトー……さんの様子は、いかがでしたか」
「ゴトー君?」
「いえっ、その……。私の家にプリントを届けに来たということは、彼の家にも行ったのでしょう?」
「うん、まあ、行くには行ったよ?」
どうにも歯切れの悪い返答だった。
「先生から聞かされたときは驚いたよー。ジョーのマンションの裏手にゴトー君が住んでるなんて。あっ、そういえば文化祭のときに使わせてもらったコンポ、持ってきたから返すね。音楽室から備品が借りられなくて焦ってたからホント助かったよー」
カエデはそう言ってパンパンに膨らんだリュックサックの中からCDコンポを取り出した。
話を逸らしたいのが見え見えの態度だった。
俺はない体力を振り絞って機械的な笑みを作った。カエデには悪いが、いわゆる無言の圧力というやつを使わせてもらう。
俺からの返事がないことで観念したのか、カエデは気まずそうに続きを切り出した。
「ゴトー君、留守だったみたい。だからプリント類は折りたたんで郵便受けの中に入れてきちゃった」
「そうですか。また……」
「また?」
「ええ、以前私が彼の家に書類を手渡しに行ったときも留守でしたから」
「……心配?」
「えっ?」
不意に尋ねられてドキッとした。
「私がですか? 何故?」
「だって最近二人が帰り道で一緒にいるのをよく見かけたから。ご近所付き合いでもあったのかなーって」
「まさか。物を知らない田舎者に都会のルールを教え諭してやっていただけです」
「さっきこの辺も片田舎って言ってたのに?」
「田舎は田舎でもここは東京、格の違いを思い知らせる必要がありましたので」
俺の言葉を受けて、カエデはなぜか柔らかく微笑んだ。
「ああゴメン、バカにしてるわけじゃないんだけどね?」
カエデは口元に手を当てたまま話し続ける。
「ちょっと意外だなって思って」
「意外、ですか?」
「ジョーってその、お高くとまっている――いやこれじゃ悪口だよね――孤高を好んでるイメージがあったから。誰かと一緒にいるところもほとんど見かけたことなかったし。それなのに、ゴトー君と話してるときのジョーは気楽そうっていうか、何だか楽しそうで」
…………そんなに意識したことなんてなかったんだけどな。
ゴトーの隣に居ると、あいつの弱腰な態度に腹がたつことばかりだった。だからこそ、口を開けば立て板に水と言わんばかりに嫌味が出てきた。
俺自身はゴトーを煙たがっているくらいの感覚だったのに。第三者から見た俺はそんなに楽しそうだったのだろうか。
「でもいまの話を聞いて納得したかも。きっと二人とも似たもの同士で気が合ってたんじゃないかな」
おいおい、気味の悪いことを言ってくれるなよ委員長。
俺とあいつが似たもの同士だって?
「べっ、べつに、そ、そんなことはっ……!」
動揺しすぎて声が裏返ってしまった。
自分の失態があまりに恥ずかしくて、頭が熱を帯びていくのがわかる。
「いいよ否定しなくたって。誰にも言いふらしたりとかしないし」
口元を押さえてクスクス笑われてしまった。
おい待てカエデ、おまえのそれは誤解だからな?
たぶんおまえは俺とゴトーが一般的な男女関係的な意味での好意を持ってるとかそんな解釈をしてるかもしれないがそれはまったくの誤解であって何の根拠もない言いがかりも甚だしいうえにそもそも俺は男なわけで――
脳内を駆け巡る反論の束を敬語に変換する前に、カエデが話を切り替えてしまった。
「それにしても、本当に噂なんて当てにならないよね。ジョーがこの調子なら、ゴトー君がジョーに酷いことしたなんて信じられないもん」
「……ええ。あのウジイエ先生がバツ悪そうに話しに来られたときには驚きましたよ。まったく、どうして学校はこんな馬鹿げた噂を放置しているのでしょうね」
「それは――」
言いかけてカエデは口ごもってしまった。
「ううん、ゴメン。なんでもないの」
それきりカエデはそのことについて何も語らなくなった。
俺たちはそれからしばらく他愛のない雑談をしてすごした。
時計が十八時をまわろうという頃になると、カエデは門限があるからといって俺の家をあとにした。
カエデはいったい何を言おうとしたんだろうか。
先日のウジイエの顔色の悪さといい、俺にだけ伝えられていないことでもあるのだろうか。
まあ、一人でいくら考えたからといって答えがわかるはずもあるまい。
こうしてカエデが出張ってくれたのだ。俺もいつまでも弱音を吐いてばかりではいられない。
まだ暗がりを一人で歩くことには耐えられないけれど、きっともうそろそろ、外出しても動悸が激しくなることはないはず。
自分が男だと自認するなら、どんな逆境にも強く立ち向かうべきだ。
今月の中頃には中間試験も控えていることだし、そのときまでには学校に復帰したい。
だがその前に、やることが残されている。
俺は自分の部屋に戻り、机の上から連絡網が記されたプリントを取り出した。
スマートフォンを片手に番号を打ち込んでいく。
何を話せばいいのか、それはわからない。
でもやはり、きちんと向き合わなければ。
そうして俺は、通話ボタンを押した。
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