16 SCENE -08-『ゴトー』

 帰りのバスがもうすぐやって来るからと停留所まで駆けていったら、先客が一人ぽつんと立っていた。

 ジョーである。

 時間通りにバスが来ないことにイラついて、必要以上に力を混めてスマートフォンを操作している。まわりに人がいないから油断しているのか、いつもの優雅さからは程遠かった。

 ゴトーは内心、しくじったと後悔した。ゴトーは普段から、登下校の際に自分の姿がジョーの視界に入らないよう気遣っていたのである。

 だからいつものように、ゴトーはそのまま回れ右をして停留所から離れようとした。

 しかし、方向転換するにはあまりに距離が近すぎた。アスファルトを踏む足音が、誰もいない道路にしっかりと響き渡ってしまった。

 途端に、ジョーの背すじがピンと伸びる。『彼』は数秒静止したあと、ぎこちない動作で後ろへと振り返った。

 いつも通りのキレイな笑顔が張り付いていたのは一瞬だけ。

 ゴトーの姿を確認するや、いきなりしかめ面になった。

「なんで引き返そうとしているんです? もうバス来ますよ?」

 なに見てんだテメェコラぶっ殺すぞ、と『彼』の眼が語っているように思えてならない。

 一応表面上は丁寧に取り繕うとしようとしているようだが、怒っているのがバレバレだった。

 というよりも、積極的に怒りを感じたことをバラそうとしているようにも受け取れた。

 誰に対しても完璧なまでに事務的な態度だったジョーが、怒りの感情を隠さずにぶつけている。

(少しは信用された……と思っていいのかな)

 ギラつく視線に脅えつつも、ゴトーは少しだけ喜びを感じた。

 ジョーの口からは、脱力するほど大げさな溜息がひとつ。

 続いてジョーが新たな文句を紡ぎ出そうとしたその時、バスがけたたましい音を立てて停留所に停まった。

 開きかけていた口は静かに閉ざされた。ただし、バスのアイドリング音に負けないくらい強い舌打ちを残して、『彼』はさっさとバスに乗り込んだ。

 ゴトーも慌ててジョーに続く。

 バスが学校を後にしてしばらくの間、二人は口を利かなかった。

 午後4時ごろだと直帰組とも部活組ともかち合わないため、車内は比較的空いていることが多い。だが今日はどういうわけか買い物帰りの老婦人やベビーカーを押す子連れがたくさん乗車しており、空いている席は一つしかなかった。

 早い者順で考えるなら、席に座るべきはジョーのはず。しかし『彼』にはそのような素振りはない。ただただ黙って吊り革に掴まり、時折鬱陶しげに隣に立つゴトーを仰ぎ見るだけだった。

(そうか、僕が邪魔で座れないのか)

 ゴトーはジョーの隣から離れて出入り口側に移動しようとする。

 しかし、ゴトーは後ろに引っ張られて動けなくなった。ジョーがゴトーの鞄を掴んだのだ。

「違います、あなたがここに座るんです」

「えっ、でも……」

「あなたのように無駄に大きな男が通路を塞ぐと他の方々の邪魔なんですよ。つべこべ言わずに座ってください」

 穏やかな口調なのに、有無を言わせぬ物言いだった。

 ゴトーは口答えせず、直ちに座席に着く。

 席に着いたと同時に膝元に鞄を乗っけられた。

「あなたは席に座る。私は席に座ったあなたの上に荷物を置く。?」

 涼やかな笑顔なのに、逆らうことが許されない冷笑だった。

(信用……されてるのかな。本当に……)

 曖昧な笑顔で返答するほかなかった。

 ゴトーたちの通う高校は、付近のどの鉄道からも微妙に離れた場所に立地している。最寄り駅は徒歩20分の距離だし、次点の鉄道だと車で40分以上もかかる。自転車通学できるのは高校の付近に住んでいる生徒だけで、大半がこのどちらかのルートで通学していた。ちなみにゴトーたちは後者にあたり、二ルートの内の少数派であった。

 これから数十分もの間、ジョーの冷ややかな視線を浴び続けるという緊張感に耐えられるのか。喫緊の問題である。

 緊張を紛らわそうにも、通学時に持ち歩いている文庫本はジョーの荷物の下敷きになって取ることができない。景色を眺めようにも、スマートフォン越しに自分を見下ろす冷たい視線が気になって仕方がない。

 結局ゴトーは黙り続けることのプレッシャーに負けてしまった。

「あの、ルミエールさん。ちょっと聞きたいんだけど」

「はい?」

 スマートフォンから目を離さずに答えを返してきた。

 もう心が折れそうだった。

 しかし切り出してしまった以上、会話を続けるしかない。

「10月の頭にある文化祭、僕は何をすればいいのかな」

 その問いに、ジョーのスマートフォンをいじる手が止まる。

「……ああ、そうでしたね。あなたは夏休み前の会議に参加していなかったんですよね。ウジイエ先生やカエデさんから、そのあたりの説明はされていないんですか?」

「うん。家の事情でいろんな手続きをしなきゃいけなかったから、あまり時間がとれなくて」

 ジョーはしばらく黙考したあと、鞄を寄越すように言ってきた。

 『彼』は鞄からホチキス止めの冊子を取り出すと、ゴトーに手渡した。

 表題は『護堂ヒカルを待ちながら』。

「私たちのクラスは自分たちの教室で演劇をすることになっています。先生に言えばシナリオを貰えるとは思いますが……」

 ジョーから冊子をめくるように指示される。

「ご覧のとおり、舞台の配役は既に決まっているんです。道具係も音響係も照明係もです。空いているのは観客席造りや受付といった、全員で分担する予定の……仕事くらいですかね」

 最後にジョーは言葉を選んだ。恐らく本当に言いたかった言葉は「雑用」なのだろう。

 誰からも説明されなかったので薄々予想していたが、今年の文化祭にゴトーの出る幕はないらしい。

 そもそも、東京への引っ越しが寝耳に水だったのだ。6月に『父』――アキラが倒れ、ヤシロの支援によって北海道から転院してきたのが7月のこと。アキラの看病をするにはゴトーも東京に行かなければならなかったが、アキラはゴトーが高校を中退することを許さなかった。アキラと共に暮らすために都立高校の転入試験を受けたのが8月初旬。生活基盤を東京に移した頃には、夏休みも終盤に差し掛かっていた。

 在校生の立場からすれば、そんなぽっと出の転校生に任せられる仕事などあるはずがない。

 ジョーはゴトーが落胆すると思って気を遣ってくれたのかもしれない。だが、ゴトーは自分の役割がないことに対して不満があるわけではなかった。

 ただ、そのことを今の今まで教えられなかったということが、ほんの少しだけ、物悲しかった。

『君が誰からも信用されないのは、君が誰も信用していないからだよ』

 アキラの声が聞こえた気がした。

 果たして『父』はこんなことを言っていただろうか。

 それとも、ゴトー自身の心の声が、アキラの声として聞こえているだけなのか。

 ただどちらにせよ、その言葉が正しいということはゴトー自身が誰よりも良くわかっていた。



 バスで40分、電車で30分、徒歩15分という長い通学路にも関わらず、まったく同じ時間に同じ道を辿る同じ学校の生徒が日本に何人いるだろうか。

 もちろん、片方が道中で寄り道すればこうはなるまい。しかし帰宅部でさしたる趣味もないゴトーには、帰宅途中に立ち寄る店も遊びに行く盛り場のあてもない。ジョーにも別の駅で降りる気配はない。

 結局、互いの自宅がある最寄り駅まで同行する羽目になってしまった。

 とりたてて話題もない二人が同じ道を通って家に帰ろうとすれば、必然的に次のような光景になってしまう。

 マイペースにスタスタと歩いていくジョー。

 『彼』の様子を窺いながら、その後ろをわざとゆっくり歩くゴトー。

 端からだとストーカーに追われる婦女子にしか思われない。ジョーがいかに男性的または中性的な出で立ちを心がけようとも、『彼』の容姿はあまりにも美しすぎるからだ。

 ゴトーの挙動が不審なのも相まって、駅から自宅へ歩いていくまでの間、彼らを見た何人もの主婦たちが通報するべきかを囁き合っていた。

 当然、それはジョーの耳にも入る。

 『彼』は善意により、二回まではゴトーを助けてくれた。携帯電話を掴む主婦たちに駆け寄り、あの誰もが傅くほどの微笑で誤解を解くのである。

 ただし三回目以降はそれも面倒になったらしく、ジョーは主婦たちに釈明しなくなった。

 代わりにゴトーに対して、自分の側に来るように要求した。

「あなたが自覚してるかは知りませんが、あなたの姿はどう見ても成人男性のそれです。びくびくしながら人の後ろをついて来たら、誤解されても仕方がないと理解してください」

「……すみませんでした」

「だからあなたのそういう態度がっ――」

 ジョーは歯を食いしばり、声にならない怒りを地団太で紛らわそうとする。

「あの、無理して丁寧に話さなくても」

「うるせぇちょっと黙れっっっ!!」

 口角泡を飛ばす勢いでゴトーに詰め寄って来た。

「オイいいか、おまえ俺の――」

 そう言いかけて、盛大に咳払いをして仕切り直す。

「――私の後ろをコソコソと付け回すのはやめていただきたい。あなたいったい何を考えてるんです」

「……その、僕が視界に入ると不愉快になるんじゃないかと」

「何なんですかその後ろ向きな気遣いは!? まさか、ずっとそんな理由で私に気取られないようにしていたと!?」

「うん」

「いらねーですよそんなネガティブな優しさはっ!。頼むからもっと普通にしてくださいよ、普通にっ」

「普通……」

「だからこう、景色が綺麗だなーとか、今日の晩御飯は何かなーとか考えながら、背筋を伸ばして歩いたりとか……」

 ジョーの言った様子を自身に当てはめてイメージしてみた。

(……全然似合わない……)

 自分で言ってしまうのも悲しいが、ゴトーは自身の溌剌とした姿をまるで想像できなかった。想像しようとすると、どうしても知能の弱い大きな子どもが想起されてしまう。

 どうも、言っている途中でジョーも同じような想像をしたらしい。苦虫を噛み潰したような顔になっていた。

「じゃあ、こうしましょう。あなたが行き帰りの時間にたまたま私と遭遇してしまった場合、二つのうちのどちらかを選んでもらいます。

①、私があなたの視界からいなくなるまで動かない。

②、あなたが私の視界に入ったまま帰宅する。どうです?」

「①だと、僕の行動を信じてもらうしかないけど」

「②だと、私があなたを追いかける形になりますね」

「……でもこの二つって、一度は僕がルミエールさんに『僕はここにいます』ってアピールしなくちゃいけないんじゃない?」

「何か問題が?」

「だって、僕に話しかけられるの嫌でしょ?」

「…………殴るぞ?」

 すっと細められた深緑の瞳がゴトーを貫いた。

(怖いよ……どうしてこんなに小さいのに殺意が漲ってるんだろう……)

 いつぞやジョーに殴られた脇腹がジンジンと疼いた。

「先日も言いましたが、話したければ話せばいいでしょう。私たちはクラスメイトなんですから、共通の話題の一つや二つあるでしょう」

「授業でわからないこととか、宿題でわからないこととか?」

「そうです」

「名前がわからない先生とか、生徒とか、場所とか、あとそれと――」

「わからないことだらけかっ!? おま――あなたはどこのゆとり社員ですか!?」

「『おまえ』って言っても気にしないよ?」

「私が気にするんですっ!!」

 話し方について一家言あるジョーは、そういきり立った。

 『彼』の語り口調は『彼』本来のものではない。世を忍ぶため、自分の心を守るために、たとえ誰が相手でも敬語を使うと、『彼』自身が自らに課したルールに従っているのだろう。

 最近ではゴトーが相手になると、そのルールが崩れかかっているのが気がかりではある。ただ、それでジョーが肩の力を抜くことができるというなら、どれだけ暴言を浴びせられても良いと思った。

 ポツポツと話すゴトーに対して、呆れ半分怒り半分でジョーが切り返す。そんなことを続けていたら、いつの間にか甘ったるい香りのするT字路に突き当たっていた。

 道路の角にあるボロ家からツル性植物がはみ出ている。おそらくカズラの一種なのだろう、赤い筒状の花々から息が詰まるような匂いがした。

 二人は何を言うでもなく、このT字路で別れた。T字路を左折すればジョーのマンションが、右折すればゴトーのアパートがある。

 しかしゴトーが数歩進んだところで、ジョーに呼び止められた。

「前々から思っていたんですが、あなたは私を『ジョー』とは呼ばないんですね」

 両腕を組んで、ジョーがこちらをねめつけてくる。

「正直、姓で呼ばれるのはあまり好きじゃないんですよ。いかにもガイジンと言われている気がするんでね」

「えっと……?」

「……察しの悪い野郎ですね。だから、あなたが呼びたければ『ジョー』と呼んでも構わないと、そう言っているわけで……」

 数秒間、『彼』彼の真意を汲み取るのに時を要した。

 続いて胸の奥から、どうしようもないほどの感動が波となって押し寄せてきた。

 自分の行いは無駄ではなかった。

 ようやく『彼』の信頼を勝ち取ることができた。

 『彼』が目の前にいなければ、その場を跳び回っていたかもしれない。

 当のジョーはというと、言っていて恥ずかしくなったのか、肩にかけた鞄の紐の位置をしきりに直していた。

 これからも、ずっと『彼』のことを見守っていこう。

 ゴトーは心密かにそう誓った。

 いつもは鼻につく花の匂いも、今だけは心地よかった。

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