15 SCENE -07-『ジョー』
九月下旬にしてはなかなかにじめじめした、昼下がりにしては薄暗がりな空が広がっていた。
俺は電車をいくつか乗り継いで、久しぶりにオタク文化の聖地――秋葉原まで足を伸ばしていた。
本当は近所にある自然公園でランニングとしゃれ込みたいところだったのに、地元は今日も雨模様。せっかくの休日にずぶ濡れになるリスクを冒してまで走りたいとは思えず、すっかり気が削がれてしまった。
とはいえ勢い込んで家を出た手前、いまさら引きこもり直すのもすわりが悪い。
あれこれ考えた末、仕方ないから先日販売されたばかりのマンガ、『トッカータとフーガ
おぉ……相変わらずここは濃い街だなぁオイ、国際色豊かな人間で溢れかえってやがる。
中央通りの両側にはマンガやゲーム、フィギュアなどといったサブカルチャー製品を売る店が数百メートル先まで
物知り顔で町を見回していたら、いつの間にか何年か前に通り魔事件があったという交差点に差し掛かった。
当時はテレビで大騒ぎしていたらしいけど、その頃の俺はテレビなんて見ている余裕はなかった。犯罪防止のために歩行者天国が取り止めになったと知ったのはだいぶ後になってからだ。
まったく愚かなことだと思う。事件が起きた根本の原因から目を逸らして、規制しやすいところにだけメスを入れるなんて、自分が仕事をした気になりたいだけの愚行でしかない。
歩行者天国をやめたところで自動車による歩行者への突っ込みは阻止できないし、ダガーナイフの販売を差し止めたからといって日本から刃物による傷害・殺人事件はなくならない。そんなことは良識ある人間なら深く考えなくてもわかることだろう。
要は、対処しきれない問題が起きたとき、対処できなかったことを責められたくないが故のパフォーマンスなのだ。とりあえず目につく危なそうなものを端っこに追いやっておけば、世間一般の普通の人々は安心して暮らせる。追いやられたモノがどんな扱いを受けるかなんて、まったく気にもしないクセに。
たった一人の犯罪者が引き起こした騒動によって、その周辺にいる人間すべてが犯罪者予備軍のように扱われるなんて、どうかしている。
どうして人は何の関係もない物事を勝手にひとくくりにしたがるのだろうか。
交差点の信号が青になるのと同時に、人々が一斉に歩き出す。川の急流を思わせるような人ごみに紛れながら、俺は思考をめぐらせた。
その点、この街は良い所だと思う。俺のように半分以上も外国人に足を踏み入れているような容姿の人間が歩いていても、誰も露骨に振り返ったりしない。通行人の中にはコッテコテのコスプレをしている者もいるというのに、誰も気にする素振りを見せない。
他人に無関心だからというのも一つの回答だろうが、俺はそれだけだとは思わない。この街は、良い意味で他人の個性に寛容な空気が蔓延しているのだ。
まあ、すべての街が秋葉原のようにカオスな景観になってしまうのは御免だが、見習うべきところは十二分にあると思うわけで。
とはいえ、こんなことを一人きりで考えても暇つぶしにしかならないのだが。
目的の店の前に立ったところで、力なくため息をついてしまった。
マキはこの手の店には来たがらないし、結局この街に来るときはいつも一人きりになってしまう。
ふと周りを見渡せば、俺のようにボッチでふらついている輩もいれば、イチャイチャした腐れバカップルもいる。
男子学生同士でワイワイやっている集団も、そこかしこにいる。
そんな連中の在り様に、胸の奥がチリチリと焦げ付く。
……羨んでどうする。俺には無理だと、もう結論は出ているはずだ。
俺は理想的な微笑を顔に貼り付けて前を見据えた。
街中でも優等生の仮面は極力外さないようにしている。誰が見ているかわからないからだ。
胸の内に秘めた黒い感情を表に出さないよう、ゆっくりと深呼吸を一つ。
落ち着きを取り戻したところで、俺はいざ、目的の店へと入ろうとした。
そのときだった。
その隣の店から、一人の女性が大きな紙袋を持って出てきたのだ。
その女性は紺色のキャップを目深にかぶり、小ぶりなライトグレーのブルゾンを羽織って、膝丈ギリギリの黒いスカートを履いていた。
良い意味で場違いな、洗練されたファッションセンス。色合いだけなら地味といっていいコーディネートのはずなのに、むしろ彼女のまわりにある景色のほうが霞んで見えてしまう。
きれいだと、本気で思った。
キャップのつばが邪魔で口元しか見えないが、あれは絶対に美人だと思う。身長は一五〇センチあるかないかだから、むしろ可愛いと言うべきかもしれないが。
あんなきれいな人がこんな店にどんな用事で?
そう考えかけて、俺は首を振る。それは考えても詮無きこと。俺と彼女は通りすがりの赤の他人、どうせかかわり合うことなんてないのだから。
第一、俺が女とかかわり合いになって良いことなんてあると思ってるのか?
記憶の蓋が開きかけたので、慌てて意識を現実に向かわせる。
大丈夫だ。
もう、同じ過ちは繰り返さない。
俺は自分にそう言い聞かせて、彼女から視線を外した。
だがしかし、
「ジョー……?」
という、か細い声が確かに俺の耳に届いた。
まさかと思って振り返ると、そこには先ほどまで俺が見つめていた女性が立っていた。
そして彼女は、キャップを取った。
えっ……!!
開いた口が塞がらないとは、まさに今の俺のようなことを言うのだろう。
キャップの下から現れた素顔は俺の予想を裏切ることなく、確かにきれいなのものだった。
しかしその素顔は、ある意味俺の予想を裏切るものだったのだ。
なぜなら、俺はその素顔を毎日といっていいほど見て、知っていたのだから。
「か、カエデ……さん?」
彼女はキャップで抑えつけられた前髪を手櫛で整えながら、俺の元へ駆け寄ってきた。
「やっぱりジョーだぁ! うわ、うわー、こんなところで会うなんてっ! ジョーは何しに来てたの?」
カエデはかなり興奮した様子ではしゃいでいた。
いつもは真面目で、頼まれたら断りきれない優しい性格の子だったはずなのに。
なのにどうしてだろう、今日のカエデはいつになく、その……艶っぽく見えてしまう。
服装が違うから?
それともプライベートな時間で気が緩んでいるから?
学校では彼女のこんな側面なんて想像もつかなかった。
俺は予期せぬ邂逅に動揺してしまったが、何とか優等生の仮面を維持することには成功した。
「ちょっと街を散策に。いろいろな意味で有名な町ですから、一度は来たいと思っていたんですよ」
「え? じゃあ初めて来たの? ひとりきりで?」
ちょっと疑ってるか……?
よしそれなら、もっとさり気ない感じで――
「ええ。特に目的があったわけじゃないんで、ただブラブラしに」
「そっかあ、確かにここ見るだけでも楽しいもんね。お店いっぱいあるし」
「はい、正直予想以上の多さで、どこから見ていいか迷うほどで」
「だよねだよね! しかもさ、初めてだとやっぱりどのお店も入りにくい~って思わなかった?」
「あ、はいっ、それすごく思いましたよ。とらなんてもう――」
「とらって、このお店?」
語るに落ちたか馬鹿野郎!
一度漏らしてしまった言葉を取り消すことはできない。なんとか誤魔化そうにも、この秋葉原という街でこの単語を使ってしまったら、目の前にあるサブカル専門店のことを指しているとしか思われない。
カエデは俺の顔を伺いながら、何か考えているようだった。
首筋に滴る汗も、じめじめした空気も、カエデがキャップを弄ぶ仕草ひとつまで気になってしまい、だんだん落ち着かなくなってくる。
「…………ねえ、ジョー」
来たっ!
追求される!!
すぐにでも釈明してしまいたいが、こんな混乱した状態で口を開いてもまた失言してしまう可能性が大だ。できるだけ情報を与えないで、カエデがいいように解釈してくれるのを願うしかない。
「もしかして――」
俺のことを訝しげに見上げるカエデの声が、なにか探りを入れているように聞こえた。
まさか、さっきまでカエデを見ていたことがバレてたか!?
いや違うんだ、そんなつもりじゃなかったんだ。
ただちょっときれいな人がいるなーっていう好奇心で、別になにもやましいことなんかこれっぽっちも考えてな――
「これから時間ある?」
……………………はい?
えっ? えっ?
いま何を言われた、俺?
冷静さを装ってはいるものの、目が泳いでしまうのはどうにも抑えられない。
「えと、迷惑でなければ、その……どこかでお話できないかなー、なんて」
…………マジで?
俺いま、カエデに誘われてる?
予想外な展開
そうか、さっきから怪訝そうな顔つきをしてたのは、俺を誘おうか迷っていたからだったのか。
俺は内心でほっと一息つく。
「あ、いや、先約があるなら忘れて! わたしも門限までには帰らないといけないから、それまででよければって思っただけなんだ」
いつまで経っても返事をしないことを、無言の拒絶ととられたらしく、カエデは慌てて誘いを撤回しようとしてきた。
今度は俺のほうが慌てて返事をする。
「いえっ、先約とか、そういうのはないんですが」
「本当っ!? それならサイゼに行かない? 今ならちょっとは空いてる時間だし」
「しかし……私と一緒に居ても――」
「楽しいっ、楽しいからっ!」
身を乗り出す勢いでカエデは叫ぶ。突然の大声ゆえに聴衆からの視線を浴びせられたカエデは、恥ずかしそうに紙袋で顔を覆い隠してしまった。
…………仕方がない、か。
ここで長居しても恥を上塗りさせるだけだ。
俺はカエデの誘いに諾意を伝えた。
それを聞いたカエデの表情は、満開の花のように輝いていた。
ドリンクバーで注いで来たコーラを口に含む。
目の前には、ティラミスを突きつつカプチーノの風味を楽しむカエデ。
まわりの若者たちの喧騒に相反するかのように、テーブル席で静かに向かい合う同級生が二人。
どうしてこうなった。
俺は確か、怠惰な休日を過ごすために秋葉原に突貫してきたはず。
それがどうして、同級生の女の子とカフェレストランで一服することになってるんだ!?
そんな動揺を表に出せるはずもなく、表面上は優雅にストローを銜えてチビチビと炭酸飲料を飲む俺。
き、気まずすぎる……
いったい何を話せばいいのか見当もつかん。
そもそも俺が同級生といっしょに外出した経験なんて、小学校の頃の遠足くらいしかないのだ。友達なんていたためしがない。唯一の例外はマキただ一人。ただしマキに関して言えば友達というより同志と言った方がしっくりくるし、こういう友達付き合いとは何か違う気がする。
こんな圧倒的経験不足なボッチを捕まえて、友達――じゃない、同級生とお茶しようなんて、無茶振りが過ぎるというものだろう。
あああ誰か助けてくれー、誰か俺に話題をくれー。
「あ、あのさ、ジョー」
「は、はい?」
「その赤いジャケット、カッコ良いよね」
「あ、はいっ、ありがとうございます」
一瞬裏声になりかけたが、俺は内心でガッツポーズをしていた。
「服も全体的にそのー……ボーイッシュな感じで、キマッてるし」
「あー……」
そりゃあそうだろうよ。上から下まで某ファストファッションのチェーン店で揃えた男物だからな。
とは、口が裂けても言えない。
これが俺の普段着であるということも、言えない。
服に関してはこれ以上突っ込まれたくないため、自分の口から話題を広げることができない。相手の服を褒めようにも、女子と同レベルのファッションの会話なんてできるはずもない。
結果、無難な笑みを浮かべて黙りこくるしかなくなってしまう。
おい、話が終わっちまったぞ! どうすんだこれっ!?
頼みのコーラも残り半分を下回っている。手持ち無沙汰をやり過ごすにも厳しい情勢だ。仕切り直すために席を立ってもいいが、それだと俺がカエデと居るのが嫌で時間を潰そうとしているみたいになってしまう。
…………クソ、これはもう、白状したほうがいいな。
俺は意を決して、カエデに向かい合った。
「すみませんカエデさん。気を悪くしないで聞いてください」
「ん?」
「実は私、こういったことが不慣れで、何を話していいのかわからないんです。貴方を嫌っている訳ではないのですが、どうもこう、居心地が悪いというか……」
「あー、やっぱり?」
カエデはフォークを置いて、ティッシュで口を拭いながら言った。
「実はね、わたしもなんだ。友達とお茶するの」
「えっ?」
「あっ、ゴメンっ、友達とか言っちゃって、図々しかったよね」
「いえ、決してそんなことは」
そうか、カエデも初体験だったわけか。
そりゃあ、学校での過ごし方を見ていればさもありなんってところだよな。普段の真面目なカエデからは、誰かと遊んでいるところも、ましてや秋葉原に通っている姿なんて想像もつかなかったし。
それなら、これは聞いていいのだろうか。
「カエデさんは、よくこの街に遊びに来るのですか?」
「んー……半分当たり、かな」
「半分?」
「ほら、わたしって吹奏楽部でしょ? 水道橋に行き付けの楽器店があってね、そこの帰りにたまに来るの」
「水道橋からここまでだと、かなり歩くのでは?」
「吹奏楽部には体力も必要なのです。もちろん、お小遣いを浮かせる目的もあるけどね」
現実でテヘペロの仕草をする女をはじめて見た。ちょっとあざとい気もするが、身体の小さなカエデがすると妙に似合う。
カエデの話から推測すると、テーブルの下に置いてある紙袋の中身は楽器のパーツやらメンテナンス道具なのだろう。
そんなことを考えていると、カエデがクスクスと笑った。
「こういうのでいいのかもしれないよ? お喋りなんて」
「あっ……」
してやられた。カエデは俺の緊張を解くために、あえて面白い振る舞いをしてくれていたのだ。
なんだよ、初めての割には余裕があるじゃないか。
これも男と女の差というものなのか。まあ、「男」の部分に関しては口に出したところで理解されるはずもないが。
コーラに浮かぶ氷をストローで押し込み、底に沈める。
「それじゃあ、わたしも質問していい?」
「どうぞ」
余所行きの笑顔で答える。
「ジョーは確か、部活に入ってなかったと思うけど、なにか習い事でもしてるの?」
「いえ、特に何も」
「それって、塾もってこと?」
「はい。特に必要性を感じないので」
「すごいなぁ。それで学年二十位以内をキープしてるなんて」
「カエデさんは常にトップ5じゃないですか」
「あれは……家で勉強を見てもらってるから。わたしの力じゃないよ」
そんなに自分を卑下しなくてもいいと思うのだが、カエデの言葉には投げやりなニュアンスが含まれているように感じた。
以前、カエデには厳しい家庭教師がついていると伝え聞いた覚えがある。よほど思い出したくないのだろう、カエデはカップに残ったカプチーノに視線を落としてしまった。
成績については触れてはいけなかったらしい。
まったく、人との会話は地雷原を渡るようなものだとつくづく思い知らされる。何が相手の琴線に触れるか、逆鱗に触れるか、わかったものじゃない。
そのあと俺は細心の注意を払ってカエデとの会話を続けた。
お互いに手探りな、下手糞なキャッチボールのようなやり取りだったが、悪い気はしなかった。
一時間ほど雑談したあと、俺たちは秋葉原駅の改札で解散することになった。二人とも乗る路線が違ったからだ。
帰途につく若者たちや観光客と思しき外国人の集団を避けて、俺たちは駅へとたどり着く。
別れ際にカエデは少し寂しそうに肩を落としていた。
まあ、それは俺の錯覚かもしれないが。
ただ、駅のホームへ向かう俺を呼び止めたカエデの声には、確かに元気がなかった。
「あのね、ジョー。できたらで、本当にできたらでいいんだけどね。もしよかったら、またどこかで今日みたいにお話できないかな」
元気がないというより、不安そうな声音だった。
気の毒に、声が震えている。
どうして俺なんかにそんなことを言い出したのかわからないが、俺はカエデの勇気ある誘いに対して何かを答えなければならない。
でも俺は、すぐに返事をすることができなかった。
正直、いまこうしてカエデに誘われていることは嬉しい。
だだ俺は、一歩前へ踏み出すための勇気を、とうの昔に無くしてしまっている。
だから俺は、
「機会があれば、いずれまたお話しましょう」
という承諾とも拒絶ともとれる微妙な言い回しを選んでしまった。
それを聞いたカエデは、ショックを受けたような顔をした。
どうやら俺に拒絶されたと思ったらしい。
俺は慌てて、「必ずです」と付け足した。
こちらの必死さが伝わったのか、カエデは仄かに笑ってくれた。
帰りの電車に揺られながら、俺はふと昔のことを思い返していた。
中学生の頃、俺には好きな女の子がいた。
ちょうどカエデみたいに小柄で、犬やウサギを想像させる小動物のような子だった。本を読むのが大好きで、読んだ本の内容をいつも楽しそうに教えてくれる聡明な子だった。弱々しいところもあったが、優しくて気立てのいい、女の子らしい女の子だった。
その頃すでに、俺は自分の心の本質というものにたどり着いていた。それを認めるまでに幼かった俺はだいぶ苦しんだもんだが、自分の状態について筋道立てて理解したあとには、自分が女の子を好きになること自体に悩む回数は減った。
でも相手の子に好きだと言えないことで、夜も眠れないほど思いつめたことはある。
その子は俺のことを自分と同じ女の子として接してくる。女の子同士だから仲良くしてくれる。もしも余計ことを口にしてしまえば、これまで築きあげてきた関係が壊れるかもしれない。
気持ち悪がられ、嫌われるかもしれない。
そんなのは嫌だ!!
だから俺は沈黙を選んだ。あたかも普通の女の子のふりをして、その子のことを騙してでも、その子の側にいることをよしとした。
だって相手は俺と違って普通の女の子なのだ。
普通に男の子を好きになり、普通に男の子と恋愛して、普通に結婚して子供を生んで、愛する夫に添い遂げる。大多数の普通の女たちが送る人生に疑問を抱かず生きていける、そういう普通の女の子なのだ。
俺がどれだけその子に好意を寄せていたって、その子が俺を好きになってくれるわけがない。俺のような、男にも女にもなりきることのできない人間を、愛してくれるはずがない。
俺だってバカじゃない、そんなことはわかっていたさ。
でも、どうしたって好きだっていう気持ちは隠し通せなかった。
未熟な俺は、その子のことを友達以上に見ていることを言動の端々に滲ませてしまっていたのだろう。
それをクラスの連中は見逃さなかった。
ことあるごとにその子と一緒に居ようとする俺をつかまえて、ある日あいつらはよってたかってこう言い出した。
『あんた、レズなんでしょ? きもーい』
俺は見た目もこんなだし、当時から負けん気が強かったから、よくほかのヤツらとは衝突していた。人を蹴落とすことだけに一生懸命なあいつらとしては、こんな好奇心をそそるネタを捨て置くはずがない。俺はさしずめ格好のカモだっただろう。
次の日から、その子は学校に来なくなった。
もともと他人の悪意に耐性のない弱い子だったから、クラス中が一丸となって攻撃してくれば、こうなることはわかりきっていた。
ひどい罪悪感に苛まれる日々が続いた。
俺があの子に関わったから、彼女を傷つけてしまったのか?
俺は何度も何度も自分を責めた。俺みたいなヤツが、誰かと関わりあおうなんて思わなければ良かった。そうすればこんなことにはならなかったのに、と。
でもその子が学校に来なくなっても、どれだけ俺が後悔しても、俺を蔑む声が収まるわけじゃない。なにせターゲットは俺なのだ。彼女はあくまで、俺の巻き添えを喰らったに過ぎない。
教師が見て見ぬふりをするなかで、クラス中が俺を異常者扱いし、その子が不登校になったのは俺のせいだと詰った。自分たちが彼女を追い詰めたくせに、そんなことはかまいもせずに。
ただひとり、マキだけはずっと俺の味方をしてくれたが、当時の俺達は違う学校に通っていた。学校内での嫌がらせは俺一人で耐えなければならない。
そのころにはもう、俺には居場所なんてどこにもなかったのに。
連日続く理不尽な嘲り。最初のうちは必死に耐えようとした。だけどあるとき、俺はもう我慢できなくなった。
陰口を叩いた女子どもをぶっ飛ばし、あの子にまでひどいことを言った男子どもを蹴り飛ばし、俺を止めようとした教師たちの手に噛みついて、椅子をつかんでぶん投げて、暴れに暴れた。
十何年も押さえ込んでいた自分の本性をさらけ出すように、何もかも壊し尽くした。
そのあとすぐ、俺は転校することになった。
本当なら器物損壊やら暴行罪やらで訴えられてもおかしくないほど暴れまわったのに、俺に対する処置は追放だけで済まされた。
大方、うちの母親が汚い手を使って相手の口を封じさせたのだろうが、そのときの俺にはそんなことどうでもよかった。
あったのはただ、心残りがひとつだけ。
遠く離れたどこかへ引っ越す前に、どうしてもあの子に謝りたい。
俺はその一心で、年賀状の住所を頼りに彼女の家へ訪ねていった。
インターホンを鳴らし、じっと待つ。
しばらくするとその子の母親が返事をした。
俺が名のるや否や、母親はインターホン越しにでも伝わるほど、怒り狂った様子で俺を罵倒した。
あの子もまた、どこか別の学校へ転校することになったらしい。
俺はとにかく謝った。でも一言でいいから、どうしても彼女に直接謝らせて欲しいと頼み込んだ。
でもダメだった。母親はありったけの罵詈雑言を俺に浴びせかけたあと、一方的に通信を切ってしまった。
悔しくて情けなくて、理不尽で恨めしくて、涙が出そうになった。だから涙を目じりから零さないようにと、俺は空を仰いだ。
そのとき、二階の窓からこちらを見下ろす人影がひとつ。
あの子だった。
俺はそのときの彼女の表情を、一生忘れることはないだろう。
恨みが、憎しみが、
差別が、侮蔑が、
嘲笑が、悲傷が、
悪意が、呪いが込められた表情を。
ひとでなしを見下す、その視線を。
忘れることなど、できない。
俺はもう、あんな思いは絶対にしたくない。
だからこそ、高校を卒業して、性別適合手術が受けられる年齢になるまでは誰とも関わらないって決めたんじゃないか。
そのために、無理やり優等生キャラを演じているんじゃないか。
それなのに、どうしてみんな俺に関わろうとするんだよ。
最寄り駅に着いたことを告げるアナウンスが耳に入り、思考が打ち切られる。
沈痛な面持ちで歩き始めた俺はふと、どうでもいいことを思い出した。
ああ、そういえば、結局マンガを買わないまま帰ってきちまったな。
浮かれては落ち込んで、舞い上がっては這い蹲って。
まるでグラフに書き込まれた波形のような人生だなどと、そんな愚にもつかないことをぼんやり考えていた。
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