11 SCENE -05-『ジョー』
授業のない土曜日の昼下がり、俺は朝から勉強机に足を乗っけてだらだらとマンガを読むなんていう怠惰な時間を過ごしていた。
世の優等生は塾に通いつめるなり部活に励むなりしているだろうが、あいにく俺は仮面優等生。見栄えが良ければそれでいい、勉強なんてその場しのぎで万事OKなのさ。
はいはいワロスワロス、うひゃーマジこのマンガおもしれーぜ。
一心不乱にページをめくり、わざとらしく笑ってみる。
週刊誌を投げ捨てて、無駄にスプリングが効いているセミダブルのベッドへとダイブしてみる。
羽毛の海にくるまれてみたり、足をばたばたさせてみる。
……うん、ちっとも落ち着かないな。
今朝からずっとこの調子なのだ。普段通りの過ごし方をしようとしているのに、何をやっても集中できなかった。
手慰みに読んでいたマンガも、おかげでまったく頭に入ってこない。
どうしてもあの日のことを思い返してしまう。
昨日、ゴトーの野郎に重要書類だかを届けさせられたあの日、あいつは俺にいろいろな話をした。
あいつの『母親』は――あいつはついぞ『母親』とは口にしなかったが――生まれたときから自分が女性のカラダであることに強い違和感を抱いて生きてきたらしい。
つまり俺と同じ、性同一性障害、もしくは
ゴトーは自分の『母親』のことを、FTMのトランスジェンダーだと言っていた。さすがに一般的な学生にとっては馴染みのない専門用語だろうが、なんせ俺はその訳わかんねー現象の当事者なんでね。自分の置かれた状況が知りたくてネットやら本やらで調べまくったときに、この言葉は覚えてしまった。
FTMとは、'female to male'の略称。「カラダは健康な女性体なのに、心は男性の特徴を示し、男性へ移行したいと考えている、もしくは実際に移行した人」のことを意味する言葉である。
当然、男女逆のパターンならMTF、'male to female'と呼ぶわけだ。
トランスジェンダーは直訳すれば「社会的性別の越境者」となる。これは、ある社会が規定した性別ごとの役割を押しつけられることに耐えられず、自分が望む性役割を得たい、すなわち性役割という枠組みを越えたいと考えている人たちのことだ。
ちなみにトランスジェンダーという言葉は、医学界が編み出した性同一性障害という『病名』よりも広い概念だと考えられることが多い。
たとえばGID、'gender identity disorder'、「性別違和」と訳される「自分の性別に違和感を感じるけれど、性適合手術まではしなくてもいいと考えられる」状態――
TV、'transvestite'、「異性装嗜好」と訳される「性適合手術をしないまでも、自分が望む性別の服装をすることで違和感を減退できる」状態――
こういったものも、トランスジェンダーという枠に含まれる。
ゴトーは俺がこれらの知識を持っていると踏んだのか、それとも単に確認することを忘れていたのか知らないが、言葉の解説もせずにさっさと自分の『母親』の話をはじめてしまった。
会話慣れしてないヤツが無理をするから、こんな不手際が起こるのだ。本来ならツッコミを入れてやりたいところだったが、面倒くさくて敢えてだんまりを決め込んだ。
だが、俺がこれらの言葉をすでに知っていたとしても、トランスジェンダーであるゴトーの『母親』がどうして『母親』たりえているのかについては、少し噛み砕いて解釈する必要があるだろう。
そもそも性同一性障害を抱える人々、またはトランスジェンダーの間でも、カラダに対する違和感や嫌悪感の度合いには個人ごとにかなりの差がある。
さっき羅列したみたいにいろいろな用語があることからもわかるが、彼らの誰もが性適合手術をして、自分の望んでいる性別のカラダに『戻る』ことを望んでいるわけではないのだ。
とはいえ事情はそう単純でもない。トランスジェンダーの中には結婚をして子供をつくり、何十年も家庭生活を過ごしたあとではじめて手術をしたいと決意する人もいる。
こういった人たちの多くはまわりの目が気になったり、自分がトランスジェンダーであることを自分自身が認めたくなかったりして、『普通の人々』のように振舞うために、異性と結婚して家庭をもつことを選ぶようだ。
きっと、自分もその他大勢の『健常者』たちと同じように振舞えば、自分もいつか『健常者』になれるのではないかと信じてそうするのだろう。
だがそれでも、何十年『普通』のふりを続けてみても、たとえ子供がいたとしても、自分の性やカラダに対する違和感・嫌悪感を拭い去ることができずに苦しみ続ける……
たとえば、ゴトーの『母親』のように。
『人間は自分の遺伝子を残すために、遺伝子に乗り捨てられていく船だっていう考え方があるらしい』
ゴトーの家で俺が遅めの昼飯を食っている間に、あいつが話した一節だ。
あいつは自分が決して愉快な話をしているわけじゃないという自覚があったんだろう、できる限り穏やかなトーンで話を運ぼうとしているように思えた。
『これは、僕の勝手な推論なんだけどね。人っていうのは、生まれたときから自分の遺伝子に、それぞれの遺伝子にとってふさわしい生き方をするよう運命づけられているんじゃないかって、そう思うんだ』
『長生きした人は、きっと健康を保って暮らしてきたんだと思う。でもそれ以上に、自分の遺伝子から与えられたふさわしい生き方を、忠実に実行してきたから、長生きできたんじゃないかな』
『僕の父さんはたぶん、男として生きることを運命づけられていたんだと思う。でも父さんは……いろんな事情が重なって、そうすることができなかった』
『だからきっと、父さんの遺伝子は、そんな父さんに見切りをつけたんだ』
『次の世代に、正しい遺伝子を残せないと判断されて、きっと自分の遺伝子たちに愛想をつかされたんだね』
そこまで言うとゴトーはプツッと黙り込んでしまう。
……そのときのヤツの表情を、俺は今でも忘れることができない。
『父さんはもう、助からない。父さんや先生が教えてくれなくても、僕にはもうわかってるんだ』
穏やかな面持ちでいようとして、無理やり微笑もうとしてしくじったような、そんな表情。
なかでもひときわ俺の目を引いたのは、クラスの誰もが何を考えているかわからないと評した、ゴトーの双眸だった。
そこにはただ、絶望しかなかった。
光が失せた瞳には、涙どころか瑞々しさもない。
それは、どうしようもない現実を理解したヤツが、心をすり減らしすぎて、感覚が鈍磨して、泣くことさえ億劫になった……そんな瞳で。
見ているだけで同じ絶望に引きずり込まれそうになる真っ暗な瞳で。
ゴトーはそんな、どこも見ていないような瞳でつぶやいたのだ。
『父さんは、自分らしく生きられなかったせいで…………自分自身に殺される』
まるで自嘲するようにゴトーはうっすらと微笑んでいた。
その佇まいがあまりにも哀れで、俺はもう、ヤツを正視することができなくなってしまった。
『僕にはどうすることもできない。父さんが苦しんでいる姿を見て、同情することしかできない。父さんを治すことも、僕の身体を父さんにあげることも、父さんを男にしてあげることもできない』
それまでゴトーは半ば呆然と薄笑いを浮かべて、卓袱台のほうを見下しているだけだった。
だが数刻間を置いたあと、ゴトーの顔から歪な笑顔が消えた。
そしてゴトーは、意を決するかのように視線を上げる。
その瞳には、どす黒い絶望に塗りつぶされていた先ほどまでとは違う、何かしらの強い感情が灯ったように思えた。
『ルミエールさん。僕は君に、僕の父さんのようにはなって欲しくないんだ』
『君は偽善だと怒るだろうけど、ただそれだけなんだよ』
最後に一息置いてから、俺の目をまっすぐ見据えてこう言った。
『……君の力に、なりたいんだ』
それは歳不相応に深く、重たい響きのする声だった。
俺は今まで、ゴトーという男を軽く見すぎていたのかもしれない。
だってそもそも、俺とゴトーとの間には何の関係性もないのだ。
それなのに、出会って半月しか経っていない相手に、それもはじめて話してから一週間も経っていないようなクラスメイトに対して、あれだけ重大な事情を話そうだなんて。
本当に、本当にあいつってヤツは――
……バカじゃないかと思う。
よく知りもしない相手のために、どうしてそんなに真剣になれるんだよ。まったくあまりにバカすぎて、なに熱くなってんだよって冷やかしてやりたい気にさえなる。
なに、なんてヒドイヤツだって?
いやいやそう思ったって仕方ないだろ?
ちょっとは考えてもみろよ。
どう考えても人づきあいの苦手そうなゴトーが、どうして俺なんぞと執拗に関わろうとしてきたのか、その理由を。
あの話を聞いたことで、ここしばらく立て続けに起きたヤツとの不愉快な茶番も、今なら納得できないまでも理解ならできる。
その理由はもうアキラカだろう。
ゴトーは、俺と自分の『母親』を重ねて見ていやがるのさ。
あいつとあいつの『母親』の人生は、それはそれは壮絶だったんだろうよ。第三者の俺でさえ心にズッシリのしかかる話だったんだ。
そんな『母親』の過去を、苦しみ続けている現実を、誰よりも近くでただ見ていることしかできなかったゴトーならなおさら……他人には想像できないような辛い思いをしてきたはずだ。
そんな苦悩を秘めたヤツが転校した途端、どういうわけか自分の『母親』と似たような境遇の人間と出会ってしまった。
ルミエール・ジョスリーヌという名の同級生に。
この国で生まれ育ったのに、名前も姿も純粋なこの国のものじゃない。親の都合で国内を転々としてばかりいるから、故郷と称すべき場所などない流浪の民。
あいつの『母親』と同じ、寄る辺も帰るべき場所もない、孤独な身の上で。
そしてその同級生は自分の『母親』と同じように、自分は女なんかじゃないという確信を抱いている。
思いと現実とのギャップに苦しんで生きている。
ルミエール・ジョスリーヌという名の同級生はそういうヤツなんだと、ゴトーは理解したんだろう。
そう考えたからこそ、ヤツは俺に近づいた。
ゴトーがこの俺に関わろうとしてたのは、俺があいつの『母親』と同じ『病気』持ちだったからで。別に俺自身に興味を持ったからとか、俺が嫌悪して憚らないクソ忌々しい容姿に惹かれたとかじゃないわけで。
ただ俺が、性同一性障害を患っているかわいそうなヤツだったから、声をかけてきただけだったんだ。
男になれないまま病に壊されていく『母親』がそんなにも哀れだったか。
だから、同じことを繰り返したくないから、ただそのためだけに俺をヤツの『母親』の代用品にしようというのか。
ふざけやがって。
ふざけやがってぇぇぇ……!
考えれば考えるほど怒りがこみあげてくる。
だいたいあんな話を聞かされて、俺にどうしろっていうんだ!?
そりゃあヤツの『母親』には同情するさ!
一人だけでも難しいに、ましてや子連れで、自分の望む性別で生きていくなんてできるはずがない。親にも誰にも頼れず、たった二人だけで生きてきたのに、果ては死ぬまで病院暮らしだなんて。
考えただけで胸が痛い。それはまぎれもない本心だよ。
でも俺はゴトーの『母親』じゃない!
おまえがどれだけ俺のことが心配だとのたまわっても、親切ぶろうとしてもっ!! それは全部この俺に向けられた感情じゃない!!
おまえは『母親』を救えなかった自分を誤魔化すために、『母親』に向けていた感情を俺という代替品へ移し変えただけじゃねぇか!!
俺が……俺がいつ!! そんな心配してくれなんて頼んだっ!!
なんて安い同情だ!
自分勝手な偽善だ!
「おまえはただっ、俺を利用して
誰もいない一人っきりの家の中で、野獣のような怒声が空しく響き渡る。
こんな思いをさせるために、おまえは俺に話しかけてきたのかよ!!
こんな……悔しい思いをっ!!
………………悔しい、だと?
怒りで煮えたぎった脳みそがつむぎだしたその言葉に、俺は一瞬、はっとさせられてしまう。
ベッドの上で片ひざを抱えこむように座り直す。
ゴトーの話を聞いて、悔しいと俺は思ったのか……?
俺はあの話を聞いて怒っていた。あいつの考えがあまりに独善的すぎたから、確かに憤慨していたはずだ。
なのに俺はいま、どうして悔しいなんて思ってしまったんだ?
……わからない。
怒りと、悔しさ。似てるけど、違う感情。
どれだけ繰り返し問い直しても、思考はただ空回りするばかり。答えが出る気配などない。
クッソ、ああイライラする!!
このモヤモヤした胸の
勉強机の上で充電していたスマートフォンを鷲づかみ、すぐさま発信する。
俺の真実を知る、たった一人だけの友人、マキ。
あいつなら、俺のこのモヤモヤをきっと理解してくれるはず。
俺の沸騰した頭に冷水を浴びせるように、何か言葉をかけてくれるはずだ。
そんな期待を込めて、マキの携帯番号にかけてみた。
ダイヤル音が二回、三回、四回――
がちゃっ
かかった――!!
「どうかした? 電話なんて珍しい」
気だるそうな、いつものマキの声がする。
マキが電話に出てくれたのだ。
それだけで俺は、もうすべての問題が解決したかのような安心感を覚えて、へなへなとベッドに倒れこんでしまった。
「いや、実はさ――」
俺はこれまでのいきさつを、順を追ってマキに話した。
ゴトーが俺に話したこと。
それを聞いて俺が思ったこと。
怒りとか悔しさとかが訳もわからず絡まりあっているせいで上手く話せた自信はないが、とにかく俺は怒涛のごとく喋り倒した。
マキは聞き役を自称するだけあって、余計な口は一切はさまない。でも俺の説明が不足している場合には、そこを指摘して質問をするから、俺が言いたいことをうまく拾い上げてくれる。
俺の話術だけではスマートには説明できなかったが、聞き上手なマキおかげでおおよその事情は伝えられたと思う。
マキは俺が話し終わったあと、しばらく何も話さず考え込んでいた。
マキがこうして黙るのは、適当なことを言いたくないからだということを俺は知っている。だから今度は俺がマキの思考を妨げないよう、答えを催促したりしないでじっと待つ。
いつもに増して長い時間、マキは黙って考えている。
一分ほど経ったあと、携帯電話の向うでようやくマキの口が開いた気配がした。
俺は固唾を飲んでマキの言葉を待つ。
しかし一息置いて俺の耳に届いたのは、声ではなかった。
意味不明なノイズ。
思わず携帯電話を耳から離してしまうくらい大きな雑音だった。
わけもわからず目を白黒させてしまったが、俺は数秒かけてその音の意味を理解する。
それはとても大きく、長く、深い――マキのため息だったのだ。
「あんた、バカ?」
なっ……!
開口一番、冷水どころか
そのたった一言に、心底呆れたというマキの思いが集約されていたから。
あまりに鋭い言葉にうろたえてしまったが、その意味を汲み取ったあとは、俺の頭は再び怒りで煮えたぎった。
「ば、バカって一体どういう意味だよ!! こっちは真剣に――」
「だからバカだって言ってんのよ、あんたはぁっ!!」
俺以上に怒気をはらんだマキの声が、俺の耳を劈いた。
「あんたねえ、ゴトーちゃんがどんな気持ちであんたにそんな大事な話をしてくれたか、本当に真剣に考えたの!?」
「か、考えたよ! だからあ、あいつは、俺と自分の母親を重ねてるから、同情して――」
「同情なんかじゃないでしょお!? そんなちっぽけな思いだけで、わざわざ自分の傷口をえぐるような話をするわけないじゃない! あんたにはわかんなかったの? ゴトーちゃんの目の前で話を聞いたのに、それぐらいにしか思わなかったっていうの!?」
「どうして俺が責められなきゃならねえんだよ!! だって悪いのはあの木偶の坊だろうがっ!! 何か裏があるとは思ってたがその通りだったじゃねえか! あれが同情じゃなくて何だってンだよ!!」
「あんたを気の毒に思う気持ちがゼロだったとはあたしも思わない。でもそれとこれとは意味合いが違う」
「何ぃ――」
だったら何がどう違う、という言葉は、マキの怒声に飲み込まれてしまった。
「だってそうじゃない。そもそもゴトーちゃんがあんたの正体を知ったとき、彼にはいろんな選択肢があった。知らなかったことにすることも、クラスメイトにあんたのことを耳打ちすることだってできた。だけどゴトーちゃんは、あえてあんたに話しかけたのよ!? あんたに警戒されて、敵視されることまで覚悟して、それでもあんたと関わろうとしたの。必死に言葉を選んで、傷つけないよう、動揺させないようにって、一生懸命考えて。それがどれだけのことか、あんたはまるでわかってない!!」
受話器の向うで、鼻をすする音が聞こえてくる。
興奮のあまり泣き出してしまったのか、ひっくり返る声を整えながらマキはひたすら訴えかけてきた。
「彼はただ、ジョー、あんたに対して誠実でありたかっただけなのよ。親御さんの話だって、あんた風にいうなら、自分だけあんたの秘密を握っているのはフェアじゃないからって、話してくれたんだとあたしは思う。手のひらを見せて、敵意がないことを全身全霊で示してくれたんだよ」
「…………ウソだ」
今までのことが全部、本当に俺のためだったっていうのか?
あの放課後、俺のことが心配だと言ったヤツの言葉が真実だったっていうのか?
何の企みも裏もなく、ただ純粋に心配だったから、上手くもない口を必死にこじ開けて俺に近づいたっていうのかよ。
「ありえねぇよ、そんなの、だって――」
知り合ってたった半月。しかもつい最近までまともに話したことだってないんだぜ?
そんな相手に、自分を丸裸にするような秘密を暴露するなんて、正気の沙汰とは思えない。何の思惑もないだなんて、ただ心配だったからだなんてそんなこと、信じられるわけがないじゃねえか。
だって打算なしで、どうしてそこまでできるっていうんだ。
わからない。
俺には、理解できない。
深い懊悩の渦に飲み込まれて、俺はもう一言も喋れなくなっていた。
そんな中、マキの涙声が一筋の光明のように射し込まれた。
「ねえジョー。世の中みんなが腹に一物隠していて、かけひきだけで動いてるなんて、悲しいことばかり考えないで。そんな人は多いかもしれないけど、そういうのを抜きに優しくしてくれる人たちもいるんだって、あんたにはわかって欲しいのよ」
「…………」
「ジョーが電話越しであんなにいきり立ってた理由。ジョーがそれを『悔しい』って言葉で表現した理由。ぜんぶの答えがそこにある。ここまで言えば、あんたならわかるでしょう?」
「…………」
マキの声は優しかった。返事をしなくなった俺をいたわるように、幼子をあやすように穏やかな声音で囁いた。
「怖がらないでジョー。あんたはひとりじゃない。あんたに誰かの優しさを受け入れる勇気さえあれば、あんたにも、あんたを思ってくれる人のことが必ず見えるはずだから……」
マキが電話を切って、ツーツーという通信音が流れるだけになってからも、俺はなにひとつ口にすることはできなかった。
ベッドから立ち上がることも、つかんだままの携帯電話を放り投げることさえできない。体中の活力が枯渇したかのような脱力感だけがそこにはあった。
ゴトーの思考回路も行動理念も、マキがどれだけ説明しようとも俺には理解できない。
たがそれでも、俺は気づいてしまった。
マキの言葉を聞いて、俺の頭から熱が引いてようやく、わかってしまったのだ。
怒りと、悔しさ。似てるけど、違う感情。
だけど本当は、それら二つの感情は、たった一つの思いから生まれた、まったく同じ絶対値の感情だった。
ゴトーの話を聞いて俺が怒った理由も、ゴトーの話を聞いて俺が悔しがった理由も、根っこのところでつながっていた。
あの雨の日、ゴトーが身の上話をするまで、俺のことが心配だと言ったヤツの真意をずっとつかみかねていた。
いつも何かにつけて申し訳なさそうにしているあの無骨な男が、どうして急にあんなことを言い出したのか。
俺はどうしようもなく気になっていた。
そう、気になっていたのだ。
俺はそのときから、ゴトーという人間を単なるクラスメイト以上の存在だと意識するようになっていた。
もちろんその意識は、敵意とか怖気といったマイナスの感情ではある。それでも、俺がゴトーを意識していたことに変わりはない。
だからその反対に、どんな形であれ、ゴトーも俺のことを意識しているのは当然だと思っていた。
どんな裏があるにせよ、わざわざこの俺に近づいてきたのであれば、俺に対して何らかの感情があるはずだと確信していた。
でもあいつの『母親』の話を聞かされて、その確信は揺らいだ。
あいつが俺のことを心配だと言った言葉の裏には、「自分の親と同じ苦悩を抱えているから」という前提があったんだ。
つまりゴトーの言葉は、決して俺個人に対して向けられたものではなかったということ。
極論すれば、俺が見た目どおりの健全な女生徒だったなら、ヤツは俺のことなど意にも介さなかったということだ。
結局ゴトーは俺を通して自分の『母親』を見ているにすぎない。
目の前にいる俺という存在を無視して、ひとりで勝手に盛り上がっているだけでしかない。
そう思った。
だからこそ俺は怒った。
だって俺は、「私は性同一性障害を患ってます」なんて看板をぶら下げて生きてるわけじゃない。好きでこんなカラダで生きてるわけじゃない。気持ち悪さと違和感で泣き叫びたい思いを押し殺しながら、どうにかこうにか我慢して生きてきたんだ。
それなのにあいつは、ゴトーは、俺のことなんか置き去りにして、俺の苦しさなんかそっちのけで好き勝手に話してさ。
あいつの『母親』と同じ障害を抱えている人間っていう枠で、この俺を、ひとくくりにしたんだっ!!
そう思った。
そう思ってしまった。
だから俺は、心の底から怒り狂った。
でもきっとそれだけじゃない。その怒りと同等か、あるいはそれ以上に強く、俺の心を締めつけた感情があったはずだ。
――「悔しさ」、という感情が。
これまで歯牙にもかけなかった男に自分の正体を見透かされ、不安と疑心に苛まれた。自分の心の中まで言い当てられた。
でも、その張本人が俺個人に対して何の感情も持っていなかったなんて。
俺のほうはあいつを脅威にさえ思っていたのに。
そう思ったら、胸の奥底がチリチリとざわついて、虚無感と空腹感が合わさったみたいにどうしようもなく腹の中が軋んで、得体の知れない何かがカラダの隅々まで暴れまわった。
それが「悔しさ」という感情だったと気づくのに、こんな遠回りをしてしまった。
「かっこ悪ぃな、俺」
本当に喉から出た声なのかわからないほどか細く、つぶやく。
手前勝手な理屈でゴトーの言葉に逆上して、自分が気にしている以上に相手が自分を見てくれていないと、つりあいがとれないと駄々をこねて悔しがる。
まるでガキそのものじゃねえか。
……バカだよな。
俺とゴトーは、単なる同級生でしかない。それ以上のかかわりなんか持っていない。それなのに、ちょっと話を振られたからって必要以上に意識して、警戒して。勝手に期待を裏切られたみたいな気になって。
あいつがどんな気持ちで俺に話しかけてきたのか、マキに言われるまで穿った見方しかできなかったクセに、自分ばかりが被害者ぶってさ。
マキの言うとおりだ。
俺がバカだったんだ。
ひとりでバカみたいに盛り上がってたのは、俺のほうだったんだ。
これまで俺は、自らの心の内を述懐してきたゴトーに対して無関心な素振りで袖にしつづけた。
あの雨の日だって、俺はゴトーのアパートを立ち去る瞬間までまともに口を開かなかった。
突然の展開についていけず、困惑していたせいもある。でもそれ以上に、ゴトーが俺のことを心配するフリをして、俺自身のことなんかついでにしか思っていないように感じたから。そのことが何より悔しかったから、あんな子供じみたマネをしてしまったんだろう。
あいつだってバカじゃない、俺があいつに悪意を向けていたことくらいすぐに気づいただろう。自分をちらりとも見ようとしない俺のことを、ゴトーはどう思っていたんだろうか。
失意か、絶望か。それとも諦めか。どのみちあいつはきっと傷ついたことだろう。
自分の秘密を他人に打ち明けるなんて、生半可な覚悟じゃできない。そんなことをして相手に嫌われたら、軽蔑されたらどうしようって考えたら、軽々しく口に出せるはずがないんだ。
ひとり親だというだけで引け目を感じる子供だって大勢いるのに、まして自分の親が他の親たちと決定的に違うなんてこと、口が裂けても言えるわけがない。
それなのに、ゴトーは俺にすべてを打ち明けた。
それがどれだけ勇気のいったことなのか、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。俺はあいつを疑ってばかりで、まともに取り合おうともしなかった。
ゴトーが本当に俺のことを思ってあの話をしてくれたなら、俺はあいつが示した誠意に答えてやらなければいけなかったのに。
せめて、何かひとつでも真摯に言葉を返してやるべきだったのに。
俺はあいつの勇気に対して、何一つ応えてやらなかった。
「……クソっ」
あんな無碍な振る舞い、するんじゃなかった。
いくら傷ついた気になっていたからって、あんな自分勝手、許されることじゃない。
……さすがにもう、俺と関わりあおうなんて気は失せただろうな。
どうしてちゃんと向き合わなかったのだろう。
どうして俺は、こんなに人を疑ってばかりの人間になってしまったのだろう。
どうして、どうして俺は――
『――あんたに誰かの優しさを受け入れる勇気さえあれば……』
空回りする後悔の言葉に、マキの言葉が重なった。
ああ、そうだな。その通りだと思う。
心を許せる相手がマキぐらいしかいないなんて、間違ってるってわかってる。
でも、それでも、ゴメンな。
このおかしなカラダに押し込められてるだけで、俺の心はいっぱいいっぱいなんだ。
傷つけられることがわかっているのに、他の誰かを受け入れる心のゆとりなんて俺にはないんだよ。
ゴトーがどうとか、そんな狭い次元の話じゃないんだ。
――俺にはもう、誰かの優しさを受け入れるなんて勇気は、ない
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます