09 SCENE -04-『ジョー』~ b
「断る」
沸騰寸前の頭で、俺はろくに考えもせずこう切り返していた。
コ、コイ、コイツっ!? ついに本性見せやがったな……!
突然腕をつかまれて心臓が跳ね上がりそうなほど驚いた。そのせいか気付いた時にはそんな暴挙をしでかした身の程知らずへボディブローをお見舞いしていた。
ゴトーの手から伝わってくる雨水とも汗ともとれる謎の液体が俺の不快感をいや増していく。腕を振りほどこうにも、わざとやっているのかものすごい力で握ってくるせいで、俺の腕は全く微動だにしない。腕力の差がありすぎて、悔しい以上に笑えてくる。
こんなもの、もはや
この大男は殴られたにもかかわらず相変わらず何を考えているのかわからない苦笑を浮かべるだけで、反撃する気配がない。
その代わり、つかんだ腕を放そうともしない。
まずいな……
猛りすぎて冷静さを失い、実際にもう手が出てしまった。事を荒立てるつもりはなかったのに、この阿呆のせいで本当に堪忍袋の緒がブチ切れる一歩手前まで来てる。次に何かしてくるようならマジでタマを蹴り潰してしまいそうだ。
落ち着け冷静になれ。クールになれ、クールになるんだジョー。腕力の差は歴然だ、相手に逆上されても面倒なだけだろう……!
状況を整理しよう。俺が
確かこう、何か誘い文句的なことを口走っていたような気が……
「…………う、うちの中じゃなくてもいいんだ。十分くらい待ってくれれば、お弁当を作れるから、持って帰って食べられるし……」
今度は、はっきりと聞こえた。微妙に裏返った声で何やら弁当の話をしているらしい。
弁当…………あっ。
食い物の話で、今更になって空腹感を思い出した。そうだった俺、ゴトーのせいで昼飯を食い損ねていたんだったな。
そうだコイツ、よくわからんが「昼飯を食ってけ」的なことを言ってた。
それを俺が有無を言わさず
だが疑問だ。たかだか封筒一つ届けてやったくらいで、いちクラスメイトにすぎない俺に対してわざわざ「弁当を作る」なんて言うか
俺が一時間以上待ちぼうけたのを知ってる……わけはないよな。俺が
じゃあ何か? こいつにとって弁当を作るという行為はそれくらい
俺はゴトーの言葉を無視して、ひたすら考え続ける。
で、どうするよ? よくわからんが、このバカはどうしてもこの俺に食事をさせたいらしい。それでヤツにとって何かメリットがあるかと言われると、毒物を混入するくらいしか思いつかないが、いくらなんでもそこまではしない……と思う。ただ弁当だと、中に何を入れられてもわかんねぇしなぁ……
いっそこいつの家で厨房を監視してから食べるほうがいいのか? クソっ! 腹が減りすぎて頭が回らねぇ、っていうか食べることが前提になってるし……いやそもそも何で俺はこんなになるまでこいつの帰りを待ってたんだ? ほかに目的があったような気が……
「忙しいようなら今日じゃなくてもいい。ただその……ルミエールさんに謝りたくて……」
謝る……?
封筒を届けたことに対してなら、『謝る』というより『お礼』のほうが正しいだろう。腕をつかんだことに対してなら『謝る』でも間違ってないが、ゴトーは一向に俺の腕を放そうとしないから、どうもそのことじゃないらしい。というか早く俺を解放しやがれ。
なら一体、ゴトーの野郎は俺に何を謝りたいというのか。
俺の訝しげな表情を読んだのか、ゴトーは慌てて言い足してきた。
「あの時のことだよ。突然、変なことを言って、迷惑させちゃったから……」
……あぁなるほど。テメェが俺の正体を告発しようとしたことに関してか。
そうだった。俺は別に単なる善意でこんなボロくさい家まで重要書類とやらを届けに来たわけじゃない。はじめからそのことについてゴトーを追求する気でいたんだからな。
ん? そうすると何だ? こいつの誘いはむしろ俺にとって渡りに船なんじゃないか?
いやいや待て待て、こんな内心何考えてるかわからない獣面野郎の誘いにあっさり乗って大丈夫なのか? 巧妙な罠という可能性はないのか……!?
ぐぎゅるるるるる…………
「「あっ」」
また腹の虫が泣き出しやがった。くっ、見てんじゃねぇぞコラ!! 声もハモらせてんじゃねぇ!! 何だその人を憐れむみたいな目は、ぶっ殺すぞテメェ!!
軽い羞恥心を腕力に転換して、油断していたゴトーの腕を無理やり振り切る。つかまれていた部分が真っ赤に色づいていた。
それを見たゴトーが目を剥いた。
「ごっ、ごめん!!」
今にも土下座しそうな勢いで巨大な頭が下げられた。
視界に火花が散った。
あまりに強すぎる衝撃に、俺は痛いと思う間もなくその場で尻もちをつかされてしまった。
「ルミエールさん!?」
ゴトーの慌てふためく声が頭上から降ってくる間、俺の頭はカチ割れんばかりに痛み出した。思わず頭を両手で覆うようにして小さく呻いてしまう。
ベタなコントのような攻撃を食らい、あえなく俺はダウンしてしまった。あまりの痛さに目じりに涙が滲んでくる。空腹もたたってろくに立ち上がれそうにない。力も出ない。頭も回らない。
さ、最悪だ……
今こいつに何かされても、俺には抵抗できるだけの体力が残ってない。生殺与奪の権利をこんな朴念仁に渡してしまうなんて、末代までの恥だ。
――などと心の中で恨み言を述べても、頭の疼きは増すばかりで何の解決にもならない。
俺はただ、この恨みを伝えるためにゴトーを睨みつけるしかなかった。
ゴトーは俺が視線をくれてやるまで、ずっとオロオロしていた。だが俺とゴトーとが視線を交錯させた瞬間、ゴトーはそのみっともない動きを止めた。
俺の睨みに動じることなく、じっとこちらを見返してきたのだ。
日本人にしては堀の深い、鬱蒼とした目鼻立ち。見開かれた二つの黒い瞳が、俺のことをしげしげと見降ろしている。
普通はこんなふうにじっと見つめ返されたら嫌な気がするだろう。だから俺はしかめっ面をより一層強固にして、不快さを表すつもりでいた。
でも俺はどういうわけか、そんなゴトーのまなざしを気持ち悪いとは思わなかった。
というより、思えなかったというほうが正しいかもしれない。
ゴトーの眼は一見、どこか影を感じさせる暗い輝きを放っている。この光の弱さがヤツの感情を見えなくさせている原因なのは確かだ。ただその暗さは言うなれば、まるで幻灯機が映しだす暖かな仄明かりのようなものだ。なるべくしてそうなったというか、明るい光を無理やり幕で覆ってみたものの、それでも光があふれ出てしまった……なんて印象を受ける。
理屈ではどうにも説明しづらいが、少なくとも俺には、ゴトーが俺を脅して金銭を掠め取るための策を練っている悪者だとは思えなくなってしまったのだ。
頭で考えたことと眼で見たこととが食い違い、俺は少し混乱してしまう。
俺は――たぶんクラスの連中も――ゴトーのことをマネミンみたいに感情を表さない、薄気味悪いヤツだと思っていた。
だけど違った。今までこんなにまじまじと、誰かの眼を見たことなんてなかったからわからなかったが、いまなら言い切れる。
ゴトーの眼にだって感情は宿るのだ。
俺はいま確かに、ヤツの瞳の中に確固たる感情を見出している。
それは、純粋なまでの謝意。申し訳ないという、ただそれだけの、何の裏表もない気持ちだ。
硬直した表情で、ゴトーは俺に手を差し伸べてきた。
大きな手が突然視界に入ってきたものだから、一瞬びくついてしまったが、おかげで俺の思考は現実に戻ってきた。
俺はヤツの手を無視して、自分の力だけで立ち上がって見せる。
デニムのパンツについた汚れを払うと、俺は一度だけ深呼吸した。
「ゴトーさん」
「……はい」
少し緊張した様子で、ゴトーは返事をした。
「あなたはさっき、私に謝りたいと言いましたね」
「……言ったよ」
「なら、謝ってください」
「……その、いろいろ迷惑をかけて本当にすみませんでした」
「じゃ、これで頭突きの分はチャラでいいです。次は?」
「次?」
「腕をつかんだことに関しては……私も一発殴らせてもらいましたから不問にしてあげますけど、あなたはそんなんで本当に謝ったつもりなんですか。もっと誠意を見せてもいいんじゃないですかね」
……まぁ、これが良い落とし所だろう。俺も目的を達成できて、ゴトーのバカも自己満足できる。
俺の言わんとしていることがわかったのか、ゴトーはあからさまにうれしそうな顔をして言った。
「すぐにごはん準備するから……!」
巨体の後姿が揺れ動くさまを、俺はじっと眺めていた。
畳敷きの床に薄く張られたマットの上に座布団を敷き、地べたで正座をしているから、必然目線は仰ぐ格好になる。
何やら香ばしい匂いが鼻をくすぐる。おそらく魚を蒸しているのだろうが、匂いがするだけで条件反射的に口の中がよだれだらけになってしまう。完成品を目にしたわけじゃないけれど、これならゲテモノが出てくる心配はなさそうだ。
俺はカラダの正面にゴトーを据え置いたまま、首だけ動かして室内を見回してみた。
和式の1DK住宅で、ボロボロの壁にも低い天井にも染みがある。俺が座り込んでいる居間の真後ろには6畳間ほどの小さな寝室があるが、そこは驚くほど整理が行きとどいていた。
まず目についたのは、ゴトーの私物と思しき折り畳み式のライティングデスクだ。その上にはノートやら教科書やらが広がっていて、試験勉強の跡が見て取れる。
テーブルはベランダに通じている窓の左壁面に面していて、その隣にはちょうどゴトーの身長と同じくらいの高さの本棚が置いてあった。教科書とノートがしまってあるのはもちろんのこと、他にはアルバムやら料理の本やら外国の本やらが置いてあるだけで、遊びめいた様子がちっともみられない。
ヤツの私的スペース目算で二畳半にはそういった子供らしいものがまるで欠けてしまっている。普段からソファーに寝そべってコーラ飲みながらマンガ読んでるような俺からすれば、こんな禁欲的な空間、三日もいたら気が狂ってしまうかもしれない。
座ったまま後ろへ振り向いた格好でうんざりした表情を浮かべていたとき、テーブルの脇に置かれた段ボール箱の中から見慣れた雑誌の表紙がのぞいていた。
……ん、あれっ?
なぁんだよ、ちゃんとあるじゃねーか。やっぱり少年なら週刊マンガの一つくらい読まなきゃなぁ。
一瞬正面に向き直って、ゴトーがまだ料理していることを確認してから、俺はすかさず段ボール箱まで近づいた。もちろん、箱の中に少年雑誌以外のアダルティな雑誌でもまぎれていないかと期待したからだ。交渉の時に使える弱みは一つでも多く握っておいたほうがいいからな。
段ボール箱の中には雑誌の最新号だけが先頭にあって、その下は底のほうまで雑誌の切り抜きがしまってあるようだった。奥まで覗いてみてもそれ以外のものは見当たらない。しかも驚くことに、その切り抜きは全てある一つのマンガの第一話から最新話までで埋め尽くされていた。
…………『トッカータとフーガ
そこまで考えて、俺はあることに気がついてしまった。
雑誌の最新号に、週刊誌ならばまず付いているはずのない値下げシールが貼ってあったのだ。
これは販売日から何日か経った後に中古書店で再販される際に見られる値札だ。しかも、雑誌を全て切り抜いているほどそのマンガが好きらしいのに、ヤツのプライベート空間には一冊もマンガの単行本が置いていない。
……つまり、中古の週刊誌を買った時点で金が底をついて、単行本を買えるほどの金も残らなかったってことだ。
そうわかってしまった途端に、この家の見え方ががらりと変ってしまった。
部屋が整理整頓されているように見えたのはかたづけが上手だからではなく、単に多くのものを買えなかったからということ。
梁に掛けられた物干しざおには、さっきまでゴトーが着ていたようなYシャツと灰色のスウェットパンツの他に、男物の服が何着かぶら下がっている。裏を返せば、それしか着られる服がないということ。
部屋にある空調は備え付けであろう古臭いクーラーのみ。暖房はごついガスストーブがひとつあるだけ。テレビもいまどき珍しい重厚なブラウン管型で、パソコンどころかゲームのハードだってありはしない。かろうじてテレビの上には、地上デジタル放送に対応するためのDVDデッキ付きチューナーが設置されてるが、テレビ台の下のビデオラックから見えているのはすべてVHSだ。
部屋はきれいに使っている。それは確かにそうなのだろう。でもそれはゴトー《あいつ》がきれい好きだからってわけじゃなく、きれいにするべきものがほとんどないから、そう見えているだけとも言える。
マンガの切り抜きを段ボール箱にしまいながら、俺は何とも言えない嫌な気分になった。
こいつの家には、本当の本当に金がない。それはもう、俺の生きてきた生活水準からすると地の底レベルくらいに、金がないんだ。
…………待てよ。
週刊誌の中古品を手に持ちながら、俺の動きは止まってしまう。
もしもそんな貧乏生活が長かったなら、ゴトーはこう考えはしないだろうか。
調理中のゴトーを背にして、俺は沈思黙考する。
ヤツはおそらく、俺が金持ちの子供だということに気付いている。確かに俺はマキ以外の誰一人として親の職業を教えていない。だとしても、俺があの無駄に豪華なマンションに住んでいると知ってなお、俺が貧乏人だと考えるというのは、いくらなんでも無理がある。
ゴトーは俺の正体にも気付いている。そしてそれは、あの
後ろの台所から、何かを切り落とす音が聞こえてきた。
金のないゴトーが金のある俺の弱みを握って、いったい次に何を考える。
包丁がまな板にぶつかる音が立て続けに響いてくる。
悪意があるなら、そんな金づるは放っておかない。相手の弱みを最大限に利用して、吸いつくせるだけ吸い尽くそうとするだろう。
それなら今、こうして俺がゴトーの家でのんきにメシの支度を待っている状況はどうだ。
その結論に、思わず息をのんでしまう。
「できたよ」
俺の心臓はひときわ大きく脈打った。
箱の中身をしまい終えた俺は、麻痺したようにカラダを動かせずにいた。現に今の今まで正座をしていたから、実際に両足が痺れていたせいもあるが、それを差し引いても、俺はヤツの呼び声に答えることも振り返ることもできなくなっていた。
腹減りすぎて
ヤバイ、ヤバすぎるっ! 逃げなきゃ
後ろの方からカチャカチャ音が聞こえてくる。ゴトーが食器を卓袱台に並べているのだろう。だが俺はあくまでゴトーと卓袱台に背を向ける形で体を硬直させていた。
「……ルミエールさん?」
食事の準備ができたのか、ゴトーが心もとなそうに呼びかけてくる。俺はその声を聞いて、かなり機械じみたカチンコチンの動きだったが、ようやく肩越しにでも後ろを振り返ることができた。
卓袱台の上には表面上、何の小細工もなく昼飯が用意されている。ゴトーは空のグラスに麦茶の大瓶を傾けつつ、こちらを不思議そうに見返してくる。
「あ、あの……」
「………………」
俺とゴトーは卓袱台を挟んで向かい合わせの格好になっている。しかしお互いがお互いにその姿勢のままフリーズしてしまい、どちらもまったくしゃべりだそうとしない。
気まずすぎる。ますます頭が白くなっていく。
俺は落ち着きなく目を泳がせるばかりで、ヤツの言葉に返事する気にもなれなかった。食事に睡眠薬でも盛られているんじゃないか、実は凶器を隠し持っているんじゃないか、果てには監視カメラのようなものの存在まで疑ってしまい、とても平静ではいられない。
何分か経ったのか、それともまだ数十秒しかたっていないのかもわからない。重い沈黙が体中にのしかかってくるようだった。
そんな中、口火を切ったのは意外にもゴトーのほうだった。
「さ、冷めないうちに食べたほうが……おいしい、と思うよ」
地べたに座ったまま決してこちらに近づこうとはしないものの、声の震えやわずかな挙動から、ゴトーが相当焦っているということをうかがわせる。
「…………そう、ですね」
そう言いつつも、俺は卓袱台に近寄ろうとはしなかった。
俺の視線はヤツのすぐ後ろに控える、塗料の禿げたドアに向けられている。ヤツが隙を見せ次第、今日のところは逃亡を決め込むつもりでいたのだ。
だがゴトーは、俺がヤツに対して明らかに警戒しているのを見て、またもや先手を打ってきた。
「毒見、しようか?」
「なっ、何、言ってんですか」
「……信じてもらえないかもしれないけど、睡眠薬なんて盛ってないし、危ないものも持ってない。監視カメラとかも、置いてない」
こいつ、俺の考えが読めてる……!?
うなじに冷や汗が伝うさまを
「そんなこと最初から疑ってません。それとも何ですか、あなたはほかに私から疑われても仕方がないようなやましいことを隠しているから、そんなことを言ってるんですか」
「……違うよ」
「ならなぜ私をこの家に招き入れたんです? あなたは先日の件を謝りたいといいますけれど、私からすれば、そもそも先日あなたがああして私の本質を告発した思惑がまったく見えない。事実を知って優位に立とうとするでもなく、周りの人間に言いふらすでもなく、あなたは今日の今日までこれといったことを何もしていない。なのに、私がここに訪ねてきたら食事に誘うことはする」
「…………」
「面倒くさいのではっきり言います。あなたの目的は何ですか」
勢いに任せて、詰問する格好になってしまった。当初の目的通りとはいえ、どうしてこんなに追い詰められた心境にならなきゃならないのか。
ゴトーは返事をするでもなく、ただただ悲しそうにこちらを見返してくるばかり。静かに過ぎ行く時の中、俺の聴覚は耳鳴りで埋め尽くされていく。胃の底から昇ってくる力ない空腹感と、胸の奥をざわめかせる焦燥感が、俺の頭をますます白ませていく。
ゴトーがのっそりと立ち上がって、鼓動が一気に強まった。一歩一歩こちらに近づいてくる。マットの下にある畳を軋ませながら、ヤツの巨体が俺に向かっている。
あと三歩の距離にゴトーはいる。天井から吊られた蛍光灯の明かりが逆光となって、ゴトーの表情をまったく読めなくさせた。
俺は慌てて立ち上がった。そのまま扉まで一目散に逃げていくつもりだった。今はプライドだのなんだの言っていられない、逃げるが勝ちってやつだろう!!
だが俺は、無様にも数歩も持たずにずっこけてしまった。正座しとおしだった俺の足では、立ち上がって走り回るなんてことできるわけがなかったんだ。
どうする、ヤツは後ろに、どうする、どうする!!
「ルミエールさん」
真後ろから降ってきた野太い声に、俺の動作は完全に
うつ伏せに倒れた俺の左目が、何かを捉えた。
反射的に俺は両目をきつく閉じていた。自分がこれからどうなるのか、想像は最悪の方向にしか発展していかない。カッコワリー、なんて考える余裕すらなかった。
でも、どれだけ時間が過ぎても俺のカラダに何らかの攻撃が加えられることはなかった。考えるのもおぞましいが、いきなり服を脱がされるなんてことも、とりあえずない。
俺は固く瞑った瞳を片方だけ開けてみた。
目の前には、大きなアルバムが置いてあった。
「それを見てほしい」
ゴトーの声はさっきとは別の所から聞こえてきた。声がした方を探すと、ゴトーは元通り食卓に腰をおろしていた。
ヤツはこっちをじっと見つめるだけで、もうピクリとも動こうとしない。どうやらゴトーは、最初からこのアルバムを取るために立ち上がっただけのようだ。
…………な、なんなんだよ、一体…………
足の痺れがまだ残っているせいで、俺は恐る恐る体を起こさなくちゃならなかったが、何とか壁に背をつく格好にまで持っていくことができた。床に置かれたアルバムに手を伸ばし、俺はヤツのほうを疑い深く睨みつけた。ゴトーはそれに対して何を言うでもなく、ただ手振りでアルバムを見るように促してきただけだった。
わけもわからないまま、俺は表紙の厚紙を開いてみることにした。
……これは、ゴトーだな。制服似合わねー、老けすぎだろおまえ。多分これ、中学の行事だよな、合唱コンクールとか。
表紙をめくってすぐに現れたのは、大判サイズのクラスの集合写真と、壇上で歌っている最中のゴトーのアップ写真が数枚だった。多分、学校が雇ったカメラマンが盗撮まがいの素敵なテクニックで撮ったものに違いない。口を大きく開いたゴトーの面からもろに犬歯が飛び出ていた。
「その……次のページなんだけど……」
やや恥ずかしそうにそう言い足してきた。まぁ別に誰が好き好んでこんなもん見せるかって話だが、こいつでも恥らうことがあるんだなってことのほうが新鮮だった。
それはいいとして、俺はすぐに次のページをめくった。
今度は自前の小さな写真。時期は多分、合唱コンクールが終わった直後といったところ。会場前の広場に二人の人間が立っている。
一人は、中学時代のゴトー。身長何センチあったんだテメー、と因縁を吹っかけたいくらい、ヤツはこのときから背が高かった。
そしてもう一人は、そんなゴトーの肩よりも下に頭がある、容姿端麗な小男が立っていた。
………………いや違う、これっ……!!
俺はもう一度、まじまじと写真を見直した。スーツでめかし込んでいて、髪もかなり短めにしているが、その顔はどう考えても――
「僕の『父さん』なんだ」
はっとして、俺はヤツを見返した。
ゴトーは何故か、少し悲しそうな眼で俺のことを見つめていた。
「……君と同じ、FTMのトランスジェンダーなんだよ」
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